吾妻鏡入門第六巻

文治二年(1186)十月大

文治二年(1186)十月大一日甲戌。陸奥國今年貢金四百五十兩。秀衡入道送献之。二品可令傳進給之故也。又賀茂別雷社領出雲國福田庄。石見國久永保。參河國小野(田)庄等。成御下文。被遣社家。當宮事。二品御歸依異他之故也。此外。 院宮貴所以下權門領事。爲被停止地頭新儀。先日自 公家被下目録訖。仍連々被尋究子細。成御下文。今日被進京都云々。其詞云。
 先日所下給候御下文書内。神社佛寺御領者。去比令沙汰進候了。其外院宮貴所及諸家諸司諸國季御讀經御祈用途便補任(保)等事下文二百五十二枚。書状二通。相具本文書并目録。一々所令成敗進上候也。於武士之押領不當者。善悪尤可被仰下事候。然者。随御尋。任所行之旨。可加其誡候。此外事等。少々相交候。不知子細候之間。雖不能計沙汰候。於今度者。任仰旨。大略成下文進上候。凡者如此事。自今以後。令仰合攝政家仰下于記録所。可有御成敗候也。以此旨可令披露給候。頼朝恐惶謹言。
      十月一日                          頼朝
  進上  師中納言殿
 私啓

 造太神宮遷宮ハ。明年歟。明後年歟。無其要候へとも。可承事候て所申候也。可仰給候。兼亦遼遠之間にて候へはとて。如此奏覽状に。判をし候てまいらせ候。而廣元。盛時の手跡にて候ハざらん時は。判ヲ可仕候也。是一筆にて候へは。今度ハ判ヲ仕候ハぬに候。恐々謹言。

読下し             むつのくに ことし こうきんよんひゃくごじうりょう  ひでひらにゅうどうこれ おく けん
文治二年(1186)十月大一日甲戌。陸奥國今年の貢金四百五十兩。秀衡入道之を送り献ず。

にほん つた すす  せし  たま  べ   のゆえなり
二品傳へ進ま令め給ふ可き之故也。

また かものわけいかづちしゃりょう いずものくにふくだのしょう いわみのくにひさながのほう みかわのくにおのだのしょう ら  おんくだしぶみ な    しゃけ  つか  さる
又、賀茂別雷社領@、 出雲國福田庄A、石見國久永保B、參河國小野田庄C等、御下文を成し、社家に遣は被る。

とうみや  こと  にほん おんきえ た  ことな のゆえなり  こ  ほか  いんみやきしょ いか   けんもんりょう こと  ぢとう   しんぎ  ちょうじされ  ため
當宮の事、二品御歸依他に異る之故也。此の外、院宮貴所以下の權門領の事、地頭の新儀を停止被ん爲、

せんじつこうけ よ  もくろく くだされをはんぬ よつ れんれんしさい たず きはめ られ おんくだしぶみ な    きょう きょうと  すす  らる    うんぬん
先日公家自り目録を下被訖。仍て連々子細を尋ね究め被、御下文を成し、今日京都へ進め被ると云々。

参考@賀茂別雷社は、京都府京都市北区上賀茂本山339の賀茂別雷社。山城国一宮。
参考A福田庄は、出雲国大原郷福田庄で旧島根県大原郡加茂町神原で、今の島根県雲南市加茂町神原。
参考B久永保島根県邑智郡(おおちぐん)邑南町(おおなんちょう)は、島根県中部に位置する町。2004年10月1日に石見町、瑞穂町、羽須美村の合併により誕生した。中世期、邑南町一帯(久永荘)は、たたら製鉄が盛んで、久永荘から輸出される、出羽鋼(いずわはがね)は、千種鋼(ちぐさはがね、兵庫県)とならび、日本刀の原料である、和鋼・玉鋼の最高級銘柄として中央で知られていた。
参考C小野田庄は、愛知県豊橋市加茂町、愛知県豊橋市石巻小野田町。

そ  ことば  い
其の詞に云はく。

  せんじつくだ たま  そうろうところ おんくだしぶみ しょ うち  じんじゃぶつじ ごりょうは  さんぬ ころ さた   しん  せし そうら をはんぬ
 先日下し給はり候所の御下文の書の内、神社佛寺の御領者、去る比沙汰し進ぜ令め候ひ了。

  そ  ほか  いんみやきしょおよ  しょけ しょし しょこく  とき  ごどっきょう  おんいのり ようとう  べんぽ  ほう ら  こと  くだしぶみにひゃくごじうにまい
 其の外、院宮貴所及び諸家諸司諸國の季の御讀經D、御祈の用途、便補の保E等の事、下文二百五十二枚、

  しょじょうにつう  ほんもんじょなら    もくろく  あいぐ    いちち  せいばいしんじょうせし そうろうところなり
 書状二通、本文書并びに目録を相具し、一々に成敗進上令め候所也。

   ぶし の おうりょうふとう  をい  は  ぜんあくもつと おお くださる  べ   こと そうろう
 武士之押領不當に於て者、善悪尤も仰せ下被る可き事に候。

  しからずんば おんたずね したが しょぎょうのむね まか  そ  いさめ くは    べ  そうろう  こ ほか ことなど しょうしょうあいまじ  そうろう
 然者、御尋に随い、所行之旨に任せ、其の誡を加へる可く候。此の外の事等、少々相交はり候。

  しさい しらずそうろうのかん はから  さた      あたはずそうろう いへど  このたび  をい  は  おお  むね  まか   たいりゃくくだしぶみ な しんじょう そうろう
 子細を知不候之間、計ひ沙汰するに不能候と雖も、今度に於て者、仰せの旨に任せ、大略下文を成し進上し候。

  およ  は かく  ごと  こと  いまよ   いご   せっしょうけ  おお  あはせし  きろくしょ に おお  くだ  ごせいばい あ  べ  そうろうなり
 凡そ者此の如き事、今自り以後、攝政家に仰せ合令め記録所F于仰せ下し、御成敗有る可く候也。

  かく  むね  もつ  ひろうせし  たま  べ そうろう  よりともきょうこうきんげん
 此の旨を以て披露令め給ふ可く候。頼朝恐惶謹言。

              じうがつついたち                                               よりとも
      十月一日                        頼朝

    しんじょう   そちのちうなごんどの
  進上  師中納言殿

  し   けい
 私に啓す

  ぞうだいじんぐうせんぐうは  みょうねんかみょうごねんか  そ  ような  そうら   ども   うけたまは べ ことそうろう もう そうろうところなり  おお  たま    べ そうろう
 造太神宮遷宮ハ、明年歟明後年歟、其の要無く候へとも、承る可き事候て申し候所也。仰せ給はる可く候。

  かね  また  りょうとうのかん   そうら  ば     かく  ごと  そうらんじょう    はん  そうろう        そうろう
 兼て亦、遼遠之間にて候へはとて、此の如く奏覽状に、判をし候てまいらせ候。

  しか    ひろもと  もりとき   しゅせき   そうらは      とき    はんをつかまつ べ そうろうなり
 而るに廣元、盛時の手跡にて候ハざらん時は、判ヲ仕る可く候也。

  これいっぴつ   そうら ば  こんどは はん をつうかまつりそうらはぬにそうろう きょうきょうきんげん
 是一筆にて候へは、今度ハ判Gヲ仕候ハぬに候。恐々謹言。

参考D季の御讀經は、四季の読経をいう。
参考E
便補の保とは、律令制の年貢の単位の家の数「封戸(ふこ)」が、律令制の崩壊と供に土地単位になり「保」や「庄」となった。「保」は国衙が領する国領を指し、「庄」は権力者の個人の領地として国衙の役人が干渉できない「不入(ふにゅう)の権」を持つ。この「封戸」から「庄」への過程で庄園になりかけている土地を云う。便宜補填の地として与えられた土地。
参考F記録所は、後三条天皇が院政を始めようとしたときに、摂関家の荘園を取上げるために「記録荘園券契所」を作り、文書のきちんとしていない分の荘園は取上げようとしたが、出来なかった。それが後に後白河の時代には院政をする場所になってしまった。
参考Gは、花押。この時代は殆どハンコウは使わない。

現代語文治二年(1186)十月大一日甲戌。陸奥国の京都朝廷へ納める年貢の黄金四百五十両を、平泉の藤原秀衡が献上してきました。それは、頼朝様がこれを京都へ取次ぐためなのです。又、京都賀茂神社の賀茂別雷(かもわけいかずち)神社の領地の出雲国福田庄・石見国久永保・三河国小野庄のことは、頼朝様の命令書を作成して、神社管理者の社家に与えました。この神社の事は、頼朝様のご信奉が他の神社とは比べ物にならないからです。そのほかに、後白河院、斎宮、東宮、皇太后宮を始めとする権力者達の領地への地頭の新たな設置は止めるために、先日京都朝廷からその地名を書いた目録をよこしてきました。しょうがないので、次々と詳しい事情を調べ尽くして、頼朝様の命令書下し文を作成されて、今日京都へ送られましたとさ。

その文書に書いてあるのは

先日戴きました命令書の中で、天皇家の神社仏閣の領地には、せんだって裁決して処置いたしました。その他にも、後白河院、斎宮、東宮、皇太后宮を始めとする権力者達の領地、それに色々な家柄や役所、国衙の季節ごとの読経や祈祷の費用調達地、便宜補填として与えられた領地などへ、命じた命令書が二百五十枚、手紙が二通、それとこの手紙、それらを書き表した目録を副えて、一つ一つ裁決してお送り致します。武士が不当に横取りした場合は、こちらへ良し悪しを言ってきて下さい。そうすれば、お尋ねの内容については、云ってこられたよう、その間違いを正しますからね。たまにそれ以外のことが多少でも混じっている場合は、事情を存じませんので、出来ませんけれども、今回については、ご命令に従って、殆ど命令書を作り出しました。凡そは、このような事は、今から以後は、摂政家九条兼実様に申されて、院の事務所の記録所に命令されて、処断してください。こういう内容で、後白河法皇に伝えていただきたく。頼朝恐れ敬って申し上げます。
         十月一日                    頼朝
   お送り致します  師中納言吉田経房殿

個人的に追伸します。伊勢神宮の式年遷宮は、来年か再来年でしたっけ。特にその用が無くっても、私が承りますので、命じてください。また、普段から遠いところに居りますので、このような後白河法皇にお見せする手紙については、花押を押すことにしています。それでも、大江広元や平民部烝盛時の筆跡でないときは、花押を押す事にしています。でも、この手紙は私自身のひとふでなので、花押は押しませんよ。宜しく。

参考九月五日条に、近江国近江国安曇川御厨に同処置をした下し文の例がある。

文治二年(1186)十月大三日丙子。貢馬并秀衡所進貢金等所被京進也。主計允行政書解文云々。
 進上
  御馬伍疋
  鹿毛馼
  葦毛馼
  黒栗毛
  栗毛
  連錢葦毛
 右。進上如件。
   文治二年十月三日

読下し               くめ なら  ひでひらしん ところ こうきんら きょう  しん らる ところなり  かぞえのじょうゆきまさ げぶみ か   うんぬん
文治二年(1186)十月大三日丙子。貢馬并びに秀衡進ず所の貢金等京へ進ぜ被る所也。主計允行政解文を書くと云々。

  しんじょう
 進上

    おんうまごひき
  御馬伍疋

    かげ ぶち
  鹿毛@

    あしげ ぶち
  葦毛A

    くろくりげ
  黒栗毛

    くりげ
  栗毛B

    れんせんあしげ
  連錢葦毛C

  みぎ しんじょうくだん ごと
 右、進上件の如し。

       ぶんじにねんじうがつみっか
   文治二年十月三日

参考@鹿毛(かげ)は、最も一般的な毛色で、鹿の毛のように茶褐色で、タテガミ・尾・足首に黒い毛が混じる。
参考A葦毛(あしげ)は、体の一部や全体に白い毛が混生し、年齢とともにしだいに白くなる。はじめは栗毛や鹿毛にみえることが多い。原毛色の残り方から赤芦毛・連銭芦毛(れんせんあしげ)など種々ある。
参考B栗毛(くりげ)は、全身が褐色の毛で覆われている。たてがみや尾も同色のものが多いが、白いものは尾花(おばな)栗毛と呼ぶ。
参考C連銭葦毛は、後ろ足の太ももに黒い円形の模様が縦横に並ぶ。

現代語文治二年(1186)十月大三日丙子。京都朝廷へ貢ぐ馬と藤原秀衡が送ってきた黄金を京都へ送られます。主計允藤原行政が上申書を書きましたとさ。

 送り申し上げます
  おん馬五頭
  鹿毛斑
  葦毛斑
  黒栗毛
  栗毛
  
連銭葦毛
 右のとおり、お送りするのはこのとおりです。
   文治二年十月三日

文治二年(1186)十月大十日癸未。去月朝宗等討入南都。雖搜求聖弘得業邊。不獲義行〔本名義經。去比改名〕之間。空以歸洛。依之南都頗物忩。衆徒成蜂起含欝訴。可停止維摩大會之由風聞云々。

読下し             さんぬ つき ともむねら なんと  う   い    しょうこうとくごうへん さが  もと    いへど
文治二年(1186)十月大十日癸未。去る月、朝宗等南都へ討ち入り、聖弘得業邊を搜し求むと雖も、

よしゆき 〔ほんみょうよしつね さんぬ ころかいみょう  〕  えずのかん   むな    もつ   きらく    これ  よつ なんとすこぶ ぶっそう
義行〔本名義經。去る比改名す〕を獲不之間、空しく以て歸洛す。之に依て南都頗る物忩。

 しゅと  ほうき  な   うっそ   ふく    ゆいまたいえ  ちょうじすべ  のよしふうぶん   うんぬん
衆徒@蜂起を成し欝訴を含み、維摩大會Aを停止可し之由風聞すと云々。

参考@衆徒は、僧の下位の者で高地位の僧(学生(がくしょう)学匠、学侶)の下働きだったが、領家の年貢収奪の為、武力を持つようになって僧衆・悪僧と呼ばれ、江戸時代以後僧兵と呼ばれる。僧兵は後年の言語なので、あえて「武者僧」とした。
大衆とは、一山全体の僧を指し、教理に基づく集団化であり、全ての人間の衆議一決は、理念的に破る事が出来ない。但し、一箇所でも敗れれば、それは徒党の集団として破る事が出来る。との単語は元々複数の者の同意化を示す。三衣一鉢を帯び、国の玄蕃寮から許可を受けて官僧となる。
参考A維摩大會は、維摩経を唱える会だが、南京三会と云い、興福寺で維摩会、大極殿で御斉会、薬師寺で最勝会を行う。維摩会で講師を務めると僧綱の位を貰える。権門勢家出身の若年僧が、権力財力を背景に先輩達を追い抜いて役職に付き、大衆がやっかんで怒り蜂起し、講師の指名を変えさせたりする。但し、この時は実際に実施している。

現代語文治二年(1186)十月大十日癸未。先月、比企藤内朝宗達が奈良へ攻め入って、聖弘得業の僧坊あたりを家宅捜査しましたが、義行〔本名は義経、先だって京都朝廷で勝手に改名しました〕を見つけられず、手ぶらで京都へ帰ってきました。これが原因で、奈良では大騒ぎになりました。自治権の侵害だと武者僧達が決起集会をして鬱憤を晴らすため、朝廷鎮護の儀式の維摩経の法会をやらせないぞと騒いでいると噂が流れましたとさ。

文治二年(1186)十月大十六日己丑。丑剋。雜色鶴次郎爲御使上洛。是木工頭範季朝臣同意伊豫守義行事。殊可訴申之旨。被仰北條兵衛尉。行程所被定三箇日也。

読下し                うしのこく ぞうしきつるじろうおんし   な   じょうらく
文治二年(1186)十月大十六日己丑。丑剋。雜色鶴次郎御使と爲し上洛す。

これ もくのかみのりすえあそん  いよのかみよしゆき  どうい  こと  こと  うった もう  べ  のむね  ほうじょうひょうえのじょう おお らる
是、木工頭範季朝臣@伊豫守義行に同意の事、殊に訴え申す可し之旨、北條兵衛尉に仰せ被る。

こうてい みっかび  さだ  らる ところなり
行程三箇日と定め被る所也。

参考@木工頭範季は、藤原。大治5年(1130年)- 元久2年(1205年))は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家。九条兼実の家司。羽林家南家高倉流の祖。後白河法皇の近臣。父は藤原南家の藤原能兼。母は高階為時娘。藤原範兼は兄で養父でもある。妻は平教盛の娘・教子。娘に後鳥羽天皇女院で順徳天皇生母である修明門院重子がいる。ウィキペディアから

現代語文治二年(1186)十月大十六日己丑。丑剋(午前二時頃)雑用の鶴次郎が使い走りとして京都へ向かいました。これは、木工頭範季は義経の味方をしている事を、特に(京都朝廷へ)申し入れるように、北条兵衛尉時定に命令を出されました。三日で行くようにと決められたのです。

文治二年(1186)十月大廿三日丙申。長門江太景國蒙御臺所御氣色。是奏扶持御妾若公〔去二月誕生〕事。依令顯露也。今日景國抱若公。隱居深澤邊云々。

読下し                ながとのえたかげくに  みだいどころ  みけしき  こうむ
文治二年(1186)十月大廿三日丙申。長門江太景國、御臺所の御氣色を蒙る。

これ おんめかけ わかぎみ 〔さんぬ にがつ たんじょう〕  ふち たてまつ こと  ろけんせし   よつ  なり
是、御妾の若公〔去る二月に誕生〕を扶持し奏る事、顯露令むに依て也。

きょう かげくに  わかぎみ いだ   ふかざわへん いんきょ   うんぬん
今日景國、若公を抱き、深澤邊に隱居すと云々。

参考若公〔去る二月に誕生〕は、文治二年(1186)二月廿六日条で、生まれた後の貞暁。母は伊佐時長の女大進局。

現代語文治二年(1186)十月大二十三日丙申。長門江太景国は、御台所政子様から嫌われてしまいました。(ご不興を買いました。)それは、頼朝様の妾が産んだ若君(先だっての二月に誕生しました)を育てている事が、ばれてしまったからです。今日、景国は若君を抱いて、外鎌倉の深沢の里あたりに隠れ住みましたとさ。

文治二年(1186)十月大廿四日丁酉。甘繩神明寳殿被加修理。今日立四面荒垣并鳥居。藤九郎盛長沙汰之。二品監臨給。小山五郎宗政。同七郎朝光。千葉小太郎胤正。佐々木三郎盛綱。梶原刑部丞朝景。同兵衛尉景定等在御共。

読下し               あまなわみょうじん ほうでん しゅうり  くわ  らる    きょう しめん  あらがきなら   とりい   た
文治二年(1186)十月大廿四日丁酉。甘繩神明@寳殿、修理を加へ被る。今日四面に荒垣并びに鳥居を立てる。

とうくろうもりなが   これ   さた    にほんかんりん  たま
藤九郎盛長、之を沙汰す。二品監臨し給ふ。

おやまのごろうむねまさ  おな    しちろうともみつ  ちばのこたろうたねまさ  ささきのさぶろうもりつな  かじわらぎょうぶのじょうともかげ おな ひょうえのじょうかげさだら
小山五郎宗政、同じき七郎朝光、千葉小太郎胤正、佐々木三郎盛綱、梶原刑部丞朝景、同じき兵衛尉景定等

おんとも あ
御共に在り。

参考@甘繩神明は、鎌倉市長谷1丁目1番に鎮座。

現代語文治二年(1186)十月大二十四日丁酉。甘縄神社の社殿に修理を施させました。今日、社殿の四周に目の荒い垣根と鳥居を立てられました。藤九郎盛長が担当をしました。頼朝様は仕事具合を監視に来ました。小山五郎宗政、同族の七郎朝光、千葉小太郎胤正、佐々木三郎盛綱、梶原刑部烝朝景、同族の兵衛尉景定がお供をしました。

文治二年(1186)十月大廿七日庚子。信濃國伴野庄乃貢送文到來。二品則副御書。令進京都給。地頭加々美二郎長C日者頗緩怠云々。

読下し                しなののくにともののしょう のうぐおくりぶみとうらい
文治二年(1186)十月大廿七日庚子。信濃國伴野庄@の乃貢送文到來す。

にほんすなは おんしょ  そ    きょうと  しん  せし  たま    じとう  かがみにじろうながきよ  ひごろすこぶ かんたい   うんぬん
二品則ち御書を副へ、京都へ進ぜ令め給ふ。地頭加々美二郎長C、日者頗る緩怠すと云々。

参考@伴野庄は、長野県佐久市伴野。院御領。

現代語文治二年(1186)十月大二十七日庚子。信濃国伴野庄(長野県佐久市伴野)の年貢の送付文が到着しました。頼朝様は、直ぐに添え書きを付けて京都へ送らせました。地頭の加々美二郎長清が、ここのところかなり怠けて滞納していたからなんだとさ。

十一月へ

吾妻鏡入門第六巻

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