吾妻鏡入門第六巻

文治二年(1186)閏七月小

参考閏月は、陰暦では「大の月」が三十日、「小の月」が二十九日でそれぞれ六月だと計三五四日で十一日足りないので、適度な時期に閏月を入れる。但し閏月は十五日が満月の日になるようにする。

文治二年(1186)閏七月小二日丙子。二品令擧草野大夫永平所望事。依有殊功也。御書云。
 平家背朝威。企謀叛。鎭西之輩大略雖相從彼逆徒。筑後國住人草野大夫永平仰 朝威。致無貳忠訖。仍筑後國在國司押領使兩職。爲本職之間。可知行之由雖申之。如此事。非頼朝成敗候。御奉行之由承及候。有御奏聞。可被宛給永平候。恐惶謹言。
      閏七月二日                        頼朝
  進上  師中納言殿

読下し               にほん  くさののたいふながひら  しょもう  あ  せし  こと  こと    こうある  よつ  なり  おんしょ  い
文治二年(1186)閏七月小二日丙子。二品、草野大夫永平@が所望を擧げ令む事。殊なる功有に依て也。御書に云はく。

  へいけ ちょうい そむ    むほん  くわだ
 平家朝威に背き、謀叛を企つ。

  ちんぜいのやからたいりゃくか ぎゃくと あいしたが いへど  ちくごのくにじゅうにん くさののたいふながひら ちょうい あお     むに   ちゅう いた をはんぬ
 鎭西之輩大略彼の逆徒に相從うと雖も、筑後國住人 草野大夫永平 朝威を仰ぎ、無貳の忠を致し訖。

  よつ  ちくごのくに  ざいこくし   おうりょうし   りょうしき   もと  しきたるのかん ちぎょうすべ  のよし  これ  もう    いへど
 仍て筑後國の在國司A、押領使Bの兩職C、本の職爲之間、知行可き之由、之を申すと雖も、

  かく  ごと  こと  よりとも せいばい あらずそうろう
 此の如き事、頼朝の成敗に非候。

  ごぶぎょうのよし うけたまは およ そうろう ごそうもん あ        ながひら  あ   たまはるべ そうろう きょうこうきんげん
 御奉行之由、承り及び候。御奏聞有りて、永平に宛て給被可く候。恐惶謹言。

            うるうしちがつふつか                                                  よりとも
      閏七月二日                        頼朝

    しんじょう   そちのちうなごんどの
  進上  師中納言殿

参考@草野大夫永平は、筑後国草野庄で御井・御原・山本など三千町歩。現在地名では福岡県久留米市の草野町草野。平安末期の長寛2年(1164)に草野永経(永平の父)が肥前国高木から入国し、吉木の竹井城に居城したと謂われ、平安末期より豪族・草野氏の城下町として栄え永平が勧請した旧草野祗園社で、須佐能袁神社がある。他に松浦郷(肥前国鬼岳城、現在の鏡山)を領し、鏡神社の宮司を兼ねていた。この人の孫の経永が、蒙古襲来の時、敵の船を分捕る大手柄を立てる。
参考A在國司は、本来の国司「守」は通常現地へは赴任しないので、現地預かり人が筆頭で權守か權介として在野するので在国司という。
参考B押領使は、県警本部長兼地方裁判長兼軍隊の方面隊長。辞書では「地方の暴徒の鎮圧、盗賊の逮捕などにあたった。初め、令外(りようげ)の官として国司・郡司・土豪などから臨時に任命したが、天暦(947-957)の頃から常置の官となった。」となっている。本来は地方の暴徒の鎮圧軍を送り届ける役目だった。
参考C両職は、地方行政長官(文官)と治安維持長官(武官)の両職。この希望は、八月六日条でかなう。

現代語文治二年(1186)閏七月小二日丙子。頼朝様が、草野大夫永平の望みを推挙するのは、特別な手柄があるからです。推薦状に書いてあるのは

 平家が朝廷への恩に背いて、謀反を起こした時に、九州の豪族達は殆どが平家に従いましたが、筑後の豪族の草野大夫永平は朝廷に味方して、他に類を見ない忠節を施しました。それなので、国司代理としての在地管理者と治安維持長官の両職は本からの役職なので治めたいと望んで来ましたけれども、頼朝には任命権がありません。九州を担当していると聞いたので、この旨を後白河法皇にお聞きいただき、その望んでいる役を永平に与えていただきよう宜しくお願いします。
        閏七月二日                    頼朝
 申し上げます 師中納言吉田経房殿

文治二年(1186)閏七月小十日辛夘。左馬頭飛脚到來。状云。搦前伊与守小舎人童五郎丸。召問子細之處。至于去六月廿日之比。隱居山上候之旨。所申上候也。如件白状者。叡山悪僧俊章。承意。仲教等。令同心与力者。仍相觸其由於座主并殿法印訖。又所經奏聞也云々。亦義經者。与殿三位中將殿〔良經。〕依爲同名。被改義行之由云々。

読下し               さまにかみ  ひきゃくとうらい    じょう  い      さきのいよのかみ こどねりわらわ ごろうまる  から
文治二年(1186)閏七月小十日辛夘。左馬頭が飛脚到來す。状に云はく。前伊与守が小舎人童@五郎丸を搦め、

 しさい  めしと  のところ  さんぬ ろくがつはつかのころにいた        さんじょう いんきょ そうろうのむね  もう  あ そうろうところなり
子細を召問う之處、去る六月廿日之比于至るまで、山上Aに隱居し候之旨、申し上げ候所也。

くだん ごと  はくじょうは  えいざんあくそうしゅんしょう しょうい ちゅうきょうら どうしんよりきせし てへ      よつ  そ  よしを ざす なら   てんのほういん  あいふ そうろう
件の如き白状者、叡山悪僧俊章、承意、仲教等、同心与力令む者れば、仍て其の由於座主B并びに殿法印Cに相觸れ訖。

また  そうもん  へ ところなり  うんぬん  また よしつねは  との さんみちゅうじょうどの 〔よしつね 〕 とどうめいたる  よつ   よしゆき  あらた らる  のよし  うんぬん
又、奏聞を經る所也と云々。亦、義經者、殿の三位中將殿〔良經D与同名爲に依て、義行と改め被るE之由と云々。

参考@小舎人童は、手綱引き。
参考A山上は、比叡山。
参考B
座主は、全玄。天台宗の筆頭だけでなく、当時の日本仏教の頂点。
参考C殿法印は、殿下(兼実)の弟で副長官慈円のこと。
参考D
殿の三位中將殿〔良經〕は、殿下(兼実)の息子の三位中将良経。
参考E改め被るは、当時の哲学思想で、名実相応思想。摂関家の人と同音名は変えられてしまう。

現代語文治二年(1186)閏七月小十日辛卯。左馬頭一条能保の伝令が到着しました。手紙に書いてあることは、前伊予守義経の手綱引きの五郎丸を捕まえて、詳しいことを尋問した所、先の六月二十日まで、比叡山に隠れていたと云うことをご報告したところです。その白状した中には、比叡山の僧兵の俊章、承意、仲教等が、味方をしていると云うので、その事を天台座主と副長官の慈円に伝え、同様に後白河法皇にも伝えましたそうです。又、義経は摂関の兼実様のお子の三位中将良経と同じ名で身分にそぐわないので、義行と呼び名を変えるんだとさ。

文治二年(1186)閏七月小十九日庚子。因幡前司廣元歸參關東。去比所上洛也。諸國守護地頭條々事。委細預下問。言上所存了。又播磨備前兩國武士妨。注文給之。可糺明之由蒙仰。是廣元者。爲二品御腹心專一者之由。去月十四日及 公家御沙汰。面目之所至也云々。

読下し                 いなばのぜんじぎろもとかんとう  きさん   さんぬ ころじょうらく   ところなり
文治二年(1186)閏七月小十九日庚子。因幡前司廣元關東へ歸參す。去る比上洛する所也。

しょこくしゅぎぢとう   じょうじょう こと  いさい かもん  あずか   しょぞん ごんじょう をはんぬ
諸國守護地頭の條々の事、委細下問に預り@、所存を言上し了。

また  はりま びぜんりょうごく  ぶし   さまた   これ  ちうもんたま     きゅうめいすべ  のよしおお  こうむ
又、播磨備前兩國の武士の妨げ、之を注文給はり、糺明可き之由仰せを蒙る。

これひろもとは  にほん  ごふくしんせんいつ  ものたるのよし  さんぬ つきじうよっか こうけ   ごさた   およ    めんもくのいた ところなり うんぬん
是廣元者、二品の御腹心專一の者爲之由、去る月十四日公家の御沙汰に及び、面目之至る所也と云々。

参考@下問に預りは、後白河法皇から尋ねられた。

現代語文治二年(1186)閏七月小十九日庚子。大江広元が関東へ帰ります。先日京都へ上洛してきたところです。諸国への守護地頭を置く何か条かの話を、後白河法皇に尋ねられたので、考えていることを話しました。ついでに播磨と備前の両国での地頭設置を止めるように文書を受け、調べて取りやめるように云われました。この大江広元は、頼朝様の代理を出来る唯一の人だと、先月の十四日に後白河法皇がお決めになられたので、面目の至りなんだとさ。

文治二年(1186)閏七月小廿二日癸夘。前廷尉平康頼法師浴恩澤。可爲阿波國麻殖保々司〔元平氏家人。散位。〕之旨。所被仰也。故左典厩〔義朝。〕墳墓在尾張國野間庄。無人于奉訪没後。只荊蕀之所掩也。而此康頼。任中赴其國時。寄附水田卅町。建小堂。令六口僧修不断念佛云々。仍爲被酬件功。如此云々。

読下し                 さきのていい たいらのやすよりほっし おんたく  よく
文治二年(1186)閏七月小廿二日癸夘。 前廷尉@平康頼法師A恩澤に浴す。

あわのくに  おえのほう ほうし  〔もと  へいしけにん  さんに 〕 たるべ  のむね  おお  らる ところなり
阿波國麻殖保B々司〔元は平氏家人。散位〕爲可し之旨、仰せ被る所也。

こさてんきゅう 〔よしとも〕    ふんぼ  おわりのくにのまのしょう   あ     ぼつご とぶら たてまつ にひとな   ただけいきょくのおお ところなり
故左典厩〔義朝〕の墳墓、尾張國野間庄Cに在り。没後を訪ひ奉る于人無し。只荊蕀之掩う所也。

しか    こ  やすより  にんちゅう そ くに  おもむ  とき  すいでんさんじっちょう きふ   しょうどう  た     むくち  そう   してふだん  ねんぶつ しゅう   うんぬん
而るに此の康頼、任中D其の國へ赴くの時、水田卅町を寄附し、小堂を建て、六口の僧を令不断の念佛を修すと云々。

よつ くだん こう  むくはれ  ため  かく  ごと   うんぬん
仍て件の功に酬被ん爲、此の如しと云々。

参考@廷尉は、検非違使の判官。
参考A平康頼法師は、鹿ケ谷事件の首謀者で、奇怪島へ配流されたが、徳子の妊娠で免罪になった。
参考B麻殖保は、徳島県吉野川市鴨島町麻植塚。
参考C野間庄は、愛知県知多郡美浜町野間東畠50。野間大坊(のま だいぼう)は、愛知県知多郡美浜町にある真言宗の寺院。本尊は阿弥陀如来。山号は鶴林山。詳しくは鶴林山無量寿院大御堂寺(かくりんざん むりょうじゅいん おおみどうじ)と称し、宗教法人としての公称は「大御堂寺」である。寺がある美浜町野間は源義朝の最期の地であり、境内には義朝の墓がある。
参考D任中は、後白河尾張守の目代として現地に赴任した。

現代語文治二年(1186)閏七月小二十二日癸卯。元検非違使の平康頼法師は、頼朝様から領地を与えられました。阿波国麻植保(徳島県吉野川市鴨島町麻植)の管理人保司〔元は平家の武士の散位〕をするように、命じられました。故左典厩義朝のお墓は、尾張国野間庄(愛知県知多郡美浜町野間)にあります。しかし、平家全盛時代は、そのお墓を守る人も訪れる人も無く、ただ茨に囲まれていました。その中でこの康頼は、尾張守の代官として赴任した時に、水田三十町を寄付して、小さなお堂を建て、六人の坊さんに途切れの無い念仏を上げる様にしたんだそうだ。それで、その手柄へのお返しにこのような仕儀と相成りましたとさ。

文治二年(1186)閏七月小廿六日丁未。左典厩消息到來。就五郎丸白状。可召進同意于豫州山侶之趣。相觸山座主之處。彼輩逃亡之旨申之。而去十一日猶在山門歟之由。風聞之間。則奏聞子細。仍去十六日於大炊御門仙洞。有公卿僉議。山上并横河末寺庄園悉相觸之。不日搜尋可召進其身之由。被仰座主已下之僧綱了。而稱彼迯脱輩之縁坐。召進三人之間。則被下使廳訖。此事今差遣軍士於台嶺之由雖言上。無左右被遣勇士之條。偏可爲法滅之因。且可被仰子細於座主之由。諸卿一同被定申之趣。具被載之云々。又同十七日 院宣所到來也。
 義行逃隱叡山。有同意侶之由。義行童稱申云々。仍被仰山門之處。件交名之輩。迯脱之由所申也。無左右遣武士被攻者。一山滅亡之基也。就中。座主以下門徒僧綱等。旁廻秘計。又加祈請。可尋搜之由申請了。以此趣。被尋仰人々之處。尤可然之由。一同被計申。件縁坐又兩三人搦進之間。給使廳訖。其上。近江國并北陸道等定有所縁歟。殊可求索。得件悪徒之輩可被抽賞之由。所被下 宣旨也。凡依義行一人事。都鄙未安堵。返々所歎思食也。不限今度可尋之由。連々有御沙汰。此上何樣令有沙汰哉之由。可仰遣二位卿之由。 院御氣色所候也。仍言上如件。
      後七月十七日                     左少弁定長
  進上  師中納言殿

読下し                 さてんきゅう  しょうそことうらい
文治二年(1186)閏七月小廿六日丁未。左典厩が消息到來す。

ごろうまる   はくじょう つ     よしゅうに どうい   さんりょ  め   しん  べ のおもむき やま ざす  あいふれ のところ  か やからとうぼうのむねこれ  もう
五郎丸の白状に就き、豫州于同意の山侶を召し進ず可し之趣、山座主@に相觸る之處、彼の輩逃亡之旨之を申す。

しか   さんぬ じういちにちなおさんもん あ  か のよし  ふうぶんのかん  すなは  しさい  そうもん
而るに去る十一日猶山門に在る歟之由、風聞之間、則ち子細を奏聞す。

よつ さんぬ じうろくにち おおいみかど せんとう  をい   くぎょうせんぎ あ     さんじょうなら   よかわ まつじしょうえんことごと これ あいふ
仍て去る十六日大炊御門の仙洞に於て、公卿僉議有り。山上并びに横河A末寺庄園悉く之に相觸れ、

ふじつ  さが  たず  そ   み   め   しん  べ   のよし   ざす いげ のそうこう   おお られをはんぬ
不日に搜し尋ね其の身を召し進ず可し之由、座主已下之僧綱Bに仰せ被了。

しか    か   に  のが   やからのえんざ  しょう    さんにん  め  すす    のかん すなは しのちょう くだされをはんぬ
而して彼の迯げ脱るの輩之縁坐を稱し、三人を召し進める之間、則ち使廳に下被訖。

かく こと  いまぐんしを たいれい  さしつか  のよしごんじょう   いへど    そう な   ゆうし  つか  さる のじょう  ひとへ ほうめつのいん  な  べ
此の事、今軍士於台嶺Cへ差遣す之由言上すと雖も、左右無く勇士を遣は被る之條、偏に法滅之因を爲す可し。

かつう  しさいを  ざす  おお  らる  べ   のよし  しょけいいちどうさだ もうさる のところ  つぶさ これ  の  らる    うんぬん
且は子細於座主に仰せ被る可し之由、諸卿一同定め申被る之趣、具に之を載せ被ると云々。

参考@山座主は、比叡山座主全玄。
参考A山上并びに横河は、比叡山は大きく分けて、山上に大塔と西塔、外れて横川。
参考B僧綱は、僧尼の統轄、諸大寺の管理・運営にあたる僧の役職。律令制下で僧正(そうじよう)・僧都(そうず)・律師の三綱が定められ、別に法務・威儀師・従儀師を置いて補佐させた。平安後期には形式化した。のちには各宗派の僧侶の身分として用いられるようになった。
参考C台嶺は、天台宗の山、すなはち比叡山。

また  おな   じうしちにち  いんぜんとうらい   ところなり
又、同じく十七日、院宣到來する所也。

  よしゆきえいざん のが  かく    どうい   りょ あ  のよし  よしゆき  わらわ しょう もう    うんぬん
 義行叡山に逃れ隱れ、同意の侶有る之由、義行が童と稱し申すと云々。

  よつ  さんもん おお  らる のところ くだん きょうみょうのやから  に  のが  のよしもう ところなり
 仍て山門に仰せ被る之處、件の交名之輩、迯げ脱る之由申す所也。

   そう な   ぶし   つか    せめらる  ば  いっさんめつぼうのもといなり
 左右無く武士を遣はし攻被れ者、一山滅亡之基也。

  なかんづく    ざす  いか  もんとそうこうら  かたがたひけい  めぐ     また  きしょう  くは    たず  さが  べ  のよしもう  う をはんぬ
 就中に、座主以下の門徒僧綱等、旁秘計を廻らす。又、祈請を加へ、尋ね搜す可し之由申し請け了。

  かく おもむき もつ   ひとびと  たず  おお らる のところ  もつと しか  べ  のよし  いちどうはか  もうさる
 此の趣を以て、人々に尋ね仰せ被る之處、尤も然る可し之由、一同計り申被る。

  くだん えんざ  またりょうさんにんから しん   のかん  しのちょう たま をはんぬ
 件の縁坐、又兩三人搦め進ずる之間、使廳に給ひ訖。

  そ  うえ    おうみのくになら   ほくろくどうら さだ   えにしあ  ところか
 其の上は、近江國并びに北陸道等定めて縁有る所歟。

  こと  もと  もと  べ     くだん あくとのやから  え    ちゅうしょうさる べ    のよし  せんじ  くださる ところなり
 殊に求め索む可し。件の悪徒之輩を得れば抽賞被る可し之由、宣旨を下被る所也。

  およ  よしゆきひとり  こと  よつ     とひ いま   あんど     かえ  がえ   なげ  おぼ  め ところなり
 凡そ義行一人の事に依て、都鄙未だ安堵せず。返す々すも歎き思し食す所也。

  このたび かぎらずたず    べ   のよし  れんれん ごさた あ
 今度に限不尋ねる可し之由、連々御沙汰有り。

  こ  うえいかよう   さた  あらせし  やのよし   にいのきょう おお つか    べ   のよし  いん  みけしきそうら ところなり  よつ ごんじょうくだん ごと
 此の上何樣の沙汰有令ん哉之由、二位卿へ仰せ遣はす可しD之由、院の御氣色候う所也。仍て言上件の如し。

             のちのしちがつ じうしちにち                                       さしょうべんさだなが
      後七月E十七日                     左少弁定長

    しんじょう   そちのちうなごんどの
  進上  師中納言殿

参考D二位卿へ仰せ遣はす可しは、頼朝さんに伺ってみなさい。
参考E後七月は、閏七月のこと。

現代語文治二年(1186)閏七月小二十六日丁未。左典厩一条能保の手紙が届きました。義経の手綱引きの五郎丸の白状に基づき、義経に味方した比叡山の僧侶を差し出すように、比叡山座主全玄大僧正に連絡したところ、その連中は既に逃げてしまったと報告しました。それでも、先日の十一日には、まだ延暦寺に居るらしいと噂があったので、すぐに詳しい事を後白河法皇に報告されました。それなので、先日の十六日に大炊御門の院の御所で、公卿達の会議がありました。比叡山の大塔、西塔、横川の末寺や荘園の全てに通知して、日をおかずに探し出して、逮捕して差し出すようにと、座主と役付き僧侶に命じられました。そうしたら、あの逃げた僧侶の連座だと言って、三人の僧侶を差し出してきたので、治安警備の役所「検非違使の庁」に身柄を渡しました。このことについて、今軍隊を比叡山に派遣するように申し出たのですが、安易に武士達を派遣すれば、延暦寺の仏教が滅びてしまうことになりかねない。だから、詳しい事を座主に命じるように、公卿達が一致して決めた内容を、詳しく書きましただとさ。

その一条能保の手紙と一緒にその時の院からの命令書の写しも到着しました。

義行(義経)が比叡山に逃げて隠れたが、見方をした僧侶が居ると義経の手綱引きだと云うのが、云ったとの事です。そこで、比叡山に命令したところ、それらの名前の連中は逃げてしまったと報告がありました。安易に武士達を派遣すれば、延暦寺の仏教が滅びてしまうことになりかねない。特に座主以下の坊さんや役付き坊主が密教の秘術を使い、お祈りをして自分達で見つけ出しますと請け負いました。その内容で公卿等に聞いたところ、それが最も良いことだと意見が一致しました。逃げた坊主の連座の三人を捕まえて差し出したので、身柄を検非違使の庁に預け終わりました。この際、近江国や北陸道がかなり関係が有りそうだ。特に探索をして、その三人の坊主を捕まえれば、褒美を取らすように、後白河法皇がおっしゃっておられます。義経一人の問題で、世間中が安心して暮らせないなんて、なんとも情けないことだと嘆いておられます。今回に始まったことではなく、探し出すように何度も申されております。この上どうすれば気が済むのか、頼朝さんに伺ってみなさいというのが、院の本音であります。云われて書いた事はこの通りです。
      閏七月十七日            左少弁定長
 申し上げます 師中納言吉田経房殿

文治二年(1186)閏七月小廿八日己酉。被召皇太神宮祢宜長重。々々着衣冠參營中。而被寄附駿河國方上御厩於本宮之由。二品直被仰含。於御下文者。去廿二日所被成置也。而長重遲參之間。于今被閣之。今日被下彼神主了。是義行參詣神宮凝丹祈之由。風聞之間。爲敗其逆心。及此儀云々。

読下し                 こうたいじんぐう ねぎ  ながしげ めさる    ながしげ いかん つ  えいちゅう まい
文治二年(1186)閏七月小廿八日己酉。皇太神宮祢宜@長重を召被る。々々衣冠を着け營中へ參る。

しか    するがのくにかたかみのみくりや を ほんぐう きふさら  のよし  にほんじき  おお  ふく らる    おんくだしぶみ をい は  さんぬ にじうににち な おかれるところなり
而して駿河國方上御厩A於本宮に寄附被る之由、二品直に仰せ含め被る。御下文に於て者、去る廿二日成し置被所也。

しか    ながしげちさんのかん  いまにこれ さしおかれ  きょう  か  かんぬし  くだされをはんぬ
而るに長重遲參之間、今于之を閣被、今日、彼の神主に下被了。

これ  よしゆきじんぐう  さんけい  たんき  こ    のよし  ふうぶんのかん  そ  ぎゃくしん  やぶ   ため  かく  ぎ   およ   うんぬん
是、義行神宮へ參詣し丹祈を凝らす之由、風聞之間、其の逆心を敗らん爲、此の儀に及ぶと云々。

参考@禰宜は、神社に奉職する神職の総称。古くは神主と祝(はふり)の間に位置したが、現在の職制では宮司・権宮司の下に置かれる。(2)伊勢神宮において少宮司の下に置かれている職。
参考A方上御厨は、静岡県焼津市方ノ上。静岡県史資料編Eに「足利義政、烏丸右兵衛権佐資任に益津郡方上御厨(方ノ上・坂本・中里・石脇・成沢・馬場・吉津・花沢・野秋・小浜・岡当目・浜当目12か村)等を子烏丸侍従氏光相続安堵。『静岡県史資料編E』」とある。東名高速二本坂パーキングエリヤ周辺。

現代語文治二年(1186)閏七月小二十八日己酉。伊勢神宮の祢宜(神主の下役)の長重を呼び出されました。長重は、正装の衣冠を着けて御所へ参りました。駿河国方上御厨を伊勢神宮の本宮に寄付すると、頼朝様が直々におっしゃられました。命令書は、先日の二十二日に作成してありました。ところが、長重が遅れていたので、今まで差し控えていましたが、今日その長重に与えられました。それは、義経が伊勢神宮へ参詣して祈願をしたと噂があったので、逆にその反逆の祈りに勝つために、このような仕儀となりましたとさ。

文治二年(1186)閏七月小廿九日庚戌。靜産生男子。是豫州息男也。依被待件期。于今所被抑留歸洛也。而其父奉背關東。企謀逆逐電。其子若爲女子者。早可給母。於爲男子者。今雖在襁褓内。爭不怖畏將來哉。未熟時断命條可宜之由治定。仍今日仰安逹新三郎。令弃由比浦。先之。新三郎御使欲請取彼赤子。靜敢不出之。纏衣抱臥。叫喚及數剋之間。安逹頻譴責。礒禪師殊恐申。押取赤子与御使。此事。御臺所御愁歎。雖被宥申之不叶云々。

読下し                 しずかだんし さんじょう   これよしゅう そくなんなり
文治二年(1186)閏七月小廿九日庚戌。靜男子を産生す。是豫州の息男也。

くだん ご   またる    よつ    いまに きらく  おさ  とど  らる ところなり
件の期を待被るに依て、今于歸洛を抑へ留め被る所也。

しか    そ   ちちかんとう そむ たてまつ  ぼうぎゃく くはだ ちくてん   そ  こ  も   じょしたらば   そうそう  はは  たま    べ
而るに其の父關東を背き奉り、謀逆を企て逐電す。其の子若し女子爲者、早々に母に給はる@可し。

だんしたる  をい  は  いまきょうほう  うち  あ    いへど   いかで しょうらい ふいせざら  や
男子爲に於て者、今襁褓の内に在ると雖も、爭か將來を怖畏不ん哉。

みじゅく  とき  いのち た   じょうよろ      べ   のよし ちじょう
未熟の時に命を断つの條宜しかる可き之由治定す。

よつ  きょう あだちのしんざぶろう おお     ゆいのうら   す   せし   これ    さき    しんざぶろうおんし か  あかご  う    と      ほつ
仍て今日安逹新三郎に仰せて、由比浦Aに弃て令む。之より先に、新三郎御使彼の赤子を請け取らんと欲す。

しずかあえ これ いださず ころも まと  だ   ふ    きょうかんすうこく およ  のかん  あだちしき     けんせき
靜敢て之を出不。衣に纏い抱き臥し、叫喚數剋に及ぶ之間、安逹頻りに譴責す。

いそのぜんじこと おそ  もう    あかご  おしと   おんし  あた    こ   こと  みだいどころごしゅうたん  これ ゆるされ    もう   いへど  かなわず うんぬん
礒禪師殊に恐れ申し、赤子を押取り御使に与う。此の事、御臺所御愁歎し、之を宥被んと申すと雖も叶不と云々。

参考@女子爲者、早く母に給はるは、律令制度で奴婢婚姻の法(奴隷身分同士の結婚について)で、男子は奴(男の奴隷)に、女子は婢(女の奴隷)に従属するとある。
参考A由比浦は、鎌倉市由比ガ浜2丁目3地先の発掘された大鳥居跡の辺りまで浦が入っていたものと思われる。

現代語文治二年(1186)閏七月小二十九日庚戌。静御前が男子を産みました。この子は義経の子供です。頼朝様はこの出産を待っておられたので、今まで京都へ帰るのを止めておられたのです。その父の義経は関東に背いて、反逆をたくらんだのです。その子がもしも女の子だったら、母の静御前に与えるように、男の子だったら、今はねんねこの中に居る赤ん坊だけれども、将来を考えると親の敵と狙われそうなので、心配をせざるを得ない。未だ小さなうちに殺していますのが、良いだろうと決められました。そこで今日、預かっていた安達新三郎清経に命じて、由比の浦に捨てさせることにしました。そのために新三郎は、その赤ん坊を受け取ろうとしましたが、静御前はこれを差し出さずに、自分の来ている物の中に抱きしめ伏せて、泣き続けること数時間にもなるので、安達はさんざん責め続けました。静御前の母の磯禅尼はその権威に恐れて、静御前を諭しながら、赤ん坊を横取りして、使いの安達に渡しました。この赤ん坊を助けて欲しいと御台所政子様は哀れすぎると思われて、許してあげて欲しいと頼朝様にお願いしましたが、かないませんでしたとさ。

八月へ

吾妻鏡入門第六巻

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