吾妻鏡入門第九巻   

文治五年(1189)己酉五月小

文治五年(1189)五月小八日丁卯。鶴岡宮寺内新造塔婆。被塗朱丹也。行政。俊兼等奉行之。當宮別當供僧等群集云々。

読下し                   つるがおかぐうじ ない しんぞう  とうば    しゅ   ぬらる   なり   ゆきまさ  としかねら これ  ぶぎょう
文治五年(1189)五月小八日丁卯。鶴岡宮寺@内の新造の塔婆に朱丹を塗被る也。行政、俊兼等之を奉行す。

とうぐう   べっとう   ぐそうら ぐんしゅう   うんぬん
當宮の別當、供僧等群集すと云々。

参考@宮寺は、八幡宮寺。別當は、一人。供僧は、二十五坊あったと云われる。

現代語文治五年(1189)五月小八日丁卯。鶴岡八幡宮寺内の新しく建てている三重塔に朱を塗らせました。主計允藤原行政と筑後権守俊兼が指揮担当です。八幡宮寺の筆頭僧侶やその他の坊さん達も大勢群がってきましたとさ。

文治五年(1189)五月小十七日丙子。可召返伊豆國流人前律師忠快之由。 宣下状到着。去月十五日源中納言〔通親〕左大弁宰相〔親宗〕少納言重繼朝臣。右少弁定經等參陣。奉行職事宮内大輔資實云々。同時被召返流人。
 前内藏頭信基朝臣〔備後國〕  前中將時實朝臣〔但不及城外云々〕
 前兵部少輔尹明入道〔出雲國〕 藤原資定〔淡路國〕
 前僧都全眞〔安藝國〕     前法眼能圓〔法勝寺前上座備中國〕
 前法眼行命〔熊野前別當常陸國〕等也。

読下し                       いずのくに  るにん さきのりっしちゅうかい  め   かへ  べ   のよし  せんげじょう とうちゃく
文治五年(1189)五月小十七日丙子。伊豆國の流人前律師忠快@を召し返す可し之由の宣下状到着す。

さんぬ つきじゅうごにち みなもとのちゅうなごん〔みちちか 〕 さだいべんさいしょう〔ちかむね〕  しょうなごんしげつぐあそん  うしょうべんさだつねら さんじん
去る月十五日、 源中納言〔通親A、 左大弁宰相〔親宗〕、 少納言重繼朝臣、右少弁定經等參陣す。

ぶぎょう  しきじ     くないたいふすけざね   うんぬん
奉行の職事Bは、宮内大輔資實と云々。

おな  とき  め   かへさる   るにん
同じ時に召し返被るC流人は、

  さきのくらのかみのぶもとあそん 〔えちごのくに〕       さきのちゅうじょうときざねあそん〔ただ じょうがい  およばず  うんぬん〕
 前内藏頭信基朝臣D〔備後國〕    前中將時實朝臣E〔但し城外に不及Fと云々〕

  さきのひょうぶしょうゆうこれあきにゅうどう〔いずものくに〕  ふじわらすけさだ〔あわじのくに〕
  前兵部少輔尹明入道G〔出雲國〕  藤原資定〔淡路國〕

  さきのぞうづぜんしん 〔あきのくに〕               さきのほうげんのうえん〔ほっしょうじさきのじょうざ びっちゅうのくに〕
 前僧都全眞H〔安藝國〕       前法眼能圓I〔法勝寺前上座 備中國〕

  さきのほうげんぎょうめい〔くまのさきのべっとう ひたちのくに〕らなり
 前法眼行命J〔熊野前別當 常陸國〕等也。

参考@前律師忠快は、小河律師忠快で、平教盛の子供、丹波小河荘(現亀岡市小川)。
参考A源中納言通親は、土御門通親で反幕派だが、後白河が死んだ後に兼実を追い落とし実権を握る。
参考
B奉行の職事は、担当司会者。
参考
C召返は、釈放する。
参考D前内藏頭信基朝臣は、平氏。
参考E前中將時實朝臣は、平時忠の子供。平時忠は「この一門にあらざるむ人は皆人非人なるべし」と言った人。
参考F但不及城外は、京から出さない。
参考G前兵部少輔尹明入道は、安徳天皇の蔵人。
参考H前僧都全眞は、比叡山僧都で清盛の猶子。猶子は、なお子の如しで、相続を伴わないが、子と同様の待遇を受ける。
参考I前法眼能圓は、時忠の父違いの弟。
参考J前法眼行命〔熊野前別當〕は、三井寺から熊野別当になった。

現代語文治五年(1189)五月小十七日丙子。伊豆の国へ流罪になっている前律師忠快を釈放するようにとの、後白河法皇の命令書が届きました。
先月の十五日に、中納言源通親、左大弁宰相親宗、少納言重継、右少弁定経が会議に出席をしました。担当の司会者である奉行職事は宮内大輔資実だそうです。
同じ時に釈放される流人は、
前内蔵頭平信基朝臣〔備後国(広島県東部)〕、前中将時実朝臣〔但し京都の外へは出てはいけないんだとさ〕、前兵部少輔尹明入道(安徳天皇の蔵人)〔出雲国(島根県)〕、藤原資定〔淡路国(兵庫県淡路島)〕、前僧都全真〔安藝国(広島県)〕、前法眼能圓〔法勝寺の前の上座、備中国(岡山県)〕、前法眼行命〔熊野神社の前の長官、常陸国(茨城県)〕等です。

解説:ここでは、奥州征伐をしたい頼朝の足元を見て、後白河がその意向を受けず、平氏の釈放を勝手に取り決めている。

文治五年(1189)五月小十九日戊寅。鶴岡塔供養事。可爲來月九日之由。被定之間。御導師御願文等事。先日被申師中納言訖。仍唱導并伴僧等施物已下事。日來有其沙汰。今日。先龍蹄八疋於南面覽之。行政。俊兼。盛時等奉行之。武藏守於御前立御馬。次第。
  一疋〔河原毛 千葉介進〕     一疋〔葦毛 小山兵衛尉進〕
  一疋〔鴾毛 三浦介進〕      一疋〔黒 信濃守進〕
  一疋〔栗毛 源藏人大夫進〕    一疋〔黒栗毛 遠江守進〕
  一疋〔糟毛 佐々木四郎左衛門尉進〕一疋〔黒 相摸守進〕

読下し                      つるがおかとう  くよう   こと  らいげつここのか な  べ    のよし  さだ  らる  のかん
文治五年(1189)五月小十九日戊寅。鶴岡塔の供養の事、來月九日と爲す可し之由、定め被る之間。

 ごどうし    ごがんもんら  こと  せんじつ そちのちゅうなごん もうされをは    よつ  しょうどう なら    ばんそうら   せもつ  いか  こと  ひごろ そ  さた あ
御導師、御願文等の事、先日師中納言に申被訖んぬ。仍て唱導并びに伴僧等の施物已下の事、日來其の沙汰有り。

きょう    ま  りゅうてい はっぴきなんめん   をい  これ  み     ゆきまさ  としかね  もりときら これ   ぶぎょう
今日、先ず龍蹄@八疋南面Aに於て之を覽る。行政、俊兼、盛時等之を奉行す。

むさしのかみ ごぜん  をい  おんうま  た       しだい
武藏守御前に於て御馬を立つる。次第B

    いっぴき 〔かわらげ   ちばのすけしん  〕             いっぴき 〔あしげ  おやまのひょうえのじょうしん 〕
  一疋〔河原毛 千葉介進ず〕      一疋〔葦毛 小山兵衛尉進ず〕

    いっぴき〔つきげ   みうらのすけしん  〕               いっぴき〔くろ  しなののかみしん 〕
  一疋〔鴾毛 三浦介進ず〕       一疋〔黒 信濃守進ず〕

    いっぴき〔くりげ    げんくろうどたいふしん  〕           いっぴき〔くろくりげ   とおとうみのかみしん 〕
  一疋〔栗毛 源藏人大夫進ず〕     一疋〔黒栗毛 遠江守進ず〕

    いっぴき〔かすげ   ささきのしろうさえもんのじょう   しん 〕     いっぴき〔くろ  さがみのかみしん 〕
  一疋〔糟毛 佐々木四郎左衛門尉進ず〕  一疋〔黒 相摸守進ず〕

参考@龍蹄は、体高四尺以上の馬、四尺以下を駒。
参考A南面は、鎌倉御所(大倉)の中に南北に分ける塀があり、真ん中に門があった。北側を私邸とし、南を公邸としていた。頼朝は殆ど南へ出っ張り、頼家は北に閉じ篭り、実朝は行ったり来たりしている。
参考
B次第は、献上身分の順番。

参考馬の毛色は、参考文「うの項・うまのけなみ」を見るべし。

現代語文治五年(1189)五月小十九日戊寅。鶴岡八幡宮寺の三重塔の完成供養の日を、来月九日とするように決められましたので、当日の式典指導の坊さんの御導師や、神様に捧げる文章の差配を先日師中納言経房に言い送っております。それにお経を歌う人やお供の坊さん達へのお布施などの事を、日頃検討をしています。今日、まずお布施用の馬八頭を御所の公務の場所南面でこれを検査しました。主計允藤原行政と筑後権守俊兼と平民部烝盛時がこれの担当差配をしました。大内武蔵守義信が頼朝様の御前へ馬を引いてきました。順番は、

 一疋〔河原毛 千葉介常胤の提供〕     一疋〔葦毛 小山兵衛尉朝政の提供〕  
 一疋〔鴾毛 三浦介義澄の提供〕      一疋〔黒 小笠原加々美信濃守遠光の提供〕
 一疋〔栗毛 源蔵人大夫大内頼兼の提供〕  一疋〔黒栗毛 遠江守安田義定の提供〕
 一疋〔糟毛 佐々木四郎左衛門尉高綱の提供〕一疋〔黒 大内相模守惟義の提供〕

文治五年(1189)五月小廿二日辛巳。申剋。奥州飛脚參着。申云。去月晦日。於民部少輔舘誅与州。其頚追所進也云々。則爲被奏達事由。被進飛脚於京都。御消息曰。
 去閏四月晦日。於前民部少輔基成宿舘〔奥州〕誅義經畢之由。泰衡所申送候也。依此事。來月九日塔供養。可令延引候。以此趣。可令洩達給。頼朝恐々謹言。
又板垣三郎兼信有違 勅事。仍殊可尋沙汰之由。被下 院宣之間。今日。二品所被進御請文也。
 太皇大后宮御領駿河國大津御厨地頭兼信不當事。謹承候訖。如此被仰下候之上。自宮仰給て候へハ。於地頭職者。無左右令改定候訖。而兼信所犯不輕之由。雖被仰下候。此條非可私計沙汰候也。被勘所當之罪科。何とも可有御沙汰候。若被行配流候者。被下遣別御使て。召上其身。可有御沙汰候。自大宮如被仰下之状者。罪科之條。不及左右事也。以此旨。可令申上給候。恐々謹言。
     五月廿二日        頼朝

読下し                     さるのこく おうしゅう ひきゃく さんちゃく   もう    い
文治五年(1189)五月小廿二日辛巳。申剋。奥州の飛脚參着す。申して云はく。

さんぬ つきついたち みんぶしょうゆう  たち  をい  よしゅう  ちう
去る月晦日、民部少輔@が舘に於て与州を誅す。

そ   くびおつ  しん   ところなり  うんぬん  すなは こと  よし  そうたつされ  ため  ひきゃくを きょうと  しん  らる    ごしょうそこ  いは
其の頚追て進ずる所也と云々。則ち事の由を奏達被ん爲、飛脚於京都へ進ぜ被る。御消息に曰く。

  さんぬ うるうしがつみそか  さきのみんぶしょうゆうもとなり しゅくかん をい  〔おうしゅう〕   よしつね  ちう  をは    のよし  やすひらもう  おく そうろうところなり
 去る閏四月晦日。 前民部少輔基成が 宿舘に於て〔奥州〕、義經を誅し畢んぬ之由。泰衡申し送り候所也。

   こ  こと   よつ    らいげつここのか  とうくよう  えんいんせし  べ そうろう  こ おもむき もつ    も   たつ  せし  たま  べ    よりともきょうきょうきんげん
 此の事に依て、來月九日の塔供養、延引令む可く候。此の趣を以て、洩れ達さ令め給ふ可し。頼朝恐々謹言。

また  いたがきのさぶろうかねのぶ いちょく ことあ     よつ  こと  たず  さた すべ  のよし  いんぜん  くださる  のかん
又、 板垣三郎兼信A違勅の事有り。仍て殊に尋ね沙汰可し之由。院宣を下被る之間。

きょう   にほんおんうけぶみ  しん  らる  ところなり
今日、二品御請文を進ぜ被る所也。

  たいこうだいごうぐう   ごりょう するがのくに おおつのみくりや  じとう かねのぶ  ふとう  こと  つつし   うけたまは そうら をは
 太皇大后宮Bの御領 駿河國 大津御厨Cの地頭兼信が不當な事。謹みて承り候ひ訖んぬ。

  かく  ごと  おお くだされそうろうのうえ みやよ  おお  たま    そうらへば   じとうしき   をい   は   とこう  な   かいていせし そうらひをは
 此の如く仰せ下被候之上、宮自り仰せ給ひて候へハ、地頭職に於て者、左右無く改定令め候訖んぬ。

  しか   かねのぶ しょはんかろからずのよし おお くだされそうらふ いへど   かく  じょう  し   はか   さた すべ   あらずそうろうなり
 而して兼信が所犯不輕之由、仰せ下被 候と 雖も、此の條私の計り沙汰可きに非候也。

  しょとうのざいか   かんが られ  なん     ごさた あ   べ  そうろう
 所當之罪科を勘へ被、何とも御沙汰有る可く候。

  も   はいる  おこなはれそうらはば  べつ  おんし  くだ  つか  され    そ   み   め   あ     ごさた  あ   べ   そうろう
 若し配流に行被 候者、 別の御使を下し遣は被て、其の身を召し上げ、御沙汰有る可く候。

  おおみやよ  おお  くだされるのじょう ごと    ば   ざいかのじょう  とこう  およばずことなり  こ   むね  もつ    もう  あ   せし  たま べ  そうろう きょうきょうきんげん
 大宮自り仰せ下被之状の如くん者、罪科之條、左右に不及事也。此の旨を以て、申し上げ令め給ふ可く候。恐々謹言。

      ごがつにじゅうににち           よりとも
   五月廿二日      頼朝

参考@民部少輔は、基成で泰衡の母方祖父。
参考A板垣三郎兼信は、甲斐源氏で武田太郎信義の三男。甲斐源氏は所領を甲斐・信濃・駿河・遠江の四カ国。東国で源氏が旗揚げをしたと聞いた平家は甲斐の武田党と思いこみ頼朝なぞ眼中に無かった。又、京都側では「富士川の合戦」を平惟盛と武田党の戦と書いている。
参考B太皇大后宮は、多子。
参考C駿河國大津御厨は、現在の島田市大津。

現代語文治五年(1189)五月小二十二日辛巳。午後四時頃に、奥州平泉から伝令が到着しました。報告するのには、民部少輔基成の館で義経を滅ぼしました。その首は後から送るとのことです。直ぐにその旨を後白河法皇に報告するため、伝令を京都へ出発させます。その手紙には、

 先日の閏四月三十日に、前民部少輔基成の館〔東北地方〕で義経を滅ぼしてしまったと、泰衡から云ってきたところです。この事で来月九日の五重塔完成供養の式は、(私が穢れになってしまったので)延期することにしました。この内容で、後白河法皇にお伝えいただきますように。頼朝恐れ謹んでよろしく。

又、甲斐源氏の板垣三郎兼信が、天皇家の命令に背いたので、特によく調べて処置するように、後白河法皇から言ってきたので、今日頼朝様は返事を出したところです。

 太皇大后宮(多子)の領地である駿河国大津御厨の地頭板垣兼信の不当な行いを謹んで承りました。このように云ってこられただけでなく、宮からもおっしゃって来られたのでは、地頭職は何も云わずに取り替えました。しかしながら、板垣兼信の罪は軽くはないと云われても、私個人が罰を決めるわけにもいきませんので、適当な下すべき罪科をお考えになられて、何とでも言ってください。もし、流罪にすると決められるのならば、別の使者をよこして、その身柄を拘束して処分をしてください。大宮から云ってこられた手紙のような罪状ならば、その罪科についてとやかく言いません。この内容で法皇様におつたえいただくように。恐れながらよろしく。
  五月二十二日  頼朝

文治五年(1189)五月小廿九日戊子。師中納言〔經房卿使者到着。所被進塔供養願文一通也。草新藤中納言兼光卿C書堀河大納言〔忠親卿云々。又錦被物一重。綾被物二重被進之云々。

読下し                      そちのちゅうなごん〔つねふさきょう〕 ししゃ とうちゃく   とうくよう    がんもんいっつう  しん  らる  ところなり
文治五年(1189)五月小廿九日戊子。師中納言〔經房卿〕の使者到着す。塔供養の願文一通を進ぜ被る所也。

そう  しんとうちゅうなごん〔かねみつきょう〕  せいしょ ほりかわのだいなごん〔ただつねきょう〕 うんぬん
草は新藤中納言〔兼光卿〕。C書は堀河大納言〔忠親卿〕と云々。

また にしきのかずけものひとえ あやのかずけものふたえ これ しん らる うんぬん
又、 錦被物一重、 綾被物二重  之を進ぜ被ると云々。

参考@草は、下書きのこと、草案。

現代語文治五年(1189)五月小二十九日戊子。師中納言吉田経房の使いが到着しました。三重塔の完成供養の捧げ文一通を送ってきました。草案文は新藤中納言兼光。清書は堀川大納言忠親だとさ。又、錦織の包み物を一包み、綾織の包み物を二包みを送ってきたんだとさ。

六月へ

吾妻鏡入門第九巻   

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