吾妻鏡入門第七巻

文治三年(1187)二月小

文治三年(1187)二月小一日癸酉。二品以没官領内二箇所。可被避進于建礼門院〔徳子〕之由。有其沙汰。是攝津國眞井。嶋屋兩庄也。元者八條前内府〔宗盛〕知行云々。依被訪申彼御幽栖也。

読下し                   にほんもっかんりょうないにかしょ  もつ    けんれいもんいん 〔とくし〕   に さ   すす  らる  べ    のよし  そ   さた  あ
文治三年(1187)二月小一日癸酉。二品没官領内二箇所を以て、建礼門院〔徳子@于避け進め被る可し之由、其の沙汰有り。

これ  せっつのくに まない  しまや りょうしょうなり  もとははちじょうさきのないふ 〔むねもり〕 ちぎょう うんぬん  か  ごゆうす  とぶら  もうさる   よつ  なり
是、攝津國眞井A、嶋屋Bの兩庄也。元者八條前内府〔宗盛〕知行と云々。彼の御幽栖を訪ひ申被るに依て也。

参考@建礼門院〔徳子〕は、清盛の娘で高倉天皇の女御となり安徳天皇を生んだ。壇ノ浦で水に飛び込んだが助けられてしまった。
参考A真井は、兵庫県西宮市甲山町の神呪寺は摂津国八十八か所の75番で、53代淳和天皇の4妃真名井御前(如意尼)開創。出家前は真井御前(まないごぜん)と呼ばれていたそうな。関係あるかも?
参考B
島屋は、大阪府大阪市此花区島屋。

現代語文治三年(1187)二月小一日癸酉。頼朝様は、平家から取上げた領地のうち荘園二箇所を建礼門院〔徳子〕に自分の分から分けてお与えするようにお決めになられました。その場所は、摂津国真井と島屋の二庄です。元々は八条の前内大臣〔平宗盛〕が所有していた領地なんだとさ。彼女が隠れ住んでいるのをお慰めするためです。

文治三年(1187)二月小九日辛巳。有大夫属定康者。關東之功士也。彼近江國領所。平家在世之時者稱源家方人被収公。滅亡今又守護定綱爲兵粮米點定之。依之企參上。募申有勞之間。停止旁狼藉。如元可領掌之趣。今日被仰下云々。去平治元年十二月合戰敗北之後。左典厩〔義朝〕令赴東國美濃國給。于時寒嵐破膚。白雪埋路。不便進退行歩。而此定康忽然而令參合其所之間。爲遁平氏之追捕。先奉隱于氏寺〔号大吉堂〕天井之内。以院主阿願房以下住僧等。警固之後。請申私宅。至于翌年春。竭忠節云々。

読下し                    たいふさかんさだやす    ものあ     かんとうのこうしなり
文治三年(1187)二月小九日辛巳。大夫属定康@という者有り、關東之功士也。

か   おうみのくにりょうしょ   へいけざいせの ときは げんけ  かたうど  しょう しゅこうされ  めつぼう  いままた しゅごさだつなひょうろうまい ためこれ  てん さだ
彼の近江國領所は、平家在世之時者源家の方人と稱し収公被、滅亡の今又、守護定綱兵粮米の爲之を點じ定む。

これ  よっ  さんじょう くはだ   つの  もう  ろうあ   のかん かたがたろうぜき ちょうじ  もと  ごと りょうしょうすべ のおもむき  きょう おお  くださる   うんぬん
之に依て參上を企て、募り申す勞有る之間、旁狼藉を停止し、元の如く領掌可し之趣、今日仰せ下被ると云々。

さぬ へいじがんねんじうにがつかっせんはいぼくののち さてんきゅう 〔よしとも〕  とうごくみののくに  おもむ せし たま
去る平治元年十二月合戰敗北之後、左典厩〔義朝〕東國美濃國へ赴か令め給ふ。

ときにかんらんはだ やぶ    はくせつみち  う       しんたいぎょうほびんあらず
時于寒嵐膚を破り、白雪路を埋める。進退行歩便不。

しか こ  さだやすこつぜん    て そ ところ  まい  あ   せし  のかん  へいしのついぶ  のが   ため
而るに此の定康忽然とし而其の所へ參り合は令む之間、平氏之追捕を遁れん爲、

ま   うじでら 〔だいきちどう   ごう  〕    てんじょうのうちにかく たてまつ  いんじゅあがんぼう いか   じゅうそうら  もつ    けいごののち
先ず氏寺〔大吉堂Aと号す〕の天井之内于隱し奉り、院主阿願房以下の住僧等を以て、警固之後、

したく  う   もう    よくねん  はるに いた       ちゅうせつ つく    うんぬん
私宅に請け申し、翌年の春于至るまで、忠節を竭すと云々。

参考@大夫属定康は、草野定康。北面の武士。
参考A
大吉堂は、長浜市野瀬町の天吉寺に旧跡あり。現在は支院が名を継いでいる。

現代語文治三年(1187)二月小九日辛巳。大夫属草野定康という人がおります。関東頼朝様にとっては手柄のある人です。その人の近江国(滋賀県)の所領は、平家全盛時代には、源氏の仲間だといって没収され、平家が滅んだ今は、近江守護の佐々木定綱が兵糧米を得るためだと指定をして横取りされた。これでは収入にならないので、鎌倉へやってきて何とかして欲しいと嘆いてきたので、守護も地頭も、ごり押しはしないで、元通りに支配するように、今日頼朝様は安堵してあげました。それは昔の平治元年十二月平治の乱で負けて、左典厩義朝様が関東へ向かい美濃国(岐阜県)へ差し掛かった時に、真冬の風は肌を刺し、あたり一面大雪で真っ白でした。どうにも進退に窮しているとこの定康が偶然その場所に来合わせて、平氏の追っ手から逃れさすために、とりあえず氏寺〔大吉堂と云います〕の天井裏に隠し、それから寺の住職阿願坊を始めとする坊さんや僧兵達に守らせて、自分の家へ連れて行き、翌年の春に雪が解けるまで、お仕えしたんだとさ。

文治三年(1187)二月小十日壬午。前伊豫守義顯日來隱住所々。度々遁追捕使之害訖。遂經伊勢美濃等國。赴奥州。是依恃陸奥守秀衡入道權勢也。相具妻室男女。皆假姿於山臥并兒童等云々。

読下し                    さきのいよのかみよしあき ひごろしょしょ  かく  す   たびたび  ついぶしのがい  のが をはんぬ
文治三年(1187)二月小十日壬午。前伊豫守義顯日來所々に隱れ住む。度々の追捕使之害を遁れ訖。

つい   いせ   みの らのくに  へ    おうしゅう おもむ   これ むつのかみひでひらにゅうどう けんせい たの  よっ  なり
遂に伊勢、美濃等國を經て、奥州へ赴く。是、陸奥守秀衡入道の權勢を恃む@に依て也。

さいしつだんじょ  あいぐ    みなすがたをやまぶし なら  じどうら   か    うんぬん
妻室男女を相具す。皆姿於山臥A并びに兒童等に假ると云々。

参考@陸奥守秀衡入道の權勢を恃むは、奥州藤原氏は、独立していて頼朝の力も及ばない。
参考A山伏は、役小角(役の行者)から始まったとされ山岳信仰をもっぱらにして、超常的験力を使い病などを治した。髪を蓄え頭巾に柿色の帷子だった。

現代語文治三年(1187)二月小十日壬午。前伊予守義顕(義経)は、最近あちこちに隠れ住んで、何度も捜索者から逃れてきました。とうとう伊勢国(三重県)から美濃国(岐阜県)を通って、東北地方へと行きました。それは、平泉の陸奥守藤原秀衡入道の力を頼っていくからです。奥さんも子供達も皆一緒に連れて行きました。皆で山伏や稚児に変装していたんだとさ。

文治三年(1187)二月小十六日戊子。美濃權守親能爲上洛使節進發。相具貢馬十疋。是來月上旬之比 法皇依可有御熊野詣也。

読下し                     みののごんのかみちかよしじょうらく しせつ  な   しんぱつ   くめ じっぴき  あいぐ
文治三年(1187)二月小十六日戊子。美濃權守親能上洛の使節と爲し進發す。貢馬十疋を相具す。

これ  らいげつじょうじゅんのころ ほうおうおんくまのもうであ  べ     よっ  なり
是、來月上旬之比、 法皇御熊野詣有る可くに依て也。

現代語文治三年(1187)二月小十六日戊子。美濃権守中原親能は、京都へ特派員として出発します。京都朝廷へ献上する馬十頭を引き連れていきます。この馬は、来月上旬に後白河法皇が熊野詣に行くための費用としてです。

文治三年(1187)二月小廿日壬辰。鎭西宇佐宮神官并御家人等多以浴二品御恩。或新給。或本領云々。仍其所々可令施行彼輩之旨。所被仰遣遠景之許也。

読下し                    ちんぜい うさぐう しんかん なら     ごけにんら おお  もっ  にほん  ごおん  よく
文治三年(1187)二月小廿日壬辰。鎭西宇佐宮神官并びに御家人等多く以て二品の御恩に浴す。

ある    しんきゅう ある    ほんりょう うんぬん  よっ  そ   しょしょ  か やからしぎょうせし  べ   のむね  とおかげのもと  おお  つか  さる ところなり
或ひは新給。或ひは本領と云々。仍て其の所々、彼の輩施行令む可し之旨、遠景之許へ仰せ遣は被る所也。

現代語文治三年(1187)二月小二十日壬辰。九州の、宇佐八幡宮の神官や御家人達は、沢山の人が頼朝様から恩義を受けました。ある場合は新しい領地を、ある場合は、従来の所領を認め許されましたとさ。そこで、そういった所領は、彼等が扱うようになると、九州長官の天野遠景に伝えさせました。

文治三年(1187)二月小廿三日乙未。依大姫公御願。於相摸國内寺塔。被修誦經。藤判官代邦通。河匂七郎政頼等奉行之。姫公參岩殿觀音堂給云々。

読下し              おおひめぎみ ごがん  よつ    さがみこくない   じとう  をい   しょうきょう しゅう らる
文治三年(1187)二月小廿三日乙未。大姫公の御願に依て、相摸國内の寺塔に於て、誦經を修せ被る。

とうのほうがんだいくにみち かわわのしちろうまさよりら これ ぶぎょう    ひめぎみ いわどのかんのんどう まい たま    うんぬん
藤判官代邦通、 河匂七郎政頼等之を奉行す。姫公は岩殿觀音堂@へ參り給ふと云々。

参考@岩殿観音堂は、神奈川県逗子市久木5丁目7に岩殿寺。

現代語文治三年(1187)二月小二十三日乙未。大姫公(数え年10歳)の願掛けで相模国内の大きな寺で、お経をあげさせました。大和判官代邦道と河匂七郎政頼が担当の奉行をしました。姫公は岩殿観音堂へお参りに行きましたとさ。

文治三年(1187)二月小廿五日丁酉。二品渡御三浦介義澄亭。有御酒宴。折節信濃國保科宿遊女長者。依訴訟事參住。召出其砌。聞食郢曲云々。

読下し              にほん みうらのすけよしずみてい とぎょ    ごしゅえんあ
文治三年(1187)二月小廿五日丁酉。二品三浦介義澄亭へ渡御す。御酒宴有り。

おりふし しなののくにほしなのしゅく ゆうじょ  ちょうじゃ  そしょう  こと  よっ  まい  す     そ  みぎり め   い         えいきょう  き     め     うんぬん
折節、信濃國保科宿@の遊女Aの長者B、訴訟の事に依て參り住む。其の砌に召し出だされ、郢曲を聞こし食すと云々。

参考@保科は、信濃国高井郡保科で現長野県長野市若穂保科。三浦介義澄と保科とのつながりが分からない。領地なのか?
参考A遊女は、あそびめとも云われ、くぐつ(人形使い)や占いも含め春も売る。
参考B
長者は、遊女の代表者。遊女の組合長。或いは、遊女屋の経営者で、集落の代表。

現代語文治三年(1187)二月小二十五日丁酉。二品頼朝様は、三浦介義澄の屋敷へお渡りになられました。酒宴となりました。ちょうどその時、信濃国(長野県)保科の宿場の遊女の組合長の女性が、領地問題の訴訟のために、鎌倉へ来て宿を借りていました。その宴席の座へ呼び出して、流行り歌を歌わせて聞き入りましたとさ。

文治三年(1187)二月小廿八日庚子。右近將監家景。昨日自京都參着。携文筆者也。仍北條殿慇懃被擧申之。在京之時。試示付所々地頭事之處。始終无誤云々。二品御許容之間。今日召御前。則可賜月俸等之由。被仰下政所。其上雖非指貴人。於京都之輩者。聊可耻思之旨。被仰含昵近之士云々。是元者九條入道大納言光頼侍也。

読下し              うこんしょうげんいえかげ さくじつきょうとよ   さんちゃく  ぶんぴつ かかは もの なり
文治三年(1187)二月小廿八日庚子。右近將監家景。昨日京都自り參着す。文筆に携る者@也。

よっ  ほうじょうどのいんぎん これ  きょ  もうさる    ざいきょうのとき  こころ   しょしょ  ぢとう   こと   しめ  つ    のところ しじゅうあやま  な    うんぬん
仍て北條殿慇懃に之を擧し申被る。在京之時、試みに所々の地頭の事を示し付ける之處、始終誤り无しと云々。

にほん ごきょうようのかん  きょうごぜん  め     すなは  げっぽうら  たま  べ   のよし  まんどころ  おお  くださる
二品御許容之間、今日御前に召し、則ち月俸等を賜う可し之由、政所に仰せ下被る。

 そ  うえさせ  きじん  あらず いへど  きょうとのやから  をい  は  いささ はじおも  べ   のむね  じっこんのし  おお  ふく  らる    うんぬん
其の上指る貴人に非と雖も、京都の輩に於て者、聊か耻思う可し之旨、昵近之士に仰せ含め被ると云々。

これ  もとは くじょうにゅうどうだいなごんみつより さむらいなり
是、元者九條入道大納言光頼の侍也。

参考@文筆に携る者は、逆説的に考えると当時は、漢文の公文書を読み書きできる人が少なかったと思われる。承久記に藤田某が院宣を読める人として登場する。

現代語文治三年(1187)二月小二十八日庚子。左近将監伊沢家景が、昨日京都からやってきました。文筆に長けた人です。それなので、北条時政殿が丁重に推薦をしました。以前、京都に居る間、物は試しとあちこちの地頭を扱う事務をやらせたところ、全て間違いがありませんでしたとさ。頼朝様が許可されたので、今日、御前に呼び出しお会いになられますと、直ぐに幕府に勤める朝夕祗候人として給料を与えるように、政務事務所に言いつけられました。しかも、時に名だたる貴族ではなくても、京都朝廷からの人達には、多少文化の差を恥じて配慮をするように、身近な侍達に言い聞かせましたとさ。この人は、元は九条家の入道大納言葉室光頼に仕えていた侍です。

参考伊沢家景は、後に奥州の幕府領の留守居役になり、名を留守家景と名乗り、東北の大代名になる留守氏の祖。

三月へ

吾妻鏡入門第七巻

inserted by FC2 system