吾妻鏡入門第八巻

文治四年(1188)戊申六月大

文治四年(1188)六月大一日乙丑。於大姫公御方山際前栽被殖田。美女等殖之。皆唱歌。又壯士中被召出有能藝之輩。爲事笛鼓曲云々。

読下し             おおひめぎみ おんかた やまぎわ ぜんさい をい  た   うえらる    びじょら これ  う     みなうた  うた
文治四年(1188)六月大一日乙丑。大姫公の御方、山際の前栽に於て田を殖被る。美女等之を殖え皆唱を歌う。

また   そうし   なか    うのう  げいのやから  め  い   さる    こと  ふえ つづみ きょく ため  うんぬん
又、壯士の中より有能の藝之輩を召し出だ被る。事、笛や鼓の曲の爲と云々。

現代語文治四年(1188)六月大一日乙丑。大姫公(数え年11歳)の館の山際の前庭に田植えをしました。美女達がこれを植え、皆歌を唄いました。侍の中からも芸のあるものを呼び出して、笛や鼓で曲を奏でました。

参考田植えをしながら山の神が田の神となって降りてくるのを祝うのが、田楽舞である。この踊りの一種に棹に抱き着いて、ホッピングの様に踊るのを田楽差しと云い、食べ物を串に刺したのを田楽ともいうようになったのが、「おでん」の始まりとも謂われる。

文治四年(1188)六月大四日戊辰。所々地頭沙汰之間事。注條々。令付師中納言〔經房〕給之處。御返報今日到着。於 勅答之趣者。爲讓子細。所副献權右中弁定長朝臣奉書也。
 相摸國大井庄事
  延勝寺領也。於年貢者。早可進寺家。
 上総國伊隅庄事
  金剛心院領也。於年貢者。早可進納寺家。
  此外。不進年貢之所々。寺家所注進也。仍相副也。
 蓮華王院領伊豆國狩野庄
 同領常陸國中郡庄
  以上兩庄。年貢注文遣之。此外不進年貢之所々。寺家所注進也。
 上総國菅生庄
  前攝政〔基通〕家領也。年貢注文遣之。
 下野國中泉 中村 塩谷
 相摸國早河庄事
  已上三ケ所。同家領也。年貢可沙汰送棟範許之由。先日申上之時聞召畢。
 八條院領
  信濃國大井庄
  常陸國村田 田中 下村庄
  同 國志太庄
  下総國下河邊庄
  越後國大面庄
   此旨早可被仰含候也。
  相摸國山内庄
  武藏國大田庄
  駿河國益頭庄
  同 國大岡牧
  同 國富士神領
  信濃國伊賀良庄
  以上。件庄領年貢。或先々注遣。或本文書紛失。平家時分。令致自由沙汰事も候き。又不知庄大小。増進事も候き。子細庄家皆存知歟。委搜可令計沙汰。益頭庄事も。彼邊同事と思食て。被仰能保朝臣候き。時政地頭にて。他人沙汰不可入之樣に聞召しかハ。言上不及沙汰。如此事。只可計沙汰之由。可被仰也。
 遠江國笠原庄
  齋院御方。年貢可沙汰進之由。被下之(知)地頭之條尤神妙。但毎事不法之由聞召。雖有他御領。殊令相傳之給之所。只彼御庄也。加推察沙汰宜歟。
 播磨國景時知行所々事
  任申状。可有御沙汰也。景時奉爲 君有忠之由聞召き。又在京之時なとも殊有其忠歟。委不聞召及。郎從等之狼藉にても候覽。如此令申候之間。御本意之由候也。
  五ケ庄事聞食畢。福田庄。西下郷。大部郷。任申状。可有御沙汰。
 備前國宇甘郷事
  委尋搜之條尤神妙。以此旨。被仰沙汰畢。役夫工米料。國々庄々注文事。可給行事弁候。
 大内守護事
  頼兼申状。尤不便。他人結番可被守護歟。只可被申攝政殿〔兼實〕。
 一條院御領事
  未被注申候。追可遣歟。
 早河庄事
  未申左右。
 以前條々。以此趣。可被計遣之由。御氣色候歟。恐々謹言。
      五月十二日                  權右中弁〔定長〕

読下し             しょしょ   ぢとう さた  のかん  こと  じょうじょう ちう
文治四年(1188)六月大四日戊辰。所々の地頭沙汰之間の事、條々を注し、

そちのちうなごん 〔つねふさ〕   つけせし  たま  のところ  ごへんぽうきょうとうちゃく
師中納言〔經房〕に付令め給ふ之處、御返報今日到着す。

ちょくとうのおもむき をい は   しさい   ゆず     ため  ごんのうちうべんさだながあそん ほうしょ  そ   けん ところなり
勅答之趣に於て者、子細を讓らんが爲、權右中弁定長朝臣の奉書を副へ献ず所也。

現代語文治四年(1188)六月大四日戊辰。あちこちの地頭に命じて欲しい事を箇条書きにして、師中納言吉田経房に託したご返事が、今日届きました。後白河法皇のお言葉の内容では、細かい事は言い切れて居ないので、権右中弁定長氏の承り書を一緒によこしました。

  さがみのくに おおいのしょう こと
 相摸國 大井庄@の事

    えんしょうじりょうなり  ねんぐ  をい  は   はや   じけ   しん  べ
  延勝寺A領也。年貢に於て者、早く寺家に進ず可し。

参考@大井庄は、神奈川県足柄上郡大井町のうち、旧上大井村、下大井村、西大井村と思われる。
参考A
延勝寺は、六勝寺のひとつ近衛天皇御願寺。

現代語相模国(神奈川県)大井庄(足柄上郡大井町)の事は、延勝寺の領地です。年貢については、早く寺領管理人に納付するように。

  かずさのくに いすみのしょう こと
 上総國 伊隅庄@の事

    こんごうしんいん りょうなり  ねんぐ  をい  は   はや   じけ   しんのうすべ
  金剛心院A領也。年貢に於て者。早く寺家に進納可し。

     こ  ほか  ねんぐ  しんぜずのしょしょ    じけ   ちうしん   ところなり  よっ  あいそ     なり
  此の外、年貢を進不之所々、寺家の注進する所也。仍て相副へる也。

参考@伊隅庄は、旧千葉県夷隅郡。現在の勝浦市、大多喜町、御宿町、いすみ市の大部分、長生郡睦沢町の一部(旧瑞沢村)。
参考A
金剛心院は、鳥羽離宮の田中殿付属院。

現代語上総国(千葉県)夷隅庄(勝浦市など)については、鳥羽離宮の金剛心院の領地です。年貢については、早く寺領管理人に納付するように。この他にも、年貢を滞納している所は、寺管理者が文書で訴えてきているところです。なので文書を添付します。

  れんげおういんりょういずのくに  かのうのしょう
 蓮華王院領伊豆國 狩野庄@

  どうりょう ひたちのくに なかごおりのしょう
 同領 常陸國 中郡庄A

    いじょう  りょうしょう  ねんぐ  ちうもんこれ  つか      こ   ほか ねんぐ  すすめずのしょしょ  じけ   ちうしん   ところなり
  以上の兩庄、年貢の注文之を遣はす。此の外年貢を進不之所々、寺家の注進する所也。

参考@狩野庄は、静岡県伊豆の国市狩野川あたり。或いは、静岡県伊豆市青羽根に狩野小学校。狩野幼稚園あり。
参考A中郡庄は、茨城県西茨城郡岩瀬町。

現代語三十三間堂蓮華王院の領地、伊豆国(静岡県)狩野庄(伊豆の国市)。同じ領地、常陸国(茨城県)中郡庄(西茨城郡岩瀬町) 以上の二つの荘園の年貢の納付催促を出します。この他の年貢を滞納しているあちこちも寺領管理人が文書で訴えてきているところです。

  かずさのくに すがおのしょう
 上総國 菅生庄@

    さきのせっしょう〔もとみち〕  けりょうなり   ねんぐ  ちうもんこれ  つか
  前攝政 〔基通〕家領也。年貢の注文之を遣はす。

参考@菅生庄は、千葉県木更津市菅生。

現代語上総国(千葉県)菅生庄(木更津市菅生)については、前任の摂政〔近衛基通〕の藤原氏の氏の長者の領地です。年貢の催促の手紙を送ります。

  しもつけのくに なかいずみ なかむら しおや
 下野國  中泉@中村A塩谷B

  さがみのくに はやかわのしょう こと
 相摸國 早河庄Cの事

    いじょうさんかしょ  おな    けりょうなり  ねんぐ  むねのり  もと   さた   おく  べ   のよし  せんじつもう  あげ  のとき き     め をはんぬ
  已上三ケ所。同じき家領也。年貢は棟範の許へ沙汰し送る可し之由、先日申し上る之時聞こし召し畢。

参考@中泉庄は、栃木県下都賀郡壬生町中泉。文治元年(1185)十月九日に義経追討に京都へ行く土佐房昌俊に与えた。
参考A中村は、芳賀郡。
参考B
塩谷は、栃木県塩谷郡塩谷町。
この下野三箇所は、三月十七日条に頼朝が関東内なので知行しているが年貢は出させると報告をしている。四月十二日条に、三月二十八日付け院宣で近衛家の所領だから早く年貢をと言ってきている。
参考C早河庄は、神奈川県小田原市早川。

現代語下野国(栃木県)中泉(下都賀郡壬生町中泉)中村(芳賀郡内)塩谷(塩谷郡塩谷町)、相模国(神奈川県)早河庄(小田原市早川)、以上の三箇所は、菅生と同様に藤原氏の氏の長者の領地です。年貢は、平棟範の所へ送るように命じてくれるだろうなと、先日報告している時に、(法皇が)お聞きになられました。

  はちじょういん りょう
 八條院@

    しなののくに おおいのしょう
  信濃國 大井庄A

    ひたちのくに むらた  たなか  しもむらのしょう
  常陸國 村田B田中C下村庄D

    どう  こく   しだのしょう
  同 國 志太庄E

    しもふさのくに しもこうべのしょう
  下総國 下河邊庄F

    えちごのくに  おおものしょう
  越後國 大面庄G

       こ  むねはや  おお  ふく  らる  べ そうろうなり
   此の旨早く仰せ含め被る可き候也。

参考@八条院は、鳥羽天皇の娘で名はワ子(後白河の腹違いの妹)。母は美福門院、保元元年鳥羽上皇の遺領の大部分を伝領し、又母の遺領も伝領し、その所領(荘園)は二百四十箇所に及び、経済的にも政治的にも大きな勢力を有した。以仁王を猶子とし、挙兵を支援した。又下河辺行平は八条院領下河辺庄の庄司なので、八条院が平家追討の中核であったと思われる。
参考A大井庄は、北佐久郡岩村田町。1954北大井村等が合併して小諸町に、同年南大井村等が合併して小諸市に、現在の小諸市柏木に北大井郵便局あり、同市御影新田に南大井郵便局あり。
参考B村田は、真壁郡村田庄なので、筑西市村田。
参考C田中は、茨城県土浦市田中らしい。
参考D
下村庄は、常陸大宮市下村田らしい。
この三箇所も、三月十七日条に頼朝が、領家は安楽寿院なのか八条院なのか、どちらであっても年貢はちゃんと出しますと聞いているので、八条院領に書かれたようだ。
参考E志太庄は、常陸信太荘、茨城県稲敷郡美浦村大字信太。
参考F下河邊庄は、埼玉県栗橋市・古河市・幸手市、杉戸町、庄和町、春日部市、吉川市、三郷市、石岡市、小美玉市(旧小川町三里町玉里村)、松伏町、旧千代田村(現土浦市内)。
参考G大面庄は、三条市新堀・栄荻島など旧栄町。

現代語八条院の領地は、信濃国(長野県)大井庄(小諸市)、常陸国(茨城県)村田(筑西市村田)田中(土浦市田中)下村庄(常陸大宮市下村田)、同じ常陸の志田庄(稲敷郡美浦村大字信太)、下総国(埼玉県千葉県の一部)下河辺庄(春日部市など)、越後国(新潟県)大面庄(三条市) この事(年貢の納付)を早く言い含めてください。

    さがみのくに やまのうちのしょう
  相摸國 山内庄@

    むさしのくに おおたのしょう
  武藏國 大田庄A

    するがのくに ましづのしょう
  駿河國 益頭庄B

    どう  こく  おおおかのまき
  同 國 大岡牧C

    どう  こく  ふじしんりょう
  同 國 富士神領D

    しなののくに  いからのしょう
  信濃國 伊賀良庄E

    いじょう  くだん しょうりょう ねんぐ  ある    さきざきちう  つか      ある    ほんもんじょ  ふんしつ
  以上、件の庄領の年貢、或ひは先々注し遣はし、或ひは本文書を紛失す。

    へいけ   じぶん     じゆう    さた  いたせし  こと そうらい   またしょう だいしょう しらず   ぞうしん こと そうらい    しさい  しょうかみなぞんち か
  平家の時分は、自由の沙汰を致令む事も候き。又庄の大小を知不、増進の事も候き。子細は庄家皆存知歟。

    くわ    さが  はから  さた せし  べ     ましづのしょう こと    か   へん  おな  こと  おぼ  め       よしやすあそん  おお られそうらい
  委しく搜し計い沙汰令む可し。益頭庄の事も、彼の邊と同じ事と思し食して、能保朝臣に仰せ被候き。

    ときまさ ぢとう        た  ひと   さた い   べからざるのさま  き     め     ば   ごんじょう  さた  およばず
  時政地頭にて、他の人の沙汰入る不可之樣に聞こし召しかハ、言上の沙汰に及不。

    かく  ごと  こと  ただはか   さた すべ  のよし  おお  らる  べ   なり
  此の如き事、只計り沙汰可し之由、仰せ被る可き也。

参考@山内庄は、相摸の国最大の庄園で七十一村に及んだ。現在の鎌倉市北鎌倉、藤沢市大鋸、横浜市戸塚区泉区栄区瀬谷区と港南区の上下永谷を含み、八条院領である。
参考A大田庄は、旧埼玉郡の久喜市・岩槻市、春日部市、蓮田市、旧南埼玉郡の久喜市、加須市、行田市、熊谷市、大宮市、鴻巣市、羽生市等の186村を含む広大な荘園。
参考B益頭庄は、静岡県焼津市と藤枝市のそれぞれ一部に相当。
参考C大岡牧は、伊豆半島のすぐ隣で、現沼津市大岡である。
参考D富士神領は、富士浅間社の領地で、長講堂領地なので後白河法皇の分(御領)。本所が後白河法皇、領家が頼朝、地頭が北條時政。
参考E伊賀良庄は、信州伊那郡。長野県飯田市北方3872-1に伊賀良小学校あり。同市上殿岡に伊賀良斎場あり。以上から飯田市の飯田インター周辺。

現代語相模国山内庄(北鎌倉他)、武蔵国大田庄(さいたま市大宮区他)、駿河国益頭庄(焼津市他)、同じ国大岡牧(沼津市)、同じ国富士神(浅間神社)の領地、以上の荘園や領地の年貢は、前々から書られているのに、その文書をなくしたりしている。平家の天下の時は、勝手な支配をしていた事もあるようです。又、荘園の大きさも良く分からないで、勝手に年貢を増やしたりした事もあるでしょう。そういう詳しい事は、それぞれの荘園管理者が全て知っているものと思われます。詳しく事情をお調べのうえ、きちんと命令をしてください。益頭庄の事も、事情はその辺りと同じだと思われて、一条能保に命じておられます。北條時政が地頭をしていて、他の人の付け入る隙がないと聞いているので、特に申し上げる事は無いでしょう。以上の事を、(御家人達に)ちゃんと考慮して果たすように命令をしてください。

  とおとうみのくに かさはらのしょう
 遠江國  笠原庄

    さいいん  おんかた   ねんぐ   さた   しん  べ   のよし   ぢとう   げち さる  のじょうもっと しんみょう  ただ  まいじ ふほうの よし き     め
  齋院の御方に、年貢を沙汰し進ず可し之由、地頭に下知被る之條尤も神妙。但し毎事不法之由聞こし召す。

    ほか  ごりょう あ   いへど    こと  これ  そうでんせし  たま  のところ   ただ か  おんしょうなり  すいさつ  くは   さた   よろ        か
  他に御領有りと雖も、殊に之を相傳令め給ふ之所は、只彼の御庄也。推察を加へ沙汰し宜しからん歟。

現代語遠江国笠原庄について、斉院のお方に年貢を納付するように、地頭に命令した事は、感心されております。しかし、毎回きちんとしないと聞いておられます。他にも所領はあっても、特に天皇等から譲られた領地は、斉院の(お祈り)ためだけの荘園なのです。良く察していただき命令をしてくれるのがよかろう。

  はりまのくに  かげときちぎょう  しょしょ  こと
 播磨國の景時知行の所々の事

    もう  じょう  まか    おんさた あ   べ   なり  かげとき きみ おんためちうあ  のよし き    めし
  申し状に任せ、御沙汰有る可き也。景時 君の奉爲忠有る之由聞こし召き。

     また  ざいきょうのとき など   こと  そ   ちう あ  か
  又、在京之時なとも殊に其の忠有る歟。

    くわ    き     め     およばず  ろうじゅうらのろうぜき     そうろうらん  かく ごと  もうせし そうろうのかん  ごほんいの よし  そうろうなり
  委しく聞こし召すに及不。郎從等之狼藉にても候覽。此の如く申令め候之間、御本意之由に候也。

    ごかしょう  こと き     め  をはんぬ  ふくだのしょう  にししもごう  おおべごう もう  じょう まか      ごさた  あ   べ
  五ケ庄@の事聞こし食し畢。 福田庄A、西下郷、大部郷B申し状に任せ、御沙汰有る可し。

現代語播磨国の梶原平三景時が支配しているあちこちの荘園の事について、訴えの手紙のとおりに始末するようにさせてください。梶原平三景時は、君(後白河院)のために忠義のある者と聞いておられます。又、京都に駐屯しているときも、特に著しい忠義があったので、詳しく聞く必要はありません。きっと、家来達の勝手な乱暴狼藉なのであろう。このように申されておりますので、良く思っておられるのでしょう。五ケ庄の訴えも聞いておられます。福田庄、西下郷、大部郷も、訴えの手紙の通りに裁断され命じてください。

参考@五ケ庄(播磨)は、旧加古郡野寺・北山・中・森安・六分一・国安・岡の七村なので、現兵庫県加古郡稲美町野寺・北山・中村・森安・六分一・国安・岡。文治二年六月九日条で地頭撤退を申し入れてきていた。
参考A福田庄は、旧加東郡福田村・上福田村で、現兵庫県加東市佐保のあたりらしい。
参考B大部郷は、兵庫県小野市敷地町に大部小学校あり。北北東5kmに加東市佐保がある。

  びぜんのくに うかいごう こと
 備前國 宇甘郷@の事

    くは    たず  さが のじょうもっと しんみょう  こ  むね  もっ     おお られ さた  をはんぬ
  委しく尋ね搜す之條尤も神妙。此の旨を以て、仰せ被沙汰し畢。

    やくぶくまい りょう  くにぐにしょうしょうちうもん こと  ぎょうじべん  たま   べ そうろう
  役夫工米A料、國々庄々注文の事、行事弁に給はる可く候。

現代語備前国(岡山県)宇甘郷(岡山市御津宇甘)の事について、詳しくお調べになられた事に感心されております。その内容で、命令をしました。役夫工米料(伊勢式年遷宮費用)は、国衙や荘園ごとに書き出したのは、担当機関の弁官に渡してください。

参考@宇甘郷は、岡山県岡山市御津宇甘(みつうかい)。
参考A役夫工米は、正式には造神宮役夫工米といい、伊勢神宮の式年遷宮の一国平均役(一国残らず)かけられた。読みは「やくぶたくまい」とも「やくぶたくみまい」とも読んだ。一般には荘園には国司は課税できないが、一国平均役はそれも課税できるので、國衙の役人にとっては、公権力の行使と臨終収入ともなる。室町時代になると段米とか段銭と呼ばれる。

  だいだいしゅご  こと
 大内守護の事

    よりかね  もう  じょう   もっと ふびん  た   ひと  けちばん  しゅごさる  べ   か   ただせっしょうどの 〔かねざね〕  もうさる  べ
  頼兼@が申し状。尤も不便。他の人を結番し守護被る可き歟。只攝政殿〔兼實〕に申被る可し。

参考@頼兼は、入道源三位頼政の子で大内裏警固役をしたので大内と名乗る。六巻文治三年三月八日に後白河に丹波の五個荘を取られそうになった。後の建久三年にも大内裏守護で出演。

現代語京都御所警備の事について、源頼兼が云ってる事は気の毒だ。他の人にも順番を決めて警固させた方が良いのでしょう。摂政九条兼実に言ってください。

 いちじょういんごりょう  こと
 一條院御領の事

    いま  ちう  もうされ   そうろう  おっ  つか   べ   か
  未だ注し申被ずに候。追て遣はす可き歟。

現代語一条院(六条院の間違い)の領地の事について、未だに報告がないので、追ってお知らせします。

  はやかわのしょう こと
 早河庄の事

    いま   そう   もう
  未だ左右を申さず。

現代語早川庄の事について、未だに何も云ってきません。

  いぜん  じょうじょう  かく おもむき もっ   はから つか  さる  べ   のよし  みけしきそうろうか  きょうこうきんげん
 以前の條々、此の趣を以て、計い遣は被る可き之由、御氣色候歟。恐々謹言。

             ごがつじうににち                                      ごんのうちうべん 〔さだなが〕
      五月十二日                  權右中弁〔定長〕

現代語これらの各条項について、この内容で、お知らせするように、後白河院の御意思です。恐れ入りますがよろしくお願いします。
          五月十三日                 権右中弁定長

文治四年(1188)六月大五日己巳。自去夜雨降。晡時以後如沃。雷電聲終日不休止。戌剋洪水。勝長壽院前橋落畢。而飯田次郎相當御堂宿直。依爲水練者。相具郎從。浮渡水面二町余取留之。而景時爲見御堂邊。欲參入之處。橋已流之間。扣駕之間。見飯田所爲。令歸參申其由。則召飯田賜御馬云々。

読下し             さんぬ よ よ   あめふ    ひぐ  どき いご そそ    ごと    らいでん こえしゅうじつきゅうしせず
文治四年(1188)六月大五日己巳。去る夜自り雨降る。晡れ時以後沃ぐが如し。雷電の聲終日休止不。

いぬのこくこうずい しょうちょうじゅいんまえ はしお をはんぬ
戌剋 洪水。 勝長壽院前 の橋落ち畢。

しか    いいだのじろう みどう  とのい  あいあた   すいれんたるもの よっ    ろうじゅう  あいぐ    すいめんにちょうよ  うか  わた  これ  とりとど
而るに飯田次郎御堂の宿直に相當り、水練爲者に依て、郎從を相具し、水面二町余を浮び渡り之を取留む。

しか    かげときみどうへん  み   ため  さんにゅう     ほっ    のところ  はしすで  なが    のかん   が  ひか    のかん  いいだ   しわざ   み
而して景時御堂邊を見ん爲、參入せんと欲する之處、橋已に流れる之間、駕を扣へる之間、飯田の所爲を見て、

きさん せし  そ   よし  もう    すなは  いいだ  め   おんうま  たま      うんぬん
歸參令め其の由を申す。則ち飯田を召し御馬を賜はると云々。

現代語文治四年(1188)六月大五日己巳。昨夜から雨が降っています。夕暮れ時(申刻)には、バケツをひっくり返したようでした。雷の声は一日中休まりませんでした。戌の刻(夜八時頃)に洪水が起きて、勝長寿院前の橋が流されました。そしたら、飯田次郎はお堂の宿直の番に当たり、水泳の名人なので、家来を連れて水面を二町(200m)も泳いで捕まえて留めました。そしたら、梶原平三景時がお堂の様子を見るためにお堂へ入ろうとしましたが、橋が流れてしまっているので、馬を止めていたので、飯田の行動を見ていましたので、御所へ戻ってその事を申し上げました。直ぐに飯田を御所へ呼んで、褒美に馬を与えましたとさ。

文治四年(1188)六月大九日癸酉。六條殿作事。可抽營作功之由。二品依令申給。造營事憖思食立之處。如此令申之條。殊悦思食。件御所被立者。如本長講堂可作也。有其沙汰哉。件御堂傍褻御所可有沙汰歟。只可令相計候由。去廿日御教書〔經房卿奉〕所到來也。

読下し             ろくじょうでん  さくじ   えいさく  こう  ぬき    べ   のよし  にほん もうせし  たま    よっ
文治四年(1188)六月大九日癸酉。六條殿の作事、營作の功を抽んず可し之由、二品申令め給ふに依て、

ぞうえい ことなまじ   おぼ  め   た   のところ  かく  ごと  もうせし  のじょう  こと  よろこ おぼ  め
造營の事憖いに思し食し立つ之處、此の如き申令む之條、殊に悦び思し食す。

くだん ごしょ  た   られ  ば   もと  ごと  ちょうこうどう  つく  べ   なり  そ    さた あ   や   くだん みどう かたわら けのごしょ  さた あ   べ   か
件の御所を立て被れ者、本の如く長講堂を作る可き也。其の沙汰有る哉。件の御堂の傍に褻御所を沙汰有る可き歟。

 ただあいはか せし  べ そうろうよし さんぬ はつかみぎょうしょ 〔つねふさほう  〕 とうらい   ところなり
只相計り令む可く候由、去る廿日御教書〔經房卿奉ず〕到來する所也。

現代語文治四年(1188)六月大九日癸酉。後白河法皇の居所六条殿の工事について、率先して修理をし尽くすように、頼朝様がおっしゃられたので、(院は)造営工事をしなくてもよいのをわざわざとしたいと思い立った所へ、このように云って来た事を(後白河法皇は)大変お喜びなられました。そういう御所を立てるのならば、前のように長講堂を建てるように、云って来られました。又、そのお堂の脇に普段の御所も作って欲しいので、考えてくれるようにと、書いた手紙が〔経房が云われて書いた〕到着したのです。

文治四年(1188)六月大十一日乙亥。泰衡京進貢馬貢金桑絲等。昨日着大礒驛。可召留歟之由。義澄申之。泰衡同意豫州之間。二品依令憤申給。度々被尋下。去月又被遣官使畢。就之言上歟。然而其身雖与反逆。有限公物難抑留之由。被仰出云々。

読下し               やすひらけいしん  くめ   こうきん   さんしら   さくじつ おおいそのうまや つ
文治四年(1188)六月大十一日乙亥。泰衡京進の貢馬、貢金、桑絲等、昨日 大礒驛 へ着く。

めしとど  べ   か のよし  よしずみこれ もう    やすひらよしゅう どうい の かん  にほん いか  もうせし  たま    よっ    たびたびたず  くださる
召留む可き歟之由、義澄之を申す。泰衡豫州に同意之間、二品憤り申令め給ふに依て、度々尋ね下被る。

さんぬ つきまた かんし つか されをはんぬ これ つ   ごんじょう     か
去る月又官使を遣は被畢。 之に就き言上するの歟。

しかれども そ   み  ほんぎゃく  よ   いへど   かぎ  あ    くもつ  おさ  とど  がた  のよし  おお  いでらる   うんぬん
然而、其の身は反逆に与すと雖も、限り有る公物は抑へ留め難き之由、仰せ出被ると云々。

現代語文治四年(1188)六月大十一日乙亥。奥州平泉の藤原泰衡から京都へ献上する馬、砂金、生糸などが、昨日大磯の駅に着きました。差し押さえましょうかと三浦介義澄が言上してきました。泰衡は義経に同意しているので、頼朝様はお怒りになっておられ、その動向を度々質問なされております。去る三月に京都朝廷が正式の使者を派遣しました。こう云う経緯があるので言上したのでしょうかね。しかし、「当人は反逆をしているが大事な公への献上品は、差し押さえるわけにはいかんだろう」と、仰せになられましたとさ。

文治四年(1188)六月大十四日戊寅。師中納言奉書到來。可被下春近御領乃貢未進注文也。早可遂勘定之由云々。

読下し               そちのちうなごん  ほうしょとうらい    はるちかごりょう  のうぐ みしん  ちうもん  くださる  べ   なり
文治四年(1188)六月大十四日戊寅。師中納言の奉書到來す。春近御領@の乃貢未進の注文を下被る可き也。

はや  かんじょう  と    べ    のよし  うんぬん
早く勘定を遂げる可し之由と云々。

参考@春近御領は、春近と云う仮の名で開発した鎌倉幕府領。恐らく本所は院で、領家が頼朝であろう。地頭は誰か分からない。

現代語文治四年(1188)六月大十四日戊寅。師中納言吉田経房が法皇からの仰せを書いた奉書が到着しました。春近領と云う幕府領からの年貢の滞納の名簿を書き出して、早く完納をさせてください。

文治四年(1188)六月大十七日辛巳。常陸房昌明者。近年自京都所參也。元住延暦寺武勇得其名也。就中誅前備前守行家以降。人憚之云々。而強田邊有領所。不慮得替之間。企愁訴欲上洛。便宜事可加扶持之旨。可給御書於在京御家人中之由望申。仍昌明在京之間。如旅粮所望事。随所望可給之旨。被申右武衛。〔能保〕其御書下賜昌明。々々潜披之。乍瞋持參申云。此御書憖以申出畢。案此旨趣。似恩如罸。何非耻辱哉。全非旅粮等望。依訴申上洛之間。只爲用意也。有勇敢譽之由。於被載之條者。所仰也者。于時御入興。則令俊兼書改之給。雖爲僧勇士也。在京之程。可被召具宿直之候。右兵衛督殿云々。此事已後。昌明殊快然云々。

読下し               ひたちぼうしょうめいは  きんねんきょうとよ   さん  ところなり  もと  えんりゃくじ  す   ぶゆう そ   な   え  なり
文治四年(1188)六月大十七日辛巳。常陸房昌明者、近年京都自り參ずる所也。元は延暦寺に住み武勇其の名を得る也。

なかんづく さきのびぜんのかみゆきいえ ちう       このかた   ひとこれ  はばか  うんぬん
就中に 前備前守行家 を誅してより以降。人之を憚ると云々。

しか    こわたあた   りょうしょあ     ふりょ  とくたい      のかん  しゅうそ  くはだ じょうらく     ほっ
而るに強田邊りに領所有り。不慮に得替される之間、愁訴を企て上洛せんと欲す。

 びんぎ  こと ふち   くは  べ   のむね  おんしょを ざいきょうごけにん  なか  たま    べ   のよし のぞ  もう
便宜の事扶持を加う可き之旨、御書於在京御家人の中へ給はる可き之由望み申す。

よっ しょうめいざいきょうのかん  りょりょうしょもう ごと  こと  しょもう  したが たま  べ   のむね   うぶえい  〔よしやす〕   もうされ

仍て昌明在京之間、旅粮所望の如き事、所望に随い給ふ可き之旨、右武衛〔能保〕に申被る。

そ   おんしょ  しょうめい くだ  たま
其の御書を昌明に下し賜はる。

しょうめいひそか これ ひら  いか  なが  じさん  もう     い        こ   おんしょ なまじ   もっ  もう  い  をはんぬ
々々潜に之を披き、瞋り乍ら持參し申して云はく。此の御書は憖いに以て申し出で畢。

こ   ししゅ  あん        おん  に   ばつ  ごと    なん  ちじょく  あらざ や  まった りょりょうら  のぞ   あらず
此の旨趣を案ずるに、恩に似て罸の如し。何ぞ耻辱に非る哉。全く旅粮等を望むに非。

うった もう    よっ  じょうらくのかん  ただようい  ためなり  ゆうかん ほまれあ   のよし  のせらる のじょう  をい  は   あお ところなりてへ     ときにごにゅうきょう
訴へ申すに依て上洛之間、只用意の爲也。勇敢の譽有る之由、載被る之條に於て者、仰ぐ所也者れば、時于御入興。

すなは としかね し   これ  か   あらた たま    そうたり  いへど ゆうしなり  ざいきょうのほど  とのい  これ  めしぐさる  べ そうろう  うひょうのかみどの うんぬん
則ち俊兼を令て之を書き改め給ふ。僧爲と雖も勇士也。在京之程、宿直に之を召具被る可く候。右兵衛督殿と云々。

かく  こと いご しょうめいこと  かいぜん  うんぬん
此の事已後、昌明殊に快然と云々。

現代語文治四年(1188)六月大十七日辛巳。常陸房昌明は、最近京都から参った者なのです。元は延暦寺に住んでいて、武勇で名の通った人です。特に前備前守源行家を討ち取ってからというもの、人は彼に一目置くようになったんだとさ。それなのに、強田あたりに領地を持っていたのですが、思わぬことに地頭職を取上げられてしまったので、憂い訴えるために京都へ上ろうと考えました。
「便宜を図ってもらうように、お手紙を京都駐屯の御家人に対し、一筆書いて下さい」と望んで言上しました。そこで、昌明が京都に居る間は、旅行用の食料を希望したら望みどおりに与えるように、一条能保に言いつける手紙を、昌明に与えられました。
昌明は内緒でその手紙を開いて読んでしまい、怒りながら手紙を持って文句を言いました。
「このお手紙は、わざわざ申し出たのにです。でも、この趣旨を良く考えてみたら、一見恩を与えられたように思えるけど、まるで罰のようだ。どうして恥ではないと云えるだろうか。全然旅行の為の食料を望んだわけではない。訴えに京都へ行くので、単に用心のためなのだ。勇敢な武士だとの褒め言葉には、有り難い事だと云った」ので、頼朝様はお気にいられ、直ぐに筑後権守俊兼に命じて、書き換えさせました。
「僧ではあるけれども、勇士である。京都に駐屯している間は、そばにおいて警備させると良いでしょう。右兵衛督殿。」と書いてあげましたとさ。それ以来、昌明は特に機嫌が良いとのことです。

参考文治二年五月二十五日条に十二日に討ったとある。

文治四年(1188)六月大十九日癸未。二季彼岸放生會之間。於東國可被禁断殺生。其上。如燒狩毒流之類。向後可停止之由。被定訖。可被 宣下諸國之旨。可被經 奏聞云々。

読下し                にき   ひがん  ほうじょうえのかん  とうごく  をい  せっしょう  きんだんさる  べ
文治四年(1188)六月大十九日癸未。二季の彼岸の放生會之間、東國に於て殺生を禁断被る可し。

 そ   うえ  やきがり  どくながし ごと  のたぐい  こうごちょうじすべ  のよし  さだ られをはんぬ  しょこく  せんげさる  べ   のむね  そうもん  へらる  べ    うんぬん
其の上、燒狩、毒流の如き之類、向後停止可し之由、定め被訖。 諸國に宣下被る可き之旨、奏聞を經被る可しと云々。

現代語文治四年(1188)六月大十九日癸未。春分と秋分のお彼岸の生き物を放つ儀式の放生会には、関東では生き物を捕ることを禁制しましょう。それだけでなく、山焼きによる狩や、毒を流しての漁などの残酷な方法は、今後とも止めさせるようにお決めになられました。国々へ布告されるように、後白河法皇に申し上げるようにとのことだとさ。

七月へ

吾妻鏡入門第八巻

inserted by FC2 system