吾妻鏡入門第九巻   

文治五年(1189)己酉四月小

北条五郎時房(時連)の元服式

文治五年(1189)四月小三日乙(癸)亥。鶴岡祭。二品御參宮。馬塲儀。馬長〔十騎〕流鏑馬〔十五騎〕競馬〔三番〕其後。於廻廊内有相撲〔十五番〕次三島社祭也。流鏑馬〔十騎〕競馬〔三番〕相撲〔十番〕也。

読下し                         つるがおか まつり にほん ごさんぐう   ばば   ぎ   あげうま  〔じっき〕   やぶさめ  〔 じうごき 〕 くらべうま 〔さんばん〕
文治五年(1189)四月小三日乙(癸)亥。鶴岡の祭。二品御參宮。馬塲の儀、馬長@〔十騎〕流鏑馬〔十五騎〕競馬〔三番〕

 そ  ご   かいろうない  をい  すまい  〔 じうごばん 〕  あ     つい  みしましゃ  まつりなり  やぶさめ  〔 じっき 〕 くらべうま 〔さんばん〕 すまい 〔じうばん〕 なり
其の後、廻廊内に於て相撲〔十五番〕有り。次で三島社の祭也。流鏑馬〔十騎〕競馬〔三番〕相撲〔十番〕也。

参考@馬長(あげうま)は、馬飾りを着け着飾った者が乗る。  

現代語文治五年(1189)四月小三日癸亥。鶴岡八幡宮のお祭です。頼朝様が宮参りをなさいました。奉納の馬場での儀式は、飾り馬〔十騎〕流鏑馬〔十五騎〕競馬〔三番〕。その後、神社の本殿から門へとぐるりとめぐらされた廊下で囲まれた内側で相撲〔十五番〕を奉納しました。
次ぎに境内社の三島神社への奉納です。流鏑馬〔十騎〕競馬〔三回〕相撲〔十番〕です。

文治五年(1189)四月小十八日庚(戊)寅。北條殿三男〔十五歳〕於御所被加首服。秉燭之程。於西侍有此儀。武州。駿河守廣綱。遠江守義定。参河守範頼。江間殿。新田藏人義兼。千葉介常胤。三浦介義澄。同十郎義連。畠山次郎重忠。小山田三郎重成。八田右衛門尉知家。足立右馬允遠元。工藤庄司景光。梶原平三景時。和田太郎義盛。土肥次郎實平。岡崎四郎義實。宇佐美三郎祐茂等著座〔東上〕二品出御。先三獻。江間殿令取御杓給。千葉小太郎成胤相代役之。次童形依召被参進。御前蹲居。次三浦十郎義連被仰可爲加冠之由。義連頻敬屈。頗有辞退之氣。重仰曰。只今上首多祗候之間。辞退一旦可然。但先年御出三浦之時。故廣常与義實諍論。義連依宥之無爲。其心操尤被感思食キ。此小童。御臺所殊憐愍給之間。至將來。欲令爲方人之故。所被計仰也。此上不及子細。小山七郎朝光。八田太郎朝重取脂燭進寄。梶原源太佐衛門尉景季。同平次兵衛尉景高。持參雜具。義連候加冠。名字〔時連五郎〕云々。今夜加冠役事。兼日不被定之間。思儲之輩多雖候。當座御計。不能左右事歟。

読下し                ほうじょうどのさんなん 〔じゅうごさい〕 ごしょ  をい    しゅふく  くは  られ
文治五年(1189)四月小十八日庚寅。北條殿三男十五歳御所に於て、首服を加へ被る。

へいしょくのほど にしのさむらい をい  かく  ぎ あ    ぶしゅう  するがのかみひろつな とおとうみのかみよしさだ みかわのかみのりより  えまどの
秉燭之程、 西侍に 於て此の儀有り。武州、 駿河守廣綱、 遠江守義定、 參河守範頼、 江間殿
@

にったのくらんどよしかね ちばのすけつねたね  みうらのすけよしずみ  おな   じゅうろうよしつら  はたけやまのじろうしげただ
 新田藏人義兼、 千葉介常胤、 三浦介義澄、 同じき十郎義連、 畠山次郎重忠、

おやまだのさぶろうしげなり  はったのうえもんのじょうともいえ  あだちのうまのじょうとおもと  くどうのしょうじかげみつ
小山田三郎重成、 八田右衛門尉知家、 足立右馬允遠元、 工藤庄司景光、

かじわらのへいざかげとき   わだのたろうよしもり といのじろうさねひら  おかざきのしろうよしざね  うさみのさぶろうすけもち ちゃくざ    〔ひがし かみ〕
 梶原平三景時、 和田太郎義盛、土肥次郎實平、 岡崎四郎義實、 宇佐美三郎祐茂著座す。東の上

にほん しゅつご   ま   さんこん  えまどのおんしゃく  とらせし  たま    ちばのこたろうなりたね あいかわ     これ  えき
二品出御す。先ず三献。江間殿御酌を取令め給ふ。千葉小太郎成胤相代りて之を役す。

つぎ  どうぎょう め     よっ  さんしんせら    ごぜん  そんきょ    つぎ  みうらのじゅうろうよしつら かかんたるべきのよし おお  られ
次に童形召しに依て參進被れ、御前に蹲踞す。次に三浦十郎義連加冠爲可之由を仰せ被る。

よしつら しき    けいくつ   すこぶ じたいの け あ     かさ    おお    いは   ただいまうわくびおお  しこうの かん  じたい いったん  しかるべ
義連頻りに敬屈し、頗る辞退之氣有り。重ねて仰せて曰く、只今上首多く祇候之間、辞退一旦は然可し。

ただ   せんねん みうら  ぎょしゅつのとき  こひろつねとよしざね  じょうろん   よしつらこれ  なだ      よっ   ぶい
但し、先年三浦に御出之時、故廣常與義實が諍論す。義連之を宥めるに依て無爲なり。

そ   しんそうもっと かん  おぼしめされキ
其の心操尤も感じ思食被キ。

かく  しょうどう    みだいどころこと  れんみん たま  のかん  しょうらい いた      かたうどたらせし     ほっ     のゆえ  はか    おお  られ ところなり
此の小童は、御臺所殊に憐愍し給ふ之間、將來に至るまで方人爲令めんと欲する之故、計らひ仰せ被る所也。

かく  うえ  しさい  およばず おやまのしちろうともみつ はったのたろうともしげ ししょく   と      すす  よ
此の上は子細に不及。小山七郎朝光、八田太郎朝重脂燭
Aを取りて進み寄る。

かじわらのげんたさえもんのじょうかげすえ おな   へいじひょうえのじょうかげたか ぞうぐ じさん    よしつら かかん  こう    みょうじ 〔 ときつらごろう  うんぬん〕
 梶原源太左衛門尉景季、 同じき平次兵衛尉景高雜具を持參す。義連加冠に候ず。名字時連五郎と云々

こんや   かかんやく  こと  けんじつ さだ  られずの かん  おもひもう   のやからおお そうらう いへど  とうざ  おんはから   とこう       あたはずことか
今夜の加冠役の事。兼日、定め不被之間、思儲くる之輩多く候ふと雖も、當座の御計ひ、左右するに不能事歟。

参考@江間殿は、北條四郎義時でこの頃は伊豆の江間郷(北条の沼津側)を貰って独立しているらしい。
参考A
脂燭は、小形の照明具の一種。松の木を長さ45センチメートル、太さ9ミリメートルぐらいに丸く削り、先端を焦がして油を塗り、手元を紙屋紙(こうやがみ)で巻いたもの。紙や布を細く巻いてよった上に油を染み込ませたものもある。夜間の儀式や室内照明に用いた。ししょく。

現代語文治五年(1189)四月小十八日庚寅。北条時政殿の三男〔十五歳〕に、幕府の御所で元服式を行いました。日暮れになって、西の侍所でこの儀式をしました。大内武蔵守義信、駿河守太田広綱、遠江守安田義定、源参河守範頼、江間義時殿、新田蔵人義兼、千葉介常胤、三浦介義澄、同じ三浦十郎義連、畠山次郎重忠、小山田三郎重成、八田右衛門尉知家、足立右馬允遠元、工藤庄司景光、梶原平三景時、和田太郎義盛、土肥次郎実平、岡崎四郎義実、宇佐美三郎祐茂が座に着きました〔東側の上座です〕。
頼朝様がご出座なさいました。まずはお酒を三杯。義時様が(頼朝様に)お酌をしました。次ぎに千葉小太郎成胤が役を替わりました。次ぎに子供が呼ばれて前へ出てきて、頼朝様の前へかしこまってしゃがみました。次ぎに頼朝様が三浦十郎義連が冠親になるように仰せられました。義連は、身体をかがめて、しきりに辞退をしました。頼朝様は重ねて言われるのには、「今は、長老達が多く集ってきているので、一旦は辞退をするのが当然だろう。但し、以前に三浦へ遊びに行った時に、無くなった上総権介広常と岡崎四郎義実が文句を言い合って喧嘩になった。三浦十郎義連がこれを旨くなだめたので、無事におさまった。その時の采配が見事だったので感心した。この子供は、御台所政子様が特に可愛がっているので、将来を考えて頼りになる人にしようと、考えた末に決めたのだ。」と仰せになられました。
この上は、とやかく言う必要はありません。小山七郎朝光と八田太郎知重が灯りを持ってそばへ寄っていきました。梶原源太左衛門尉景季と同じ梶原の平次兵衛尉景高が、元服式の道具を持って参りました。三浦十郎義連が冠をかぶせました。実名は〔時連、あざなは五郎だとさ〕。今夜の元服しきの冠親の役はは、前もって決めていたわけではないので、自分ではないかと期待している者が多かっただろうが、頼朝様のその場での配慮に、文句を言う人はいないだろう。

文治五年(1189)四月小十九日辛(己)夘。梶原平三景時之在京郎從。爲飛脚到着。持參師中納言〔經房卿〕去八日消息。其趣。頼經卿父子。朝方卿父子事。任令申請給之旨。被沙汰切畢。且彼政綱通義顯之状。早可進覽。次山上兵具事。可禁制之旨。被仰座主事又訖。奥州事。被仰合攝政以下諸卿。追可有勅答之旨。蒙 院宣者。又昌寛注申云。去月十九日。按察大納言并侍從朝經篭居。同十三日。彼父子及左衛門尉政綱等被解却見任云々。

読下し                             かじわらのへいざかげとき のざいきょう ろうじゅう  ひきゃく  な   とうちゃく
文治五年(1189)四月小十九日辛(己)夘。 梶原平三景時 之在京の郎從、飛脚と爲し到着す。

そちのちうなごん〔つねふさきょう〕   さぬるようか  しょうそこ  じさん
師中納言〔 經房卿 〕の去八日の消息を持參す。

そ  おもむき よりつねきょうふし  ともかたきょうふし   こと  もう  う   たま  のむね  まかせし     さた   きられをはんぬ
其の趣、頼經卿父子@、朝方卿父子の事、申し請け給ふ之旨に任令め、沙汰し切被畢。

かつう か   まさつな  よしあき   つう    のじょう  はや  しんらんすべ
且は彼の政綱、義顯Aに通ずる之状。早く進覽可し。

つぎ  さんじょう  ひょうぐ  こと  きんぜいすべ   のむね  ざす   おお  らる  こと  またをはんぬ
次に山上Bの兵具の事。禁制可し之旨、座主に仰せ被る仰、又訖。

おうしゅう こと  せっしょういか  しょきょう  おお  あ   せら   おつ  ちょくとう あ  べ   のむね  いんぜん こうむ てへ
奥州の事、攝政以下の諸卿に仰せ合は被れ、追て勅答有る可し之旨、院宣を蒙る者り。

また  しょうかん ちう  もう    い       さんぬ つきじゅうくにち  あぜだいなごん なら   じじゅうともつね ろうきょ
又、昌寛注し申して云はく。去る月十九日、按察大納言并びに侍從朝經篭居す。

おな  じゅうさんにち  か   ふし およ  さえもんのじょうまさつなら   げんにん  げきゃくさる   うんぬん
同じく十三日。彼の父子及び左衛門尉政綱C等、見任Dを解却被ると云々。

参考@頼經卿父子は、藤原頼經と宗長で2月22日条に解雇要求をしている。朝方卿父子も同様。
参考A
義顯は、義経のことで追捕されるべき罪人が公家と同じ名はけしからんと朝廷が勝手に名を義行と変えるが、行だと見つからないので顯にした。
参考B山上は、比叡山の事。この時代「山」といえば比叡山、「寺」といえば三井寺を指した。
参考C
左衛門尉政綱は、兵衛尉政綱の間違いらしい。
参考D見任は、現任。

現代語文治五年(1189)四月小十九日己卯。梶原平三景時の京都駐在の家来が、伝令として到着しました。師中納言吉田経房の八日付けの手紙を持ってきました。
その内容は
(22日条の返事で)、刑部卿藤原頼経と宗長の親子、按察使大納言藤原朝方父子の事は、申されておられるように処分いたしました。又、出雲目代兵衛尉政綱は、義経と通じているとの証拠の手紙を院にご覧いただきます。次ぎに比叡山の僧兵達の武器の保有を禁止するように、筆頭者座主に命令をしました。奥州征伐の朝廷の命令書については、摂政九条兼実以下の公卿たちに検討を言いつけておられるので、追って出されるものと、法皇から承っております。
又、一品房昌寛が書き足して言うのには、先月十九日に按察使大納言藤原朝方と出雲侍従葉室朝経が蟄居しました。同じ十三日に朝方親子と出雲目代兵衛尉政綱は、職を解かれましたとさ。

文治五年(1189)四月小廿一日癸(辛)巳。出雲國目代兵衛尉政綱事。被進 院宣御請文。所被染自筆也云々。
 四月八日みけうそ。同十九日かしこまりて。はいけんつかうまつり候ぬ。まさつなかこと申上候ぬ。いかてか忩もん候ハさらんことを。きみに申あけ候て。あやまち候ハさらん人をうたへ候事ハ候へき。たゝし。ともかたきやう。くにをめされ候ハんこと。返〃ふひんにおもひ給候ひしかとも。きづきのやしろの御せんくうとけられ候ハさらんも。ふひんに思給候。申たる事あらはれ候ぬれは。いかてかおそれはちおもふこと候はさらん。それにてよろついたり候ぬ。くにをは。もとのことくさたして。まさつなゝらぬもくたいをめしつかふへきよしの。御定の候はんとおもひ給候。かつはきみに御公事をとけられ候ハさらん。きハめたるおそれに候。いまはいかてか。きみをはちまいらせす候ハん。よくゝゝおほせふくめられ候て。おもきとかハ候ましきに候。ための里下向つかうまつりたるよし。うけ給候。ひころのいきとほりをさんし候ぬ。
     四月廿一日                 頼朝
 おりふし心なきやうに候おそれハ候しかとも。申上す候も。なかゝゝ又おそれに候。かやうニ申あけさせ給候へく候。
 きみに申あけ候はゝ。たかき人をも。いやしきをも。わたくしをうらみ候事ハ候ハす候。いかに候とも。ことをあやまつ事ハ候ましきに候。へんは候はす。何事をも申あくへく候。またく心へ存候はぬに候。しけく申上候。おそれ憚にこそ候へ。

読下し                            いずものくにもくだい ひょうえのじょう まさつな こと  いんぜん おんうけぶみ すす  らる
文治五年(1189)四月小廿一日癸(辛)巳。 出雲國目代 兵衛尉 政綱 が事、院宣の御請文を進め被る。

みづか ふで  そ   らる ところなり  うんぬん
自ら筆を染め被る所也と云々。

  しがつようか の 御教書   おなじくじうくにち   畏まりて         拝見        仕り     そうらひぬ  正綱が   事 もうしあげそうらいぬ
 四月八日みけうそ。同十九日かしこまりて。はいけんつかうまつり候ぬ。まさつなかこと申上候ぬ。

   い か で か  そうもんそうらは  ざらん  事 を     君 に もうしあげそうろうて    過ち  そうらは  ざらん  人を  訴え そうろうことはそうらうべき
 いかてか忩もん候ハさらんことを、きみに申あけ候て、あやまち候ハさらん人をうたへ候事ハ候へき。

   但 し        朝方卿          国を   召され   そうらわん事   かえすがえす不憫に  思い  たまいそうらいしかども
 たゝし。ともかたきやう。くにをめされ候ハんこと。返〃ふひんにおもひ給候ひしかとも。

    杵築  の  社     の    御遷宮    遂げられ  そうらわ ざらんも   不憫におもいたまいそうろう
 きづきのやしろの御せんくうとけられ候ハさらんも。ふひんに思給候。

  もうしたる こと  現れ   そうらい ぬれば  い か で か  怒 れ  恥   思 う   事  そうらわ ざらん   そ れ に て  萬   いたり  そうらわぬ
 申たる事あらはれ候ぬれは、いかてかおそれはちおもふこと候はさらん。それにてよろついたり候ぬ。

   国 を ば   元 の 如 く    沙 汰 し て        政 綱   な ら ぬ   目 代  を  召し  使 う  べき よしの    ごじょうの そうらわんと   思い たまいそうろう
 くにをは、もとのことくさたして、まさつなゝらぬもくたいをめしつかふへきよしの、御定の候はんとおもひ給候。

   且 は  君 に   おんくじ を  遂げられ  そうらわ ざらん     極 め た る   恐れに そうろう
 かつはきみに御公事をとけられ候ハさらん。きハめたるおそれに候。

   今は    いかでか    君を    恥   参らせず    そうらわん    よくよく    仰せ  含められ   そうろう て
 いまはいかてか。きみをはちまいらせす候ハん。よくゝゝおほせふくめられ候て。

   重き    咎は そうらわまじきに そうろう    爲 則   げこう    仕 り      たるよし    受けたまいそうろう  日頃の   憤 り を      散 じ そうらいぬ
 おもきとかハ候ましきに候。ための里下向つかうまつりたるよし。うけ給候。ひころのいきとほりをさんし候ぬ。

          しがつにじういちにち                                 よりとも
     四月廿一日                 頼朝

    折節    心  無き様に  そうろう 恐れは  そうらい しかども   もうしあげずそうろうも   中々  また 恐れに  そうろう
 おりふし心なきやうに候おそれハ候しかとも、申上す候も、なかゝゝ又おそれに候。

   かように  申し上げ  させ たまいそうろうべく そうろう
 かやうニ申あけさせ給候へく候。

   君に    申し上げそうらわば      貴き   ひとをも     卑しきをも        私を   恨み そうろうことは   そうらわず   そうろう
 きみに申あけ候はゝ、たかき人をも、いやしきをも、わたくしをうらみ候事ハ候ハす候。

   如何にそうろうとも     事を過たずことはそうらましきにそうろう
 いかに候とも、ことをあやまつ事ハ候ましきに候。

  偏頗 そうらわず   なにごとをも申し上ぐべくそうろう   全くこころへぞんじそうろうわぬぬそうろう     しげく申し上げそうろう 恐れはばかりにそうらえ
 へんは@候はす。何事をも申あくへく候。またく心へ存候はぬに候。しけく申上候。おそれ憚にこそ候へ。

参考@偏頗は、考え方や立場などが一方にかたよっていること。不公平なこと。

現代語文治五年(1189)四月小二十一日辛巳。出雲国代官の兵衛尉政綱のことについて、後白河法皇からの手紙にご返事を出されました。自ら筆を取られ書かれたんだそうです。

 四月八日のお手紙を、同月十九日に恐れながら拝見させていただきました。政綱のことについて申し上げます。どうして、他の人から法皇に申し上げられていない事を、わざわざお上に申し上げたのは、罪のない人を訴えている訳ではありません。しかし、按察使大納言藤原朝方卿は、知行国を取上げられた事は、とても気の毒な事だとは思いますけど。杵築神社(出雲大社)のご遷宮をできない事も、残念な事だと思います。言っていた事が、現実となって現れれば、朝方卿は、なんと恥ずかしい事だと思うことでしょう。一事が万事そうなのです。出雲の国を、元のように支配したいなら、兵衛尉政綱ではない代官を使うように決めて命じてくださるように考えてください。一つは、天皇家へのご奉仕をきちんとこなしましょう。究めて恐れ多いことです。今はどうして法皇様に恥をかかせましょうか。よくよく言い聞かせて、重罪にはさせません。為則がこちらへ下ってくるとの事も、承知いたしました。これで日來の怒りもおさまる事が出来ました。

  四月二十一日                 頼朝

 今、このように申し上げるのは、まるで考えが足りないように思われる恐れはありますが、言わないので置くのも又、申し訳ないと思います。このように申し上げていただくようにお願いします。後白河法皇に申し上げずに居れば、身分の高い人も、低い人も、個人を恨む事はないでしょう。どのような場合も、院が事を間違えになる事は無いでしょう。贔屓することなく、何でも申し上げておきたいのです。全く遺恨はありません。これからも頻繁にしつこく申し上げますので、恐縮しております。

文治五年(1189)四月小廿二日甲(壬)午。奥州追討事。 法皇雖御坐天王寺。爲藏人大輔定經奉行。去九日。於 禁裏有其沙汰。仍師中納言得其仰詞。所被書下御教書也。
 奥州追討事。爲 朝大事之間。且被仰合人々。且其間御祈事なんと沙汰間。于今遲々。無左右可被遣官苻之由。欲仰遣之處。遮言上尤神妙。泰衡申状。前後相違。返々奇恠。官使出立之間。無左右不被下。且又發向。一定何比乎。成儲 宣旨。可被待重申状歟。次役夫工米。八月上棟。定事也。東大寺大柱可引付事。其外 朝家大事等指合。件事等。廻遠慮不事闕之樣。可有計沙汰歟。且追討御祈也。專神事佛事者。何無冥助乎之由殊存念チ可有沙汰者也。

読下し                             おうしゅうついとう こと    ほうおう てんのうじ  おは    いへど  くろうどたいふ さだつね  ぶぎょう  な
文治五年(1189)四月小廿二日甲(壬)午。奥州追討の事。 法皇天王寺に御坐すと雖も、藏人大輔@定經を奉行と爲し。

さんぬ ここのか    きんり  をい  そ    さた あ     よつ そちのちうなごんそ  おお  ことば  え     みぎょうしょ  かきくださる ところなり
去る九日。 禁裏に於て其の沙汰有り。仍て師中納言其の仰せ詞を得て、御教書を書下被る所也。  

  おうしゅうついとう こと    ちょう だいじ   な   のかん  かつう ひとびと おお  あ     らる
 奥州追討の事。 朝の大事を爲す之間。且は人々に仰せ合はせ被る。

  かつう そ   かん おいのり こと       さた       かん  いまに  ちち
 且は其の間御祈の事なんど沙汰するの間、今于遲々す。

   とこう な   かんぷ   つか  さる  べ   のよし  おお  つか       ほつ   のところ  さへぎっ ごんじょう もっと しんみょう
 左右無く官苻Aを遣は被る可し之由、仰せ遣はさんと欲する之處。遮てBの言上、尤も神妙。

  やすひら もう  じょう  ぜんご あいたが   かへ がへ    きっかい  かんし しゅったつのかん とこう な   くだされず
 泰衡が申す状、前後相違へ、返す々すも奇恠。官使出立之間、左右無く下被不。

  かつう またはっこう  いちじょういず ころぞや  せんじ  な   もう     かさ   もう  じょう  またれるべ  か
 且は又發向、一定何れの比乎。宣旨を成し儲け、重ねて申し状を待被可き歟。

  つぎ  やくぶたくまい  はちがつじょうとう  さだ      ことなり  とうだいじ  おおばしら ひ  つ  べ  こと  そ   ほか  ちょうけ   だいじら さ   あ
 次に役夫工米C、八月上棟、定まれる事也。東大寺の大柱引き付く可き事。其の外、朝家の大事等指し合ふ。

  くだん  ことら  えんりょ  めぐ    ことかかざ   のよう  はか   さた あ   べ   か
 件の事等、遠慮を廻らし事闕不る之樣、計り沙汰有る可き歟。

  かつう ついとう おんいのりなり しんじ ぶつじ  もっぱ       ば   なん  えいじょ な       や のよし  こと  ぞん ねんぢ さた あ   べ  ものなり
 且は追討の御祈也。神事佛事を專らにすれ者、何ぞ冥助無からん乎之由、殊に存じ念チ沙汰有る可き者也。  

参考@大輔は、律令制で、八省の次官の上位。
参考A
官府は、太政大臣が発するので「太政官府」とも云う。
参考Bは、官府を出すつもりだったが、その前に来たので殊勝である。と云う建前。実際には、出す気がなかったのに頼朝に催促をされ渋々出すのを皮肉っている。
参考C役夫工米は、正式には造神宮役夫工米といい、伊勢神宮の式年遷宮の一国平均役(一国残らず)かけられた。読みは「やくぶたくまい」とも「やくぶたくみまい」とも読んだ。一般には荘園には国司は課税できないが、一国平均役はそれも課税できるので、國衙の役人にとっては、公権力の行使と臨終収入ともなる。室町時代になると段米とか段銭と呼ばれる。

現代語文治五年(1189)四月小二十二日壬午。奥州平泉を征伐する事について、後白河法皇は四天王寺に行っておられても、蔵人大輔藤原定経が担当して、院が裁決を行いました。そこで、吉田経房は法皇のお言葉を戴いて、お手紙を書き送って来ました。

 奥州平泉の征伐については、朝廷にとって一大事なので、公卿たちで会議をしました。一つは、戦のお祈りの事などを相談していたので、今まで遅くなりました。何も問題が無いので、直ぐに太政官布告の公文書を出すようにと、法皇様が命じようとする前に、それを言ってきたのは感心な事であります。泰衡の言っていることは、話が前後食い違っていたり、かなりけしからん話なのですが、朝廷の公の使いを出しているので、安易に発行はしません。
ところで、出発したいのは何時なのでしょう。朝廷の問責の決議を用意しますので、続いての泰衡からのお手紙を待っております。次ぎに伊勢神宮の式年遷宮の年貢納付ですが、八月に上棟式と決まっております。東大寺造営の大柱を寺へ引き届ける事。そのほか、朝廷にとっての大事な事柄が重なっています。それらの事を、深く智恵をめぐらして事が頓挫しないように、配慮して行動してください。それと、征伐のためのお祈りです。神仏への奉仕をきちんとすれば、どうして神仏の配慮がないものでしょうか。特に良くお考えになって行動してください。

文治五年(1189)四月小廿四日丙(甲)申。鶴岡臨時祭事。來閏月分。猶可被致礼奠之由。有其沙汰云々。

読下し                            つるがおかりんじさい こと  きた うるうづきぶん なお  らいてん いたさるべ   のよし   そ    さた あ    うんぬん
文治五年(1189)四月小廿四日丙(甲)申。鶴岡臨時祭の事。來る閏月分、猶、礼奠を致被可し之由、其の沙汰有りと云々。

現代語文治五年(1189)四月小二十四日甲申。鶴岡八幡宮の臨時の祭について、来月の閏月を、念入りに式典をするように、命じられましたとさ。

参考通常正式の式典は閏月にはやらないものだが、ここではあえてやる。

閏四月へ

吾妻鏡入門第九巻   

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