吾妻鏡入門第九巻   

文治五年(1189)己酉二月大

文治五年(1189)二月大十二日甲(壬)申。右武衛使者參着。与源豫州之族。猶有所存歟之由。内々依被申之也。亦大内修造事。已及御沙汰。以治承注文。可被下關東之由。有其聞云々。

読下し                              うぶえい   ししゃ さんちゃく   げんよしゅう  くみ     のぞく  なおしょぞんあ  か のよし
文治五年(1189)二月大十二日甲(壬)申。右武衛@が使者參着す。源豫州に与する之族。猶所存有る歟之由。

ないないこれ もうさる    よつ  なり  また だいだいしゅうぞう こと  すで  おんさた  およ
内々之を申被るに依て也。亦、大内修造の事。已に御沙汰に及ぶ。

じしょう  ちうもん  もつ    かんとう  くださる  べ    のよし  そ   きこ  あ     うんぬん
治承の注文を以て、關東に下被る可し之由、其の聞へ有ると云々。

参考@右武衛は、右兵衛の唐名で、この場合一条能保の事。

現代語文治五年(1189)二月大十二日壬申。右武衛一条能保の使いが参りました。義経の味方している連中が、未だいるようじゃないかと内々に(頼朝様が)申されたからです。又、京都御所の修理については、既に京都朝廷では決めたようです。治承年間に書き出した要求書に基づいて、関東政権に命令を出すようだと噂を聞いたんだとさ。

文治五年(1189)二月大廿一日癸(辛)巳。筥根兒童等依召去夜參着。是爲勤仕來月三日鶴岡舞樂也。童形八人。増壽。筥熊。壽王。閉房。楠鶴。陀羅尼。弥勒。伊豆石丸等也。於別當坊。自今日始調樂。山城介奉行之。

読下し                             はこね   じどう ら め     よつ   さんぬ よ さんちゃく  これ  らいげつみっかつるがおか ぶがく ごんじ     ためなり
文治五年(1189)二月大廿一日癸(辛)巳。筥根の兒童@等召しに依て、去る夜參着す。是、來月三日鶴岡の舞樂を勤仕せん爲也。

どうぎょうはちにん ぞうじゅ はこくま  じゅおう  へいぼう  なんかく   だらに    みろく   いず いしまる ら なり   べっとうぼう  をい    きょう よ   ちょうがく はじ
童形八人。増壽。筥熊。壽王。閉房。楠鶴。陀羅尼。弥勒。伊豆石丸等也。別當坊に於て、今日自り調樂を始める。

やましろのすけ これ ぶぎょう
 山城介  之を奉行す。

参考@兒童は、稚児のことで神前に稚児舞を奉納する。箱根神社から呼んでいる。

現代語文治五年(1189)二月大二十一日庚巳。(頼朝様が)箱根権現の稚児達を呼びつけたので、昨夜到着しました。
それは、来月三日の鶴岡八幡宮へ奉納する舞楽を勤めさせるためです。稚児姿が八人で、増寿、箱熊、寿王、閉房、楠鶴、陀羅尼、弥勒、伊豆石丸です。八幡宮長官の住まいで、今日から音合わせのリハーサルを始めました。山城介久兼が事業担当です。

文治五年(1189)二月大廿二日甲(壬)午。被發御使〔雜色時澤〕於京師。伊豫守逐電之後。御沙汰次第。頗以寛宥之間。人猶可事凶悪。尤可及急速之御沙汰之趣。被申之云々。
 一 奥州住人藤原泰衡令容隱義顯之上。与同叛逆。無所疑歟。蒙御免欲加誅罸事。
 一 頼經卿同意義顯之臣也。可被解官追放之由先度言上畢。而雖有勅勘之号。于今在京鬱訴相貽事。
 一 按察大納言〔朝方卿〕。左少將宗長。出雲侍従朝經。出雲目代兵衛尉政綱。前兵衛尉爲孝。此輩依同意義顯之科。可被解却見任事。
 一 山僧等横兵具同意義顯事。結搆之至可有御誡之由。先日言上之間。其旨 宣下畢之趣。雖有 勅答。猶弓箭太刀刀繁昌山上之由有風聞事。
 一 依 上皇御夢想。平家縁坐流人可被召返事。如僧并時實信基等朝臣。有何事哉。被召返條可有勅定事。
 一 崇敬六條若宮。爲御所近邊。就祭祠等事。定狼藉事相交歟。殊恐存事。

読下し                            おんつかい〔ぞうしきときさわ〕を  けいじ  はつ  られ
文治五年(1189)二月大廿二日甲(壬)午。御使〔雜色時澤〕於京師へ發せ被る。

いよのかみ ちくてんののち おんさた   しだい  すこぶ もつ  かんゆうの かん
伊豫守逐電之後、御沙汰の次第、頗る以て寛宥之間。

ひとなおきょうあく こと  すべ    もつと きゅうそくのおんさた  およ  べ  のおもむき  これ  もうされ    うんぬん
人猶凶悪を事と可し。尤も急速之御沙汰に及ぶ可し之趣、之を申被ると云々。

ひとつ おうしゅうじゅうにんふじわらのやすひら よしあき よういんせし  のうえ ほんぎゃく   よどう   うたが  な  ところか
一  奥州住人藤原泰衡、 義顯を容隱令む之上、叛逆への与同、疑ひ無き所歟。

     ごめん  こうむ   ちゅうばつ くわ      ほつ    こと
  御免を蒙り、誅罸を加へんと欲する事。

ひとつ よりつねきょう  よしあき  どういのしんなり   げかん ついほうされ べ   のよし  せんど ごんじょう をはんぬ
一 頼經卿@は、義顯に同意之臣也。解官追放被る可し之由、先度言上し畢。

     しか  ちょっかんのごう あ   いへど    いまに いきょう  うつそ あいのこ  こと
  而るに勅勘之号有ると雖も、今于在京し鬱訴相貽る事。

ひとつ  あぜだいなごん 〔ともかたきょう〕  さしょうしょうむねなが いずもじじゅうともつね いずももくだいひょうえのじょうまさつな さきのひょうえのじょうためたか
一 按察大納言〔朝方卿A〕、左少將宗長B、出雲侍従朝經、出雲目代兵衛尉政綱、 前兵衛尉爲孝、

     こ やから よしあき どういのとが    よつ    げんにん げきゃくさる   べ    こと
  此の輩義顯に同意之科に依て、見任を解却被る可きの事。

ひとつ やまそうらひょうぐ  よこた  よしあき  どうい    こと  けっこうの いた    おんいさめあ  べ   のよし  せんじつごんじょうのかん そ むね  せんげ をはんぬのおもむき
一 山僧等兵具を横へC義顯に同意の事。結搆之至り、御誡有る可し之由。先日言上之間。其の旨 宣下し畢之趣。

     ちょくとう あ  いへど   なお きゅうせん  たち   かたなさんじょう はんじょうのよし ふうぶんあ こと
  勅答有ると雖も。猶、弓箭、太刀、刀山上に繁昌之由、風聞有る事。

ひとつ じょうこう  ごむそう   よつ    へいけ えんざ  るにん め  かえさるべ  こと   そうなら   ときざね  のぶもとら  あそん   ごと       なにごと  あ      や
一 上皇の御夢想に依て、平家縁坐の流人召し返被可き事。僧并びに時實、信基等の朝臣の如きは、何事か有らん哉。

     めしかえさる  じょう ちょくじょうあ べ   こと
  召返被るの條、勅定有る可き事。

ひとつ すうけい   ろくじょうわかみや ごしょ  きんぺん た    さいしら    こと  つ     さだ    ろうぜき  こと   あいまじ      か   こと   おそ  ぞん    こと
一 崇敬する六條若宮、御所の近邊爲り。祭祠等の事に就き、定めて狼藉の事、相交はらん歟。殊に恐れ存ずる事。

参考@藤原頼経は、藤原頼輔の子。従四位下。豊後守(ぶんごのかみ)、刑部卿となる。源義経としたしかったため、源頼朝により文治(ぶんじ)元年(1185)安房(あわ)に、5年伊豆(いず)に配流された。建保(けんぽ)4年12月2日死去。日本人名大辞典から
参考A藤原朝方は、1155-1201鳥羽法皇・後白河法皇二代に渡って仕えた。父は藤原北家勧修寺流庶流の藤原朝隆(権中納言)。母は「夜の大納言」と称されて権勢を誇った葉室顕隆(中納言)の娘。三条大納言・堤大納言と称された。文治二年陸奥出羽按察使に任命。文治四年権大納言に昇進。ウィキペディアから
参考B藤原宗長は、1164-1225藤原頼経の長男。蹴鞠の名手で難波流を起こす。弟の雅経は飛鳥井流。蹴鞠の二大流派。
参考C山僧等兵具を横へは、武器を製造している者が居たので、(この時点ではないが)追放するようにとの文書が、出た事がある。鎌倉遺文18巻13865号らしい)

現代語文治五年(1189)二月大二十二日壬午。(頼朝様は)使い〔雑用の時沢〕を京都へ出発させました。義経が行方をくらましてから後の、京都朝廷のやりかたは、生温すぎるので、人なんてものは悪事をしないわけが無い。何故急いで対処しないのだと、申し入れるためなんだと。

 一つは、奥州平泉の頭領藤原泰衡が、義経を匿っているので、反逆者に同意している事は疑いようも無い。朝廷の許可を得て、罰を加えに行こうと望んでいる事。

 一つは、藤原頼経卿は、義経に味方をしている役人である。役職を辞めさせて朝廷から追い出すように前に申し上げています。それなのに院からのお叱りは有ったと聞いていますが、未だに京都に居るので、納得が出来ません。

 一つ 按察大納言〔葉室朝方〕、左少将藤原宗長、出雲侍従朝経、出雲目代兵衛尉政綱、前兵衛尉為孝の連中は、義経に味方している罪として、現在の官職を解雇してください。

 一つ 比叡山の僧兵達は武器を携えて、義経に味方したことは、悪巧みを企んでいるので、叱ってくださいと先日申し上げましたが、その旨をご命令は出していただいたと聞きました。しかし、未だに弓矢や太刀、刀が比叡山に充満していると噂があります。

 一つ 後白河上皇の夢のお告げによって、平家に味方して流罪になった人達を許して京都へ呼び返すことについて、坊主や平時実、平信基なんて役人の連中は何という問題も無いので、許して呼び戻される命令を出されたらどうですか。

 一つ (源氏の)大切にしている六条若宮八幡宮は、法皇のお住まいの近所ですね。祭りの時に喧嘩が起こったなんて、お騒がせしてすいませんでした。

文治五年(1189)二月大廿五日丁(乙)酉。被遣御使〔雜色里長〕於奥州。爲令伺泰衡形勢也。

読下し                             おんし  (ぞうしきさとなが) を おうしゅう つか  され    やすひら  けいせい  うかが せし   ためなり
文治五年(1189)二月大廿五日丁(乙)酉。御使〔雜色里長〕於奥州へ遣は被る。泰衡の形勢を伺は令めん爲也。

現代語文治五年(1189)二月大二十五日乙酉。使い〔雑用の里長〕を奥州平泉へ行かせました。泰衡の動向を調べさせるためです。

文治五年(1189)二月大廿六日戊(丙)戌。去年所被下奥州之官使守康已上洛。今日逗留于鎌倉。仰八田右衛門尉知家有饗祿。如守康申者。豫州在所露顯。早可召進之由。泰衡載請文言上云々。仰曰。此事。泰衡心中猶難測。固同意義顯之間。先日背 勅定。不召進之。而今爲遁一旦害。雖載其趣。大略謀言歟。殆不能信用云々。

読下し                              きょねん おうしゅう くだされ ところのかんし もりやす  すで  じょうらく    きょう  かまくらに とうりゅう
文治五年(1189)二月大廿六日戊(丙)戌。去年、奥州に下被る所之官使守康、已に上洛し、今日鎌倉于逗留す。

はったのうえもんのじょうともいえ おお   きょうえん あ    もりやす  もう  ごと   は   よしゅう  ざいしょ  ろけん
八田右衛門尉知家に仰せて饗祿有り。守康の申す如き者、豫州の在所は露顯す。

はや  め   しん   べ   のよし  やすひら うけぶみ  の   ごんじょう   うんぬん
早く召し進ず可し之由、泰衡、請文に載せ言上すと云々。

おお    い       こ   こと  やすひら しんちゅうなおはか がた   もと    よしあき  どうい のかん  せんじつ ちょくじょう そむ   これ  め   しんぜず
仰せて曰はく。此の事、泰衡が心中猶測り難し。固より義顯に同意之間。先日、勅定に背き、之を召し進不。

しか    いま  いったん  がい  のが    ため  そ おもむき のせ   いへど  たいりゃくかんげんか  ほと    しんよう  あたはず  うんぬん
而るに今、一旦の害を遁れん爲、其の趣を載ると雖も、大略謀言歟。殆んど信用に不能と云々。

現代語文治五年(1189)二月大二十六日丙戌。去年、奥州平泉へ遣わされた京都朝廷の役人の守康は、すでに京都へ戻るところで、今日鎌倉に泊まりました。八田右衛門尉知家に命じて饗応させました。守康が言う事には、義経のありかが分かりましたので、早く捕まえて突き出しますと、泰衡は返事を書いて申し上げています。(頼朝様が)おっしゃられたのには、そのことだが、どうも泰衡の腹の中はわかり難い。心底義経に味方しているので、先日の京都朝廷の命令書を無視して、突き出さなかった。それを今更、一時凌ぎに、命令に従いますと書いているが、凡そ嘘に違いない。まったく信用するには値しないなだとさ。

文治五年(1189)二月大廿七日己(丁)亥。鶴岡臨時祭如例。二品御參廻廊。佐々木三郎盛綱役御釼。

読下し                            つるがおか  りんじさい れい  ごと   にほん かいろう  ぎょさん  ささきのさぶろうもりつな ぎょけん  えき
文治五年(1189)二月大廿七日己(丁)亥。鶴岡の臨時祭例の如し。二品廻廊に御參。佐々木三郎盛綱御釼を役す。

現代語文治五年(1189)二月大二十七日丁亥。鶴岡八幡宮の臨時の祭りは例の通りです。頼朝様は回廊に来られました。佐々木三郎盛綱が太刀持です。

文治五年(1189)二月大廿八日庚(戊)子。霽。及丑尅。住吉小大夫昌泰參申云。今夜異星見。爲彗星歟云々。二品則自御寢所。出御于庭上覽之。三浦十郎義連。小山七郎朝光在御前。梶原源太景季。八田太郎朝重候御後。帶釼夜中出御之儀。常如此。是皆近臣也。

読下し                             はれ  うしのこく およ   すみよしこだゆうまさやす  さん  もう     い
文治五年(1189)二月大廿八日庚(戊)子。霽。丑尅に及び、住吉小大夫昌泰@參じ申して云はく。

こんや いせい あらは  すいせいたる  か   うんぬん
今夜異星見る。彗星爲る歟と云々。

にほん すなは ごしんじょ よ    ていじょうに しゅつご  これ  み    みうらのじうろうよしつら おやまのしちろうともみつ ごぜん  あ
二品則ち御寢所自り、庭上于出御し之を覽る。三浦十郎義連、小山七郎朝光御前に在り。

かじわらのげんたかげすえ はったのたろうともしげ おんうしろ そうら つるぎ おび    よなか  しゅつごの ぎ   つね  かく  ごと    これみなきんしんなり
 梶原源太景季、 八田太郎朝重御後に候ひ、釼を帶る。夜中の出御之儀、常に此の如し。是皆近臣也。

参考@住吉小大夫昌泰は、一巻治承四年七月二十三日条の住吉小大夫昌長の縁者であろう。

現代語文治五年(1189)二月大二十八日戊子。晴れました。丑の刻(午前二時頃)住吉小大夫昌泰が御所へ来て云いました。今夜見たこともない星が現れました。彗星かもしれません。頼朝様は、直ぐに寝床から庭に降りて、これをご覧になりました。三浦十郎義連と小山七郎朝光が前に居て、梶原源太景季と八田太郎知重が後ろに控えて、刀を着けています。夜中にお出になる時は、いつもこのように用心しております。この人達は、皆実直な用心棒です。

文治五年(1189)二月大卅日壬(庚)寅。長門國阿武郡者。爲没官領内之間。爲勸賞。雖賜土肥弥太郎遠平。爲御造作杣取。可去進地頭職之由。依有 勅定。可退出之由。被仰之處。遠平代官于今居住之由。及遠聞之間。重被遣御書。
 下 長門國阿武郡
  前地頭遠平代官可令早退出郡内事
 右件地頭職。可令停止之由。被成下 院廳御下文之處。遠平代官于今淹留。致濫妨之由有其聞。所行之旨甚以不當也。早可令退出郡内之状如件。以下。
   文治五年二月卅日
又安房。上総。下総等國々。多以有荒野。而庶民不耕作之間。更無公私之益。仍招居浪人。令開發之。可備乃具之旨。被仰其所地頭等云々。

読下し                        ながとのくに あぶぐん は   もっかんりょうない な   のかん   けんじょう  ため
文治五年(1189)二月大卅日壬(庚)寅。長門國阿武郡@者、没官領内と爲す之間、勸賞の爲に、

といのいやたろうとおひら  たま      いへど   ごぞうさ    そまどり  ため    じとうしき    さ   しん  べ   のよし ちょくじょう あ     よつ
土肥弥太郎遠平に賜はると雖も、御造作の杣取の爲に、地頭職Aを去り進ず可しB之由、勅定有るに依て、

たいしゅつすべ のよし  おお  られ  のところ  とおひら  だいかんいまに きょじゅう   のよし  とおぶん およ   のかん  かさ    おふみ   つか  さる
退出可し之由、仰せ被る之處、遠平が代官今于居住する之由、遠聞に及ぶ之間。重ねて御書を遣は被る。  

   くだ    ながとのくにあぶぐん
 下す 長門國阿武郡のこと

    さきのじとうとおひら だいかん はや  ぐんない  たいしゅつせし べ  こと
  前地頭遠平が代官、早く郡内から退出令む可き事

  みぎ  くだん じとうしき     ちょうじせし  べ   のよし  いん ちょうおんくだしぶみ な くだされ のところ  とおひら だいかんいまにえんりゅう
 右、件の地頭職は、停止令む可し之由。院の廳御下文を成し下被る之處。遠平が代官今于淹留し、

  らんぼういた  のよし そ    きこ  あ   しょぎょうのむねはなは もつ  ふとうなり  はやばや ぐんない   たいしゅつせし べ  のじょうくだん ごと    もつ  くだ
 濫妨致す之由其の聞へ有り。所行之旨甚だ以て不當也。早々と郡内から退出令む可し之状件の如し。以て下す。

      ぶんじごねんにがつさんじうにち
   文治五年二月卅日

また あわ   かずさ  しもふさ ら  くにぐに  おお  もつ  こうや あ     しか    しょみんこうさくせずのかん  さら  こうしの えきな
又安房。上総。下総等の國々。多く以て荒野有り。而るに庶民耕作不之間。更に公私之益無し。

よつ  ろうにん  まね  お     これ  かいはつせし   のうぐ  そな    べ   のむね   そ   ところ  じとうら   おお  られ    うんぬん
仍て浪人Cを招き居き。之を開發令め。乃具に備へる可し之旨。其の所の地頭等に仰せ被ると云々。

参考@阿武郡は、山口県阿武郡阿武町。
参考A地頭は、原語は、地の頭(ほとり)から出て、現地年貢徴収人をあらわす。平家没官領の場合は、現地下司職の慣習的権限を引き継いでいるので、土地ごとに権利が違っている。これを本捕地頭という。ちなみに承久の乱以後に西国に一律的に設置されたのが新捕地頭。権利は十一町につき一町の免田、反別五升の加徴米がある。
参考B地頭職を去り進ず可しは、本来土地は全て天皇家のもので、そこへ荘園を許し、取立人としての地頭に居させてあげているのであるから、地頭を立ち退かせて朝廷へ提出しなさいの意味。退出すべしも同様。
参考C浪人は、地頭、名主以外の実務立場の定住性を持っていなかった農民。室町時代には間人(もうと)と呼ばれる。

現代語文治五年(1189)二月大三十日庚寅。長門の国(山口県)阿武郡は、平家から没収されて院から与えられた領地なので、褒美として土肥弥太郎遠平に与えましたが、皇居修理の木材を調達する所としました。それで、地頭を引き上げるように朝廷から命令が出たので、撤退するよう命じられましたが、土肥遠平の代官が、今になっても居座っていると、小耳に挟んだので、なおも命令書をお出しになられました。

 命令する 長門国阿武郡について
 今までの地頭土肥遠平の代官へ さっさと郡内から出て行くこと
 右の地頭職は停止するようにと、院の事務所から命令書を出してきたので、土肥弥太郎遠平の代官は今でも居座って武力に物を言わせ横取りをしていると耳に入っている。その行為はとんでもないことである。さっさと郡内から立ち去りなさいとの命令はこの通りである。よって命令する。
   文治五年二月三十日

話は変るが、安房や上総、下総には、まだ耕作放棄の荒野が沢山あります。それなのに庶民は耕作をしないので、庶民も幕府も利益になりません。それなので、はぐれ者をかき集めて居座らせ、開発させて年貢に充当させるように、その土地の地頭に命じられましたとさ。

三月へ

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