吾妻鏡入門第七巻

文治三年(1187)六月小

文治三年(1187)六月小三日癸酉。去々年平氏討滅之時。於長門國海上寳劔紛失。雖被搜求。于今不出來。猶被凝御祈祷。仰嚴嶋神主安藝介景弘。以海人依可被索之。所申粮米也。早可召仰西海地頭等之旨被 宣下。仍今日有沙汰。可被宛催之由云々。

読下し                    おととし へいしとうめつのとき  ながとのくにかいじょう をい ほうけん  ふんしつ    さが  もと  らる   いへど   いまにいできたらず
文治三年(1187)六月小三日癸酉。去々年平氏討滅之時、長門國海上に於て寳劔を紛失し、搜し求め被ると雖も、今于出來不。

なおごきとう    こらされ  いつくしまかんぬし あきのすけかげひろ  おお       あま   もっ  これ  もと  らる  べ     よっ    りょうまい  もう ところなり
猶御祈祷を凝被、 嚴嶋神主 安藝介景弘に 仰せて、海人を以て之を索め被る可きに依て、粮米を申す所也。

はや  さいかい  ぢとうら   め   おお  べ   のむねせんげさる    よっ  きょう  さた あ     あ   もよおさる べ   のよし  うんぬん
早く西海の地頭等に召し仰す可き之旨宣下被る。仍て今日沙汰有り。宛て催被る可き之由と云々。

現代語文治三年(1187)六月小三日癸酉。一昨年、平家を全滅させた、長門国(壇ノ浦)海上で三種の神祇の刀をなくして、捜し求めましたが、未だに出てまいりません。一層、ご祈祷をするために、厳島神社の神主安芸介景弘に命令して、海の民を使って、探させるために、賃金としての米を、早く九州の地頭達に出せるように命じてくれと、後白河法皇から手紙が来ました、そこで今日、決定したので、割り当てるようにとのことだとさ。

文治三年(1187)六月小八日戊寅。以女房上野局。今日被定補染殿別當云々。

読下し                    にょぼう こうづけのつぼね もっ    きょう そめどのべっとう  じょうぶさる    うんぬん
文治三年(1187)六月小八日戊寅。女房 上野局を 以て、今日染殿@別當に定補被ると云々。

参考@染殿は、国衙細工所内に染物細工があった。十五巻建久六年七月二十八日条でも、安房上野局が染殿別当で出演。貞応二年にも安堵。なお、これは上野局が武蔵国衙へ行って管理するのではなく、別当職の年貢取り分の権利だと思われる。

現代語文治三年(1187)六月小八日戊寅。幕府の女官の上野局を、今日付けで、武蔵国衙細工所内の染物細工の長官に任命されましたとさ。

文治三年(1187)六月小十三日癸未。故左典厩御乳母參上。則召御前。談往事。令落涙給。是平治窂籠之後。自京都下向相摸國早河庄。而為庄内田地七町作人。令世渡之由言上。仍永可領掌彼地之旨。被仰下云々。

読下し                     こさてんきゅう おんめのと さんじょう    すなは  ごぜん  め     おうじ   だん    らくるいせし  たま
文治三年(1187)六月小十三日癸未。故左典厩の御乳母參上す。則ち御前に召し、往事を談じ、落涙令め給ふ。

これ  へいじ ろうろうrののち  きょうとよ   さがみのくに はやかわのしょう げこう    しか   しょうないでんち しちちょう さくにん  な     よわたりせし のよしごんじょう
是、平治窂籠之後、京都自り 相摸國 早河庄 へ下向す。而して庄内田地七町 作人@と為し、世渡令む之由言上す。

よっ  なが  か   ち  りょうしょうすべ のむね  おお  くださる   うんぬん

仍て永く彼の地を領掌可し之旨、仰せ下被ると云々。

参考@作人は、農業経営者。耕作者ではなく作人職の年貢権利。二巻治承五年閏二月七日、頼朝の乳付けとして摩々局登場。養和元年十一廿日早川の年貢を免除している。

現代語文治三年(1187)六月小十三日癸未。故左典厩(義朝)の乳母(めのと)がやってまいりました。直ぐに目の前へ呼ばれて、昔話に講じて、涙を浮かべておられます。この人は、平治合戦で落ちぶれて、京都から相模国早川庄へ下ってきました。そして早川庄の内の田七町(7ha)の農業権利者として、生活してきましたと申し上げました。それを聞いて、この先ずうーっとその土地を我が物として使って行きなさいと、保証して下さいましたとさ。

文治三年(1187)六月小十八日戊子。於六條若宮可始行放生會之由。有其沙汰。且可被窺 叡慮云々。

読下し                     ろくじょうわかみや をい  ほうじょうえ  しぎょうすべ  のよし  そ    さた あ     かつう えいりょ  うかが らる  べ     うんぬん
文治三年(1187)六月小十八日戊子。六條若宮@に於て放生會Aを始行可し之由、其の沙汰有り。且は叡慮を窺は被る可しと云々。

参考@六条若宮は、六条通と堀川通りの交差点の東北側に550m四方であった。(六条堀川若宮八幡宮)
参考A放生會は、供養のため、捕らえられた生き物を放してやる儀式。Goo電子辞書から。本来は、陰暦8月15日だが、現在では鎌倉八幡宮で神幸祭の名で9月15日の神事に変えてしまった。

現代語文治三年(1187)六月小十八日戊子。京都の六条若宮でも、生き物を解き放つ儀式の放生会を始めるように、決められました。実施に際しては、京都朝廷の意向も聞いておくようにとの事だとさ。

文治三年(1187)六月小廿日庚寅。伊勢國没官領事。加藤太光員随令注進之。被補地頭之處。彼輩於太神宮御領致濫行之由。自所々有其訴之間。宜令停止之由。今日被定下。其状云。
 下 伊勢國御神領内地頭等
  早可停止无道狼藉。從内外宮神主等下知致沙汰事
 右件於謀叛輩之所領者。任先蹤。令補地頭職許之處。各致自由之濫行。或押領所々。或煩神人之由。依有其聞。可先神役之由。度々令下知畢。仍神宮官等。擬致沙汰之處。任光員注文補地頭之輩。尚所々押領。致神領煩之由有其訴。所行之旨甚以不當也。自今以後。從神官之下知可令致神忠。縦雖地頭。何煩神人怠神役乎。宜停止件狼藉。若猶令違背者。慥注交名。可言上之状如件。以下。
   文治三年六月廿日

読下し                    いせのくにもっかんりょう こと  かとうたみつかず これ  ちうしんせし   したが   ぢとう   ぶさる   のところ
文治三年(1187)六月小廿日庚寅。伊勢國没官領の事、加藤太光員之を注進令むに随い、地頭を補被る之處、

か   やから  だいじんぐうごりょう  をい  らんぎょういた のよし  しょしょよ   そ   うった あ    のかん  よろ    ちょうじせし    のよし  きょう さだ  くださる
彼の輩、太神宮御領に於て濫行致す之由、所々自り其の訴へ有る之間、宜しく停止令める之由、今日定め下被る。

そ   じょう   い
其の状に云はく。

   くだ    いせのくにごしんりょうないぢとうら
 下す 伊勢國御神領内地頭等

     はやばや むどう  ろうぜき  ちょうじすべ    ない げくう  かんぬしら  げち   したが  さた いた  こと
  早〃と无道の狼藉を停止可し、内外宮の神主等の下知に從い沙汰致す事

  みぎ  くだん むほん やからのしょりょう  をい  は  せんじゅう まか    ぢとうしき ばか    ぶせし   のところ おのおの じゆうのらんぎょう いた
 右、件の謀叛の輩之所領に於て者、先蹤に任せ、地頭職許りに補令む之處、各、自由之濫行を致し、

  ある    しょしょ  おうりょう    ある   じんにん   わずらは のよし  そ   きこ   あ     よっ    しんえき  さき    べ   のよし  たびたび げち せし をはんぬ
 或ひは所々を押領し、或ひは神人@を煩す之由、其の聞へ有るに依て、神役を先んず可し之由、度々下知令め畢。

  よっ  じんぐうかんら    さた   いた       こ    のところ  みつかず  ちうもん  まか  ぢとう    ぶ   のやから  なお  しょしょ  おうりょう
 仍て神宮官等、沙汰を致さんと擬らす之處、光員の注文に任せ地頭に補す之輩、尚、所々を押領し、

  しんりょう わずら   いた  のよし そ  うった  あ    しょぎょうのむね はなは もっ  ふとうなり
 神領の煩ひを致す之由其の訴へ有り。所行之旨、甚だ以て不當也。

  いまよ    いご   しんかんの げち   したが しんちう  いた  せし  べ     したが  ぢとう  いへど   なにじにん  わずら   しんえき  おこた   と
 今自り以後、神官之下知に從ひ神忠を致さ令む可し。縦い地頭と雖も、何神人を煩はし神役を怠らん乎。

  よろ    くだん ろうぜき  ちょうじ         も   なおいはいせし  ば  たしか きょうみょう ちう    ごんじょう べ   のじょう  くだん ごと    もっ  くだ
 宜しく件の狼藉を停止すべし。若し猶違背令め者、慥に交名を注し、言上す可き之状、件の如し。以て下す。

        ぶんじさんねんろくがつはつか
   文治三年六月廿日

参考@神人は、法衣の神人と呼ばれ、神社やお寺に仕え、もっぱら荘園の現地作柄検査をする。坂を越えて来るので「坂迎え」と称し、歓待をしないと罰を当てられる。多くは三日三晩ぶっ通して歓待するので「三日振り夜」とも云われた。寺の雑役ではない。雑役は「堂童子」と呼ばれた。

現代語文治三年(1187)六月小二十日庚寅。伊勢国の平家から取上げた領地は、加藤太光員が書き出した文書に従って、地頭を任命しましたが、その地頭連中が伊勢神宮の領地で、年貢を横取りしたと、あちらこちらから訴えが有ったので、伊勢神社の要求に合わせて地頭を止めさせるように、今日決定されました。その命令書に書いてあるのは、

 命令する 伊勢国の伊勢神社の領地内にいる地頭達へ
 さっさと無茶苦茶な乱暴狼藉を止めて、内宮外宮の神主達の指示に従って管理すること
 右の通り、例の謀反人達の領地については、以前からの例に従い、治安維持の地頭職だけを任命したのだが、それぞれが勝手な行動を起こして、或る時はあちこちを勝手に支配して、或る時は神社の使いの神人に邪魔をしていると、その話を訴えて来たので、神様への奉仕が先ず第一だと、何度も云って聞かせてきました。それなので、神様に仕える伊勢神宮の神官達が、管理をしようとしているので、加藤太光員の文書に従って地頭を任命した連中が、あちこちを占領して、神社の徴税を邪魔していると、その訴えがある。お前達の行いはとんでもない不当なことだ。今から以後は、神官の命令に従って、神様への奉仕をすること。例え地頭だと云っても、何故、神官の邪魔をして神様への奉仕を怠けられるのだ。良く承知をして、そのような乱暴ごとを止めるように命じる。若し、命令を守らなければ、名前を書き出して幕府へ提出するようにとの内容は、この手紙の通りである。では、命令する。
  文治三年六月二十日

文治三年(1187)六月小廿一日辛夘。因幡前司廣元為使節上洛。閑院 皇居可加修復之由被申之。又師中納言〔經房〕望申大納言。其事可預御擧之旨。日來内々被申于二品。此卿為膠漆御知音也。仍无左右雖可被奏達。上臈有數歟。随京都之形勢。可 奏試之由。被仰廣元。凡不限此卿。於廉直臣者。於事可加扶持之由。朝暮被挿御意。偏爲君爲世也云々。

読下し                     いなばのぜんじひろもと しせつ な   じょうらく    かんいんこうきょ  しゅうふく くはへ  べしのよし  これ  もうさる
文治三年(1187)六月小廿一日辛夘。因幡前司廣元 使節と為し上洛し、閑院皇居@、修復を加る可A之由、之を申被る。

また そちのちうなごん 〔つねふさ〕 だいなごん  のぞ  もう    そ   こと  おんきょ  あずか べ   のむね  ひごろないない にほんに もうさる
又、師中納言〔經房〕大納言を望み申す。其の事、御擧に預る可し之旨、日來内々に二品于申被る。

こ  きょう  こうしつ  おんちおんたるなり  よっ   そう な   そうたつさる  べ    いへど   じょうろうあまたあ か
此の卿、膠漆の御知音為也。仍て左右无く奏達被る可しと雖も、上臈數有る歟。

きょうとの けいせい  したが   そう  こころ べ   のよし  ひろもと  おお  らる
京都之形勢に随い、奏し試む可し之由、廣元に仰せ被る。

およ  こ  きょう かぎらず  れんちょく しん  をい  は   こと  をい  ふち   くは  べ   のよし  ちょうぼぎょい  さしはさま   ひとへ きみ  ため よ  ためなり  うんぬん
凡そ此の卿に限不、廉直の臣に於て者、事に於て扶持を加う可き之由、朝暮御意を挿被る。偏に君の爲世の爲也と云々。

参考@閑院皇居は、平安末期からの里内裏で、二条大路南、西洞院通り東。
参考A
修復を加る可しは、一昨年七月の地震で壊れたのを文治三年五月十三日条で、修理を怠けた源範頼が叱られている。

現代語文治三年(1187)六月小二十一日辛卯。因幡前司大江広元は、派遣員として京都へ上り、天皇の里内裏を、修理するからと伝えました。
又、師中納言吉田経房が大納言の職を望んでいるので、その事を推薦して欲しいと、内々に頼朝様に言ってきている。「かれは、関東申し次ぎとして篤い交情で結ばれているので、とやかく考えずに後白河院に申し出ても良いのだが、希望している公卿は多いことでしょう。京都朝廷の様子を伺って、進言を試してみなさい」と、大江広元におっしゃられました。
だいたいこの人に限らず、私欲がなく正直な役人であるならば、なにかあれば手助けをしてあげるものだと、常にお心を配られています。それも、皆、朝廷や国のためになることなんだとさ。

文治三年(1187)六月小廿九日己亥。雜色正光爲御使。帶御書。赴伊勢國。是當國沼田御厨者。畠山二郎重忠所領地頭職也。而重忠眼代内別當眞正令追捕員部大領家綱所從等宅。没収資財之間。家綱差進神人等令訴申。仍爲被糺行其科也。又正光寄事於御使。於現濫行者。加誡可言上子細之趣。被仰遣山城介久兼〔在彼國云々〕

読下し                     ぞうしきまさみつおんし  な     おんしょ  お    いせのくに おもむ
文治三年(1187)六月小廿九日己亥。雜色正光御使と爲し、御書を帶び、伊勢國に赴く。

これ  とうごくぬまたのみくりや は  はたけやまのじろうしげただ  しょりょう  ぢとうしきなり
是、當國沼田御厨@者、 畠山二郎重忠 が所領、地頭職也。

しか    しげただもくだい うちべっとうさねまさ  いんべのたいりょう いえつな しょじゅうら たく  ついぶせし    しざい  ぼっしゅう   のかん
而るに重忠眼代の内別當眞正、員部大領 家綱Aが所從等の宅を追捕令め、資財を没収する之間、

いえつな じにんら  さ   しん  うった もう  せし    よっ  そ   とが  ただ  おこな ためなり
家綱神人等を差し進じ訴へ申さ令む。仍て其の科を糺し行う爲也。

また  まさみつことを おんし  よ     らんぎょう あらは   をい  は   いさめ くは  しさい  ごんじょうすべ のおもむき
又、正光事於御使に寄せ、濫行を現すに於て者、誡を加へ子細を言上可き之趣、

やましろのすけひさかね 〔かのくに  あ    うんぬん〕   おお  つか  さる
 山城介久兼 〔彼國に在りと云々〕に仰せ遣は被る。

参考@沼田御厨は、沼田御牧と同一で亀山市関町古厩(旧鈴鹿郡関町古厩)らしい。
参考A員部大領家綱は、平家時代の郡司。三重県いなべ市員弁町。

現代語文治三年(1187)六月小二十九日己亥。雑用の正光は、使いとして手紙を持って、伊勢国へ行きます。この用向きは、伊勢国沼田御厨は、畠山次郎重忠の領地で地頭職を持っております。その畠山次郎重忠の代官の現地筆頭真正が、郡司の員部大領家綱の召使達の家を捜索して、財産を奪ってしまったので、家綱は神社の使いの神人を京都朝廷へ行かせて、訴えました。それなので、その罪をきちんと整理するためです。又、正光が使者の権利を笠に着て、むやみに威張り散らしたりしたら、厳しく叱り付けて、詳しい事を幕府へ申し出なさいと、山城介久兼〔伊勢の国に居るんだとさ〕に伝えさせました。

七月へ

吾妻鏡入門第七巻

inserted by FC2 system