吾妻鏡入門第八巻

文治四年(1188)戊申八月大

文治四年(1188)八月大九日壬申。台嶺悪僧等同意豫洲事。前民部少輔基成并泰衡隱容同人於奥州事。御沙汰頗遲怠。急速可令申達給之由。被仰右武衛〔能保〕云々。

読下し                    たいれい あくそうら よしゅう  どうい     こと  さきのみんぶしょうゆうもとなりなら  やすひら  どうじんを おうしゅう いんよう  こと
文治四年(1188)八月大九日壬申。台嶺の悪僧等豫洲に同意する事、前民部少輔基成并びに泰衡、同人於奥州に隱容の事、

おんさた すこぶ ちたい    いそ  すみや  もう   たっ  せし  たま  べ   のよし   うぶえい 〔よしやす〕    おお  らる    うんぬん
御沙汰頗る遲怠す。急ぎ速かに申し達さ令め給ふ可き之由、右武衛〔能保〕に仰せ被ると云々。

現代語文治四年(1188)八月大九日壬申。比叡山の武者僧達が、義経に味方している事と、前民部少輔藤原基成と泰衡が義経を匿っている事について、京都朝廷の対応がとても遅れています。急いでちゃんと事情を説明するように申し入れろと、右武衛一条能保に伝えさせましたとさ。

文治四年(1188)八月大十五日戊寅。鶴岳放生會也。二品御參。先法會之舞樂。次流鏑馬。幸氏盛澄等射之。

読下し                    つるがおか ほうじょうえなり  にほん ぎょさん    ま   ほうえの ぶがく    つい  やぶさめ   ゆきうじ  もりずみら これ  い
文治四年(1188)八月大十五日戊寅。鶴岳の放生會也。二品御參す。先ず法會之舞樂。次で流鏑馬。幸氏、盛澄等之を射る。

現代語文治四年(1188)八月大十五日戊寅。鶴岡八幡宮での供養のため、捕らえられた生き物を放してやる儀式の放生会です。頼朝様が出席なされました。始めに仏教儀式と奉納の舞です。次ぎに流鏑馬です。海野小太郎幸氏や諏方大夫盛澄が、これを射ました。

文治四年(1188)八月大十七日庚辰。右兵衛督〔能保〕消息到來。路邊群盜蜂起事。至疑貽分者。相觸所々畢。就中。叡山飯室谷竹林房住侶來光房永實同宿号千光房七郎僧招卒悪徒浪人等。令夜討已下悪行之由。普風聞之間。經 奏聞畢。仍仰法印圓良。被召之處。去四日召進彼僧之由。所捧請文也云々。又云。藤原宗長。依石C水之訴。去五日被下配流官苻。土左云々。

読下し                     うひょうえのかみ 〔よしやす〕  しょうそことうらい
文治四年(1188)八月大十七日庚辰。右兵衛督〔能保〕が消息到來す。

 ろへん  ぐんとう ほうき   こと  ぎたい  ぶん  いたっ は   しょしょ  あいふ  をはんぬ
路邊の群盜蜂起の事、疑貽の分に至て者、所々に相觸れ畢。

なかんづく   えいざんいいむろだに ちくりんぼうじゅうりょ らいこうぼうえいじつ  どうしゅく せんこうぼうしちろう  ごう  そう  あくとろうにんら   まね  ひき
就中に、 叡山飯室谷の 竹林房住侶 來光房永實、同宿の千光房七郎と号す僧、悪徒浪人等を招き卒い、

ようち  いか   あくぎょうせし のよし  あまね ふうぶんの かん  そうもん  へをはんぬ
夜討已下の悪行令む之由、普く風聞之間、奏聞を經畢。

よっ  ほういんえんりょう おお      めさる   のところ  さんぬ よっか か  そう  めししん  のよし  うけぶみ  ささ   ところなり  うんぬん
仍て法印圓良@に仰せて、召被る之處、去る四日彼の僧を召進ず之由、請文を捧げる所也と云々。

またい      ふじわらむねなが  いわしみずのうった   よっ    さんぬ いつか はいるかんぷ  くださる     とさ  うんぬん
又云はく、藤原宗長、石C水之訴へに依て、去る五日配流官苻を下被る。土左と云々。

参考@法印円良は、幹部僧侶で座主候補。

現代語文治四年(1188)八月大十七日戊寅。一条能保の手紙が届きました。道沿いで盗人の群れが出没している事について、疑わしい者は、あちこちに連絡し終えました。特に、比叡山室谷の竹林房に主の来光坊永実と一緒に住んでいる千光坊七郎と名乗る坊主が、悪党や浪人を集め連れて、夜襲等の悪い事をしていると広く噂になっていると、後白河法皇に報告しました。そこで朝廷は、比叡山幹部僧侶の法印円良に命じて、捕えて突き出すように伝えたところ、先日の四日にその坊主を捕えて突き出すと返書を差し上げたそうです。又、別な話ですが、藤原宗長は、岩清水神社の訴えによって、先日の五日に流罪の命令書が出されました。土佐だそうです。

文治四年(1188)八月大廿日癸未。前廷尉康頼入道亦捧訴状。是阿波國麻殖保事。地頭刑部丞成綱募武威。不用保司之間。恩澤似無所據之。加之内藏寮濟物闕乏之故可停止成綱地頭職之由。所被下 院宣也。云彼云是。二品令驚給。被補置地頭於諸國事。警衛 朝廷。爲治國乱也。而抑留公物。不穩便之由有沙汰。成綱雖令領掌地頭職。不可相交領家方之旨。被仰下云々。

読下し                   さきのていいやすよりにゅうどう  またそじょう  ささ
文治四年(1188)八月大廿日癸未。 前廷尉康頼入道、 亦訴状を捧ぐ。

これ  あわのくにおえのほう  こと  ぢとう ぎょうぶのじょうなりつな ぶい  つの    ほうし   もちいざるのあいだ おんたくのよんどころな   に
是、阿波國麻殖保の事、地頭 刑部丞成綱 武威を募り、保司を用不之間、恩澤之據所無きに似たり。

これ  くは  くらりょう  さいもつけつぼうのゆえ  なりつな  ぢとうしき  ちょうじすべ  のよし  いんぜん  くださるところなり
之に加へ内藏寮の濟物闕乏之故、成綱の地頭職を停止可し之由、院宣を下被所也。

かれ  い   これ  い     にほん おどろ せし  たま   ぢとうを しょこく   ぶ   おかれ  こと  ちょうてい けいえい    こくらん  おさ    ためなり
彼と云ひ是と云ひ、二品驚か令め給ふ。地頭於諸國に補し置被る事、朝廷を警衛し、國乱を治める爲也。

しか     くもつ  よくりゅう    おんびんさなざるのよしさたあ
而るに公物を抑留し、穩便不之由沙汰有り。

なりつな ぢとうしき  りょうしょうせし  いへど   りょうけかた  あいまじ  べからざるのむね おお  くださる    うんぬん
成綱地頭職を領掌令むと雖も、領家方に相交はる不可之旨、仰せ下被ると云々。

現代語文治四年(1188)八月大二十日癸未。元検非違使平康頼入道が、三月十四日に続き、又も訴えの手紙を後白河院へ提出しました。
この内容は、阿波国麻植保おえのほう地頭の小野三郎刑部丞成綱が武力に物を言わせて、現地管理者の保司職の意見を無視しているので、恩賞の貰いがいがありません。そればかりか、朝廷の内蔵寮への年貢が欠如しているので、野三成綱の地頭職を止めさせるように、後白河法皇からの命令院宣をよこされました。
あれもこれも、頼朝様は驚きになられました。地頭を諸国に任命しているのは、京都朝廷の威光を促し、国の乱れを治めるためなのです。それなのに、朝廷の公領の年貢を差し押さえるのは、穏便でないとの命がありました。
野三刑部丞成綱は地頭職を持っていても、領家の現地支配に介入してはいけないと、お命じになられましたとさ。

文治四年(1188)八月大廿三日丙戌。波多野五郎義景与岡崎四郎義實。於御前遂對决。是相摸國波多野本庄北方者。義景累代相承所領也。而窺在京之隙。義實望申之。歸參之後。義景申云。當所者。保延三年正月廿日。祖父筑後權守遠義讓与二男義通云々。又嘉應元年六月十七日。讓義景之後。無窂籠之處。依何由緒望申哉。就之被召决之刻。義實申云。可与孫子先法師冠者之由。有義景先年状云々。義景申云。先法師者。義景外孫也。縱雖請讓状。外祖存生。爭可竸望乎。是偏義實奸曲也云々。義實雌伏。爲全未來。所言上也云々。御成敗云。當所進退。宜任義景意。義實造意。尤不當也。依其科。百ケ日之間。勤仕鶴岡并勝長壽院等之宿直云々。

読下し                     はたののごろうよしかげ と おかざきのしろうよしざね ごぜん  をい  たいけつ と
文治四年(1188)八月大廿三日丙戌。波多野五郎義景与岡崎四郎義實、御前に於て對决を遂ぐ。

これ  さがみのくにはたのほんしょうきた  かたは  よしかげ るいだい そうしょう しょりょうなり  しか   ざいきょうのすき  うかが   よしざねこれ のぞ  もう
是、相摸國波多野本庄北の方者、義景 累代 相承の所領也。而るに在京之隙を窺い、義實之を望み申す。

きさんの のち  よしかげもう    い       とうしょは  ほうえんさんねんしょうがつはつか  そふ ちくごごんのかみとおよし じなんよしみち  ゆず  あた   うんぬん
歸參之後、義景申して云はく。當所者、保延三年正月廿日、祖父筑後權守遠義、二男義通に讓り与うと云々。

た  かおうがんねんろくがつじうしちにち かげよし ゆず  ののち  ろうろう な  のところ  なん  ゆいしょ  よっ  のぞ  もう  や
又、嘉應元年六月十七日、義景に讓る之後、窂籠無き之處、何の由緒に依て望み申す哉。

これ  つ   みしけっ  らる  のとき  よしざんもう    い        まご せんぽうしかじゃ   あた  べ   のよし  よしかげ せんねん じょうあ    うんぬん
之に就き召决せ被る之刻、義實申して云はく。孫子先法師冠者に与う可し之由、義景の先年の状有りと云々。

よしかげもう    い       せんぽうしは   よしかげ  そとまごなり  たと ゆずりじょう う      いへど   がいそぞんせい     いかで きょうぼうすべ   や
義景申して云はく。先法師者、義景の外孫也。縱い讓状を請くると雖も、外祖存生せば、爭か竸望可けん乎。

これ  ひとへ よしざね かんきょくなり うんぬん  よしざね しふく    みらい  まっと     ため  ごんじょう   ところなり  うんぬん
是、偏に義實の奸曲也と云々。義實雌伏す。未來を全うせん爲、言上する所也と云々。

ごせいばい  い       とうしょ  しんたい  よろ    よしかげ  い   まか
御成敗に云はく。當所の進退、宜しく義景の意に任す。

よしざね  ぞうい   もっと ふとうなり   そ   とが  よっ    ひゃっかにちのかん つるがおかなら  しょうちょうじゅいんらの とのい  きんじ        うんぬん
義實の造意、尤も不當也。其の科に依て、百ケ日之間、鶴岡并びに勝長壽院等之宿直を勤仕すべしと云々。

現代語文治四年(1188)八月大二十三日丙戌。波多野五郎義景と岡崎四郎義実が、頼朝様の御前で対決をしました。
その内容は、相模国波多野本庄の北側は、波多野五郎義景が先祖代々受け継いできた領地なのです。それなのに、波多野義景が京都へ駐在している隙を狙って、岡崎義実が乗っ取りにかかりました。
京都から帰ってきた波多野義景が申し上げるには、当地は、
保延三年(1137)正月二十日付けで、祖父筑後権守遠義が二男義通に相続したと云われています。又、嘉應元年(1169)六月十七日に、義景に相続の後、困った事が無かったのに、何を根拠に要求するのでしょう。
その内容を審議している時に、岡崎義実が言うのには、孫の先法師冠者に相続すると、波多野義景が以前に書いた書状があるとの事なんだとさ。波多野義景が反論するのには、先法師は、波多野義景の外孫である。だから譲り状を預けたけれど、祖父の私が生きている間は、何故名乗りを上げて欲しがるものでしょうか。それは岡崎義実の悪巧みでしょうよだとさ。
岡崎義実は負けました。孫の将来に備える為に申し上げた次第だそうです。
頼朝様が裁決して申されるには、当地の進退の権利は、波多野五郎義景の意思による。岡崎四郎義実の企みは、とても不当である。その罪の落とし前として、百日間の鶴岡八幡宮と勝長寿院の夜間警備を奉仕するようにとのことなんだってさ。

文治四年(1188)八月大卅日癸巳。諸國可禁断殺生之由。 宣旨状到着。是依二品令申請給也。其状云。
 文治四年八月十七日  宣旨
 殺生之誡。嚴制重疊。随又去年十二月。殊被下 絲綸畢。而荒樂之輩。動犯法禁之由有其聞。就中流毒燒狩者。典章所指。其罪尤重。非只飛(盡)猪鹿之獲。忽逮飛沈之類。内破佛戒。外背聖記。宜仰五畿七道諸國。永令從禁遏。
                           藏人頭右中弁兼忠

読下し                   しょこくせっしょうきんだん すべ のよし  せんじじょうとうちゃく
文治四年(1188)八月大卅日癸巳。諸國殺生禁断@可し之由、宣旨状到着す。

これ  にほん もう  こ   せし  たま    よっ  なり  そ  じょう  い
是、二品申し請は令め給ふに依て也。其の状に云はく。

  ぶんじよねんはちがつじうしちにち   せんじ
 文治四年八月十七日  宣旨

  させっしょうのいさめ げんせいちょうじょう したが   またきょねんじうにがつ  こと  しりん  くだされをはんぬ
 殺生之誡。 嚴制重疊。 随いて又去年十二月、殊に絲綸を下被畢。

  しか   こうがくのやから ややもす  ほうきん  おか  のよし そ  きこ  あ
 而るに荒樂之輩、動れば法禁を犯す之由其の聞へ有り。

  なかんづく  どくながし やきがりは  てんしょう  さ  ところ  そ  つみもっと おも    ただ ちょかのえもの  つく   あらず
 就中に、毒流や燒狩者、典章Aの指す所、其の罪尤も重し。只に猪鹿之獲を盡すに非。

  たちま ひちんのたぐい およ    うち  ぶっかい  やぶ    そと  せいき   そむ
 忽ち飛沈之類に逮ぶ。内に佛戒を破り、外に聖記に背く。

  よろ    ごき しちどうしょこく  おお      なが  きんあつ  したが せし
 宜しく五畿七道諸國に仰せて、永く禁遏Bに從は令め。

                                                         くろうどのとううちうべんかねただ
                           藏人頭右中弁兼忠

参考@殺生禁断は、寺領荘園支配のため、仏法を利用して荘園の境界内は、佛地として、精神を縛り、イデオロギー的領域支配。
参考A典章は、規則、きまり。
参考B禁遏は、禁じてやめさせること。

現代語文治四年(1188)八月大三十日癸巳。諸国で殺生禁断するようにとの、朝廷からの宣旨の手紙が届きました。頼朝様は、その内容をお受けしました。宣旨の手紙にはこう書かれています。

 文治四年八月十七日 宣旨(命令)
 殺生をしてはいけないという仏教の戒律は、厳しく幾重にも重なっている。それなので、去年の十二月に特に天皇からの命令を出されました。それなのに、地方の連中は、どうかすると禁じられている法を犯していると耳に入ります。中でも、川に毒を流して魚を浮かして捕ったり、山焼きをして獣をいぶりだし、狩をしたりすることは、規則の中でも特に罪が重いのです。猪や鹿といった獣を撮り尽くしてしまうばかりではなく、鳥や魚でさえも、罪深いのです。心の内では、仏の戒律を破り、外見には法律に背いています。良く五畿内、七道の諸国に命令して、永く禁制に従わせてください。
                                    蔵人頭右中弁兼忠

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