吾妻鏡入門第七巻

文治三年(1187)十一月大

文治三年(1187)十一月大五日壬寅。鎭西守護人天野藤内遠景申云。浴恩澤當所住人等事。任御下文之旨。去八月十八日加施行畢云々。

読下し                     ちんぜいしゅごにんあまののとうないとおかげもう  い       おんたく  よく     とうしょじうにんら  こと
文治三年(1187)十一月大五日壬寅。鎭西守護人天野藤内遠景申して云はく、恩澤に浴する當所住人等の事、

おんくだしぶみのむね まか   さんぬ はちがつじうはちにち しぎょう  くは  をはん   うんぬん
御下文之旨に任せ、去る 八月十八日 施行を加へ畢ぬと云々。  

現代語文治三年(1187)十一月大五日壬寅。鎭西守護人(後の鎮西探題)の天野藤内遠景の報告では、御家人として安堵された九州の土豪達に対し、頼朝様の命令書に従って、先だっての八月十八日に身分保障を実施しました。

文治三年(1187)十一月大十日丁未。佐々木四郎左衛門尉高綱申云。東大寺棟木。去年雖被尋。終不得之。去九月之比。於周防國杣採之。其長十三丈也。是偏依重源上人信心縡成就之兆也云々。

読下し                     ささきのしろうさえもんのじょうたかつなもう もう    い
文治三年(1187)十一月大十日丁未。佐々木四郎左衛門尉高綱申して云はく、

とうだいじ  むなき  きょねんたず  らる   いへど   しまい これ  えず
東大寺の棟木、去年尋ね被ると雖も、終に之を得不。

 さんぬ くがつのころ  すおうのくに  をい  これ  そまど      そ   なが じうさんじょうなり
去る九月之比、周防國に於て之を杣採る。其の長さ十三丈也。

これ ひとへ ちょうげんしょうにん しんじん  よっ  こと じょうじゅのきざしなり  うんぬん
是、偏に 重源上人 の信心に依て縡 成就之兆也と云々。  

現代語文治三年(1187)十一月大十日丁未。佐々木四郎左衛門尉高綱の報告では、東大寺の大仏殿の棟木を去年探させましたが、とうとう手に入りませんでした。
先だっての九月頃に、周防国(山口県東部)で、これを切り出すことが出来ました。その長さは十三丈(39m)です。
これが見つかったと云う事は、何といっても重源上人の信心深さが、事業を完成へと導く為の前兆なのでしょうだとさ。

文治三年(1187)十一月大十一日戊申。貢馬三疋進發。佐々木次郎經高爲御使相具之上洛云々。四郎政義。千葉四郎胤通等騎之。
 一疋〔黒〕          千葉介常胤進
 一疋〔葦毛〕         小山兵衛尉朝政進
 一疋〔毛駮〕         宇都宮左衛門尉朝綱進  

読下し                        くめ さんびきしんぱつ    ささきのじろうつねたか おんし  な   これ  あいぐ   じょうらく    うんぬん
文治三年(1187)十一月大十一日戊申。貢馬三疋進發す。佐々木次郎經高御使と爲し之を相具し上洛すと云々。

しろうまさよし   ちばのしろうたねみちら これ  の
四郎政義、千葉四郎胤通@等之に騎る。

  いっぴき 〔くろ〕                      ちばのすけつねたねしん
 一疋〔黒〕          千葉介常胤進

  いっぴき 〔あしげ〕                     おやまのひょうえのじょうともまさしん
 一疋〔葦毛A         小山兵衛尉朝政進

  いっぴき 〔けぶち〕                     うつのみやのさえもんのじょうともつなしん
 一疋〔毛駮B         宇都宮左衛門尉朝綱進

参考@千葉四郎は、大須賀四郎胤信だし、胤通だと国分五郎胤通(胤道)だし、一帯どっちだ。
参考A葦毛は、体の一部や全体に白い毛が混生し、年齢とともにしだいに白くなる。はじめは栗毛や鹿毛にみえることが多い。原毛色の残り方から赤芦毛・連銭芦毛など種々ある。
参考B
毛駮は、恐らく鴾毛駮(つきげぶち)で、鴾毛(葦毛でやや赤みをおびたもの)で体に大きな白斑のあるもの。

現代語文治三年(1187)十一月大十一日戊申。京都朝廷へ年貢として献上する貢馬三頭の出発です。佐々木仲務丞経高が頼朝様の使いとして、これらを伴って京都へ上洛します。下河辺四郎政義と千葉四郎胤通(ママ)が騎乗しました。

 一頭〔黒〕千葉介常胤の提供  一頭〔葦毛〕小山四郎朝政の提供  一頭〔毛斑〕宇都宮左衛門尉朝綱の提供

文治三年(1187)十一月大十五日壬子。去夜梶原平三景時内々申云。畠山次郎重忠。不犯重科之處。被召禁之條。稱似被弃捐大功。引篭武藏國菅谷舘。欲發反逆之由風聞。而折節。一族悉以在國。縡已符合。爭不被廻賢慮乎云々。依之。今朝召集朝政。行平。朝光。義澄。義盛等勇士。遣御使。可被問子細歟。將又直可遣討手歟。兩條可計申旨。被仰含之。朝光申云。重忠天性禀廉直。尤弁道理。敢不存謀計者也。然者。今度御氣色。依代官所犯之由。令雌伏畢。其上殊怖畏神宮照鑒之間。更不存怨恨歟。謀叛條。定爲僻事歟。被遣專使。可被聞食其意者。自餘衆令一同云々。爰行平者弓馬友也。早行向可尋問所存。无異心者。可召具參之旨被仰出。行平不能辞退。明曉可揚鞭云々。

読下し                        さんぬ よ  かじわらのへいざかげとき ないない もう   い
文治三年(1187)十一月大十五日壬子。去る夜、 梶原平三景時 内々に申して云はく。

はたけやまのじろうしげただ ちょうか おか  ずのところ  これ  めしきん  らる   じょう  たいこう  きそんさる    に       しょう
 畠山次郎重忠、 重科を犯さ不之處、之を召禁じ被るの條、大功を弃捐被るに似たりと稱し、

 むさしのくにすがやかた ひきこ   ほんぎゃく はっ      ほっ    のよしふうぶん
武藏國菅谷舘に引篭み、反逆を發さんと欲する之由風聞す。

しか    おりふし  いちぞく ことごと もっ  ざいこく    ここ  すで  ふごう    いかで けんりょ  めぐらされずや  うんぬん
而るに折節、一族 悉く 以て在國し、縡に已に符合す。爭か賢慮を廻被不乎と云々。

これ  よっ     けさ ともまさ  ゆきひら  ともみつ  よしずみ  よしもりら   ゆうし  めしあつ    おんし  つか       しさい  とはる  べ   か
之に依て、今朝朝政、行平、朝光、義澄、義盛等の勇士を召集め、御使を遣はし、子細を問被る可き歟。

はたまた  じき  うって  つか    べ   か  りょうじょう はから もう  べ     むね  これ  おお  ふく  らる
將又、直に討手を遣はす可き歟。兩條 計ひ申す可きの旨、之を仰せ含め被る。

ともみつもう    い       しげただ てんせいれんちょく う     もっと  どうり   い     あえ  ぼうけい ぞん ざるものなり
朝光申して云はく、重忠は天性廉直を禀け、尤も道理を弁う。敢て謀計を存ぜ不者也。

しからば  このたび  みけしき   だいかんしょはんのよし よっ    しふくせし をはんぬ
然者、今度の御氣色、代官所犯之由に依て、雌伏令め畢。

 そ  うえこと  じんぐう  しょうかん  ふい     のかん  さら  えんこん  ぞん  ざるか  むほん  じょう  さだ    へきごとたら  か
其の上殊に神宮の照鑒を怖畏する之間、更に怨恨を存ぜ不歟。謀叛の條、定めて僻事爲ん歟。

せんし   つか  され   そ   い   き     めさる  べ   てへ       じよ  しゅういちどうせし    うんぬん
專使を遣は被、其の意を聞こし食被る可し者れば、自餘の衆一同令むと云々。

ここ  ゆきひらは きゅうば  ともなり  はや  ゆきむか  しょぞん  たず  と   べ     いしんなく  ば   めしぐ    まい  べ   のむねおお  いださる
爰に行平者弓馬の友也。早く行向い所存を尋ね問う可し。異心无ん者、召具して參る可し之旨仰せ出被る。

ゆきひら じたい  あたはず  みょうぎょう むち  あ   べ     うんぬん
行平辞退に不能。 明曉 鞭を揚ぐ可しと云々。  

現代語文治三年(1187)十一月大十五日壬子。昨夜、梶原平三景時が内々に申し上げて云うのには、「畠山次郎重忠は、重い罪を犯したわけでもないのに、囚人として預けられたのは、大きな手柄を破棄されたのと同じだといって、武蔵国菅谷館に引きこもって、反乱をしようと考えていると噂があります。しかも、丁度一族がそろって一緒に国へ帰ってきているのは、話が合いすぎています。なんでこれを放っておくのでしょう」だとさ。
それなので今朝、小山四郎朝政、下河辺庄司行平、小山七郎朝光、三浦介義澄、和田太郎義盛などの勇ましい連中を呼び集め、使いを行かせて詳しく質問するのが良いか、それとも、直接征伐軍を行かせるのが良いか、どちらが良いか考えて欲しいと言い聞かせました。
小山朝光が云うには、「畠山重忠は本性は、心が清くまっすぐなので、いっつも道理の通った事を云う人です。はかりごとを考えるような人ではありません。それなので、今度の不興を買ったのも、代官の悪い行いで責められました。そればかりか、特に神様から見られていると気にしているので、絶対に恨みを持つような人ではありません。謀反のことも、きっと間違いではないでしょうか。特別に使いを行かせて、その意思をお聞きになられるのが良いでしょう」と云いましたので、他の皆も賛成しましたとさ。
そこで、「下河辺行平は武芸仲間なので、早く行って、意思を聞いてきなさい。もし、反逆の意思がなければ、一緒に連れてきなさい」とおっしゃられました。
行平も辞退する必要が無いので、明日の朝出かけましょうとの事なんだってさ。

文治三年(1187)十一月大廿一日戊午。行平相具重忠。自武藏國歸參。重忠属景時。陳申无逆心之由。景時云。無其企者可進起請文者。重忠云。如重忠之勇士者。募武威奪取人庶財寳等。爲世渡計之由。若及虚名者。尤可爲恥辱。欲企謀叛之由風聞者。還可謂眉目。但以源家當世。仰武將主之後更無貳。而今逢此殃也。運之所縮也。且重忠本自心与言不可異之間。難進起請。疑詞用起請給之條者。對奸者時之儀也。於重忠。不存僞之事者。兼所知食也。速可披露此趣者。景時申其由二品。付是非无御旨。則召重忠行平於御前。談世上雜事等給。曾不被仰出此間事。小時令入給之後。以親家賜御劔於行平。无爲相具重忠。爲大功之由云々。行平去十七日向畠山舘。相觸子細於重忠。々々太忿怒云。依何恨。抛多年勳功。忽可爲反逆凶徒哉。且於重忠所存者。不能左右。二品御腹心。今更无御疑歟。偏就讒者等口状。稱有恩喚。相度爲誅。被差遣貴殿也。生末代今聞此事。可耻業果者。取腰刀欲自戮。行平取重忠手云。貴殿者不知詐僞之由自稱。行平又誠心。々在公之條。爭可異貴殿哉。可誅者亦非可怖之間。不可僞度也。貴殿將軍後胤也。行平四代將軍裔孫也。態令露顯。及挑戰之條。可有其興。時儀適撰朋友。行平爲使節。是无異儀。爲令具參之御計者。于時重忠含笑。勸盃酒。歡喜相伴云々。

読下し                        ゆきひら しげただ  あいぐ    むさしのくによ   きさん
文治三年(1187)十一月大廿一日戊午。行平、重忠を相具し、武藏國自り歸參す。

しげただ  かげとき ぞく    ぎゃくしんな  のよしちん  もう    かげときい       そ  くはだ な   ば   きしょうもん しん  べ   てへ
重忠、景時に属し、逆心无き之由陳じ申す。景時云はく。其の企て無く者、起請文を進ず可し者り。

しげただい       しげただのごと   ゆうしは   ぶい   つの  じんしょ  ざいほうら  うば  と      よわたり はから   な    のよし
重忠云はく。重忠之如き勇士者、武威に募り人庶の財寳等を奪い取り、世渡の計いを爲す之由、

も   きょめい  およ  ば   もっと ちじょくたる     むほん  くはだ     ほっ    のよしふうぶん    は   かへっ びもく  い     べ
若し虚名に及ば者、尤も恥辱爲可し。謀叛を企てんと欲する之由風聞する者、還て眉目と謂ひつ可し。

ただ  げんけ  とうせい  もっ    ぶしょう  ぬし  あお  ののちさら ふたごころ な
但し源家の當世を以て、武將の主に仰ぐ之後更に 貳 無し。

しか    いま こ  わざわ   あ   なり  うんのちぢ   ところなり  かつう しげただもとよ  こころとことばこと   べからざるのかん きしょう  すす  がた
而るに今此の殃いに逢う也。運之縮まる所也。且は重忠本自り心与言異なる不可之間、起請を進め難し。

ことば うたぐっ きしょう  もち  たま  のじょうは  かんじゃ  たい    ときのぎなり  しげただ をい     いつはり ぞん  ざるのことは  かね  し     め  ところなり
詞を疑て起請を用い給ふ之條者、奸者に對する時之儀也。重忠に於ては、僞を存ぜ不之事者、兼て知ろし食す所也。

すみや  こ おもむき  ひろうすべ  てへ    かげとき そ  よし  にほん  もう      ぜひ   つ   おんむねな
速かに此の趣を披露可し者り。景時其の由を二品に申す。是非に付き御旨无し。

すなは しげただ ゆきひらを ごぜん  め     せじょう   ぞうじら   だん  たま    あえ  かく  かん  こと  おお  いでられず
則ち重忠、行平於御前に召し、世上の雜事等を談じ給ふ。曾て此の間の事を仰せ出被不。

しばらく い  せし  たま   ののち  ちかいえ  もっ  ぎょけんを ゆきひら  たま       むい   しげただ  あいぐ     たいこうたるのよし  うんぬん
小時入り令め給ふ之後、親家を以て御劔於行平に賜はる。无爲に重忠を相具し、大功爲之由と云々。

ゆきひら さんぬ じうしちにち はたけやまやかた むか   しさいをしげただ  あいふれ   しげただ はなは ふんぬ    い
行平、去る十七日 畠山舘に 向い。子細於重忠に相觸る。々々 太だ忿怒して云はく。

なん  うら    よっ    たねん  くんこう  なげう   たちま ほんぎゃく きょうとたるべけ や   かつう しげただ しょぞん  をい  は   そう   あたはず
何の恨みに依て、多年の勳功を抛ち、忽ち反逆の凶徒爲可ん哉。且は重忠の所存に於て者、左右に不能。

にほん  ごふくしん  いまさらおうたがいな か  
二品の御腹心今更御疑无き歟。

ひとへ ざんしゃら  こうじょう  つ     おんかんあ   しょう    あいはか  ちう  ため  きでん  さ   つか  さる  なり
偏に讒者等の口状に就き、恩喚有ると稱し、相度り誅す爲、貴殿を差し遣は被る也。

まつだい いま  うま  こ   こと  き      ごうか  はずべ   てへ      こしがたな と   じりく       ほっ
末代の今に生れ此の事を聞く。業果を耻可き者れば、腰刀を取り自戮せんと欲す。

ゆきひらしげただ て  とっ  い
行平重忠の手を取て云はく。

きでんは  さぎ   しらざるのよし じしょう    ゆきひらまたせいしん こころ こうあ   のじょう  いかで きでん  こと    べけ  や
貴殿者詐僞を知不之由自稱す。行平又誠心、々に公在る之條、爭か貴殿と異なる可ん哉。

ちう  べく  ば またおそ    べ     あらざ のかん  いつわ はか べからざ  なり  きでん  しょうぐん  こういんなり  ゆきひら  よんだいしょうぐん  えいそんなり
誅す可ん者亦怖れる可きに非る之間、僞り度る不可る也。貴殿は將軍の後胤也。行平は四代將軍の裔孫也。

わざ  ろけんせし    ちょうせん およ  のじょう  そ  きょうあ  べ      じぎ たまた ほうゆう  えら    ゆきひら しせつ  な
態と露顯令め、挑戰に及ぶ之條、其の興有る可し。時儀適ま朋友を撰び、行平使節と爲す。

これ いぎ な      ぐせし  まい    ためのおんはかり    てへ     ときにしげただ わら    ふく    はいしゅ  すす   あいとも  かんき    うんぬん
是異儀无く、具令め參らん爲之御計なり者れば、時于重忠笑いを含め、盃酒を勸め、相伴に歡喜すと云々。

現代語文治三年(1187)十一月大二十一日戊午。行平が、重忠を一緒に連れて、武蔵国から戻りました。重忠は、侍所所司の景時に対し、反逆の意思の無い事を弁明しました。
景時が云うには、「そのはかりごとが無いのなら、それを起請文に書いて提出されなさい」と云いました。
重忠は、「畠山次郎重忠ほどの勇敢なる武士が、その武力を使って人々の財宝などを奪い取って生活の糧にしていると噂が立てば恥ずかしい事であるが、むしろ謀反を企てようとしたとの噂なら、かえって力量の褒められたようなもので、面目が立つというものだ。しかし、源家がとっている天下で、武将の主と仰いでいる以上は、全く他への余地は無いのに今、この災難に出会ったのは、運がなかったからだろう。重忠は、元々心と言葉とを違える様な者ではないので、起請文など書く必要はない。言葉を信用出来ない場合に起請文を書かせるのは、悪い奴に対する時のことでしょう。重忠に嘘が無い事は、頼朝様も承知していなさるはずだから、直ぐにその内容を伝えてください」と云いました。
景時がその旨を頼朝様に話したところ、是非の返事は無く、直ぐに畠山次郎重忠と下河辺庄司行平を目の前にお呼びになり、世間話を始めました。敢えて、その話題には触れませんでした。暫くして話を終え、奥にお入りになった後、堀藤次親家を遣わして剣を下河辺行平に与えました。それは、無事に畠山次郎重忠を連れてきたお手柄への褒美なんだとさ。

下河辺庄司行平は、先日の十七日に畠山館に向かいました。細かな事情を重忠に話したところ、重忠は大変怒って云いました。「何の恨みがあって、長く仕えて来た多くの手柄をなげうって、安易に反逆者にならなくちゃいけないのだ。重忠の心は、どうこう判断する必要なんか無い。頼朝様の腹の内でも又、同様に疑っている訳でもなかろう。単に告げ口野郎の話を信じて、お呼びがあると偽って、だまし討ちにするために、貴殿を派遣したのであろう。先祖代々の武家の家に生まれてきて、今このような事態を招くとは、己が招いた因縁を恥じるべきだ。」と云って、腰の刀を取って自殺しようとしました。
行平は、その重忠の手を取って云いました。「貴殿は、真っ正直だと自分を信じている。行平もまた真心を持っており、自我を持たずに心は世間にある。どこに貴殿と違いが有るものか。もし、貴殿を殺しに来たのなら、何を恐れて嘘をついて陥れようなどとするものか。貴殿は、平良文将軍の末裔であり、行平は四代鎮守府将軍藤原秀郷の子孫である。貴殿を攻めに来たと気付かせて戦いを望めば、それも面白いかもしれない。世間と時が、たまたま友人の行平を選んで派遣員とした。それが、問題を起こさず連れてくるであろうという、頼朝様の思惑なのでありましょう。」と云えば、それを聞いた重忠は笑いながら、酒を勧めたので、お互いに大喜びし合いましたとさ。

文治三年(1187)十一月大廿五日壬戌。有但馬國住人山口太郎家任云者。弓馬逹者勇敢士也。而属木曾左馬頭。近仕随一也。彼誅亡之後。在豫州之家。豫州逐電之刻。同横行所處之間。北條殿令生虜之。所被召進也。仍仕于兩人由緒被尋問之處。申云。家任譜代源氏御家人也。就中父家修者。仕六條廷尉禪室〔頼(為)義〕。輸忠。拝領數ケ所。平家執天下之時。悉以窂籠。左典厩〔義仲〕入洛最初。壽永二年八月。適令安堵畢。爲酬其徳。一旦雖列門下。於關東不挿異心。又属豫州之條。人之爲虚訴歟者。六條殿御下文于今令帶否。被尋仰之間。備進之。二品洗兩手。令拝見之給。邦通讀申。保元三年二月日御下文也。爲内舎人筆跡也云々。優此御下文。他事不及糺明沙汰。可安堵本職之旨。直被仰含云々。被重曩時之趣。諸事如斯云々。

読下し                        たじまのくに じうにんやまぐちのたろういえとう  い   ものあ     きゅうば  たっしゃ  ゆうかん  しなり
文治三年(1187)十一月大廿五日壬戌。但馬國@住人山口太郎家任と云う者り。弓馬に逹者な勇敢の士也。

しか    きそのさまのかみ   ぞく    きんじ   ずいいちなり  か   ちうぼうののち  よしゅうのいえ  あ
而るに木曾左馬頭に属し、近仕の随一也。彼の誅亡之後、豫州之家に在り。

よしゅうちくてんのとき   おな    しょしょ  おうこうのかん  ほうじょうどのこれ い  ど   せし    め   しん  らる ところなり
豫州逐電之刻、同じく所處に横行之間、北條殿之を生け虜ら令め、召し進ぜ被る所也。

よっ りょうにんに つか  ゆいしょ  たず  とはれ   のところ  もう    い       いえとう  ふだい  げんじごけにんなり
仍て兩人于仕う由緒を尋ね問被る之處、申して云はく。家任は譜代の源氏御家人也。

なかんづく  ちちいえたけは  ろくじょうていじょうぜんしつ〔ためよし〕  つか    ちう  はこ  すうかしょ  はいりょう
就中に、父家修A者、六條廷尉禪室〔為義〕に仕へ、忠を輸び數ケ所を拝領す。

へいけてんか  しっ     のとき  ことごと もっ  ろうろう
平家天下を執する之時、悉く以て窂籠す。

さてんきゅう 〔よしなか〕 じゅらく  さいしょ じゅえいにねんはちがつ たまた あんどせし をはんぬ
左典厩〔義仲〕入洛の最初。壽永二年八月。適ま安堵令め畢。

 そ  とく  むく    ため  いったんもんか  れっ      いへど   かんとう  をい  いしん  さしはさ ず
其の徳に酬いん爲、一旦門下に列すると雖も、關東に於て異心を挿ま不。

また  よしゅう  ぞく  のじょう  ひと のきょそ   ためか てへ
又、豫州に属す之條、人之虚訴の爲歟者り。

 ろくじょうどの おんくだしぶみ いまに たいせし   いな    たず  おお  らる  のかん  これ  そな  しん
六條殿が 御下文 今于帶令むや否やB、尋ね仰せ被る之間、之を備へ進ず。

にほんりょうて  あら    これ  はいけんせし  たま    くにみち よ  もう
二品兩手を洗い、之を拝見令め給ふ。邦通讀み申す。

ほうげんさんねんにがつにち おんくだしぶみなり   うどねり  ひっせきたり   うんぬん  かく おんくだしぶみ ゆう    ほか  こと  きゅうめい  さた   およばず
保元三年二月日の 御下文也。 内舎人の筆跡爲也と云々。此の御下文に優じ、他の事は糺明の沙汰に及不。

ほんしき  あんどすべ  のむね  じき  おお  ふく  らる    うんぬん  のうじ  おも    らる のおもむき  しょじ かく  ごと    うんぬん
本職を安堵可し之旨、直に仰せ含め被ると云々。曩時を重んぜ被る之趣、諸事斯の如くと云々。

参考@但馬国は、兵庫県北部。
参考A
と云う文字は、人名読みとして「おさ、さね、たけ、なお、なが、のぶ、もろ」とある。
参考B御下文今于帶令むや否や・之を備へ進ずは、身分証明書になるので何時も持ち歩いていたらしい。

現代語文治三年(1187)十一月大二十五日壬戌。但馬国の豪族で山口太郎家任と云う者がおります。弓と馬の上手な勇敢な侍です。
そして木曽義仲の家来の中でも、一番の人でした。義仲が滅ぼされた後は、義経の家来になっていました。
義経が逃亡した時に、同様にあちこちを隠れ逃げていましたが、北条時政殿が生け捕りにして鎌倉へ送り届けてきました。
そこで、義仲、義経のそれぞれに仕えていた経緯を尋問したところ、話した事は「家任は元々源氏の家来です。なかでも、父家修は、六条廷尉禅室源為義の家来として忠義をつくしたので、数箇所の領地を戴きました。平家が天下を取った時は全て奪われて失ってしまいました。左馬頭木曽義仲が京都へ進行した始めの寿永二年八月、運良く領地を戻されました。そのお礼に一度は家来になりましたが、関東の源氏に敵対した訳ではありません。又、義経の家来になっていたと云うのは、誰かが嘘を言いつけたのでしょう。」と云いました。
「では、六条殿(爲義)の命令書を持っているかどうか。」とお尋ねになられたので、その命令書を差し出しました。
二品頼朝様は、両手を洗って、その書類を見ました。そして大和判官代邦道に朗読させました。保元三年二月付けの命令書です。中務省の文官内舎人の筆跡なんだそうな。「この命令書が何よりの証拠なので、他の事は問い質す必要は無い。元の職を認めよう。」と、頼朝様直々に仰せ聞かせましたとさ。先祖の事を重じんられる御心持は、万事このとおりなんだとさ。

文治三年(1187)十一月大廿八日乙丑。閑院修造勸賞事。可辞申之旨。兼以被仰遣廣元之許畢。廣元得其趣。遮依辞申。無其沙汰者。去十三日以遷幸之次。相摸武藏兩國可爲重任之由。被仰之許也。仍被下御感 院宣。今夕到來。其詞偁。
 閑院修造事。雖爲大厦之功。已爲不日之營。可有勸賞之由雖思食。内々依有聞食之旨。于今所有御猶豫也者。
 院宣如此。仍執逹如件。
      十一月十六日                 太宰權師藤原經房〔奉〕
  謹上 源二位殿

読下し                       かんいんしゅうぞう けんじょう こと  じ   もう  べ   のむね  かね  もっ  ひろもとのもと  おお  つか されをはんぬ
文治三年(1187)十一月大廿八日乙丑。閑院修造の勸賞の事、辞し申す可し之旨、兼て以て廣元之許へ仰せ遣は被畢。

ひろもと そ おもむき え    さへぎっ じ   もう    よっ    そ   さた な   てへ
廣元其の趣を得て、遮て辞し申すに依て、其の沙汰無し者れば、

さんぬ じうさんにち せんこうのついで もっ    さがみ  むさしりょうごく  ちょうにん  な   べ   のよし  おお  らる  のはか  なり
去る十三日の遷幸之次を以て、相摸、武藏兩國の重任を爲す可し之由、仰せ被る之許り也。

よっ  ぎょかん  いんぜん  くださる   こんゆうとうらい    そ  ことば  いは
仍て御感の院宣を下被る。今夕到來す。其の詞に偁く。

  かんいんしゅうぞう こと  たいかの こう  な    いへど   すで  ふじつのいとな   ため  けんじょうあ べ   のよし おぼ  め     いへど
 閑院修造の事、大厦之功を爲すと雖も、已に不日之營みの爲、勸賞有る可し之由思し食すと雖も、

  ないないき     め   のむね あ    よっ    いまに ごゆうよ  あ  ところなりてへ
 内々聞こし食す之旨有るに依て、今于御猶豫有る所也者れば。

  いんぜんかく  ごと    よっ  しったつくだん ごと
 院宣此の如し。仍て執逹件の如し。

            じういちがつじうろくにち                                 だいざいごんのそつふじわらつねふさ 〔ほう 〕
      十一月十六日                 太宰權師藤原經房〔奉ず〕

    きんじょう  げん にい どの
  謹上 源二位殿

現代語文治三年(1187)十一月大二十八日乙丑。里内裏閑院を修理した手柄に与えられる恩賞は辞退するように、前もって大江広元の処にお伝えになられておりました。大江広元は、その趣旨によって、朝廷からの申し出を敢えて辞退したので、何の措置もありませんでした。しかし、先日の十三日の引越し式の次いでに、相模、武蔵の国司職を続けて任命して欲しいとの、仰せを伝えただけでした。それなので、お喜びの後白河院のお手紙を下さいました。それが、今日夕方届きました。その内容は、

 里内裏閑院の修理という、大きな建物を建造したした大事業であったので、しかも日をおかずに頑張ったので、手柄を与えらるようにお考えになられましたが、内々に恩賞は辞退したいとのご意思を聞いたので、今まで猶予していました。との、院のお言葉はこの通り書き出したものです。
   十一月十六日               太宰権師藤原吉田経房〔命を奉じて書きました〕
  謹んで差し上げます  源二位殿

十二月へ

吾妻鏡入門第七巻

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