吾妻鏡入門第七巻

文治三年(1187)八月大

文治三年(1187)八月大一日己巳。自今日至來十五日。可專放生會之旨。兼日被觸仰關東庄園等之。而鎌倉中并近々海濱河溝事。重被廻雜色等。行政俊兼奉行之。

読下し                    きょう  よ   きた  じうごにち   いた    ほうじょうえ  もっぱ   すべ  のむね  けんじつこれ かんとう しょうえんら  ふ   おお  らる
文治三年(1187)八月大一日己巳。今日自り來る十五日に至り、放生會を專らに可き之旨、兼日之を關東の庄園等に觸れ仰せ被る。

しか    かまくらちうなら    ちかぢかかいひんかこう こと  かさ    ぞうしきら  めぐ  さる    ゆきまさ としかねこれ  ぶぎょう
而るに鎌倉中并びに近々海濱河溝の事、重ねて雜色等を廻ら被る。行政、俊兼之を奉行す。

現代語文治三年(1187)八月大一日己巳。今日から十五日まで、殺生禁断に専念するように、最近、関東の荘園などに命じておられます。それでも、鎌倉の中と近いところの海、浜、川、溝などでも守らせるように、なおも雑用の連中たちを廻らせました。主計允藤原行政と筑後権守俊兼が指揮担当しました。

文治三年(1187)八月大三日辛未。筑前國筥崎宮々司親重被行賞。當國那珂西郷。糟屋西郡等拝領之云々。平氏在世之時。依抽彼祈祷。日來聊雖有御氣色。所詮於神官等事者。一向可被優恕之由。被思召定云々。

読下し                    ちくぜんのくに はこざきぐう ぐうじちかしげ しょう おこな らる    とうごく なかにしごう  かすやにしぐんら これ  はいりょう   うんぬん
文治三年(1187)八月大三日辛未。筑前國 筥崎宮 々司親重、賞を行は被る。當國那珂西郷@、糟屋西郡A等之を拝領すと云々。

へいし ざいせのとき   か   きとう   ぬき         よっ    ひごろいささ  みけしき あ   いへど    しょせんしんかんら  こと  をい  は
平氏在世之時、彼の祈祷を抽んずるに依て、日來聊か御氣色有りと雖も、所詮神官等の事に於て者、

いっこう  ゆうじょさる  べ   のよし   おぼ  め   さだ  らる    うんぬん
一向に優恕被る可き之由、思し召し定め被ると云々。

参考@那珂西郷は、福岡県福岡市博多区那珂があり、隣が東那珂。
参考A糟屋西郡は、福岡県粕屋郡粕屋町。

現代語文治三年(1187)八月大三日辛未。筑前国(福岡)箱崎八幡宮の宮司親重は、褒美を与えられました。同国の那珂西郷と糟屋西郡を戴きましたとさ。平家が力を張っている時に、その為の祈祷をしていたので、多少怒っておられましたが、所詮神様に仕える神官達については、特別に優遇を配慮されるべきなのであろうと、お思いになられたからだそうです。

文治三年(1187)八月大四日壬申。今年於鶴岡依可被始行放生會。被宛催流鏑馬射手并的立等役。其人數。以熊谷二郎直實。可立上手的之由。被仰之處。直實含欝憤申云。御家人者皆傍輩也。而射手者騎馬。的立役人者歩行也。既似分勝劣。於如此事者。直實難從嚴命者。重仰云。如此所役者。守其身器。被仰付事也。全不分勝劣。就中的立役者非下職。且新日吉社祭御幸之時。召本所衆。被立流鏑馬的畢。思其濫觴訖猶射手之所役也。早可勤仕者。直實遂以不能進奉之間。依其科。可被召分所領之旨。被仰下云々。

読下し                    ことしつるがおか をい  ほうじょうえ  しぎょう   らる  べ    よつ     やぶさめ    いて なら    まとたてら   やく  あ   もよお さる
文治三年(1187)八月四日壬申。今年鶴岡に於て放生會を始行せ被る可しに依て、流鏑馬の射手并びに的立等の役を充て催さ被る。

 そ にんずう  くまがいのじろうなおざね  もつ   かみて  まと   た    べ   のよし   おお らる   のところ  なおざねうっぷん ふく もう   い
其の人數に熊谷二郎直實を以て、上手の的を立てる可し之由、仰せ被る之處。直實欝憤を含め申して云はく。

ごけにんは みなぼうはいなり  しか   いては   きば   まとたてやく  ひとは  かちなり  すで しょうれつを わ     に
御家人者皆傍輩也。而るに射手者騎馬、的立役の人者歩行也。既に勝劣於分けるに似たり。

かく  ごと  ことは  なおざねげんめい したが がた てへ
此の如き事者、直實嚴命に從い難し者り。

かさ   おお    い       かく  ごと  しょやくは   そ  み  うつわ  まも    おお つ  らる ことなり   まった しょうれつ わけず
重ねて仰せて云はく。此の如き所役者、其の身の器を守り、仰せ付け被る事也。全く勝劣を不分。

なかんづくに まとたてやくはげしょく あらず かつう いまひえしゃさいぎょうこうのとき  ほんじょ しゅう め    やぶさめ  まと  たてられをはんぬ
就中、的立役者下職に非。且は新日吉社祭御幸之時、本所の衆を召し、流鏑馬の的を立被畢。

そ  らんしょう  せつ おも      なお いてのしょやく   こ     なり   はや きんじすべ  てへ
其の濫觴の説を思ふに、猶射手之所役に越ゆる也。早く勤仕可し者り。

なおざねつい もつ すす たてまつ あたはずのかん そ とが  よつ  しょりょう  め   わ  らる  べ   のむねおお  くださる    うんぬん
直實遂に以て進め奉り不能之間、其の科に依て所領を召し分か被る可し之旨仰せ下被ると云々。

現代語文治三年(1187)八月大四日壬申。今年は鶴岡八幡宮に生き物の命を助ける放生会を初めて行うので、奉納する流鏑馬の射手と的立て役を御家人に指名する事にしました。
その人数に熊谷次郎直実を上手の的立て役をするように命じられましたところ、熊谷次郎直実は怒りながら申し上げました。「御家人は、皆同格の仲間である。それなのに射手は馬に乗り、的立て役の人は歩きです。それが、既に仲間同士に勝ち負けを付けたように思われます。このような事は熊谷次郎直実は命令に従うわけにはいきません。」
そこで、頼朝様が重ねておっしゃられるには、「そのような役目は、その身の分をわきまえて、命じていることである。全く勝ち負けを分けるわけではない。なかでも、的立ての役は下等な職ではない。なんてったって、新日吉神社の祭りに法皇がお越しのときは、荘園領主の貴族本所の侍衆が流鏑馬の的を立てられました。その出来事の経緯を思えば、射手の役目を越えている訳だ。そういうわけなので早く受けなさい。」
でも、熊谷次郎直実はやっぱりお受けすることは出来ないと云うので、「その命令違反の罪で所領を割いてしまう」と、仰せられましたとさ。

文治三年(1187)八月大八日丙子。梶原平三景時。原宗四郎行能押領於最勝尊勝等寺領之由。有寺家訴之旨。被仰下之間。就被尋兩人。各献陳状。以之可被付職事云々。
 平景時謹陳申
  尊勝寺御領美作國林野英多保事
 右下給候之折紙。謹以令拝見候畢。先度被仰下之刻。子細言上候畢。御年貢以下雜事。任先例令弁勤候也。於代官改補條者。不可及寺家訴。其故者。先例限候御年貢雜事不致懈怠者。不可爲訴歟。只爲令停止景時沙汰。如此候歟。子細度々言上畢。仍不能委細陳状。謹陳申。
   文治三年八月五日                        平景時
 惟宗行能謹解
  最勝寺訴申若狹國今重保背 院宣并鎌倉殿御下文旨企押領由事
 右九郎判官逆亂之時。自東國武士上洛之日。行能相具北條時政之手上洛畢。而爲兵粮米宛給所。置代官不可致沙汰之由。自鎌倉殿。依被仰下。不置代官。罷下本國畢。况於今重保者。無可知行之由緒。又自鎌倉殿非恩給之所。何以令致押領乎。但号行能代官。無告文者。稱不可用之由。度々背院宣并鎌倉殿御下文之間。依 院宣。預御勘發。因之且取不當之名。其恐不少。然者於号行能代官之輩者。早被搦取。可被處罪科也。全非行能結搆。仍勤解。
   文治三年八月八日                        惟宗判

読下し                    かじわらのへいざかげとき はらのむねしろうゆきよし さいしょう そんしょうら  じりょうを おうりょうのよし    じけ   うった あ   のむね
文治三年(1187)八月大八日丙子。梶原平三景時、 原宗四郎行能、最勝@尊勝A等の寺領於押領之由、寺家の訴へ有る之旨、

おお  くださる  のかん  りょうにん  たず  らる    つ   おのおの ちんじょう けん    これ  もっ  しきじ  つ   らる  べ    うんぬん
仰せ下被る之間、兩人に尋ね被るに就き、各、陳状を献ず。之を以て職事Bに付け被る可しと云々。

参考@最勝寺、A尊勝寺は六勝寺のひとつで、白河の地には代々の天皇・上皇・女院たちの御願によって建てられた6つの寺院が並んでいた。法勝寺(白河天皇御願寺)・尊勝寺(堀河天皇御願寺)・最勝寺(鳥羽天皇御願寺)・円勝寺(鳥羽天皇皇后待賢門院御願寺)・成勝寺(崇徳天皇御願寺)・延勝寺(近衛天皇御願寺)と、いずれも「勝」の字がつくため、この6カ寺をあわせて「六勝寺」と呼ばれる。六巻文治二年(1186)二月大廿九日丁丑,院政期,天皇や中宮の発願で鴨川東岸の白河(現左京区岡崎)の地に建立された6つの寺院。いずれも「勝」の字がつくので六勝寺と総称されました。六巻文治二年(1186)三月十二日
 法勝寺(ほっしょうじ)は白河天皇御願。承暦元(1077)年落慶供養。
 尊勝寺(そんしょうじ)は堀河天皇御願。康和4(1102)年落慶供養。
 最勝寺(さいしょうじ)は鳥羽天皇御願。元永元(1118)年落慶供養。
 円勝寺(えんしょうじ)は鳥羽天皇中宮待賢門院藤原璋子御願。大治3(1128)年落慶供養。
 成勝寺(せいしょうじ)は崇徳天皇御願。保延5(1139)年落慶供養。
 延勝寺(えんしょうじ)は近衛天皇御願。久安5(1149)年落慶供養。
参考B職事は、蔵人所(院の事務所)の頭又は蔵人(事務官)。

  たいらのかげとき つつし  ちん  もう
  平景時 謹んで陳じ申す

     そんしょうじごりょう みまさかのくに はやしの あいだのほう  こと
  尊勝寺御領 美作國 林野C英多Dの事

  みぎくだ  たま  そうろうのおりがみ つつし   もっ  はいけんせし そうら をはんぬ せんど おお  くださる  のとき  しさいごんじょう そうら をはんぬ
 右下し給はり候之折紙、謹んで以て拝見令め候ひ畢。 先度仰せ下被る之刻、子細言上し候ひ畢。

   ごねんぐ いか   ぞうじ  せんれい まか  べん  つと  せし そうろうなり  だいかんかいぶ じょう をい  は    じけ  うった   およ  べからず
 御年貢以下の雜事、先例に任せ弁じ勤め令め候也。 代官改補の條に於て者、寺家の訴へに及ぶ不可。

   そ  ゆえは  せんれいかぎ そうろうごねんぐぞうじ  けたい いたさずんば  うった   な  べからずか
 其の故者、先例限り候御年貢雜事、懈怠を致不者、訴へを爲す不可歟。

  ただかげとき   さた   ちょうじせし    ため  かく  ごと そうろうか しさいたびたびごんじょう をはんぬ よっ  いさい  ちんじょう     あたはず  つつし   ちん  もう
 只景時の沙汰を停止令めん爲、此の如く候歟。子細度々言上し畢。仍て委細を陳状するに能不。謹んで陳じ申す。

       ぶんじさんねんはちがついつか                                          たいらのかげとき
   文治三年八月五日                        平景時

参考C林野は、岡山県美作市林野。東に林野高校。北に美作市役所。その北に「林野駅」。駅の北の県道に英田観光交通センターあり。
参考D英多保は、林野の北東に英田郡(アイダグン)の名が残る。

  これむねゆきよしつつ   げ
 惟宗行能謹んで解す

     さいしょうじ うった もう  わかさのくに いましげのほう いんぜんなら   かまくらどの おんくだしぶみ むね  そむ  おうりょう くはだ   よし  こと
  最勝寺訴へ申す若狹國 今重保、 院宣并びに鎌倉殿の御下文の旨に背き、押領を企てる由の事

  みぎくろうほうがんぎゃくらんのとき  とうごくよ    ぶし じょうらくのひ   ゆきよし  ほうじょうときまさの て   あいぐ  じょうらく をはんぬ
 右九郎判官逆亂之時、東國自り武士上洛之日、行能は北條時政之手に相具し上洛し畢。

  しか   ひょうろうまい  な   あ   たま   ところ  だいかん  お   さた いた  べからずのよし  かまくらどのよ   おお  くださる    よっ
 而るに兵粮米と爲し宛て給はる所、代官を置き沙汰致す不可之由、鎌倉殿自り、仰せ下被るに依て、

  だいかん  お   ず   ほんごく  まか  くだ をはんぬ いはん いましげのほう をい  は   ちぎょうすべ  のゆいしょな   また  かまくらどのよ  おんきゅうのところ  あら
 代官を置か不、本國に罷り下し 畢。 况や今重保に於て者、知行可き之由緒無し。又、鎌倉殿自り恩給之所に非ず。

  なに  もっ  おうりょう いた  せし    や   ただ  ゆきよし  だいかん ごう    つげぶみな  んば  もち  べからずのよし しょう
 何を以て押領を致さ令めん乎。但し行能の代官と号し、告文無く者、用う不可之由を稱す。

  たびたびいんぜんなら  かまくらどの おんくだしぶみ そむ  のかん  いんぜん  よっ    ごかんぱつ あずか   これ  よっ  かつう  ふとうのな   と     そ   おそ すくなからず
 度々院宣并びに鎌倉殿の御下文に背く之間、院宣に依て、御勘發に預る。之に因て且は不當之名を取り、其の恐れ少不。

  しからずんば ゆきよし  だいかん  ごう    のやから  をい  は   はや  から  と ら     ざいか  しょさる  べ   なり  まった ゆきよし  けっこう あらず
  然者、 行能の代官と号する之輩に於て者、早く搦め取被れ、罪科に處被る可き也。全く行能の結搆に非。

  よっ  つつし   げ
 仍て勤んで解す。

      ぶんじさんねんはちがつようか                                                  これむねはん
   文治三年八月八日                        惟宗判

現代語文治三年(1187)八月大八日丙子。梶原平三景時と原宗四郎行能が、それぞれ最勝寺と尊勝等の領地の年貢を横取りしたと、寺の管理者から訴えてきたと、後白河法皇から云ってきたので、両人に問い合わせたところ、それぞれ弁解状を差し出しました。この文書を院の事務所へ送るようにとのことでした。

 平景時が、謹んで弁明申し上げます
  尊勝寺御領の美作国(岡山県北東部)の林野と英多保(あいだのほう)の事
 右の事は、送ってこられた訴状を謹んで拝見いたしました。前におっしゃってこられた時にも、詳しく申し述べております。年貢その他の地頭の役務は、以前の例の通りに勤めております。私の代官の交代については、寺の管理者の訴えを取り上げる事はありません。その訳は、先例どおりに年貢も役務も怠けているわけではないので、訴えられる覚えはありません。但し、景時の管理を辞めさせて、所領を召し上げるために、このような事を云っているのでしょう。事情を何度も申し上げておりますので、これ以上詳しく弁明する内容はありません。謹んで申し上げます。
   文治三年八月五日                 平景時

 惟宗行能が、謹んで弁明申し上げます
 最勝寺が訴えている若狭国(福井県南部)の今重保の、後白河院の文書や鎌倉幕府の命令書の云う事を聞かないで、年貢を横取りしている事について
 右の事は、九郎判官義経が鎌倉を裏切った時に、関東から武士達が京都へ派遣された日、行能は北条時政殿の配下として京都へ上りました。それなので、駐屯軍食料の兵糧米徴収の土地として、代官を置いて徴収してはいけないと鎌倉殿頼朝様から命じられたので、代官を置かずに自分の本国へ帰りました。ましてや今重保などは、私の支配する謂れがありません。又、鎌倉殿から与えられた所でもありません。どうして横取りを出来るのでしょうか。但し、行能の代官と云ってる者が、行能の知行放棄文書の去り文がなければ、行能以外の云う事は聞かないと云ってる。何度かの院からの手紙と鎌倉殿からの命令書に背いてきたので、院からの手紙によって叱責される事になりました。これが原因で私に不当だと云う不名誉な名を与えられてしまう恐れは少なくありません。そう云う訳なので、行能の代官だといっている奴を、早くとっ捕まえて、罰せられて下さい。本当に行能の仕業ではありません。それなので謹んで申し上げます。
   文治三年八月五日                 惟宗(花押)

文治三年(1187)八月大九日丁丑。鶴岡宮中殊以掃除。今日造馬塲結埒。仍二品監臨給。若宮別當法眼被參會。常胤。朝政。重忠。義澄以下御家人群參云々。

読下し                    つるがおかちゅう  こと  もっ  そうじ     きょう  ばば   つく  らち  むす    よっ  にほん かんりん  たま
文治三年(1187)八月大九日丁丑。鶴岡宮中、殊に以て掃除す。今日馬塲を造り埒を結ぶ。仍て二品監臨し給ふ。

わかべっとうほうげんさんかいさる    つねたね  ともまさ  しげただ  よしずみ いか   ごけにんぐんさん    うんぬん
若宮別當法眼參會被る。常胤、朝政、重忠、義澄以下の御家人群參すと云々。

現代語文治三年(1187)八月大九日丁丑。鶴岡八幡宮の中を特別に掃除をしました。今日、流鏑馬の馬場を作り、垣根を結わえました。それなので頼朝様は様子を観察なされました。八幡宮長官の若宮別当法眼円暁も立ち会いました。千葉介常胤、小山四郎朝政、畠山次郎重忠、三浦介義澄を始めとする御家人が群れ集りましたとさ。

文治三年(1187)八月大十二日庚辰。右武衛能保。消息到來。當時京中。群盜乱入所處。尊卑爲之莫不消魂。就中。去年十二月三日。強盜推參太皇太后宮。殺害大夫進仲賢以下男女以來。太畧隔夜有此事。差勇士等。殊可警衛給之由。有天氣云々。

読下し                      うぶえいよしやす  しょうそことうらい    とうじきょうちゅう ぐんとうしょしょ  らんにゅう   そんぴこれ ため たましい けさず な
文治三年(1187)八月大十二日庚辰。右武衛能保が消息到來す。當時京中、群盜所處に乱入し、尊卑之の爲魂を消不は莫し。

なかんづく  きょねんじうにがつみっか  ごうとうたいこうたいごうぐう  すいさん    たいふさかんなかかた いげ   だんじょ  せつがいいらい たいりゃくかくよ  こ   ことあ
就中に、去年十二月三日、強盜太皇太后@宮に推參し、大夫進仲賢 以下の男女を殺害以來、太畧隔夜に此の事有り。

 ゆうしら   さ     こと  けいえい  たま  べ   のよし  てんき あ    うんぬん
勇士等を差し、殊に警衛し給ふ可き之由、天氣有りと云々。

参考@太皇太后は、藤原多子。

現代語文治三年(1187)八月大十二日庚辰。右武衛一条能保の手紙が届きました。現在京都の市中では、強盗の群れがあちこちに出没して、偉い人から身分の低い人まで、このためにビクビクして生きた心地がしません。特に、去年の十二月三日に太皇太后宮に入り込み、宮に仕える大夫進仲賢を始めとする男女を殺害してからと言うもの、概ね一晩おきに強盗があります。強い武士達を派遣し、特に警戒して戴きたいと、天皇も望んでおられますなんだとさ。

文治三年(1187)八月大十五日癸未。鶴岡放生會也。二品御出。參河守範頼。武藏守義信。々濃守遠光。遠江守義定。駿河守廣綱。小山兵衛尉朝政。千葉介常胤。三浦介義澄。八田右衛門尉知家。足立右馬允遠元等扈從。有流鏑馬。射手五騎。各先渡馬塲。次各射訖。皆莫不中的。其後有珎事。諏方大夫盛澄者。流鏑馬之藝窮。依慣傳秀郷朝臣秘决也。爰属平家。多年在京。連々交城南寺流鏑馬以下射藝訖。仍參向關東事。頗延引之間。二品有御氣色。日來爲囚人也。而被断罪者。流鏑馬一流永可陵廢間。賢慮思食煩。渉旬月之處。今日俄被召出之。被仰可射流鏑馬之由。盛澄申領状。召賜御厩第一悪馬。盛澄欲令騎之刻。御厩舎人密々告盛澄云。此御馬於的前必馳于右方也云々。則於一的前。寄于右方。盛澄爲生得逹者。押直兮射之。始終无相違。次以小土器。挿于五寸之串。三被立之。盛澄亦悉射畢。次可射件三ケ串之由。重被仰出。盛澄承之。既雖思切生涯之運。心中奉祈念諏方大明神。拝還瑞籬之砌。可仕靈神者。只今垂擁護給者。然後。鏃〔於〕平〔仁〕捻廻〔天〕射之。五寸串皆射切之。觀者莫不感。二品御氣色又快然。忽被仰厚免云々。今日流鏑馬。
 一番
  射手 長江太郎義景  的立 野三刑部丞成綱
 二番
  射手 伊澤五郎信光  的立 河匂七郎政頼
 三番
  射手 下河邊庄司行平 的立 勅使河原三郎有直
 四番
  射手 小山千法師丸  的立 淺羽小三郎行光
 五番
  射手 三浦平六義村  的立 横地太郎長重

読下し                    つるがおか ほうじょうえなり にほん ぎょしゅつ
文治三年(1187)八月大十五日癸未。鶴岡の放生會也。二品御出す。

みかわのかみのりより  むさしのかみよしのぶ しなののかみとおみつ とおとうみのかみよしさだ  するがのかみひろつな おやまのひょうえのじょうともまさ
參河守範頼、 武藏守義信、 々濃守遠光、 遠江守義定、 駿河守廣綱、 小山兵衛尉朝政、

ちばのすけつねたね  みうらのすけよしずみ  はったのうえもんのじょうともいえ  あだちのうまのじょうとおもとら こしょう
千葉介常胤、 三浦介義澄、 八田右衛門尉知家、 足立右馬允遠元等扈從す。

 やぶさめ あ      いて   ごき  おのおの ま    ばば  わた    つい おのおの いをはんぬ みなまと  あたらず  な
流鏑馬有り。射手は五騎。各、先ず馬塲に渡り。次で 各、 射訖。皆的に中不は莫し。

 そ  の ちんじ あ     すわのたいふもりずみは   やぶさめの げい  きわ    ひでさとあそん  ひけつ  なら  つた      よっ  なり
其の後珎事有り。諏方大夫盛澄者、流鏑馬之藝を窮む。秀郷朝臣の秘决を慣い傳うるに依て也。

ここ  へいけ   ぞく    たねん ざいきょう  れんれんじょうなんじ   やぶさめ いか   しゃげい  まじは をはんぬ
爰に平家に属し、多年在京し、連々城南寺@の流鏑馬以下の射藝に交り訖。

よっ  かんとう  さんこう    こと  すこぶ えんいんの かん  にほん みけしき あ      ひごろ めしうどたるなり
仍て關東へ參向する事、頗る延引之間、二品御氣色有りて、日來囚人爲也。

しか    だんざいさる  ば  やぶさめいちりゅう なが  りょうはいすべ  かん  けんりょおぼ め   わずら   しゅんげつ わた のところ
而るに断罪被れ者、流鏑馬一流永く陵廢可きの間、賢慮思し食し煩ひ、旬月に渉る之處、

きょう にはか これ  めしいだされ  やぶさめ  い   べ   のよし おお  らる    もりずみりょうじょう もう
今日俄に之を召出被、流鏑馬を射る可し之由仰せ被る。盛澄領状を申す。

みんまやだいいち あくば  めしたま     もりずみ のらせし      ほっ    のとき  みんまやのとねりみつみつ もりずみ つ    い
御厩第一の悪馬を召賜はり、盛澄騎令めんと欲する之刻、御厩舎人密々に盛澄に告げて云はく。

かく  おんうままと  まえ  をい  かなら  うほうに は    なり  うんぬん
此の御馬的の前に於て必ず右方于馳せる也と云々。

すなは いち  まとまえ  をい     うほうに よ     もりすみしょうとく たっしゃたれ   おしなお  て これ  い     しじゅうそうい な
則ち一の的前に於て、右方于寄る。盛澄生得の逹者爲ば、押直し兮之を射る。始終相違无し。

つい  こかわらけ  もっ    ごすんの くしに さしはさ   みっ  これ  たてらる   もりずみまたことご いをはんぬ
次で小土器を以て、五寸之串于挿み、三つ之を立被る。盛澄亦悉く射畢。

つい  くだん  みっつぐし  い   べ   のよし  かさ    おお  いでらる
次で件の三ケ串を射る可し之由、重ねて仰せ出被る。

もりずみこれ うけたま  すで  しょうがいのうん  おも  き     いへど  しんちう   すわだいみょうじん きねんたてまつ  みずがみのみぎり おが  かえっ
盛澄之を承り。既に生涯之運を思い切ると雖も、心中に諏方大明神を祈念奉り、瑞籬之砌を拝み還て、

りょうじん つか  べく  ば   ただいま ようご  たれたま  ば  しかるのち やじり 〔を〕 たいら 〔に〕  ねじっ  〔て〕   これ  い     ごすん  くしみなこれ   いき
靈神に仕う可ん者、只今擁護を垂給は者、然後、鏃〔於〕〔仁〕捻廻〔天〕之を射て、五寸の串皆之を射切る。

みるものかんぜず な    にほん みけしき またかいぜん たちま こうめん  おお  らる    うんぬん
觀者感不は莫し。二品御氣色又快然。忽ち厚免を仰せ被ると云々。

きょう   やぶさめ
今日の流鏑馬。

 いちばん      いて   ながえのたろうよしかげ   まとたて  のさのぎょうぶのじょうなりつな
 一番   射手 長江太郎義景  的立 野三刑部丞成綱

   に ばん      いて   いさわのごろうのぶみつ   まとたて  かわわのしちろうまさより
 二番   射手 伊澤五郎信光  的立 河匂七郎政頼

   さんばん      いて   しもこうべのしょうじゆきひら まとたて  てしがわらのさぶろうありなお
 三番   射手 下河邊庄司行平 的立 勅使河原三郎有直

   よんばん      いて   おやまのせんぽうしまる   まとたて  あさばのこさぶろうゆきみつ
 四番   射手 小山千法師丸  的立 淺羽小三郎行光

   ご ばん      いて   みうらのへいろくよしむら   まとたて  よこちのたろうながしげ
 五番   射手 三浦平六義村  的立 横地太郎長重

参考@城南寺は、京都市伏見区にあった寺。永暦元年(1160)以前の創建とされ、白河上皇の鳥羽殿の遺跡に作られたと云われる(コトバンクから)

現代語文治三年(1187)八月大十五日癸未。鶴岡八幡宮の生き物を放つ供養の式典放生会です。二品頼朝様はお出ましになられました。参河守蒲範頼、武蔵守大内義信、信濃守加々美遠光、遠江守安田義定、駿河守太田広綱、小山兵衛尉朝政、千葉介常胤、三浦介義澄、八田右衛門尉知家、足立右馬允遠元等がお供をしました。流鏑馬が有りました。射手は五騎です。各、先ず馬場を歩き、次で各、射終わりました。皆的に当たらないと云う事はありませんでした。

其の後珍事が有りました。諏方大夫盛澄は、流鏑馬之芸を究めております。俵藤太藤原秀郷の秘伝を習って伝えているのです。ただ、以前平家に仕えて長い間京都に住んでおり、何度も城南寺の流鏑馬を始めとする弓矢の大会に出場しておりました。そんな訳で、関東の頼朝様の基へ来るのが遅かったので、頼朝様はむくれて、囚人として扱っておられました。
しかし、罪人として死刑にしてしまうと流鏑馬の一流派を無くしてしまう事になるので、よくよくお考えになられて月日を送ってきましたが、今日突然に呼び出されて、流鏑馬を射てみるように、仰せられました。諏方大夫盛澄は承知をしました。
幕府厩の一番癖のある馬を命により与えたので、諏方大夫盛澄が乗ろうとすると、厩舎管理人が内緒で諏方大夫盛澄に教えて話しました。この馬は的の前に行くと必ず右へ出る癖があるとの事でした。諏方大夫盛澄は、生まれながらの馬術の名人なので、操縦しなおして、的を射ました。全て外す事はありませんでした。
次ぎに小さな土器の皿を五寸(15cm)の竹串に挟んで、的台にそれぞれ三つ立てましたが、諏方大夫盛澄はこれも全て射ち落としました。今度は、残った三本の串を射てみろと、なお仰せになられました。諏方大夫盛澄はこれも承知をして、囚人になった時点で自分の将来はないものと観念しておりましたけれども、心の中に氏神様の諏訪大明神にお祈りをして、八幡宮の瑞垣のそばで拝みながら出発地点へ戻って、神様に仕える者なので、今こそ守ってくださいと拝んだ後、鏃を水平に捻り回して、この串を射たので、五寸の串の全てを射切りました。見ている人達で感心しない者はおりません。頼朝様も大喜びして、直ぐに囚人の身の上を許してあげようと仰せになられましたとさ。

今日の流鏑馬の人達は、
 一番の射手は、長江太郎義景。  的立は、野三刑部丞成綱。
 二番の射手は、伊沢五郎信光。  的立は、河匂七郎政頼。
 三番の射手は、下河辺庄司行平。 的立は、勅使河原三郎有直。
 四番の射手は、小山千法師丸。  的立は、浅羽小三郎行光。
 五番の射手は、三浦平六義村。  的立は、横地太郎長重。

文治三年(1187)八月大十九日丁亥。洛中狼藉事。連々被下 院宣之間。且尋問子細。且爲相鎭之。千葉介常胤。下河邊庄司行平可上洛之旨。被仰付訖。各申領状之間。今日被召御前。有御餞別之儀。又賜御馬。承條々仰云々。御消息云。
 洛中群盜蜂起。并散在武士狼藉事。度々被仰下候之趣。殊驚歎思給候。時政下向之時。東國武士少々差置候訖。其外も。或爲兵粮米沙汰。或爲大番勤仕。武士等在京事多々候歟。彼輩不鎭狼藉。還疲計畧。若如此事をもや企候覽。人口難塞候。然者偏可爲頼朝耻辱候。當時親能廣元雖在京候。元自非武器候。只閑院殿修造事。致沙汰候計也。如此事全不可爲彼等不覺候歟。仍常胤行平を差進候。於東國有勢者候之上。相憑勇士候也。自余事ハ知候はす。方武士等中狼藉ハ。此兩人輙可相鎭候。見器量計進候。能々可被仰付候。條々猶以別紙言上候。且此趣可令洩披露給候。頼朝恐々謹言。
        八月十九日                       頼朝
  進上  師中納言殿

読下し                    らくちゅうろうぜき  こと  れんれんいんぜん くださる のかん  かつう しさい  じんもん    かつう これ  あいしず   ため
文治三年(1187)八月大十九日丁亥。洛中狼藉の事、連々院宣を下被る之間、且は子細を尋問し、且は之を相鎭めん爲、

ちばのすけつねたね しもこうべのしょうじゆきひら じょうらくすべ  のむね  おお  つ  られをはんぬ
千葉介常胤、 下河邊庄司行平、上洛可き之旨、仰せ付け被訖。

おのおの りょうじょう もう   のかん   きょう ごぜん  めされ   おんせんべつのぎ あ    また  おんうま  たま     じょうじょう おお   うけたまは  うんぬん  ごしょうそこ  い
各、 領状を申す之間、今日御前に召被、御餞別之儀有り。又、御馬を賜はり、條々の仰せを承ると云々。御消息に云はく。

  らくちゅう ぐんとうほうき  なら    さんざい   ぶし   ろうぜき  こと  たびたび おお くだされそうろうのおもむき  こと  おどろ なげ  おぼ  たま そうろう
 洛中の群盜蜂起、并びに散在の武士の狼藉の事、度々 仰せ下被 候 之趣、 殊に驚き歎き思し給ひ 候。

  ときまさ げこうのとき   とうごくぶし しょうしょう さ  お  そうら をはんぬ
 時政下向之時、東國武士少々差し置き候ひ訖。

  そ   ほか      ある    ひょうろうまいさた  ため  ある    おおばんきんじ  ため   ぶしら ざいきょう こと たた   そうら   か
 其の外にも、或ひは兵粮米沙汰の爲、或ひは大番勤仕の爲、武士等在京の事多々に候はん歟。

  か  やからろうぜき しずめず かへっ けいりゃく つか   も   かく  ごと  こと     くはだ そうろうらん  ひと  くちふさ  がた そうろう
 彼の輩狼藉を鎭不、還て計畧に疲れ、若し此の如き事をもや企て候 覽。 人の口塞ぎ難く候。

  しからずんば ひとへ よりとも ちじょくたるべ そうろう  とうじちかよし  ひろもとざいきょうそうろう いへど   もとよ   ぶ  うつわ  あら そうろう
  然者、 偏に頼朝が耻辱爲可く候。當時親能、廣元在京 候と 雖も、元自り武の器に非ず候。

  ただ  かんいんどのしゅうぞう こと   さた いた そうろうばか なり  かく  ごと  ことまった  かれら  ふかくたるべからずそうろうか
 只、閑院殿修造の事、沙汰致し 候 計り也。此の如き事全く彼等の不覺爲不可候 歟。

   よっ  つねたね  ゆきひら  さ   しん そうろう  とうごく   をい  うぜい   もの そうろうのうえ  あいたのも   ゆうし そうろうなり   じよ    ことは し   そうらはず
 仍て常胤、行平を差し進じ候。東國に於て有勢の者に候之上、相憑しき勇士に候也。自余の事ハ知り候はす。

   ぶしら   なか  ろうぜき  ほうは   かく りょうにんたやす あいしず  べ そうろう  きりょう  み  はから  しん そうろう  よくよくおお  つ   られ  べ そうろう
 武士等の中の狼藉の方ハ、此の兩人輙く相鎭む可く 候。 器量を見て計い進じ候。 能々仰せ付け被る可く候。

  じょうじょう なおべっし  もっ  ごんじょう そうろう  かつう かく おもむき  も  ひろうせし  たま  べ  そうろう  よりともきょうこうきんげん
 條々、猶別紙を以て言上し 候。 且は此の趣を洩れ披露令め給ふ可く候。 頼朝恐々謹言。

                  はちがつじうくにち                                               よりとも
        八月十九日                       頼朝

    しんじょう   そちのちうなごんどの
  進上  師中納言殿

現代語文治三年(1187)八月大十九日丁亥。京都市中での乱暴狼藉について、何度も後白河法皇が言ってきているので、一つは事情を良く調べて、一つはこれを鎮め抑えるため、千葉介常胤と下河辺庄司行平に京都へ上るように、命じられました。それぞれ了解を述べたので、今日、目の前へお呼びになり、お別れの儀式を行いました。又、馬を贈られて、色々と命令を聞かされましたとさ。吉田経房への手紙には、

 京都市中での強盗の群れが出没している事や、あちこちの武士の悪い業績について、何度か仰せになってこられた事ですが、全く驚いており、又嘆かわしい事だと思っております。北条時政が京都に居た時は、関東の武士を少しですが駐屯させて置きました。この他にも、或る時は軍事用食料の兵糧米の取立てや、或る時は京都朝廷を警固するための京都大番役などで、武士が京都に居るのは多いでしょうね。その連中が、乱暴狼藉を鎮めるどころか、自分らの生活の算段に困って、そのような事をもしたのかもしれませんね。世人の口は塞ぎようもありませんね。もしそうならば、それはもっぱら御家人統制者としての頼朝の恥になります。現在、中原親能と大江広元が京都におりますけで、元々武芸の器ではありません。ただ、里内裏閑院殿の修理の手はずをさせるだけなのです。そのような武力に関する事は、全く彼等の手に負えるものではありません。それなので、千葉介常胤と下河辺庄司行平を京都へ行かせます。関東の中でも、勢力の有る武士なので、頼もしい勇士なのですよ。それぞれの得て不得手を見て考えて行かせますので、良く申し付けてください。他の色々な事は、別紙にて申し上げます。では、この内容で後白河法皇にお伝えください。頼朝が恐れ入って申し上げます。
      八月十九日               頼朝
  申し上げます 師中納言吉田経房殿

文治三年(1187)八月大廿日戊子。民部大夫行景使者自土佐國參着。以弓百張。并魚鳥干物以下。積一艘船進上之。又依勵故土佐冠者〔希義〕追福。可愍琳猷上人之由。先日被仰事。殊可存其旨之趣。捧請文云々。件弓廿張者。仰堀藤次。被納置之。八十張者。分給祗候之壯士等。其中勤仕弓塲御的之輩者。各賜三張。所謂下河邊庄司行平。和田小太郎義盛。佐野太郎基綱。三浦十郎義連。稲毛三郎重成。榛谷四郎重朝。藤澤次郎近C(藤澤二郎C親)以下也。

読下し                     みんぶのたいふゆきかげ  ししゃ  とさのくによ   さんちゃく
文治三年(1187)八月大廿日戊子。民部大夫行景が使者、土佐國自り參着す。

ゆみひゃくはりなら  ぎょちょう ひもの いか   もっ    いっそう  ふね  つ   これ  しんじょう
弓百張并びに魚鳥の干物以下を以て、一艘の船に積み之を進上す。

また   ことさのかじゃ  〔まれよし〕   ついぶく  はげ    よっ    りんゆうしょうにん あわれ べ  のよし  せんじつおお  らる  こと
又、故土佐冠者〔希義〕の追福を勵むに依て、琳猷上人を愍む可し之由、先日仰せ被る事、

こと  そ   むね  ぞん  べ のおもむき  うけぶみ  ささ      うんぬん
殊に其の旨を存ず可し之趣、請文を捧げると云々。

くだん ゆみにじうはりは ほりのとうじ  おお      これ  おさ  おかれ   はちじうはりは  しこう の そうしら   わ   たま
件の弓廿張者、堀藤次に仰せて、之を納め置被、八十張者、祗候之壯士等に分け給ふ。

そ   なか  ゆんば みまと  ごんじのやからは  おのおの みはり  たま
其の中に弓塲御的に勤仕之輩者、 各 三張を賜はる。

いはゆる しもこうべのしょうじゆきひら  わだのこたろうよしもり    さののたろうもとつな  みうらのじうろうよしつら いなげのさぶろうしげなり
所謂、下河邊庄司行平、和田小太郎義盛、佐野太郎基綱、三浦十郎義連、稲毛三郎重成、

はんがやつのしろうしげとも ふじさわのじろうきよちか いかなり
榛谷四郎重朝、 藤澤次郎C近 以下也。

現代語文治三年(1187)八月大二十日戊子。民部大夫源行景の使者が、土佐国から到着しました。弓百張や魚や鳥の干物などを持って、船一艘をよこしました。又、故土佐冠者〔希義〕の法事などの供養をしてくれている琳猷上人を大事にするように、以前言いつけられている事は、特に良く承知している旨を、返書にしたためてよこしましたとさ。
その貰った弓の二十張りは、堀藤次親家に命じて幕府に保管し、八十張りは居合わせている勇敢な武士達に分け与えられました。その中に、弓場御的の維持を担当している者達には、それぞれ三張を与えました。それは、下河辺庄司行平、和田小太郎義盛、佐野太郎基綱、三浦十郎義連、稲毛三郎重成、榛谷四郎重朝、藤沢次郎清近 以下でした。

文治三年(1187)八月大廿五日癸巳。因幡前司廣元使者自京都參着。去十五日於六條若宮。始行放生會之處。見物雜人中鬪乱出來。有被疵之者等云々。

読下し                     いなばのぜんじひろもと  ししゃ  きょうとよ   さんちゃく
文治三年(1187)八月大廿五日癸巳。因幡前司廣元が使者、京都自り參着す。

さんぬ じうごにちろくじょうわかみや をい   ほうじょうえ  しぎょう    のところ  けんぶつ ぞうにん ちゅう とうらんいできた   きずされ  のものら あ     うんぬん
去る十五日六條若宮に於て、放生會を始行する之處、見物の雜人@中に鬪乱出來り、疵被る之者等有りと云々。

参考@雑人の用語解説 - 身分の低い者。下賤の者。コトバンクより

現代語文治三年(1187)八月大二十五日癸巳。因幡前司大江広元の使者が、京都から到着しました。先日の十五日に六条若宮で、生き物を放つ供養の式典放生会を始めたら、見物人の身分の低い連中が乱闘を起こし、怪我をするものが出ましただとさ。

文治三年(1187)八月大廿六日甲午。可令遠江守義定修造稻荷社之由。爲權黄門〔經房〕奉被仰下。所被募重任之功也。稻荷祗園兩社破壞之間。皆付成功。可被終修治之功。

読下し                     とおとうみのかみよしさだ いなりしゃ  しゅうぞうせし べ  のよし  ごんのこうもん〔つねふさ〕   たてまつ  な   おお  くだされ
文治三年(1187)八月大廿六日甲午。 遠江守義定に 稻荷社を修造令む可し之由、權黄門〔經房〕の奉りと爲し仰せ下被る。

ちょうにんのこう  つのられ ところなり  いなり  ぎおん  りょうしゃはかいのかん  みなじょうごう ふ     しゅうじの こう   おえられ べ
重任之功に募被る所也。稻荷、祗園の兩社破壞之間、皆成功に付し、修治之功を終被る可し。

現代語文治三年(1187)八月大二十六日甲午。遠江守安田義定に、伏見稲荷の修理をするように、中納言吉田経房が仲介して後白河法皇から命じられました。遠江守を再任するための福祉事業を仕向けられました。伏見稲荷も祗薗八坂神社も壊れたところは、すべて官職を与えられる勤労奉仕で修理をするようにするんだとさ。

文治三年(1187)八月大廿七日乙未。下河邊庄司行平爲使節上洛。又重被申京都條々。
 一 群盜事
  洛中案内者所爲歟。若又畿内近國武士歟。兩篇能々可有御尋歟事。
 一 江大夫判官下部等狼藉事
  於河内國。号關東家人。及寄取狼藉由。所令風聞也。全頼朝无申付之旨。可有御尋事。
 一 北面人々任廷尉事
  此事。近年諸人望也。先々不輙事歟。能々撰其仁。可被抽補事。
 一 壹岐判官下向事
  同意義經行家等者也。随而无別仰。此上可進上歟事。
 一 奉公人々子孫事
  先々有功之人子孫沈淪ハ君御不覺也。殊可被進公庭事。
 一 西八條地事
  爲没官領。雖宛賜之。可有公用之由。内々承畢。早可在御定事。
 一 所々地頭輩事
  以前。既面々含子細畢。若於不拘頼朝成敗輩事者。随被仰下。可加治罰事。
 右條々。存公平。所令言上也。
   文治三年八月廿七日

読下し                     しもこうべのしょうじゆきひら  しせつ  な   じょうらく   また  かさ    きょうと じょうじょう もうさる
文治三年(1187)八月大廿七日乙未。下河邊庄司行平、使節と爲し上洛す。又、重ねて京都へ條々を申被る。

  ひとつ ぐんとう  こと
 一 群盜の事

    らくちゅう  あないじゃ  しわざたるか  も   また  きないきんごく  ぶし か   りょうへんよくよくおたずね  あ   べ   か   こと
  洛中の案内者の所爲歟。若し又は畿内近國の武士歟。兩篇能々御尋ね有る可き歟の事。

  ひとつ えのたいふほうがん  しもべら   ろうぜき  こと
 一 江大夫判官の下部等が狼藉の事

    かわちのくに  をい    かんとう けにん  ごう    よ   と   ろうぜき  およ    よし  ふうぶんせし ところなり
  河内國に於て、關東家人と号し、寄せ取り狼藉に及ぶの由、風聞令む所也。

    まった よりとも  もう  つ   のむね  な     おたず  あ   べ   こと
  全く頼朝の申し付け之旨に无し。御尋ね有る可き事。

  ひとつ ほくめん ひとびと  ていい  にん    こと
 一 北面@の人々、廷尉に任ずる事

    かく  こと  きんねんしょにん のぞ  なり  たやすからざることか  よくよく そ  じん  えら    ね   ぶ さる  べ   こと
  此の事、近年諸人が望む也。先々輙不事歟。能々其の仁を撰び、抽き補被る可き事。

  ひとつ いきのほうがんげこう   こと
 一 壹岐判官下向の事

    よしつね  ゆきいえら  どういしゃなり   したが て べつ  おお  な    かく  うえ  しんじょうすべ か   こと
  義經、行家等に同意者也。随い而別の仰せ无し。此の上は進上可き歟の事。

  ひとつ ほうこう  ひとびと  こまご  こと
 一 奉公の人々の子孫の事

    さきざきこう あ   のひと  こまご   ちんりんは きみ  ごふかくなり  こと  こうてい  しん  られ  べ     こと
  先々功有る之人の子孫の沈淪ハ君の御不覺也。殊に公庭に進じ被る可きの事。

  ひとつ にしはちじょう ち  こと
 一 西八條の地の事

    もっかんりょう  な     これ  あてたま      いへど   こうようあ   べ   のよし  ないない うけたまは をはんぬ はや  ごじょうあ   べ   こと
  没官領と爲し、之を宛賜はると雖も、公用有る可し之由、内々に 承り 畢。 早く御定在る可き事。

  ひとつ しょしょ   ぢとう やから  こと
 一 所々の地頭の輩の事

    まえもっ    すで  めんめん  しさい  ふく をはんぬ も  よりとも  せいばい  かかわらぬやから こと  をい  は   おお  くだされ    したが
  前以て、既に面々に子細を含め畢。若し頼朝の成敗に 拘不輩の 事に於て者、仰せ下被るに随い、

     じばつ  くは  べ   こと
  治罰を加う可き事。

  みぎ じょうじょう  こうへい  ぞん   ごんじょうせし ところなり
 右の條々、公平Aを存じ、言上令む所也。

       ぶんじさんえんはちがつにじうしちにち
   文治三年八月廿七日

参考@北面は、白河法皇が院直属の軍隊として護衛用の武士を雇ったのが始まりで、御所の北側に置いたところから北面の武士と呼ばれる。又、鑓水の取水口があったので滝口ともいわれる。北面には、五位以上の上北面と六位以下の下北面とがあり、兵衛尉クラスは下北面の武者。
参考A公平は、現在の公平な判断の意味ではなく、公の平穏。

現代語文治三年(1187)八月大二十七日乙未。下河辺庄司行平は、派遣員として京都へ向かい出発しました。これに、色々な京都朝廷への申し入れるためです。

一つ 強盗の群れのこと
  京都に詳しいものの仕業か、もしくは京都周辺の武士であろうか。どちらにしても良くお調べいただくことですね。
一つ 
江大夫判官検非違使大江公朝の下男が悪い業績について
  河内国で、関東の御家人だと偽って、居座ってあくどい業績をしていると噂に聞いています。全く頼朝とは関係のないやつなので、良く調べてください。
一つ 院の直属軍人の検非違使任命について
   このような官職に就くことは、最近では誰もが望んでいますが、以前はたやすく認められませんでした。よくよくそのふさわしい人柄を選んで、より分けて任命するべきです。
一つ 壱岐鼓判官平知康について
   義経、行家に味方している者です。ですけど特に意見はありませんので、京都朝廷にお返しするので判断してください。
一つ 朝廷へ尽くした人達の子孫について
   先祖が朝廷への手柄の有る人達の子孫が浮かばれないのは、朝廷の怠慢である。特に政務に任命されるように。
一つ 西八条の屋敷地について
   平家から没収した領地として戴きましたが、朝廷でもお使いになられたいと、内々にお聞きしましたので、早くどうするか決めてください。
一つ あちこちの地頭たちについて
   前もって、すでにそれぞれに良くいい気かせてあります。若し頼朝の指示に従わない奴がいましたら、教えていただければ、罰っしましょう。
 以上の事柄を、朝廷の公の平穏を考えて、申し上げます。
    文治三年八月二十七日

文治三年(1187)八月大廿八日丙申。閑院遷幸料樂屋幄覆并御誦經幄覆以下。十月中可染進 仙洞之由。被仰美濃權守親能之許云々。

読下し                     かんいんせんこうりょう がくや  あくおおい なら  ごしょうきょう あくおおい いげ
文治三年(1187)八月大廿八日丙申。閑院遷幸料、樂屋@の幄覆A并びに御誦經の幄覆 以下、

じうがつちう  せんとう  そ   しん  べ   のよし みののかみちかよしのもと  おお  らる    うんぬん
十月中に仙洞へ染め進ず可し之由、美濃權守親能之許へ仰せ被ると云々。

参考@樂屋は、楽人のための仮設天幕。
参考A幄覆は、儀式の天幕を包むように張った幔幕。当時「幄舎(あくしゃ)」と呼ばれ、禁中や公家の行事をはじめ、社寺の祭礼・法会の際の臨時の建物として使われていた。「有職故実大辞典」では、「柱を立て、棟を設け、布帛を張り巡らして、屋根から周囲全体を覆い包んで“あげばり”といい、その布帛を“幄覆(あくおおい)”という」とある。

現代語文治三年(1187)八月大二十八日丙申。天皇の里内裏の引越の儀式に、楽人の仮設天幕を包む幔幕と、坊さんが祈祷のお経をあげる仮設天幕の幔幕を、十月中に染め上げて後白河院へ献上するように、美濃権守中原親能の所へ申し付けられましたとさ。

文治三年(1187)八月大卅日丁酉。千葉介常胤爲使節上洛。是洛中狼藉事。爲關東御家人等所爲歟之由。有疑貽之旨。風聞之間。爲令尋沙汰也。合御使行平先以進發訖。可同道之處。常胤違例之間。延而及今日云々。

読下し                   ちばのすけつねたね しせつ な  じょうらく
文治三年(1187)八月大卅日丁酉。千葉介常胤使節と爲し上洛す。

これ  らくちうろうぜき  こと  かんとう   ごけにんら   しわざ たるか のよし  ぎたいあ   のむね  ふうぶんのかん  たず   さた せし  ためなり
是、洛中狼藉の事、關東の御家人等の所爲爲歟之由、疑貽有る之旨、風聞之間、尋ね沙汰令む爲也。

ごうおんし ゆきひら ま  もっ  しんぱつ をはんぬ どうどうすべ  のところ  つねたねいれいのかん の   て きょう  およ    うんぬん
合御使@行平先ず以て進發し 訖。 同道可き之處、常胤違例之間、延び而今日に及ぶと云々。

参考@合御使は、遣唐使以来幕末まで必ず正副両使を任命した。

現代語文治三年(1187)八月大三十日丁酉。千葉介常胤は、派遣員として京都へ向かい出発しました。その目的は、京都市中での治安の悪化が、関東の御家人のしている事だと、疑惑があると朝廷で噂をしているので、調べて対処するためです。同じように下河辺庄司行平は先に出発しております。一緒に行く予定だったのですが、千葉介常胤が具合が悪かったので、延期をしていて今日になりましたとさ。

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吾妻鏡入門第七巻

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