吾妻鏡入門第八巻

文治四年(1188)戊申五月小

文治四年(1188)五月小一日丙申。酉尅。乾方成響。是若魂打歟。非雷聲。恒聞不及云々。

読下し                    とりのこく いぬいかたひび  な     これ  も     たまうちか  らいめい あらず  つね  き   およばず  うんぬん
文治四年(1188)五月小一日丙申。酉尅。乾方響きを成す。是、若しや魂打歟。雷聲に非。恒に聞き及不と云々。

現代語文治四年(1188)五月小一日丙申。酉の刻(午後六時頃)乾(東北)の方向で何かが響きました。これは、もしかしたら驚いて肝をつぶしているのでしょうか。雷の様でもありません。普段は聞いた事の無い音なんだとさ。

参考魂打は、驚いて肝をつぶすこと。日本国語大辞典の解説から。

文治四年(1188)五月小四日己亥。奥州下向官使雜事等致丁寧畢之由。武藏下野兩國御家人等フ(原文替于木手)状。今日付俊兼献覽云々。

読下し                    おうしゅうげこう   かんり   ぞうじら ていねい  いた をはんぬのよし
文治四年(1188)五月小四日己亥。奥州下向の官使の雜事等丁寧を致し畢之由、

むさし  しもつけりょうごく  ごけにんら  じょう  ささ    きょう としかね  ふ   けんらん    うんぬん
武藏、下野兩國の御家人等状をフげ今日俊兼に付し献覽すと云々。

現代語文治四年(1188)五月小四日己亥。平泉へ使いに行く朝廷の使者の接待を丁重にし終えましたと、武蔵と下野の御家人達が報告書を、今日筑後権守俊兼を通して、頼朝様のご覧にいれましたとさ。

文治四年(1188)五月小十七日壬子。遠景已下御使等。渡貴賀井嶋。遂合戰。彼所已歸降之由。所言上也。而宇都宮所衆信房殊施勳功云々。爰信房近江國領所者。去比被付非違別當家領訖。就此大功。可返給歟之由言上。次鎭西庄者。成勝寺執行昌寛眼代成妨之間。召昌寛返状。雖下賜。猶以不靜謐。企濫行之趣。訴申云々。仍彼是有沙汰。大理者依爲寵臣。不限件庄。可止地頭之旨。被下 綸旨之間。關東爭被泥申哉。執行眼代事者。可被加判。但雖再三訴申之。於關東國。不可成自由勘發之由。被仰云々。」今日被定云。御忩劇之時。御教書不可被載御判。可爲掃部頭判。若故障之時者。可爲盛時判之由云々。

読下し                      とおかげ いか  おんしら    きかいじま   わた  かっせん  と     か  ところすで  きこうのよし   ごんじょう   ところなり
文治四年(1188)五月小十七日壬子。遠景已下の御使等、貴賀井嶋へ渡り合戰を遂ぐ。彼の所已に歸降之由、言上する所也。

しか    うつのみやのところのしゅうのぶふさ こと  くんこう  ほどこ   うんぬん
而して  宇都宮所衆信房  殊に勳功を施すと云々。

ここ  のぶふさ おうみのくにりょうしょは さんぬ ころ  ひいのべっとうけりょう  つ  られをはんぬ  かく たいこう  つ     かえ  たま  べ   かのよしごんじょう
爰に信房の近江國領所者、去る比、非違@別當家領に付け被訖。 此の大功に就き、返し給ふ可き歟之由言上す。

つぎ  ちんぜい  しょうは  じょうしょうしぎょうしょうかん もくだいさまた  なすのかん  しょうかん へんじょう め    くだ  たま     いへど   なおもっ せいひつせず
次に鎭西の庄者、成勝寺執行昌寛の眼代妨げを成之間、昌寛の返状を召し、下し賜はると雖も、猶以て靜謐不。

らんぎょう くはだ  のおもむき  うった もう    うんぬん
濫行を企てる之趣、訴へ申すと云々。

よっ  かれこれ さた あ    だいり は ちょういしんたる よっ   くだん しょう かぎらず   ぢとう   や     べ   のむね  りんじ   くださる  のかん
仍て彼是沙汰有り。大理A者寵臣爲に依て、件の庄に限不、地頭を止める可き之旨、綸旨を下被る之間、

かんとういかで なず もうされ  や   しぎょう  もくだい  ことは   はん  くは  らる  べ
關東爭か泥み申被ん哉。執行の眼代の事者、判を加へ被る可し。

ただ  さいさんこれ うった もう   いへど   かんとう  くに  をい    じゆう  かんほつ  な   べからずのよし  おお  らる   うんぬん
但し再三之を訴へ申すと雖も、關東の國に於て、自由の勘發を成す不可之由、仰せ被ると云々。」

きょう さだ  られ  い
今日定め被て云はく。

ごそうげきのとき  みぎょうしょ  ごはん  のせられず  かもんのかみ はんたるべ     も    こしょうのときは   もりとき  はんたるべ  のよし  うんぬん
御忩劇之時。御教書に御判を載被不。掃部頭の判爲可し。若し故障之時者、盛時の判爲可き之由と云々。

参考@非違は、検非違使の略。
参考A大理は、検非違使別当の唐名。ここでは一条能保。
参考B忩劇は、非常にあわただしいこと。

現代語文治四年(1188)五月小十七日壬子。天野藤内遠景を始めとした鎌倉からの軍隊が、貴賀井島へ渡って戦をしました。その島は既に投降したと報告があったので、特に宇都宮所信房が手柄をたてましたとさ。実は宇都宮所信房の近江にある所領は、検非違使の長官に与えられていました。今回の褒美として宇都宮所信房に返して欲しいと云って来ました。
次ぎに検非違使長官の九州の荘園は、成勝寺事務長の一品坊昌寛の代官が横取りをしたので、一品坊昌寛から返納承服の手紙を提出させ、与えたけれども、まだ収まりが付かないようである。あいかわらず「武力に物を言わせている」と訴えが出ているそうだ。それなので、色々と検討をしました。検非違使長官は、後白河法皇のお気に入りなので、そこの荘園に限らず地頭を廃止してくれと、命令書が来ているので、関東の頼朝様はこだわって云うのでしょう。一品坊昌寛の代官への命令書にご自分の花押をおすことにしました。
但し、何度も訴えてきたからと云って、関東の国内では、勝手に懲戒処分(地頭撤退)する訳にはいかないと、おっしゃられましたとさ。」

今日、新しく決められておっしゃられるのには、多忙の時の判決文には、頼朝様の花押は載せずに、掃部頭中原親能の判にしよう。もし、具合が悪い時は、平民部烝盛時の判にしようとのことなんだとさ。

解説後白河の云うことを聞いたふりをして、親戚の能保の分からの地頭撤退なので自分の花押を押すが、地頭撤退という権威にかかわる時には自分は花押を押さないようにしようとしている頼朝は食えないやつだ。

文治四年(1188)五月小廿日丙辰。八田右衛門尉知家郎從庄司太郎。被遣大内夜行番之處。懈緩之由。依令風聞。早可召進其身於使廳之趣。今日被仰遣定綱。此上可造鎌倉中道路之旨。被仰知家云々。

読下し                    はったのうえもんのじょうともいえ ろうじゅう しょうじたろう  だいだいやこうばん  つか  さる  のところ  けかんのよし
文治四年(1188)五月小廿日丙辰。八田右衛門尉知家が郎從の庄司太郎、大内夜行番に遣は被る之處、懈緩之由、

ふうぶんせし   よっ    はや  そ   みを しちょう  めししん  べ  のおもむき  きょう さだつな  おお  つか  さる
風聞令むに依て、早く其の身於使廳へ召進ず可き之趣、今日定綱に仰せ遣は被る。

かく  うえ かまくらちう  どうろ   つく  べ   のむね  ともいえ  おお  らる    うんぬん
此の上鎌倉中の道路を造る可し之旨、知家に仰せ被ると云々。

現代語文治四年(1188)五月小二十日丙辰。八田右衛門尉知家の家来の庄司太郎は、京都御所の夜警に派遣されましたが、怠けていると噂が伝わったので、早く身柄を検非違使の庁へ引き渡すようにと、今日佐々木定綱に命令を出されました。この罰として鎌倉中の道路を整備するように、八田知家に命じられましたとさ。

六月

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