吾妻鏡入門第九巻   

文治五年(1189)己酉閏四月大

参考閏月は、陰暦では「大の月」が三十日、「小の月」が二十九日でそれぞれ六月だと計三五四日で十一日足りないので、適度な時期に閏月を入れる。但し閏月は十五日が満月の日になるようにする。

文治五年(1189)閏四月大一日庚寅。右武衛使者參着。被申條々。去月廿日大内修造事始也。藤中納言〔兼光右小弁棟範。大夫史廣房等奉行之。御管領八ケ國。可令宛其役給歟。雖爲官苻未到以前。先内々可觸申之由。蒙 院宣者。亦 院御厩司事。被仰付候也。而此職。元者按察大納言奉行也。彼亞相依御鬱陶。被改官職之處。能保以御縁者。不伺御意。無左右申領状之條。達御聽之時。成所望歟之由。定可被貽御疑心。仍辞申訖者。

読下し                      うぶえい    ししゃ さんちゃく  もうさる じょうじょう さんぬ つきはつかだいだい しゅうぞう ことはじめなり
文治五年(1189)閏四月大一日庚寅。右武衛@の使者參着す。申被る條々、去る月廿日大内A修造の事始也。

とうのちゅうなごん〔かねみつ〕   うしょうべんむねのり  たいふさかんひろふさらこれ ぶぎょう   ごかんれいはっかこく   そ   えき  あてせし  たま  べ   か
藤中納言〔兼光〕、右小弁棟範、大夫史廣房等之を奉行す。御管領八ケ國Bに其の役を宛令め給ふ可き歟。

かんぷ いま  いた     いぜん た    いへど   ま  ないない  ふ   もう  べ    のよし  いんぜん こうむ てへ
官苻未だ到らざる以前爲りと雖も、先ず内々に觸れ申す可し之由。院宣を蒙る者れば、

また  いん みんまやづかさ こと  おお  つ   られそうろうなり
亦、院の御厩司Cの事、仰せ付け被候也。

しか    こ   しょく  もとは あぜだいなごん  ぶぎょうなり
而るに此の職、元者按察大納言の奉行也。

か   あそう   ごうっとう   よつ    かんしょく あらた らる  のところ  よしやす ごえんじゃ もつ    ぎょい   うかが ず     とこう  な  りょうじょうもう のじょう
彼の亞相D御鬱陶に依て、官職を改め被るE之處、能保御縁者を以て、御意を伺は不に、左右無く領状申す之條、

おんきこえ たつ    のとき  しょもう  な   か  のよし  さだ    ごぎしん   のこさる  べ    よつ  じ   もう   をは    てへ
御聽に達する之時、所望を成す歟之由、定めし御疑心を貽被る可し。仍て辞し申しF訖んぬ者り。  

参考@右武衛は、右兵衛の唐名で、この場合一条能保の事。
参考A大内は、大内裏のこと。
参考B御管領八箇國は、頼朝が官領している関東御分国。
参考C御厩司は、院の厩の別当。院の直接の身の回りの世話をするので、何処へでも入れ、院に逢う事が出来、取次ぎ役をするので陰の実力者となる。
参考D亞相は、大納言の唐名。
参考E御鬱陶に依て、官職を改め被るは、文治五年(1189)二月大廿二日条に義経同意者として解任を申し入れている。
参考F辞し申すは、京風に他の嫉妬を呼ぶので一度は断るのが慣習。

現代語文治五年(1189)閏四月大一日庚寅。右武衛一条能保の使いがやってきました。伝言してきたいくつかの内容は、先月二十日に、大内裏の修理の始業式のことを検討しました。中納言藤原兼光、右小弁平棟範、大夫史広房達が担当をする事になり、その費用については、頼朝様が管理をしている関東の八カ国に当てることにしました。太政官から出る命令の太政官符は、未だ受け取ってはおりませんが、先に内々にお知らせするように後白河法皇から言われたからです。また、院の厩の長官を命じられました。この職は、今までは按察大納言朝方の役職でした。その大納言は頼朝様からのお怒りの申し入れで解職されたので、私一条能保は頼朝様の知り合いだからと云って、頼朝様のご意向を伺いもしないで、簡単に了解をしてしまっては、頼朝様のお耳に入ったときに、私が希望したかのように、お疑いが残ってしまうでしょうから、お断りをしました。と伝えてきました。

文治五年(1189)閏四月大二日辛夘。御臺所參鶴岡八幡宮給。若公扈從給。

読下し                    みだいどころ つるがおかはちまんぐう まい たま    わかぎみこしょう  たま
文治五年(1189)閏四月大二日辛夘。御臺所、鶴岡八幡宮に參り給ふ。若公扈從し給ふ。

現代語文治五年(1189)閏四月大二日辛卯。御台所政子様は、鶴岡八幡宮へお参りに参られました。若君の万寿様(後の頼家)もご一緒でした。

文治五年(1189)閏四月大四日癸巳。被献武衛御返事。造内裏事。早可致沙汰。御厩司事。 勅定之上。非可令辞申給。美津御牧者。如承及者。爲御厩管領地歟。爲後代。今度尤可令申付給哉云々。仍彼使者皈洛云々。

読下し                      ぶえい   ごへんじ    けん  らる    ぞうだいり  こと   はや  さた いた  べ
文治五年(1189)閏四月大四日癸巳。武衛に御返事を献じ被る。造内裏の事。早く沙汰致す可し。

みんまやづかさ  こと  ちょくじょうのうえ   じ   もう  せし  たま  べ    あらず
御厩司の事。 勅定之上は、辞し申さ令め給ふ可きに非。

 みつ   みまき は   うけたまは およ ごとくんば みんまやかんりょう ち た  か
美津の御牧@者、承り 及ぶ 如者、 御厩管領の地爲る歟。

こうだい  ため    このたび もっと もう  つ   せし  たま  べ   や  うんぬん
後代の爲に、今度、尤も申し付け令め給ふ可き哉と云々。

よつ  か   ししゃ きらく     うんぬん
仍て彼の使者皈洛すと云々。

参考@美津の御牧は、八巻文治四年(1188)七月小十三日条に美豆牧とあり、旧山城国綴喜郡美豆村。現京都府京都市伏見区淀美豆町。京都競馬場西南。

現代語文治五年(1189)閏四月大四日癸巳。一条能保様にご返事を送られました。大内裏造営のことは、御分国に当てる件を了解したと早く伝える様に。御厩司の役職については、後白河法皇から命令書が出れば、断る必要はない。天皇家の牧場であった美津御牧のことは、伺っておりますので、院の御厩が管理する地なのです。後々のために今回きちんと命じておきますとのことです。これで、一条能保様の使いは京都へ帰りましたとさ。

参考荘園でも、納める物によって呼び名が違う。荘=水田。牧=牛馬。園=畑作物。杣=材木、茸。浦=塩、昆布。(三浦は甘海苔。)

文治五年(1189)閏四月大八日丁酉。二品參鶴岡宮給。是爲覽御塔營作事也。大略成功。其上召工等於御前。仰云。來六月上旬。可有供養。不可遲怠。各賜白布二端云々。

読下し                        にほん  つるがおかぐう まい  たま    これおんとうえいさく  こと  み   ためなり  たいりゃくこう な
文治五年(1189)閏四月大八日丁酉。二品、鶴岡宮に參り給ふ。是御塔營作の事を覽る爲也。大略功を成す。

そ   うえたくみらを ごぜん  め     おお    い       きた  ろくがつじょうじゅん  くようあ   べ     ちたい    べからず
其の上工等於御前に召し、仰せて云はく、來る六月上旬に供養有る可し。遲怠する不可。

おのおの しらふにたん   たま    うんぬん
 各に白布二端を賜ふと云々。

現代語文治五年(1189)閏四月大八日丁酉。二品頼朝様は、鶴岡八幡宮へお参りをなされました。それは三重塔の造営進行を見るためです。殆ど出来上がっております。そこで、大工さん達を目の前に呼びつけて、「来る六月上旬に完成供養の式をする予定なので、遅れないようにしなさい。」とおっしゃられました。そして、それぞれに白い布二反を褒美に与えられましたとさ。

文治五年(1189)閏四月廿一日庚戌。泰衡容隱義顯事。公家爭可有宥御沙汰哉。任先々申請之旨。早被下追討 宣旨者。塔供養之後。可令遂宿意之由。重被遣御書於師中納言云々。

読下し                        やすひら  よしあき  ようにん    こと  こうけ いかで なだ     おんさた  あ   べ   や
文治五年(1189)閏四月大廿一日庚戌。泰衡、義顯を容隱する事、公家爭か宥めの御沙汰有る可き哉。

さきざき  もう  う   のむね   まか    はや ついとう  せんじ  くださる  てへ
先々の申し請け之旨に任せ、早く追討の宣旨を下被る者れば。

とう くよう ののち  すくい   と   せし  べ   のよし  かさ    おんしょをそちのちゅうなごん   つか  さる    うんぬん
塔供養之後、宿意@を遂げ令む可し之由、重ねて御書於師中納言Aに遣は被ると云々。

参考@宿意(すくい)は、奥州征伐と征夷大将軍任官。
参考A帥中納言は、藤原経房で関東申し次=関東に対する京都の窓口。鎌倉が勢力を持ってくると朝廷で幅が利く。

現代語文治五年(1189)閏四月大廿一日庚戌。平泉の藤原泰衡が義顕(義経)をかくまっているのを、京都朝廷は事を荒立てずに寛容な対処をするつもりなのですか。前々からの申し出のとおりに、早く討伐しろと朝廷の命令書を出してくれれば良いのですよ。三重塔の完成供養の後には、希望を実行したいのだからと、更に手紙を師中納言経房へお出しになられましたとさ。

文治五年(1189)閏四月卅日已未。今日。於陸奥國。泰衡襲源豫州。是且任 勅定。且依二品仰也。与州在民部少輔基成朝臣衣河舘。泰衡從兵數百騎。馳至其所合戰。与州家人等雖相防。悉以敗績。豫州入持佛堂。先害妻〔廿二歳〕子〔女子四歳〕次自殺云々。
 前伊豫守從五位下源朝臣義經〔改義行。又義顯。年卅一〕
 左馬頭義朝々臣六男。母九條院雜仕常盤。壽永三年八月六日任左衛門少尉。蒙使 宣旨。九月十八日叙留。十月十一日拝賀〔六位尉時不申畏〕則聽院内昇殿。廿五日供奉大嘗曾御禊行幸。元暦元年八月廿六日賜平氏追討使官苻。二年四月廿五日賢所自西海還宮。入御朝所間供奉。廿七日補 院御厩司。八月十四日任伊予守〔使如元〕文治元年十一月十八日解官。

読下し                     きょう むつのくに   をい   やすひら げんよしゅう  おそ
文治五年(1189)閏四月大卅日己未。今日陸奥國に於て、泰衡は源豫州を襲ふ。

これ かつう ちょくじょう  まか   かつう  にほん  おお    よっ  なり  よしゅう  みんぶしょうゆうもとなり あそん ころもがわ たち  あ
是、且は勅定@に任せ、且は二品が仰せに依て也。豫州、民部少輔基成A朝臣の衣河の舘に在り。

やすひら へいすうひゃっき したが  そ   ところ  は   いた  かっせん    よしゅう  けにんら あいふせ  いへど   ことごと もっ  はいせき
泰衡、兵數百騎を從へ、其の所に馳せ至り合戰す。豫州が家人等相防ぐと雖も、悉く以て敗績す。

よしゅう じぶつどう   い     ま   つま 〔にじうに〕  こ  〔じょしよんさい〕   がい    つひ  じさつ    うんぬん
豫州持佛堂
Bに入り、先ず妻〔廿二〕〔女子四歳〕を害し、次で自殺すと云々。

参考@勅定は、朝廷の命令。
参考A民部少輔基成は、泰衡の母方の祖父。性はどちらも藤原。
参考B持仏堂は、日常的に礼拝する仏像(念持仏)を安置する堂

  さきのいよのかみ じゅごいのげ みなもとのあそんよしつね 〔よしゆきまたよしあき  あらた  としさんじういち〕
 前伊豫守從五位下  源朝臣義經 〔義行又義顯と改む。年卅一〕

  さまのかみよしともあそんろくなん  はは  くじょういん ぞうし  ときは
 左馬頭義朝々臣六男 母は九條院雑仕C常盤D

  じゅえいさんねんはちがつむいか さえもんのしょうじょう にん   し   せんじ  こうむ
 壽永三年八月六日  左衛門少尉に任じ、使の宣旨を蒙る。
E

  くがつじうはちにち じょりゅう  じうがつじういちにち はいが 〔ろくいのじょう とき かしこま   もうさず〕
 九月十八日 叙留。F十月十一日 拜賀〔六位尉の時 畏りGを不申〕

  すなは いんない しょうでん ゆる      にじうごにち だいじょうえ  ごけい  ぎょうこう   ぐぶ
 則ち院内の昇殿を聽さる。廿五日 大甞會の御禊の行幸に供奉す。

  げんりゃくがんねんはちがつにじうろくにち へいしついとうし   かんぷ  たま
 元暦元年八月廿六日   平氏追討使の官府を賜はる。

  にねんしがつにじうごにち かしこどころ さいかいよ せんぐう  あいたんどころ にゅうぎょ かん ぐぶ
 二年四月廿五日 賢所H西海自り還宮、 朝所に 入御の間、供奉す。

  にじうしちにち いん みんまやづかさ ぶ   はちがつじうよっか  いよのかみ  にん    〔 し    もと   ごと〕
 廿七日 院の御厩司に補す。八月十四日 伊豫守に任ず〔使は元の如し〕

  ぶんじがんえんじういちがつじうはちにち げかん
 文治元年十一月十八日  解官す。

参考C雜仕は、下女。
参考D常盤は、忠道の養女として九条院(呈子)へ奉公に出る。
参考E壽永三年八月六日任左衛門少尉の時は、正七位上。
参考F九月十八日叙留の時は、従六位下。
参考G畏りは、礼儀として一度は辞退するのが京風なのだが、義經はそれを知らず直ぐに受けた。
参考H賢所は、三種の神器。

現代語文治五年(1189)閏四月大三十日己未。今日、東北で藤原泰衡が義経を襲いました。これは、朝廷の命令と頼朝様の圧力に抗し切れないからです。義経は泰衡の外祖父民部少輔基成の衣川の館におりました。泰衡は数百の騎馬武者でそこへ走って攻めたので、義経の家来が防御しようと戦いましたが、皆全て負けてしまいました。義経は、自分が何時も拝んでいる守り本尊の仏様を安置している持仏堂に入って、妻二十二歳と娘四歳を殺した上で、自殺しましたとさ。

 前伊予守従五位下 源義経〔義行とも義顕とも名を変えられました。年は卅一才です〕

 左馬頭義朝の六男で母は九条院呈子に仕える雑用係の官女常盤です。寿永三年(1184)八月六日に左衛門府の少尉に任命され、検非違使への法皇の命を与えられました。九月十八日は従六位を与えられ、十月十一日にはお目通りを許され、〔六位の任命に礼儀としての辞退の儀式をしませんでした〕院の殿中への昇りを許されました。二十五日に天皇の儀式の大甞会に望み天皇が鴨川でみそぎをした際の警備をしました。元暦元年八月二十六日に平家を討伐する司令官任命を与えられました。二年四月二十五日に神鏡八咫鏡(やたのかがみ)を平家から取り返しました。公卿の勤務處へお入りになるお供をしました。二十七日院の取次ぎの厩司に任命され、八月二十四日に父義朝と同じ伊予守に任命されました〔検非違使はそのまま〕。文治元年十一月十八日全ての官職は取上げられました。

参考没年記事は、このように死んだ人の官職履歴を記入しているのを没年記事という。九條院は、忠道の幼女呈子。雑仕は、下女。左衛門少尉は、正七位上。使は、検非違使。叙留は従六位下。

説明は、当時は身分制度が行渡っていたので、人や家格の位や本来の力を現す。分をわきまえると分際。分に限りがあるので分限。分に従って随分。分に合わせて答えると応分。自分に過ぎたものが過分。平安中期からは家格に応じた家職があるとされる。摂関家は本流のみ、院の別当になれるのは摂関家の分家。過分な分不相応な位になると分に人が耐え切れ無くなるので、それを利用して分に相応しくない位を与え死に追いやる「位打ち」と言う一種の呪が存在すると思われていた。典型的な例が実朝の場合である。

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