吾妻鏡入門第九巻   

文治五年(1189)己酉正月小

文治五年(1189)正月小一日壬辰。二品御參鶴岡八幡宮。

読下し                    にほん つるがおかはちまんぐう ぎょさん
文治五年(1189)正月小一日壬辰。二品、鶴岡八幡宮へ御參。

現代語文治五年(1189)正月小一日壬辰。二位の頼朝様は、鶴岡八幡宮へ初詣に参りました。

文治五年(1189)正月小三日甲午。垸飯如例。盃酒數巡之後。今日爲良辰之故。可有御弓始之由被仰出。先召下河邊庄司行平。々々取弓箭。進寄弓塲。無左右蹲居于前方。刷衣文。此間。堪能者一人可立逢之旨有仰。修理進季長起座〔著香水干〕。蹲居于行平之後。然而行平更不進立。二品覽其氣色。亦召榛谷四郎重朝。々々起座。隔居于行平与季長之中。于時行平解紐。取直弓進立射訖之。季長不及歸着本座逐電云々。

読下し                   おうばんれい  ごと    はいしゅすうじゅんののち きょう りょうしん  な  の ゆえ
文治五年(1189)正月小三日甲午。垸飯例の如し。盃酒數巡之後。今日良辰@を爲す之故。

おんゆみはじめ あ  べ   のよし  おお  い   らる    ま  しもこうべのしょうじゆきひら  め   ゆきひらきゅうせん と     ゆんば  すす  よ
 御弓始 有る可し之由、仰せ出で被る。先ず下河邊庄司行平を召す。々々弓箭を取り、弓塲に進み寄る。

 とこう な  ぜんぽうに そんきょ    えもん かひつくろ  かく  かん  たんのう ものひとり   た   あ   べ    のむねおお  あ
左右無く前方于蹲居Aし、衣文を刷ふ。此の間、堪能の者一人、立ち逢う可し之旨仰せ有り。

しゅりのじょうすえなが ざ  た   〔こう  すいかん  き     〕 ゆきひらのうしろにそんきょ  しかれどもゆきひらさら すす  た   ず
修理進季長 座を起ち〔香の水干BCを著る〕行平之後于蹲居す。然而 行平更に進み立た不。

 にほん そ   けしき   み     また はんがやつのしろうしげとも め   しげとも ざ   た     ゆきひらとすえながのなかにかくきょ
二品其の氣色を覽て、亦 榛谷四郎重朝を召す。々々座を起ち、行平与季長之中于隔居す。

ときに ゆきひらひも  と     ゆみ  と   なお  すす  た   これ いをはんぬ すえなが もと ざ   きちゃく  およばずちくてん   うんぬん
時于行平紐を解き、弓を取り直し進み立ち之を射訖。季長本の座に歸着に不及逐電すと云々。

参考@良辰は、良いお日柄。吉日。
参考A蹲踞は、相撲の仕切り前に爪先立ちでかかとに座った形。
参考B香の水干は、香染めといい、チョウジ・テンニン科熱帯常緑樹の実で染めると、薄い黄色に染まるようである。
参考C
水干は、狩衣の変化したもので、水張りにして干した麻の服、下に袴を穿く。

現代語文治五年(1189)正月小三日甲午。正月の饗応の椀飯振舞は、何時もの通りです。何杯かお酒をお飲みになられた後で、今日はお日柄が良いので、正月明けて最初の弓を射る「弓始め式」をやろうと仰られました。
まず始めに、下河辺庄司行平を指名すると、行平は弓矢を持って、弓場に歩み寄り、静かに蹲踞して衣服を方肌脱ぎにしました。
そこで、今度は誰か自信のある者一人競ってみないかと仰られました。修理進季長が席を立って〔香の水干を着てる〕行平の後ろに蹲踞しました。しかし、行平は始めようとしません。頼朝様は、その不満な気配を読み取って、榛谷四郎重朝を指名しました。重朝は席を立って、行平と季長の間に蹲踞しました。やっと行平が紐を解いて、弓を持ち直して前へ進み出て弓を射始めました。季長は元の席に戻らずに恥ずかしくて逃げましたとさ。

文治五年(1189)正月小九日庚子。今日。若君御方弓始也。射手十人。於小御所南面。有此儀云々。
 一番 下河邊庄司行平 曽我太郎祐信
 二番 小山七郎朝光  和田三郎宗實
 三番 藤澤次郎C近  橘次公成
 四番 三浦十郎義連  海野小太郎幸氏
 五番 榛谷四郎重朝  和田小太郎義盛

読下し                    きょう   わかぎみ おんかたゆみはじめなり いてじゅうにん  こごしょ なんめん  をい    かく  ぎ あ   うんぬん
文治五年(1189)正月小九日庚子。今日。若君の御方 弓始 也。射手十人@。小御所南面に於て。此の儀有りと云々。

  いちばん しもこうべのしょうじゆきひら   そがのたろうすけのぶ
 一番 下河邊庄司行平  曽我太郎祐信

  にばん  おやまのしちろうともみつ     わだのさぶろうむねざね
 二番 小山七郎朝光   和田三郎宗實

  さんばん ふじさわのじろうきよちか     きつじきんなり
 三番 藤澤次郎C近   橘次公成

  よんばん みうらのじゅうろうよしつら     うんののこたろうゆきうじ
 四番 三浦十郎義連   海野小太郎幸氏A

  ごばん  はんがやつのしろうしげとも    わだのこたろうよしもり
 五番 榛谷四郎重朝   和田小太郎義盛

参考@十人は、二人づつ対抗戦で、先に書かれた方が勝ち。
参考A海野小太郎幸氏は、諏訪一族で木曽義仲の子清水冠者義高の付き添いで鎌倉へよこされ、義高滅亡の三巻元暦元年四月以来の出演。

現代語文治五年(1189)正月小九日庚子。今日は、若君(後の頼家数えの九歳)の弓始めの式です。射手は十人。若君用の住まいの小御所の南に面した庭でこの催しをしましたとさ。
 一番 下河辺庄司行平 対 曽我太郎祐信
 二番 小山七郎朝光  対 和田三郎宗実
 三番 藤沢次郎清近  対 橘次公成
 四番 三浦十郎義連  対 海野小太郎幸氏
 五番 榛谷四郎重朝  対 和田小太郎義盛

文治五年(1189)正月小十三日甲辰。及晩。右武衛使者〔小舎人。号荒四郎〕到着。所被送進去五日敍位除書也。二品令敍正二位給云々。

読下し                     ばん  およ     うぶえい   ししゃ  〔 ことねり    あらしろう   ごう  〕 とうちゃく
文治五年(1189)正月小十三日甲辰。晩に及び、右武衛@が使者〔小舎人。荒四郎と号す〕到着す。

さんぬ いつか  じょうい  じしょ   おく   しん  られ ところなり  にほん しょうにい  じょせし  たま    うんぬん
去る五日の敍位の除書を送り進ぜ被る所也。二品正二位に敍令め給ふと云々。

参考@右武衛は、右兵衛の唐名で、この場合一条能保の事。

現代語文治五年(1189)正月小十三日甲辰。夜になって、一条能保様の使い〔小間使いの荒四郎と言います〕が到着しました。先日の五日の位を授ける人事異動の文書を送ってこられました。従二位の頼朝様は、正二位を与えられましたとさ。

文治五年(1189)正月小十九日庚戌。若君御方結搆風流。摸大臣大饗儀。藤判官代邦通爲有識營此事。而近衛司可相交。平胡籙差樣。丸緒付樣。不分明之處。三浦介預囚人武藤小次郎資頼。〔平氏家人。監物太郎頼方弟〕彼箭事。得故實之由發言。義澄求次。伺御氣色曰。内々雖可召仰之。若君御吉事也。爲囚人爭役之哉云々。仰曰。早所厚免也。可令沙汰之者。資頼開愁眉。調進之云々。

読下し                     わかぎみのおんかた ふりゅう   むす  かま    おおど   たいきょう ぎ   も
文治五年(1189)正月小十九日庚戌。 若君御方、 風流@を結び搆へ、大臣の大饗の儀に摸す。

とうのほうがんだいくにみち  ゆうそく  な  かく  こと  いとな
 藤判官代邦通、 有識と爲し此の事を營む。

しか    このえのつかさ あいまじは べ     ひらやなぐい   さ  よう   まろを   つ   よう   ぶんめいならずのところ
而るに 近衛司A相交る可し。平胡籙Bの差し樣。丸緒の付け樣。不分明之 處。

みうらのすけ あずか めしうど むとうのこじろうすけより  〔 へいけ けにん けんもつ たろうよりかた おとうと〕  か   や   こと  こじつ   え   のよし はつげん
三浦介の預り囚人武藤小次郎資頼〔平氏家人。監物C太郎頼方の弟〕。彼の箭の事、故實を得る之由發言す。

よしずみ ついで もと    みけしき   うかが いは
義澄 次を求め、御氣色を伺い曰く。

ないない これ  め   おお  べ    いへど    わかぎみ おんきちじなり  めしうど なし  いかで これ  えき  や   うんぬん
内々 之を召し仰す可しと雖も、若君の御吉事也。囚人を爲て爭か之を役す哉と云々。

おお   いは    はや  こうめん   ところなり  これ   さた せし  べ   てへ
仰せて曰く。早く厚免する所也。之を沙汰令む可し者り。

すけより しゅうび  ひら    これ  ととの しん    うんぬん
資頼愁眉を開き、之を調へ進ずと云々。

参考@風流は、仮想の催し。ある式典などを真似る催し。
参考A
近衛司は、近衛府の官人で、お雛様の右大臣左大臣の格好らしい。
参考B胡籙は、矢を扇形(放射状)に指し背に負う道具。お雛様の右大臣左大臣の様子。
参考C丸緒は、平安期の文官の朝服の袍に飾劔(かざたち)を条帯[平緒(ひらお)]にて佩び、とあるので似たような丸帶であろう。
参考C監物は、律令制で、中務省に属し、大蔵・内藏などの出納を監督し、諸庫の鍵を管理していた職。

現代語文治五年(1189)正月小十九日庚戌。若君(後の頼家数えの九歳)の主催で、仮想の式典を催しました。それは、京都の大臣就任祝いのお食事会(大饗の儀式)を真似ているようです。大和判官代邦道が故実の物知りとしてこれを指導しました。
しかし、近衛府の武官の真似も用意させましたが、平
胡籙(ひらやなぐい)への矢の差し方や、丸緒(丸帯状の飾り)の付け方が分からなかったのです。
三浦介義澄が預かっている囚人(預かり囚人(めしうど))の武藤小次郎資頼〔平家の侍で監物太郎頼方の弟〕が、その矢の事の昔からの伝統を知っていると言いました。
三浦介義澄は、この機会に頼朝様のご機嫌を伺いながら言いました。「ひそかに彼を呼ばれたとしても、若君の縁起の良い儀式なので、囚人身分の者を、どうして役に付けさせられましょうか」なんだってさ。
頼朝様がおっしゃるには、「早速罪を許すから、それをやらしてくれ。」と言われたので、武藤小次郎資頼は、ホッと気を取り直して、それらを伝統どおりに整えてあげましたとさ。

文治五年(1189)正月小廿四日乙夘。御臺所御參鶴岡八幡宮。

読下し                      みだいどころ つるがおかはちまんぐう  おまいり
文治五年(1189)正月小廿四日乙夘。御臺所、 鶴岡八幡宮へ 御參。

現代語文治五年(1189)正月小二十四日乙卯。御台所政子様が、鶴岡八幡宮へお参りに行かれました。

文治五年(1189)正月小廿五日丙辰。若君御方勝負也。

読下し                     わかぎみのおんかた しょうぶなり
文治五年(1189)正月小廿五日丙辰。 若君 御方 勝負也。

現代語文治五年(1189)正月小二十五日丙辰。若君(後の頼家数えの九歳)が、双六?の勝負をしました。

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