吾妻鏡入門第九巻   

文治五年(1189)己酉三月大

文治五年(1189)三月大三日乙(癸)巳。霽。鶴岡法會被始行之。巳尅。二品御參宮。別當法眼圓曉。并供僧等著座。舞樂。馬塲流鏑馬〔十五騎〕相撲〔十番〕等同被始之。

読下し                       はれ  つるがおか ほうえ これ  しぎょうさる    みのこく  にほんごさんぐう
文治五年(1189)三月大三日乙(癸)巳。霽。鶴岡の法會之を始行被る。巳尅。二品御參宮。

べっとうほうげんえんぎょう なら    ぐそうら  ちゃくざ     ぶがく   ばば    やぶさめ  〔 じゅうごき 〕 すまい 〔じゅうばん〕 ら おな    これ  はじ  らる
別當法眼圓曉、并びに供僧等著座す。舞樂、馬塲の流鏑馬〔十五騎〕相撲〔十番〕等同じく之を始め被る。

現代語文治五年(1189)三月大三日癸巳。晴れました。鶴岡八幡宮の節句の法要を始められました。巳刻(午前十時頃)に頼朝様がお参りにこられました。八幡宮筆頭の法眼円暁とそのお供の坊さん達が神前に座って行いました。舞楽や流鏑馬〔十五騎〕や相撲〔十番〕の同様に奉納しました。

文治五年(1189)三月大五日丁未。前平大納言〔時忠卿〕去月廿四日未尅。於能登國配所薨之由。今日達關東。依有智臣之譽。 先帝朝。平家在世時。輔佐諸事。雖當時。爲朝廷可惜歟之由。二品被仰。亦彼年齢有御不審。數輩雖候御前。無覺悟人。仍被尋大夫属入道之處。六十二之由申之云々。

読下し                   さきのへいだいなごん 〔ときただきょう〕
文治五年(1189)三月大五日丁未。前平大納言〔時忠卿〕

さぬ つきにじうよっか ひつじのこく のとのくに  はいしょ  をい  こう     のよし  きょうかんとう  たつ
去る月廿四日 未尅。能登國の配所に於て薨ずる之由、
今日關東へ達す。

ちしんのほまれあ     よつ    さきてい ちょう  へいけざいせ   とき  しょじ   ほさ
智臣之譽有るに依て、先帝の朝、平家在世の時、諸事を輔佐す。

とうじ  いへど   ちょうてい ため  おし  べ   か のよし  にほん おお  らる
當時と雖も、朝廷の爲に惜む可き歟之由、二品仰せ被る。

また  か   ねんれい  ごふしんあ     すうやからごぜん そうら  いへど    かくご   ひとな
亦、彼の年齢に御不審有り。數輩御前に候うと雖も、覺悟の人無し。

よつ たいぶさかんにゅうどう たず らる  のところ  ろくじゅうにのよしこれ  もう    うんぬん
仍て大夫属入道に尋ね被る之處、六十二之由之を申すと云々。

現代語文治五年(1189)三月大五日丁未。前の大納言の平時忠さんが、先月の二十四日未刻(午後二時頃)に、能登国(能登半島)の流罪先で亡くなったと、今日関東へ報せが届きました。
「とても智恵のある公卿なので、安徳天皇の治世で、平家全盛の時は、何事も良く手助けをしていました。今でさえも、京都朝廷にとっては惜しむべきの人だ」と、頼朝様はおっしゃいました。
また、死亡年齢が合ってないんじゃないかと思いましたが、何人か御前に詰めていますが、誰も知っている人がいません。そこで、大夫属入道三善善信に尋ねると、六十二才だと申し上げたそうだ。

参考平時忠の子孫が能登の時国家であるそうな。

文治五年(1189)三月大十日壬(庚)子。片岡次郎常春。依有奇謀之聞。雖召放領所等〔下総國三崎庄。舟木。横根〕如元被返付之處。沙汰人等。以日者之融。令忽諸之由。訴申之間。可停止之旨。被仰下云々。

読下し                                     かたおかのじろうつねはる きぼうの きこ  あ     よつ
文治五年(1189)三月大十日壬(庚)子。片岡次郎常春、奇謀之聞へ有るに依て、

りょうしょら 〔しもふさのくにみさきのしょう  ふなき   よこね 〕   めしはな       いへど   もと  ごと  へんぷさら  のところ   さたにんら
領所等〔下総國三崎庄@、舟木A、横根Bを召放たれると雖も、元の如く返付被る之處、沙汰人等、

ひごろの とおり  もつ      こっしょせし   のよし  うった  もう   のかん  ちょうじすべ のむね    おお  くださる    うんぬん
日者之融を以って、忽諸令む之由、訴へ申す之間、停止可し之旨、仰せ下被ると云々。

参考@三崎庄は、海上郡三崎村本郷で千葉県銚子市、旭市。
参考A
舟木は、千葉県旭市萬歳舟戸。
参考B
横根は、千葉県旭市横根。

現代語文治五年(1189)三月大十日庚子。片岡次郎常春は、奇妙な行動があるので、領地〔下総国三崎庄、舟木、横根〕を召し上げられましたが、元の通りに返されました。ところが、担当者達が今までどおりにして、放ったままでいると訴えてきたので、無視を止めて手続きするように命じてくださいましたとさ。

文治五年(1189)三月大十一日癸(辛)丑。大内殿舎門廻廊築垣等。破壞之間。可被修造之由。去月十七日 院宣。今日到來。是師中納言所勞之間。于今及遲引云々。

読下し                                      だいだい  でんしゃ  もん  かいろう  ついじなど  はかいのかん   しゅうぞうせら べ  のよし
文治五年(1189)三月大十一日癸(辛)丑。大内の殿舎の門、廻廊、築垣等、破壞之間、修造被る可し之由、

さぬ つきじうしちにち いんぜん  きょう とうらい     これ  そちのちうなごんしょろうのかん  いまに ちいん  およ    うんぬん
去る月十七日の院宣、今日到來す。是、師中納言所勞之間、今于遲引に及ぶと云々。

現代語文治五年(1189)三月大十一日辛丑。京都御所の寝殿などの門や、建物を繋ぐ渡り廊下や築地塀が壊れてしまっているので、修理をするようにとの先月十七日の後白河法皇の手紙が今日届きました。是は、師中納言吉田経房が病気のために、今頃まで遅れたんだそうだ。

文治五年(1189)三月大十三日乙(癸)卯。快リ。鶴岡八幡宮之傍。此間被建塔婆。今日上九輪。二品監臨給。主計允行政故奉行之。還御之後。被整去十一日 院宣御請文云々。
   二月十七日御教書三月十一日到來。兩條之仰。跪以承候畢。
一 大内殿舎門廻廊及築垣事
 右。明年正月以前。可令修造之由。頭弁奉書。拝見給候畢。此御時尤可有御沙汰候。任先例之苻案。仰所課之諸國。可被致其勤候也。然者。頼朝知行八ケ國之分。注載別紙。可下預候。云閑院御修理。云六條殿經營。連々勤仕候てハ候へとも。其事を勤て候へハとて。此事をは更無辞退之思候。云朝家御大事。云御所中雜事。雖何ケ度候。頼朝こそ可勤仕事にて候へハ。愚力の及候はん程ハ。可令奔走候。但諸國逐日て。庄園者増加仕候。國領者減少候へハ。受領之力も皆被察候。定無計畧候歟。尤以不便思給候。然而頼朝知行國々ハ。縱如然仰にても。全不可顧善惡候。方々之公事隨堪相營候也。
一 熊野御領播磨國浦上庄事
 右有限年貢者。湛政令徴納之由。雖見景時代官陳申之旨。動闕怠社役。歎思食次第也。彼御庄一所。枉可令停止地頭職之由。修理權大夫奉書。同拝見給候畢。御評定之趣不可及左右候。早可令停止景時地頭職之由。直可被仰下庄家候也。其後若令對捍申候者。重可加下知候。縱没官領にて候とも。別御定をハ。爭可令申左右候哉。且長門國阿武御領ハ平家所領にて候へハ。實平自西國下向之時知行仕候き。仍又相繼遠平沙汰候つれとも。不背御定之趣。令沙汰去候畢。其も先以直被仰下。次令加下知候き。又鎮西三瀦庄地頭義盛を令停止候ひし次第も。如此候き。凡御定之趣。皆以如此致沙汰候者也。以此旨可令披露給候也。頼朝恐惶謹言。
      三月十三日                   頼朝〔請文〕

読下し                      かいせい つるがおかはちまんぐうのかたわら  こ  かん とうば  たてらる    きょう  くりん   あ     にほんかんりん  たま
文治五年(1189)三月大十三日乙(癸)卯。快リ。 鶴岡八幡宮之 傍に、此の間塔婆を建被る。今日九輪を上ぐ。二品監臨し給ふ。

かぞえのじょうゆきまさ  これ  ぶぎょう    かんごののち  さんぬるじういちにち いんぜん おんうけぶみ ととの らる    うんぬん
主計允行政故に之を奉行す。還御之後、去る十一日の院宣の 御請文を整へ被ると云々。

       にがつじうしちにち みぎょうしょ  さんがつじういちにち とうらい   りょうじょうのおお  ひざまづきもっ うけたまわ そうら をはんぬ
   二月十七日の御教書、三月十一日に到來す。兩條之仰せ、 跪 以て 承り候ひ畢。

ひとつ だいだいでんしゃ もん  かいろうおよ ついじ  こと
一  大内殿舎、門、廻廊及び築垣の事

  みぎ みょうねんしょうがついぜん  しゅうぞうせし べ    のよし   とうのべん ほうしょ   はいけん たま そうら をはんぬ
 右。 明年正月 以前に、修造令む可し之由、頭弁が奉書、拝見し給ひ候ひ畢。

  こ   おんとき  もつと  ごさた  あ  べ  そうろう せんれいのふあん  まか    しょか これ  しょこく   おお     そ  つとめ いたさる  べ  そうろうなり
 此の御時、尤も御沙汰有る可く候。先例之苻案に任せ、所課之を諸國に仰せて、其の勤を致被る可く候也。

  しからば  よりとも  ちぎょう はっかこくのぶん   べっし  ちゅう  の     くだ  あずか べ そうろう
 然者、頼朝が知行八ケ國之分@は、別紙に注し載せ、下し預る可く候。

  かんいんごしゅうり   い    ろくじょうでんけいえい い    れんれんきんじそうろ   そうらへども    そ   こと つとめ そうらへば
 閑院御修理と云ひ、六條殿經營と云ひ、連々勤仕候てハ候へとも、其の事を勤て候へハとて、

  かく  こと  ば さら  じたい の おも  な そうろう
 此の事をは更に辞退之思い無く候。

  ちょうけ  おんだいじ  い     ごしょじゅう  ぞうじ   い     なんかど   そうら   いへど   よりとも    つと  べ   しごと     そうらへば
 朝家の御大事と云ひ、御所中の雜事と云ひ、何ケ度に候うと雖も、頼朝こそ勤む可き仕事にて候へハ、

  ぐりょく   およ  そうら   ほどは   ふんそうせし べ そうろう
 愚力の及び候はん程ハ、奔走令む可く候。

  ただ しょこく ひ   お      しょうえんはぞうかつかまつ そうろう こくりょうはげんしょうそうらえば ずりょうのちから みささつ られそうろう
 但し諸國日を逐うて、庄園者増加仕り候。 國領者減少候へハ、受領之力も皆察せ被候。

  さだ けいりゃくな  そうろうか  もつと  もつ   ふびん おも  たま そうろう
 定めて計畧無く候歟。尤も以て不便に思ひ給ひ候。

  しかれど よりとも  ちぎょう   くにぐには  たと  しか  ごと  おお         まった ぜんあく  かえりみ べからずそうろう
 然而、頼朝が知行の國々ハ、縱い然る如き仰せにても、全く善惡を顧る不可候。

  かたがたの くじ   かん したが あいいとな そうろうなり
 方々之公事、堪に隨い相營み候也。

ひとつ くまのごりょうはりまのくにうらかみのしょう こと
一 熊野御領播磨國浦上庄Aの事

  みぎ  かぎ  あ   ねんぐは  たんせいちょうのうせし のよし  かげとき だいかんちん もう   のむね  あらは  いへど  ややもすれ しゃえき けったい
 右、限り有る年貢者、湛政徴納令む之由、景時が代官陳じ申す之旨を見すと雖も、動ば 社役を闕怠す。

  なげ  おぼ  め   しだいなり
 歎き思し食す次第也。

  か  おんしょういっしょ まげ  じとうしき   ちょうじせし  べ   のよし  しゅりごんのたいふ  ほうしょ  おな    はいけん  たま  そうら をはんぬ
 彼の御庄一所、枉て地頭職を停止令む可し之由、修理權大夫が奉書、同じく拝見し給ひ候ひ畢。

  ごひょうじょうのおもむき とこう   およ べからずそうろう はやばや かげとき  じとうしき   ちょうじせし  べ   のよし  じき  しょうか  おお  くださる  べ そうろうなり
 御評定之 趣、左右に及ぶ不可候。 早々と景時の地頭職を停止令む可し之由、直に庄家へ仰せ下被る可く候也。

  そ   ご    も   たいかんせし もう  そうらはば  かさ    げち   くわ   べ  そうろう
 其の後、若し對捍令め申し候者、 重ねて下知を加う可く候。

  たと  もっかんりょう  そうろう     べつ  ごじょうをば   いかで  とこう   もう  せし  べ  そうろうや
 縱い没官領にて候とも、別の御定をハ、爭か左右を申さ令む可く候哉。

  かつう  ながとのくにあぶのごりょうはへいけしょりょう   そうらへば  さねひらさいごくよ   げこうの とき  ちぎょうつかまつ そうらい
 且は長門國阿武B御領ハ平家所領にて候へハ、實平西國自り下向之時、知行仕り候き。

  よつ  また  とおひら  あいつ   さたそうらひ    ども   ごじょう  そむかずのおもむき  さた せし  さ  そうら をはんぬ
 仍て又、遠平に相繼ぎ沙汰候つれとも、御定に背不之 趣、沙汰令め去り候ひ畢。

  それ  ま   もつ  じき  おお  くだされ  ついで  げち  くわ  せし そうらい
 其も先ず以て直に仰せ下被、次に下知を加え令め候き。

  また  ちんぜいみづまのしょう じとうよしもり ちょうじせし そうら    しだい    かく  ごと  そうらい
 又、鎮西三瀦庄C地頭義盛を停止令め候ひし次第も、此の如き候き。

  およ ごじょうのおもむき みなもつ かく  ごと   さた いた そうろうものなり
 凡そ御定之趣、皆以て此の如く沙汰致し候者也。

  かく  むね  もつ  ひろう せし  たま  べ  そうろうなり  よりともきょうこうきんげん
 此の旨を以て披露令め給ふ可く候也。頼朝恐惶謹言。

            さんがつじうさんにち                                      よりとも 〔うけぶみ〕
      三月十三日                   頼朝〔請文〕

参考@頼朝が知行八ケ國は、相模、武蔵、伊豆、駿河、上総、下総、越後、信濃これに豊後を加え九カ国ともする。
参考A浦上庄は、堀田璋左右先生の解説に「揖西郡山下、中陣、門前、栄、西搆、東用、萩原、真砂、上河原、市場の十村。」とあるので、ネット検索の結果。兵庫県たつの市に揖保町山下、揖保町中臣(なかじん)、揖保町栄、揖保町西構(にしがまえ)、揖保町東用、揖保町萩原、揖保町真砂、揖保川町市場の地名が見つかったので、揖保町(いぼちょう)と揖保川町(いぼがわちょう)と名の付く一帯だと思われる。
参考B阿武は、山口県阿武郡阿武町。土肥次郎實平から小早河弥太郎遠平に継がれた。戦国時代の小早川の先祖?。
参考C三瀦庄は、福岡県久留米市三潴町(みづままち)旧三潴郡三潴町。

現代語文治五年(1189)三月大十三日癸卯。快晴です。鶴岡八幡宮の本殿のそばに、近頃五重塔を建てておられます。今日、一番天辺の金銅製の九輪を上げました。頼朝様は、見張られております。主計允藤原行政(二階堂)が特別にこれを指導担当しております。お帰りになられた後、去る十一日受け取った院の手紙への了承のご返事を整えさせましたとさ。

 二月十七日のお手紙を三月十一日に受け取りました。二つのお話を畏まってお受け申し上げます。

一つ 京都御所の建物、門、渡り廊下、築地塀について
   右の作業を来年正月前に、修理するようにとの頭弁の文書を拝見いたしました。こんな時にこそ私に命じて下さい。先例の布告のとおりに、割り当てを諸国に命じられて、その勤めをさせるのが良いでしょう。それならば、頼朝が支配している八カ国分は、特に書き出されてご命じ下さい。天皇の里内裏の修理も、院の六条殿の造作も、続いての勤めとなるけれども、それは私たちの義務ですから、今度の事もさらさら辞退するつもりはありません。天皇家の用事であろうと、御所の中の雑用であろうとも、三度にわたろうとも、頼朝が勤めるべき仕事でありますので、微力の及ぶ限り、頑張るつもりですよ。但し、諸国では年々荘園が増えていますので、国衙領は減ってきておりますので、国司の力も察する事が出来ます。さぞかし、どうしようもないでしょう。不都合な事だと思います。それでも、頼朝が支配している国々の分は、たとえその分もとおっしゃるような命令でも、内容の善悪を考えたりしないで、国衙の用事も力の限り要望に応えて片付けましょう。

一つ 熊野権現の領地即ち後白河院の領地でもある播磨国浦上庄(兵庫県揖保町)について
   右の大事な年貢は、湛政が集めて納付しましたと、梶原平三景時の代官が弁明していると文書を見ましたが、ひょっとしたら神社への奉仕を怠っているかもしれません。嘆かわしい事です。その荘園一箇所は、今の例を曲げて地頭職を止めさせるようにとの、修理権大夫が書いた文書も同様に拝見しました。お決めになられたことには、致し方の無い事だと思います。早く梶原平三景時の地頭職を止めさせるように、直接現地の荘園に命令をしてください。その後に、言う事を聞かなければ、重ねて命令を致しましょうね。例え平家没官領として与えられた所でも、別な仰せを戴いても、何故どうこう言いましょうか。ついでに、長門国阿武のご領地は、平家の領地でしたので、土肥次郎實平が九州合戦の帰りに支配いたしました。それを又、土肥弥太郎遠平に相続して支配しておりますが、院のご命令には、背かないように、引き上げさせましょう。それも、朝廷から直接言って行ったようですが、私から命令を出しておきました。また、九州の三潴庄の地頭の和田太郎義盛を止めさせた経過も、同様でした。全て、申された事は、皆全てこのように処理いたしました。この内容で、院にお伝えくださるように。謹んで頼朝が申し上げます。

  三月十三日            頼朝〔返信〕

文治五年(1189)三月大廿日壬(庚)戌。亥尅。右武衛使者參着。被献消息〔去十三日状〕去九日。奥州基成朝臣并泰衡等請文到來。可尋進義顯之由載之。而 法皇此間爲御佛事御坐天王寺〔去月廿二日御幸〕件請文備 叡覽之後。早可召進之由。重可被仰之旨。自彼寺態以被申殿下。又同十二日。前刑部卿頼經卿可被配流伊豆國之由宣下。子息宗長同前。此外事等。條々皆可有勅裁之。師中納言定具被申之歟者。彼卿奉書云。
 去月廿二日御消息。今日到來。條々令申給之趣。委聞食畢。出雲目代右兵衛尉政綱事。不日可召上其身之由。被仰按察大納言〔朝方〕畢。彼卿申状。且爲散不審。所下遣也。抑彼卿鬱結之條。依何由緒哉。更不思食寄事也。返々驚聞食者也。若爲僻事。爲人尤不便事也。如此事。被尋决眞僞可宜歟。件消息早可令進覽給。可披見之故也。彼卿無左右書進誓状。令恐驚申之條。以之可令推察歟。於政綱所行者。事若實者。罪科之至。不及左右事歟。
 頼經朝臣事。證文等出來者。不及是非事歟。早可被配流也。息男左少將宗長。同可被解官也。爲朝不忠之輩。爭無其沙汰哉。民部卿禪師。去々年被召禁之處。經沙汰令優免畢云々。去年千光七郎沙汰之時。仰叡山。重被召之處。去々年召進畢之後。不知行方之由所申也。然而猶可求進之由可被仰也。召出之後。早可被配流也。
 流人事。爲攘災可被優免否。一旦雖被仰含。更無恩免之儀。令計申給之旨。尤有其謂。爭輙可有沙汰乎。惟隆等事勿論也。前兵衛尉爲孝。本自全非被召仕者。今依令申給。被相尋右兵衛督之處。去比已下向關東之由。所令申也。仍彼請文遣之。抑致樣々結搆之輩も。仕君者をハ。成恐不申之由。令申給之條。頗鬱思食者也。雖爲奉公者。爲君存不忠。爲世好凶惡之輩。有優恕。可有何益哉。早随聞及。可令申給。可有其沙汰之故也。自去比所令參篭天王寺御也。是依多年御願。所思食立也。然而朝務全不被抛。且申攝政。且所聞食也。爲散不審。事次所被仰遣也。
 奥州貢金事。云明年御元服料。云院中御用。旁有所用等。而泰衡空以懈怠。尤奇恠事也。早可令催進給。且又被仰國司畢。
 以前條々。 院宣如此。仍執啓如件。
   三月十日          太宰權師藤〔經房〕
 重仰
 六條若宮爲御所近邊事。令申給之旨聞食畢。雖近々。全無狼藉事。更不可令憚給之由所候也。此事令申給御消息。去月廿七日所到來候也。條々事。頭弁祗候天王寺之時。付彼人候之間。去七日歸洛。所被仰御返事候也。而按察使請文。進天王寺。經奏覽候云々。仍于今遲々。随到來所申候也。爲御不審申候也。

読下し                          いのこく   うぶえい   ししゃ さんちゃく   しょうそこ 〔さぬ じうさんにち じょう〕   けん  らる
文治五年(1189)三月大廿日壬(庚)戌。亥尅。右武衛の使者參着す。消息〔去る十三日の状〕を献ぜ被る。

さんぬ ここのか おうしゅう もとなりあそんなら    やすひらら  うけぶみとうらい    よしあき  たず  すす   べ   のよし これ  の
去る九日、奥州の基成朝臣并びに泰衡等の請文到來す。義顯を尋ね進める可し之由之を載せる。

しか    ほうおう  こ  かん おんぶつじ   ため  てんのうじ 〔さんぬ つきにじうににちぎょうこう 〕  おは
而るに法皇、此の間御佛事の爲に天王寺〔去る月廿二日御幸す〕に御坐す。

くだん うけぶみえいらん そな    ののち  はや  め   しん  べ   のよし  かさ   おお  らる  べ   のむね  か   てらよ わざわざ もつ  でんか   もうさる
件の請文叡覽に備うる之後、早く召し進ず可し之由、重ねて仰せ被る可き之旨、彼の寺自り 態 以て殿下に申被る。

また  おな    じうににち  さきのぎょうぶのきょうよりつねきょう いずのくに  はいるさる  べ   のよし せんげ     しそくむねながまえ おな
又、同じき十二日、 前刑部卿頼經卿、 伊豆國へ配流被る可し之由宣下す。子息宗長前に同じ。

こ   ほか  ことなど じょうじょう みな こ  ちょくさいあ  べ    そちのちゅうなごん さだ  つぶさ これ  もうさる   か てへ    か  きょう  ほうしょ  い
此の外の事等、條々 皆之の勅裁有る可し。師中納言 定めて具に之を申被る歟者り。彼の卿の奉書に云はく。

  さんぬ つきにじうににち ごしょうそこ  きょう とうらい   じょうじょう もう せし  たま  のおもむき  くわ    き      め おはんぬ
 去る月廿二日の御消息、今日到來す。條々 申さ令め給ふ之趣、 委しく聞こし食し畢。

  いづももくだいうひょうえのじょうまさつな こと  ふじつ   そ   み   めしあげ べ    のよし  あざだいなごん  〔ともかた〕   おお られをはんぬ
 出雲目代右兵衛尉政綱が事、不日に其の身を召上る可し之由、按察大納言〔朝方〕に仰せ被畢。

  か   きょう もうしじょう かつう ふしん  ちら    ため  くだ  つか   ところなり そもそも か きょう うっけつのじょう  なん  ゆいしょ  より   や
 彼の卿が申状、且は不審を散さん爲、下し遣はす所也。抑、彼の卿鬱結之條、何の由緒に依て哉。

  さら  おぼ  め  よらざることなり  かえすがえす おどろ き    め   ものなり
 更に思し食し寄不事也。 返々も 驚き聞こし食す者也。

  も   ひがごとたら   ひと  ためもつと ふびん  ことなり  かく  ごと  こと  しんぎ   たず  けつ  られ  よろ       べ   か
 若し僻事爲ば、人の爲尤も不便の事也。此の如き事、眞僞を尋ね决せ被て宜しかる可き歟。

  くだん しょうそこ はや しんらんせし たま  べ     ひけん  べ   のゆえなり
 件の消息 早く進覽令め給ふ可し。披見す可き之故也。

   か  きょう とこうな   せいじょう  か   すす   おそ おどろ もう  せし  のじょう  これ  もつ  すいさつせし  べ   か
 彼の卿左右無く誓状を書き進め、恐れ驚き申さ令む之條、之を以て推察令む可き歟。

  まさつな  しょぎょう  をい  は   こと も  じつたらば ざいかのいたり   とこう   およ ざることか
 政綱の所行に於て者、事若し實者。罪科之至。左右に及ば不事歟。

  よりつねあそん  こと  しょうもんらしゅつらい ば   ぜひ  およ  ざることなり  はや はいる さる  べ   なり
 頼經朝臣の事、證文等出來せ者、是非に及ば不事歟。早く配流被る可き也。

  そくなんさしょうしょうむねなが おな   げかん さる  べ  なり  ちょう ため ふちゅうのやから いかで そ   さた な       や
 息男左少將宗長、同じく解官被る可き也。朝の爲不忠之輩、爭か其の沙汰無からん哉。

  みんぶのきょうぜんじ  おととし     め  きん  らる  のところ   さた   へ   ゆうめんせし をはんぬ うんぬん
 民部卿禪師、去々年より召し禁ぜ被る之處、沙汰を經て優免令め畢と云々。

  きょねん せんこうしちろう さたのとき    えいざん おお      かさ    めさる   のところ  おととし め   すす おはんぬののち ゆくえ しらざるのよしもう  ところなり
 去年千光七郎が沙汰之時、叡山に仰せて、重ねて召被る之處、去々年召し進め畢之後、行方を知不之由申す所也。

  しかれども なおもと しん  べ   のよし  おお  らる  べ   なり   め   いだ   ののち  はや  はいるさる  べ   なり
 然而、猶求め進ず可し之由、仰せ被る可き也。召し出す之後、早く配流被る可き也。

  るにん   こと   じょうさい ため  ゆうめんさる  べ    いな    いったんおお ふく  らる    いへど   さら  おんめんのぎ な
 流人の事。攘災の爲、優免被る可きや否や、一旦仰せ含め被ると雖も、更に恩免之儀無し。

  はか    せし  もう  たま  のむね  もつと そ  いわれあ     いかで たやす  さた あ    べ   と
 計らい令め申し給ふ之旨、尤も其の謂有り。爭か輙く沙汰有る可き乎。

 これたから  こと  もちろんなり  さきのひょうえのじょうためたか もとよ まった めしつかはらる もの あらず
 惟隆等が事も勿論也。 前兵衛尉爲孝、 本自り全く召仕被る者に非。

  いま もう  せし  たま     よつ   うひょうえのかみ あいたず  らる  のところ  さんぬ ころすで  かんとう  げこうのよし    もう  せし  ところなり
 今申さ令め給ふに依て、右兵衛督に相尋ね被る之處、去る比已に關東へ下向之由、申さ令む所也。

  よつ  か   うけぶみこれ つか
 仍て彼の請文之を遣はす。

 そもそも さまざま けっこう  いた  のやから   きみ  つか    ものをば   おそ  な     もうさざるのよし  もう  せし  たま  のじょう  すこぶ うつ  おぼ  め   ものなり
 抑、樣々な結搆を致す之輩も、君に仕うる者をハ、恐れ成して申不之由、申さ令む給ふ之條、頗る鬱し思し食す者也。

  ほうこう  ものたり  いへど   きみ  ため  ふちゅう  ぞん    よ   ため  きょうあく  この  のやから   ゆうじょ あ       なん  えきあ   べ   や
 奉公の者爲と雖も、君の爲に不忠を存じ、世の爲に凶惡を好む之輩は、優恕有りて、何の益有る可き哉。

  はや  き   およ    したが     もう  せし  たま  べ     そ    さた  あ   べ   のゆえなり
 早く聞き及びに随いて、申さ令め給ふ可し。其の沙汰有る可し之故也。

  さんぬ ころよ   てんのうじ   さんろうせし  たま ところなり  これたねん  ごがん   よつ    おぼ  め   た  ところなり
 去る比自り天王寺に參篭令め御う所也。是多年の御願に依て、思し食し立つ所也。

 しかれども ちょうむまった なげられず かつう せっしょう もう    かつう きこ  め  ところなり  ふしん   さん    ため  こと  ついで おお  つか  さる  ところなり
 然而、朝務全く抛被不。且は攝政に申し、且は聞し食す所也。不審を散ぜん爲、事の次に仰せ遣は被る所也。

 おうしゅみつぎきん こと みょうねん ごげんぷくりょう  い     いんちゅう ごよう   い    かたがた しょようらあ
 奥州貢金の事。明年の御元服料と云ひ、院中の御用と云ひ、旁 所用等有り。

  しか   やすひらむな   もつ   けたい    もつと きっかい  ことなり  はや  もよお しん  せし  たま  べ     かつう また  こくし  おお られをはんぬ
 而るに泰衡空しく以て懈怠す。尤も奇恠な事也。早く催し進ぜ令め給ふ可し。且は又、國司に仰せ被畢。

  いぜん じょうじょう    いんぜん かく ごと   よつ  しっけいくだん ごと
 以前の條々。 院宣此の如し。仍て執啓件の如し。

      さんがつとおか                     だざいごんのそちとう 〔つねふさ〕
   三月十日          太宰權師藤〔經房〕

現代語文治五年(1189)三月大二十日庚戌。亥の刻(夜十時頃)一条能保の使いが到着しました。手紙〔先の十三日の手紙〕を差し出しました。先日の九日に奥州平泉の藤原基成と泰衡の返書が届きました。義経を捕まえて突き出すと書いております。それなのに、後白河法皇は、そのとき仏教の行事ために天王寺におられました〔先月二十二日に行かれました〕。その返書を院に診て頂いたら、早く捕まえて突き出すように、もう一度言ってやれと、その寺からわざわざ九条兼実に伝えました。又、同月十二日に、前行部卿難波頼経を、伊豆国へ流罪にすると朝廷から命令が出ました。息子の宗長も同様です。この他の事柄も全て院の裁定がありました。師中納言吉田経房もこのことを申し上げるでしょう。とのことです。経房の手紙の内容は、

 先月二十二日のお手紙が、今日手元に届きました。色々と申されている事、詳しく(院は)お聞きになられました。 出雲の代官右兵衛尉政綱の事については、すみやかに(二月二十二日条で解官要求)身柄を拘束するように、按察大納言〔朝方〕に命じられております。その大納言の言い分は、疑いを解くためにお送りします。だいたい、大納言をお嫌いになるのは、何が根拠なのでしょう。どう考えても思い当たる節が無いと驚かれております。もし、勘違いなら、その人のためには大変気の毒な事です。このようなことは、きちんと成否を調べてからお決めになられるのが宜しいのではないでしょうか。その手紙を早くお届け下さい。読んで戴くためです。その大納言は、二の句無く誓いの文書を書いております。それゆえ、おびえ驚いたと言っておりますので、この事から推察してみてください。 政綱の行いについては、それが事実ならば、罪あることなので、どうこう言う必要はありません。

 前行部卿難波頼経については、証拠の文書が出てきているので、検討の必要は無いので、早く流罪先へ行かせます。息子の左少将宗長も同様に職からはずします。朝廷のためにならない連中を、なんで放っておきましょうか。 比叡山の民部卿禅師は、一昨年命じられて捕まえておりましたが、経過があって許されたそうです。去年千光七郎が担当した時、比叡山に命じて、捕られるようになお命じたところ、一昨年捕られようとしたら行方知れずだと言っていた話です。ところが、なおも追求しましたので、捕まえて突き出したので、早く流罪先へ行かせたのです。

 流人については、京都朝廷の災いを取り除くために、罪一等を減じて許すかどうか、一旦は法皇からそちらに言い出されましたが、許すとの判断がありませんでした。そこで、何とか許したいと考えて言われたのにも、理由はあるのですが、何で勝手に決められましょうか。どうして簡単に取り決められましょうか。臼杵次郎惟隆達のことも勿論同様です。前兵衛尉為孝は、元々朝廷に仕えて居る者ではありません。今おっしゃられておられるので、右兵衛督一条能保に聞いた見ましたら、先日すでに関東へ行ってしまったと言っておられます。それなので、その返書を一緒に送ります。だいたい、色々と悪巧みを考えている連中の事も、院に仕えている者なので遠慮して言わないのだと言われると、それは到底面白くない事だと思われております。たとえ、朝廷に仕えているものであっても、院にたいし忠義を持たず、世のためには悪事をなすような連中の事は、許してやっても何の利益にもならないでしょう。早くお聞きになった内容をおっしゃってください。きっと処分があるでしょうから。先日から天王寺にお篭りをしているところなのです。それは、永い間の希望をかなえるために、思い立ったのです。だからといって、政務を放り出したわけではありません。摂政の九条兼実に申し付けてあり、又、兼実から相談もあるからです。お疑いを晴らすために、話のついでに言っておくようにとの事でした。

 奥州の朝廷への上納金については、来年の(後鳥羽)天皇のご元服の費用や、院の庁でのお入用やら、色々と物入りなのです。それなのに、泰衡が何もしないで怠慢していたのです。全くけしからん事です。早く納付するように、国司に命じてください。
 以上の事柄の、院からの仰せはこの通りなので、この通り書き出しました。
   三月十日         太宰権師藤原〔吉田経房〕

  かさ    おお
 重ねて仰す

  ろくじょうわかみや ごしょ  きんぺんたること  もう  せし  たま  のむね  きこ  め をはんぬ ちかぢか   いへど   まった ろうぜき  ことな
 六條若宮、御所の近邊爲事、申さ令め給ふ之旨、聞し食し畢。近々とは雖も、全く狼藉の事無し。

  さら  はばか せし  たま  べからずのよしそうろ ところなり
 更に憚ら令め給ふ不可之由候う所也。

  かく  こと   ごしょうそこ  もう  せし  たま    さんぬ つきにじうしちにちとうらい そうろうところなり
 此の事、御消息に申さ令め給ふ。去る月廿七日到來し候所也。

  じょうじょう こと  とうのべんてんのうじしこうの とき  か   ひと  つ  そうろうのかん  さんぬ なぬかきらく
 條々の事、頭弁天王寺祗候之時、彼の人に付け候之間、去る七日歸洛す。

  ごへんじ    おお られそうろ ところなり  しか     あぜち  うけぶみ    てんのうじ   しん    そうらん  へそうろう うんぬん
 御返事に仰せ被候う所也。 而して按察使が請文を、天王寺へ進じ、奏覽を經候と云々。

  よつ  いまに  ちち     とうらい  したが もう そうろ ところなり  ごふしん   ため  もう そうろうなり
 仍て今于遲々し、到來に随い申し候う所也。御不審の爲に申し候也。

 追伸します
 
六条若宮八幡宮は、御所に近くだったと、恐縮されておられる事、法皇にお伝えしました。近所とはいえ、全然支障はありませんでしたので、何も遠慮はなさらないようにと言っておられます。このことをも、書かれたお手紙もありました。先月に二十七日に受け取っております。箇条書きの事は、頭弁(光雅)が天王寺の法皇のところへ伺いに行くので、彼に託したところ、先日の七日に京都へ戻りました。院からの返事がありました。そして按察使が書いた返書の案文を天王寺の院に診てもらったそうです。そんな訳で、すっかり遅くなってしまったわけなのです。余り遅いのでお疑いになられぬように申し上げます。

文治五年(1189)三月大廿二日甲(壬)子。成勝寺執行法橋昌寛爲使節上洛。被献御消息於師中納言。是泰衡自由請文。聊非御許容之限。速可被下追討 宣旨之由。依重被申也。又以此次。鶴岡塔供養願文。可調給之旨。内々所望給。同導師。可然之僧一人。可令計申請給者。

読下し                         せいしょうじ しぎょう ほっきょうしょうかんしせつ な  じょうらく    ごしょうそこを そちのちうなごん けん らる
文治五年(1189)三月大廿二日甲(壬)子。成勝寺@執行A法橋昌寛使節と爲し上洛す。御消息於師中納言に献ぜ被る。

これ  やすひら じゆう うけぶみ いささか  ごきょうようのかぎ   あらず すみやか ついとう  せんじ   くださる  べ   のよし  かさ    もうさる    よつ  なり
是、泰衡自由の請文、聊かも御許容之限りに非。速かに追討の宣旨を下被る可し之由、重ねて申被るに依て也。

また  こ   ついで もつ    つるがおか とうくよう  がんもん  ととの たま  べ    のむね ないない  しょもう  たま
又、此の次を以て、鶴岡の塔供養の願文、調へ給ふ可き之旨、内々に所望し給ふ。

おな    どうし   しか  べ   のそう ひとり  はか    せし   もう   う   たま  べ   もの
同じく導師、然る可き之僧一人、計らい令め申し請け給ふ可き者り。

参考@成勝寺は、六勝寺の一つ(せいしょうじ)は崇徳天皇御願。保延5(1139)年落慶供養。
参考A執行は、寺の政務事務担当だが、恐らく実務はしていなくて、その職の年貢徴収権を持っているものと推測される。

現代語文治五年(1189)三月大二十二日壬子。成勝寺の政務事務職の法橋一品坊昌寛は派遣員として京都へ上ります。お手紙を吉田経房卿に渡します。それは、泰衡の身勝手な言い分の返書は、少しも納得が出来ないので、さっさと征伐の朝廷の正式文書を出してくださいと、重ねての申し出であります。
又、この機会に鶴岡八幡宮に五重塔建立の神様へのお願い文を、きちんとした文書に調へて欲しいと、内々にお願いされました。同様に開眼供養の指導僧を、それなりの身分の坊さんを一人、選んで欲しいと頼むように申されました。

文治五年(1189)三月大卅日壬(庚)申。霽。白氣經天。貫北斗魁星。長五丈餘云々。

読下し                          はれ  はっきてん  へ     ほくとかいせい  つらぬ   なが  ごじょうよ   うんぬん
文治五年(1189)三月大卅日壬(庚)申。霽。白氣天を經て、北斗魁星を貫く。長さ五丈餘と云々。

現代語文治五年(1189)三月大三十日庚申。晴れました。白い帯のようなものが、空に横たわり、北斗七星の第一星を貫いています。長さは五丈(15m)ちょっとだとさ。

四月へ

吾妻鏡入門第九巻   

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