吾妻鏡入門第七巻

文治三年(1187)十二月小

文治三年(1187)十二月小一日戊辰。雪降。雷一聲。被催雪興。二品欲歴覽山岳邊給之處。依驚雷鳴給令留給云々。今日。小山七郎朝光母〔下野大掾政光入道後家〕給下野國寒河郡并網戸郷。是雖爲女姓。依有大功也。

読下し                     ゆきふ   かみなりひとこえ
文治三年(1187)十二月小一日戊辰。雪降る。雷一聲。

ゆき  きょう  もよ  され  にほん さんがくへん れきらん     ほっ  たま  のところ  らいめい おどろ たま   よっ  とど  せし  たま    うんぬん
雪の興を催お被、二品山岳邊を歴覽せんと欲し給ふ之處、雷鳴に驚き給ふに依て留ま令め給ふと云々。

きょう   おやまのしちろうともみつ  はは 〔しもつけだいじょう まさみつにゅうどう  ごけ〕  しもつけのくにさがわぐんなら   あじとごう  たま
今日、小山七郎朝光が母A〔下野大掾B政光入道が後家@下野國寒河郡C并びに網戸郷Dを給はる。

これ にょしょうたる いへど   たいこう あ     よっ  なり
是、女姓爲と雖も、大功有るに依て也。

参考@政光入道が後家は、(掲載位置不審)又、政光は寿永二年(1183)二月廿三日には皇居警衛のため在京とある。
政光は
文治五年(1189)七月廿五日の奥州討伐の途中に入道して出演している。同年九月二十日も出演、正治元年(1199)十月廿七日時点で朝光の台詞に「亡父政光法師の遺跡」と出てくる。その後19巻承元3年(1209)12月15日条の記事で建久年中に亡とある。以上から察するに恐らく切り貼りの誤謬で政光が死んだ建久年中の記事であろう。

参考
A朝光が母は、一巻治承四年十月二日小山下野大掾政光妻寒河尼で登場。
参考B下野大掾は、下野国衙の国司・介につぐ役職。
参考C寒河郡は、寒川郡(さむかわぐん)で下野国にかつて存在した郡である。1889年(明治22年)4月1日、下都賀郡に編入された。小山市南部、思川西岸にあたる。ウィキペディアから
参考D網戸郷は、栃木県小山市網戸。但し、寒川郡内と思われるので、郡地頭と網戸郷地頭かもしれない。

現代語文治三年(1187)十二月小一日戊辰。雪が降っています。雷も一声ですが鳴りました。雪景色に風流を感じられて、二品頼朝様は、幕府周辺の山道でも歩いてみようと言い出しましたが、雷の音に驚かれ、落雷の危険を察して思いとどまりました。

今日、小山七郎朝光の母〔下野大掾(国衙の重鎮)政光の後家〕に下野国寒河郡地頭と網戸郷地頭の職を与えられました。この人は、女性であっても、旗揚げの際に小山一族を味方に引き込んだ大手柄があるからです。(掲載位置不審)

文治三年(1187)十二月小二日己已。被進飛脚於京都。行程被定七ケ日。是來十一日法皇熊野御參詣之間。依被進砂金也。其上。御分三ケ國之内武士等押領所々之由。被仰下畢。賜注文。可加下知之旨。令言上給云々。

読下し                     ひきゃくを きょうと  すす  らる    こうていなぬかにち  さだ  らる
文治三年(1187)十二月小二日己已。飛脚於京都へ進め被る。行程七ケ日と定め被る。

これ  きた  じういちにちほうおうくまの ごさんけいのかん  さきん  すす  らる    よっ  なり
是、來る十一日法皇熊野御參詣之間、砂金を進め被るに依て也。

 そ  うえ   ごぶん さんかこくの うち  ぶしら   おうりょう しょしょのよし  おお  くだされをはんぬ
其の上、御分三ケ國之内武士等の押領の所々之由、仰せ下被畢。

ちうもん  たま       げち   くは    べ   のむね  ごんじょうせし たま    うんぬん
注文を賜はり、下知を加へる可し之旨、言上令め給ふと云々。

現代語文治三年(1187)十二月小二日己已。伝令を京都へ行かせました。片道七日で着く様決められました。
その用事は、今度の十一日に後白河法皇が熊野詣をするので、その費用に砂金を献上するためです。そればかりか、院の御分国三カ国(美作、播磨、備前)の内の、武士に年貢を横取りされた箇所を指摘されてきたからです。書き出した文書を戴ければ、命令いたします。と、申し上げるためなんだとさ。

文治三年(1187)十二月小七日甲戌。梶原平三景時献靈鵯。背与腹白似雪。自美作國出來云々。景時者。彼國守護也。二品殊賞翫給。是可謂吉瑞歟。爰善信申云。 天武天皇御宇二年八月。 帝遷坐野上宮給之時。自鎭西献三足赤色之雀。仍改元爲朱雀元年。明年三月。自備後國献白雉。又改朱雀二年。爲白雉元年。同十五年。自大和國進赤雉之間。改年号爲朱鳥元年。彼御宇平大友皇子逆悪之後。天下靜謐。而奸邪寢謀之節也。以爲佳例。随而瑞物多西國所献也云々。

読下し                     かじわらのへいざかげとき らいちょう けん   せ と はらしろ  ゆき  に     みまさかのくのよ いできた   うんぬん
文治三年(1187)十二月小七日甲戌。 梶原平三景時 靈鵯@を献ず。背与腹白く雪に似る。美作國自り出來ると云々。

かげときは   か   くに  しゅごなり   にほんこと  しょうがん たま    これきちずい い     べ   か   ここ  ぜんしんもう   い
景時者、彼の國の守護也。二品殊に賞翫し給ふ。是吉瑞と謂ひつ可き歟。爰に善信申して云はく。

てんむてんのう  おんう にねんはちがつ  みかど のがみのみや せんざ  たま  のとき  ちんぜいよ  みつあし あかいろのすずめ けん
天武天皇の御宇二年八月、 帝 野上宮に遷坐し給ふ之時、鎭西自り三足の赤色之雀を献ず。

よっ  かいげん  すざくがんねん  な
仍て改元し朱雀元年Aと爲す。

 あ    としさんがつ びんごのくによ  しろきじ  けん    また  すざく にねん  あらた   はくちがんねん  な
明くる年三月、備後國自り白雉を献ず。又、朱雀二年を改め、白雉元年Bと爲す。

おな    じうごねん  やまとのくによ  あかきじ  すす    のかん  ねんごう  あらた しゅちょうがんねん な
同じき十五年、大和國自り赤雉を進める之間、年号を改め、朱鳥元年Cと爲す。

か   おんう おおとものみこぎゃくあく  たいら   ののち  てんかせいひつ   しか    かんじゃはかり ね    のふしなり  もっ  かれい  な
彼の御宇大友皇子の逆悪を平げる之後、天下靜謐す。而るに奸邪謀を寢かす之節也。以て佳例と爲す。

したが て   ずいぶつおお さいごく    けん   ところなり  うんぬん
随い而、瑞物多く西國から献ずる所也と云々。

参考@靈鵯は、雷鳥。
参考A朱雀元年は649年。
参考B
白雉元年は650年。
参考C朱鳥元年は686年は、大津皇子の乱。大友皇子は672壬申の乱で死亡。

現代語文治三年(1187)十二月小七日甲戌。梶原平三景時が、珍しいひよどりを献上しました。背中とお腹が白い雪のようです。美作国(岡山県北東部)で見つけたそうです。梶原平三景時は美作の守護だからです。二品頼朝様は、特にお喜びになられ、これは、良い前兆なんだろうな。と思われました。
そしたら、三善善信が云うのには、天武天皇の時代の二年八月に、天皇が野上宮にお移りになった時に、九州から三本足の赤い雀を献上されました。そこでその吉兆に改元して朱雀元年としました。その翌年の三月に、備後の国(広島県東部)から白い雉が送られて来たので、これも縁起が良いと改元して白雉元年としました。今度は白雉十五年に大和国(奈良県)から赤い雉を贈られたので、改元して朱鳥元年としました。その時代に天智天皇の子の大友皇子との戦に勝ったので、天下は静まりました。ようするに反逆者の企みが寝てしまう事になりましたので、縁起の良い例になります。そう云う訳で、縁起の良い動物は関西から献上されるのが一般的なんだとさ。

文治三年(1187)十二月小十日丁丑。橘次爲茂蒙免許。爲北條殿計。賜富士郡田所職。是父遠茂者。爲平家方人。治承四年奉射二品。仍日來爲囚人云々。

読下し                     きつじためしげめんきょ  こうむ   ほうじょうどの はかり な     ふじぐん   たどころしき たま
文治三年(1187)十二月小十日丁丑。橘次爲茂免許を蒙る。北條殿が計と爲し、富士郡の田所職を賜はる。

これ  ちちとおしげ は  へいけ  かたうどたり  じしょうよねん にほん  いたてまつ  よっ  ひごろめしうどたり  うんぬん
是、父遠茂@者、平家の方人爲。治承四年二品を射奉る。仍て日來囚人爲と云々。

参考@橘遠茂は、第一巻治承四年(1180)八月廿五日、俣野五郎景久と共に武田に向かう。十月一日駿河で武田を迎え撃とうとする。十四日武田軍に捕虜となる。十八日に加藤太光員に討ち取られたとある。

現代語文治三年(1187)十二月小十日丁丑。橘次郎為茂が預かり囚人を許されました。北条時政殿の保護と提案で、富士郡の土地支配の田所職を与えられました。この人の父親遠茂は、平家の味方をして、治承四年に頼朝様に敵対しました。それなので今まで、囚人として預けられていました。

文治三年(1187)十二月小十六日癸未。上総介義兼北方頓病。頗危急。爲令訪給之。御臺所渡御彼宿所。是爲御姉妹之故也。依之諸人群集。及晩得少減邪氣云々。

読下し                       かずさのすけよしかね きたのかたとんびょう
文治三年(1187)十二月小十六日癸未。上総介義兼が 北方 頓病す。

すこぶ ききゅう  これ  とぶら せし  たま   ため   みだいどころ か   しゅくしょ  とぎょ
頗る危急。之を訪は令め給はん爲、 御臺所 彼の宿所@へ渡御す。

これ   ごしまいたるのゆえなり   これ  よっ  しょにんぐんしゅう   ばん  およ  じゃき   しょうげん  え    うんぬん
是、御姉妹爲之故也。之に依て諸人群集す。晩に及び邪氣の少減を得ると云々。

参考@宿所は、石井進氏の説く御家人の屋敷地三点セット『@は幕府へ出仕する際に正装するための「着替用上屋敷」(鎌倉中心部)。A鎌倉での寝泊りや普段の暮らしの為の「生活用中屋敷」(鎌倉内周辺部)と思われる。Bは鎌倉での生活のための食糧生産の「供給用外屋敷」(鎌倉郊外)。但し名称は塾長命名』のうちAの「生活用中屋敷」と思われる。浄妙寺から泉水橋の間北側。

現代語文治三年(1187)十二月小十六日癸未。上総介足利義兼の奥方が病気になりました。とても危ないので、見舞いに行くために、御台所政子様はその生活所へ行かれました。それは、御姉妹だからなのです。この出来事を聞いて、皆が集ってきました。晩になって多少病気が小康状態になってきましたとさ。

文治三年(1187)十二月小十八日乙酉。大夫尉公朝自京都參向。依有自訴。令下向云々。可令尋成敗給歟之旨。爲師中納言奉。所被下五日御教書也。亦今年所進貢馬頗異樣。後年殊可有勤厚歟。次貢金有未進。路次不通之間者別事也。當時凌遲尤御不審之由。被載之云々。

読下し                       たいふのじょうきんとも  きょうとよ   さんこう    みづか  うった  あ     よっ    げこうせし   うんぬん
文治三年(1187)十二月小十八日乙酉。 大夫尉公朝 京都自り參向す。自らの訴へ有るに依て、下向令むと云々。

たず  せいばいせし  たま  べ   か のむね  そちのちうなごん な     ほう    いつか  みぎょうしょ  くださる ところなり
尋ね成敗令め給ふ可き歟之旨、師中納言を爲して奉じ、五日の御教書を下被る所也。

また  ことし しん  ところ  くめ すこぶ  いよう  こうねんこと  きんこうあ   べ   か
亦、今年進ず所の貢馬頗る異樣。後年殊に勤厚有る可き歟。

つぎ  こうきん みしんあ      ろじ ふつう のかんは べつじなり   とうじ   りょうちもっと   ごふしんの よし   これ  の   らる    うんぬん
次に貢金未進有り。路次不通之間者別事也。當時の凌遲尤も御不審之由、之を載せ被ると云々。

現代語文治三年(1187)十二月小十八日乙酉。検非違使大江公朝が京都からやってきました。自分の訴えが有るので、関東へ下って来たとの事です。関東へ頼んで裁決してもらおうかどうか、師中納言吉田經房を通して法皇に話したところ、五日の院宣を戴いたからです。
また、今年関東から献上した馬がろくでもなかったので、来年からちゃんとしなさい。次ぎに献上の砂金が未だ届いていない分がある。運送路が通っていないとは云えないよ。現在でも未だに来ないので、とても御不審の思いだと、書かれていましたとさ。

文治三年(1187)十二月小廿四日辛卯。二品并若公御參鶴岳。

読下し                       にほんなら    わかぎみ つるがおか ぎょさん
文治三年(1187)十二月小廿四日辛卯。二品并びに若公、鶴岳へ御參す。

現代語文治三年(1187)十二月小二十四日辛卯。二品頼朝様と若君(万寿)が鶴岡八幡宮へお参りをされました。

文治三年(1187)十二月小廿七日甲午。明春正月可有二所御參詣之間。今日被差定供奉人。各可潔齋之由被仰下。筑後權守俊兼。平五盛時等奉行之云々。

読下し                       みょうしゅん しょうがつ にしょごさんけいあ   べ   のかん  きょう ぐぶにん   さ   さだ  らる
文治三年(1187)十二月小廿七日甲午。 明春 正月 二所御參詣有る可き之間、今日供奉人を差し定め被る。

おのおの けっさいすべ  のよしおお  くださる   ちくごのごんのかみとしかね  へいごもりときら これ  ぶぎょう    うんぬん
 各 潔齋可し之由仰せ下被る。 筑後權守俊兼、 平五盛時等之を奉行すと云々。

現代語文治三年(1187)十二月小二十七日甲午。来春正月の二所詣でをするので、今日お供の人達を指名されました。それぞれ、身体を清めて置くように命じられました。筑後権守俊兼と平民部烝盛時が担当をしますとさ。

参考二所は、二所詣でといって箱根權現と伊豆山權現の二箇所に詣でる。必ず三島神社にも詣でる。皆、頼朝が平家討伐を祈願した神社。

吾妻鏡入門第七巻

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