吾妻鏡入門第九巻   

文治五年(1189)己酉六月大

文治五年(1189)六月大三日辛夘。中納言法橋觀性。自京都參着。是天台座主僧正全玄代官。爲鶴岡塔供養導師也。左衛門尉高綱相具之參向。兼日。以八田右衛門尉宅。被點置彼旅宿之間。令招入其所給。先以三浦平六爲御使。被遣金光索餅等云々。

読下し                   ちゅうなごんほっきょうかんしょう きょうとよ さんちゃく
文治五年(1189)六月大三日辛夘。中納言法橋觀性、京都自り參着す。

これてんだいざす そうじょうぜんげん だいかん つるがおか とうくよう  どうし   ためなり  さえもんのじょうたかつな これ  あいぐ  さんこう
是天台座主@僧正全玄の代官、鶴岡の塔供養の導師Aの爲也。左衛門尉高綱B、之を相具し參向す。

けんじつ はったのうえもんのじょう たく  もつ    か   りょしゅく  てん  おかれるのかん  そ  ところ まね  い   せし  たま
兼日C、八田右衛門尉の宅Dを以て、彼の旅宿に點じ置被E之間。其の所に招き入れ令め給ふ。

ま   みうらのへいろく  もつ  おんし   な     きんか   さくべい ら   けん  らる    うんぬん
先ず三浦平六を以て御使と爲し、金光F、索餅G等を遣ぜ被ると云々。

参考@天台座主は、延暦寺筆頭。
参考A
導師は、仏道を説き、人々を仏道に導く者。この場合儀典長だが、指導僧と訳す。
参考B左衛門尉高綱は、佐々木四兄弟(太郎定綱、次郎經高、三郎盛綱、四郎高綱)の四男。佐々木は在京御家人。
参考C兼日は、兼ねて、前もって。
参考D八田右衛門尉宅は、六浦道の南で筋替橋から東へ二軒目にあったと思われる。
参考E
點じ
置被は、指定する。
参考F金光は、お菓子。
参考G索餅は、小麦粉と米の粉とを練り合わせて、縄のように細長くねじって油で揚げた菓子。昔、宮中で陰暦七月七日に、瘧(おこり)よけのまじないとして食べた。むぎなわ。[和名抄]

現代語文治五年(1189)六月大三日辛卯。中納言法橋観性が、京都から到着しました。
この人は、延暦寺筆頭天台座主全玄僧正の代理として、鶴岡八幡宮寺の三重塔完成供養の指導僧をするためです。佐々木左衛門尉四郎高綱が案内して連れてきました。前もって八田右衛門尉知家の屋敷を、その人の旅館にしようと決めて置かれましたので、その屋敷へ招きました。
まず、三浦平六兵衛尉義村が頼朝様の使いとして、甘いお菓子や揚げ菓子を差し出しましたとさ。

文治五年(1189)六月大四日壬辰。佐々木左衛門尉參入。則召北面廣庇。有御對面。東大寺佛殿柱已下材木。周防國杣出。殊致精誠之由。所聞食及也。汝匪竭軍忠。已赴善因。尤神妙之旨被仰。高綱申云。重源上人頻被相催。仍去月十八日。御柱十五本沙汰付河尻訖。此外十五本。早可出杣之由。示付代官云々。

読下し                    ささきのさえもんのじょう さんにゅう  すなは ほくめん  ひろびさし   め   ごたいめん あ
文治五年(1189)六月大四日壬辰。佐々木左衛門尉參入す。則ち北面の廣庇@に召し、御對面有り。

とうだいじ ぶつでん はしらいか  ざいもく  すおうのくに  そまだ     こと せいせいいた  のよし  き     め   およ  ところなり
東大寺佛殿の柱已下の材木、周防國の杣出し、殊に精誠致すA之由、聞こし食し及ぶ所也。

なんじ ぐんちゅう かつ      あらず すで  ぜんいん  おもむ      もっと しんみょうのむねおお らる    たかつなもう    い
汝、軍忠を竭すのみに匪。已に善因に赴くこと、尤も神妙之旨仰せ被る。高綱申して云はく。

ちょうげんしょうにん しきり あいもよおさる  よつ さんぬ つきじゅうはちにち おんはしらじゅうごほん かわじり  さた   つ  をは
重源上人、 頻に相催被る。仍て去る月 十八日、御柱十五本を河尻に沙汰し付け訖んぬ。

こ   ほかじゅうごほん  はや  そま  いだ  べ   のよし  だいかん  しめ  つ      うんぬん
此の外十五本、早く杣を出す可し之由。代官に示し付けると云々。

参考@廣庇は、寝殿造りで、母屋と庇の外側にある吹き放ちの部分。孫庇に相当する。庇より長押(なげし)一本分だけ床が低くなっている。広縁。広軒。GOO電子辞書から玄関がなく広い縁側になっているので、牛車は付ける、輿は乗せる。
参考A精誠致すは、一生懸命働いている。

現代語文治五年(1189)六月大四日壬辰。佐々木左衛門尉四郎高綱が御所にやってきました。
直ぐに北側私邸の濡れ縁に呼んで、お会いになられました。東大寺仏殿造営の柱などの材木を周防国から切り出すことを一生懸命にしていると聞いているからです。「お前は、戦で手柄を立てるだけでなく、仏道にも善根を積む行いをしているのは、とても偉いことだ。」
佐々木四郎高綱が答えて云うには「重源上人が盛んに催促をしてくるので、先月の十八日に大仏殿の柱十五本を川下まで川筏で流しだしました。この他の十五本も、早く山から切り出すように、代官に言いつけてあります。」なんだとさ。

説明この記事では、佐々木四郎高綱が周防の国から大仏殿建立の材木の世話をしているので、周防の守護だったことが推定できる。

文治五年(1189)六月大五日癸巳。若宮別當法眼相具垂髪并當宮供僧等。被向觀性法橋旅宿。勸盃酒。及延年云々。是依内々仰也。」入夜。江大夫判官公朝爲 仙洞御使。參向之由。相觸因幡前司〔廣元〕。因州先令招請家中。參申幕府云々。

読下し                   わかみやべっとうほうげん すいはつなら   とうぐう ぐそう ら   あいぐ   かんしょうほっきょう りょしゅく  むかはる
文治五年(1189)六月大五日癸巳。若宮別當法眼、垂髪并びに當宮供僧等を相具し、觀性法橋の旅宿へ向被る。

はいしゅ すす    えんねん  およ   うんぬん  これないない  おお    よつ  なり
盃酒を勸め、延年に及ぶ@と云々。是内々の仰せに依て也。」

よ    い     えのだいぶほうがんきんとも  せんとう  おんし  な      さんこう    のよし  いなばのぜんじ〔ひろもと〕    あいふる
夜に入り、江大夫判官公朝 仙洞の御使と爲し、參向する之由、因幡前司〔廣元〕に相觸る。

いんしゅうま  かちゅう  しょうせいせし   ばくふ  まい  もう    うんぬん
因州先ず家中に招請令め、幕府に參り申すと云々。

参考@延年に及ぶは、延年の舞を踊ることを言うが、この頃は、雑芸で良かったらしい。

現代語文治五年(1189)六月大五日癸巳。若宮八幡宮の筆頭の別当法眼円暁は、稚児と八幡宮の供の僧を連れて、観性法橋の旅宿八田知家邸へ向かわれました。お酒を勧めて稚児が延年の舞を踊って見せたそうです。これは頼朝様からの内緒の命令によってです。」

夜になって、検非違使大江公朝が後白河法皇の使いとして、鎌倉へやってきたと因幡前司大江広元に云ってきました。広元はとりあえず自分の屋敷へ招き入れて、幕府へ連絡に行きました。

文治五年(1189)六月大六日甲午。早旦。公朝參申云。爲御塔供養。自 院被進御馬以下之間。相具參云々。被仰可給置之由。公朝〔白襖平礼。帶釼參御所。御馬葦毛。白鞍。付金獅子丸打物泥障。白伏輪也御厩舎人武廉〔着赤色上下引立南門。駿河守廣綱請取之。又錦被物二重一重赤地紅裏。一重地單并女房三品局進物扇二十本納銀筥公朝取之。授新田藏人義兼。里見冠者義成等。但此等不被入殿中。依御輕服也。於宮寺可爲施物之故歟。其後公朝徹劔。參于寢殿南面。二品有御對面云々。」爲北條殿御願。爲祈奥州征伐事。伊豆國北條内。被企伽藍營作。今日擇吉曜。有事始。立柱上棟。則同被遂供養。名而号願成就院。本尊者阿弥陀三尊。并不動多聞形像等也。是兼日造立之尊容云々。北條殿直被下向其所。殊加周備之莊嚴。令致鄭重之沙汰給。當所者。田方郡内也。所謂南條。北條。上條。中條。各並境。且執嚢祖之芳躅。今及練若之締搆云々。

読下し                    そうたん   きんともさん  もう     い
文治五年(1189)六月大六日甲午。早旦@、公朝參じ申して云はく。

おんとうくよう   ため  いんよ   おんうま いげ   しん  らる   のかん  あいぐ     まい    うんぬん  たま    お   べ   のよしおお  らる
御塔供養の爲、院自り御馬以下を進ぜ被る之間、相具して參ると云々。給はり置く可し之由仰せ被る。

きんとも 〔しろおう   ひれ   たいけん〕 ごしょ  まい

公朝〔白襖A、平礼B、帶釼〕御所に參る。

おんうま 〔あしげ   しろくら   きんじし    まる  うちもの  あおり   つ      しろふくりんなり〕 みんまやのとねりたけかど 〔あかいろ じょうげ  つ   〕 みなみもん ひきた
御馬〔葦毛、白鞍C、金獅子の丸の打物の泥障を付ける。白伏輪也〕御厩舎人武廉〔赤色の上下を着ける〕南門へ引立てる。

するがのかみひろつな これ  うけと
 駿河守廣綱 之を請取る。

また にしき かづけものふたえ〔ひとえ あかぢ   べにうら  ひとえ  あおぢ  ひとえ〕  なら    にょぼう さんぽんのつぼね しんもつ おおぎにじっぽん 〔ぎん  はこ   おさ 〕
又、錦の被物二重〔一重は赤地、紅裏。一重は地、單〕并びに 女房三品局Dが 進物の扇二十本〔銀の筥に納める〕

きんともこれ  と     にったのくろうどよしかね  さとみのかじゃよしなり ら  さず
公朝之を取り、新田藏人義兼、里見冠者義成E等に授ける。

ただ  これら  でんちゅう いれられず  ごきょうぶく   よつ  なり  ぐうじ  をい  せもつ   な   べ    のゆえか
但し此等は殿中に入被不。御輕服Fに依て也。宮寺に於て施物と爲す可き之故歟。

 そ  ご きんともつるぎ てつ    しんでん  なんめんにまい    にほんごたいめん あ     うんぬん
其の後公朝劔を徹して、寢殿の南面于參り、二品御對面有ると云々。

参考@早旦は、朝早く。
参考Aは、裏のある狩衣。狩とも。
参考B平礼は、漆を薄く塗ったヘリの無い烏帽子。頂を折ってある。
参考C白鞍は、白は銀(しろがね)で、鞍の前輪(まえつわ)を銀で飾っている。銀覆輪とも言う。
参考D三品局は、高階栄子で木曾義仲に鳥羽殿へ後白河と共に押し込められ、後白河の子を生んでいる。
参考E里見冠者義成は、義重ー義兼ー義成 新田の長男だが母の出自が低いため榛名郡里見の開発領主となる。
参考F御輕服は、軽い喪に服す。兄弟で三ヶ月。喪中なので「ハレ」に使う扇子は別にしておくので神社へ奉納するつもりか。

現代語文治五年(1189)六月大六日甲午。早朝に検非違使大江公朝は、御所へ参り申して云うのには、「五重塔完成供養の捧げ物として、後白河法皇から馬を始めに色々と贈り物がありますので、持ってまいりました。」とさ。「戴いて置いておきましょう。」とおっしゃいました。
大江公朝〔白い狩衣と平烏帽子
(ひれえぼし)で太刀を佩(は)く〕は、正式に院からの持参物を差し出しに御所へ参りました。
馬〔
体の一部や全体に白い毛が混生している葦毛、銀飾りの鞍、獅子の絵を打ち出した金の丸金具で止め飾った
泥障(あおり)をつけている。銀覆輪の尻懸(しりがい)〕を馬屋番の下働きの武廉〔赤色のじょうげのを着る(馬の飾りの銀が目立つよう)〕が引いてご披露して南門へ下がり、駿河守太田広綱が(頼朝様の代理で)手綱を受け取りました。

錦織の包み物が二袋〔一袋は、赤い生地で裏地が紅色です。一袋は青い生地で裏地の無い一重です〕と京都の後白河法皇の女官の三品局(三位なのでこう呼ばれる高階栄子)が、送ってよこした扇二十本〔銀の箱に納められています〕を検非違使大江公朝が供から受け取り、新田蔵人義兼、里見冠者義成に渡しました。しかし、これ等の品物を御所の中に持って行きませんでした。それは、頼朝様は義経の喪中なので、八幡宮寺へ寄付の品とするためなのでしょうかね。その後、検非違使大江公朝は、剣を腰からはずして、頼朝様の居間でもある寝殿の南側へ行ったのは、頼朝様との対面があるからだとさ。

ほうじょうどの ごがん   な      おうしゅうせいばつ こと  いの    ため  いずのくにほうじょう ない がらん  えいさく   くはだ らる
北條殿の御願と爲して、奥州征伐の事を祈らん爲、伊豆國北條@内に伽藍の營作Aを企て被る。

きょう  きちよう   えら     ことはじめ あ   りっちゅう じょうとう  すなは おな    くよう   と   らる    な    て がんじょうじゅいん   ごう
今日吉曜を擇びて、事始有り。立柱、上棟、則ち同じく供養を遂げ被る。名づけ而願成就院Bと号す。

ほんぞんは あみださんぞん   なら    ふどう  たもん  きょうぞうらなり  これ けんじつ  ぞうりゅう   のそんよう  うんぬん
本尊者阿弥陀三尊。并びに不動、多聞の形像等也。是兼日に造立する之尊容と云々。

ほうじょうどのじき そ   ところ  げこう さ     こと  しゅうびのそうごん  くは    ていちょうのさた   いた  せし  たま    とうしょは   たかたのこおり うち なり
北條殿直に其の所へ下向被れ、殊に周備之莊嚴を加へ、鄭重之沙汰を致さ令め給ふ。當所者、田方郡の内C也。

いはゆる なんじょう ほうじょう かみじょう ちゅうじょう おのおの さかい なら  かつう  のうそのほうしょく  と      いまれんにゃく のていこう  およ    うんぬん
所謂 南條、北條、 上條、中條、 各  境を並ぶ。且は嚢祖之芳躅を執りて、今練若D之締搆に及ぶと云々。

参考@伊豆國北條は、静岡県伊豆の国市寺家。
参考A
伽藍營作は、寺を建てる。
参考B願成就院は、静岡県伊豆の国市寺家83-1に現存する。阿彌陀三尊并不動多門形像は、運慶作で現存する。
参考C田方郡内は、十三郷ある。下條もある。
参考
D
練若は、阿蘭若とも称し、寺の異称。

現代語北条時政殿の請願として、東北藤原政権打倒を祈るために、伊豆国の北条内にお寺を造営しようと計画しました。今日は、お日柄が良いのでその造作始め式をしました。柱立て棟上と開眼供養式を行いました。名前は願成就院と名付けました。
お寺のご本尊は阿弥陀様を中央に左右に観音菩薩と勢至菩薩が控える阿弥陀三尊です。それと不動明王、多聞天の仏像です。これは、前もって造作しておいた仏像だそうです。北条時政殿は自らその北条へ行かれて、特に念入りな装飾を付け加え、丁寧に指示をなされました。そこは伊豆の田方郡の内になります。そこは、南条と北条、上条と中条がそれぞれ接している土地なのです。先祖の良い事跡の土地を選んで、寺の意匠を整えましたとさ。

文治五年(1189)六月大七日乙未。御塔供養事。被經御沙汰。爲社頭之間。依与州事。可延引之由。雖被申京都。導師既下向。又自 仙洞被下御馬已下之上者。於供養者。可被遂之。次二品御出事。御輕服三十餘日馳過訖。是非御奉幣之儀。直不可令入内陣給者。有何事哉之由被定之。仍与州頚。無左右不可持參。暫可令逗留途中之旨。被遣飛脚於奥州云々。

読下し                     ごとう  くよう   こと   ごさた    へら
文治五年(1189)六月大七日乙未。御塔供養の事、御沙汰を經被る。

しゃとう た   のかん  よしゅう  こと  よつ    えんいんすべ  のよし  きょうと  もうさる    いへど   どうし すで  げこう
社頭爲@る之間、与州の事に依て、延引可し之由、京都へ申被ると雖も、導師既に下向す。

また  せんとうよ   おんうま いか   くださる   のうえは   くよう  をい  は   これ  と   らる  べ
又、仙洞自り御馬已下を下被る之上者、供養に於て者、之を遂げ被る可し。

つぎ  にほん ぎょしゅつ こと   ごきょうぶく   さんじゅうよにち  は   す   をは
次に二品御出の事は、御輕服Aは三十餘日を馳せ過ぎ訖んぬ。

これ  ごほうへいのぎ  あらず  じき  ないじん  はい  せし  たま  べからず  ば  なにごと  あ     や のよし  これ  さだ  らる
是、御奉幣之儀に非。直に内陣へ入ら令め給ふ不可ん者、何事か有らん哉之由、之を定め被る。

よつ    よしゅう  くび  とこう な   じさん    べからず  しばら とちゅう  とうりゅうせし べ   のむね  ひきゃくをおうしゅう つか  さる    うんぬん
仍て、与州の頚Bは左右無く持參する不可。暫く途中に逗留令む可し之旨、飛脚於奥州へ遣は被ると云々。

参考@社頭爲は、神社の事をするので、穢れ(弟の死穢)ていてはいけない。
参考A
御輕服は、軽い喪に服す。
参考B
与州の頚は、義経の首。

現代語文治五年(1189)六月大七日乙未。五重塔完成式典の審議を経られました。神社の中の事なので、義経の喪に服しているため延期しようと京都へ伝えました、既に式典筆頭指導者の導師はすでに鎌倉へ向けて出発してしまっています。また、後白河法皇からも馬を始めとするお祝いの品々を届けられているので、式典についてはこれをやり遂げよう。そして頼朝様の出席については、喪中はすでに三十数日を過ぎています。これは、神社への参拝の儀式ではないので、直接神殿の内部へ入らなければ、なんていうことも無いのじゃないかと、実施を決められました。
それなのであるから、義経の首は安易に持って来てはいけないから、暫く途中で止めておきなさいと、伝令を東北へ走らせましたとさ。

文治五年(1189)六月大八日丙申。今日。二品渡御中納言法橋旅亭。有御對面。頗及御雜談云々。入夜。所被進京都之飛脚皈參。師中納言返報到來。義顯誅罸事。殊悦聞食之由。 院仰所候也。兼又彼滅亡之間。國中定令靜謐歟。於今者可嚢弓箭之由。内々可申之旨。其沙汰候云々。

読下し                    きょう    にほん ちうなごんほっきょう りょてい  とぎょ     ごたいめん あ      すこぶ  ごぞうだん  およ    うんぬん
文治五年(1189)六月大八日丙申。今日、二品中納言法橋の旅亭へ渡御し、御對面有りて、頗る御雜談に及ぶと云々。

よ   い     きょうと  しん  らる  ところのひきゃく きさん   そちのちうなごん へんぽうとうらい
夜に入り、京都へ進ぜ被る所之飛脚皈參す。師中納言が返報到來す。

よしあきちうばつ こと  こと  よろこ き     め    のよし  いん  おお   ところそうろうなり
義顯誅罸の事、殊に悦び聞こし食す之由、院の仰せる所候也。

かね  また  か   めつぼう のかん  くにじゅうさだ   せいひつせし   か   いま  をい  は きゅうせん ふくろすべ   のよし
兼て又、彼の滅亡之間、國中定めし靜謐令むる歟。今に於て者弓箭を嚢可し@之由。

ないない もう  べ   のむね   そ    さた  そうろう うんぬん
内々に申す可し之旨、其の沙汰に候と云々。

参考@弓箭を嚢可しは、弓矢を袋に入れるは、戦をやめる。

現代語文治五年(1189)六月大八日丙申。今日、頼朝様は、中納言法橋観性が宿泊してる八田知家の屋敷へ行かれて、対面なされかなり御雑談に嵩じられましたとさ。
夜になって、京都へ手紙を持っていった伝令が戻りました。師中納言吉田経房の返事を持ってきました。義経が滅ぼされたことを、特に喜んでおられると後白河院が申された書いてあるそうです。これで、義経の滅亡で国中がさぞかし静まるであろうか。今となれば、弓を袋にしまい戦はもう止めなさいと、内々におっしゃられていると、通知してきたんだとさ。

文治五年(1189)六月大九日丁酉。御塔供養也。導師法橋觀性。咒願法眼圓曉〔若宮別當〕。請僧七口〔四口導師伴僧。三口若宮供僧〕有舞樂。二品御出。但於宮寺近々者。猶有御愼。埒邊搆御棧敷。御覽儀式許也。隼人佐。并梶原平三景時等。兼候宮中行事云々。
御出儀
先陣随兵
 小山兵衛尉朝政 土肥次郎實平
 下河邊庄司行平 小山田三郎重成
 三浦介義澄   葛西三郎C重
 八田太郎朝重  江戸太郎重(長)
 二宮小太郎光忠 熊谷小次郎直家
 信濃三郎光行  徳河三郎義秀
 新田藏人義兼  武田兵衛尉有義
 北條小四郎   武田五郎信光
次御歩〔御束帶〕
 御劍  佐貫四郎太夫廣綱
 御調度 佐々木左衛門尉高綱
 御甲  梶原左衛門尉景季
次列御後人々〔各布衣〕
 武蔵守義信   遠江守義定
 駿河守廣綱   参河守範頼
 相摸守惟義   越後守義資
 因幡守廣元   豐後守季光
 皇后宮權少進  安房判官代隆重
 藤判官代邦通     紀伊權守有經
 千葉介常胤      八田右衛門尉知家
 足立右馬允遠元    橘右馬允公長
 千葉大夫胤頼     畠山次郎重忠
 岳崎四郎義實     藤九郎盛長
後陣隨兵
 小山七郎朝光     北條五郎時連
 千葉太郎胤政     土屋次郎義清
 里見冠者義成     淺利冠者遠義
 三浦十郎義連     伊藤四郎家光
 曽我太郎祐信     伊佐三郎行政
 佐々木三郎盛綱    新田四郎忠常
 比企四郎能員     所六郎朝光
 和田太郎義盛     梶原形部烝朝景
供養事終。被引御布施。先錦被物三重。内一重〔赤地〕駿河守廣綱。一重〔地。巳上自仙洞被下之〕皇后宮權少進。又一重〔紫地。師卿進〕安房判官代等取之。此外不遑甄録。次御馬引手。
一御馬〔葦毛仙洞御馬〕  畠山次郎重忠    小山田四郎重朝
二御馬〔河原毛〕     工藤庄司景光    宇佐美三郎祐茂
三御馬〔葦毛〕      藤九郎盛長     澁谷次郎高重
四御馬〔黒〕       千葉次郎師胤    同四郎胤信
五御馬〔栗毛〕      小山五郎宗政    下河邊六郎

読下し                     ごとう くようなり    どうし ほっきょうかんしょう じゅがん  ほうげんえんぎょう〔わかみやべっとう〕
文治五年(1189)六月大九日丁酉。御塔供養也。導師は法橋觀性。咒願Aは法眼圓曉〔若宮別當〕

しょうそうしちく   〔 しく   どうし  ばんそう   さんく  わかみや  ぐそう  〕  ぶがく あ
請僧七口B〔四口は導師が伴僧。三口は若宮の供僧〕舞樂有り。

にほんおんいで  ただ  ぐうじ  ちかぢか  をい  は  なおおんつつし あ     らち へん  おんさじき   かま      ぎしき  ごらん    ばか  なり
二品御出。但し宮寺の近々に於て者、猶御愼み有りC。埒D邊に御棧敷Eを搆へて、儀式を御覽ずる許り也。

はやとのすけなら   かじわらへいざかげときら   かね  みやなか こう    ぎょうじ    うんぬん
隼人佐并びに梶原平三景時等、兼て宮中に候じて行事すと云々。

参考@導師は、仏道を説き、人々を仏道に導く者。この場合儀典長だが、指導僧と訳す。
参考A咒願は、食事や法会の時、施主の願意を受けて唱えられる短い祈り。
参考B請僧七口は、「七人の坊主」で、坊主は口だけなので「何人」と書かず「何口」と書いて「なんく」と読む。
参考C
御愼み有りは、弟の義経の死により穢れているので。神殿のそばには寄らない。
参考Dは、垣根。囲い、仕切り。特に馬場の周囲の柵を指す。
参考E棧敷は、祭りや相撲などの興行物を見るために高く作った見物席。

ぎょしゅつ  ぎ
御出の儀

せんじん  ずいへい
先陣の随兵

  おやまのひょうえのじょうともまさ        といのじろうさねひら
 小山兵衛尉朝政     土肥次郎實平

  しもこうべのしょうじゆきひら          おやまだのさぶろうしげなり
 下河邊庄司行平     小山田三郎重成

  みうらのすけよしずみ              かさいのさぶろうきよしげ
 三浦介義澄       葛西三郎C重

  はったのたろうともしげ             えどのたろうしげつぐ
 八田太郎朝重      江戸太郎重継F

  にのみやのこたろうみつただ         くまがいのこじろうなおいえ
 二宮小太郎光忠     熊谷小次郎直家

  しなののさぶろうみつゆき           とくがわのさぶろうよしひで
 信濃三郎光行      徳河三郎義秀G

  にったのくろうどよしかね            たけだのひょうえのじょうありよし
 新田藏人義兼H     武田兵衛尉有義  

  ほうじょうのこしろう                たけだのごろうのぶみつ
 北條小四郎       武田五郎信光I  

参考F江戸太郎重継は、これ一回の出演で、江戸太郎重長の父に当る人なので、おそらく江戸太郎重長の間違いと思われるので現代語は重長にした。
参考
G徳河三郎義秀は、同じ吾妻鏡でも。北條から足利、後北條、徳川家の宮内庁紅葉山文庫には「徳川」となっているが、毛利家、小早川家、吉川家、島津家の吾妻鏡には「世良田三郎義秀」となっている。徳川のほうが怪しい。
参考H新田藏人義兼ー義房ー政義ー政氏ー基氏ー朝氏ー義貞と続く。
参考I武田五郎信光は、後に長兄を讒訴して党領になる。

つい  かち  〔おんそくたい)

次で御歩J〔御束帶〕  

   ぎょけん   さぬきのしろうだいぶひろつな
 御劍  佐貫四郎太夫廣綱

   ごちょうど   ささきのさえもんのじょうたかつな
 御調度 佐々木左衛門尉高綱

   おんよろい  かじわらのさえもんのじょうかげすえ
 御甲  梶原左衛門尉景季

参考J頼朝が徒歩で参詣する。

つい  おんうしろ れつ     ひとびと 〔おのおのほい)
次で御後へ列するの人々〔各布衣K〕  

  むさしのかみよしのぶ           とおとうみのかみよしさだ
 武蔵守義信(大内)   遠江守義定(安田)

  するがのかみひろつな          みかわのかみのりより
 駿河守廣綱(太田)   参河守範頼  

  さがみのかみこれよし           えちごのかみよしすけ
 相摸守惟義(大内)   越後守義資(安田)

参考この六人は頼朝が国司を許した清和源氏一族で御門葉という。頼朝が支配を許された国を関東知行国と言い最大時で九カ国。

  いなばのかみひろもと           ぶんごのかみすえみつ
 因幡守廣元(大江)   豐後守季光L(毛呂)

  こうごうぐうごんのしょうしん          あわのほうがんだいたかしげ
 皇后宮權少進(伊佐爲宗M)安房判官代隆重(源)  

  とうのほうがんだいくにみち        きいごんのかみありつね (てしま)
 藤判官代邦通     紀伊權守有經(豊島N)

  ちばのすけつねたね           はったのうえもんのじょうともいえ
 千葉介常胤      八田右衛門尉知家

  あだちのうまのじょうとおもと        たちばなのうまのじょうきんなが
 足立右馬允遠元    橘右馬允公長

  ちばのだいぶたねより           はたけやまのじろうしげただ
 千葉大夫胤頼(東)   畠山次郎重忠

  おかざきのしろうよしざね          とうくろうもりなが
 岳崎四郎義實(岡崎)  藤九郎盛長

参考K布衣は、布製の狩衣の別称。狩衣は武家社会では、束帯に次ぐ礼装であった。
参考L毛呂季光は、藤原季師の子とされる。埼玉県毛呂山町。源氏以外で一族待遇をされ国司に任命されると準御門葉。毛利季光(大江広元の四男)とは別人
参考M伊佐爲宗は、常陸國の人。後に伊達郡を賜り伊達爲宗となり伊達政宗の先祖。
参考N豊島有経は、
頼朝が大阪豊島庄司を関東へ名を持って来させて北区豊島町、後に加増された分が豊島区となる。

こうじん  ずいへい
後陣の隨兵

   おやまのしちろうともみつ        ほうじょうのごろうときつら
 小山七郎朝光     北條五郎時連(後の時房。当時佐原十郎義連が加冠親なので)

   ちばのたろうたねまさ          つちやのじろうよしきよ
 千葉太郎胤政     土屋次郎義清(岡崎四郎義實の次男だが、土屋三郎宗遠へ養子にいってる。)

   さとみのかじゃよしなり          あさりのかじゃとおよし
 里見冠者義成O    淺利冠者遠義P

   みうらのじゅうろうよしつら        いとうのしろういえみつ
 三浦十郎義連     伊藤四郎家光

   そがのたろうすけのぶ          いさのさぶろうゆきまさ
 曽我太郎祐信     伊佐三郎行政

   ささきのさぶろうもりつな         にたんのしろうただつね
 佐々木三郎盛綱    新田四郎忠常(仁田)

   ひきのしろうよしかず           ところのろくろうともみつ
 比企四郎能員     所六郎朝光Q

   わだのたろうよしもり           かじわらのぎょうぶのじょうともかげ
 和田太郎義盛     梶原形部烝朝景(景時の弟)

参考O里見義成は、群馬県榛名町中里見。新田義重の長男の長男だが母の出自が良くないようで分家している。
参考
P淺利遠義は、武田党
で山梨県中央市浅利(旧東八代郡豊富村浅利郷)。
参考Q所六郎朝光は、父が蔵人所雑色なので名字を所と名乗っている。後に伊賀守に任じ子供等は「伊賀氏」を名乗る。(細川重男先生教示)

くよう こと おわ    おんふせ   ひかれ    ま  にしき かずけもの みえ  うちひとえ 〔あかぢ〕     するがのかみひろつな
供養事終り。御布施を引被る。先ず錦の被物三重。内一重〔赤地〕は、駿河守廣綱。

ひとえ 〔あおぢ、  いじょう せんとう よ  これ  くださる 〕   こうごうぐうごんのしょうしん
一重〔地。巳上仙洞自り之を下被〕は皇后宮權少進。

また ひとえ 〔むらさきぢ、 そちのきょうしん 〕   あわのほうがんだいら これ  と      こ   ほかけんろく  いとま   ず

又一重〔紫地。師卿進ず〕は安房判官代等之を取る。此の外甄録Rに遑あら不。

参考R甄録は、細かく記録する。

つい  おんうま  ひきて
次で御馬の引手、

いちのおんうま〔あしげせんとうのおんうま) はたけやまのじろうしげただ     おやまだのしろうしげとも
一御馬〔葦毛仙洞御馬〕 畠山次郎重忠    小山田四郎重朝(後の榛谷)

にのおんうま〔かわらけ            くどうのしょうじかげみつ        うさみのさぶろうすけもち)
二御馬〔河原毛〕    工藤庄司景光    宇佐美三郎祐茂

さんのおんうま〔あしげ)            とうくろうもりなが            しぶやのじろうたかしげ
三御馬〔葦毛〕     藤九郎盛長     澁谷次郎高重

よんのおぬま〔くろ)              ちばのじろうもろたね         おな    しろうたねのぶ
四御馬〔黒〕      千葉次郎師胤    同じき四郎胤信

ごのおんうま〔くりげ)              おやまのごろうむねまさ       しもこうべのろくろう
五御馬〔栗毛〕     小山五郎宗政    下河邊六郎

現代語文治五年(1189)六月大九日丁酉。五重塔完成式典です。指導僧は、法橋観性。施主の願いを唱える呪願は、法眼円暁〔若宮の長官〕。お供の僧は七人〔四人は導師のお供。三人は若宮の僧〕そして舞楽がありました。二品頼朝様がお出になられます。しかし、八幡宮神殿の近くへは、弟義経の死の穢れがあるので、遠慮をされていきません。馬場の垣根のあたりに見物用の桟敷をしつらえて、儀式をご覧になるだけでした。隼人佐三善康清と梶原平三景時達は、予め神社の中で待っていて式典の進行を指示しました。

お出になられた時の行列は、まず先払いの儀仗兵が
 小山兵衛尉朝政 土肥次郎実平
 下河辺庄司行平 小山田三郎重成
 三浦介義澄   葛西三郎清重
 八田太郎朝重  江戸太郎重長
 二宮小太郎光忠 熊谷小次郎直家
 信濃三郎光行  徳河三郎義秀
 新田蔵人義兼  武田兵衛尉有義
 北条小四郎   武田五郎信光

次ぎに頼朝様が歩きで〔衣装は束帯〕
 頼朝様の御剣を持つのは、
佐貫四郎太夫広綱
 頼朝様の弓矢を持つのは、佐々木左衛門尉高綱
 頼朝様の鎧を着ているのは、梶原源太左衛門尉景季

次ぎに、頼朝様の列の後ろに着くのは〔それぞれ狩衣です〕
 武蔵守大内義信    遠江守安田義定
 駿河守太田広綱    参河守範頼
 相摸守大内惟義    越後守安田義資
 因幡守大江広元    豊後守毛呂季光
 皇后宮権少進伊佐為宗 安房判官代源隆重
 藤判官代邦通     紀伊権守豊嶋有経
 千葉介常胤      八田右衛門尉知家
 足立右馬允遠元    橘右馬允公長
 千葉大夫東胤頼    畠山次郎重忠
 岡崎四郎義実     藤九郎安達盛長

後ろにつく儀仗兵が
 小山七郎朝光     北条五郎時連
 千葉太郎胤政     土屋次郎義清
 里見冠者義成     浅利冠者遠義
 三浦十郎義連     伊藤四郎家光
 曽我太郎祐信     伊佐三郎行政
 佐々木三郎盛綱    新田四郎忠常
 比企四郎能員     所六郎朝光
 和田太郎義盛     梶原形部烝朝景

三重塔完成式典が終わって、僧侶への布施の引き出物を用意しました。先ず高級織物の錦の被る物(かぶりもの)三枚。内一枚〔赤地〕は駿河守太田広綱が持つ。一枚〔青地、この二枚は、後白河法皇から送ってきた物です〕は皇后宮権少進伊佐為宗が持つ。もう一枚〔紫地、師卿吉田経房が送ってきた〕は安房判官代源隆重がこれを持ちました。そのほかは書ききれません。次いで、布施に馬を引いてきました。
一御馬〔葦毛、後白河法皇から送ってきた馬です〕弓手(左側)の手綱を引くのは、畠山次郎重忠。女手(右側)の手綱をひくのはは、小山田四郎重朝。
二御馬〔河原毛〕     工藤庄司景光    宇佐美三郎祐茂
三御馬〔葦毛〕      藤九郎盛長     渋谷次郎高重
四御馬〔黒〕       千葉次郎師胤    同四郎胤信
五御馬〔栗毛〕      小山五郎宗政    下河辺六郎(光脩)

文治五年(1189)六月大十一日己亥。中納言法橋參御所。依御招請也。塔供養無爲事被賀仰。又有献盃。以沙金十兩。銀釼一腰。染絹五十端。爲御贈物。若宮別當參會給。終日御談話云々。又江廷尉皈洛。被遣御馬五疋云々。絹十疋賜武廉御厩舎人云々

読下し                     ちうなごんほっきょう ごしょ  まい    ごしょうせい  よつ  なり   とうくよう むい   こと  が   おお  らる
文治五年(1189)六月大十一日己亥。中納言法橋御所に參る。御招請に依て也。塔供養無爲の事を賀し仰せ被る。

またけんぱいあ    さきんじゅうりょう ぎん つるぎひとこし そめぎぬごじゅったん もつ   おんおくりもの  な
又献盃有り。沙金十兩@、銀の釼一腰、染絹五十端を以て、御贈物と爲す。

わかみやべっとうさんかい たま   しゅうじつ ごだんわ  うんぬん
若宮別當參會し給ふ。終日御談話と云々。

また  えのていい きらく    おんうま ごひき  つか  さる    うんぬん  きぬじっぴき  たけかど  たま      〔みんまやのとねり    うんぬん〕
又、江廷尉皈洛す。御馬五疋を遣は被ると云々。絹十疋を武廉に賜はる〔御厩舎人Aと云々〕

参考@沙金十兩は、砂金十両で約186.8g。金1gの相場は、2011.05.26買い取り価格1g4,175円。両は、4,175×186.8g=779,890円。
参考A御厩舎人は、後白河のみんまやのとねり。は、取次ぎ役をするので実質的に権力を持つ。

現代語文治五年(1189)六月大十一日己亥。中納言法橋が御所に来ました。お招きによってです。
五重塔完成式典の無事の終了を祝う言葉をおっしゃれらました。そして、お酒を出されました。
砂金十両(金165g)と銀でしつらえた剣一腰、染物の絹五十反を贈物にしました。
若宮別当の円暁もやってきて、一日中お話をなされましたとさ。
話し変って、検非違使大江公朝が京都へ帰ります。お土産に馬五頭を上げられましたとさ。馬を送る手間賃に絹十匹を武廉〔厩係りだとさ〕に与えました。

文治五年(1189)六月大十三日辛丑。泰衡使者新田冠者高平持參豫州首於腰越浦。言上事由。仍爲加實檢。遣和田太郎義盛。梶原平三景時等於彼所。各着甲直垂。相具甲冑郎從二十騎。件首納黒漆櫃。浸美酒。高平僕從二人荷擔之。昔蘇公者。自擔其糧。今高平者。令人荷彼首。觀者皆拭雙涙。濕兩衫云々。

読下し                      やすひら  ししゃ にったのかじゃたかひら よしゅう  くびを こしごえのうら  じさん    こと  よし  ごんじょう
文治五年(1189)六月大十三日辛丑。泰衡が使者新田冠者高平、豫州の首於腰越浦に持參し、事の由を言上す。

よつ  じっけん くは        ため  わだのたろうよしもり   かじわらのへいざかげときら を か  ところ つかは
仍て實檢を加へられん爲、和田太郎義盛@、梶原平三景時A等於彼の所へ遣す。

おのおの よろいひたたれ き    かっちゅう ろうじゅうにじっき  あいぐ
 各、 甲直垂を着て、甲冑の郎從二十騎を相具す。

くだん くび くろうるしのひつ おさ   びしゅ  ひた    たかひら  ぼくじゅうふたり  これ  かたん
件の首は黒漆櫃に納め、美酒に浸し、高平が僕從二人が之を荷擔Bする。

むかしそこうは  みづか そ   かて  にな    いまたかひらは  ひと      か   くび  になはし   み  ものみなせきるい ぬぐ   りょうそで うるお   うんぬん
昔蘇公者、自ら其の糧を擔う。今高平者、人をして彼の首を荷令む。觀る者皆雙涙を拭い
C、兩衫を濕すDと云々。

参考@和田太郎義盛は、侍所別当(長官)。
参考A梶原平三景時は、所司(次官)。
参考B荷擔は、担ぐ。
参考C
雙涙を拭いは、涙を流して。
参考D
兩衫を濕すは、袖を濡らす。

現代語文治五年(1189)六月大十三日辛丑。奥州平泉の藤原泰衡の使いの新田冠者高平が、義経の首を腰越浜に持ってきた事を申し上げてきました。
そこで、首実検をするために、侍所別当の和田太郎義盛と所司の梶原平三景時を其の場所へ行かせました。
それぞれ、鎧直垂を着て、甲冑で武装した部下二十人の騎馬を連れて行きました。例の首は、黒漆の櫃(丸い蒸篭状の入れ物)に入れて、高級なお酒で満たして、高平の雑役夫二人が天秤棒でぶら下げて担いできました。
昔中国の
蘇公は、自分で食料を調達した。今、高平は人を使って、人の首を運ばせている。
義経の首実検の様子を見る人は、皆涙を流して両袖を濡らすのでしたとさ。

文治五年(1189)六月大十五日癸夘。出雲國杵築大社神主資忠此程參候。而依有御立願。令皈參本社。可抽丹祈之由。被仰含之間。今日上道。被付神馬一疋号澤井黒。御厩御馬也云々

読下し                      いずものくに きつきたいしゃ かんぬしすけただ こ  ほど さん こう
文治五年(1189)六月大十五日癸夘。出雲國 杵築大社@神主資忠 此の程參じ候ず。

しか    ごりゅうがん あ     よつ    ほんじゃ  きさんせし    たんき  ぬき    べ   のよし  おお  ふく  らる  のかん  きょう じょうどう
而るに御立願有るに依て、本社へ皈參令め、丹祈を抽んず可し之由、仰せ含め被る之間、今日上道す。

じんめいっぴき 〔さわいぐろ   ごう    みんまや  おんうまなり  うんぬん〕    つ   らる
神馬一疋〔澤井黒と号す。御厩の御馬也と云々〕を付け被る。

参考@出雲國杵築大社は、現出雲大社。

現代語文治五年(1189)六月大十五日癸卯。出雲の国の杵築大社(現出雲大社)の神主の資忠が、この度やって来てそばに仕えました。しかし、特別な願い事があるので、出雲の本社へ帰って、熱心に祈るように、言い聞かせましたので、今日上って行きました。神様への捧げる馬を一頭〔沢井黒と言う、御所の厩の馬なんだそうだ〕を連れて行かせました。

文治五年(1189)六月大十八日丙午。中納言法橋觀性皈洛。龍蹄并金銀已下重寶。云唱導布施。云後日贈物。不知其數。運送疋夫列長途云々。

読下し                      ちゅうなごんほっきょうかんじょう きらく
文治五年(1189)六月大十八日丙午。中納言法橋觀性、皈洛す。

りゅうてい なら  くがね しろがね いか ちょうほう しょうどう  ふせ   い     ごじつ   おくりもの  い    そ  かず  しらず
龍蹄@并びに 金 銀 已下の重寶、唱導の布施と云ひ、後日の贈物と云ひ、其の數を不知。

うんそう  ひっぷ ちょうと  れつ        うんぬん
運送の疋夫長途の列をなすと云々。

参考@龍蹄は、体高四尺以上の馬、四尺以下を駒。

現代語文治五年(1189)六月大十八日丙午。中納言法橋観性が、京都へ帰ります。立派な馬や金銀以下の宝物は、供養の日の布施として貰った物や、後日に贈られた物等、それはそれは数え切れないほどでした。それらを運ぶ人足が長蛇の列を作ったそうだ。

文治五年(1189)六月大廿日戊申。鶴岡臨時祭也。馬長二騎流鏑馬十六騎竸馬三番相撲十六番如例。二品依爲御輕服日數中。無御参宮。又不被立奉幣御使。付宮寺有其沙汰云々。

読下し                   つるがおか りんじさいなり  あげうま  〔にき〕   やぶさめ  〔じうろっき〕 くらべうま 〔さんばん〕 すまい 〔じうろくばん〕 れい   ごと
文治五年(1189)六月大廿日戊申。鶴岡の臨時祭也。馬長@〔二騎〕流鏑馬〔十六騎〕竸馬A〔三番〕相撲B〔十六番〕例の如し。

にほん ごきょうぶく  ひかず  うち た     よつ    ごさんぐう な 
二品御輕服
Cの日數の中爲るに依て、御参宮無し。

また  ほうへいのおんし た   られず    ぐうじ   ふ     そ    さた あ     うんぬん
又、奉幣御使
Dを立て被不に、宮寺に付して其の沙汰有りと云々。

参考@馬長(あげうま)は、馬飾りを着け着飾った者が乗る。
参考A競馬(くらべうま)は、競走馬。
参考B相撲(すまい)は、相撲(すもう)但し土俵は無い。
参考C輕服は、喪中。
参考D
奉幣御使は、お参りの代参。

現代語文治五年(1189)六月大二十日戊申。鶴岡八幡宮の臨時のお祭です。飾り馬〔二騎〕流鏑馬〔十六騎〕競走馬〔三レース〕相撲〔十六番〕は、何時もの通りです。頼朝様は、義経の服喪の日数が終わってないので、お宮へは参りませんでした。又、代参も立てずに、八幡宮に任せると命じられましたとさ。

文治五年(1189)六月大廿四日壬子。奥州泰衡。日來隱容与州科。已軼反逆也。仍爲征之。可令發向給之間。御旗一流可調進之由。被仰常胤。絹者朝政依召献之云々。」及晩。右武衛消息到來。奥州追討事。御沙汰之趣。内々被申之。其趣。連々被經沙汰。此事。關東鬱陶雖難黙止。義顯已被誅訖。今年造太神宮上棟。大佛寺造營。彼是計會。追討之儀。可有猶豫者。其旨已欲被献殿下御教書云々。又御厩司事。就被免仰。申領状訖云々。

読下し                      おうしゅう やすひら  ひごろ よしゅう  いんよう     とが  すで  はんぎゃく すぐ  なり
文治五年(1189)六月大廿四日壬子。奥州の泰衡、日來与州を隱容@する科、已に反逆に軼る也。

よつ  これ  せい    ため  はっこうせし  たま  べ   のかん  おんはた ひとながれちょうしん すべ のよし  つねたね  おお  らる
仍て之を征せん爲、發向令め給ふ可し之間。御旗を 一流 調進A可し之由、常胤に仰せ被る。

きぬは ともまさ めし  よつ  これ  けん    うんぬん
絹者朝政召に依て之を献ずと云々。」

参考@隱容は、隠している。
参考A
調進は、新調する。

ばん  およ    うぶえい  しょうそこ とうらい    おうしゅうついとう  こと  ごさたのおもむき  ないない  これ  もうさる
晩に及び、右武衛が消息到來す。奥州追討の事、御沙汰之趣、内々に之を申被る。

そ おもむき れんれん さた    へら      かく  こと  かんとう  うっとう   もくし   がた   いへど    よしあきすで ちうされをは
其の趣、連々沙汰を經被る。此の事、關東の鬱陶を黙止し難きBと雖も、義顯已に誅被訖んぬ。

ことし   ぞうだいじんぐう じょうとう   だいぶつじ  ぞうえい  かれこれけいかい
今年は造太神宮の上棟C、大佛寺Dの造營、彼是計會す。

ついとうの ぎ   ゆうよ あ   べ   てへ      そ  むねすで でんか みぎょうしょ  けん  られ    ほつ    うんぬん
追討之儀、猶豫有る可し者れば、其の旨已に殿下御教書を献ぜ被んと欲すと云々。

また みんまやつかさ こと  めん  おお  らる    つ     りょうじょう もう  をは      うんぬん
又、御厩司の事、免じ仰せ被るに就き、領状を申し訖んぬEと云々。

参考B黙止し難しは、放って置けない。
参考C
太神宮の上棟は、伊勢神宮の二十年に一度の立替。式年遷宮。
参考D大佛寺は、東大寺大仏殿造営。又は重源上人が三重県伊賀市富永1238に立てた大仏寺は、元仁二年(1225)とあるので、ここでは東大寺で良いと思う。
参考
E一条能保が、院御厩司に就任した記事は、学習院大学史料館が、西園寺家から寄託を受けた「御厩司次第」に後鳥羽院御宇に左兵衛督能保〔自關東被進之〕二年〔自文治五至建久元〕とある。

現代語文治五年(1189)六月大二十四日壬子。東北地方の藤原氏の泰衡は、このあいだうち義経をかくまっていた罪は、反逆行為と同じだ。だから征伐をしてくれる為に出発するので、軍旗を一つ作るように千葉介常胤に言いつけられました。生地にする絹は小山四郎朝政が命令を受けて用意して献上しましたとさ。

夜になって京都の一条能保からの手紙が届きました。東北征伐の話は、朝廷側の対応を内々に伝えてこられました。

その内容では、朝廷では何度も議題に出して図られており、このことは関東が目的を晴らしたくていらいらしているのを無視して放っておき難いけれど、もう既に義経は殺されてしまったではないか。それに今年は伊勢神宮の式年遷宮もあるし、大仏殿の再興工事も進めているし、色々と忙しいわけではないか。だから、奥州討伐の事はもう少し延期するように命令を出すよう、関白殿下は上申書を用意しようとしているとの事だとさ。

それと、能保さんが、院の馬屋管理長官に任命される話は、頼朝様からの許可が出たので、朝廷へ了承する旨を文書で提出しましたとさ。

文治五年(1189)六月大廿五日癸丑。奥州事。猶可被下追討 宣旨之由。重被申京都云々。

読下し                     おうしゅう こと  なおついとう  せんじ  くだされ  べ   のよし  かさ    きょうと  もうさる    うんぬん
文治五年(1189)六月大廿五日癸丑。奥州の事、猶追討の宣旨を下被る可し之由、重ねて京都へ申被ると云々。  

現代語文治五年(1189)六月大二十五日癸丑。東北藤原政権征伐の宣旨を出してもらうように、なお重ねて京都の一条能保へ催促を出しましたとさ。

文治五年(1189)六月大廿六日甲寅。奥州有兵革。泰衡誅弟泉三郎忠衡年廿三是同意与州之間。依有 宣下旨也云々。

読下し                     おうしゅう へいかく あ    やすひら おとうと いずみのさぶろうただひら 〔としにじうさん〕 ちう
文治五年(1189)六月大廿六日甲寅。奥州に兵革有り。泰衡、弟の 泉三郎忠衡@〔年廿三〕を誅す。

これ よしゅう どうい のかん  せんげ  むね あ   よつ  なり  うんぬん
是与州に同意之間、宣下の旨有るに依て也と云々。

参考@泉三郎忠衡は、泰衡の異母弟で親義経派。この記事は後年書かれた物なので、この時点には鎌倉では何も知らない。

現代語文治五年(1189)六月大二十六日甲寅。奥州平泉で合戦があったそうだ。泰衡は、弟の泉三郎忠衡〔年二十三歳〕を殺しました。この人は、義経に味方をしているので、朝廷からの義経追討の命令書に従ったからだそうだ。

文治五年(1189)六月大廿七日乙夘。此間奥州征伐沙汰之外無他事。此事。依被申 宣旨。被催軍士等。群集鎌倉之輩。已及一千人也。爲義盛。景時奉行。日來注交名。前圖書允爲執筆。今日覽之。而武藏下野兩國者。爲御下向巡路之間。彼住人等者。各致用意。可參會于御進發前途之由。所被觸仰也。

読下し                      こ   かん おうしゅうせいばつ  さた の ほかたごと な
文治五年(1189)六月大廿七日乙夘。此の間、奥州征伐の沙汰之外他事無し。

こ   こと   せんじ  もうさる    よつ    ぐんしら   もよおさる
此の事、宣旨を申被るに依て、軍士等を催被る。

かまくら むれあつ   のやから  すで いっせんにん  およ  なり  よしもり   かげとき  ぶぎょう  な    ひごろ きょうみょう ちう    さきのとしょのじょう しっぴつ な
鎌倉へ群集まる之輩@、已に一千人に及ぶ也。義盛、景時を奉行と爲し、日來交名を注す。前圖書允 執筆を爲す。

きょう これ  み     しか    むさし   しもつけりょうごくは  ごげこう    じゅんろ  な  のあいだ
今日之を覽る。而して武藏、下野兩國者、御下向の巡路と爲す之間

か   じゅうにんらは おのおのようい いた    ごしんぱつ  ぜんとに さんかいすべ  のよし   ふ  おおさる ところなり
彼の住人等者、各用意を致し、御進發の前途于參會可し之由、觸れ仰被る所也。

参考@鎌倉へ群集まる之輩は、御家人。

現代語文治五年(1189)六月大二十七日乙卯。このところ、奥州征伐の為の準備以外は、他にありません。この事を宣旨を出してくれと言ってあるので、軍隊を集合するよう武士に通知をしました。それで、鎌倉へ群れ集った連中は、すでに千人に達します。和田義盛、梶原景時を担当者として、到着毎に名前を届けさせています。前図書允が書記をしました。頼朝様は、今日これを見られて、武蔵、下野は奥州へ下る通り道なので、そこの武士達は、それぞれ出発の用意をして、行く先々に集合すればよいと、仰せになられました。

文治五年(1189)六月大廿八日丙辰。鶴岡放生會。來月朔日可被遂行之旨。有其沙汰。是於式月者。定可有御坐奥州之上。爲泰衡征伐御祈祷。及此儀云々。

読下し                              つるがおか ほうじょうえ  らいげつついたち すいこうせら べ  のむね  そ    さた あ
文治五年(1189)六月大廿八日丙辰。鶴岡の放生會。來月朔日に遂行被る可き之旨、其の沙汰有り。

これ  しきげつ  をい  は   さだ    おうしゅう   ござ あ   べ    のうえ  やすひらせいばつ  ごきとう  な     かく   ぎ   およ    うんぬん
是、式月に於て者、定めし奥州に御坐有る可し之上、泰衡征伐の御祈祷と爲し、此の儀に及ぶと云々。

現代語文治五年(1189)六月大二十八日丙辰。鶴岡八幡宮の生き物を放ち懺悔する放生会の儀式は、来月の一日に実施しようと、命じられました。
なぜなら、式日の八月十五日は、おそらく奥州平泉の方に居るだろうから、泰衡征伐のご祈祷にもなるように、そうお決めになられましたとさ。

文治五年(1189)六月大廿九日丁巳。日來御礼敬愛染王像。被送于武藏慈光山。以之爲本尊。可抽奥州征伐御祈祷之由。被仰含別當嚴耀并衆徒等。當寺者。本自所有御帰依也。去治承三年三月二日。自伊豆國。遣御使盛長。令鑄洪鐘給。則被刻御署名於件鐘面云々。

読下し                              ひごろ ごれいけい  あいぜんおうぞう   むさし じこうさん に おくらる
文治五年(1189)六月大廿九日丁巳。日來御礼敬の愛染王像@、武藏慈光山A于送被る。

これ  もつ  ほんぞん  な     おうしゅうせいばつ  ごきとう  ぬき    べ    のよし  べっとうがんようなら    しゅうとら   おお  ふく  らる
之を以て本尊と爲し、奥州征伐の御祈祷を抽んず可き之由、別當嚴耀并びに衆徒等に仰せ含め被る。

とうじは    もとよ     ごきえ あ  ところなり  さんぬ じしょうさんねんさんがつふつか いずのくによ     おんつかい もりなが  つか
當寺者、本自り御帰依有る所也。去る 治承三年三月二日。伊豆國自り、御使の 盛長を遣はし、

こうしょう  いせし  たま   すなは ごしょめいを くだん しょうめん ほられる   うんぬん
洪鐘を鑄令め給ひB、則ち御署名於件の鐘面に刻被ると云々。  

参考@愛染王像は、愛染明王像。弓箭を持っていることや息災・増益・敬愛・降伏のご利益から、祀ったのではないか。
参考A武藏慈光山は、埼玉県比企郡都幾川町西平の慈光寺
参考B洪鐘を鑄令め給ひは、旗揚げより一年前に鋳造させているのは経済的にも権威的にもできたのか疑問が残る?

現代語文治五年(1189)六月大二十九日丁巳。普段から大切に信心している愛染明王像を、武蔵(都幾川町)の都幾山慈光寺へ預けました。これを本尊にして、奥州平泉征伐の祈祷を行うように、代表の厳耀や僧兵達に言いつけました。この寺は、元々信頼して帰依している寺であります。今から十年ほど前の治承三年三月二日に、伊豆から使いの藤九郎盛長を行かせて、梵鐘を鋳させました。その時に、署名をその鐘に彫らせたと言われております。

文治五年(1189)六月大卅日戊午。大庭平太景能者。爲武家古老。兵法存故實之間。故以被召出之。被仰合奥州征伐事。曰。此事窺天聽之處。于今無勅許。憖召聚御家人。爲之如何。可計申者。景能不及思案。申云。軍中聞將軍之令。不聞 天子之詔云々。已被經 奉聞之上者。強不可令待其左右給。隨而泰衡者。受継累代御家人遺跡者也。雖不被下 綸旨。加治罸給。有何事哉。就中。群參軍士費數日之條。還而人之煩也。早可令發向給者。申状頗有御感。剩賜御厩御馬置鞍小山七郎朝光引立庭上。景能在縁。朝光取差繩端。投景能前。景能乍居請取之。令取郎從。二品入御之後。景能招朝光。賀云。吾老耄之上。保元合戰之時。被疵之後。不行歩進退。今雖拝領御馬。難下庭上之處。被投繩。思其芳志。直千金云々。二品又感朝光所爲給云々。

読下し                            おおばのへいたかげよしは  ぶけ   ころう  た
文治五年(1189)六月大卅日戊午。大庭平太景能者武家の古老爲り。

へいほう  こじつ   ぞん    のかん ことさら もっ  これ  め   い   さる
兵法の故實を存ずる之間、故に以て之を召し出だ被る。

おうしゅうせいばつ こと おお  あわされ  い      かく  ことてんちょう うかが のところ  いまに ちょっきょな
奥州征伐の事を仰せ合被て曰はく、此の事天聽を窺ふ之處、今于勅許無し。

なまじ   ごけにん   め   あつ    これ  いかん   な     はか  もう  べ   てへ
憖ひに御家人を召し聚む、之を如何と爲す。計り申す可し者り。

かげよし しあん  およばず もう    い       ぐんちゅう しょうぐんのれい き     てんしのみことのり きかず   うんぬん
景能思案に不及申して云はく、軍中、將軍之令を聞き、天子之詔を不聞
@と云々。

すで  そうもん  へらる  の うえは  あながち そ   とこう  ま   せし  たま  べからず
已に奏聞を經被る之上者、強に其の左右を待た令め給ふ不可。

したが て  やすひらはるいだいごけにん  ゆいせき うけつぐものなり  りんじ   くださらず  いへど ちばつ  くは  たま      なにごと  あらんや
隨い而、泰衡者累代御家人の遺跡を受繼者也。綸旨を下被不と雖も治罰を加へ給はんは何事ぞ有哉。

なかんづく  ぐんさん  ぐんしすうじつ  ついや のじょう  かえ て ひとのわずら  なり
就中に、群參の軍士數日を費す之條、還っ而人之煩ひ也。

はや  はっこうせし  たま  べ   てへ     もう じょう すこぶ ぎょかん   あまりさ みうまや おんうま くらおき   たま
早く發向令め給ふ可し者れば、申し状 頗る御感。 剰へ御厩の御馬〔置鞍〕を賜はる。

おやまのしちろうともみつ ていじょう ひきた    かげよしえん  あ    ともみつさしなわ  はじ  と     かげよし  まえ  な
小山七郎朝光、庭上に引立つ。景能縁に在り。朝光差縄の端を取り、景能の前に投げる。

かげよしいなが  これ  う   と     ろうじゅう と   せし    にほん にゅうぎょの のち  かげよしともみつ まね  が     い
景能居乍ら之を請け取り、郎從に取ら令む。二品入御之後、景能朝光を招き賀して云はく、

われ ろうもうの うえ  ほうげんかっせんの とききずせら ののち  ぎょうほままならず いまおんうま  はいりょう   いへど
吾老耄之上、保元合戰之時疵被る之後、行歩進退不。今御馬を拜領すと雖も、

ていじょう  お  がた  のところ  なわ  な   らる   そ   ほうし   おも    あたいせんきん うんぬん
庭上に下り難き之處、縄を投げ被る。其の芳志を思うに値千金と云々。

にほん またともみつ しわざ   かん  たま    うんぬん
二品又朝光が所爲に感じ給ふと云々。

参考@天子之詔を不聞は、閫外(こんがい)の任(史記)。1 しきいの外。戸外。2 都の外。境界の外。

現代語文治五年(1189)六月大三十日戊午。大庭平太景能は、特に武家の昔のことをよく知っている老人です。いくさの仕方。の古い古い規定や習慣を良く知っているので、わざわざ彼を呼び出しました。奥州平泉の征伐について話されたのには、「この征伐について、京都朝廷に伺っているのだが、未だに朝廷の許しが出ない。わざわざ御家人を呼び集めてしまった。これはどうしたものかなー。何か良い考えは無いか言ってみなさい。」と申されました。大庭平太景能は考える風も無く、すぐさま申し上げました。「軍陣においては、將軍の命令を聞き、遠く離れている天子様のお言葉を聴かないといわれます。すでに、京都朝廷へは申し上げていますので、そう何時までも返事を待つ必要は無いでしょう。それに、泰衡は先祖代々の御家人の跡を継いでいるにすぎません。朝廷からの命令書をもらえなくても、部下筋に罰を加えるのに何事がありましょうか。とりわけ、群れて集ってきている軍隊が日を費やすのは、かえって戦機をそがれて支障になります。早く出発するべきですよ。」と答えたので、その言い分は特別にお気にいられ褒められました。そればかりか、御所の厩から馬〔鞍付き〕をお与えになられました。

小山七郎朝光が庭に引き連れて来ました。大庭景能は縁側におりましたので、朝光は手綱の端を景能の前へ投げました。景能は、その場に居ながら手綱を受け取り、部下に連れて行かせました。頼朝様が奥へお入りになった後で、景能は朝光をそばへ招いて、御礼を言いました。「私が年寄りの上、保元の合戰で膝に怪我しているので、歩行が思うように行かない。今、お馬を戴いても、庭に下りられないで居たら、手綱を投げてくれた。(手綱を手に取るという、馬を戴く作法にかなったので)その気遣いを考えると千金もの価値があったとのことでした。頼朝様も小山七郎朝光の配慮には、感激をされたのことです。

七月へ

吾妻鏡入門第九巻   

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