吾妻鏡入門第八巻

文治四年(1188)戊申七月小

文治四年(1188)七月小四日戊戌。信濃守遠光鍾愛息女郎初參營中。可爲若公御介惜之由。被定仰云々。

読下し                   しなののかみとおみつ しょうあい そくじょろう  えいちう  はじ    さん

文治四年(1188)七月小四日戊戌。 信濃守遠光@が鍾愛の息女郎A 營中へ初めて參ず。

わかぎみ  ごかいしゃくたるべ  のよし  さだ  おお  らる    うんぬん

若公の御介惜爲可し之由、定め仰せ被ると云々。

参考@信濃守遠光は、甲斐国巨摩郡加賀美庄(現山梨県南アルプス市加賀美)、平治物語や平家物語にも出演し、寛喜二年(1230)卒88歳。
参考A鍾愛の息女郎は、文治四年(1188)九月小一日に頼朝から「大貮局」と名付けられ、頼家・実朝の面倒を見る。しかも建保4年(1216)11月23日に、「源氏大弐殿」(げんじだいにどの)が発注者となり、運慶に大威徳明王を作らせたのが平成19年に県立金沢文庫で発表された。

現代語文治四年(1188)七月小四日戊戌。信濃守加賀美遠光が、すごく大事に可愛がっている娘を、幕府の御所へ初めて連れてきました。(頼朝様は)若君の面倒を見るお側付きに、お決めになられました。

文治四年(1188)七月小十日甲辰。若公〔萬壽公。七歳〕始令着御甲之給。於南面有其儀。時尅。二品出御。江間殿〔義時〕參進。上御簾給。次若公出御。武藏守義信〔乳母夫〕比企四郎能員〔乳母兄〕奉扶持之。小時小山兵衛尉朝政持參御甲直垂〔地錦〕改以前御裝束。朝政奉結御腰。次千葉介常胤持參御甲納櫃。子息胤正師常舁之前行。胤頼扶持。又從後。常胤御甲向南令立給。此間。梶原源太左衛門尉景季進御釼。三浦十郎義連進御劔。下河邊庄司行平持參御弓。佐々木三郎盛綱献御征矢。八田右衛門尉知家献御馬〔黒。置鞍〕子息朝重引之。三浦介義澄。畠山次郎重忠。和田太郎義盛等奉扶乘。小山七郎朝光。葛西三郎C重付騎轡。小笠原弥太郎。千葉五郎。比企弥四郎等。候御馬左右。三度打廻南庭下御。今度。足立右馬允遠元奉抱之。甲已下解脱。親家給御物具御馬。入御厩納殿等。其後武州献御馬於二品。里見冠者義成引之。次於西侍有盃酌。二品出御于釣殿西面〔上母屋御簾〕武州所經營也。初献御酌朝光。二献義村。三献C重也。入御之後。武州奉酒肴并生衣一領。同小袖五領於御臺所。賀申若公御吉事之故也。

読下し                   わかぎみ 〔まんじゅぎみしちさい〕 はじ   おんよろいこれ つけせし たま   なんめん  をい  そ  ぎ あ
文治四年(1188)七月小十日甲辰。若公〔萬壽公七歳〕始めて御甲之を着令め給ふ。南面に於て其の儀有り。

じこく     にほん しゅつご     えまどの 〔よしとき〕  さんしん     おんみす  あ   たま    つい  わかぎみしゅつご
時尅に、二品出御す。江間殿〔義時〕@參進して、御簾を上げ給ふ。次で若公出御す。

むさしのかみよしのぶ 〔めのとふ〕    ひきのしろうよしかず 〔めのとあに〕  これ  ふち たてまつ
武藏守義信〔乳母夫A、比企四郎能員〔乳母兄A之を扶持奉る。

しばらく    おやまのひょうえのじょうともまさ おんよろい ひたたれ  〔あおぢにしき 〕  じさん     いぜん  ごしょうぞく  あらた   ともまさおんこし  むす たてまつ
小時して 小山兵衛尉朝政、 御甲、直垂B〔地錦Cを持參し、以前の御裝束を改む。朝政御腰を結び奉る。

つい ちばのすけつねたね おんよろいい  ひつ   じさん    しそくたねまさ  もろつねこれ  か   まえ  い     たねより ふち    またあと  したが
次で千葉介常胤、御甲納れの櫃を持參す。子息胤正、師常之を舁き前へ行く。胤頼扶持し、又後に從う。

つねたね おんよろい みなみ む  た  し   たま    こ   かん  かじわらのげんたさえもんのじょうかげすえ ぎょけん しん   みうらのじうろうよしつらぎょけん しん
常胤、御甲、南に向き立た令め給ふ。此の間、 梶原源太左衛門尉景季 御釼を進ず。三浦十郎義連御劔を進ず。

しもこうべのしょうじゆきひら おんゆみ  じさん    ささきのさぶろうもりつな   おんそや  けん
下河邊庄司行平、御弓を持參す。佐々木三郎盛綱、御征矢Dを献ず。

はったのうえもんのじょうともいえ おんうま 〔 くろ くら  お   〕   けん    しそくともしげこれ  ひ
八田右衛門尉知家、御馬〔黒鞍を置く〕を献ず。子息朝重之を引く。

みうらのすけよしずみ はたけやまのじろうしげただ わだのたろうよしもりら たす  の  たてまつ   おやまのしちろうともみつ  かさいのさぶろうきよしげ くつわつら つ
 三浦介義澄、 畠山次郎重忠、 和田太郎義盛等扶け乘せ奉る。 小山七郎朝光、 葛西三郎C重騎轡に付く。

おがさわらのいやたろう  ちばのごろう  ひきのいやしろうら  おんうま  さゆう  そうら   みたびみなみにわ う   めぐ    くだ  たま
小笠原弥太郎、千葉五郎、比企弥四郎等御馬の左右に候う。三度南庭を打ち廻らし下り御ふ。

このたび   あだちのうまのじょうとおもと これ  いだ たてまつ  よろい いか  と   ぬ    ちかいえ  おんもののぐ  おんうま  たま      みんまや おさめどのら い
今度は、足立右馬允遠元、之を抱き奉り、甲已下を解き脱ぐ。親家、御物具、御馬を給はり、御厩、納殿等に入れる。

 そ   ご ぶしゅう  おんうまを にほん  けん    さとみのかじゃよしなりこれ  ひ     つぎ  にし さむらい をい  はいしゃくあ
其の後武州、御馬於二品に献ず。里見冠者義成之を引く。次に西の侍に於て盃酌有り。

にほん  つりどのさいめん 〔かみおもやおんみす〕 に しゅつご  ぶしゅうけいえい  ところなり  しょこん  おしゃく  ともみつ  にこん  よしむら  さんこん  きよしげなり
二品、釣殿西面〔上母屋御簾〕于出御。武州經營する所也。初献の御酌は朝光。二献は義村。三献はC重也。

にゅうごの のち  ぶしゅう さけさかななら  すずし いちりょう  おな    こそで ごりょうを みだいどころ たてまつ  わかぎみ  おんきちじ   が   もう  のゆえなり
入御之後、武州、酒肴并びに生衣E一領、同じく小袖五領於御臺所に奉る。若公の御吉事を賀し申す之故也。

参考@江間殿は、北條四郎義時でこの頃は伊豆の江間郷(北条の沼津側)を貰って独立しているらしい。
参考A乳母も乳母夫も乳母兄も、全て読みは「めのと」だと教わったが、区別のため便宜上「めのと」「めのとふ」「めのとあに」と読み分ける。
参考B直垂は、直垂は庶民の着る物で鎧の下に着ていた。それが袖が大きくなって正装になった。
参考C地錦は、青を基調としたグラデーションの織物。赤地錦は將軍しか着れない。
参考D征矢は、鋭く長い鏃(やじり)をつけた、戦闘に用いる矢。尖(とが)り矢。
参考E生衣は、生絹とも書き、まだ練らないままの絹糸。またはその糸で織った絹。

現代語文治四年(1188)七月小十日甲辰。若君〔万寿君数えの七歳(後の頼家)〕初めて鎧を着ました。御所の公邸南面でその儀式が有りました。予定時刻に頼朝様が御出になられたので、江間殿〔義時〕が前へ進んで、兆台のすだれを上げられました。次ぎに若君がお出になられました。大内武蔵守義信〔乳母の夫〕、比企四郎能員〔乳母の兄〕が手助けをしました。
少し経って、小山兵衛尉朝政が、鎧と直垂〔青を基調とした模様織り〕を持って来て、古い衣装を新しい衣装に着替えてあげました。小山朝政が袴の腰紐を結んであげました。
次ぎに千葉介常胤が鎧を入れる箱を持ってきました。息子の千葉太郎胤正と相馬次郎師常が担いで来て前を進みました。東六郎大夫胤頼も手助けをしながら常胤の後ろについております。千葉介常胤は、鎧を南に向けて立て飾りました。
その間に、梶原源太左衛門尉景季は剣を献上しました。三浦十郎義連も同様に剣を献上しました。下河辺庄司行平は、弓を持ってきました。佐々木三郎盛綱は戦闘用の征矢を献上しました。八田右衛門尉知家は、馬〔黒で鞍置き〕を献上しました。息子の八田太郎知重がこれを引いて披露しました。
三浦介義澄、畠山次郎重忠、和田太郎義盛達が手助けして、馬に乗せました。小山七郎朝光と葛西三郎清重が轡を取ります。小笠原弥太郎と千葉五郎(国分胤道)、比企弥四郎時員が馬の左右について、三度南庭を乗り回し、降りられました。
今度は、足立右馬允遠元が抱き上げて、鎧などを脱がせました。堀藤次親家が、具足と馬を受け取って、厩や納戸にしまいました。
その後、
(お祝いに)大内武蔵守義信が馬を頼朝様に献上しました。里見冠者義成がこれを引いて披露しました。
ついで、西の侍所で宴会です。頼朝様は、池に突き出した釣殿の西側〔上の母屋で簾越し〕にお出になられました。これも武州大内義信が負担し準備をしたのです。最初の一杯のお酌は小山七郎朝光、二杯目は、三浦平六義村、三倍目は、葛西三郎清重です。
(宴が終わって)寝殿へお入りになった後で、大内武蔵守義信は、酒肴とすずし絹一着と小袖五着を御台所(政子)に届けました。若君の祝い事を述べるためです。

文治四年(1188)七月小十一日乙巳。六條殿御作事。二品御知行國役者。爲親能奉行。以大工國時。欲被造進。遠江國所課事。被下御教書。今日到來。則被付彼國司義定云々。
 六條殿御作事之間。六條面築垣一町門等。可被造進者。依 院御氣色。執達如件。
     六月廿七日                  權右中弁〔定長〕
    遠江守殿〔義定〕

読下し                     ろくじょうでん  おんさくじ  にほんごちぎょう  くにえきは   ちかよしぶぎょう  な
文治四年(1188)七月小十一日乙巳。六條殿の御作事。二品御知行の國役者、親能奉行と爲し、

だいこう くにとき  もっ    つく  しん  られ   ほっ
大工@國時を以て、造り進じ被んと欲す。

とおとうみのくに しょか  こと  みぎょうしょ  くださる    きょう とうらい    すなは か   こくし よしさだ  ふさる    うんぬん
遠江國の所課の事、御教書を下被る。今日到來す。則ち彼の國司義定に付被ると云々。

  ろくじょうでん  おんさくじの かん ろくじょうおもて ついがき いっちょう  もんら   つく  しん  らる  べ   てへ       いん  みけしき  よっ    しったつくだん ごと
 六條殿の御作事之間、 六條面 の築垣A一町、門等、造り進じ被る可し者れば、院の御氣色に依て、執達件の如し。

           ろくがつにじうしちにち                                  ごんのうちうべん 〔さだなが〕
     六月廿七日                  權右中弁〔定長〕

         とおとうみのかみ どの 〔よしさだ〕
    遠江守B殿〔義定〕

参考@大工は、今で言う大工さんではなく、番匠の棟梁。今で言う下働きの大工さんは小工。あえて「だいこう」とかなを振る。
参考A築垣は、築地塀。
参考B遠江守は、安田三郎義定。甲斐源氏武田党。武田義清の四男なれど兄逸見清光の養子となり甲斐国山梨郡安田を本拠とする。

現代語文治四年(1188)七月小十一日乙巳。六条殿の工事について、頼朝様の支配している国の義務としての分は、掃部頭中原親能が指示をして、棟梁の国時に造らせようと考えました。(話し変って)遠江国の納税について、(後白河院が)手紙をよこしましたが、今日届きました。直ぐにそこの国を管理している国司の安田三郎義定に預けましたとさ。

 六条殿の修造については、六条通りに面した築地塀一町(100m)、門などを作ってくれるように、後白河院の希望なので、お知らせいたします。
   六月二十七日                権右中弁〔定長〕
     遠江守殿〔安田三郎義定〕

文治四年(1188)七月小十三日丁未。武藏國平澤寺院主職事。被付僧永寛訖。」又師中納言〔經房卿〕奉書到來。隱岐守仲國申宮内權大輔重頼稱地頭。押領所々之由云々。仍今日被申御請。隱岐守仲國申重頼押領事。尤以不便。仍以消息令下知重頼候畢者。
 隱岐國司仲國申状献之。此事自院被仰下て候也。如聞食ハ。濫行不便之由候也。然者於今者。件所々をハ。いかてか可令知行給哉。抑其中村別苻事こそ。奉たりとも不覺悟候へ。何樣次第に候哉。仍以執達如件。
      七月十三日                     御判
     宮内大輔殿
此外。美濃國郷々地頭押領事。能盛入道。爲保。成季等所進折紙。并在廳勘状。同被下之。又美豆牧司申本庄并高運嶋事。景時代官不弁所當由事。可令尋沙汰者。尋究可被成御下文之由云々。

読下し                     むさしのくにへいたくじ  いんじゅしき  こと  そうえいかん  つ  られをはんぬ
文治四年(1188)七月小十三日丁未。武藏國平澤寺@の院主職の事、僧永寛に付け被訖。」

また  そちのちうなごん〔つねふさきょう〕  ほうしょとうらい    おきのかみなかくにもう    くないごんのたいふしげより  ぢとう しょう     しょしょ  おうりょう   のよし  うんぬん
又、師中納言〔經房卿〕の奉書到來す。隱岐守仲國申す。宮内權大輔重頼A地頭と稱して、所々を押領する之由と云々。

よっ  きょう ごしょう  もうさる    おきのかみなかくにもう  しげよりおうりょう  こと  もっと もっ  ふびん  よっ  しょうそこ もっ  しげより   げち せし  そうら をはんぬてへ
仍て今日御請を申被る。隱岐守仲國申す重頼押領の事、尤も以て不便。仍て消息を以て重頼に下知令め候ひ畢者れば、

  おきのこくしなかくに  もう じょうこれ  けん    かく  こといんよ   おお  くだされ そうろうなり き     め   ごと  は   らんぎょう ふびんのよし そうろうなり
 隱岐國司仲國が申し状之を献ず。此の事院自り仰せ下被て候也。聞こし食す如きハ、濫行 不便之由 候也。

  しからば  いま  をい  は   くだん しょしょ をば   いかでか ちぎょうせし  たま  べ  や   よくよ そ   なかむらぺっぷ  こと    たてまつり      かくごせざるそうら
 然者、今に於て者、件の所々をハ、いかてか知行令め給ふ可き哉。抑く其の中村別苻の事こそ、奉たりとも覺悟不候へ。

  なによう  しだい そうろうや  よっ  もっ  しったつくだん ごと
 何樣の次第に候哉。仍て以て執達件の如し。

            しちがつじうさんにち                                           ごはん
      七月十三日                     御判

           くないたいふどの
     宮内大輔殿

こ   ほか  みののくに  ごうごうぢとうおうりょう  こと  よしもりにゅうどう ためやす  なりすえら しん   ところ おりがみ  なら    ざいちょう かんじょう おな    これ  くださる
此の外、美濃國の郷々地頭押領の事、能盛入道、爲保、成季等進ずる所の折紙、并びに在廳の勘状、同じく之を下被る。

また  みずのまきし もう ほんじょうなら    こううんじま  こと  かげとき  だいかんしょとう  べん  ざるよし  こと  たず   さた せし  べ   てへ
又、美豆牧B司申す本庄并びに高運嶋の事、景時の代官所當を弁ぜ不由の事、尋ね沙汰令む可し者れば、

たず  きは  おんくだしぶみ なされるべしのよし うんぬん
尋ね究めて御下文を成被可之由と云々。

参考@平澤寺は、埼玉県比企郡嵐山町大字平澤977番地・平澤寺
参考A宮内権大輔重頼は、藤原(葉室一族)。妻が源三位頼政の娘。
参考B美豆牧は、旧山城国綴喜郡美豆村。現京都府京都市伏見区淀美豆町。京都競馬場西南。

現代語文治四年(1188)七月小十三日丁未。武蔵国平沢寺の寺主職を僧の永観に与えられました。一方、師中納言〔吉田經房〕が命じられた書いた奉書が届きました。隠岐守仲国が訴えております。宮内権大輔藤原重頼が地頭だと云って、あちこちを横取りしているとの事です。そこで、返事を申されました。隠岐守仲国が訴えている重頼の横取りは、けしからん事なので、手紙で重頼に命令をし終えた。と言う内容は、

 隠岐守仲国が訴えについて申し上げます。この事を後白河院から云って来られました。聞いているような、乱行はけしからんことです。そこで考えてみるとそのあちこちを、どうして支配する事が出来ましょうか。その中村別府には、地頭を任命した覚えはありません。どういうつもりなんですか。そこで云われている事はこの通りに書きました。
      七月十三日                               花押
   宮内大輔重頼殿

その他にも、美濃国のあちこちの郷の地頭が横取りしている事、能盛入道、為保、成季達が送ってよこした手紙(折紙)と在庁官人の調査報告書も一緒によこされました。又、美豆牧の管理者が云っている本庄や高運島の事は、梶原平三景時の代官が年貢を納めないとの事は、調べて命じますと云って来ているので、きちんと調べて命令書を出すようにとの事でした。

文治四年(1188)七月小十五日己酉。奉爲先考御追福。於勝長壽院。被勤修万燈會。武州并常胤遠元等沙汰之。二品及御臺所有御參堂云々。

読下し                     せんこうごついぶく  おんため しょうちょうじゅいん をい まんとうえ  ごんじゅさる
文治四年(1188)七月小十五日己酉。先考御追福の奉爲、勝長壽院に於て万燈會を勤修被る。

ぶしゅうなら    つねたね  とおもとら これ  さた    にほんおよ  みだいどころ  ごさんどうあ     うんぬん
武州并びに常胤、遠元等之を沙汰す。二品及び御臺所、御參堂有りと云々。

現代語文治四年(1188)七月小十五日己酉。父左典厩義朝の供養のために、勝長寿院で先祖供養の一万もの灯火を点ける法要をきちんとなさいました。大内武蔵守義信と一緒に千葉介常胤、足立右馬允遠元が実行委員をしました。二品頼朝様と御台所政子様のお堂への参拝が有りましたとさ。

文治四年(1188)七月小十七日辛亥。右武衛飛脚參着。去年夏之比。御家人藤原宗長与石C水神人等鬪諍。神人聊依被疵。去十一日所被下 院宣也。此事度々雖被仰。無左右召進之條。傍輩所思。似無其恃。仍猶豫之處。事已及重事。何樣可進退哉云々。則被副進 院宣。
 放生會駕輿丁神人等訴申事。法印成C申状遣之。此事。去年已神事及違例之。於今年者。違乱不可有異儀歟。 朝家大事非此事哉。抑神社訴訟雖無其理。依敬神異他。一旦有裁許。追被厚免者常法也。然者。彼宗長先贖其罪科。追可有左右事也。随又非指親族。只爲郎從歟。且爲公私宜顯忠。強不可令拘留申給歟者。 院御氣色如此。仍執啓如件。
      七月十一日申尅                   勘解由次官宗隆
  進上  右兵衛督殿〔能保〕

読下し                      うぶえい  ひきゃくさんちゃく   きょねんなつのころ  ごけにんふじわらむねながと いわしみずじにん ら とうじょう
文治四年(1188)七月小十七日辛亥。右武衛が飛脚參着す。去年夏之比、御家人藤原宗長与石C水神人@等鬪諍す。

じにん いささ きずさる    よっ    さんぬ じういちにちいんぜん くださる ところなり
神人聊か疵被るに依て、去る十一日 院宣を下被る所也。

 こ   こと  たびたびおお  らる   いへど   そう な   めししん  のじょう  ぼうはい  おも ところ   そ   たの  な     に
此の事、度々仰せ被ると雖も、左右無く召進ず之條、傍輩の思う所、其の恃み無きに似て、

よっ  ゆうよ    のところ  ことすで  ちょうじ  およ    いかよう しんたいすべ  や   うんぬん  すなは いんぜん そ  しん  らる
仍て猶豫する之處、事已に重事に及ぶ。何樣に進退可き哉と云々。則ち院宣を副へ進じ被る。

  ほうじょうえ   かよちょう  じにんら うった  もう  こと  ほういんせいしん  もうしじょう これ つか      こ   こと  きょねんすで  しんじ これ  いれい  およ
 放生會Aの駕輿丁Bの神人等訴へ申す事、法印成Cが 申状 之を遣はす。此の事、去年已に神事之を違例に及ぶ。

  ことし  をい  は   いらん いぎ あ   べからずか   ちょうけ  だいじ こ   こと  あらずや
 今年に於て者、違乱異儀有る不可歟。朝家の大事此の事に非哉。

  よくよ じんじゃ  そしょう そ ことわりな   いへど   けいしんほか  こと      よっ    いったんさいきょあ     おっ  こうめん  らる  は じょうほうなり
 抑く神社の訴訟其の理無しと雖も、敬神他に異なるに依て、一旦裁許有り、追て厚免せ被る者常法也。

  しからば  か  むねなが   ま   そ   ざいか  つぐな   おっ   そう あ   べ   ことなり  したが   また  さ       しんぞく あらず  ただろうじゅうたるか
 然者、彼の宗長は、先ず其の罪科を贖ひ、追て左右有る可き事也。随って又、指したる親族に非。只郎從爲歟。

  かつう こうし   ためよろ    ちう  あらは   あなが  こうりゅうもうせし  たま  べからずてへ      いん  みけしき かく  ごと    よっ  しっけいくだん ごと
 且は公私の爲宜しく忠を顯し、強ちに拘留申令む給ふ不可歟者らば、院の御氣色此の如し。仍て執啓件の如し。

            しちがつじういちにちさるのこく                                      かげゆのすけむねたか
      七月十一日申尅                   勘解由次官宗隆

    しんじょう   うひょうえのかみどの 〔よしのり〕
  進上  右兵衛督殿〔能保〕

参考@神人は、平安時代から室町時代にかけて、神社に仕え、神事・社務の補助や雑事を担当した下級神職や寄人(よりうど)。平安末期には、僧兵と同様、強訴(ごうそ)などを行なった。鎌倉時代以降、課役免除の特権を得るために商工人・芸能人が神人となり、座を組織した例も多い。しんじん。Goo電子辞書から
参考A放生会は、供養のため、捕らえられた生き物を放してやり贖罪する儀式。
参考B駕輿丁は、貴人の駕籠 (かご) や輿 (こし) を担ぐ人。こしかき。
Goo電子辞書から

現代語文治四年(1188)七月小十七日辛亥。右兵衛督一条能保の伝令が着きました。去年の夏頃に、御家人の藤原宗長と岩清水八幡宮の神社に使える下職の神人とが喧嘩をしました。神人が多少怪我をさせられたので、先日の十一日に、院から(処罰しろと)手紙が出されました。この事は、何度も云ってきているけど、安易に突き出してよいものかでしょうかとの事です。それは、仲間の御家人達が当てにならないと思うので、躊躇していたところ、(院宣が出るという)重大事件になってしまいました。どう対処したらよいのでしょうかなんだとさ。直ぐに院宣を添えて送ってきました。

 供養のため、捕らえられた生き物を放してやる儀式「放生会」の輿を担ぐ神社の下職達が訴えている事については、法印成清の訴状を送ります。この事によって、去年は神事が出来ませんでした。今年も、おかしくなる事は間違いないでしょう。それは、天皇家にとって一大事ではないでしょうか。神社からの訴訟には理屈が通っていないかも知れないけど、神様の事は別物なので、一旦は罰して、後で許してやるのが常套手段です。それなので、その宗長は、先ずはその罪を償わせて、後ほどその後の処分を考えてください。従って、たいした親しい訳でも無いでしょうし、単なる家来じゃないでしょうか。そこで、朝廷や頼朝様の為にも、ここは忠義を表わして、強いて捕えるように、申されないとすれば、後白河院のご機嫌は良くは無いでしょうね。命じられて書いたのはこの通りです。
         七月十一日申刻                  勘解由次官宗隆
   申し上げます  右兵衛督殿〔能保〕

文治四年(1188)七月小廿八日壬戌。式部大夫親能募武威。貪他人領所。抑留乃貢之間。雖預 勅問。失陳謝之由。依其讒出來。二品令尋親能許給之處。不能委細言上。只去六月已捧陳状訖。案文献上之。若此事候歟之由申之。無曲折之歟之由。二品令感給云々。
  謹請
   院宣二箇條事
 一 駿河國蒲原御庄御年貢事
  右件御庄。大外記師尚依相親令誂付之間。以内儀令致沙汰之處。文治元二兩年者。令究濟預返抄畢。可被召尋彼師尚朝臣歟。去年分。去四月令積載。令解纜畢。
 一 越後國大面御庄御年貢事
  右件御庄。文治元二兩年分。運上領家〔中納言入道〕之旨。沙汰人所申上也。若有御不審者。進雜掌於寺家。可申散状歟。去年分早米者。進納領家。後米者。或雖令積載。未承着否。或令納置庄庫云々。依 院宣。被止庄務之故。依召上沙汰者。不遂積載之由。所申上也。
 以前兩條。謹言上如件。親能誠惶誠恐謹言。
   文治四年六月十一日                  散位藤原朝臣親能

読下し                      しきぶのたいふちかよし ぶい   つの    た   ひと りょうしょ  むさぼ   のうぐ   よくりゅう   のかん
文治四年(1188)七月小廿八日壬戌。式部大夫親能 武威を募り、他の人の領所を貪り、乃貢を抑留する之間、

ちょくもん あずか  いへど   ちんちゃ  うしな のよし   そ   ざんいできた    よっ
勅問に預ると雖も、陳謝を失う之由、其の讒出來るに依て、

にほん ちかよし  もと  たず  せし  たま  のところ   いさい  ごんじょう     あたはず
二品親能の許に尋ね令め給ふ之處、委細を言上するに不能。

ただ さんぬ ろくがつすで ちんじょう  ささ をはんぬ あんぶんこれ けんじょう   も   かく  ことそうら   かのよし これ  もう
只、去る六月已に陳状を捧げ訖。 案文之を献上す。若し此の事候はん歟之由之を申す。

きょくせつこれ な  か のよし  にほん かん せし  たま    うんぬん
曲折 之無き歟之由、二品感じ令め給ふと云々。

    きんじょう
  謹請

      いんぜんにかじょう  こと
   院宣二箇條の事

  ひとつ するがのくに かんばらのごしょう  ごねんぐ  こと
 一  駿河國 蒲原御庄の御年貢の事

    みぎくだん ごしょう  だいげきもろひさ あいした      よっ  あつら   つ   せし  のかん  ないぎ  もっ   さた いたせし  のところ
  右件の御庄、大外記師尚相親しきに依て誂えて付け令む之間、内儀を以て沙汰致令む之處、

    ぶんじ がんにりょうねんは  きゅうさいせし へんしょう あずか をはんぬ か  もろひさあそん   め   たず  らる  べ   か
  文治元二兩年者、究濟 令め 返抄に預り畢。 彼の師尚朝臣に召し尋ね被る可き歟。

    きょねん  ぶん  さんぬ しがつ つ  の   せし   ともづな と   せし をはんぬ
  去年の分、去る四月積み載せ令め、纜を解か令め畢。

  ひとつ えちごのくにおおものごしょう ごねんぐ  こと
 一 越後國大面御庄の御年貢の事

    みぎくだん ごしょう  ぶんじがんにりょうねん ぶん  りょうけ 〔 ちうなごんにゅうどう 〕   うんじょうのむね   さたにん もう  あ    ところなり
  右件の御庄、文治元二兩年の分、領家〔中納言入道〕に運上之旨、沙汰人申し上げる所也。

     も  ごふしん あ   ば   ざっしょう を じけ   すす    さんじょう もう  べ   か   きょねん  ぶん  はやまいは  りょうけ  しんのう
  若し御不審有ら者、雜掌@於寺家へ進め、散状を申す可き歟。去年の分の早米者、領家に進納す。

     ごまいは   ある    つ   の   せし   いえど   いま  ちゃくひ うけたま       ある    しょうこ  おさ  お   せし    うんぬん
  後米者、或ひは積み載せ令むと雖も、未だ着否を承はらず。或ひは庄庫に納め置か令むと云々。

    いんぜん  よっ    しょうむ  と   らる  のゆえ   さた   もの  め   あ       よっ    せきさい  と   ざ   のよし  もう  あ    ところなり
  院宣に依て、庄務を止め被る之故、沙汰の者を召し上げるに依て、積載を遂げ不る之由、申し上げる所也。

  いぜん りょうじょう  つつし  ごんじょうくだん ごと    ちかよしせいこうせいきょうきんげん
 以前の兩條、謹んで言上件の如し。親能誠惶誠恐謹言。

      ぶんじよねんろくがつじういちにち                                     さんに ふじわらのあそんちかよし
   文治四年六月十一日                  散位A藤原朝臣親能

参考@雑掌は、荘園経営請負人。辞書中世、本所・領家のもとで荘園に関する訴訟や年貢・公事の徴収などの任にあたった荘官。Goo電子辞書から
参考A散位は、六位の位階はあるが官職を持たないものの総称。

現代語文治四年(1188)七月小二十八日壬戌。式部大夫中原親能は、武力をひけらかして、他人の領地を横取りして、年貢を差し押さえてしまったので、院から詰問があったけど、弁解出来ないで居ると(京都朝廷が)言いつけてきたので、頼朝様は中原親能の所へ問い合わせてみたら、詳しい事は云えませんでした。但し、先月六月にすでに弁解状を提出しておりました。その案文を献上しているので、もしかしたらこのことでしょうかと云って来ました。間違えはしていなかったのだなと、頼朝様は感心なされましたとさ。

 謹んでご返事いたします
    院からのお手紙の二つの件について
 一つは、駿河国蒲原御庄(後白河院が本所)の院への年貢について
  右のその荘園は、大外記(中原)師尚と親しくしているので、あえて彼に管理を負かせておりますが、内内に調べてみた処、文治元年二年の二年分は、取立てが終わって割戻しを受けました。ですから師尚さんに聞いてみるのが良いでしょう。去年文治三年の分は、先だっての四月に船に積んで出航し終えました。
一つは、越後国大面御荘(後白河院が本所)の院への年貢について
  右のその荘園は、文治元年と二年の二年分は、領家〔中納言入道(源政頼)〕に運び届けると、現地実行者が報告しています。もし、合点がいかないのなら、荘園経営の請負人を寺領管理者に行かせて、明細をお話ししましょうか。去年の分の早稲米は、領家に納めました。晩生米は、船に積んだけれども、未だ到着したかは承っておりません。場合によっては、現地の荘園の倉庫に未だ置いてあるかもしれませんとの事です。院からの命令書により、荘園の管理事務を止められたので、現地支配人を引き上げさせたので、積み出しをしていない事を申し上げます。以上の二つの事柄についての弁明は以上の通りです。中原親能が敬って申しあげます。
  文治四年六月十一日                          散位藤原朝臣中原親能

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吾妻鏡入門第八巻

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