吾妻鏡入門第七巻

文治三年(1187)七月小

文治三年(1187)七月小二日辛丑。初齋宮來九月依可有群行。被進其用途。日來所被宛諸御家人也。善信奉行云々。

読下し                   はつさいくう  きた  くがつ ぐんこうあ   べ     よっ    そ   ようとう  しん  らる
文治三年(1187)七月小二日辛丑。初齋宮@、來る九月群行有る可きに依て、其の用途Aを進ぜ被る。

ひごろ しょごけにん   あてらる ところなり  ぜんしんぶぎょう   うんぬん
日來諸御家人に宛被る所也。善信奉行すと云々。

参考@齋宮は、天皇の名代として伊勢神宮に遣わされた皇女。また、その居所。天皇が即位すると未婚の内親王または女王から選ばれ、原則として譲位まで仕えた。一四世紀の後醍醐天皇の代まで続いた。斎王。いつきのみや。いみみや。Goo電子辞書から
参考A其の用途は、天皇家の娘が伊勢神宮の神官になるためにお篭りをするのだが、このお供に官女が百数十人ついて行く。この費用のことである。

現代語文治三年(1187)七月小二日辛丑。天皇家の娘(内親王)が伊勢神宮の神官になるための初めてのお篭りをするため、この九月に行列を組んで出かけますが、このお供に官女が百数十人ついて行くので、その費用を用立てられました。じつは、御家人達に割り当てられたわけです。大夫属入道三善善信が指導担当をしましたとさ。

文治三年(1187)七月小三日壬寅。山城守橘維康自京都參向。爲致官仕。池亞相禪門被擧申之云々。如前駈事可勤役之人。依有御尋也。則爲俊兼之沙汰。點給旅館云々。

読下し                   やましろのかみ たちばなのこれやす きょうとよ   さんこう    かんじいた  ため  いけのあそうぜんもん これ  きょ  もうさる    うんぬん
文治三年(1187)七月小三日壬寅。 山城守 橘 維康  京都自り參向す。官仕致す爲、池亞相禪門、之を擧し申被ると云々。

せんぐ   ごと  こと  きんやくすべ  のひと   おんたず  あ     よっ  なり  すなは としかねの さた   な     りょかん  てん  たま    うんぬん
前駈@の如き事を勤役可き之人、御尋ね有るに依て也。則ち俊兼之沙汰と爲し、旅館を點じ給ふと云々。

参考@前駈は、馬に乗って、行列などを先導すること。また、その人。さきのり。さきがけ。先駆。〔古くは「せんぐ」「ぜんぐ」とも〕Goo電子辞書から

現代語文治三年(1187)七月小三日壬寅。山城守橘維康が、京都からやってまいりました。幕府に勤務するために、池大納言頼盛が推薦したんだそうです。馬に乗って行列を先導する役のかなえる人を、探しておられたからです。直ぐに、筑後権守俊兼が担当して、旅館を決められましたとさ。

文治三年(1187)七月小四日癸夘。雜色里長爲御使上洛。是右武衛〔能保〕姫公爲御乳母依可有參内。被遣長絹百疋之故也。御家人等面々沙汰進之云々。

読下し                   ぞうしきさとながおんし   な  じょうらく
文治三年(1187)七月小四日癸夘。雜色里長御使と爲し上洛す。

これ  うぶえい  〔よしやす〕    ひめぎみ  おんめのと  な   さんだいあ   べ    よっ   ちょうけんひゃっぴき つか  さる  のゆえなり
是、右武衛〔能保〕が姫公、御乳母と爲し參内有る可きに依て、 長絹@百疋を遣は被る之故也。

ごけにんら めんめん  さた   これ  しん    うんぬん
御家人等面々に沙汰し之を進ずと云々。

参考@長絹は、糊で張った仕上げの絹布。絹一疋は、幅二尺二寸(約66cm)、長さ五丈一尺(約18m)の絹の反物(一反は幅が半分)。

現代語文治三年(1187)七月小四日癸卯。雑用係の里長が使いとして京都へ上ります。それは、右武衛〔一条能保〕の娘さんが、天皇家の乳母として内裏へ上るので、費用として長絹百疋(二百反)を送られるからです。御家人達が調達して献上しましたとさ。

文治三年(1187)七月小十八日丁巳。新田四郎忠常妻參豆州三嶋社。而洪水之間。掉扁舟浮江尻渡戸之處。逆浪覆船。同船男女皆以入水底。然而各希有兮存命。忠常妻一人没畢云々。是信力強盛者也。自幼稚之昔。至長大之今。毎月不闕詣當社之處。去正月比。夫重病危急之時。此女捧願書於彼社壇云。縮妻之命。令救忠常給云々。若明神納受其誓願兮令轉歟。志之所之。爲貞女之由。在時口遊矣。

読下し                     にたんのしろうただつね つま  ずしゅう みしましゃ  まい
文治三年(1187)七月小十八日丁巳。新田四郎忠常が妻、豆州三嶋社へ參る。

しか    こうずいのかん  へんしゅう さお    えじり  わたど  うか  のところ  ぎゃくろうふね くつがえ どうせん だんじょみなもっ みずぞこ  い
而るに洪水之間、扁舟に掉さし江尻の渡戸に浮ぶ之處、逆浪船を覆し、同船の男女皆以て水底へ入る。

しかれども おのおの  けう    て ぞんめい    ただつね つまひとり ぼっ をはんぬ うんぬん
然而、 各 希有にし兮存命す。忠常が妻一人没し畢と云々。

これ  しんりきごうせい  ものなり  ようちのむかしよ     ちょうだいのいま  いた   まいげつかかさずとうしゃ もう   のところ  さんぬ しょうがつ ころ
是、信力強盛の者也。幼稚之昔自り、長大之今に至り、毎月闕不當社へ詣でる之處、去る正月の比、

おっと じゅうびょうききゅうのとき  こ おんながんしょを か しゃだん ささ    い       つまのいのち ちぢ    ただつね すく  せし  たま    うんぬん
夫が 重病 危急之時、此の女願書於彼の社壇に捧げて云はく。妻之命を縮め、忠常を救は令め給へと云々。

 も   みょうじん そ  せいがん のうじゅ  て てん  せし    か   こころざしの ゆ ところ  ていじょたるのよし  とき  くちずさ  あ   と
若し明神其の誓願を納受し兮轉ぜ令むる歟。 志之 之く所、貞女爲之由、時の口遊み在り矣。

現代語文治三年(1187)七月小十八日丁巳。新田四郎忠常の妻が、伊豆国三島大社へお参りに出かけました。それなのに、洪水にあったため、江尻の渡場の小船に乗ったとたんに、逆波が船をひっくり返してしまい、船に乗っていた男女は皆、水の中へ放り出されてしまいました。しかし、それぞれ奇跡的に助かって生き残りましたが、新田四郎忠常の妻だけが沈んでしまいましたとさ。この人は、とても信心深い人なのです。子供の頃から、大きくなった今まで、毎月必ず三島大社へお参りに行っていますが、先の正月の頃に、夫が重病に陥り危篤になった時、この女性は、祈願書をその神社に捧げて言いました。妻の命を縮めてでも、新田四郎忠常を助けていただきたいと。もしかしたら、神様がその願いを受け入れて命を入れ替えたのかも知れません。その志は貞節な女の鏡だと、人々の口にのぼりましたとさ。

文治三年(1187)七月小十九日戊午。右兵衛消息到來。所副進 院宣也。是前大藏卿〔泰經〕去年被處義顯与同之過訖。可被免歸洛之由。就令申給被免之。而本自依爲近臣。於今者可被聽昵近之趣。被仰下之故也。
 泰經卿事。度々被仰二位卿畢。而御返事趣不分明之間。御猶豫候也。然而近日殊歎申。可然之樣可計仰遣之由。内々御氣色候也。仍執啓如件。
        七月一日                        左中弁
  謹上  右兵衛督殿

読下し                      うひょうえ  しょうそことうらい   いんぜん そ   しん   ところなり
文治三年(1187)七月小十九日戊午。右兵衛が消息到來す。院宣に副へ進ずる所也。

これ  さきのおおくらきょう 〔やすつね〕 きょねんよしあき  よどうのとが  しょされをはんぬ  めん られ きらくすべ  のよし  もう  たま  せし    つ   これ  めん  らる
是、前大藏卿〔泰經〕去年義顯に与同之過に處被訖。 免ぜ被歸洛可し之由、申し給ひ令むに就き之を免ぜ被る。

しか    もとよ   きんしん  な     よっ    いま  をい  は じっこん  ゆるされ  べ のおもむき  おお  くださる  のゆえなり
而して本自り近臣を爲すに依て、今に於て者昵近を聽被る可し之趣、仰せ下被る之故也。

  やすつねきょう こと  たびたび にいのきょう おお られをはんぬ しか    ごへんじ おもむき ぶんめいならずのかん ごゆうよそうろうなり
 泰經卿の事、 度々二位卿に 仰せ被 畢。 而るに御返事の趣 分明不之間、 御猶豫候也。

  しかれども きんじつこと  なげ  もう    しか  べ   のさまはから おお  つか   べ   のよし  ないないみけしきそうろうなり  よってしっけいくだん ごと
 而、近日 殊に歎き申す。然る可き之樣計ひ仰せ遣はす可し之由、内々御氣色候也。仍て執啓件の如し。

                  しちがつついたち                                               さちうべん
        七月一日                        左中弁

    きんじょう    うひょうえのかみどの
  謹上  右兵衛督殿

現代語文治三年(1187)七月小十九日戊午。右兵衛一条能保様の手紙が届きました。後白河法皇の手紙に添えてよこしたのです。内容は、前大蔵卿〔泰経〕が去年義顕〔義経〕に味方して流罪に罰っせられていますが、そろそろ許して京都へ帰したらどうかと、後白河法皇が申されるので、許す事にしました。しかし、元々は法皇と共に政治に携わっていたので、もう政界復帰させて欲しいと、法皇が追加しておっしゃっているからです。

 泰経卿の事ですが、何度も二位卿頼朝様に言っております。しかし、はっきりとした返事がないので、未だにそのままにためらっております。しかしながら、最近特に復職したいと嘆いております。どうかそのように計らって、云って欲しいと、内々に申されております。それなので云われるように致しましたのはこのとおりです。
   七月一日        左中弁光長
  謹んで差し出します  
右兵衛督一条能保殿

文治三年(1187)七月小廿三日壬戌。二品逍遥海濱給。故一條次郎忠頼之侍甲斐中四郎秋家被召具之。以歌舞爲業之者也。於由比浦。小笠懸之後。入御岡崎四郎宅。御酒宴之間。秋家盡舞曲云々。

読下し                     にほん かいひん しょうよう たま    こいちじょうのじろうただよりのさむらい かいのなかしろうあきいえ  これ  めしぐさる
文治三年(1187)七月小二十三日壬戌。二品海濱に逍遥し給ふ。 故一條次郎忠頼 之侍 甲斐中四郎秋家 之を召具被る。

 かぶ   もっ なりわい な   のものなり   ゆいのうら   をい    こがさがけののち  おかざきしろう   たく  にゅうぎょ    ごしゅえんのかん  あきいえ ぶきょく  つく    うんぬん
歌舞を以て業と爲す之者也。由比浦@に於て、小笠懸之後、岡崎四郎の宅へ入御す。御酒宴之間、秋家舞曲を盡すと云々。

参考@由比浦は、鎌倉市由比ガ浜2丁目3地先の発掘された大鳥居跡の辺りまで浦が入っていたものと思われる。

現代語文治三年(1187)七月小二十三日壬戌。二品頼朝様は、海辺にそぞろ歩きに出かけられました。故一条次郎忠頼の部下の甲斐中原四郎秋家を一緒に連れて行きました。歌舞音曲を職業にしている者です。由比の浦で、小笠懸を終えた後、岡崎四郎義実の家へ入られました。宴会に秋家は舞踊と歌を披露しましたとさ。

文治三年(1187)七月小廿七日丙寅。信濃國善光寺。去治承三年廻祿後。有再興沙汰之間。殊可加合力之由。被仰付諸人云々。其状云。
 下 信濃國庄園公領沙汰人等所
  可早結縁助成善光寺造營間土木人夫事
 右件寺。靈驗殊勝伽藍也。草創年舊。堂宇破壞。加之動有火災之難。礎石之外更无殘。有情之輩何不歎此事。早國中不云庄園公領。一昧同心与力於勸進上人。土木之間。勵出人夫。令終其功。若不奉加此功之者。不可有所知領掌之儀之状如件。以下。
   文治三年七月廿七日

読下し                     しなののくにぜんこうじ  さんぬ じしょうさんねん かいろく のち  さいこう   さた あ   のかん
文治三年(1187)七月小廿七日丙寅。信濃國善光寺。去る治承三年 廻祿の後、再興の沙汰有る之間、

こと  ごうりき  くは    べ   のよし  しょにん  おお  つ   らる    うんぬん  そ  じょう  い
殊に合力を加へる可し之由、諸人に仰せ付け被ると云々。其の状に云はく。

  くだ    しなののくに  しょうえん こうりょう  さた にんら  ところ
 下す 信濃國の庄園、公領の沙汰人等の所へ

    はやばや ぜんこうじ ぞうえい  かん  どぼくにんぷ  けちえんじょせいすべ こと
  早〃と善光寺造營の間の土木人夫を結縁@助成可き事

  みぎ  くだん てら   れいけんこと  まさ  がらんなり   そうそうとし  ふる     どうう はかい     これ  くは  やや        かさいの なんあ
 右、件の寺は、靈驗殊に勝る伽藍也。草創年は舊く、堂宇破壞す。之に加へ動もすれば火災之難有り。

  そせきのほか さら  のこ    な     うじょうのやからなん こ   こと  なげ  ざらん  はやばや くにじゅう しょうえんこうりょう いわず
 礎石之外更に殘るは无し。有情之輩何ぞ此の事を歎か不や。早〃と國中の庄園公領と云不。

  いちみ どうしんを かんじんしょうにん よりき      どぼくのかん   にんぷ  はげ  いだ    そ   こう  おわらせし
 一昧同心於勸進上人に与力して、土木之間、人夫を勵み出し、其の功を終令め

   も   こ   こう   ほうかせずのもの   しょちりょうしょうのぎ あ  べからずのじょうくだん ごと    もっ  くだ
 若し此の功に奉加不之者、所知領掌之儀有る不可之状件の如し。以て下す。

      ぶんじさんねんしちがつにじうしちにち
   文治三年七月廿七日

 参考@結縁は、仏との縁を結ぶ。ご利益に預かる、成仏できる。

現代語文治三年(1187)七月小二十七日丙寅。信濃国(長野県)善光寺が、前の治承三年(1179)に火事に会った後、再建する事になったので、特に協力するように、武士達に命令を出されましたとさ。その文面には、

 命令する 信濃国の荘園や国領の管理者達へ
  さっさと、善光寺の再建があるので、事業人足を出して、仏との縁を結び協力する事
 右の寺は、霊験あらたかなお寺である。創建は古いので、堂塔伽藍が傷んでしまった。そればかりか、たまたま火事の災難に出会い、礎石の他には残っている物もありません。心ある人ならばどうしてこの事を嘆かずにはいられましょうや。早く荘園や国領にこだわらず、皆心を一つにして、復興寄付集めの勧進上人に協力をして、事業人足を積極的に提供し、その建築と言う仏への功徳を終わらせましょう。若しこの有難い功徳を捧げない者は、領地も土地管理の職も取上げてしまうのはこの文書の通りである。再度命令する。
   文治三年七月二十七日

文治三年(1187)七月小廿八日丁夘。善光寺造營間事。令下知信濃國御家人給之上。被仰當國目代云々。其奉書云。
 善光寺造營之間。國中さうくをいはす。人夫をいたして。力をくハふへCし。御下ふミたひ候ぬ。とのも所知なとしらせ給候ハゝ。与力せさせ給候へく候。このたひ不奉加之人ハ。所知をしらせ里けりとおほしめさむするに候。あなかしこ〜。
     七月廿八日                        僧
   信濃御目代殿

読下し                      ぜんこうじぞうえい  かん  こと   しなののくにごけにん  げち せし  たま  のうえ   とうごくもくだい  おお  らる    うんぬん
文治三年(1187)七月小廿八日丁夘。善光寺造營の間の事、信濃國御家人に下知令め給ふ之上、當國目代に仰せ被ると云々。

 そ  ほうしょ  い
其の奉書に云はく。

  ぜんこうじぞうえいのかん  くにちう 荘  公  を 云わず   にんぷ を  致して    ちからを  加う   べきよし  おんくだしぶみ たびそうらいぬ
 善光寺造營之間、國中さうくをいはす。人夫をいたして、力をくハふへCし、御下ふミたひ候ぬ。

  殿    しょち 等  知らせ たまいそうらわば  よりき  せさせ たまいそうらうべくそうろう
 とのも所知なとしらせ給候ハゝ、与力せさせ給候へく候。

   この度   ほうかせずのひとは   しょちを    知らざりけりと     思しめ    さむずるに   そうろう  あなかしこ あなかしこ
 このたひ不奉加之人ハ、所知をしらせ里けりとおほしめさむするに候。あなかしこ〜。

           しちがつにじうはちにち                                                 そう
     七月廿八日                        僧

       しなのおんもくだいどの
   信濃御目代殿

現代語文治三年(1187)七月小二十八日丁卯。善光寺復興工事について、信濃国(長野県)の御家人に命令を出した事を、この国の長官国司の代官にも伝えられましたとさ。その文書の内容は、

 善光寺再建工事について、国中の荘園、国領を問わず、人足を提供して、協力をするように、命令書を出しました。国衙へも経過を知らせますので、協力をさせるようお願いします。今回、功徳を捧げない者は、どうするかお知らせを戴きたいと、思われておりますので、宜しくお願いします。
    七月二十八日                     勧進僧
   信濃国司代官殿

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吾妻鏡入門第七巻

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