吾妻鏡入門第七巻

文治三年(1187)正月大

文治三年(1187)正月大一日癸夘。二品御參鶴岡宮。其儀如例。御臺所并若公同參給。有御經供養。導師別當法眼也。

読下し                    にほんつるがおかぐう ぎょさん そ   ぎ れい  ごと    みだいどころなら   わかぎみおな   さん  たま
文治三年(1187)正月大一日癸夘。二品鶴岡宮に御參。其の儀例の如し。御臺所并びに若公同じく參じ給ふ。

おきょう   くよう あ     どうし  べっとうほうげんなり
御經の供養有り。導師は別當法眼也。

現代語文治三年(1187)正月大一日癸卯。二品頼朝様は鶴岡八幡宮へ参拝なされました。その儀式の方法は何時もの通りです。御台所政子様と若公(万寿、後の頼家数えの)も、同様にお参りをしました。お経を上げさせました。お経の指導者は、八幡宮長官の別当法眼尊暁です。

文治三年(1187)正月大八日庚戌。營中心經會也。導師行慈法橋云々。

読下し                    えいちゅう しんぎょうえなり  どうし  ぎょうじほっきょう  うんぬん
文治三年(1187)正月大八日庚戌。營中の心經會也。導師は行慈法橋と云々。

現代語文治三年(1187)正月大八日庚戌。御所で般若心経のお経を唱える会を催しました。指導する僧は行慈法橋だとさ。

文治三年(1187)正月大十二日甲寅。二品并若公御行始也。入御于八田右衛門尉知家南御門宅。千葉小太郎役御劔。知家献御馬御劔等云々。

読下し                     にほんなら    わかぎみみゆきはじめ なり  はったのうえもんのじょうともいえ みなみみかど たく に にゅうぎょ
文治三年(1187)正月大十二日甲寅。二品并びに若公御行始@也。 八田右衛門尉知家が 南御門の宅A于入御す。

ちばのこたろう ぎょけん  えき    ともいえおんうま  ぎょけんら  けん   うんぬん
千葉小太郎御劔を役す。知家御馬、御劔等を献ずと云々。

参考@御行始めは、家臣の邸宅を鎌倉将軍が年の初めに訪問する行事。新築の場合もある。
参考A八田右衛門尉知家が南御門の宅は、筋替橋の西南が政所、西御門川南が北条得宗家、西御門川東が大江広元上屋敷、大江広元邸の東を八田知家の上屋敷(着替所)邸と推定されている。東隣が重忠の上屋敷。

現代語文治三年(1187)正月大十二日甲寅。二品頼朝様と若君(万寿、後の頼家数えの)の今年初めて外出する御行始めの儀式です。八田右衛門尉知家の幕府南御門前の屋敷へ入られました。千葉小太郎胤正が太刀持ちの役です。八田知家は、お土産に馬と剣を献上しましたとさ。

文治三年(1187)正月大十五日丁巳。左女牛御地令奉寄六條若宮給。早可令奉行之旨。所被仰阿闍梨季嚴也。是六條以南。西洞院以東壹町也。

読下し                      さめがい  おんち  ろくじょうわかみや  よ たてまつ せし たま
文治三年(1187)正月大十五日丁巳。左女牛@の御地を六條若宮Aに寄せ奉ら令め給ふ。

はや  ぶぎょうせし  べ  のむね   あじゃりきげん   おお  らる ところなり  これ ろくじょういなん にしのとういんひがし もつ いっちょうなり
早く奉行令む可し之旨、阿闍梨季嚴に仰せ被る所也。是、六條以南、 西洞院東を 以て壹町也。

参考@左女牛は、京都市下京区六条若宮通上ルに頼義が邸内鎮守として石清水八幡宮を勧請したのが始まり。
参考A六条若宮は、若宮八幡宮で左女牛の地から二度移り、慶長年間に移ったのが現在の東山区五条橋東の若宮八幡宮

現代語文治三年(1187)正月大十五日丁巳。頼朝様は、源氏代々の縁故の地、左女牛を六条若宮に寄付されました。早く実行するように阿闍梨季厳に命じられたのでした。その土地は、六条通の南、西洞院通り東側の一町(1ha)です。

文治三年(1187)正月大十八日庚申。新田四郎忠常病惱太辛苦。已欲及死門。仍二品渡御彼宅。令訪之給云々。

読下し                    にたんのしろうただつね びょうのう はなは しんく    すで  しもん  およ      ほつ
文治三年(1187)正月大十八日庚申。新田四郎忠常@病惱で太だ辛苦す。已に死門に及ばんAと欲す。

よっ  にほん か   たく  とうぎょ    これ  とぶら せし  たま    うんぬん
仍て二品彼の宅へ渡御し、之を訪は令め給ふと云々。

参考@新田四郎忠常は、伊豆国仁田郷なので、仁田とも書き「にたん」と読み、静岡県田方郡函南町仁田、函南小学校そばに墓あり。
参考A
死門に及ばんは、重篤(じゅうとく・非常に重く、生命に危険が及ぶ症状)。この時の妻の祈りが原因で七月十七日に妻が死ぬ。

現代語文治三年(1187)正月大十八日庚申。新田四郎忠常が、病気で苦しんでおります。その容態は直ぐにでも死んでしまうかのようです。それなので、二品頼朝様はその屋敷へお渡りになり、病気を見舞ったのでしたとさ。

文治三年(1187)正月大十九日辛酉。文治元年所被寄附于希義主墳墓之土佐國津崎在家等。爲甲乙人致濫妨狼藉之間。琳猷上人參訴右武衛〔能保〕。仍可停止濫吹之由。被加下知訖。彼上人雖可參訴關東。行程隔遠路之上。武衛爲二品御耳目在京之間。如此云々。

読下し                     ぶんじがんねん まれよしぬし ふんぼの とさのくに つさき  ざいけら に よ   つ  さる  ところ
文治三年(1187)正月大十九日辛酉。文治元年、希義主@墳墓之土佐國津崎Aの在家等于寄せ附け被る所、

とこうのひと  ため らんぼうろうぜき いた  のあいだ りんゆうしょうにん うぶえ 〔よしやす〕   さんそ
甲乙人の爲に濫妨狼藉を致す之間、琳猷上人右武衛〔能保〕に參訴す。

よつ  らんすい ちょうじ  べ    のよし  げち  くは  られをはんぬ
仍て濫吹を停止す可し之由、下知を加へ被訖。

か  しょうにんかんとう  さんそすべ    いへど   こうていえんろ  へだ  のうえ  ぶえい にほん ざいきょう  ごじもくたる のかん  かく  ごと    うんぬん
彼の上人關東へ參訴可しと雖も、行程遠路を隔つ之上、武衛二品の在京の御耳目爲之間、此の如しと云々。

参考@希義主は、土佐冠者希義で頼朝の同母弟。その墓所は、高知市介良乙に源希義神社とその近くに西養寺跡(廃寺)がある。なお、同地点を記憶して、グーの地図の検索で1km以下の地図だと神社名が出ている。
参考A
津崎は、介良乙の北隣に大津乙があるので、介良、大津一帯と思われる。他に高知県土佐清水市窪津崎の地名があるが漁師町なので違うだろう。

現代語文治三年(1187)正月大十九日辛酉。文治元年に、頼朝様の弟土佐冠者希義様の墓の管理者に、土佐国津崎の農家から年貢を納付するよう権利を与えましたが、別な連中に横取りされてしまったと、墓守の琳猷上人が京都守護の一条能保様に訴えて行きました。それなので、横取りを止めるように、命令書を出させました。琳猷上人は、関東へ訴えに来たいところですが、余りにも遠く離れている上に、一条能保様が頼朝様の京都管理出張所をなさっているので、こうしたんだとさ。

文治三年(1187)正月大廿日壬戌。合鹿大夫光生爲御使。爲奉幣于太神宮。進發伊勢國。神馬八疋〔内外宮分各々二疋。風宮。荒祭。伊雜。瀧原各一疋〕。砂金廿兩。御劔二腰。所被奉送也。是依伊豫守義經反逆御祈祷也云々。

読下し                   あいがのたいふみつお おんし  な     だいじんぐうに ほうへい   ため  いせのくに  しんぱつ
文治三年(1187)正月大廿日壬戌。合鹿大夫光生@御使と爲し、太神宮于奉幣せん爲、伊勢國へ進發す。

しんめはっぴき 〔ないげくうぶん おのおの にひき かぜのみや  あらまつり  いざわ たきはら おのおのいっぴき〕 さきんにじうりょう ぎょけんふたこし おく たてまつ らる ところなり
神馬八疋〔内外宮分各々二疋。風宮、荒祭、伊雜、瀧原 各一疋〕 砂金廿兩A、御劔二腰、送り奉つ被る所也。

これ いよのかみよしつねはんぎゃく おんきとう  よつ  なり  うんぬん
是、伊豫守義經反逆の御祈祷に依て也と云々。

参考@合鹿大夫光生は、常陸国相鹿で現在の日立市相賀町。この人は2巻養和2年5月25日とこの2回しか出演がない。
参考A
砂金二十両は、金一両は、16.5g。16.5g×20=330g。約155万。

現代語文治三年(1187)正月大二十日壬戌。相鹿大夫光生は、頼朝様のお使いとして、伊勢神宮へお参りをするために伊勢国へ出発します。神様に献上する馬八頭〔内宮と外宮それぞれに二頭、風宮、荒祭、伊雑宮、瀧原に一頭づつです〕、砂金二十両、太刀二腰を送られることにしました。これは、伊予守義経の反逆がおさまるように祈るための料金なんだってさ。

文治三年(1187)正月大廿一日癸亥。江廷尉公朝〔日來在鎌倉〕皈洛之間。 院宣條々被申御返事云々。

読下し                    えのていいきんとも 〔 ひごろかまくら  あ    〕 きらくのかん  いんぜん じょうじょう ごへんじもうさる   うんぬん
文治三年(1187)正月大廿一日癸亥。江廷尉公朝〔日來鎌倉に在り〕皈洛之間、院宣の條々を御返事申被ると云々。

現代語文治三年(1187)正月大二十一日癸亥。検非違使大江公朝〔このところ鎌倉に居る〕京都へ帰るので、後白河法皇からの院宣にあげられた項目について、頼朝様からのご返事を持たせる事にしましたとさ。

文治三年(1187)正月大廿三日乙丑。前廷尉知康同意于行家義顯叛逆事。露顯之後。爲遁一旦之難。參向關東訖。断罪之篇。二品頗難被决賢慮之間。度々雖被伺奏。于今依无左右。言上事等不預分明 勅裁之條。有恐欝之由。所被仰遣黄門〔經房〕之許也。

読下し                     さきのていいともやす ゆきいえ よしあきはんぎゃくに どうい  こと  ろけんののち  いったんのなん  のが    ため
文治三年(1187)正月大廿三日乙丑。前廷尉知康、 行家、義顯叛逆于同意の事、露顯之後、一旦之難を遁れん爲、

かんとう  さんこう をはんぬ だんざいのへん  にほんすこぶ けつ られがた けんりょのかん  たびたびそう うかが らる   いへど    いまに そう   な     よつ
關東に參向し訖。 断罪之篇、二品頗る 决せ被難く賢慮之間、度々奏を伺い被ると雖も、今于左右无きに依て、

ごんじょう ことなどぶんめい ちょくさい  あずか ずのじょう きょうつあ   のよし  こうもん  〔つねふさ〕  のもと  おお  つか  さる ところなり
言上の事等分明の勅裁に預ら不之條、恐欝有る之由、黄門@〔經房〕之許へ仰せ遣は被る所也。

参考@黄門は、中納言の唐名。ここでは吉田経房。

現代語文治三年(1187)正月大二十三日乙丑。前検非違使鼓判官平知康が、行家や義顕(義経)の反逆行為に加担していた事がばれてしまったので、一時の災いを逃れるため鎌倉へ言い訳にやってきました。罪科を、頼朝様は京都朝廷の役人なので鎌倉幕府では決定できないと考えたので、何度も後白河法皇に処理を尋ねましたが、未だにどうするのか、申し上げた事に対し、はっきりとした院の裁定が来ないので、怒っていると中納言吉田経房のところへ言い伝えました。

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