吾妻鏡入門第七巻

文治三年(1187)十月大

文治三年(1187)十月大一日戊辰。法皇御潅頂御訪用途事。兼日雖被仰下。他事計會之間。于今无沙汰。於御入壇者。去八月廿二日令遂御訖。然而所調置之貢物不可默止。所令運送京都給也。雜色六人相副之。解文書樣。
 進上
  紺絹  百切
  上品絹 百疋
  國絹  百疋
  藍摺  百端
  色革  百枚
 右。進上如件。
   文治三年十月日

読下し                   ほうおうごかんちょうおんとぶら ようとう  こと  けんじつおお くださる   いへど   たごとけいかきのかん  いまに さた な
文治三年(1187)十月大一日戊辰。法皇御潅頂御訪い用途の事、兼日仰せ下被ると雖も、他事計會之間、今于沙汰无し。

ごにゅうだん  をい  は   さんぬ はちがつにじうにち と  たま  せし をはんぬ
御入壇に於て者、去る八月廿二日遂げ御は令め 訖。

しかれども ととの お  ところのみつぎもの もくし  べからず  きょうと  うんそうせし  たま ところなり
然而、調へ置く所之貢物、默止す不可。京都へ運送令め給ふ所也。

ぞうしきろくにんこれ  あいそ       げぶみ  かきざま
雜色六人之に相副へる解文の書樣、

  しんじょう
 進上す

    こんけん    ひゃっきり
  紺絹  百切

    じょうぼんぎぬ ひゃっぴき
  上品絹 百疋

    くにぎぬ    ひゃっぴき
  國絹  百疋

    あいずり    ひゃくたん
  藍摺  百端

    いろかわ    ひゃくまい
  色革  百枚

  みぎ しんじょうくだん ごと
 右、進上件の如し。

       ぶんじさんねんじうがつにち
   文治三年十月日

現代語文治三年(1187)十月大一日戊辰。後白河法皇が密教の伝授式に偉い坊さんから頭に聖水をかけて貰う儀式の「伝法潅頂」の贈り物の用意を、前もって云ってはおられましたが、他の用事が忙しくて、未だに決定しておりません。壇へ上っての潅頂儀式は、先日の八月二十二日に終了いたしました。とは云っても、用意しておいた贈り物を放置しておけないので、京都へ運ばせる事にしました。雑用係の六人とそれに持たせる上申書には、

献上いたします。
 紺色の絹 百切れ。
 極上品の絹 百疋(二百反)。
 東北地方の国絹 百疋(二百反)。
 藍染の絹 百反。
 色染め下皮 百枚。
 右の通りお届けいたします。
   文治三年十月日

文治三年(1187)十月大二日己巳。二品令出由比浦給。有牛追物。重朝。義盛。義連。C重等爲射手。還御之次。入御岡崎四郎宅。献盃酒。此間召出故余一義忠子息小童入見參。義忠弃命於石橋戰塲。勳功異于他之間。殊憐愍給云々。

読下し                   にほん ゆいのうら  いでせし  たま    うしおうもの あ     しげとも  よしもり  よしつら  きよしげら いて たり
文治三年(1187)十月大二日己巳。二品由比浦@へ出令め給ふ。牛追物A有り。重朝、義盛、義連、C重等射手爲。

かんごのついで   おかざきのしろう たく  にゅうぎょ   はいしゅ  けん    こ   かん  こよいちよしただ   しそく  しょうどう  めしいだ  げざん  い
還御之次に、岡崎四郎の宅へ入御す。盃酒を献ず。此の間に故余一義忠Bが子息の小童を召出し見參に入る。

よしただ いのちをいしばし せんじょう す     くんこう たに こと    のかん  こと  れんみん  たま    うんぬん
義忠、命於石橋の戰塲に弃て、勳功他于異なる之間、殊に憐愍し給ふと云々。

参考@由比浦は、鎌倉市由比ガ浜2丁目3地先の発掘された大鳥居跡の辺りまで浦が入っていたものと思われる。
参考A牛追物は、囲いの中に牛を放ち、囲いの外から蟇目で打つ。
参考B余一義忠は、佐那田余一義忠で岡崎義實の嫡男。石橋山の合戦で俣野五郎景久を組み伏せるも、刀が抜けず後ろから長尾新六定景に討たれた。

現代語文治三年(1187)十月大二日己巳。頼朝様は、由比の浦へお出かけになられました。囲いの中に牛を放ち、鏃の無い蟇目で討つ、弓の訓練牛追物をしました。榛谷四郎重朝、和田左衛門尉義盛、三浦十郎義連、葛西兵衛尉清重等が射手を勤めました。帰りがけに、岡崎四郎義実の屋敷へ寄られました。酒宴を用意しました。
その間に、故佐那田余一義忠の子供達を呼んで様子を見ました。佐那田義忠は、頼朝様初戦の石橋の合戦で命を落としましたので、その手柄は誰よりも大きい事なので、特に哀れみをかけておられるのだそうな。

文治三年(1187)十月大三日庚午。付下河邊庄司千葉介等上洛。々中群盜以下條々。令奏聞給事。悉有 勅答。其状。今日所到來于鎌倉也。又御熊野詣用途事被仰下。不日可令進御請文給之由云々。 院宣云。
  去八月十九日。同廿七日等御消息。今月十五日到來。條々事 奏聞候畢。
 一 群盜并人々事
  如令申給。洛中案内者。若又畿内之輩所爲之由。一向所聞食也。本自關東武士所行をも。全不風聞。又不仰遣其旨。只近代使廳沙汰。遂日尫弱。偏如鴻毛。在京守護武士合力致沙汰者。何不被禁遏乎之由依思食。殊可有尋沙汰之由。所被仰遣也。就中實犯之輩。号武士威之時。使廳弥迷成敗云々。尤可有推察事歟。然而可爲使廳沙汰之由。令計申給之條。法之所指。尤可然事也。仍殊可有御沙汰之由。被申攝政畢。但於武士。可合力事歟。抑公朝所從事未聞食及。如状者尤不當事歟。早可有尋沙汰也。信盛公朝等任廷尉事。令申給之趣。尤有其謂事歟。但白河鳥羽院御時も。源氏平氏等相並爲追捕官人。其外又如此被召仕之輩。依无他昇進之道。拝任來歟。強非新儀歟。知康事。下向之時も不奏事由。在國之間も无申入之旨。遂上とも。只可在御計。不及沙汰事也。奉公者子孫事。令執申給之旨。随喜思食也。且是本自有御存知也。
 一 西八條事
  事次被仰出畢。令去進給。雖爲御本意。當時無指御用。早如本可令知行給。
 一 所々地頭等事
  任令成敗給之旨。各可被仰下也。此上有申上事者。重可被仰遣歟。偏限御用事。非被觸仰。多依爲神社佛寺訴訟。難默止之間。細々所仰遣也。人愁神崇も積ぬれハ。世間も如此不落居。若被散所々愁者。神明も擁護シ。諸人も悦豫せハ。徳政とも成て。世上も弥属靜謐。義顯事も神明冥助にて。分明に聞事や有と思食之上。如此事。随理非可有成敗之樣。度々依令申給。且随人申。且不尋决是非。爲令計沙汰給。連々所仰遣也。然而義顯事。雖有説々。未聞食現證。依此事用心之條。旁有其謂。縱雖有御大切事。可随令計申給。何况非私用而偏存公平。爲鎭天下。令計沙汰申給。不及異儀歟。自今以後。可有御猶豫也。但依所々訴。猶雖被仰遣。只任理非。可令成敗給歟。爲御存知。兼所被仰置也。
 一 圓勝寺領駿河國益頭庄事
  非没官領内。故信業朝臣年來所知行也。仍件庄。去比雖被仰付能保朝臣。所辞申也。早致沙汰。寺家年貢无懈怠可令進濟給。
 一 御熊野詣事
  御寳算不可令過今明年御之由。旁所思食也。依難合期向後御年篭。可有御參詣之由。所思食企也。御僧供米千石。如前々令沙汰進給乎。依无他御計畧。所被仰遣也。又輕物も少々可訪進給。但態々不及被相尋事也。御潅頂已被遂畢。件用途事。於今者不及沙汰事也。
 一 阿武郡事
  御造作連々之間。材木多入。仍雖被仰。此上不能左右歟。
 以前條々。 院宣如此。仍執逹如件。
      九月廿日                    太宰權師藤經房〔奉〕
  私啓
  朝覲行幸事。來十一月上旬可候也。先日所被仰候之幄覆事。出來候者。期日以前令進給。可宜候歟。爲御存知。所申候也。兼又群盜事。付常胤行平。雖令献御札給。爲省紙筆。以一通申御返事候也。彼兩人上洛以後。洛中以外靜謐。能々可被感仰之旨候也。重謹言。  

読下し                    しもこうべのしょうじ  ちばのすけら   じょうらく  ふ       らくちう  ぐんとう いか じょうじょう
文治三年(1187)十月大三日庚午。下河邊庄司、千葉介等の上洛に付した、々中の群盜以下の條々、

そうもんせし  たま  こと  ことごと ちょくとうあ
奏聞令め給ふ事、 悉く 勅答有り。

そ  じょう  きょう かまくらに とうらい   ところなり  また  おんくまのもうで  ようとう  ことおお  くださる
其の状、今日鎌倉于到來する所也。又、御熊野詣の用途の事仰せ下被る。

ふじつ  おんうけぶみ  しん  せし  たま  べ   のよし  うんぬん  いんぜん  い
不日に御請文を進じ令め給ふ可し之由と云々。院宣に云はく。

    さんぬ はちがつじうくにち  おな    にじうしちにちら ごしょうそこ  こんげつじうごにちとうらい   じょうじょう  ことそうもん そうら をはんぬ
  去る八月十九日、同じき廿七日等の御消息、今月十五日到來す。條々の事奏聞し候ひ畢。

  ひとつ ぐんとうなら    ひとびと  こと
 一  群盜并びに人々の事

     もう  せし  たま  ごと    らくちう  あないじゃ  も   また  きないのやから  しわざの よし  いっこう   き     め  ところなり
  申さ令め給ふ如く、洛中の案内者、若し又、畿内之輩が所爲之由、一向に聞こし食す所也。

     もとよ   かんとう   ぶし   しわざ      まった ふうぶんせず また  そ  むね  おお  つか  さず
  本自り關東の武士の所行をも、全く風聞不。又、其の旨を仰せ遣は不。

     ただ  きんだいしちょう   さた   ひ   おっ  おうじゃく   ひとへ こう  け   ごと
  只、近代使廳の沙汰、日を遂て尫弱す。偏に鴻の毛の如し。

     ざいきょうしゅご   ぶし ごうりき   さた いた  ば   なん  きんあつされずや のよし  おぼ  め     よっ
  在京守護の武士合力し沙汰致さ者、何ぞ禁遏被不乎之由、思し食すに依て、

     こと  たず   さた あ   べ   のよし  おお  つか  さる ところなり
  殊に尋ね沙汰有る可き之由、仰せ遣は被る所也。

     なかんづく  じっぱんのやから  ぶし   ごう  おど  のとき  しちょうややせいばい まよ    うんぬん  もっと すいさつあ   べ   ことか
  就中に、實犯之輩、武士と号し威す之時、使廳弥成敗に迷うと云々。尤も推察有る可き事歟。

     しかれども しちょう   さた たるべ   のよし  はか  もう  せし  たま  のじょう  ほうの さ   ところ  もっと しか  べ   ことなり
  然而、使廳の沙汰爲可き之由、計り申さ令め給ふ之條、法之指せる所、尤も然る可き事也。

     よっ  こと  おんさた あるべ  のよし  せっしょう もうされをはんぬ   ただ   ぶし   をい    ごうりきすべ  ことか
  仍て殊に御沙汰有可き之由、攝政に申被畢。 但し武士に於て、合力可き事歟。

    そもそ  きんともしょじゅう こといま  き     め    およ      じょう ごと    ば もっと  ふとう   ことか   はや  たず   さた あるべ  なり
  抑も公朝所從の事未だ聞こし食すに及ばず。状の如くん者尤も不當な事歟。早く尋ね沙汰有可き也。

     のぶもり  きんともら ていじょう にん   こと  もう  せし  たま のおもむき もっと そ   いは  あ   ことか
  信盛、公朝等廷尉に任ずる事、申さ令め給ふ之趣、尤も其の謂れ有る事歟。

     ただ  しわかわ  とばいん  おんとき    げんじ  へいしら あいなら  ついぶ  かんじんたり
  但し白河、鳥羽院の御時も、源氏、平氏等相並び追捕の官人爲。

     そ   ほか  また  かく  ごと  めしつか れるのやから ほか しょうしんのみち な   よっ    はいにん  きた  か    あなが   しんぎ  あらざ  か
  其の外も又、此の如く召仕は被之輩、他に昇進之道无きに依て、拝任し來る歟。強ちに新儀に非る歟。

     ともやす  こと  げこうのとき   こと  よし  そうせず  ざいこくのかん  もう  いれのむねな
  知康の事、下向之時も事の由を奏不。在國之間も申し入之旨无し。

     おっ  のぼ        ただおんはかり あ  べ     さた   およ  ざることなり
  遂て上るとも、只御計に在る可し。沙汰に及ば不事也。

     ほうこう  もの   こまご   こと  しっ  もう  せし  たま  のむね  ずいき  おぼ  め   なり  かつう   これもとよ  ごぞんじ あるなり
  奉公の者の子孫の事、執し申さ令め給ふ之旨、随喜に思し食す也。且は、是本自り御存知有也。

  ひとつ にしはちじょう こと
 一  西八條の事

    こと  ついで おお  いだ られをはんぬ さけしん  せし  たま    ごほんいたり  いへど   とうじ さ     ごよう な
  事の次に仰せ出せ被畢。 去進ぜ令め給ふ。御本意爲と雖も、當時指せる御用無し。

     はや  もと  ごと  ちぎょうせし  たま  べ
  早く本の如く知行令め給ふ可し。

  ひとつ しょしょ   ぢとうら   こと
 一  所々の地頭等の事

    せいばいせし たま  のむね  まか  おのおの おお  くださるべ   なり  こ   うえもう  あ    ことあらば   かさ    おお  つか  さる  べ    か
  成敗令め給ふ之旨に任せ、各、仰せ下被可き也。此の上申し上ぐ事有者、重ねて仰せ遣は被る可き歟。

    ひとえ  ごよう  こと  かぎ    ふ   おお  らる   あらず
  偏に御用の事に限り、觸れ仰せ被るに非。

    おお  じんじゃぶつじ  そしょうたる  よっ    もくし  がた  のかん   こまごまおお  つか   ところなり
  多く神社佛寺の訴訟爲に依て、默止し難き之間、細々仰せ遣はす所也。

    ひと  うれい かみ たたり つもり  ぬれば   せけん  かく  ごと  らっきょせず
  人の愁、神の崇も積りぬれハ、世間も此の如く落居不。

    も   しょしょ  うれい さんずれば  しんめい  ようご し   しょにん  えつよ  せば   とくせい    なり   せじょう  ややせいひつ  ぞく
  若し所々の愁を散被者、神明も擁護シ、諸人も悦豫せハ、徳政とも成て、世上も弥靜謐に属す。

    よしあき  こと  しんめい  めいじょ  よっ    ぶんめい き   こと  ある  おぼ  め   のうえ
  義顯の事も神明の冥助に依て、分明に聞く事や有と思し食す之上、

    かく  ごと  こと   りひ   したが せいばいあるべ  のさま   たびたびもう  せし  たま    よっ    かつう ひと  もう    したが
  此の如き事、理非に随い成敗有可き之樣、度々申さ令め給ふに依て、且は人の申すに随い、

    かつう ぜひ   たず  けっせず  はか    さた せし  たま      ため  れんれんおお つか  ところなり

  且は是非を尋ね决不、計らひ沙汰令め給はんが爲、連々仰せ遣はす所也。

    しかれども よしあき  こと    せつせつあり いへど  いま  げんしょう き     め       こ   こと  よっ  ようじんのじょう かたがた そ  いは  あ
  然而、義顯の事は、説々有と雖も、未だ現證を聞こし食さず。此の事に依て用心之條、旁、其の謂れ有り。

    たと  ごたいせつ  ことあり  いへど   したが はか  もう  せし  たま  べ
  縱い御大切の事有と雖も、随い計り申さ令め給ふ可し。

    なに   いはん  しよう  あらず て  ひとへ くひょう  ぞん   てんか  しず      ため  はか   さた   もう  せし  たま     いぎ   およ  ざるか
  何をか况や私用に非し而、偏に公平を存じ、天下を鎭めんが爲、計り沙汰し申さ令め給ふ。異儀に及ば不歟。

    いまよ    いご   ごゆうよ あるべ   なり  ただ  しょしょ  うった   よっ    なおおお つか  さる    いへど
  今自り以後、御猶豫有可き也。但し所々の訴へに依て、猶仰せ遣は被ると雖も、

    ただ りひ   まか    せいばいせし  たま  べ   か   ごぞんち   ため  かね  おお おかれるところなり
  只理非に任せ、成敗令め給ふ可き歟。御存知の爲、兼て仰せ置被所也。

  ひとつ えんしょうじりょう するがのくに ましづのしょう こと
 一  圓勝寺領 駿河國 益頭庄の事

    もっかんりょうない あらず  このぶなりあそん ねんらいちぎょう ところなり
  没官領内に非。 故信業朝臣、年來知行の所也。

    よっ  くだん しょう   さんぬ ころ  よしやすあそん  おお  つ   らる    いへど   じ   もう ところなり
  仍て件の庄は、去る比、能保朝臣に仰せ付け被ると雖も、辞し申す所也。

    はや   さた いた     じけ   ねんぐ けたいな   しんさいせし  たま  べ
  早く沙汰致し、寺家の年貢懈怠无く進濟令め給ふ可し。

  ひとつ おんくまのもうで  こと
 一  御熊野詣の事

    ごほうさん こんみょうねん すご  せし  たま  べからざるのよし かたがた おぼ  め  ところなり
  御寳算 今明年 過さ令め御ふ不可之由、 旁 思し食す所也。

    こうご おんとしごも     ごうき   がた    よっ    ごさんけいあるべ   のよし  おぼ  め  くはだ ところなり
  向後御年篭り@に合期し難きに依て、御參詣有可き之由、思し食し企つ所也。

    ごそう    くまいせんごく   さきざき  ごと   さた しん  せし  たま  や   ほか  ごけいりゃくな    よっ    おお  つか  さる ところなり
  御僧の供米千石、前々の如く沙汰進じ令め給ふ乎。他の御計畧无きに依て、仰せ遣は被る所也。

    また  かるもの  しょうしょう とぶら しん  たま  べ     ただし わざわざあいたず らる    およ  ざることなり
  又、輕物Aも少々 訪ひ進じ給ふ可し。但し態々相尋ね被るに及ば不事也。

    ごかんちょうすで  と  られをはんぬ くだん ようとう  こと  いま  をい  は  さた  およ  ざることなり
  御潅頂已に遂げ被 畢。 件の用途の事、今に於て者沙汰に及ば不事也。

参考@年篭りは、大晦日の夜から元日の朝にかけて神社仏閣に参篭すること。
参考A
輕物は、目方の軽い絹布類。

  ひとつ  あぶぐん  こと
 一 阿武郡の事

    ごぞうさ れんれんのかん  ざいもくおお  い     よっ  おお  られ    いへど   かく  うえ    そう   あたはずか
  御造作連々之間、材木多く入る。仍て仰せ被ると雖も、此の上は左右に不能歟。

  いぜん じょうじょう  いんぜんかく ごと    よっ  しったつくだん ごと
 以前の條々。院宣此の如し。仍て執逹件の如し。

            くがつはつか                                          だざいごんのそつとうのつねふさ 〔ほう  〕
      九月廿日                    太宰權師藤經房〔奉ず〕

     し   けい
  私に啓す

    ちょうきん ぎょうこう こと  きた  じういちがつじょうじゅん そうら べきなり
  朝覲@行幸の事。來る十一月上旬にて候う可也。

    せんじつおお られ そうろう ところ の あくおおい こと いできた そうらはば  ごじついぜん  しん  せし  たま
  先日仰せ被 候 所 之 幄覆の事、出來り候者、期日以前に進じ令め給ふ。

    よろ    そうら  べ   か   ごぞんち   ため  もう そうら ところなり
  宜しく候う可き歟。御存知の爲、申し候う所也。

    かね  また  ぐんとう  こと  つねたね  ゆきひら ふ    おんふだ  けん  せし  たま   いへど   しひつ   はぶ     ため
  兼て又、群盜の事、常胤、行平に付し、御札を献ぜ令め給ふと雖も、紙筆を省かんが爲、

    いっつう  もって  ごへんじもう そうろうなり
  一通を以て御返事申し候也。

    か  りょうにんじょうらく いご  らくちうもっ    ほかせいひつ   よくよくかん  おお  らる  べ   のむね そうろうなり  かさ    きんげん
  彼の兩人上洛以後、洛中以ての外靜謐す。能々感じ仰せ被る可き之旨に候也。重ねて謹言す。

参考@朝覲は、天皇が太上天皇や皇太后の御所に行幸し、恭敬の礼をつくすこと。年頭に行われる恒例の儀と、践祚・即位・元服の後に行われる臨時の儀とがある。

現代語文治三年(1187)十月大三日庚午。下河辺庄司行平や千葉介常胤の京都のぼりに持たせた、京都市中の盗人の群れを始めとする問題の箇条書きを後白河法皇にお伝えした内容に対し、お答えがありました。その手紙が今日鎌倉へ届いたところです。又、法皇の熊野詣の費用の事も云ってきております。日を置かず直ぐに了承した返書を出すようにとの事でしたとさ。朝廷の手紙に書いてあるのは、

 先日の八月十九日と同じ二十七日のお手紙が、今月十五日に到着しました。その一条一条の全てを法皇にお伝え終えました。
一つ 盗人の群れとそれを心配している人々の事について
 おっしゃられるように、京都市中に詳しいものか、或いは京都近郊の者の行為であろうと院は考えておられます。元々、関東から来ている武士達の仕業だとは全く聞いていません。又、そんな事は関東にも云ってません。ただ近頃は検非違使庁の力が弱まっております。まるでコウノトリの頭の毛の様に軽くて頼りないのです。京都駐在の武士達が力をあわせて処理してくれれば、かなり制圧になるんじゃないかと思われているので、特に鎌倉へ聞いてみるように、仰せられておられます。特に犯罪者の連中は、関東武士だと威張って脅かすので、検非違使達も力不足のため手を出すのをためらっているんだそうだ。どうか推察してみてください。しかし、検非違使の庁の管轄だと云われるのは、法にかなった事であり、そのとおりでしょう。だから、殊に検非違使で処理するように、摂政兼実に言いつけられました。但し、関東武士も協力して手伝うべきではないでしょうか。
だいたい、大江公朝の話は、まだ聞いてはおりません。書状のとおりならば、とんでもないことなので、早速調べて処理させましょう。藤原信盛や大江公朝を検非違使に任命する事は、おっしゃられる趣旨は理由のある事でしょう。しかし、白河法皇や鳥羽法皇の時代には、源氏と平氏が共に並んで治安にあたっていました。それだものだから、他の武士達は、朝廷に使われていても、ほかに昇進する道が無いので、検非違使への任官を望んだものでした。決して新しい例外では無いですよ。平知康の事ですが、鎌倉へ下る事は聞いておりません。国に留まる事も申し出ておりません。鎌倉から京都へ追い返されようと、鎌倉のご意思どおりに、こちらではどうもしません。京都朝廷に仕えた者の子孫を、頼朝様がとりなしてくれる事は、後白河院もお喜びになられております。その事は元から承知されております。

一つ 西八条の事は
 何かの折に院が言い出されたことであります。頼朝様に与えられたのです。返して欲しい気持もありますけれど、今は特に用がありませんので、どうぞ今までどおりお使いください。

一つ あちこちの地頭の所業について
 処理なさりたいように、それぞれに命令を出してください。更に申し上げるべき事がありますので、なお申し遣わします。院のご入用の事ばかりを申されている訳ではありません。殆どの多くは神社お寺からの訴訟なので、放っておくわけにも行かず、細々と伝えているのであります。人の不満や神様の祟りが積もっているので、世間も落ち着かないのです。もしあちこちの不満を解消すれば、神様も守ってくれるでしょうし、庶民も喜ぶようならが、有るべき状態に戻した良い政治となり、世間も静かに落ち着くでしょう。
義顕(義経)の事も、神様のお力によって、はっきりと耳に聞こえてくるであろうとお思いになられて、このような事は、理に基づいて処理されるように、何度も云ってきたので、一つは人の話をよく聞いて、一つは事の是非を無理に決する事はしないで、お計らい戴くために、今まで云って来たのであります。しかしながら、義顕(義経)の事は、色々と風説は有りますけれど、明らかな証拠は耳にしておりません。これがために、用心をすることは、いずれもその理由はあります。従って、(義経探索の)大事な用件があっても、院の進めに随って良く考えてお話ください。どうあっても自分の都合を押し通さず、公の平和を承知して、天下を静かにさせるために、考えて処理なされるのならば、異論はさしはさみません。今日からは、訴訟を取上げるのは、留めおきます。但しあちこちから訴えが有るので、なお、言い送る事がありますので、常に理非にあわせて処理いただきたいのです。ご承知おき戴くために、予めお伝えしておきます。

一つ 円勝寺の領地の駿河国益頭庄について
 平家から取上げて頼朝様に与えた没官領ではありません。故信業朝臣が昔治めていた所です。したがってその荘園は、以前に一条能保様に申し付けたのですが、辞退して聞きません。早く処置して、寺管理者への年貢は、怠けることなく納付するようにさせて下さい。

一つ 熊野詣に出かけることについて
 もう寿命も(後白河法皇は)今年か来年程度しか持たないだろうと、思っておられます。ですから、今後は、大晦日から元日にかけて神社にお参りしながら篭る「年篭り」は、やりきれないと思っておられるので、今回はどうしても詣でたいと計画しておられるのです。熊野神社の坊さん達に供える米を千石、前から云っている様に調達させてください。他に手当てがありませんので、頼んでいるのです。また、絹布類なども少々助成してくれるように願います。しかし、わざわざ探すほどではありません。
後白河法皇が密教の伝授式に偉い坊さんから頭に聖水をかけて貰う儀式の「伝法潅頂」は終わる事が出来ました。その分の費用としての贈り物は、もう結構で御座います。

一つ  阿武郡の事について
 東大寺の作事は今も続いておりますので、材木は沢山いります。そこで、ご命じになられても無理なのでしょうか。

以上の事柄を、院からの仰せはこのとおりです。そこで書き出したのはこのとおりです。
    九月二十日            太宰権師藤原吉田經房〔命じられ書きました〕

個人的に書きます。
 天皇が父母に挨拶に行く
朝覲行幸の事ですが、来る十一月上旬に行われる予定です。先日お命じになられた天幕の事ですが、出来上がったら納品予定日以前に出させてください。宜しくお取り計らいいただきたく、ご承知下さる様、お知らせいたします。また、盗人どもの扱いには、千葉介常胤、下河邊庄司行平を通して、別途手紙を出すべきなのですが、紙や筆がもったいないので、一紙に載せて御礼申し上げます。その二人が京都へ駐屯してから、京都市内は思った以上に静かになっております。とても感じ入っているとおっしゃられております。重ねて宜しくお願いします。

文治三年(1187)十月大四日辛未。千葉新介胤正參申云。重忠被召篭。已過七ケ日也。此間寢食共絶畢。終又无發言語。今朝胤正盡詞雖勸膳不許容。顏色漸變。世上事殆思切歟之由。所見及也。早可有免許歟者。二品頗傾動給。則以被厚免。仍胤正奔皈。相具參上。重忠着于里見冠者義成座上。談傍輩云。浴恩之時者先可求眼代之器量。无其仁者。不可請其地。重忠存C潔。太越傍人之由。挿自慢意之處。依眞正男不義。逢耻辱畢云々。其後起座。直令下向武藏國云々。

読下し                    しちばのしんすけたねまさ さん もう    い
文治三年(1187)十月大四日辛未。千葉新介胤正、參じ申して云はく。

しげただめしこめれ   すで  しちかにち  す    なり   こ   かん  ねじき とも  た  をはんぬ  しまい またげんご  はっ      な
重忠召篭被て、已に七ケ日を過ぎる也。此の間、寢食共に絶ち 畢。 終に又言語を發するも无し。

 けさ  たねまさことば つく  ぜん  すす     いへど  きょようせず  かおいろようや へん   せじょう  こと  ほと    おも  き   かのよし  みおよ  ところなり
今朝、胤正詞を盡し膳を勸めると雖も、許容不。顏色漸く變じ。世上の事、殆んど思い切る歟之由、見及ぶ所也。

はや  めんきょあ  べ   かてへ
早く免許有る可き歟者り。

にほんすこぶ けいどう たま    すなは もっ  こうめんさる
二品頗る傾動し給ふ。則ち以て厚免被る。

よっ  たねまさはし  かえ    あいぐ  さんじょう    しげただ  さとみのかじゃよしなり  ざじょうに つ     ぼうはい  だん    い
仍て胤正奔り皈り、相具し參上す。重忠、里見冠者義成の座上于着く。傍輩に談じて云はく。

おん  よく    のとき は   ま   もくだいの きりょう   もと  べ     そ   じん な     ば   そ   ち   う     べからず
恩に浴する之時者、先ず眼代之器量を求む可し。其の仁无くん者、其の地を請ける不可。

しげただ せいけつ ぞん          はなだ ぼうじん  こ     のよし   じまん   い  さしはさ のところ  さねまさおとこ ふぎ  よっ    ちじょく  あ をはんぬ うんぬん
重忠、C潔を存じること、太だ傍人を越える之由、自慢の意を挿む之處、眞正男の不義に依て、耻辱に逢い畢と云々。

そ   ご ざ   た     じき  むさしのくに  げこうせし   うんぬん
其の後座を起ち、直に武藏國へ下向令むと云々。

現代語文治三年(1187)十月大四日辛未。千葉新介胤正が、御所へ参上して言うのには、「畠山次郎重忠を座敷に閉じ込めて、既に七日が経ちました。その間、重忠は、寝る事も食べる事も断ち切ってしまっています。終いには言葉も出さなくなりました。今朝、私胤正が一生懸命に食事を勧めましたが、云う事を聞きません。顔色まで変ってしまっているのは、世間の事など思い切ってしまっているのではないかと、見て思いました。早く許してあげるべきですよ。」と云いました。
頼朝様はとても驚かれて、直ぐに許す事にしました。
そこで、胤正は自分の屋敷へ走って帰り、直ぐに重忠を連れて参りました。重忠は、里見冠者義成の上座に座り、仲間に話して聞かせました。「御恩によって領地を戴く時は、何はともかく才覚のある代官を得なくてはならない。もし、その領地に
才覚ある人を得られなければ、領地を貰うべきではない。重忠は、清く生きている精神が人を越えていると自覚していたのに、真正(代官)
の裏切りによって、囚人としての恥辱を受ける事になってしまったんだ。」なんだとさ。
その後、席を立つと、そのまま武蔵国へ下っていってしまいましたとさ。

文治三年(1187)十月大五日壬申。河越太郎重頼。依伊豫前司義顯縁坐雖被誅。令憐愍遣跡給之間。於武藏國河越庄者。賜後家尼之處。名主百姓等不随所勘之由。就有風聞之説。向後云庄務。云雜務。一事以上。可從彼尼下知之由。所被仰下也。

読下し                    かわごえのたろうしげより   いよのぜんじよしあき   えんざ  よっ  ちうさる    いへど   ゆいせき れんみんせし  たま  のかん
文治三年(1187)十月大五日壬申。河越太郎重頼は、伊豫前司義顯の縁坐に依て誅被ると雖も、遣跡を憐愍令め給ふ之間、

むさしのくに かわごえのしょう をい  は    ごけあま   たま    のところ  みょうしゅ ひゃくしょうら しょかん  したが ざるのよし  ふうぶんのせつ あ    つ
 武藏國 河越庄に 於て者、後家尼に賜はる之處、名主 百姓等 所勘に随は不之由、風聞之説有るに就き、

 こうご  しょうむ   い     ぞうむ   い     いちじいじょう   か   あま   げち   したが べ   のよし  おお  くださる  ところなり
向後は庄務と云ひ、雜務と云ひ、一事以上、彼の尼の下知に從う可し之由、仰せ下被る所也。

現代語文治三年(1187)十月大五日壬申。河越太郎重頼は、義経の姑としての連帯責任により殺されましたが、残された家族を哀れに思ったので、武蔵国川越庄は、未亡人の尼に与えましたが、名主も百姓も命令どおりに従っていないと、聞き及びましたので、今後は、荘園の役務も雑税や勤労奉仕も、全て川越尼の指示に従うように、命令書を出されました。

参考5巻文治1年(1185)11月12日重頼は領地を取り上げられている。彼女は2巻寿永1年(1182)8月12日頼家の乳付けをしている。

文治三年(1187)十月大六日癸酉。法皇御年篭可有熊野山御參詣供米千石。輕物少々。可沙汰之由。所被仰也。仍有沙汰。國絹白布等被宛催御家人。八木千石可爲武藏上総兩國所課云々。

読下し                    ほうおうおんとしごも    くまのさん  ごさんけいあるべ     くまいせんごく  かるものしょうしょうさたすべ  のよし  おお  らる ところなり
文治三年(1187)十月大六日癸酉。法皇御年篭りに熊野山に御參詣有可し、供米千石、輕物少々沙汰可し之由、仰せ被る所也。

よっ   さた あ     くにぎぬ しらふら   ごけにん  あてもよおさる    やき せんごく  むさし   かずさ  りょうごく  しょか   な   べ     うんぬん
仍て沙汰有り。國絹白布等は御家人に宛催被る。八木千石は武藏、上総の兩國の所課と爲す可しと云々。

現代語文治三年(1187)十月大六日癸酉。後白河法皇は、年篭りに熊野権現へお参りをするので、熊野山へ供える米千石、絹布類を多少ともよこすように云ってきているので、その取り決めをしました。地方産の絹の白い布は、御家人に割り当てました。米千石は、武蔵国と上総国の年貢から当てることにしましたとさ。

文治三年(1187)十月大七日甲戌。右武衛飛脚參着。去月十九日齋宮群行也。而勢多橋破損之間。爲佐々木定綱奉行。以船奉渡湖海之處。延暦寺所司等相交雜人之中。依現狼藉。定綱郎從相咎間。不圖起鬪乱及殺害。衆徒聞此事。忽以蜂起。擬及嗷訴。而國司雅長卿。并定綱等殊可加制止。就中於定綱事者。不被觸仰關東者。輙難决聖断之由。雖被仰座主全玄僧正。衆徒等猶不靜謐云々。

読下し                     うぶえい  ひきゃくさんちゃく  さんぬ つきじうくにちさいくう  ぐんこうなり
文治三年(1187)十月大七日甲戌。右武衛が飛脚參着す。去る月十九日齋宮の群行也。

しか    せたはし はそんのかん  ささきのさだつなぶぎょう  な     ふね  もっ  こかい  わた たてまつ のところ  えんりゃくじしょしら ぞうにんのなか  あいまじは
而るに勢多橋破損之間、佐々木定綱奉行を爲し、船を以て湖海を渡し奉る之處、延暦寺所司等雜人之中に相交り、

ろうぜき あらは   よっ    さだつな ろうじゅうあいとが      かん  はか  ず   とうらん  おこ  せつがい  およ
狼藉を現すに依て、定綱が郎從相咎めるの間、圖ら不に鬪乱を起し殺害に及ぶ。

しゅうと こ   こと  き     たちま もっ  ほうき      ごうそ    およ      ぎ     しか    こくしまさながきょうなら   さだつらら こと  せいし  くは  べ
衆徒此の事を聞き、忽ち以て蜂起し、嗷訴に及ばんと擬す。而して國司雅長卿并びに定綱等殊に制止を加う可し。

なかんづく さだつな こと  をい  は   かんとう  ふ   おお られずんば  たやす せいだん けっ  がた  のよし   ざす ぜんじょうそうじょう おお  られ   いへど
就中に定綱の事に於て者、關東に觸れ仰せ被不者、輙く聖断を决し難き之由、座主全玄僧正に仰せ被ると雖も、

しゅうとら なおせいひつせず うんぬん
衆徒等猶 靜謐不と云々。

現代語文治三年(1187)十月大七日甲戌。右武衛一条能保の伝令が到着しました。先月十九日の天皇家の娘が伊勢神宮の神官になるためにお篭りをする斎宮にお供の官女が百数十人ついて伊勢へ向かいました。それなのに勢田橋が壊れていたので、佐々木定綱が責任者となり、船で琵琶湖をお渡ししていたら、延暦寺の役人が雑用係の人達に紛れ込んで、邪魔をしたので、定綱の家来達が制止を加えたので、思わぬ乱闘になってしまい殺してしまいました。これを聞いた延暦寺の武者僧達が、群れを成して立ち上がり、朝廷へ力ずくの訴えに出て、近江国司の藤原雅長と定綱を特に辞めさせようとしました。定綱の進退については、関東の意見を聞かなくては、朝廷では安易に決断出来ないからと、延暦寺筆頭の天台座主全玄僧正に伝えましたが、武者僧は全然静まらなかったんだとさ。

文治三年(1187)十月大八日乙亥。下河邊庄司行平。千葉介常胤自京都皈參。於 院宣等者。先々付雜色進上畢云々。爰兩人被召御前。上洛之間。京中靜謐之由及叡感。尤爲御眉目之趣。所被感仰也。而行平九月十一日入洛。即夜窺兼承及群盜衆會之所々。令郎從致夜行之處。於尊勝寺邊。行逢奇恠之者。人數八人。不殘兮搦取之。尋明所犯之間。不相待常胤。將又不相觸使廳。任北條殿之例。刎彼等首訖。常胤同十四日京着。各在洛。雖不歴幾日數。更不聞狼藉事。自然无爲。誠是依將運之所令然歟。次在京武士事。以御使雜色并兩人使。不廻日時悉召之。所來聚也。尋問訖。面々有陳申之旨。非无子細。其状五十三通進上之。其上无所犯實證。不能沙汰事也云々。就之。件陳状等可付師中納言歟之由。雖有其沙汰。關東武士所行とハ。全不風聞之由。被載院宣之間。加斟酌不備進之。令持參之由。行平等申之。此事其理可然。仍又有御感。被留營中云々。

読下し                    しもこうべのしょうじゆきひら ちばのすけつねたね きょうとよ   きさん
文治三年(1187)十月大八日乙亥。下河邊庄司行平、千葉介常胤、京都自り皈參す。

いんぜんら  をい  は  さきざきぞうしき  つ   しんじょう をはん   うんぬん
院宣等に於て者、先々雜色に付け進上し畢ぬと云々。

ここ りょうにん   ごぜん   めされ  じょうらくのかん けいちうせいひつのよしえいかん およ   もっと  ごびもくたるのおもむき  かん  おお  らる ところなり
爰に兩人を御前に召被、上洛之間、京中靜謐之由叡感に及ぶ。尤も御眉目爲之趣、感じ仰せ被る所也。

しか    ゆきひらくがつじういちにちじゅらく   すなは よ かね うけたま およ ぐんとうしゅうかいのしょしょ うかが    ろうじゅう  し  やぎょういた  のところ
而して行平九月十一日入洛し、即ち夜 兼て承り及ぶ群盜衆會之所々を窺い、郎從を令て夜行致す之處、

そんしょうじへん  をい    きっかいのもの  ゆきあ     にんずう  はちにん
尊勝寺邊に於て、奇恠之者に行逢う。人數は八人。

のこらずこれ から  と   と   しょはん  たず  あか  のかん  つねたね あいまたず  はたまた し  ちょう あいふれず
殘不之を搦め取る兮、所犯を尋ね明す之間、常胤を相待不、將又使の廳に相觸不、

ほうじょうどののれい  まか   かれら   くび  は をはんぬ
北條殿之例に任せ、彼等の首を刎ね訖。

つねたねおな  じうよっかけいちゃく   おのおの ざいらく    いくにっすう  へず  いへど    さら  ろうぜき こと  きかず   じねん   むい
常胤同じき十四日京着す。 各、在洛し、幾日數を歴不と雖も、更に狼藉の事を聞不。自然に无爲なり。

まこと これ  しょううんのしか  せし  ところ よるか
誠に是、將運之然ら令む所に依歟。

つぎ  ざいきょう  ぶし   こと  おんしぞうしきなら   りょうにん  つか    もっ    にちじ  めぐらさず  ことごと これ  め     きた  あつま ところなり
次に在京の武士の事、御使雜色并びに兩人の使いを以て、日時を廻不、 悉く之を召し、來り聚る所也。

たず  と  をはんぬ めんめん ちん  もう  のむね あ    しない な   あらず  そ  じょうごじうさんつう これ しんじょう
尋ね問い訖。 面々に陳じ申す之旨有り。子細无きに非。其の状五十三通@之を進上す。

そ   うえしょはん  じっしょうな     さた  あたはずことなり  うんぬん
其の上所犯の實證无し。沙汰に不能事也と云々。

これ  つ     くだん ちんじょうらそちのちうなごん  ふ   べ   かのよし  そ   さた あ   いへど   かんとう   ぶし  しょぎょう とは
之に就き、件の陳状等師中納言に付す可き歟之由、其の沙汰有ると雖も、關東の武士の所行とハ、

まった ふうぶんせざるのよし  いんぜん の   られ  のかん  しんしゃく くは  これ  びしんせず  じさんせし  のよし  ゆきひらら これ  もう
全く風聞不之由、院宣に載せ被る之間、斟酌を加へ之を備進不、持參令む之由、行平等之を申す。

かく  こと そ  り しか  べ     よっ  またぎょかんあ       えいちう とど  らる    うんぬん
此の事其の理然る可し。仍て又御感有りて、營中に留め被ると云々。

参考@五十三通は、在京武士の数らしいが、内裏警固の大番役や兵糧米の徴収のための武士も含むようである。直幹申文絵詞に大番役の武士の絵が出ている。

現代語文治三年(1187)十月大八日乙亥。下河辺庄司行平と千葉介常胤が、京都から帰ってきました。後白河院からの手紙は、先立って雑用に預けて既に届けられていましたとさ。(頼朝様は)二人を目の前に呼び出されて、京都へ進駐したので京都市中が静かにおさまったと、後白河法皇がお喜びになったことは、関東武士の面目がたったと感激されました。
そこで、下河辺庄司行平は、「九月十一日に京都市中へ入ったのですが、すぐに前々から聞いている盗人連中が集ると言われる場所の様子を見るため、家来達に夜回りをさせたところ、
尊勝寺の近所で怪しい連中に出会いました。人数は八人でしたが、一人残らず取り押さえました。罪状を尋問し明らかだったので、千葉介常胤との調整を待たないで、しかも京都警察の検非違使の庁にも知らせず、以前の北条時政殿の例と同じように、彼等の首を切ってしまいました。それから、千葉介常胤が同様に十四日に京都へ着きました。それぞれ京都に駐屯して、何日か過ぎたにもかかわらず、何の事件の話も聞かずに、大過なく過ごしました。本当にこれは、関東の武士の運の強さが示されたことなのでしょう。次ぎに京都に居る武士達については、頼朝様の使いの雑用と、私達二人の使用人とを使って、日をおかずに全て呼んだので集ってきました。市中での狼藉を尋問しました。それぞれに反論する言い訳をしました。事情がそれぞれにあるので、その言い訳は五十三通も出してきました。しかも、犯罪の確たる証拠もありませんので、裁決には及びませんでしたとさ。このことについては、この言い訳の書面を師中納言吉田経房さんに提出しようか、相談がありましたが、関東武士の仕業だとは、全く聞いていないと法皇の手紙にかいてあったとのことなので、よくよく考えて朝廷へは出さずに、ここに持参してきました。」と下河邊庄司行平は申しました。
それは、其のほうが理が通っている。そこで又、(頼朝様は)感じ入り、御所に置いておくことにしましたとさ。

文治三年(1187)十月大九日丙子。南都衆徒状并大般若經轉讀巻數等到來。抽祈請之由也。二品仰信給。仍被遣御報。其状云。
 八月廿七日貴札。十月九日到來。示給之旨。具以承候畢。平家逆畧朝廷之餘。奉燒失大佛之廟壇。仍征伐之心弥催。遂誅戮平家之凶賊畢。誠是爲朝敵又寺敵之所致也。毎思佛徳。信仰尤深。其條令知及給歟。抑大般若巻數。謹以奉請之。群議之至。喜悦令申候。但追月捧賜巻數之事。有使者之煩歟。然者雖不給巻數。有懇誠之至者。自今以後。可令存知給之状如件。
   文治三年十月九日                       御判

読下し                    なんとしゅうと  じょうなら    だいはんやきょうてんどくかんすうらとうらい   きしょう   ぬき    のよしなり
文治三年(1187)十月大九日丙子。南都衆徒の状并びに大般若經轉讀巻數等到來す。祈請を抽んず之由也。

にほんしんこう  たま    よっ   ごほう   つか   さる    そ  じょう  い
二品信仰し給ふ。仍て御報を遣は被る。其の状に云はく。

  はちがつにじうしちにち きさつ じうがつここのか とうらい    しめ  たま  のむね  つぶさ もっ うけたまは そうら をはんぬ
 八月廿七日の貴札。十月九日に到來す。示し給ふ之旨、具に以て 承り 候ひ 畢。

  へいけちょうてい ぎゃくりゃくのあま   だいぶつのびょうだん や うしな たてまつ よっ せいばつのこころややもよお  つい  へいけのきょうぞく ちうりく をはんぬ
 平家朝廷に逆畧之餘り、大佛之廟壇を燒き失い奉る。仍て征伐 之心弥催し。遂に平家之凶賊を誅戮し畢。

  まこと これ  ちょううてきまたじたきたるのいた ところなり ぶっとく  おも  ごと    しんこうもって ふか   そ  じょう し  およ  せし  たま  か
 誠に是、朝敵又寺敵爲之致す所也。佛徳を思う毎に、信仰尤も深く、其の條知り及ば令め給ふ歟。

  ようや だいはんにゃ かんすう  つつし もっ  これ  う  たてまつ   ぐんのいた    きえつもうせし そうろう
 抑く大般若の巻數、謹み以て之を請け奉り、群議之至り、喜悦申令め候。

  ただ  つき  おっ  かんすう  あ   たま   のこと  ししゃのわずら  あ   か
 但し月を追て巻數を捧げ賜う之事、使者之煩ひ有る歟。

  しからば  かんすう  たまはず  いへど  こんせいのいた  あ   ば   いまよ   いご  ぞんちせじ  たま  べ  のじょうくだん ごと
 然者、巻數を給不と雖も、懇誠之至り有ら者、今自り以後、存知令め給ふ可し之状件の如し。

       ぶんじさんねんじうがつここのか                                               ごはん
   文治三年十月九日                       御判

現代語文治三年(1187)十月大九日丙子。奈良の坊さんの手紙と大般若経を摺り読みした回数を書いた書面が到着しました。一生懸命にお祈りをしたとの事です。二品頼朝様は信仰されておられるので、返事をお出しになられました。その手紙の内容は、

 八月二十七日の貴方の手紙が、十月九日に手元に届きました。おっしゃられている内容は、きちんと全て承知いたしました。平家は、朝廷に反逆をした挙句、大仏殿を焼いてしまいました。そこで征伐しようと思い立ち、遂に平家の悪者達を殺し終えました。本当にこれ等の朝廷の敵は、寺にとっても敵なのであります。御仏の尊さを思うたびに、信仰心は深まりばかりです。それらの事はお分かりでしょうか。大般若経の読んだ数は謹んでお聞きしましたので、皆でもって、喜びの思いをしております。但し、毎月お経を読んだ数を伝えてくる事は、遣いの者にとって、大変な作業でもありしょう。そこで、いちいち報告を戴かなくても、熱心に拝んでいただいているので、今後はそう承知されるようにとの手紙はこのとおりです。
   文治三年十月九日                            (頼朝様の)花押

文治三年(1187)十月大十三日庚辰。依太神宮神人等之訴訟。被召放畠山次郎重忠所領伊勢國沼田御厨。被宛行吉見次郎頼綱。仍於重忠者。雖召禁其身。申不知子細之由。頗有陳謝歟之間。厚免已畢。至當御厨者。賜他人之旨。被仰神宮之上。員部大領家綱所領資財等。任員數可沙汰付本主。雖向後。於彼邊。可停止武士狼藉之趣。令下知山城介久兼給云々。

読下し                     だいじんぐう  じにんらの そしょう  よっ   はたけやまのじろうしげただ しょりょう いせのくに ぬまたのみくりや  めしはたれ
文治三年(1187)十月大十三日庚辰。太神宮神人等之訴訟に依て、 畠山次郎重忠、 所領 伊勢國 沼田御厨@を召放被、

よしみのじろうよりつな  あておこな らる
吉見次郎頼綱Aに宛行は被る。

よっ  しげただ  をい  は   そ   み  めしきん         いへど   しさい  しらずのよし  もう
仍て重忠に於て者、其の身を召禁じられると雖も、子細を不知之由を申す。

すこぶ ちんしゃあ  かのかん  こうめんすで をはんぬ
頗る陳謝有る歟之間、厚免已に畢。

とうみくりや  いた    は   ほか  ひと  たま    のむね  じんぐう  おお  らる  のうえ

當御厨に至りて者、他の人に賜はる之旨、神宮に仰せ被る之上は、

いんべのだいりょういえつな しょりょう  しざいら     いんずう  まか  ほんじゅ   さた   つ   べ
 員部大領家綱
Bが所領、資財等は、員數に任せ本主に沙汰し付く可し。

こうご   いへど   か   へん  をい     ぶし   ろうぜき  ちょうじ  のおもむき  やましろのすけひさかね  げち せし  たま    うんぬん
向後と雖も、彼の邊に於て、武士の狼藉を停止する之趣、 山城介久兼に 下知令め給ふと云々。

参考@沼田御厨は、沼田御牧と同一で亀山市関町古厩(旧鈴鹿郡関町古厩)らしい。
参考A吉見次郎頼綱は、埼玉県比企郡吉見町。
参考B員部大領家綱は、平家時代の郡司。三重県いなべ市員弁町。

現代語文治三年(1187)十月大十三日庚辰。伊勢神宮の神官達の訴えによって、畠山次郎重忠の領地の伊勢国の沼田御厨を取上げて、吉見次郎頼綱に与えられました。
と云うのは、畠山次郎重忠は、その身体は囚人として拘束されましたが、現地の事情を知らないと云って、懸命に弁解したらしく、既に許されました。この伊勢神宮の荘園御厨については、既に重忠以外に与えると、訴人の伊勢神宮に伝えてあるので、員部大領家綱の所領や財産は、以前のとおりに元へ返すようにすること。今後も、その辺りでの武士による横領はさせないようにとの趣旨を、山城介久兼に命じられましたとさ。

文治三年(1187)十月大廿五日壬辰。閑院修造事。其功漸成。來月上旬可有遷幸之旨承之。定被仰御勸賞歟之由。廣元言上之間。勸賞事及御沙汰者。早可辞之趣。仰盛時被遣御書於廣元之許也。其詞云。
 閑院殿依造營事。御勸賞なとの事。若其沙汰出來者。可令辞申也。勳功賞。度々可依申請御之旨。雖被仰下。造作賞なとよりは。勳功賞をは可給事なれは。御居住田舎之上者。旁无便宜之間。乍恐悦再三令辞退申給畢。如此可言上也。次云閑院殿作事。云新齋宮用途。如此之勤。可募申成功之由。被仰下者。御知行國々。相摸。武藏。駿河。伊豆。信濃。越後已下六ケ國。重任之功ニ可令申成給候也者。仰旨如此。仍以執啓如件。
      十月廿五日                        盛時〔奉〕
     因幡前司殿

読下し                     かんいんしゅうぞう こと  そ  こうようや な    らいげつじょうじゅん せんこうあ  べ   のむねこれ うけたまは
文治三年(1187)十月大廿五日壬辰。閑院修造の事、其の功漸く成す。來月上旬、遷幸有る可し之旨之を承る。

さだ    ごけんじょう  おお  らる  か のよし  ひろもとごんじょう   のかん  けんじょう こと  ごさた  およ  ば   はや  じ   べ  のおもむき
定めて御勸賞を仰せ被る歟之由、廣元言上する之間、勸賞の事御沙汰に及ば者、早く辞す可き之趣、

もりとき  おお    おんしょを ひろもとのもと  つか  さる  なり  そ  ことば  い
盛時に仰せて御書於廣元之許へ遣は被る也。其の詞に云はく。

  かんいんでんぞうえい こと  よっ    ごけんじょう など   こと  も   そ    さた いできた  ば   じ   もうせし  べ   なり
 閑院殿造營の事に依て、御勸賞なとの事、若し其の沙汰出來ら者、辞し申令む可き也。

  くんこう  しょう たびたびもう  う     よっ  たま  べ   のむね  おお  くださる   いへど   ぞうさのしょう など

 勳功の賞、度々申し請けに依て御う可し之旨、仰せ下被ると雖も、造作賞なとよりは、

  くんこうしょう をば たま  べ   こと  なれば  いなか   ごきょじゅうのうえは  かたがた びんぎな   のかん  おそ  なが  さいさん じたい  もう  せし  たま をはんぬ
 勳功賞をは給ふ可き事なれは、田舎に御居住之上者、旁 便宜无き之間、恐れ乍ら再三辞退し申さ令め給ひ畢。

  かく  ごと  ごんじょうすべ  なり
 此の如く言上可き也。

  つい  かんいんでんさくじ  い     しんさいくうようとう  い     かく  ごと  のつと    じょうごう  つの  もう  べ   のよし   おお  くだされれば
 次で閑院殿作事と云ひ、新齋宮用途と云ひ、此の如き之勤め、成功を募り申す可き之由、仰せ下被者、

  ごちぎょう   くにぐに  さがみ   むさし   するが   いず    しなの   えちご いか   ろっかこく  ちょうにんのこうに もう  な   せし  たま  べ そうろうなりてへれ
 御知行の國々、相摸、武藏、駿河、伊豆、信濃、越後已下の六ケ國、重任之功ニ申し成さ令め給ふ可く候也者ば、

  おお    むねかく  ごと    よっ  もっ  しっけいくだん ごと
 仰せの旨此の如し。仍て以て執啓件の如し。

             じうがつにじうごにち                                                 もりとき 〔ほう  〕
      十月廿五日                        盛時〔奉ず〕

          いなばのぜんじどの
     因幡前司殿

現代語文治三年(1187)十月二十五日壬辰。里内裏閑院殿の修理の工事が、ようやく出来上がり、来月上旬に天皇の引越しがあると聞いたので、さぞかしご褒美をくれると言い出すでしょうねと、大江広元が(頼朝様に)申し上げてきたので、ご褒美の話が出てきても、さっさと遠慮するように、平民部烝盛時に言いつけて手紙を大江広元のところへ出させました。その書状の内容は

 里内裏閑院殿の修理工事のご褒美をくれるなんぞという話が伝えられて来ても、遠慮するように。手柄をたてた褒美は、何がいいか申し出によって与えようと、何度か云われてきて云るので、今更修理工事の褒美を貰うよりも、手柄をたてた褒美の方を貰いたいとは思いますが、京の都から遠くはなれた田舎に住んでいるので、出向いていく機会が無いので、恐れ入りながらも再三辞退を申し上げているのです。とこのように申し上げなさい。次ぎに、里内裏閑院殿の修理工事をした事も、天皇家の娘が伊勢神宮の神官になるための初めてのお篭りをするため行列の初斎宮の費用を出した事も、このような出費を、奉仕による官職の買取である成功(じょうごう)として、官職を望みなさいと云われたならば、(頼朝様が)現在支配して国司を任命している相模、武蔵、駿河、伊豆、信濃、越後の六カ国の国司を続けて任務する重任を、手柄として申し出るようにしなさいと、命じられておられ事はこのとおりです。そこで命によって書き出したのはこのとおりです。
  十月二十五日                 平民部烝盛時が命によって書きました
     因幡前司(大江広元)殿

文治三年(1187)十月大廿六日癸巳。筑前國鞍手領。土佐國吾河郡。攝津國山田庄。尾張國日置領。被奉寄左女牛若宮。一事已上。可爲別當季嚴阿闍梨沙汰之由。被仰下云々。

読下し                     ちくぜんのくにくらて りょう とさのくにあがわぐん  せっつのくにやまだのしょう  おわりのくにひおき りょう
文治三年(1187)十月大廿六日癸巳。筑前國鞍手@領、土佐國吾河郡A、攝津國山田庄B、尾張國日置C領を、

 さめがいわかみや  よ たてまつらる
左女牛若宮Dに寄せ奉被る。

ひとつこといじょう べっとうきげんあじゃり     さた たるべ  のよし  おお  くださる    うんぬん
一事已上、別當季嚴阿闍梨の沙汰爲可き之由、仰せ下被ると云々。

参考@鞍手は、福岡県鞍手郡鞍手町。
参考A
吾河郡は、現在の高知市、吾川郡いの町、仁淀川町および高岡郡越知町の一部(旧横畠村明治村)も含んでいた。
参考B
山田庄は、旧島下郡山田。佐井寺、上新田、市新田の四村。現在の大阪府吹田市山田(上、市場、丘、東、西、南、北)。
参考C
日置は、愛知県愛西市日置町字本郷94に日置八幡社あり。
参考D
左女牛若宮は、京都市下京区六条若宮通上ルに頼義が邸内鎮守として石清水八幡宮を勧請したのが始まり。

現代語文治三年(1187)十月二十六日癸巳。筑前国鞍手領、土佐国吾河郡、摂津国山田庄、尾張国日置領を、左女牛若宮に寄付されました。全て長官の季厳阿闍梨が支配するように、(頼朝様が)仰せになられましたとさ。

文治三年(1187)十月大廿八日乙未。爲閑院遷幸樂屋二本幄覆慢并十八帖事。去八日染進 仙洞之由。親能自京都所申送也。

読下し                     かんいんせんこう  ため  がくや  にほん  あくおおい まくなら   じうはっちょう こと  さんぬ ようかせんとう  そめしん  のよし
文治三年(1187)十月大廿八日乙未。閑院遷幸の爲、樂屋@二本の幄覆A慢并びに十八帖の事、去る八日仙洞に染進ず之由、

ちかよしきょうとよ   もう  おく ところなり
親能京都自り申し送る所也。

参考@樂屋は、楽人のための仮設天幕。
参考A幄覆は、儀式のテントを包むように張った幔幕。当時「幄舎(あくしゃ)」と呼ばれ、禁中や公家の行事をはじめ、社寺の祭礼・法会の際の臨時の建物として使われていた。「有職故実大辞典」では、「柱を立て、棟を設け、布帛を張り巡らして、屋根から周囲全体を覆い包んで“あげばり”といい、その布帛を“幄覆(あくおおい)”という」とある。

現代語文治三年(1187)十月二十八日乙未。里内裏閑院殿への引越しの儀式のため、楽人のための天幕二張りの幔幕と十八帖を、先日の八日に法皇のもとへ染め上げてお届けしましたと、齋院次官中原親能が京都から伝えてきました。

参考文治三年(1187)八月大廿八日に頼朝から命令を受けていた。

文治三年(1187)十月大廿九日丙申。常陸國鹿嶋社者。御皈敬異他社。而毎月御膳料事。被宛于當國奥郡。今日令加下知給云々。
 政所下     常陸國奥郡
  可令早下行鹿嶋毎月御上日料籾佰二拾石事
   多賀郡       十二石五斗
   佐都東       十四石
   佐都西       九石八斗
   久慈東       三十六石一斗
   久慈西       十四石三斗
   那珂東       十三石九斗
   那珂西       十九石四斗
 右件籾。毎年無懈怠可下行之状如件。
   文治三年十月廿九日
                           中  原
                           藤  原
                           大 中 臣
                           主 計 允
                           前因幡守中原
今日。秀衡入道於陸奥國平泉舘卒去。日來重病依少恃。其時以前。伊豫守義顯爲大將軍可令國務之由。令遺言男泰衡以下云々。
 鎭守府將軍兼陸奥守從五位上藤原朝臣秀衡法師
  出羽押領使基衡男嘉應二年五月廿五日任鎭守府將軍。敍從五位下
  養和元年八月廿五日任陸奥守。同日敍從五位上

読下し                     ひたちのくにかしましゃは   ごきけい たしゃ  ことな   しか   まいつき  ごぜんりょう  こと  とうごくおくぐんに あてらる
文治三年(1187)十月大廿九日丙申。常陸國鹿嶋社者、御皈敬他社に異る。而して毎月の御膳料の事、當國奥郡于宛被る。

きょう  げち   くは  せし  たま    うんぬん
今日下知を加へ令め給ふと云々。

  まんどころくだ           ひたちのくにおくぐん
 政所下す     常陸國奥郡へ

    はやばや かしま  まいつきごじょうびりょうもみひゃくにじっこく  げぎょうせし  べ   こと
  早〃と鹿嶋へ毎月御上日料籾佰二拾石を下行令む可き事

       たがぐん                 じうにこくごと
   多賀郡@      十二石五斗

       さつひがし                じうよんこく
   佐都A東       十四石

       さつにし                 きゅうこくはっと
   佐都西       九石八斗

       くじひがし                さんじうろっこういっと
   久慈B東       三十六石一斗

       くじにし                 じうよんこくさんと
   久慈西       十四石三斗

       なかひがし                じうさんこくきゅうと
   那珂C東       十三石九斗

       なかにし                 じうきゅうこくよんと
   那珂西       十九石四斗

  みぎ  くだん もみ まいねんけたいな  げぎょうすべ のじょう  くだん ごと
 右、件の籾、毎年懈怠無く下行可き之状、件の如し。

      ぶんじさんねんじうがつにじうくにち
   文治三年十月廿九日

                                                         なか   はら
                           中  原

                                                         ふじ   わら
                           藤  原

                                                         おお なか とみ
                           大 中 臣

                                                         かぞえのじょう
                           主 計 允

                                                       さきのいなばのかみなかはら
                           前因幡守中原

参考@多賀郡は、現在の日立市の一部、高萩市、北茨城市。旧5町15村。
参考A佐都は、茨城県常陸 太田市茅根町369に佐都小学校あり。
小学校のHPの説明には「佐都のおこりは、太田の郷から北方に,薩都(さつ)の里がある。昔,先住民,国栖(くず)の種族で土雲(つちぐも)と名のるものが住んでいた。そこで,兎上命(うなかみのみこと)は兵をさしむけて,その罪を問うて滅ぼしてしまった。その時、うまく殺させて「幸なことよ」といわれた。それによって、「佐都」(さつ)と名づけたということである。」
参考B久慈郡は、太子町。常陸太田市の一部。日立市の一部。東西は鎌倉時代になって区分けされ実態に近い名称になった。
参考C那珂郡は、東海村。那珂湊市。勝田市。常陸大宮市。那珂市。

現代語文治三年(1187)十月二十九日丙申。常陸国の鹿島神宮は、(頼朝様の)敬いは他の神社を上回るものです。だから毎月の神様へ備える食事に宛てる年貢の事を、常陸奥郡に割り当てました。今日、その命令書を出させましたとさ。

  政務事務所が命令する  常陸国奥郡へ
  さっさと鹿島神宮へ毎月の
神様へ備える食事に宛てる年貢の籾米百二十石を送ること
   多賀郡は、十二石五斗。
   佐都東は、十四石。
   佐都西は、九石八斗。

   久慈東は、三十六石一斗。
   久慈西は、十四石三斗。
   那珂東は、十三石九斗。
   那珂西は、十九石四斗。
  右の例の籾米、毎年怠けることなく届けるようにとの命令書は、このとおりである。
     文治三年十月二十九日
              中原(親能)、
              藤原(邦道)、
              大中臣(秋家)、
              主計
允(二階堂行政)、
              前因幡守中原(大江広元)

きょう  ひでひらにゅうどう むつのくにひらいずみのたち をい そっきょ   ひごろじゅうびょう たの すくな   よっ
今日 秀衡入道、 陸奥國 平泉舘に於て卒去す。日來重病し恃み少きに依てD

そ   とき いぜん   いよのかみよしあき  だいしょうぐん な  こくむ せし  べ   のよし  だんやすひら いか  ゆいごんせし   うんぬん
其の時以前に、伊豫守義顯を大將軍と爲し國務令む可し之由、男泰衡以下に遺言令むと云々。

  ちんじゅふしょうぐん けん むつのかみ じゅごいのじょう ふじわらのあそん ひでひらほっし
 鎭守府將軍 兼 陸奥守 從五位上 藤原朝臣 秀衡法師

     でわおうりょうし もとひら  だん  かおうにねんごがつにじうごにち ちんじゅふしょうぐん  にん    じゅごいのげ  じょ
  出羽押領使基衡が男、嘉應二年五月廿五日 鎭守府將軍に任じ、從五位下

    ようわがんねんはちがつにじうごにち むつのかみ  にん   どうじつじゅごいのじょう  じょ
  養和元年八月廿五日 陸奥守に任じ、同日從五位上に敍す

参考D恃み少きに依ては、@余命幾許も無いとA頼みになる子孫が居ない。の2種に解釈が分かれるが、ここでは@とした。

現代語今日、藤原秀衡入道が、 陸奥国平泉舘にて亡くなりました。普段から重病で先行きが危ういので、前もって、伊予守義顕(源義経)を大将軍として、陸奥の国の政務を勤めるように、息子の泰衡達に遺言をしたそうです。

(没年記事)鎮守府将軍 兼 陸奥守 従五位上 藤原朝臣秀衡法師
      出羽押領使(支配者)基衡の息子、嘉應二年五月廿五日 鎮守府将軍に任命され、従五位下を与えられる
      養和元年八月廿五日 陸奥守に任命され、同日従五位上を与えられる

十一月へ

吾妻鏡入門第七巻

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