吾妻鏡入門第七巻

文治三年(1187)三月小

文治三年(1187)三月小二日甲辰。越中國吉岡庄地頭成佐不法等相累之間。早可令改替之由。經房卿奉書到來。仍則被献御請文。
 去月十九日御教書。今月二日到來。謹令拝見候畢。越中國吉岡庄地頭成佐事。任御定。早可令改定候。但彼庄未復本之間。御年貢不式數之由を。成佐申之候き。重相尋候而可令改他人候也。以此旨。可令洩達給候。頼朝恐々謹言。
     三月二日

読下し                   えっちゅうのくによしおかのしょう  ぢとうしげすけ  ふほうら あいかさな のかん  はや かいたいせし  べ  のよし
文治三年(1187)三月小二日甲辰。 越中國 吉岡庄@の地頭成佐が不法等相累る之間、早く改替令む可し之由、

つねふさきょう ほうしょとうらい   よっ  すなは おんうけぶみ けん  らる
經房卿の奉書到來す。仍て則ち御請文を献ぜ被る。

  さんぬ つきじうくにち  みぎょうしょ  こんげつふつかとうらい   つつし  はいけんせし そうら をはんぬ
 去る月十九日の御教書。今月二日到來す。謹んで拝見令め候ひ畢。

えっちゅうのくによしおかのしょう ぢとうなりすけ  こと  ごじょう  まか   はやばや  かいていせし  べ そうろう
 越中國 吉岡庄の地頭成佐の事、御定に任せ、早々と改定令む可く候。

ただ  か  しょう  いま  ふくほん      のかん  ごねんぐ しきかずならざ  のよし  しげすけこれ  もう そうらひ
但し彼の庄は未だ復本せざる之間、御年貢式數不る之由、成佐之を申し候き。

かさ    あいたず そうら て ほか  ひと  あらた せし  べ そうろうなり  こ   むね  もつ   も   たっ  せし  たま  べ そうろう よりともきょうこうきんげん
重ねて相尋ね候ひ而他の人に改め令む可く候也。此の旨を以て、洩れ達さ令め給ふ可く候。頼朝恐々謹言。

          さんがつふつか
     三月二日

参考@吉岡庄は、富山県富山市吉岡かもしれない。と思いましたが、
孫八さんからのご指摘によると元「藤原摂関家長者藤原頼長」の庄園が【保元の乱】で敗れて没収され【後白河上皇の庄園(後院領)】となった【越中吉岡庄】の事で、場所は
富山県高岡市福岡町赤丸周辺の庄園で、聖武天皇の弟の石川朝臣広成(続日本紀)が創建された「赤丸浅井神社」を郷社とした庄園で、南北朝時代の後醍醐天皇迄、皇室庄園として続き、その後、足利義満が相国寺へ寄進した庄園。(ブログ 「赤丸米のふるさとから」 参照)赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!! (goo.ne.jp)

現代語文治三年(1187)三月小二日甲辰。越中国(富山県)吉岡庄の現地取立人の地頭の成佐が、年貢の横取りなど不法な行為が度重なったので、早く罷免して入れ替えて欲しいと、吉田経房から後白河法皇に仰せつかった事を書いた奉書(院宣)が届きました。そこで、直ぐにご返事を出されました。

 先月十九日のお手紙が、今月の二日に届きました。謹んで拝見いたしました。越中国吉岡庄の地頭の成佐につきましては、ご指示に従い、早々に入れ替える事にしましょう。但し、あの荘園は、未だに以前のようには田畑が回復していないので、例年通りに年貢が集らず納められないのだと、成佐が申しております。もう一度詳しく訪ねますが、地頭は他の人に変える事にしましょう。この内容で法皇にお伝え下さるように。頼朝からよろしく。
     三月二日

文治三年(1187)三月小三日乙巳。美濃國守護人相摸守惟義申當國路驛可加新宿所々事。有其沙汰。早可依請之由。今日所被仰遣也。俊兼爲奉行。

読下し                   みののくに しゅごにん さがみのかみこれよし もう  とうごく   ろえき   しんしゅく くは    べ     しょしょ  こと  そ   さた あ
文治三年(1187)
三月小三日乙巳。美濃國守護人 相摸守惟義 申す當國の路驛に新宿を加へる可きの所々の事、其の沙汰有り。

はや こい  よるべ   のよし  きょう おお つか  さる ところなり  としかねぶぎょう  な
早く請に依可し之由。今日仰せ遣は被る所也。俊兼奉行を爲す。

参考駅(うまや)は、街道に一定の区間ごとに、伝令などの早馬に使う馬を置いておいておく公共機関。

現代語文治三年(1187)三月小三日乙巳。美濃国(岐阜県南部)の守護の大内相模守惟義が、申請している美濃の国の路の駅間に新しく宿を置きたいと云ってる所々について、その裁決がありました。早く申請どおりにしてあげるように、今日命令を出されました。筑後権守俊兼が担当です。

文治三年(1187)三月小四日丙午。東大寺造營之間。爲引材木。被仰人夫事之處。周防國地頭等及對捍云々。二品令驚申給。可致精勤之由。今日被仰遣彼地頭等中云々。

読下し                    とうだいじぞうえいのかん  ざいもく  ひ    ため  にんぷ   こと  おお  らる  のところ  すおうのくにぢとうら たいかん  およ  うんぬん
文治三年(1187)三月小四日丙午。東大寺造營之間、材木を引かん爲、人夫の事を仰せ被る之處、周防國地頭等對捍に及ぶと云々。

にほんおどろ もう  せし  たま    せいきんいた べ    のよし  きょう か    ぢとうら   なか  おお  つか  さる    うんぬん
二品驚き申さ令め給ふ。精勤致す可し之由。今日彼の地頭等の中へ仰せ遣は被ると云々。

現代語文治三年(1187)三月小四日丙午。東大寺の再建工事用に材木を引いてくるための人夫について聞いてみたら、周防国(山口県東部)の地頭達が命令に従わず怠けているんだとさ。頼朝様はそれを知って驚いて仰せになられました。ちゃんと命令どおりに勤めるように、今日、その地頭たちに命令書を出させられましたとさ。

文治三年(1187)三月小五日丁未。豫州〔義顯〕在陸奥國事。爲秀衡入道結搆之由。諸人申状苻合之間。嚴密可被召尋之旨。先度被申京都訖。仍及御沙汰之由。右武衛〔能保〕被申云云々。

読下し                    よしゅう 〔よしあき〕 むつのくに  あ   こと  ひでひらにゅうどうけっこう  な  のよし  しょにん  もう  じょうふごう    のかん
文治三年(1187)三月小五日丁未。豫州〔義顯〕陸奥國に在る事。秀衡入道結搆を爲す之由、諸人の申す状苻合する之間、

げんみつ  め  たず  らる  べ  のむね  せんど きょうと  もうされをはんぬ よつ  ごさた   およ   のよし  うぶえい 〔よしやす〕 もう  いはれ   うんぬん
嚴密に召し尋ね被る可し之旨、先度京都へ申被訖。仍て御沙汰に及ぶ之由、右武衛〔能保〕申し云被ると云々。

現代語文治三年(1187)三月小五日丁未。予州〔義顕(義経)〕が陸奥の国平泉に居る事を、藤原秀衡入道の企みだと、あちこちから入ってくる情報が一致しているので、厳しく問い合わせるように、以前京都朝廷へ申し入れました。そこで、検討をして実施していると、右武衛〔一条能保〕が云って来ましたとさ。

文治三年(1187)三月小八日庚戌。南都周防得業聖弘依召參向。爲豫州師檀之故也。日者小山七郎朝光預置之。今日。二品有御對面。直及御問答。仰曰。豫州者欲濫邦國之凶臣也。而逐電之後。搜求諸國山澤。可誅戮之旨。度々被 宣下畢。然者。天下尊卑皆背彼之處。貴房獨致祈祷。剩有同意結搆之聞。其企如何者。聖弘答申云。豫州爲君御使。征平家刻。合戰属無爲之樣。可廻祈請之旨。慇懃契約之間。年來抽丹誠。非報國之志乎。爰豫州稱蒙關東譴責。逐電之時。以謂師檀之好。來南都之間。相搆先遁一旦害。退可被謝申于二品之由。加諷詞。相副下法師等。送伊賀國畢。其後全不通音信。謂祈請不祈謀叛。謂諷詞和逆心畢。彼此何被處与同哉。凡倩案關東安全。只在豫州武功歟。而聞食讒訴。忽忘奉公。被召返恩賞地之時。發逆心之條。人間所堪。可然事歟。速翻日來御氣色。就和平之儀。被召還豫州。兄弟令成魚水思給者。可爲治國之謀也。申状更非引級之篇。所求天下靜謐之術也者。二品依感得業直心給。早爲勝長壽院供僧職。可抽關東御繁榮御祈祷之由被仰含云々。

読下し                    なんとすおうとくごうしょうこう めし  よっ  さんこう    よしゅう  しだんたるのゆえなり
文治三年(1187)三月小八日庚戌。南都周防得業聖弘、召に依て參向す。豫州が師檀爲之故也。

ひごろ おやまのしちろうともみつこれ あずか お    きょう  にほん ごたいめんあ     じき  ごもんどう  およ    おお    い
日者小山七郎朝光之を預り置く。今日、二品御對面有り。直に御問答に及ぶ。仰せて曰はく。

よしゅうは ほうこく  みだ      ほっ    のきょうしんなり  しか    ちくてんののち  しょこく  さんたく  さが  もと    ちうりくすべ  のむね  たびたびせんじくださ をはんぬ
豫州者邦國を濫さんと欲する之凶臣也。而して逐電之後、諸國の山澤を搜し求め、誅戮可き之旨、度々宣下被れ畢。

しからば  てんか  そんぴ みな か  そむ のところ  きぼう ひと  きとう  いた    あまつさ どういけっこうの きこ  あ     そ くはだて いかんてへ
然者、天下の尊卑皆彼に背く之處、貴房獨り祈祷を致す。剩へ同意結搆之聞へ有り。其の企は如何者れば。

しょうこうこた  もう    い       よしゅう きみ  おんつかい な    へいけ  せい     とき   かっせん むい  ぞく     のさま
聖弘答へ申して云はく。豫州は君の御使と爲し、平家を征するの刻、合戰無爲に属する之樣、

きしょう  めぐ    べ   のむね  いんぎん  けいやくのかん  ねんらいたんせい ぬき    ほうこくのこころざし あらずや
祈請を廻らす可し之旨、慇懃の契約之間、年來丹誠を抽んず。報國之志に非乎。

ここ  よしゅうかんとう  けんせき  こうむ   しょう    ちくてんのとき  いは    しだんのよしみ  もっ     なんと   きた  のかん
爰に豫州關東の譴責を蒙ると稱し、逐電之時、謂ゆる師檀之好を以て、南都へ來る之間、

あいかま  ま   いったん  がい  のが  さ     にほんに しゃ  もうさる  べ    のよし  ふうし   くは
相搆へ先ず一旦の害を遁れ退り、二品于謝し申被る可し之由、諷詞を加へ、

げほうしら   あいそ    いがのくに  おく をはんぬ  そ ご まった おんしん つうぜず
下法師等を相副へ、伊賀國へ送り畢。其の後全く音信を不通。

いは    きしょう  むほん  いのらず  いは  ふうしぎゃくしん やわら をはんぬ かれころなに  よどう  しょさる  や
謂ゆる祈請は謀叛を祈不。謂ゆる諷詞逆心を和ぎ畢。 彼此何が与同に處被る哉。

およ つらつら かんとう あんぜん あん        ただよしゅう  ぶこう  あ   か
凡そ倩ら關東の安全を案ずれば、只豫州の武功に在る歟。

しかる   ざんそ   きこ  め     たちま ほうこう  わす   おんしょう ち   め   かえさる  のとき  ぎゃくしん はっ    のじょう
而るに讒訴を聞し食し、忽ち奉公を忘れ、恩賞の地を召し返被る之時、逆心を發する之條、

にんげん たえ ところ   しか  べ  ことか
人間の堪る所は、然る可き事歟。

そうそう   ひごろ  みけしき  ひるがえ   わへいのぎ   つ    よしゅう  めしかえされ
速々に日來の御氣色を翻し、和平之儀に就き、豫州を召還被、

きょうだいぎょすい おも   な   せし  たま  ば   ちこくのはか     な   べ  なり
兄弟魚水の思いを成さ令め給は者、治國之謀りと爲す可き也。

もうしじょうさら いんきゅうのへん あらず  てんかせいひつのすべ  もと    ところなりてへ
申状更に引級之篇に非。天下靜謐之術を求める所也者り。

にほん とくごう  じきしん  かん  たま    よっ    はやばや しょうちょうじゅいん ぐそうしき な
二品得業の直心を感じ給ふに依て、早々と勝長壽院供僧職と爲し、

かんとうごはんえい  ごきとう    ぬき    べ   のよし  おお  ふく  らる    うんぬん
關東御繁榮の御祈祷を抽んず可し之由、仰せ含め被ると云々。

現代語文治三年(1187)三月小八日庚戌。南都奈良興福寺の周防得業聖弘が、頼朝様の呼出し命令に従って鎌倉へやってまいりました。この人は、義経の仏教の師匠と檀家の関係だからです。来てからは小山七郎朝光が預かっておりました。今日、頼朝様がお会いになられました。頼朝様は人を介さず直接お話になられました。
頼朝様はおっしゃられました。

「義経は国を乱れさせる反乱分子である。しかし、雲隠れしてから諸国の山河に行方を捜し、処刑するように京都朝廷から、何度か命令が出されてきた。それなので、天下の高貴な者から卑しい者まで皆、義経に反発しているのに、貴僧一人が義経のために祈るのでしょうか。しかも、義経の味方をして、何か悪巧みを企んでいるとの噂がありますよ。その腹積もりは如何なものでしょうか。」と申されると、聖弘は答えました。

「義経は貴方の代官として、平家を征伐のときに、合戦が無事に終わりますようにと、祈りを傾けてくださいと、丁寧に約束をしたので、それ以来ずうっと心を込めて祈っていたのです。これが国を思う志では無いとおっしゃられるのですか。そして、義経は関東から嫌われ追われてしまったと逃げ隠れた時に、師匠と檀家の関係を慕って奈良へ来た時に、良く考えて、一時の危険から逃げた上で、頼朝様に謝って行く様に諌めて、下役の坊主に案内させて、伊賀の国へ送って行かせました。その後は音信普通で何の連絡もありません。ようするにお祈りは謀反を祈ってはありません。むしろ私の諌めが謀反の心を宥めましたよ。それなのに何故、私が謀反に加担している事になるのですか。しかし、良く考えてみると関東が無事に勝てたのも、ひたすら義経の戦の手柄によるんではないでしょうかね。それなのに、誰かの告げ口を本気にして、今までの手柄を簡単に忘れて、その手柄の褒美として与えた領地を取上げてしまったら、逆らおうとするのは、耐え切れなかったらじゃないでしょうかね。早く、そのお怒りを捨てて、仲直りするように義経を呼び戻して、兄弟仲良くしようとお思いになられるのが、国を治める一番の方法じゃないんですか。今まで云った事は義経の味方をしているのではなく、世間を静かに治めるためなのです。」と云いました。

頼朝様は、得業の真っ直ぐな気持に感動なされて、「それじゃ早速、勝長寿院の坊さんになって、関東の平和安泰を祈ってもらおう。」と、言い聞かせましたとさ。

参考得業の理路整然とした回答に、感動をしたふりをして勝長寿院に押し込めてしまった頼朝は、くえないやつだねぇー。

文治三年(1187)三月小十日壬子。土佐國住人夜須七郎行宗。与梶原平三景時遂對問。二品直令決斷之給。行宗檀浦合戰之時。生虜平氏家人周防國住人岩國二郎兼秀。同三郎兼末等。召進畢。募其功。可被行賞之由。日來言上之處。景時支申云。彼合戰之比。全無稱夜須之者。件兼秀等者。自然時降之輩也。經年序後。行宗廻奸曲。申子細之由訴申之。而行宗。彼時者。与春日部兵衛尉。令乘同船之由。令陳謝之間。召出春日部。被尋問之處。申勿論之旨。已爲分明證人。仍可被加賞之趣。被仰含行宗也。景時依讒訴之科。可作鎌倉中道路云々。俊兼奉行之。

読下し                    とさのくにじうにんやすのしちろうゆきむね かじわらのへいざかげときとたいとい と      にほん じき  これ  けつだんせし  たま
文治三年(1187)三月小十日壬子。土佐國住人夜須七郎行宗@、梶原平三景時与對問を遂げる。二品直に之を決斷令め給ふ。

ゆきむね だんのうらかっせんのとき へいしけにん すおうのくにじうにん いわくにのじろうかねひで  おな  さぶろうかねすえら  いけど    め   しん をはんぬ
行宗、檀浦合戰之時、平氏家人 周防國住人 岩國二郎兼秀A、同じき三郎兼末等を生虜り、召し進じ畢。

そ   こう  つの   ぎょうしょうさる べ   のよし  ひごろごんじょうのところ  かげときささ  もう    い       か   かっせんのころ  まった  やす  しょう  のものな
其の功に募り、行賞被る可き之由、日來言上之處、景時支へB申して云はく。彼の合戰之比、全く夜須と稱す之者無し。

くだん かねひでら は  じねん  とき  ふ  のやからなり  ねんじょ  へ    のち ゆきむねかんきょく めぐ      しさい   もう   のよし これ うった  もう
件の兼秀等者、自然の時に降る之輩也。年序を經るの後、行宗奸曲を廻らし、子細を申す之由之を訴へ申す。

しか   ゆきむね  か   ときは  かすかべのひょうえのじょうと おな ふね  の   せし  のよし  ちんしゃせし  のかん  かすかべ  め  い
而るに行宗、彼の時者、春日部兵衛尉与、同じ船に乘ら令む之由、陳謝令む之間、春日部を召し出だし、

じんもんさる  のところ  もちろんのむね  もう    すで  ぶんめい しょうにん な     よっ  しょう くは  らる  べ   のもむき  ゆきむね  おお  ふく  らる  なり
尋問被る之處、勿論之旨を申す。已に分明の證人と爲す。仍て賞を加へ被る可し之趣、行宗に仰せ含め被る也。

かげときざんその とが  よっ    かまくらちゅう  どうろ  つく  べ     うんぬん  としかねこれ ぶぎょう
景時讒訴之科に依て、鎌倉中の道路を作る可しと云々。俊兼之を奉行す。

参考@夜須七郎行宗は、夜湏とも書き、夜須郷で現在の高知県香南市夜須町、行宗の娘が希義の嫁である。二巻寿永元年九月二十五日条で出演。
参考A岩國二郎兼秀は、山口県岩国市岩国と思われる。日本三大奇矯の錦帯橋がある。
参考B支えは、支え口の場合に「かげぐち」「ささえごと」と云い、「中傷すること言葉」を表す。

現代語文治三年(1187)三月小十日壬子。土佐の国(高知県)の地侍の夜須七郎行宗は、梶原平三景時と押し問答をしました。頼朝様が直接これに裁断を決します。行宗は、壇ノ浦の合戦の時、平家の侍で周防の国(山口県東部)の地侍岩国二郎兼秀と弟の岩国三郎兼末を捕虜にして連れてきました。その手柄を表彰されるように、上申して来ましたが、梶原平三景時がさえぎって云いました。

「あの戦の時に、夜須なんて名前を名乗るものは居なかった。例の岩国兼秀達は、平氏が負けたので、仕方なく降伏してきた連中だ。それを時間がたって分からなくなってしまったのを良い事に、夜須行宗はずるがしこく考えて、今申し出ているのだ。」と訴えました。

しかし、夜須行宗は、「あの戦の時は春日部兵衛尉と同じ船に乗っていました。」と弁解をするので、春日部を呼び出して、問いただしたところ、「勿論一緒だった。」と答えました。完全にはっきりとした証人になりました。そこで恩賞を与えることにすると、夜須七郎行宗に言い聞かせました。

梶原平三景時は、いい加減な訴えをした罰として鎌倉中の道路を整備の道普請をするように命じられました。筑後権守俊兼が検査担当をすることになりました。

文治三年(1187)三月小十五日丁巳。江判官公朝進使者申云。可有兩社行幸。橋渡行事所奉之也。殊欲餝行粧。仍可爲莫大經營。偏仰御成助也云々。

読下し                      えのほうがんきんとも  ししゃ  すす  もう    い      りょうしゃ ぎょうこうあ  べ     はしわたし ぎょうじこれ うけたまは ところなり
文治三年(1187)三月小十五日丁巳。江判官公朝@使者を進め申して云はく。兩社の行幸有る可し。橋渡の行事之を奉る所也。

こと ぎょうしょう かざ      ほっ    よっ  ばくだい  けいえい  な   べ     ひとへ ごじょせい  あお  なり  うんぬん
殊に行粧を餝らんと欲す。仍て莫大の經營と爲る可し。偏に御成助を仰ぐ也と云々。

参考@江判官公朝は、検非違使大江公朝で、以前勅旨として義朝のしゃれこうべを持ってきた。その後も何度か勅旨をしている後白河法皇の側近。

現代語文治三年(1187)三月小十五日丁巳。検非違使大江公朝が使者をよこして、「後白河法皇が賀茂社と岩清水社へお参りに行かれるので、橋渡り行事(出発式)を担当負担する役を受けさせられました。特に行列を美々しく飾り立てたいと思っております。そこで莫大な費用がかかるのでしょうから、ご助成をお願いしたい」とのことなんだとさ。

研究:橋渡行事は、よくわかりませんので、殊に行粧を餝らんと欲す」から推測して出発式のようなものと考えました。多分橋を修繕するとかではないと思うのですが?

文治三年(1187)三月小十八日庚申。右武衛使者到來。是山徒民部卿禪師同意義顯之間。召出可被罪科之由。二品令申給之間。雖被仰座主僧正〔全玄。〕逐電云々。仍重就憤申。爲權右中弁定長朝臣奉。下知山門事也。則被副献座主請文云々。
 民部卿禪師猶可尋進之由。謹以承候畢。但件禪師事。子細去年申候畢。以此仰。重可下知候。恐々謹言。
      三月八日                        僧正全玄
  追啓
 件惡徒等事。随承及。可致其沙汰之由。山門令存知候歟。更无懈怠候。其間子細。澄雲法印申上候。謹言。

読下し                       うぶえい   ししゃ とうらい    これ  さんとみんぶのきょうぜんじ よしあき  どうい    のかん   め  いだ
文治三年(1187)三月小十八日庚申。右武衛が使者到來す。是、山徒民部卿禪師、義顯に同意する之間、召し出し

ざいか   さる  べ   のよし  にほんもうせし  たま   のかん  ざす そうじょう 〔ぜんげん〕   おお  らる    いへど  ちくてん   うんぬん
罪科に被る可し之由、二品申令め給ふ之間、座主僧正〔全玄〕に仰せ被ると雖も逐電すと云々。

よっ  かさ    いか  もう    つ     ごんのうちうべんさだながあそん し  ほう    さんもん   げち     ことなり
仍て重ねて憤り申すに就き、權右中弁定長朝臣を爲て奉じ、山門に下知する事也。

すなは  ざす  うけぶみ  そ  けん  らる    うんぬん
則ち座主の請文を副へ献ぜ被ると云々。

  みんぶのきょうぜんじ なおたず しん べ   のよし  つつし もっ うけたまは そうら をはんぬ
 民部卿禪師、猶尋ね進ず可し之由、謹み以て 承り候ひ畢。

  ただ  くだん ぜんじ  こと  しさい  きょねんもう そうら をはんぬ かく おお    もっ   かさ    げち すべ そうろう きょうきょうきんげん
 但し件の禪師の事、子細は去年申し候ひ畢。此の仰せを以て、重ねて下知可し候。恐々謹言。

              さんがつようか                                                 そうじょうぜんげん
      三月八日                        僧正全玄

    ついけい
  追啓

  くだん  あくとら  こと  うけたまは およ   したが    そ   さた   いた  べ   のよし  さんもんぞんちせし そうろうか さら  けたい な そうろう
 件の惡徒等の事、承り及びに随い、其の沙汰を致す可し之由、山門存知令め候歟。更に懈怠无く候。

   そ  かん  しさい  ちょううんほういんもう  あ そうろう  きんげん
 其の間の子細、澄雲法印申し上げ候。謹言。

現代語文治三年(1187)三月小十八日庚申。右武衛一条能保様の使いがやってきました。その用は、比叡山延暦寺の僧兵の民部卿禅師は、義経と仲間になっているので、とっ捕まえて罰するように、頼朝様がおっしゃっているので、延暦寺長官の僧正〔全玄〕に命じられましたけど逃げてしまいましたとさ。それなので益々お怒りになってると京都朝廷へ申し入れたので、権右中弁定長様が後白河法皇の命を受けて院宣を奉じ、比叡山延暦寺に命令を出したことなのです。直ぐに比叡山長官が返書を添えて届けられましたとさ。

 民部卿禅師を、更に捜索して身柄を差し出すようにとの仰せを謹んでお受けいたしました。但し、その民部卿禅師についての詳しい事柄は去年申し上げておりますが、又、この言いつけを戴いたので、再度命令を出します。宜しくお願いします。
    三月八日               僧正全玄
 追加
 例の悪い僧兵達の事は、関東から承ったとおりに、その処置をするように、比叡山も承知いたしました。けっしておろそかにはしておりませんでした。その事の詳しい事は、この手紙を持った使いの澄雲法印がお話いたします。宜しく。

文治三年(1187)三月小十九日辛酉。依被重上宮太子聖跡。法隆寺領地頭金子十郎妨事。可停止之趣。去年下知給之處。猶不靜謐之由。寺家帶 院宣。就訴申。遣雜色里久。可止鵤庄押領之由及沙汰。件庄事。太子殊依執思食。有被載趣。二品專所聞食驚也。
 下 播磨國鵤庄住人
  可令停止金子十郎妨一向從領家所勘事
 右件庄。可被停止金子十郎妨之由。去年依 院宣令下知畢。而金子十郎入置代官。令押領之由。重所被仰也。甚以不當之所行也。自今以後。早可令停止其妨。若猶不用者。爲召誡其沙汰人。所下遣使者里久也。早可令停廢彼妨之状如件。
   文治三年三月十九日

読下し                      じょうぐうたいし せいせき   おも    らる    よっ    ほうりゅうじりょう  ぢとうかねこのじうろう  さまた   こと
文治三年(1187)三月小十九日辛酉。上宮太子@聖跡Aを重んじ被るに依て、法隆寺領の地頭金子十郎Bが妨げの事、

ちょうじすべ のおもむき きょねん げち  たま  のところ なおせいひつせずのよし  じけ いんぜん  お    うった もう     つ    ぞうしきさとひさ  つかは
停止可し之趣、去年下知し給ふ之處、猶靜謐不之由、寺家院宣を帶び、訴へ申すに就き、雜色里久を遣す。

いかるがのしょう おうりょう や     べ   のよし さた   およ    くだん しょう こと  たいしこと  と   おぼ   め    よっ     の  らる おもむきあ
 鵤庄Cの 押領を止める可し之由沙汰に及ぶ。件の庄の事、太子殊にD執り思し食すEに依て、載せ被るF趣有り。

にほんもっぱ  き    め   おどろ ところなり
二品專ら聞こし食し驚く所也。

参考@上宮太子は、聖徳太子。
参考A聖跡は、神聖な伝説の地。
参考B金子十郎は、金子十郎家忠。家範の子。この子孫が武田流流鏑馬術の金子家だそうな。
参考C鵤庄は、播磨国揖保郡。兵庫県揖保郡太子町全域。
参考D
殊には、特に。
参考E執り思し食すは、大事にしていた。
参考F載せ被るは、院宣に。

   くだ    はりまのくに いかるがのしょう じうにん
 下す 播磨國 鵤庄 住人

    かねこのじうろう  さまた   いっこう  りょうけ  しょかん  したが ちょうじせし  べ   こと
  金子十郎が妨げを一向に領家の所勘に從い停止令む可き事

   みぎ  くだん しょう  かねこのじうろう  さまた   ちょうじさる  べ    のよし  きょねんいんぜん よっ   げち せし をはんぬ
 右の件の庄は、金子十郎の妨げを停止被る可き之由、去年院宣に依て下知令め畢。

   しか   かねこのじうろうだいかん い   お     おうりょうせし  のよし  かさ   おお  らる ところなり  はなは もっ  ふとうのしょぎょうなり
 而るに金子十郎代官を入れ置き、押領令む之由、重ねて仰せ被る所也。甚だ以て不當之所行也。

   いまよ   いご     はやばや そ  さまた    ちょうじせし  べ     も  なおもち たらずんば  そ   さたにん  め  いさめ ため
 今自り以後は、早々と其の妨げを停止令む可し。若し猶用い不者、其の沙汰人を召し誡ん爲、

  ししゃさとひさ  くだ  つか    ところなり  はやばや  か  さまた   ていはいせし  べ  のじょう  くだん ごと
 使者里久を下し遣はす所也。早々と彼の妨げを停廢令む可し之状、件の如し。

         ぶんじさんねんさんがつじうくにち
   文治三年三月十九日

現代語文治三年(1187)三月小十九日辛酉。聖徳太子の神聖な伝説の地なので大事に崇めているので、法隆寺の領地の地頭金子十郎家忠を止めるように命令したのですが、未だに静かに落ち着かないと、寺の運営者が後白河法皇の手紙院宣を持って、訴えてきたので、雑用の里久を現地へ派遣しました。斑鳩庄の年貢の横取りを止めるように命令を出されました。その庄は、聖徳太子が特に大事にしていらした遺跡であると院宣に書いてあるので、頼朝様はそれを聞いてとても驚かれたからです。

 命令する 播磨国 斑鳩庄に住む者たちへ
 金子十郎家忠の命令を聞かず、領家の言うことに従って地頭を止めさせる事
 右のその荘園は、金子十郎家忠の地頭を止めさせるように、去年後白河法皇から院宣を戴き、命令しております。それなのに金子十郎家忠は代官を派遣して、年貢を横取りさせているので、もう一度命令するのです。とんでもない行動です。これより後は、さっさと領家の邪魔を止めるように。若し、それでも云う事を聞かなければ、その現地管理人をひっとらえて罰するために、鎌倉幕府の使いの里久を派遣したところです。さっさと地頭代官の年貢の横取りを止めるように命令するのは、この書状の通りです。
  文治三年三月十九日

文治三年(1187)三月小廿一日癸亥。佐竹藏人年來雖列二品門客。心操聊不調。度々現奇怪之間。今朝蒙御氣色。爲比企藤内朝宗沙汰。被遣駿河國。所被召預岡邊權守泰綱也。

読下し                      さたけのくらんど ねんらいにほん もんきゃく れっ   いへど   しんそういささ ふちょう
文治三年(1187)三月小廿一日癸亥。佐竹藏人@年來二品の門客に列すと雖も、心操聊か不調。

たびたびきっかい あらは のかん  けさ みけしき  こうむ
度々奇怪を現す之間、今朝御氣色を蒙る。

ひきのとうないともむね   さた   な    するがのくに つか  さる  おかべのごんのかみやすつな めしあず らる ところなり
比企藤内朝宗が沙汰と爲し、駿河國へ遣は被る、岡邊權守泰綱Aに召預け被るB所也。

参考@佐竹藏人は、義季で、一巻治承四年十一月五日、七日条で出演以来。佐竹秀義の父隆義の弟。後に建久元年十一月七日式典に供奉など佐竹別当で復活する。
参考A
岡邊權守泰綱は、駿河国志太郡。静岡県志太郡岡部町岡部。
参考B
召預け被るは、預かり囚人(あずかりめしうど)。

現代語文治三年(1187)三月小二十一日癸亥。佐竹蔵人義季は、治承四年以来の頼朝様の源氏一門として待遇されてきましたが、精神が多少不安定で、何度かおかしな行動をするので、今朝、お叱りを受けました。比企藤内朝宗が担当して駿河の国へ蟄居させることにしました。岡辺権守泰綱に預かり囚人(あずかりめしうど)として預けることにしました。

文治三年(1187)三月小廿五日丁夘。龍蹄砂金桑絲等。被付公朝廻李云々。

読下し                      りゅうてい  さきん   さんしら   きんとも  かいり   つけらる   うんぬん
文治三年(1187)三月小廿五日丁夘。龍蹄、砂金、桑絲等、公朝の廻李に付被ると云々。

現代語文治三年(1187)三月小二十五日丁卯。立派な馬や砂金、絹織物などを検非違使大江公朝への返事に添えて送ってやりましたとさ。

参考三月十五日の検非違使大江公朝がよこした「後白河法皇が賀茂社と岩清水社へお参りの橋渡り行事費用の催促」への贈呈。

四月へ

吾妻鏡入門第七巻

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