吾妻鏡入門第八巻

文治四年(1188)戊申九月小

文治四年(1188)九月小一日甲午。信濃守遠光息女爲官仕。始謁申二品。其名可爲大貳局之由被仰云々。信州所献盃酒也。

読下し                   しなののかみとおみつ そくじょ かんじ  ため  はじ    にほん  えっ  もう
文治四年(1188)九月小一日甲午。 信濃守遠光が息女官仕の爲、始めて二品に謁し申す。

 そ   な  だいにのつぼね たるべ のよし  おお  らる   うんぬん  しんしゅう はいしゅ けん   ところなり
其の名を大貳局@爲可し之由、仰せ被ると云々。信州、盃酒を献ずる所也。

参考@大貳局は、頼家・実朝の面倒を見る。しかも建保4年(1216)11月23日に、「源氏大弐殿」(げんじだいにどの)が発注者となり、運慶に大威徳明王を作らせたのが平成19年に県立金沢文庫で発表された。

現代語文治四年(1188)九月小一日甲午。加々美信濃守遠光の娘が、幕府に仕えるために、初めて頼朝様に面接をしました。その呼び名を大弐局と名乗るように、仰せになりましたとさ。加々美信濃守遠光はお酒を勧めましたとさ。

文治四年(1188)九月小三日丙申。宮内大輔重頼不法事。就被下 院宣。早可被停止之由。被仰遣重頼。又勅願寺領年貢濟否事。雖院(この文字余分)尋面々。地頭請文等未整之間。遲々之由。同所被申也。
  若狹國司申松永宮川保地頭宮内大輔重頼不随國命事。可令停止非法之由。成下文。令進上候。
 右。件事いかにも御定ニ可有候也。領家ハ尋常にて。地頭不當無極之所多候。又地頭尋常にて。年貢不致懈怠所々も候。而領家中にも。地頭を惡て乘勝て。訴申事も候之由。承及候也。然者。記録所へも被召候て。决眞僞て。御裁許候者。不當地頭ハ成恐て。令勵忠節心候歟。又尋常地頭ハ。弥令存公平候歟。尤可被召問勤否候也。但其ために被召候ハん輩。若不令參上候歟。注給交名。可令召進候也。以此旨可令申上給候。頼朝恐々謹言。
     九月三日                     頼朝〔在裏判〕
 追言上
  去六月四日到來候御教書中。被仰下候金剛心院并蓮華王院領等御年貢濟否事。相尋候之處。地頭等在所國々相隔候之故。于今不調候也。仍遲々。尤恐思給候。重以此旨。可令申上給候。恐々謹言。
 下 若狹國松永并宮川保住人
  可早任先例令勤仕國衙課役事
 右件所々。地頭宮内大輔重頼寄事於所職。押妨國事由。依國解。自 院所被仰下也。早付地頭事之外。於國衙之課役者。停止非法之妨。任先例。可致其勤之状如件。以下。
   文治四年九月三日

読下し                    くないたいふしげより   ふほう   こと  いんぜん  くださる   つ
文治四年(1188)九月小三日丙申。宮内大輔重頼が不法の事、院宣を下被るに就き、

はや  ちょうじさる  べ   のよし  しげより  おお  つか  さる
早く停止被る可し之由、重頼に仰せ遣は被る。

また  ちょくがんじりょう  ねんぐ さいひ  こと  めんめん  たず     いへど   ぢとう うけぶみら いま  ととの   のかん   ちち のよし  おな    もうさる ところなり
又、勅願寺領の年貢濟否の事、面々に尋ねると雖も、地頭請文等未だ整はず之間、遲々之由、同じく申被る所也。

     わかさこくし もう  まつなが みやがわのほう  ぢとう くないたいふしげより   こくめい  したが ざること
  若狹國司申す松永、宮川保の地頭宮内大輔重頼@、國命に随は不事。

    ひほう  ちょうじせし  べ   のよし   くだしぶみ な    しんじょうせし そうろう
  非法を停止令む可し之由、下文を成し、進上令め候。

  みぎ  くだん こと        ごじょうに あ   べ そうろうなり  りょうけは じんじょう      ぢとう ふとうきはま  な  のところおお そうろう
 右。件の事いかにも御定ニ有る可く候也。領家ハ尋常にて、地頭不當極り無し之所多く候。

  また  ぢとうじんじょう      ねんぐ けたいいたさずしょしょ そうろう
 又、地頭尋常にて、年貢懈怠致不所々も候。

  しか    りょうけちう       ぢとう   にくみ かち  じょう     うった もう  こと そうろうのよし うけたまは およ そうろうなり
 而るに領家中にも、地頭を惡て勝に乘じて、訴へ申す事も候之由、承り 及び候也。

  しからば  きろくしょ    めされそうろう    しんぎ  けっ      ごさいきょそうら  ば    ふとう   ぢとうは おそれ な      ちうせつしん  はげ  せし そうろうか
 然者、記録所Aへも召被候て、眞僞を决して、御裁許候は者、不當な地頭ハ恐を成して、忠節心を勵ま令め候歟。

  また  じんじょう  ぢとうは   ややくひょう ぞんぜし そうろうか もっと きんぴ  めしとはるべ  そうろうなり
 又、尋常の地頭ハ、弥公平を存令め候歟。尤も勤否を召問被可く候也。

  ただ  そ         めされそうらはんやから も   さんじょうせし ざるそうろうか  きょうみょう ちう  たま    めししんぜし  べ  そうろうなり
 但し其のために召被候ハん輩、若し參上令め不候歟。 交名を注し給ひ、召進令む可く候也。

  かく  むね  もっ  もう  あ   せし  たま  べ  そうろう よりともきょうこうきんげん
 此の旨を以て申し上げ令め給ふ可く候。頼朝恐々謹言。

            くがつみっか                                           よりとも 〔うらはんあ〕
     九月三日                     頼朝〔裏判在り〕

参考@宮内権大輔重頼は、妻が源三位頼政の娘。
参考A
記録所は、後三条天皇が院政を始めようとしたときに、摂関家の荘園を取上げるために「記録荘園券契所」を作り、文書のきちんとしていない分の荘園は取上げようとしたが、出来なかった。それが後に後白河の時代には院政をする場所になってしまった。

  おっ  ごんじょう
 追て言上す

    さんぬ ろくがつよっか とうらいそうろ  みぎょうしょ  うち    おお くだされそうろ こんごうしんいんなら   れんげおういんりょうら  ごねんぐ さいひ  こと
  去る六月四日 到來候う御教書の中に、仰せ下被候う金剛心院并びに蓮華王院領等の御年貢濟否の事、

  あいたず そうろうのところ  ぢとうら   ざいしょくにぐに  あいはな そうろうのゆえ いまに ととの ざるそうろうなり  よっ  ちち     もっと おそ  おぼ  たま  そうろう
 相尋ね候之處、地頭等の在所國々の相隔れ候之故、今于調は不候也。 仍て遲々す。尤も恐れ思し給ひ候。

  かさ    もっ  こ   むね  もう   あ   せし  たま  べ  そうろう きょうきょうきんげん
 重ねて以て此の旨、申し上げ令め給ふ可く候。恐々謹言。

  くだ    わかさのくに まつなが なら  みやがわのほう じゅうにん
 下す 若狹國 松永B并びに 宮川保Cの住人

    はやばや  せんれい まか  こくが かえき  きんじせし  べ   こと
  早〃と先例に任せ國衙課役を勤仕令む可き事

  みぎくだん しょしょ  ぢとう くないたいふしげより   ことを  しょしき   よ     こくじ   お     さまた よし  くに  げ   よっ    いんどころよ おお  くださる  なり
 右件の所々、地頭宮内大輔重頼、事於所職に寄せ、國事を押して妨ぐ由、國の解に依て、院所自り仰せ下被る也。

  はや  ぢとう   ふ     ことのほか  こくがの かえき    をい  は   ひほうのさまた    ちょうじ    せんれい まか
 早く地頭に付する事之外、國衙之課役に於て者、非法之妨げを停止し、先例に任せ、

  そ   つと    いた  べ   のじょうくだん  ごと   もっ  くだ
 其の勤めを致す可き之状件の如し。以て下す。

       ぶんじよねんくがつみっか
   文治四年九月三日

参考B松永は、 福井県小浜市上野に松永小学校あり。
参考C宮川保は、福井県小浜市竹長に宮川小学校あり。。

現代語文治四年(1188)九月小三日丙申。宮内大輔藤原重頼の横領の事を、後白河院から言ってきたので、早く止めるように宮内大輔重頼に命じられました。又、朝廷の願いを祈る勅願寺の領地の年貢の納付について、それぞれに聞いてみたけれども、地頭達が受け取るべき年貢受領書が、未だにそろっていないので、遅れている事を申し上げられました。

  若狭国司が云っている松永(若狭国遠敷郡、小浜市)、宮川保(小浜市)の地頭宮内大輔重頼は、国衙の命令に従わない事については、非法を止めるように命令書を作成したので、写しを送ります。
 右の表題の事は、院の云うとおりでしょう。領家はまともにしていても、地頭がちゃんとしない所が多いですね。或いは逆に、地頭がきちんとしていて、年貢を滞らせてもいないのに、領家の中には、地頭を悪く言って、勝訴に悪乗りして、訴える事もあるでしょうと、聞いてもおります。それならば、院の事務所へ呼び出して、真偽を調べて、ご判断いただければ、不当な事をしている地頭は、恐れ入って忠義の心を呼び起こすでしょうね。又、まともな地頭は、世の道理を承知している事でしょう。勤めをするかどうか、呼びつけて迫ってみたら如何でしょうか。但し、若し呼びつけても来ない奴等もいるでしょうから、名簿を出していただければ、朝廷へ赴かせましょう。このような内容で、院へ申し上げてください。頼朝が恐れ敬い申し上げます。
   九月三日                       頼朝〔紙の裏側に花押を書きました〕

 追伸します
 先日の六月四日に戴いたお手紙の中に、おっしゃってこられた金剛心院と蓮華王院の年貢の納付の未済について、調べてみたところ、地頭達の在所と領地とがあちこちの国に離れているので、今現在では未だにそろっておりません。それで遅れている事を恐れ多いと思っております。追伸でこのことも申し上げておいてください。恐れながら申し上げます。

  命令する 若狭国松永と宮川の保に居る地頭へ
  さっさと今までの例の通りに国衙への業務を果たす事
 右の土地について、地頭の宮内大輔重頼は、物事を地頭である事をよいことにして、国衙の運営を力ずくで邪魔するので、国衙から朝廷への上申書によって、院から命じてきました。早く地頭の担当できる事意外の、国衙の業務については、無法な邪魔立てを止めて、先例の通りにその業務を果たすように命じるのはこのとおりです。そこで命じます。
   文治四年九月三日

文治四年(1188)九月小十四日丁未。尊南坊僧都定任自熊野參向。是年來給置御本尊〔大將王像〕并御願書。御祈祷積薫修也。二品偏令恃二世悉地給。而城四郎長茂者。爲平家一族。背關東之間。爲囚人所被預置于景時也。是又以定任爲師檀。仍以參上之次。有免許。可被召加御家人之由。頻執申之間。二品被仰可召仕之由。今日定任參御所。被召入簾中。談世上雜事給。御家人等着座侍〔二行。以東爲上〕南一座重忠。北一座景時也。爰長茂參入。諸人付目。長七尺男也。着白水干立烏帽子。融二行着座中。參進着横敷。宛簾中於後。自其内。二品御一覽。不被仰是非。定任見此躰頗赭面。景時對長茂云。彼所者二品御座間也云々。長茂稱不存知。起座即退出。其後定任不及執申云々。此長茂〔本名資茂〕者。鎮守府將軍〔余五〕維茂〔貞盛朝臣弟也〕男。出羽城介繁成七代裔孫也。維茂勇敢不耻上古之間。時人感之。將軍 宣旨以前。押而稱將軍。而以武威雖爲大道。毎日轉讀法華經八軸毎。年一見六十巻〔玄義。文句。止觀〕一部。亦謁惠心僧都。談往生極樂要須。繁成生而則逐電。乍含悲歎。經四ケ年。依夢想告。搜求之處。於狐塚尋得之。將來于家。其狐令變老翁。忽然來授刀并抽櫛等於嬰兒云。於翁深窓。令養育者。可爲日本國主。於今者。不可至其位云々。嬰兒者則繁成也。長茂繼遺跡。給彼刀于今帶之云々。

読下し                     そんなんぼうそうづじょうにん くまのよ   さんこう
文治四年(1188)九月小十四日丁未。尊南坊僧都定任 熊野自り參向す。

これ  ねんらい  ごほんぞん 〔だいしょうおうぞう〕 なら    ごがんしょ  たま    お
是、年來の御本尊〔大將王像〕并びに御願書を給はり置く。

ごきとう くんじゅう  つ   なり  にほん ひとへ にせい  しっち  たの  せし  たま
御祈祷薫修を積む也。二品偏に二世の悉地@を恃ま令め給ふ。

しか    じょうのしろうながもちは  へいけ  いちぞく  し     かんとう  そむ  のかん  めしうど  な   かげときに あず  お  れるところなり
而るに城四郎長茂者、平家の一族と爲て、關東に背く之間、囚人と爲し景時于預け置か被所也。

これまた じょうにん  もっ  しだん   な     よっ  もっ さんじょうのついで   めんきょあ       ごけにん   め   くは  らる  べ   のよし
是又、定任を以て師檀と爲す。仍て以て參上之次に、免許有りて、御家人に召し加へ被る可し之由、

しき    しっ  もう  のかん   にほん め   つか  べ   のよし  おお  らる
頻りに執し申す之間、二品召し仕う可き之由を仰せ被る。

きょう  じょうにんごしょ  まい    れんちう  めしいれられ  せじょう  ぞうじ  だん  たま
今日、定任御所に參り、簾中に召入被、世上の雜事を談じ給ふ。

ごけにんらさむらい 〔にぎょう  ひがし  もっ  かみ   な      〕    ちゃくざ    みなみ いちざ  しげただ  きた  いちざ  かげときなり
御家人等侍〔二行。東を以て上と爲す〕に着座し、南の一座は重忠、北の一座は景時也。

ここ  ながもちさんにゅう   しょにん め  つ     たけななしゃく おとこなり
爰に長茂參入す。諸人目を付ける。長七尺の男也。

しろ  すいかん  たてえぼし   つ     にぎょう  ちゃくざ  なか  とお    さんしん  よこじき  ちゃく   れんちうをうしろ  あて
白の水干に立烏帽子を着け、二行に着座の中を融り、參進し横敷に着し、簾中於後に宛る。

 そ   うちよ     にほん ごいちらん   ぜひ   おお  られず  じょうにん こ  てい  み  すこぶ せきめん
其の内自り、二品御一覽。是非を仰せ被不。定任此の躰を見て頗る赭面す。

かげとき  ながもち たい  い       か  ところは にほん  おんござまなり  うんぬん  ながもちぞんちせず しょう   ざ   た   すなは たいしゅつ
景時、長茂に對し云はく。彼の所者二品の御座間也と云々。長茂存知不と稱し、座を起ち即ち退出す。

 そ   ご  じょうにん と  もう    およばざる うんぬん
其の後、定任執り申すに及不と云々。

 こ   ながもち 〔ほんみょう  すけもち〕 は  ちんじゅふしょうぐん 〔 よご 〕 これもち 〔さだもりあそん  おとうとなり〕   だん  でわじょうすけしげなり  しちだい えいそんなり
此の長茂〔本名は資茂〕者、鎮守府將軍〔余五A維茂〔貞盛朝臣の弟也〕の男、出羽城介繁成が七代Bの裔孫C也。

これもち  ゆうかんじょうこ  はじずのかん  とき  ひとこれ  かん    しょうぐんせんじ  いぜん    お   て しょうぐん しょう
維茂の勇敢上古に耻不之間、時の人之を感じ、將軍宣旨の以前に、押し而將軍と稱す。

しか     ぶい  もっ  だいどう  な    いへど   まいにちほけきょうはちじつごと  てんどく   ねんろくじっかん 〔げんぎ    もんぐ    しかん  〕   いちぶ  いっけん
而るに武威を以て大道と爲すと雖も、毎日法華經八軸毎に轉讀D、年六十巻〔玄義E、文句F、止觀G一部を一見す。

また   えしんぞうづ   えっ    おうじょうごくらく  ようす  だん
亦、惠心僧都Hに謁し、往生極樂の要須を談ず。

しげなり う     て すなは ちくてん    ひかん  ふく  なが    よんかねん  へ   むそう  つげ  よっ    さが  もと    のところ
繁成生まれ而則ち逐電し、悲歎を含み乍ら、四ケ年を經、夢想の告に依て、搜し求める之處、

きつねづか をい これ  たず  え     いえにしょうらい
狐塚に於て之を尋ね得て、家于將來す。

 そ  きつねろうおう  へん  せし    こつぜん     きた   かたななら   ぬきぐしら を えいじ   さず    い      おきなしんそう をい    よういくせし  は
其の狐老翁に變ぜ令め、忽然として來りて刀并びに抽櫛等於嬰兒に授けて云はく、翁深窓に於て、養育令む者、

にほんこく   ぬし  なすべ    いま  をい  は   そ  くらい  いた  べからず うんぬん  えいじは すなは しげなりなり
日本國の主と爲可し、今に於て者、其の位に至る不可と云々。嬰兒者則ち繁成也。

ながもちゆいせき  つ    か  かたな たま    いまに これ  おび    うんぬん
長茂遺跡を繼ぎ、彼の刀を給はり今于之を帶ると云々。

参考@悉地は、密教で、修行によって完成された境地。
参考A
余五将軍は、今昔物語に英雄として出てくる。維茂は貞盛の弟繁盛の子で貞盛の養子になったのが十五番目で、十に余る五なので「余五」。
参考B七代孫は、繁盛─兼忠─維茂繁成貞成永基永家資国┬資永。
               1  2  3  4  5  6 └永用(長茂)7
参考C裔孫は、遠い子孫。末の子孫。
参考D転読は、略式の飛ばし読みのお経を上げる事で、お経を左右にアコーデオンのように片手から片手へ移しながらお経を唱える。摺り読みとも云う。反対にちゃんと読むのを「真読」と云う。
参考E玄義は、、仏教の奥深い教義。
参考F
文句は、法華文句で中国隋代の仏教書。
参考G
止觀は、「摩訶止観(まかしかん)」の略。天台宗の根本的な修行である瞑想法。心を静め、智慧のはたらきによって宗教的イメージや真理を心の中に出現させ、感得すること。
参考H惠心僧都は、源信で往生要集を著し浄土教を説いた天台宗の僧。親鸞は第六祖としている。

現代語文治四年(1188)九月小十四日丁未。尊南坊僧都定任が、熊野からやって参りました。この人には、頼朝様が以前から大事にしている持仏〔大将王尊〕とご祈願を書いた文書を預からしております。ご祈祷のための修行を積んでおります。頼朝様は、現世と来世の宿願成就を期待しておられます。
実は、城四郎長茂は、平家の一族として、関東に反逆したので、囚人として梶原平三景時に預かれせているのであります。この男が又、定任を仏教の師匠と旦那の仲なのです。それなので、定任が頼朝様にお会いしたついでに、許してあげて御家人に加えてあげてくださいと、盛んにとりなすので、頼朝様は御家人に任命するようにおっしゃられました。
今日、定任が御所に来たので、御簾の中へ呼ばれて、世間話をしていました。御家人達は、侍所〔二行で東側を上席としました〕に座っております。南側の筆頭は畠山次郎重忠が、北側の筆頭は梶原平三景時です。そこへ城四郎長茂が入ってきました。
皆がみつめると、背丈が七尺(210cm)もある大男です。白い麻の水干に立て烏帽子をつけて、二列に並んで座っている中を通り、歩み出て、上がりがまちに座り、御簾に背を向けてしまいました。御簾の内から頼朝様はチラッと見て何も云いませんでした。定任は、(推薦した城長茂の)この無作法な様子に赤面してしまいました。
梶原平三景時が城長茂に対して言いました。その場所は、頼朝様のお出ましの間なんだぞと。城四郎長茂は知らなかったと云いながら、立ち上がって出て行ってしまいました。それからは、定任は推薦を取り消しましたとさ。
この長茂〔本名は資茂〕は、鎮守府将軍〔余五(十五男)〕平
維茂〔平貞盛の弟です(維茂は貞盛の弟繁盛の子)〕の男、出羽城介繁成の七代目の子孫です。平維茂の勇敢さは先祖に恥じないほどであり、当時の人は皆その力に恐れ入って、将軍に任命される以前から、強いて将軍と呼んでいました。それなのに武士なので武力を本業をしてはいますが、毎日法華經を八巻づつ摺り読みして、年に六十巻〔仏教の奥深い教義玄義法華文句、瞑想法の摩訶止観〕一部を読んでいました。又、恵心僧都源信にお会いして、極楽浄土への往生について語り合いました。繁成は、生まれて直ぐに行方不明となり、悲観にくれながらも余念を経過したある日、夢のお告げによって捜し求めたところ、狐塚でこの子を発見して家へ連れ帰りました。その狐が老人に変化して、突然尋ねてきて刀と挿し櫛を子供に与えて云いました。私老人が人里離れた所で育てていれば、日本を征服するような英雄になったでしょうが、人里へ降りた今では、その位につく事は無いでしょうと云ったそうな。この子供が繁成なのです。城四郎長茂はその子孫を継いで、刀は今でも持っているそうです。

文治四年(1188)九月小廿一日甲寅。岡崎四郎義實。依罪科。可勤仕鶴岳南御堂等宿直之由含命。數日惱丹苻。而義實郎從。於筥根山麓。搦進山賊主〔字王藤次〕之間。今日所蒙免許也。

読下し                     おかざきのしろうよしざね ざいか  よっ    つるがおか みなみみどうら  とのい  きんじすべ   のよし
文治四年(1188)九月小廿一日甲寅。岡崎四郎義實、罪科に依て@、鶴岳、南御堂等の宿直を勤仕可き之由、

めい  ふく   すうじつたんぷ  なやま
命を含み、數日丹苻を惱す。

しか    よしざね  ろうじゅう はこねさんろく  をい    さんぞく  ぬし 〔あざ  おうとうじ〕     から  しん    のかん  きょう めんきょ  こうむ ところなり
而るに義實が郎從、筥根山麓に於て、山賊の主〔字を王藤次〕を搦め進ずる之間、今日免許を蒙る所也。

参考@罪科に依っては、先月の二十三日に根拠もなしに波多野五郎義景の領地を横取りしようとして御前対決で敗訴した。

現代語文治四年(1188)九月小二十一日甲寅。岡崎四郎義実は、先月の敗訴の罰として、鶴岡八幡宮と南御堂勝長寿院の夜間警備奉仕をするように、命令を受けてたのが、重荷になって気に病んでいました。そしたら岡崎四郎義実の家来が箱根山中で山賊の親分〔呼び名を王藤次と言う〕をふんづかまえて突き出したので、今日、免除を頂いたところです。

文治四年(1188)九月小廿二日乙卯。信濃國伴野庄乃貢事。御闕怠毎度依尋下。向後於有此儀者。殊可有其沙汰之由。被仰地頭小笠原次郎之間。令弁償之。仍被仰遣其趣於師中納言許云々。
 信州伴野御庄御年貢。令沙汰進之由。地頭長C所令申候也。恐々謹言。
     九月廿二日                    頼朝
 進上  師中納言殿
 追申
  何御倉に可被檢納候とも。被定下候なハ。毎度以書状。不可申上候。只地頭可令下知候者也。
  重恐々謹言。

読下し                     しなののくにともののしょう のうぐ  こと   ごけったい まいどたず  くだ    よっ     こうご   をい  かく  ぎ あ   ば
文治四年(1188)九月小廿二日乙卯。信濃國伴野庄@の乃貢の事、御闕怠毎度尋ね下すに依て、向後に於て此の儀有ら者、

こと   そ    さた あ   べ   のよし   ぢとう おがさわらのじろう  おお  らる  のかん  これ  べんしょうせし
殊に其の沙汰有る可し之由、地頭小笠原次郎に仰せ被る之間、之を弁償令む。

よっ  そ おもむきを そちのちうなごん もと  おお  つか  さる    うんぬん
仍て其の趣於 師中納言の許へ仰せ遣は被ると云々。

  しんしゅう ともののおんしょう ごねんぐ    さた しん  せし  のよし  ぢとう ながきよ  もうせし そうら ところなり  きょうきょうきんげん
 信州 伴野御庄が御年貢、沙汰進じ令む之由、地頭長Cに申令む候う所也。恐々謹言。

           くがつにじうににち                                         よりとも
     九月廿二日                    頼朝

  しんじょう   そちのちうなごんどの
 進上  師中納言殿

  ついしん
 追申

    いづ    みくら   けんのうさる  べ  そうろう    さだ くだされそうろうなば  まいど しょじょう  もっ    もう   あ    べからずそうろう
  何れの御倉に檢納被る可く候とも、定め下被候なハ、毎度書状を以て、申し上ぐる不可候。

     ただぢとう   げち せし  べ そうろうものなり
  只地頭に下知令む可く候者也。

    かさ   きょうきょうきんげん
  重ねて恐々謹言。

参考@伴野庄は、旧下伊那郡神稲村(くましろむら)の小字。神稲村と河野村が合併して長野県下伊那郡豊丘村神稲伴野原。

現代語文治四年(1188)九月小二十二日乙卯。信濃国(長野県)伴野庄の年貢については、未納だと何度も言って来られるので、今後この内容について同様の問題が起こるならば、特に厳しく戒める事になるぞと、小笠原次郎長清に命じましたので、これを納付しました。そこでこの事を師中納言吉田経房に伝えさせましたとさ。

 信州伴野庄の年貢については、命令に従い納付しましたと、地頭の小笠原次郎長清が申しております。恐れながら申し上げます。
    九月二十二日                        頼朝
   申し上げます 師中納言殿

  追伸
   何処の御蔵に検査を受けて納めたらよいのか、お知らせくだされば、毎回文書は出しませんが、地頭に命令しておく事にします。
  重ねて恐れもうしあげます。

十月へ

吾妻鏡入門第八巻

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