吾妻鏡入門第八巻

文治四年(1188)戊申十二月大

文治四年(1188)十二月大六日丁夘。式部大夫親能飛脚自京都參着。去月廿五日於東大寺郭内。寺僧与武家使鬪乱。相互傷死被疵者數十人也。今日廿九日。在京士卒欲令發向南都之處。爲 朝大事。可加禁制之旨。被仰右武衛并親能之間。暫留之。則應仰。留武士發向畢之由。所申上師殿也云々。是依殺害高太入道事。可尋沙汰之由。二品下知給之間。親能遣使者於南都。欲尋之處。不相待其成敗。忽此狼藉出來云々。

読下し                     しきぶのたいふちかよし ひきゃくきょうとよ   さんちゃく
文治四年(1188)十二月大六日丁夘。式部大夫親能が飛脚京都自り參着す。

さんぬ つきにじうごにち とうだいじかくない  をい    じそう と ぶけ  つかい らんとう     そうご  しょうしきずさる  ものすうじうにんなり
去る月廿五日 東大寺郭内に於て、寺僧与武家の使 鬪乱し@、相互に傷死疵被る者數十人也。

きょうにじうくにち   ざいきょう  しぞつ  なんと  はっこうせし      ほっ    のところ  ちょう  だいじ  な    きんせい  くは    べ   のむね
今日廿九日、在京の士卒を南都へ發向令めんと欲する之處、朝の大事と爲し、禁制を加へる可き之旨、

うぶえい なら    ちかよし  おお  らる  のかん  しばら これ  とど
右武衛并びに親能に仰せ被る之間、暫く之を留む。

すなは おお   おう    ぶし   はっこう  とど をはんぬのよし そちどの もう   あ    ところなり  うんぬん
則ち仰せに應じ、武士の發向を留め畢之由、師殿に申し上げる所也と云々。

これ  こうたにゅうどうせつがい  こと  よっ    たず   さた すべ  のよし  にほん げち   たま  のかん
是、高太入道殺害の事に依て、尋ね沙汰可き之由、二品下知し給ふ之間、

ちかよしししゃを なんと  つか      たず      ほっ  のところ  そ   せいばい あいまたず  たちま こ  ろうぜきいできた   うんぬん
親能使者於南都に遣はし、尋ねんと欲す之處、其の成敗を相待不、忽ち此の狼藉出來ると云々。

参考@寺僧与武家の使鬪乱しは、僧兵側に自治権意識が強いので、武家権力の介入を阻止したものと思われる。

現代語文治四年(1188)十二月大六日丁卯。式部大夫中原親能の伝令が京都から着きました。
先月の二十五日、東大寺の境内で寺の武者僧(僧兵)と武家の使いが乱闘を起こし、双方の死傷者が数十人もでました。
今日、二十九日に京都に駐屯している武士達を奈良へ派遣しようと思いましたが、(
武士が奈良へ攻め込むという)国にとっても一大事になってしまうので、やめさせるように一条能保及び式部大夫中原親能に命令を出したので、とりあえず中止しました。直ぐに、要望の通りに武士の派遣を止めた事を、師中納言吉田経房に報告をしましたとさ。
この事件の発端は、高太入道を殺害した事情を調べるように、頼朝様が命令されたので、式部大夫中原親能が使いを奈良へ派遣して調べようとしていたら、その調査を出来ないうちに、この事件が起きてしまいましたとさ。

文治四年(1188)十二月大十一日壬申。豫州追討事。被下 宣旨之上。相副 院廳御下文。官史生守康帶之。赴奥州。今日參着。召入于八田右衛門尉宅。賜飡祿。亦彼御下文被披之。其詞云。
 院廳下 陸奥出羽兩國司等
  可早任兩度 宣旨状。令前民部少輔藤原基成并秀衡法師子息泰衡等不日召進源義經事
 右。件義經。可令彼基成泰衡等召進之由。去春被下 宣旨并院宣之處。泰衡等不敍用 勅命。無驚 詔使。猥廻違越之奸謀。只致披陳於詐僞。就中。義經等猶結群凶之餘燼。慥住陸奥之邊境云々。露顯之趣。風聞已成。基成泰衡等。身爲王民。地居帝土。何強背鳳詔。盍可与蜂賊哉。結搆若爲實者。縡既絶篇籍歟。同意之科。責而有餘。慥任兩度 宣旨。宜令召進彼義經身。若猶容隱不遵苻旨者。早遣官軍。可征伐之状。所仰如件。兩國司等宜承知勿違失。故下云々。
    文治四年十一月日          主典代織部正大江朝臣
 別當左大臣藤原〔經宗〕          判官代河内守藤原朝臣〔C長〕
 大納言兼左近衛大將藤原朝臣〔實房〕    右衛門權佐兼和泉守藤原朝臣〔長房〕
 權大納言藤原朝臣〔宗家〕         左近衛權少將藤原朝臣〔公國〕
 權大納言兼右近衛大將藤原朝臣〔兼雅〕   少納言兼侍從藤原朝臣
 權大納言藤原朝臣〔忠親〕         勘解由次官平朝臣〔宗隆〕
 權大納言兼陸奥出羽按察使藤原朝臣〔朝方〕 權右中弁藤原朝臣〔親經〕
 權大納言藤原朝臣〔實家〕         右少弁兼左衛門權佐藤原朝臣〔宗經〕
 權中納言藤原朝臣〔實宗〕         左少弁平朝臣〔棟範〕
 權中納言兼右衛門督藤原朝臣〔頼實〕    右中弁藤原朝臣〔親雅〕
 權中納言藤原朝臣〔定能〕
 權中納言源朝臣〔通親〕
 權中納言兼大宰權師藤原朝臣〔經房〕
 權中納言藤原朝臣〔泰通〕
 參議藤原朝臣〔親信〕
 參議左大弁兼丹波權守平朝臣〔親宗〕
 參議左兵衛督藤原朝臣〔隆房〕
 右京大夫兼因幡權守藤原朝臣〔季能〕
 宮内卿藤原朝臣〔季經〕
 内藏頭藤原朝臣〔經家〕
 右近權中將兼播磨守藤原朝臣〔實明〕
 修理大夫藤原朝臣〔定輔〕
 大藏卿兼備中權守藤原朝臣〔宗頼〕
 造東大寺長官左中弁藤原朝臣〔定長〕
 修理權大夫藤原朝臣〔頼輔〕
 丹後守藤原朝臣〔長經〕

読下し                       よしゅうついとう  こと  せんじ  くださる  のうえ  いんのちょう おんくだしぶみ あいそ   かん  ししょうもりかねこれ お
文治四年(1188)十二月大十一日壬申。豫州追討の事、宣旨を下被る之上、院廳の御下文を相副へ、官の史生守康之を帶び、

おうしゅう おもむ   きょうさんちゃく    はったのうえもんのじょうたくにめしい   ざんろく  たま     また   か  おんくだしぶみこれ ひらかる
奥州へ赴き、今日參着す。八田右衛門尉宅于召入れ、飡祿を賜はる。亦、彼の御下文之を披被る。

そ  ことば  い
其の詞に云はく。

  いんのちょうくだ  むつ でわ りょうこくし ら
 院廳下す 陸奥出羽兩國司等

    はやばや  りょうど  せんじじょう  まか    さきのみんぶしょうゆうふじわらのもとなり なら   ひでひらほっそ  しそくやすひらら  し   ふじつ
  早〃と兩度の宣旨状に任せ、 前民部少輔藤原基成 并びに秀衡法師が子息泰衡等を令て不日に

 みなもとのよしつね  めししん  べ   こと
 源義經 を召進ず可き事

  みぎ  くだん よしつね  か   もとなり  やすひらら  し   めししん  べ   のよし  さんぬ はる せんじなら    いんぜん  くださる  のところ
 右、件の義經、彼の基成、泰衡等を令て召進ず可き之由、去る春の宣旨并びに院宣を下被る之處、

  やすひららちょくめい じょようせず
 泰衡等勅命を敍用不。

  ちょくし  おどろ な     みだ   いえつの かんぼう   めぐ      ただ ひちんを  さぎ いた
 詔使に驚き無く、猥りに違越之奸謀を廻らし、只披陳於詐僞致す。

  なかんづく  よしつねら なおぐんきょうのよじん  むす   たしか  むつのへんきょう  す    うんぬん  ろけんのおもむき ふうぶんすで  な
 就中に、義經等猶群凶之餘燼を結び、慥に陸奥之邊境に住むと云々。露顯之趣、風聞已に成る。

  もとなり  やすひらら   み   おうみんたり  ち   ていど   い     なん  あなが   ほうちょく そむ    なん  ほうぞく  よ   べ   や
 基成、泰衡等、身は王民爲。地は帝土に居る。何ぞ強ちに鳳詔に背き。盍ぞ蜂賊に与す可き哉。

  けっこう も  じつたらば   ことすで  へんせき  た    か   どういの とが   せ   て あま  あ
 結搆若し實爲者、縡既に篇籍に絶えん歟。同意之科。責め而餘り有り。

  たしか りょうど  せんじ  まか     よろ     か  よしつね  み   めししんぜし
 慥に兩度の宣旨に任せ、宜しく彼の義經の身を召進令め。

  も   なおよういん   ふし  じゅんぜざれば  はや  かんぐん  つか     せいばつすべ のじょう  おお  ところくだん ごと
 若し猶容隱し苻旨に遵不者、早く官軍を遣はし、征伐可き之状、仰せる所件の如し。

  りょうこくし ら  よろ    しょうち  いしつなか    ゆえ  くだ    うんぬん
 兩國司等宜しく承知し違失勿れ。故に下すと云々。

        ぶんじよねんじういちがつ にち                    しゅてんだいおりべのしょうおおえのあそん
    文治四年十一月日          主典代織部正大江朝臣

  べっとうさだいじんふじわら 〔つねむね〕                    ほうがんだいかわちのかみふじわらのあそん  〔きよなが〕
 別當左大臣藤原〔經宗〕          判官代河内守藤原朝臣〔C長〕

  だいなごんけんさこのえのたいしょうふじわらのあそん〔さねふさ〕      うえもんのごんのすけけんいずみのかみふじわらのあそん 〔ながふさ〕
 大納言兼左近衛大將藤原朝臣〔實房〕    右衛門權佐兼和泉守藤原朝臣〔長房〕

  ごんのだいなごんふじわらのあそん〔むねいえ〕                 さこのえのしょうしょうふじわらのあそん 〔きんくに〕
 權大納言藤原朝臣〔宗家〕         左近衛權少將藤原朝臣〔公國〕

  ごんのだいなごんけんうこのえのたいしょうふじわらのあそん〔かねまさ〕   しょうなごんけんじじゅうふじわらのあそん
 權大納言兼右近衛大將藤原朝臣〔兼雅〕   少納言兼侍從藤原朝臣

  ごんのだいなごんふじわらのあそん〔ただちか〕                  かげゆのすけたいらのあそん 〔むねたか〕
 權大納言藤原朝臣〔忠親〕         勘解由次官平朝臣〔宗隆〕

  ごんのだいなごんけんむつではあぜちふじわらのあそん 〔ともかた〕     ごんのうちうべんふじわらのあそん 〔ちかつね〕
 權大納言兼陸奥出羽按察使藤原朝臣〔朝方〕 權右中弁藤原朝臣〔親經〕

  ごんのだいなごんふじわらのあそん〔さねいえ〕                 うしょうべんけんさえもんのごんのすけふじわらのあそん 〔むねつね〕
 權大納言藤原朝臣〔實家〕         右少弁兼左衛門權佐藤原朝臣〔宗經〕

  ごんのちうなごんふじわらのあそん〔さねむね〕                  さしょうべんたいらのあそん  〔むねのり〕
 權中納言藤原朝臣〔實宗〕         左少弁平朝臣〔棟範〕

  ごんのちうなごんけんうえもんのかみふじわらのあそん 〔よりざね〕      うちうべんふじわらのあそん 〔ちかまさ〕
 權中納言兼右衛門督藤原朝臣〔頼實〕    右中弁藤原朝臣〔親雅〕

  ごんのちうなごんふじわらのあそん 〔さだよし〕
 權中納言藤原朝臣〔定能〕

  ごんのちうなごんみなもとのあそん〔みちちか〕
 權中納言源朝臣〔通親〕

  ごんのちうなごんけんだざいごんのそつふじわらのあそん〔つねふさ〕
 權中納言兼大宰權師藤原朝臣〔經房〕

  ごんのちうなごんふじわらのあそん〔やすみち〕
 權中納言藤原朝臣〔泰通〕

  さんぎふじわらのあそん 〔ちかのぶ〕
 參議藤原朝臣〔親信〕

  さんぎさだいべんけんたんばのごんのかみたいらのあそん〔ちかむね〕
 參議左大弁兼丹波權守平朝臣〔親宗〕

  さんぎさひょうえのかみふじわらのあそん 〔たかふさ〕
 參議左兵衛督藤原朝臣〔隆房〕

  うきょうたいふけんいなばのごんのかみふじわらのあそん〔すえよし〕
 右京大夫兼因幡權守藤原朝臣〔季能〕

  くないきょうふじわらのあそん 〔すえつね〕
 宮内卿藤原朝臣〔季經〕

  くらのかみふじわらのあそん 〔つねいえ〕
 内藏頭藤原朝臣〔經家〕

  うこんごんのちうじょうけんはりまのかみふじわらのあそん〔さねすけ〕
 右近權中將兼播磨守藤原朝臣〔實明〕

  しゅりたいふふじわらのあそん 〔さだすけ〕
 修理大夫藤原朝臣〔定輔〕

  おおくらのきょうけんびっちゅうのかみふじわらのあそん〔むねより〕
 大藏卿兼備中權守藤原朝臣〔宗頼〕

  ぞうとうだいじのかみさちうべんふじわらのあそん 〔さだなが〕
 造東大寺長官左中弁藤原朝臣〔定長〕

  しゅりごんのたいふふじわらのあそん 〔よりすけ〕
 修理權大夫藤原朝臣〔頼輔〕

  たんごのかみふじわらのあそん〔ながつね〕
 丹後守藤原朝臣〔長經〕

現代語文治四年(1188)十二月大十一日壬申。義経追討について、京都朝廷から正式な命令書を出しましたばかりか、後白河院からの命令書も一緒に添えて、朝廷の下級役人の史生の守康がこれを持って奥州平泉へ行く途中で、今日鎌倉に到着しました。八田右衛門尉知家の家へ招いて、食事を与えました。また、その院からの命令書を開きました。そこに書かれていたのは、

 後白河院の役所から命令をする 陸奥と出羽の国司へ
 さっさと二度の朝廷からの命令書のとおりに、前
民部少輔藤原基成と藤原秀衡の子供の泰衡とで、日をおかずに源義経を捕えて突き出す事
 右は、問題の義経を、藤原基成と泰衡とで捕えて突き出すように、春頃に京都朝廷の命令書と後白河院の庁からの命令書を出しているのにもかかわらず、泰衡は命令を無視している。京都朝廷からの使者に恐れおののくわけでもなく、勝手に身分を越えた策略をもって、弁明すらいい加減にしている。特に中でも、義経達は未だに反抗の意思を確認しあって、確かに辺境の地陸奥に住んでいるとのことである。それが、すでにばれているとの噂がたっている。基成、泰衡よ、貴方達は天皇の支配する民であり、その地は天皇が支配している国内である。なぜに、愚かにも天皇の命令を聞かないで、反逆者たちに見方をするのだ。悪巧みが事実ならば、それは既に、前代未聞の出来事だ。義経に同意している罪は、責められても仕方の無いことだ。しっかりと二度の命令書の通りに、義経を捕えて突き出すように。もし、なおも隠し通して、官の発行した命令に従わないのならば、早速官軍を派遣して征伐してしまうぞとの手紙は、院の仰せはこの通りである。陸奥出羽の双方の国司は、よくこれを承知して忘れる事の無いように。命令する。
  文治四年十一月 日                 主典代織部正大江朝臣
 別当左大臣藤原〔経宗〕          判官代河内守藤原朝臣〔清長〕
 大納言兼左近衛大将藤原朝臣〔実房〕    右衛門権佐兼和泉守藤原朝臣〔長房〕
 権大納言藤原朝臣〔宗家〕         左近衛権少将藤原朝臣〔公国〕
 権大納言兼右近衛大将藤原朝臣〔兼雅〕   少納言兼侍従藤原朝臣
 権大納言藤原朝臣〔忠親〕         勘解由次官平朝臣〔宗隆〕
 権大納言兼陸奥出羽按察使藤原朝臣〔朝方〕 権右中弁藤原朝臣〔親経〕
 権大納言藤原朝臣〔実家〕         右少弁兼左衛門権佐藤原朝臣〔宗経〕
 権中納言藤原朝臣〔実宗〕            左少弁平朝臣〔棟範〕
 権中納言兼右衛門督藤原朝臣〔頼実〕    右中弁藤原朝臣〔親雅〕
 権中納言藤原朝臣〔定能〕
 権中納言源朝臣〔通親〕
 権中納言兼大宰権師藤原朝臣〔経房〕
 権中納言藤原朝臣〔泰通〕
 参議藤原朝臣〔親信〕
 参議左大弁兼丹波権守平朝臣〔親宗〕
 参議左兵衛督藤原朝臣〔隆房〕
 右京大夫兼因幡権守藤原朝臣〔季能〕
 宮内卿藤原朝臣〔季経〕
 内蔵頭藤原朝臣〔経家〕
 右近権中将兼播磨守藤原朝臣〔実明〕
 修理大夫藤原朝臣〔定輔〕

 大蔵卿兼備中権守藤原朝臣〔宗頼〕
 造東大寺長官左中弁藤原朝臣〔定長〕
 修理権大夫藤原朝臣〔頼輔〕
 丹後守藤原朝臣〔長経〕

参考この名簿は、職の順位に書かれている。左側が上段で「別當左大臣藤原〔經宗〕」が筆頭で「丹後守藤原朝臣〔長經〕」まで順で「下段」にうつり、判官代河内守藤原朝臣〔C長〕から右中弁藤原朝臣〔親雅〕の順となり、日付の下の主典代織部正大江朝臣が実際に書いた最下級の役人である。

文治四年(1188)十二月大十二日癸酉。因幡前司廣元使者自京都到來。申云。今月三日。熊野參詣所進發也。而其精進中。蒙御感仰者。閑院并六條殿修造已下。於事勤節。殊神妙云々。凡歡喜之涙難抑。此仰。偏陰徳之所致歟云々。次廣元知行周防國嶋末庄事。女房三條局捧折紙。所望之間。爲師中納言之奉行。被尋知行由緒之間。注子細。進状畢。定直被仰下歟。爲被知食廣元言上之樣。進彼状案文之由云々。
 周防國嶋末庄地主職事
 右件庄者。彼國大嶋之最中也。大嶋者。平氏謀反之時。新中納言〔知盛〕搆城居住。及旬月之間。嶋人皆以同意。自爾以降。爲二品家御下知。件嶋被置地主職之許也。毎事守庄務之例。更無新儀之妨。被尋搜之處。定無其隱歟。但於別御定者。不及左右候。早随重仰。可進退候。

読下し                      いなばのぜんじひろもと  ししゃ きょうと よ   とうらい     もう     い
文治四年(1188)十二月大十二日癸酉。因幡前司廣元が使者京都自り到來し、申して云はく。

こんげつみっか  くまのさんけい  しんぱつ   ところなり  しか    そ  しょうじんちう    ぎょかん  おお   こうむ もの  かんいんなら  ろくじょうでんしゅうぞう いげ
今月三日、熊野參詣に進發する所也。而るに其の精進中に、御感の仰せを蒙る者、閑院并びに六條殿修造已下、

こと  をい  せつ  つと    こと  しんみょう うんぬん  およ  かんきのなみだおさ  がた    かく  おお   ひとへ いんとくのいた  ところか  うんぬん
事に於て節を勤む。殊に神妙と云々。凡そ歡喜之涙抑へ難し。此の仰せ、偏に陰徳之致す所歟と云々。

つぎ  ひろもと  ちぎょう  すおうのくに しままつのしょう こと  にょぼう  さんじょうのつぼね おりがみ  ささ   しょもうのかん  そちのちうなごんのぶぎょう  な
次に廣元が知行の 周防國 嶋末庄 の事。女房  三條局 折紙を捧げ、所望之間、師中納言之奉行と爲し、

ちぎょう  ゆいしょ  たず  らる  のかん  しさい  ちう   しんじょう をはんぬ  さだ    じき  おお  くだ さる  か
知行の由緒を尋ね被る之間、子細を注し、進状し畢。 定めて直に仰せ下被る歟。

ひろもと ごんじょうのさま  しろ   め され  ため  か  じょう  あんぶん  すす   のよし  うんぬん
廣元、言上之樣を知し食被ん爲、彼の状の案文を進める之由と云々。

  すおうのくに しままつのしょう ぢぬししき  こと
 周防國 嶋末庄@の地主職の事

  みぎ  くだん しょうは  か  くにおおしまの まなかなり   おおしまは   へいしむほんのとき  しんちうなごん 〔とももり〕  しろ  かま  きょじゅう   しゅんげつ およ  のかん
 右、件の庄者、彼の國大嶋之最中也。大嶋者、平氏謀反之時、新中納言〔知盛〕城を搆へ居住し、旬月に及ぶ之間、

  しまびとみなもっ  どうい    これよ   いこう   にほんけ  ごげち   ため  くだん しまぢぬししき  おかれるのはか  なり
 嶋人皆以て同意す。爾自り以降、二品家御下知の爲、件の嶋地主職を置被之許り也。

  まいじ しょうむのれい  まも    さら  しんぎのさまた  な     たず  さがさる  のところ  さだ    そ   かく  な   か
 毎事庄務之例を守り、更に新儀之妨げ無し。尋ね搜被る之處、定めて其の隱れ無き歟。

  ただ  べつ  ごじょう  をい  は    そう   およばずそうろう  はや  かさ    おお    したが   しんたいすべ そうろう
 但し別の御定に於て者、左右に及不候。 早く重ねて仰せに随い、進退可く候。

参考@島末庄は、山口県大島郡周防大島町西方。旧東和町。

現代語文治四年(1188)十二月大十二日癸酉。因幡前司(大江)広元の使いが、京都から到着して申し上げました。今月の三日に、法皇が熊野詣に出かけようとしました。しかし、その禊の期間中にお気に入りの言葉をかけられました。院の御所閑院と六条殿の修理などに良く勤めてくれたので、殊勝であるとの事でした。このようなお言葉を戴き喜びの涙を押えきれません。このお言葉も、ひたすら影に働いた力量によるものでしょうかだとさ。次ぎの話題は、大江広元の領地の周防国島末庄について、院の庁の官女三条局が、手紙で欲しいと訴えたので、師中納言吉田経房が院の命令で、所領になった経緯を質問してきたので、事情を書き出した由緒書きを差し出しました。きっと頼朝様に直接話があるでしょうから、大江広元が言上した内容をお知らせするために、その写しをお送りいたしましただとさ。

 周防国島末庄の現地荘園管理者の地主職について、
 右の荘園については、周防の国の大島の真ん中にあります。大島は、平家合戦のとき、新中納言平知盛が、城郭を構えで居住して、数ヶ月以上居たので、島中の武士が皆従ってしまいました。それ以来、頼朝様の命として土地の所有者としての地主の職だけを認めていました。何事も、本来の荘園の義務である年貢の納付を守って、先例を崩すような横取りはしませんでした。調べていただければ、ちゃんと分かるはずです。但し、新たに院から注文があれば、どうこう言わずに、早々に仰せに従いますので、ご命令ください。

文治四年(1188)十二月大十六日丁丑。所同意豫州之山門悪僧俊章事。爲被糺断之。早可召進之旨。被仰遣衆徒之中。彼御書善信書之。其詞云。
 依一兩之奸謀。爭搆諸徳之造意哉。自今以後。被擇退梟悪之衆者。定令削良人列悪之名給歟云々。

読下し                       よしゅう  どうい    ところのさんもんあくそうしゅんしょう こと  これ きゅうだんさる ため  はや  めししん  べ   のむね
文治四年(1188)十二月大十六日丁丑。豫州に同意する所之山門悪僧俊章の事、之を糺断被る爲、早く召進ず可き之旨、

しゅとの なか  おお  つか  さる    か  おんふみ ぜんしんこれ  か     そ  ことば  い
衆徒之中へ仰せ遣は被る。彼の御書善信之を書く。其の詞に云はく。

  いちりょうのかんぼう  よっ   いかで  しょとくの ぞうい  かま  や
 一兩之奸謀に依て、爭か諸徳之造意を搆う哉。

  いま よ   いご   きょうあくのしゅう  えら  の   られ  ば   さだ   りょうにんれつあくのな  けず  せし  たま    か  うんぬん
 今自り以後、梟悪之衆を擇び退け被れ者、定めて良人列悪之名を削ら令め給はん歟と云々。

現代語文治四年(1188)十二月大十六日丁丑。義経に味方をしている比叡山の僧兵俊章については、取調べをしたいので早く突き出すように、僧兵達に命令を出されました。その文書は大夫属入道三善善信が書きました。その内容は、

 一人か二人の悪巧みによって、なにゆえ皆が反発の心を持って構えようか。今から以後は、悪い連中を退去させないと、きっと良い僧達も、悪名を拭う事は出来ないぞ。だとさ。

文治四年(1188)十二月大十七日戊寅。式部大夫親能男一法師冠者能直。任左近將監之由。參賀營中。是無双寵仁也。依御内擧。去十月十四日雖拝任。此間病痾相侵。住相摸國大友郷。今日始出仕云々。則召御前。

読下し                       しきぶのたいふちかよし  だんいっぽうしかじゃよしなお  さこんしょうげん にん  のよし  えいちう  まい  が
文治四年(1188)十二月大十七日戊寅。式部大夫親能が男一法師冠者能直@、左近將監に任ず之由、營中に參り賀す。

これ  むそう  ちょうじんなり  ごないきょ  よっ   さんぬ じうがつじうよっか はいにん   いへど   かく  かんびょうああいおか   さがみのくにおおともごう  じう
是、無双の寵仁也。御内擧に依て、去る十月十四日拝任すと雖も、此の間病痾相侵し、相摸國大友郷Aに住す。

きょう はじ    しゅっし   うんぬん  すなは  ごぜん  め
今日始めて出仕すと云々。則ち御前に召す。

参考@能直は、元は古庄で、大友郷を名字とし大友能直。中原親能の猶子。子孫に大友宗麟。父は近藤太古庄能成。2巻養和2年(1182)5月25日参照。
参考A大友郷は、神奈川県小田原市西大友、東大友。

現代語文治四年(1188)十二月大十七日戊寅。式部大夫中原親能の猶子の一法師冠者能直が、左近将監に任命されたと、御所へお礼を言いに来ました。
この人は、比べる相手の無いほど、(頼朝様に)可愛がられている人なのです。頼朝様の推薦で、前の十月十四日に任命を受けましたが、それから病気になって相模国大友郷に臥せっていました。今日初めて御所へ出勤したんだそうです。直ぐに御前に呼ばれました。

文治四年(1188)十二月大十八日己夘。二品令參走湯山給。南山住侶等臈次事。今度治定之云々。

読下し                       にほん そうとうさん  まい  せし  たま    なんざん じゅうりょら  らっし   こと  このたびこれ  ちじょう    うんぬん
文治四年(1188)十二月大十八日己夘。二品走湯山へ參ら令め給ふ。南山@の住侶等の臈次Aの事、今度之を治定すと云々。

参考@南山は、高野山金剛峰寺。
参考A
臈次は、順序。次第。出家後の年数を指すので。

現代語文治四年(1188)十二月大十八日己卯。頼朝様は、伊豆山走湯権現へお参りに出かけました。高野山金剛峰寺の坊さん達の序列について、今回それを決められましたとさ。

文治四年(1188)十二月大廿四日乙酉。權右中弁親經奉書。并師中納言之書状等參着。是造太神宮役夫工米事。關東御分國々所濟。早可被致沙汰之由也。但其内 勅免所處相交云々。

読下し                       ごんのうちうべんちかつね ほうしょ  なら  そちのちうなごんのしょじょうら さんちゃく
文治四年(1188)十二月大廿四日乙酉。權右中弁親經が奉書、并びに師中納言之書状等參着す。

これ  ぞうだいじんぐう やくぶくまい  こと  かんとうごぶん  くにぐに しょさい  はや   さた いたさる  べ   のよしなり
是、造太神宮役夫工米@の事、關東御分の國々の所濟、早く沙汰致被る可き之由也。

ただ  そ  うち  ちょくめん しょしょあいまじは  うんぬん
但し其の内、勅免の所處相交ると云々。

参考@役夫工は、伊勢神宮の式年遷宮の費用を一国平均役といい、荘園公領区別なく課税する。

現代語文治四年(1188)十二月大二十四日乙酉。権右中弁藤原親経が書いた院からの手紙と、師中納言吉田経房の手紙が届きました。内容は、伊勢神宮の式年遷宮の費用について、頼朝様の支配する関東の国々の納付を、早く命令してくださいとの事でした。但し、その中で免除されているところも混ざっているからとの事でした。

文治四年(1188)十二月大卅日辛夘。親能申送云。 六條殿造營之間。所課屋々事。致丁寧勤之由。殊所蒙御感之仰也。爲公私眉目歟之旨。二品太令喜悦給云々。

読下し                     ちかよしもう  おく    い      ろくじょうでんぞうえいのかん  しょか  おくおく  こと
文治四年(1188)十二月大卅日辛夘。親能申し送りて云はく。六條殿造營之間、所課の屋々の事、

ていねい つとめ いた  のよし  こと  ぎょかんのおお    こうむ ところなり  こうし  びもくたるかのむね   にほんはなは きえつせし  たま    うんぬん
丁寧の勤を致す之由、殊に御感之仰せを蒙る所也。公私の眉目爲歟之旨、二品太だ喜悦令め給ふと云々。

現代語文治四年(1188)十二月大三十日辛卯。式部大夫中原親能が言ってきました。六条殿の修理の、割り当てられた建物については、丁寧に勤めを済ませましたので、特にお褒めの言葉を戴きました。これは、関東政権にとっても、じかに働いた者達にとっても名誉な事だと、頼朝様は大変お喜びになられましたとさ。

吾妻鏡入門第八巻

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