吾妻鏡入門第八巻

文治四年(1188)正月大

文治四年(1188)正月大一日丁酉。自去夜雨零。御參鶴岳如例。日中以後属霽。大風。佐野太郎基綱窟堂下宅燒亡。焔如飛。人屋數十宇災。依爲鶴岳近所。二品參宮中給。諸人竸集云々。

読下し                    さんぬ よ よ   あめお      つるがおか ぎょさんれい  ごと   にっちゅう いご はれ ぞく    おおかぜ
文治四年(1188)正月大一日丁酉。去る夜自り雨零ちる。鶴岳へ御參例の如し。日中以後霽に属し、大風。

 さののたろうもとつな   いわやどうした たくしょうぼう   ほのおと    ごと    じんおくすうじうう わざわ
佐野太郎基綱@が窟堂A下の宅燒亡す。焔飛ぶが如し。人屋數十宇災いす。

つるがおか きんじょたる よっ    にほん みや なか  まい  たま    しょにんきそ  あつ      うんぬん
鶴岳の近所爲に依て、二品宮の中へ參り給ふ。諸人竸い集まると云々。

参考@佐野太郎基綱は、下野佐野荘で現佐野市。
参考A窟堂は、神奈川県鎌倉市雪ノ下二丁目2−1岩窟不動尊。但し崖崩れ工事のため現在は洞窟から出ている。

現代語文治四年(1188)正月大一日丁酉。夕べから雨が降っています。鶴岡八幡宮への新年のお参りは例年のとおりです。日中になって晴れてきましたが、大風です。
佐野太郎基綱の巌谷不動南の住宅が焼けました。炎は飛び散ったので、人家数十屋に燃え広がりました。鶴岡に近いので、頼朝様は心配になって様子を見に八幡宮の中へ行かれました。人々が争うように集ってきましたとさ。

文治四年(1188)正月大六日壬寅。上総介義兼献垸飯。相副馬五疋。二品出御南面。総州自持參銀作劔。御酒宴最中。有御的始。
射手
 一番
  榛谷四郎重朝         和田太郎義盛
 二番
  愛甲三郎季隆         橘次公成

読下し                    かずさのすけよしかね おうばん けん   うまごひき  あいそえ    にほんなんめん しゅつご
文治四年(1188)正月大六日壬寅。 上総介義兼 垸飯を献ず。馬五疋を相副る。二品南面へ出御。

そうしゅうみづか ぎんさく つるぎ じさん    ごしゅえん  さいちゅう   おんまとはじめあ
総州 自ら銀作の劔を持參す。御酒宴の最中に、御的始有り。

いて
射手

  いちばん
 一番

    はんがやつのしろうしげとも                わだのたろうよしもり
  榛谷四郎重朝         和田太郎義盛

  にばん
 二番

    あいこうのさぶろうすえたか                きつじきんなり
  愛甲三郎季隆         橘次公成

参考@南面は、大倉幕府の中央で東西に塀をしつらえ、南北に分け、北を私邸、南を公邸としていたようだ。その南面の公邸。

現代語文治四年(1188)正月大六日壬寅。足利上総介義兼が、将軍にご馳走する大盤を振舞いました。引き出物に馬五頭を副えました。頼朝様は御所の南の公邸へお出ましになられました。足利上総介義兼は自ら銀で飾られた剣を持って差し出しました。大盤の宴会の最中に、年明け初めて弓を射る「的初め」の儀式をしました。
射手は、
 一番が榛谷四郎重朝と和田太郎義盛。
 二番は愛甲三郎季隆と橘次公成でした。

文治四年(1188)正月大八日甲午。心經會也。導師若宮供僧義慶房。請僧五口。二品出御。事訖賜御布施。導師分被物二重。馬一疋。請僧口別裹物一。主計允行政奉行之。

読下し                    しんぎょうえなり  どうし  わかみや ぐそう ぎけいぼう  しょうそう  いつく  にほんしゅつご ことをは  おんふせ  たま
文治四年(1188)正月大八日甲午。心經會也。導師は若宮供僧義慶房。請僧は五口。二品出御。事訖り御布施を賜はる。

どうし   ぶん かづけもの ふたえ うまいっぴき  しょうそう くべつ つつみものひとつ かぞのじょうゆきまさこれ ぶぎょう
導師の分は被物@二重。馬一疋。請僧は口別に裹物一。 主計允行政 之を奉行す。

参考@被物は、女性が外歩きなどにかむっていた布状のもの。又は、これで衣服を包んだもの。

現代語文治四年(1188)正月大八日甲午。御所で般若心経を唱える儀式です。指導僧は八幡宮の坊主義慶坊です。お供の坊主は五人。頼朝様がご出席なされました。お経が終わって、お布施を与えました。指導僧の分は、被り物(かぶりもの)二枚。馬一頭。お供の坊主には一人づつに袋に入った物を一つです。主計允藤原行政が担当をしました。

文治四年(1188)正月大十六日壬子。二品御參鶴岳宮。還御之後。被始二所御精進。

読下し                      にほん つるがおあかぐう ぎょさん    かんごののち   にしょ  ごしょうじん  はじ  らる
文治四年(1188)正月大十六日壬子。二品、鶴岳宮へ御參す。還御之後、二所@の御精進Aを始め被る。

参考@二所は、二所詣でといって箱根權現と伊豆山權現の二箇所に詣でる。必ず三島神社にも詣でる。皆、頼朝が平家討伐を祈願した神社。
参考A精進は、由比ガ浜へ行って海水で沐浴し身を清めるが、イザナギ以来上の潮で三回、中の潮で三回、下の潮で三回身を洗う。

現代語文治四年(1188)正月大十六日壬子。頼朝様は、八幡宮へお参りをしました。御所へ戻られてから二所詣での精進潔斎の沐浴を始めました。

文治四年(1188)正月大十八日甲寅。二所御進發近々間。甲斐。伊豆。駿河等國御家人等可警衛山路之由。兼日雖被仰付。今日重被觸仰。是与州〔義經〕在所未聞之間。殊依令廻用意給也。

読下し                       にしょ  ごしんぱつ きんきん  かん   かい   いず   するがら    くにごけにんら やまじ   けいえいすべ  のよし
文治四年(1188)正月大十八日甲寅。二所の御進發近々の間、甲斐、伊豆、駿河等の國御家人等山路を警衛可し之由、

けんじつおお  つ  らる    いへど   きょう かさ    ふ   おお  らる
兼日仰せ付け被ると雖も、今日重ねて觸れ仰せ被る。

これよしゅう 〔よしつね〕    しょざいいま  き       のかん  こと  ようい  めぐ  せし  たま    よっ  なり
是与州〔義經〕が在所未だ聞かざる之間、殊に用意を廻ら令め給ふに依て也。

現代語文治四年(1188)正月大十八日甲寅。二所詣での出発が近いので、甲斐、伊豆、駿河などの在国御家人達に山道を警備するように、前もって言いつけてありますが、今日再度命じられました。それは、義経の所在が未だに分からないので、特に用心されておられるからです。

文治四年(1188)正月大廿日丙辰。二品立鎌倉。令參詣伊豆筥根三嶋社等給。武州。參州。駿州。源藏人大夫。上総介。新田藏人。奈胡藏人。里見冠者。徳河三郎等扈從。伊澤五郎。加々美次郎。小山七郎已下随兵及三百騎。爲三浦介義澄沙汰。搆浮橋於相摸河云々。

読下し                    にほん かまくら  た      いず   はこね  みしましゃ ら   さんけいせし  たま
文治四年(1188)正月大廿日丙辰。二品鎌倉を立ち、伊豆、筥根、三嶋社等へ參詣令め給ふ。

ぶしゅう さんしゅう すんしゅう みなもとくらんどたいふ かずさのすけ にったのくらんど  なこのくらんど  さとみのかじゃ  とくがわさぶろうら こしょう
武州、參州、駿州、 源藏人大夫、 上総介、 新田藏人、奈胡藏人、里見冠者、徳河三郎等扈從す。

 いさわのごろう   かがみのじろう   おやまのしちろう いか   ずいへいさんびゃっき およ   みうらのすけよしずみ さた   な     うきはしを さがみがわ  かま    うんぬん
伊澤五郎、加々美次郎、小山七郎已下の随兵三百騎に及ぶ。三浦介義澄の沙汰と爲し、浮橋於相摸河に搆うと云々。

現代語文治四年(1188)正月大二十日丙辰。頼朝様は、鎌倉を出発され、伊豆山権現、箱根権現、三島大社へお参りに向かわれました。武蔵守大内義信、参河守蒲範頼、駿河守伏見広綱、源蔵人大夫頼兼、上総介足利義兼、新田蔵人義兼、奈古蔵人義行、里見冠者義成、徳河三郎義秀(義季)などが、お供をしました。伊沢五郎信光、加々美次郎長C、小山七郎朝光以下の武装兵は三百騎にも及びました。三浦介義澄の担当として、船橋を相模川に架けて用意をしたとのことです。

文治四年(1188)正月大廿二日戊午。比企藤内朝宗妻〔御臺所官女。号越後局〕今曉男子平産云々。

読下し                     ひきのつないともむね  つま  〔みだいどころ  かんにょ  えちごのつぼね ごう   〕   こんぎょう だんしへいさん   うんぬん
文治四年(1188)正月大廿二日戊午。比企藤内朝宗が妻〔御臺所の官女。越後局と号す〕今曉、男子平産すと云々。

現代語文治四年(1188)正月大二十二日戊午。比企藤内朝宗の妻〔御台所政子様に使える女官で越後局と言います〕が、今朝の夜明けに男の子を安産しました。

文治四年(1188)正月大廿六日壬戌。早旦。御臺所并若公御參鶴岳宮。有御神樂。其後若公爲御迎。參固瀬河邊給。自二所依可有還御也。酉剋令歸着給。

読下し                      そうたん みだいどころなら   わかぎみ つるがおかぐう ぎょさん   おかぐらあ
文治四年(1188)正月大廿六日壬戌。早旦。御臺所并びに若公、鶴岳宮へ御參す。御神樂有り。

そ   ご わかぎみおむか   ため  かたせがわへん  まい  たま    にしょ よ  かんごあ   べ     よっ  なり  とりのこくきちゃくせし たま
其の後若公御迎への爲、固瀬河邊へ參り給ふ。二所自り還御有る可きに依て也。酉剋歸着令め給ふ。

現代語文治四年(1188)正月大二十六日壬戌。早朝に、政子様と若君(万寿)が、鶴岡八幡宮へお参りに行かれ、お神楽を奉納しました。その後、若君はお迎えに、片瀬川の辺りまで参られました。頼朝様が二所詣でからお帰りになられるからです。酉の刻(夕方六時頃)に帰り着かれました。

二月へ

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