吾妻鏡入門第九巻   

文治五年(1189)己酉七月小

文治五年(1189)七月小一日已未。鶴岡放生會也。巳剋。二品御出。供奉輩被用去月九日人數。但勅使河原三郎懸御調度。先法會。舞童八人。相分左右。次馬塲儀。馬長十騎竸馬五番。皆老翁也流鏑馬十六騎相撲十六番及黄昏。還御云々。

読下し                   つるがおか ほうじょうえなり みのこく   にほんぎょうしゅつ ぐぶ やから さんぬ つきここのか にんずう  もち  らる
文治五年(1189)七月小一日已未。鶴岡の放生會也。巳剋。、二品御出。供奉の輩は去る月九日の人數を用い被る。

ただ    てしがわらさぶろう  ごちょうど   か     ま   ほうえ  ぶどうはちにん   さゆう   あいわか
但し、勅使河原三郎御調度を懸く。先づ法會。舞童八人、左右に相分る。

つぎ  ばば   ぎ   あげうま  〔じっき 〕 くらべうま 〔ごばん みなろうおうなり 〕   やぶさめ  〔じうろっき〕  すまい  〔じうろくばん〕   たそがれ  およ  かんご    うんぬん
次に馬塲の儀。馬長@〔十騎〕竸馬〔五番、皆老翁也〕流鏑馬〔十六騎〕相撲〔十六番〕。黄昏に及び還御すと云々。

参考@馬長(あげうま)は、馬飾りを着け着飾った者が乗る。  

現代語文治五年(1189)七月小一日已未。鶴岡八幡宮で供養のため捕えた生き物を放してやる儀式の放生会です。午前十時頃に頼朝様がお出になられました。お供の連中は、先月の九日の人数にしました。但し、頼朝様の弓矢一式は、勅使河原三郎有直を担ぐ役にしました。
まず、お経の儀式、次ぎに稚児が八人左右に分かれて舞を舞いました。次ぎに、馬場での儀式です。馬飾りを着飾った馬長(あげうま)が十騎練り歩きました。そして競走馬〔五番皆長老達です〕流鏑馬〔十六騎〕相撲〔十六番〕でした。日暮れになってお帰りになられましたとさ。

文治五年(1189)七月小五日癸亥。駿河國冨士御領帝尺院。被寄附田地。是奥州征伐祈祷也。江間小四郎沙汰之。

読下し                   するがのくに  ふじごりょう たいしゃくいん でんち  きふ せら
文治五年(1189)七月小五日癸亥。駿河國の冨士御領@帝尺院に田地を寄附被る。

これ  おうしゅうせいばつ  きとうなり  えまのこしろう これ   さた
是、奥州征伐の祈祷也。江間小四郎之を沙汰す。

参考@冨士御領は、浅間神社神領義時の治領地(地頭)。

現代語文治五年(1189)七月小五日癸亥。駿河国の浅間神社の領地の帝釈院に田んぼを寄付されました。これは、奥州征伐が旨くいくために祈ってもらうためです。地頭の江間小四郎義時が担当をしました。

文治五年(1189)七月小八日丙寅。千葉介常胤献新調御旗。其長任入道將軍家〔頼義御旗寸法。一丈二尺二幅也。又有白糸縫物。上云。 伊勢大神宮 八幡大菩薩云々。下縫鳩二羽相對云々是爲奥州追討也。治承四年。常胤相率軍勢。參向之後。諸國奉歸往。依其佳例。今度御旗事。別以被仰之。絹者小山兵衛尉朝政進之。先祖將軍輙亡朝敵之故也。此御旗。以三浦介義澄爲御使。被遣鶴岡別當坊。於宮寺。七ケ日可令加持之由被仰云々。又下河邊庄司行平。依仰調献御甲。今日自持參之。開櫃盖置御前。相副紺地錦御甲直垂上下。御覽之處。冑後付笠標。仰曰。此簡付袖爲尋常儀歟。如何者。行平申云。是曩祖秀郷朝臣佳例也。其上。兵本意者先登也。進先登之時。敵者以名謁知其仁。吾衆自後見此簡。可必知某先登之由者也。但可令付袖給否。可在御意。調進如此物之時。用家樣者故實也云々。于時蒙御感。

読下し                   ちばのすけつねたね しんちょう  みはた けん
文治五年(1189)七月小八日丙寅。
千葉介常胤、新調の御旗を献ず。

そ   なが   にゅうどうしょうぐんけ 〔よりよし〕   みはた  すんぽう  まか    いちじょうにしゃくふたふくなり また  しらいと  ぬいもの あ
其の長さは入道將軍家〔頼義〕の御旗の寸法に任せて、一丈二尺二幅也。又、白糸の縫物有り。

うへ   い       いせだいじんぐう   はちまんだいぼさつ うんぬん  した はと  には  〔あいたい   うんぬん〕    ぬ    これ  おうしゅうついとう ためなり
上に云はく、伊勢大神宮、八幡大菩薩と云々。下に鳩
@二羽〔相對すと云々〕を縫ふ。是、奥州追討の爲也。

じしょうよねん つねたねぐんぜい ひき  さんこうののち  しょこく きおうたてまつ   そ    かれい  よっ    このたび  みはた  こと  べっ    もっ  これ  おお  らる
治承四年常胤軍勢を率ひ、參向之後、諸國歸往奉る。其の佳例に依て、今度の御旗の事、別して以て之を仰せ被る。

きぬは おやまのひょうえのじょうともまさ これ しん   せんぞしょうぐん  たやす ちょうてき ほろぼ のゆえなり
絹者 小山兵衛尉朝政、 之を進ず。先祖將軍
A、輙く朝敵Bを亡す之故也。

かく  みはた    みうらのすけよしずみ もっ おんつかひ な   つるがおかべっとうぼう つか  され  ぐうじ  をい  なぬかにち かじ  せし  べしのよし  おお られ    うんぬん
此の御旗は、三浦介義澄を以て御使と爲し、鶴岡別當坊に遣は被、宮寺に於て七箇日加持令む可之由、仰せ被ると云々。

また  しもこうべのしょうじゆきひら  おお   よっ  おんよろい ととの けんぜ  きょう みづか  これ  じさん  ひつ  ふた  ひら  ごぜん  お
又、下河邊庄司行平、仰せに依て御甲を調へ献る。今日自ら之を持參し櫃の蓋を開き御前に置く。

こんぢにしき おんよろいひたたれじょうげ あいそへ
紺地錦の 御甲直垂 上下を相副る。

ごらんのところ  かぶと うしろ かさじるし つ       おお    いは    かく   ふだ  そで  つ      じんじょう  ぎ   な   か
御覽之處、冑の後に笠標を付ける。仰せて曰く、此の簡は袖に付くるを尋常の儀と爲す歟。

いか   てへ      ゆきひらもう    い
如何に者れば、行平申して云はく。

これ  なうそ ひでさとあそん  かれいなり   そ   うえ  へい  ほい は せんと なり  せんと  すす  のとき   てきは なのり   もっ  そ   じん  し
是、曩祖秀卿朝臣の佳例也。其の上、兵の本意者先登也。先登に進む之時、敵者名謁を以て其の仁を知る。

わがしゅう うしろよ  かく  ふだ  み    かなら ぼう せんとのよし  し  べきものなり   ただ    そで  つ   せし  たま  べき  いな    ぎょい   あ   べ
吾衆は後自り此の簡を見て、必ず某先登之由を知る可者也。但し、袖に付へ令め給ふ可や否やは御意に在る可し。

かく  ごと    もの  ちょうしんのとき   いえ  ためし もち    は こじつなり  うんぬん  ときに ぎょかん  こうむ
此の如きの物を調進之時は、家の様を用いる者故實也と云々。時于御感を蒙る。

参考@は、源氏の白鳩(八幡宮の門の額の八の字は鳩になっている)。
参考A先祖將軍は、平将門を討伐した藤原秀郷。
参考B朝敵は、平将門。

現代語文治五年(1189)七月小八日丙寅。千葉介常胤が新しく新調した旗を献上しました。その長さは、先祖の入道将軍家源頼義の旗の寸法に合わせて、一丈二尺(3.6m)のを二枚です。白い生地に白糸の刺繍があります。上の方には、伊勢大神宮と八幡大菩薩だそうで、下の方には鳩二羽〔向かい合っているそうです〕を縫ってあります。これは、奥州征伐のためです。なんとなれば、治承四年に千葉介常胤が軍隊を連れて来てから、諸国の豪族達が味方に付いたので、その縁起の良さに、今度の旗の作成を特に指名して命じられたのです。元の絹は、小山兵衛尉朝政がこれを献上しました。彼の先祖の将軍藤原秀郷は、簡単に謀反人の平将門を滅ぼした謂れがあるからです。この旗は、三浦介義澄が使いとなって、鶴岡八幡宮長官に渡して、八幡宮寺で七日間の加持祈祷をするように命じられましたとさ。

また、下河辺庄司行平は、頼朝様の命令を受けて、頼朝様の鎧を新調して献上しました。今日、行平自らこれを持ってきて、鎧櫃(鎧箱)の蓋を開いて引っ張り出して頼朝様の前へ置きました。紺色を基調としたグラデーションの鎧の下に着る直垂を添えました。頼朝様がご覧になったところ、兜の後ろに持ち主を表明する笠標(かさじるし)を着けています。頼朝様は言いました。「この札は袖に着けるのが一般的じゃないのかね。どうして。」と訪ねると、下河辺庄司行平が云うのには、「これは、我が先祖藤原秀郷様以来の良き例なのです。それに兵隊の心がけるのは一番乗りですよ。一番乗りで進めば、敵は兵の名乗りで誰だか分かりますが、味方の人達は、後ろからこの札を見て、必ずその人が先頭にいる事を知るものでしょう。但し、袖に着けたほうが宜しければ、お心のままに致します。」「このような物を新調してもらうときは、その家の慣例故実を用いるのが決まりだよ。」とおっしゃられて、お褒めに預かりました。

文治五年(1189)七月小九日丁卯。前大藏卿泰經朝臣者。依与義經朝臣。二品鬱申給之間。所被罪科也。而義經已敗北之上者。可被免除歟之由。内々被仰師中納言。都督以其御教書。被送献之。今日到來云々。
 泰經卿事。度々被仰二位卿訖。然而于今無優免之儀。又被存申之旨。依有其謂。不及沙汰。而如此罪科輩。多々優免之上。義經事一定歟。然者被免哉之由。便宜之時。相計可仰遣之由。内々御氣色候也。仍執啓如件。
      七月一日         左中弁〔定長〕
 謹上  太宰權師殿〔經房〕

読下し                  さきのおおくらきょうやすつねあそんは よしつねあそん くみ     よつ    にほん うつ   もう  たま  のかん  ざいか  せら ところなり
文治五年(1189)七月小九日丁卯。前大藏卿泰經朝臣者、義經朝臣に与するに依て、二品鬱し申し給ふ之間、罪科に被る所也。

しか    よしつねすで はいぼくのうえは  めんじょさる  べ   かのよし   ないない そちのちゅうなごん おお らる
而るに義經已に敗北之上者、免除被る可き歟之由、内々に師中納言、仰せ被る。

ととく  そ  みぎょうしょ   もつ    これ  おく  けん  らる     きょう  とうらい     うんぬん
都督其の御教書を以て、之を送り献ぜ被る。今日到來すと云々。

  やすつねきょう こと たびたびにいのきょう おお られをは    しかれども いまに ゆうめん のぎ な     またぞん  もうさる  のむね
 泰經@卿の事。度々二位卿に仰せ被訖んぬ。然而、今于優免之儀無し。又存じ申被る之旨。

  そ   いは  あ     よつ    さた   およばず  しか    かく  ごと    ざいか やから  たた  ゆうめんのうえ  よしつね  こといちじょう    か
 其の謂れ有るに依て、沙汰に不及。而るに此の如きの罪科の輩、多々優免之上、義經の事一定する歟。

  しからばめん  られ や のよし  びんぎ のとき    あいはから おお つか    べ    のよし  ないないみけしきそうろうなり  よつ しっけいくだん ごと
 然者免じ被ん哉之由、便宜之時に、相計ひ仰せ遣はす可し之由、内々御氣色候也。 仍て執啓件の如し。

             しちがつついたち                 さちゅうべん〔さだなが〕
      七月一日         左中弁〔定長〕

  きんじょう    だざいごんのそつどの〔つねふさ〕
 謹上  太宰權師殿〔經房〕

参考@泰經は、高階。頼朝追討の宣旨を出したので。

現代語文治五年(1189)七月小九日丁卯。前の大蔵大臣の泰経様は、義経様に味方した(頼朝様追悼の宣旨を出した)ので、頼朝様が(官職についていることを)難色を示され、蟄居させられました。しかし、義経は既に敗北死したので、許してやれないものかと(後白河法皇が)内々に吉田経房卿におっしゃられました。経房卿がそのお言葉を伝える手紙を送られました。それが今日届いたとの事です。

 泰経様のことについては、何度か頼朝様に伝えておられます。しかし、未だに許される気配がありません。未だ、憎しみが残っておられるのですね。その気持ちは分かりますので、これ以上は云いません。しかし、このような罪に処せられたかなりの人が許されています。義経の一件ももう終わったことですよ。だから許可されるように、(頼朝様の)機嫌の良いときに取り計らい云っておくようにとのお気持なので、このとおりお伝えします。
    七月一日       左中弁〔定長〕
  謹んで差し上げます 太宰権師殿〔吉田経房〕

説明定長が後白河上皇に云われ経房に伝えている。

文治五年(1189)七月小十日戊辰。大神宮領伊勢國沼田御厨土民等捧訴状。去比參着。當所。元畠山次郎重忠充賜之處。依員辨大領家綱之訴状。被収公之。賜吉見次郎頼綱訖。而頼綱亦巧不義。追捕民戸。點定財寶云々。仍今日有沙汰。爲平民部丞盛時奉行。早可令停止彼非據之由。可下知之旨。被仰遣山城介久兼。爲抽征伐御祈祷。以及急速裁許云々。

読下し                   だいじんぐうりょう いせのくに  ぬたのみくりや  どみんら   そじょう   ささ      さんぬ ころさんちゃく
文治五年(1189)七月小十日戊辰。大神宮領 伊勢國 沼田御厨@の土民等が訴状を捧げて、去る比參着す。

とうしょ    もとはたけやまのじろうしげただ あ たま   のところ  いなべだいりょう いえつなのそじょう  よつ    これ  しゅうこうされ
當所は、元畠山次郎重忠が充て賜はる之處、員辨大領A家綱之訴状に依て、之を収公B被、

よしみのじろうよりつな  たまは をは
吉見次郎頼綱Cに賜り訖んぬ。

しか    よりつなまた ふぎ   たく     みんこ  ついぶ    ざいほう  てんじょう   うんぬん  よつ  きょう  さた あ
而るに頼綱亦不義を巧み、民戸を追捕し、財寶を點定Dすと云々。仍て今日沙汰有り。

たいらのみんぶのじょうもりとき ぶぎょう な     はや  か   ひきょ  ちょうじ せし  べ   のよし  げち すべ  のむね  やましろのすけひさかね おお つか  さる
 平民部丞盛時 奉行と爲して、早く彼の非據Eを停止令む可し之由、下知可し之旨、山城介久兼に仰せ遣は被る。

せいばつ  ごきとう    ぬき    ため  もつ  きゅうそく さいきょ  およ    うんぬん
征伐の御祈祷を抽んず爲、以て急速の裁許に及ぶと云々。

参考@沼田御厨ヌタノミクリヤは、松阪市。
参考A大領は、郡司の頭。
参考B
収公は、没収。
参考C吉見次郎頼綱は、武蔵国吉見郷で埼玉県比企郡吉見町。吉見百穴で有名。
参考D
點定は、横領。
参考E
非據は、犯罪。

現代語文治五年(1189)七月小十日戊辰。伊勢神宮の領地の沼田御厨(松阪市)の農民達が訴えの文書を提出しに先日やってきました。この土地は、前は畠山次郎重忠が与えられていたのですが、郡司頭領の員弁家綱の訴状によって没収され、吉見次郎頼綱に与えられました。それなのに、吉見頼綱も同様に略奪をたくらみ、民百姓を押し込み脅かして、年貢を横取りしたんだとさ。それなので、今日裁決がありました。平民部烝盛時を差配として、早くその道理のない暴挙を止めさせるように、命令するよう山城介久兼に命じられました。奥州征伐のご祈祷をしなけりゃならないので、お急ぎの決裁となったそうです。

文治五年(1189)七月小十二日庚午。被進飛脚於京都。御消息云。可追討奥州泰衡之由。言上先訖。定被成下 宣旨候歟之由。存案之間。催集軍士。已送數日候畢。亦 宣旨者。被下官使候者。可遲留候。仰左兵衛督。以彼飛脚可給者。

読下し                          ひきゃくを きょうと  しん  らる    ごしょうそこ  い
文治五年(1189)七月小十二日庚午。飛脚於京都へ進ぜ被る。御消息に云はく。

おうしゅう  やすひら ついとうすべ  のよし  さき  ごんじょう をはんぬ
奥州の泰衡を追討可し之由、先に言上し訖。

さだ    せんじ   な   くだされそうら    かのよし  ぞんあん    のかん  ぐんし  もよお  あつ   すで  すうじつ  おく  そうら をはんぬ
定めて宣旨を成し下被候はん歟之由、存案する之間、軍士を催し集め、已に數日を送り候ひ畢。

また  せんじは   かんし   くだされそうら ば  ちりゅうすべ そうろう さひょうえのかみ  おお     か   ひきゃく  もつ  たま    べ   てへ
亦、宣旨者、官使を下被候は者、遲留可く候。左兵衛督@に仰せて、彼の飛脚を以て給はる可し者り。

参考@左兵衛督は、藤原隆房で法皇の取次ぎ役である。昔、義朝が保元の乱の後望んでついた役職。

現代語文治五年(1189)七月小十二日庚午。伝令を京都朝廷へ行かせました。お手紙に書いてあるのは、奥州平泉の藤原泰衡を征伐すると、前に申し上げているので、当然朝廷の命令書を出してくれると思っていたので、兵隊達を催促して集めて、数日が経ってしまいました。もし命令書を朝廷の役人が持って来るのでは、遅くなってしまいます。左兵衛督藤原隆房に命じて彼の伝令に持ってこらせるように、と云いました。

文治五年(1189)七月小十四日壬申。爲征伐依可令赴奥州給。爲御共被催波多野五郎義景之處。進奉之後。讓所領於幼息。是向戰塲不可歸本國之故也云々。二品聞食之。頗有御感云々。

読下し                      せいばつ ため  おうしゅう おもむ せし たま  べ     よつ   おんとも  なし   はたののごろうよしかげ   もよほさる のところ
文治五年(1189)七月小十四日壬申。征伐の爲、奥州へ赴か令め給ふ可くに依て、御共と爲て波多野五郎義景を催被る之處。

たてまつ  しん    ののち  しょりょうを ようそく  ゆず   これ  せんじょう むか  ほんごく  かえ べからざるのゆえなり  うんぬん
奉りを進ずる之後、所領於幼息に讓る。是、戰塲に向ひ本國に歸る不可之故也と云々。

にほん これ  き     め     すこぶ ぎょかんあ    うんぬん
二品之を聞こし食し、頗る御感有りと云々。

現代語文治五年(1189)七月小十四日壬申。奥州征伐のため奥州へ出かけるので、お供をするように波多野五郎義景に催促をしたところ、了承を提出した後で、領地を幼い息子に譲り状を渡しました。それは、戦場へ向かう時は、生きて帰れないという覚悟が必要だからなんだとさ。頼朝様は、この話を聞いてとても感心なさいましたとさ。

文治五年(1189)七月小十六日甲戌。右武衛〔能保〕使者後藤兵衛尉基C。并先日自是上洛飛脚等參着。基C申云。泰衡追討 宣旨事。攝政公卿已下。被經度々沙汰訖。而義顯出來。此上猶及追討儀者。可爲天下大事。今年許可有猶豫歟之由。去七日被下 宣旨也。早可達子細之由。師中納言相觸之。可爲何樣哉云々。令聞此事給。殊有御鬱憤。軍士多以豫參之間。已有若干費。何期後年哉。於今者。必定可令發向給之由。被仰云々。

読下し                       うぶえい   〔よしやす〕   ししゃ ごとうひょうえのじょうもときよ  なら    せんじつこれよ  じょうらく  ひきゃくら さんちゃく
文治五年(1189)七月小十六日甲戌。右武衛〔能保〕が使者の後藤兵衛尉基C
@并びに先日是自り上洛した飛脚等參着す。

もときよ もう   い        やすひらついとう せんじ  こと  せっしょうくぎょういか  たびたび さた  へられをはんぬ しか  よしあき い  きた
基C申して云はく、泰衡追討の宣旨の事。攝政公卿已下、度々沙汰を經被訖。而して義顯出で來る。

こ   うえなおついとう  ぎ およばば  てんか   だいじ  な   べ     ことし ばか     ゆうよ あ   べ   か のよし  さんぬ なのか せんじ  くださる  なり
此の上猶追討の儀に及者、天下の大事と爲す可し。今年許りは猶豫有る可き歟之由、去る七日宣旨を下被る也。

はや  しさい  たつ  べ   のよし  そちのちうなごんこれ あいふる  いかようたる べ  や  うんぬん  こ   こと  き   せし  たま     こと  ごうっぷん あ
早く子細を達す可し之由、師中納言之を相觸る。何樣爲可き哉と云々。此の事を聞か令め給ひ、殊に御鬱憤有り。

ぐんし おお  もつ  よさん のかん  すで  そくばく   つい  あ     なん  こうねん  ご      や
軍士多く以て豫參之間、已に若干Aの費へ有り。何ぞ後年を期せん哉。

いま  をい  は  ひつじょうはっこうせし たま べ   のよし  おお  らる    うんぬん
今に於て者、必定發向令め給ふ可し之由、仰せ被ると云々。

参考@後藤兵衛尉基清は、平治の乱の際に義朝の勢多の娘を保護して京都へ行かされた。後その娘が一条能保に嫁したので一条の家来になった。この人の十代後に後藤又兵衛基次が出る。
参考A
若干は、そくばくと読み、現在の意味とは反対の沢山の意味である。

現代現代語文治五年(1189)七月小十六日甲戌。一条能保の家来の後藤基清と、こちらから京都へ行った飛脚とが一緒にやってきました。
後藤基清が言うのには「泰衡を征伐せよとの朝廷からの命令書宣旨については、摂政の九条兼実を始めとする公卿達が、何度も検討をしていました。でも、義経の行方が顕かになった。だから、なおもこの上征伐することは、世間にとっては一大事になるであろう。今年は止めておくように、先日の七日に命令書を出しました。早く詳しい内容をお知らせしたいと師中納言吉田経房が言ってます。いかが致しましょうか。」
頼朝様は、この事をお聞きになられて、大変お怒りになられました。軍隊が沢山集ってきているので、すでに沢山の費用をがかかっている。今更、来年に出来るわけが無いだろう。こうなれば、絶対に出発するのだと、ご命令になられましたとさ。

文治五年(1189)七月小十七日乙亥。可有御下向于奥州事。終日被經沙汰。此間。可被相分三手者。所謂東海道大將軍。千葉介常胤。八田右衛門尉知家。各相具一族等并常陸。下総國兩國勇士等。經宇大行方。廻岩城岩崎。渡遇隈河湊。可參會也。北陸道大將軍。比企藤四郎能員。宇佐美平次實政等者。經下道相催上野國高山。小林。大胡。佐貫等住人。自越後國。出々羽國念種關。可遂合戰。二品者大手自中路。可有御下向。先陣可爲畠山次郎重忠之由。召仰之。次合戰謀。有其譽之輩。無勢之間。定難彰勳功歟。然者可被付勢之由被定。仍武藏。上野兩國内黨者等者。從于加藤次景廉。葛西三郎C重等。可遂合戰之由。以義盛。景時等被仰含。次御留守事。所仰大夫属入道(三善善信)也。隼人佑(三善康信)。藤判官代(邦通)。佐々木次郎(經高)。大庭平太(景義)。義勝房(成尋)已下輩可候云々。

読下し                     おうしゅうに ごげこう あ   べ  こと  しゅうじつ さた  へらる
文治五年(1189)七月小十七日乙亥。奥州于御下向有る可き事、終日沙汰を經被る。

こ   かん  さんて   あいわ  られ べきてへ   いはゆる ひがしかいどう  だいしょうぐん ちばのすけつねたね はったのうえもんのじょうともいえ
此の間、三手に相分け被る可者り。所謂、東海道
@の大將軍は 千葉介常胤、 八田右衛門尉知家。

おのおの いちぞくらなら  ひたち  しもうさのくに りょうごく  ゆうしら   あいぐ      うた    なめかた   へ    いわき  いわさき   めぐ
各、一族等并びに常陛、下総國、兩國の勇士等を相具し、宇太
A、行方Bを經て、岩城、岩崎Cを廻り、

あぶくまがわ みなと  わた    さんかいすべ なり
遇隅河の湊
Dを渡り、參會可き也。

ほくろくどう  だいしょうぐん ひきのとうしろうよしかず   うさみのへいじさねまさ ら は   しものみち へ
北陸道の大將軍は比企藤四郎能員E、宇佐美平次實政等者、下道Fを經て、

こうづけのくにたかやま  こばやし  おおこ   さぬき ら   じゅうにん  あいもよお   えちごのくに よ  ではのくにねずがせき  い    かっせん と   べ
上野國 高山
G、小林H、大胡I、左貫J等の住人Kを相催し、越後國自り々羽國念種關Lへ出で、合戰を遂ぐ可し。

にほんは おおて  なかのみちよ ごげこう あ   べ     せんじん  はたけやまのじろうしげただ たるべ  のよし  これ  め   おお
二品者大手、中路自り御下向有る可し。先陣は 畠山次郎重忠 爲可し之由、之を召し仰す。

つぎ  かっせん はか   そ  ほまれあ  のやから  むぜいのかん  さだ    くんこう あらは がた      か
次に合戰の謀り、其の譽有る之輩は無勢之間、定めて勲功を彰し難からん歟。

しからずんば ぜい つ   られ  べ   のよし さだ  らる    よっ  むさし  こうづけりょうこくない とうとう らは
然者、 勢を付け被る可し之由定め被る。仍て武藏、上野兩國内の黨々
M等者、

 かとうじかげかど  かさいのさぶろうきよしげらに したが   かっせん とげ  べ    のよし  よしもり  かげとき ら もっ  おお  ふく  られ
加藤次景廉、葛西三郎清重等于從ひて合戰を遂る可し之由、義盛、景時等を以て仰せ含め被る。

つい  おんるす   こと   たいふさかんにゅうどう おお ところなり
次で御留守の事は、大夫属入道に仰す所也。

はやとのすけ とうのほうがんだい ささきのじろう   おおばのへいた ぎしょうぼう いか   やから そうら べ    うんぬん
隼人佐、藤判官代、佐々木次郎、大庭平太、義勝房已下の輩は候ふ可しと云々。

参考@東海道は、今のとは関係なく、海岸通即ち常磐線。大将軍が二人書かれているので八田は軍監かも。常陸は八田が守護で下総は千葉が守護。
参考A宇太は、相馬御厨で茨城県旧北相馬郡で現取手市、守屋市、利根町、常総市、龍ヶ崎市、つくばみらい市の一部と、千葉県旧南相馬郡で我孫子市、柏市の一部(旧富勢村、旧沼南町)。
参考B行方は茨城県潮来市、行方市
参考C岩崎は、福島県小名浜市岩出岩崎。
参考D
遇隅河湊(あぶくまがわみなと)は、宮城県岩沼市阿武隈。
参考E比企能員は、上野と越後の守護。宇佐美實政は軍監かも知れない。
参考F下道を經てとあるが、高山以下の群馬県を通るので、現在「上の道」と呼ばれているルートと思われる。
参考G高山は、群馬県藤岡市高山。
参考H小林は、群馬県藤岡市小林。
参考I大胡は、前橋市大胡町。
参考J左貫は、群馬県邑楽郡オウラグン明和町。佐貫庄は、明和町、館林市の一帯。
参考K住人は、武士で御家人以外の者。
参考L念種關は、鼠ケ関ねずがせき。山形県 鶴岡市鼠ケ関。羽越本線鼠ケ関駅北国道七号線沿いに関所跡。
参考M黨々は、本来つかみ所の無い、良く分からない連中なので、黒の文字を使う。利害により集散をくりかえすの意味がある。他人からの呼称で本人は言わない。

現代語文治五年(1189)七月小十七日乙亥。奥州平泉へお下りになるため、一日中その準備に追われております。軍隊を三つに分けるように命じられました。
その内容は、太平洋海岸沿いを巡る東海道方面を率いる大将軍は、千葉介常胤と八田右衛門尉知家です。それぞれ、一族や常陸、下総両国の戦士達を連れて、
宇太(茨城県取手市)行方(茨城県潮来市、行方市)と行き、岩城(いわき市)、岩崎(福島県小名浜市岩出岩崎)を巡って、阿武隈湊(あぶくまがわみなと宮城県岩沼市阿武隈)を渡り、本隊と会う事。
北陸道
(日本海経由)の大将軍は、比企藤四郎能員と宇佐美平次実政とが、下の道を通って、上野国(群馬県)
高山(藤岡市高山)、小林(同市小林)、大胡(前橋市大胡町)、左貫(明和町、館林市)等の武士を動員して、越後国(新潟県)から出羽国鼠ヶ関(山形県鶴岡市鼠ヶ関)へ出て、戦闘をしなさい。
頼朝様は、大手として中の道から東北へ下ります。先陣は畠山次郎重忠にしようと、本人を呼んで言いつけました。
次ぎに戦闘態勢を考えて、勇士の誉れのある連中は、家来が少ないので手柄を立てにくかろう。それなので、軍勢を増やしてあげようと決められました。それで武蔵や上野の国の少数派の党は、加藤次景廉や葛西兵衛尉清重に加わって、合戦をするように、侍所長官の和田左衛門尉義盛、次官の梶原平三景時に言って聞かせました。
次ぎに留守番については、大夫属入道三善善信におっしゃられました。隼人佐三善康清、大和判官代藤原邦道、佐々木次郎経高、大庭平太景能、義勝房成尋以下の連中は、留守を勤めるようにとのことです。

文治五年(1189)七月小十八日丙子。召伊豆山住侶専光房。仰曰。爲奥州征伐。潜有立願。汝持戒淨侶也。候留守。可凝祈精。將又進發之後。計廿ケ日。於此亭後山。故可草創梵宇。爲奉安置年來本尊正觀音像也。不可仰別工匠。汝自可立置柱許。於營作者。以後可有沙汰者。專光申領状。又於伊豆國北條。可立伽藍之由。御立願。同爲彼征伐御祈祷也云々。」今日能員進發奥州云々。

読下し                    いずさん じゅうりょせんこうぼう め     おお    い
文治五年(1189)七月小十八日丙子。伊豆山住侶專光房を召し、仰せて曰はく。

おうしゅうせいばつ ため ひそか りゅうがんあ    なんじ じかい じゅうりょなり   るす    こう     きしょう  こ      べ
奥州征伐の爲に潜に立願有り。汝は持戒の住侶也。留守に候じて祈精を凝らす可し。

はたまた しんぱつののち はつかにち はか   こ   てい  うしろやま をい   ことさら ぼんう  そうそうすべ
將又 進發之後廿箇日を計り、此の亭の後山に於て、故に梵宇を草創可し@

ねんらい ほんぞん しょうかんのんぞう あんち たてまつ  ためなり  べつ   こうしょう  おお  べからず なんじみずか はしらばか   た  お   べ
年來の本尊、正觀音像を安置し奉らん爲也。別して工匠に仰す不可。 汝自ら 柱許りを立て置く可し。

えいさく  をい  は   いご   さた あ   べ   てへ   せんこうりょうじょう もう
營作に於て者、以後に沙汰有る可し者り。専光領状を申す。

また  いずのくにほうじょう  をい    がらん  たて  べ   のよし  ごりゅうがん  おな    か   せいばつ  ごきとう  ためなり  うんぬん
又、伊豆國北條に於て、伽藍Aを立る可し之由、御立願。同じく彼の征伐の御祈祷の爲也と云々。」

きょう   よしかずおうしゅう しんぱつ   うんぬん
今日、能員奥州へ進發すと云々。

参考@梵宇を草創は、後の頼朝法華堂。
参考A伽藍は、願成就院。

現代語文治五年(1189)七月小十八日丙子。伊豆山権現の住職專光房良遷を呼びつけて、命じられました。
「奥州征伐のために内緒のお祈りごとがあるのだ。そなたは戒律をきちんと守る僧侶なので、私の留守に鎌倉へ来てお祈りをしなさい。私頼朝将軍が鎌倉を出発して二十日目に御所の裏山に特別な祈願所を自分の手で設けて、私の持仏の二寸銀の聖観音像を安置して祈るためです。他の大工などに頼むことなくそなた自ら柱だけを立てて置けばよいのです。きちんとした社殿造営は先へ行って命令をする予定です。」專光坊良暹は承知した返事を提出しました。
又、伊豆国北条郷にお寺を建てるように思い立ちました。これも同様に奥州征伐の祈りを上げるためです。
話は違いますが、比企右衛門尉能員が、北陸周りで奥州へ出発しましたとさ。

文治五年(1189)七月小十九日丁丑。巳尅。二品爲征伐奥州泰衡發向給。此刻。景時申云。城四郎長茂者。無双勇士也。雖囚人。此時被召具。有何事哉云々。尤可然之由被仰。仍相觸其趣於長茂。々々成喜悦。候御共。但爲囚人差旗之條。有其恐。可給御旗之由申之。而依仰用私旗訖。于時長茂談傍輩云。見此旗。逃亡郎從等可來從云々。御進發儀。先陣畠山次郎重忠也。先疋夫八十人在馬前。五十人々別荷征箭三腰以雨皮袋之三十人令持鋤鍬。次引馬三疋。次重忠。次從軍五騎。所謂長野三郎重C。大串小次郎。本田次郎。榛澤六郎。柏原太郎等是也。凡鎌倉出御勢一千騎也。次御駕〔御弓袋差。御旗差。御甲着等。在御馬前〕
自鎌倉出御御供輩
 武藏守義信(大内)        遠江守義定(安田)       參河守範頼(頼朝弟)    信濃守遠光(加々美)
 相摸守惟義(大内)        駿河守廣綱          上総介義兼(足利)     伊豆守義範(山名)
 越後守義資(安田)        豊後守季光(毛呂)       北條四郎(時政)      同小四郎(義時)
 同五郎(時連後の時房)      式部大夫親能(中原)      新田藏人義兼(源氏)    淺利冠者遠義(甲斐武田)
 武田兵衛尉有義(同)       伊澤五郎信光(石和温泉)    加々美次郎長清(後の小笠原)同太郎長綱
 三浦介義澄           同平六義村          佐原十郎義連(三浦)    和田太郎義盛(三浦)
 同三郎宗實           岡崎四郎義實(三浦)      同先次郎惟平       土屋次郎義清(義實の子で土屋へ養子)
 小山兵衛尉朝政         同五郎宗政(後に長沼)     同七郎朝光(後に結城)   下河邊庄司行平
 吉見次郎頼綱          南部次郎光行(甲斐武田)    平賀三郎朝信       小山田三郎重成(後に稲毛)
 同四郎重朝(後に榛谷)      藤九郎盛長(後に安達)     足立右馬允遠元(足立区)  土肥次郎實平(湯河原)
 同彌大郎遠平(早川)       梶原平三景時(鎌倉党)     同源太左衛門尉景季    同平次兵衛尉景高
 同三郎景茂           同刑部烝朝景         同兵衛尉定景       波多野五郎義景(秦野市)
 波多野余三實方         阿曽沼次郎廣綱(藤性足利で浅沼)小野寺太郎道綱(藤性足利) 中山四郎重政@
 同五郎爲重           澁谷次郎高重(神奈川県高座渋谷)同四郎時國        大友左近將監能直(小田原市)
 河野四郎通信(伊予水軍)     豐嶋權守清光(豊島区秩父党)  葛西三郎清重(葛飾西同)  同十郎
 江戸太郎重長(同)        同次郎親重
              同四郎重通        同七郎重宗
 山内三郎經俊(北鎌倉)      大井二郎實春            宇都宮左衛門尉朝綱(宇都宮の神主)同次郎業綱
 八田右衛門尉知家(同属)     八田太郎知重         主計允行政(鎌倉市後に二階堂)民部烝盛時(平)
 豐田兵衛尉義幹         大河戸太郎廣行
           佐貫四郎廣綱       同五郎
 同六郎廣義           佐野太郎基綱(足利市)     工藤庄司景光(伊豆)    同次郎行光
 同三郎助光           狩野五郎親光(伊豆)      常陸次郎爲重(後の伊達氏) 同三郎資綱
 加藤太光員(伊豆)        同藤次景廉          佐々木三郎盛綱(近江)   同五郎義清
 曽我太郎助信(小田原市)     橘次公業(後の出羽小鹿島)    宇佐美三郎祐茂(伊豆)   二宮太郎朝忠(神奈川県二宮町中村氏)
 天野右馬允保高(伊豆)      同六郎則景          伊東三郎(伊豆)      同四郎成親
 工藤左衛門祐經(伊豆)      新田四郎忠常(伊豆)      同六郎忠時           熊谷小次郎直家(埼玉県熊谷市)
 堀藤太             同藤次親家
              伊澤左近將監家景(後の留守)江右近次郎(大江)
 岡邊小次郎忠綱         吉香小次郎(吉川駿河)
       中野小太郎助光      同五郎能成
 澁河五郎兼保(群馬県渋川)    春日小次郎貞親(群馬県渋川)  藤澤次郎清近(諏訪一族)  飯冨源太宗季
 大見平次家秀          沼田太郎
               糟屋藤太有季(伊勢原市横山党)本間右馬允義忠(厚木市依知横山党)
 海老名四郎義季(海老名市横山党) 所六郎朝光          横山權守時廣(八王子市)  三尾谷十郎
 平山左衛門尉季重(京王線)    師岳兵衛尉重經(京王線)    野三刑部烝成綱(小野横山党)中條藤次家長(横山党から八田へ養子)
 岡邊六野太忠澄(岡部横山党)   小越右馬允有弘(越生)       庄三郎忠家        四方田三郎弘長
 淺見太郎實高          淺羽五郎行長(駿河)        小代八郎行平(東松山市)  勅使河原三郎有直
 成田七郎助綱          高鼻和太郎 
          塩屋太郎家光(エンヤ)  阿保次郎實光(アボ立川市)
 宮六{仗國平(近藤七)      河勾三郎政成(カワワ)     同七郎政頼        中四郎是重
 一品房昌寛           常陸房昌明               尾藤太知平       金子小太郎高範

読下し                     みのこく  にほんおうしゅう やすひら せいばつ ため  はっこう たま
文治五年(1189)七月小十九日丁丑。巳尅。二品奥州の泰衡を征伐の爲、發向し給ふ。

こ  とき   かげときもう    い      じょうのしろうながもち は  むそう  ゆうしなり
此の刻、景時申して云はく。城四郎長茂@者、無双の勇士也。

めしうど  いへど   こ   とき め   ぐされ      なにごと  あ      や  うんぬん  もっと しか べ    のよしおお  らる
囚人と雖も、此の時召し具被んは、何事か有らん哉と云々。尤も然る可し之由仰せ被る。

よって   そ おもむきをながもち あいふる   ながもち きえつ  な     おんとも  そうら
仍て、其の趣於長茂に相觸る。々々喜悦を成し、御共に候う。

ただ  めしうどたら さしはたのじょう  そ  おそ  あ     みはた  たま    べ   のよしこれ  もう
但し囚人爲ば差旗之條、其の恐れ有り。御旗を給はる可し之由之を申す。

しか    おお    よつ  し  はた  もち をはんぬ ときに ながもちぼうはい だん   い
而るに仰せに依て私の旗を用ひ訖。時于長茂傍輩に談じて云はく。

 こ   はた   み    とうぼう  ろうじゅうらきた  したが べ     うんぬん
此の旗を見て、逃亡の郎從等來り從う可しと云々。

参考@城四郎長茂は、平氏流で奥山荘領主(旧新潟県北蒲原郡中条町、黒川村、紫雲寺町。但し中条町と黒川村は合併して胎内市。紫雲寺町は新発田市に合併)。この時は囚人として梶原景時が預かっている(預囚人あずかりめしうど)。

ごしんぱつ  ぎ   せんじん  はたけやまのじろうしげただなり  ま  ひっぷ はちじゅうにんばぜん あ
御進發の儀、先陣は畠山次郎重忠也。 先ず疋夫
A八十人馬前に在り。

ごじゅうにん  ひとべつ  そや  みこし  〔 あまがわ  もつ   これ つつ  〕     お    さんじゅうにん すきくわ  も   せし
五十人は々別に征箭三腰
B〔雨皮を以て之を袋む〕を荷い、三十人は鋤鍬を持た令む。

つぎ  ひきうまさんびき  つぎ  しげtだ   つぎ  じゅうぐんごき
次に引馬三疋。次に重忠。次に從軍五騎。

いはゆるながののさぶろうしげきよ  おおぐしのこたろう   ほんだのじろう   はんざわのろくろう   かしわばらのたろう ら これなり
所謂長野三郎重C
C、 大串小次郎D、本田次郎E、榛澤六郎F、柏原太郎G等是也。

参考A疋夫は、農民。
参考B征箭三腰は、矢入れの箙で一腰は二十四本入り。
参考C長野三郎重Cは、埼玉県行田市長野。
参考D
大串小次郎は、重親で埼玉県比企郡吉見町大串。
参考E本田次郎は、近常で埼玉県深谷市本田。旧川本町本田。
参考F
榛澤六郎は、成清で埼玉県深谷市榛沢。旧岡部町榛沢。
参考G柏原太郎は、埼玉県狭山市柏原。

およ かまくらいで  ごせい いっせんきなり
凡そ鎌倉出の御勢一千騎也。

つぎ  おんが  〔おんゆぶくろざし  みはたざし   おんよろいづけら  ごばぜん    あ  〕
次に御駕H御弓袋差。御旗差。御甲着等。御馬前に在り〕

参考H次御駕は、頼朝が乗馬している。の意味で、後ろに弓持ちや旗持ちや鎧を替わりに着けている侍が馬の前を歩いている。

かまくらよ  しゅつご  おんとも やから
鎌倉自り出御の御供の輩

  むさしのかみよしのぶ             とおとうみのかみよしさだ           みかわのかみのりより          しなののかみとおみつ
 武藏守義信       遠江守義定       參河守範頼      信濃守遠光

  さがみのかみこれよし             するがのかみひろつな            かずさのすけよしかね         いずのかみよしのり
 相摸守惟義       駿河守廣綱       上総介義兼      伊豆守義範

  えちごのかみよしすけ             ぶんごのかみすえみつ            ほうじょうのしろう             おなじきこしろう
 越後守義資       豊後守季光       北條四郎       同小四郎

  おなじきごろう                  しきぶのたいふちかよし           にったのくらんどよしかね        あさりのかじゃとおよし
 同五郎         式部大夫親能      新田藏人義兼     淺利冠者遠義

  たけだのひょうえのじょうありよし        いさはのごろうのぶみつ            かがみのじろうながきよ         おなじきたろうながつな
 武田兵衛尉有義     伊澤五郎信光      加々美次郎長清    同太郎長綱

  みうらのすけよしずみ             おなじきへいろくよしむら           さはらのじうろうよしつら         わだのたろうよしもり
 三浦介義澄       同平六義村       佐原十郎義連     和田太郎義盛

  おなじきさぶろうむねざね           おかざきのしろうよしざね           おなじきせんじろうこれひら       つちやのじろうよしきよ
 同三郎宗實       岡崎四郎義實      同先次郎惟平     土屋次郎義清

  おやまのひょうえのじょうともまさ        おなじきごろうむねまさ            おなじきしちろうともみつ         しもこうべのしょうじゆきひら
 小山兵衛尉朝政     同五郎宗政       同七郎朝光      下河邊庄司行平

  よしみにじろうよりつな             なんぶのじろうみつゆき           ひらがのさぶろうとものぶ         おやまだのさぶろうしげなり
 吉見次郎頼綱      南部次郎光行      平賀三郎朝信     小山田三郎重成

  おなじきしろうしげとも             とうくろうもりなが                 あだちのうまのじょうとおもと        といのじろうさねひら
 同四郎重朝       藤九郎盛長       足立右馬允遠元    土肥次郎實平

  おなじきいやたろうとおひら          かじわらのへいざかげとき           おなじきげんたさえもんのじょうかげすえ おなじきへいじひょうえのじょうかげたか
 同彌大郎遠平      梶原平三景時      同源太左衛門尉景季  同平次兵衛尉景高

  おなじきさぶろうかげもち           おなじきぎょうのじょうともかげ        おなじきひょうえのじょうさだかげ    はたののごろうよしかげ
 同三郎景茂       同刑部烝朝景      同兵衛尉定景     波多野五郎義景

  はたののよざさねかた             あそぬまのじろうひろつな          おのでらのたろうみちつな        なかやまのしろうしげまさ
 波多野余三實方     阿曽沼次郎廣綱     小野寺太郎道綱    中山四郎重政J

  おなじきごろうためしげ             しぶやのじろうたかしげ            おなじきしろうときくに           おおとものさこんしょうげんよしなお
 同五郎爲重J      澁谷次郎高重      同四郎時國      大友左近將監能直

  こうののしろうみちのぶ            てしまのごんのかみきよみつ         かさいのさぶろうきよしげ         おなじきじうろう
 河野四郎通信      豐嶋權守清光      葛西三郎清重     同十郎

  えどのたろうしげなが             おなじきじろうちかしげ            おなじきしろうしげみち          おなじきしちろうしげむね
 江戸太郎重長      同次郎親重       同四郎重通      同七郎重宗

  やまのうちのさぶろうつねとし         おおいのじろうさねはる            うつのみやのさえもんのじょうともつな  おなじきじろうなりつな
 山内三郎經俊      大井二郎實春      宇都宮左衛門尉朝綱  同次郎業綱

  はったのうえもんのじょうともいえ       おなじきたろうともしげ             かぞえのじょうゆきまさ          みんぶのじょうもりとき
 八田右衛門尉知家    同太郎朝重       主計允行政      民部烝盛時

  とよたのひょうのじょうよしみき         おおかわどのたろうひろゆき          さぬきのしろうひろつな         おなじきごろう
 豐田兵衛尉義幹     大河戸太郎廣行     佐貫四郎廣綱     同五郎

  おなじきろくろうひろよし           さののたろうもとつな             くどうのしょうじかげみつ         おなじきじろうゆきみつ
 同六郎廣義       佐野太郎基綱      工藤庄司景光     同次郎行光

  おなじきさぶろうすけみつ          かのうのごろうちかみつ           ひたちにじろうためしげ         おなじきさぶろうすけつな
 同三郎助光       狩野五郎親光      常陸次郎爲重     同三郎資綱

  かとうたみつかず                おなじきとうじかげかど           ささきのさぶろうもりつな        おなじきごろよしきよ
 加藤太光員       同藤次景廉       佐々木三郎盛綱    同五郎義清

  そがのたろうすけのぶ             きつじきんなり                うさみのさぶろうすけもち        にのみやのたろうともただ
 曽我太郎助信      橘次公業        宇佐美三郎祐茂    二宮太郎朝忠

  あまののうまのじょうやすたか         おなじきろくろうのりかげ           いとうのさぶろう              おなじきしろうなりちか
 天野右馬允保高     同六郎則景       伊東三郎       同四郎成親

  くどうのさえもんすけつね           にたんのしろうただつね           おなじきろくろうただとき         くまがいのこじろうなおいえ
 工藤左衛門祐經     新田四郎忠常      同六郎忠時      熊谷小次郎直家

  ほりのとうた                   おなじきとうじちかいえ            いさわのさこんしょうげんいえかげ    えのうこんじろう
 堀藤太         同藤次親家       伊澤左近將監家景   江右近次郎

  おかべのこじろうただつな           きっかわのこじろう               なかののこたろうすけみつ        おなじきごろうよしなり
 岡邊小次郎忠綱     吉香小次郎       中野小太郎助光    同五郎能成

  しぶかわのごろうかねやす           かすがのこじろうさだちか          ふじさわのじろうきよちか         いとみのげんたむねすえ

 澁河五郎兼保      春日小次郎貞親     藤澤次郎清近     飯冨源太宗季

  おおみのへいじいえひで           ぬまたのたろう                 かすやのとうたありすえ          ほんまのうまのじょうよしただ
 大見平次家秀      沼田太郎        糟屋藤太有季     本間右馬允義忠

  えびなのしろうよしすえ            ところのろくろうともみつ            よこやまのごんのかみときひろ     みおやのじうろう
 海老名四郎義季     所六郎朝光       横山權守時廣     三尾谷十郎

  ひらやまのさえもんのじょうすえしげ     もろおかのひょうえのじょうしげつね     のざのぎょうぶのじょうなりつな     ちゅうじょうのとうじいえなが
 平山左衛門尉季重    師岳兵衛尉重經     野三刑部烝成綱    中條藤次家長

  おかべのろくやたただずみ          おこしのうまのじょうありひろ         しょうのさぶろうただいえ          よもだのさぶろうひろなが
 岳邊六野太忠澄     小越右馬允有弘     庄三郎忠家      四方田三郎弘長I

参考I四方田の読みを当初「しもだ」としておりましたが、「奥州余目記録」の五人一揆結成の条で、「四方田」のよみに「シハウテン」と振り仮名がされている。とのご指摘を戴きましたので、「しほうでん」とします。その後四方田さんから名字は「よもだ」と読むとの事なので「よもだ」に訂正した。20120715
参考
J中山四郎重政は、奥富敬之先生は武蔵七党飯能市中山としているが、「鎌倉武士と横浜」著者の盛本昌弘先生は中山五郎爲重と共に澁谷庄司重國の兄中山次郎重實の息子としている。重の通字から秩父平氏と考える方が妥当かも知れない?(横浜市緑区中山)20230128

  あさみのたろうさねたか            あさばのごろうゆきなが           しょうだいのはちろうゆきひら       てしがわらのさぶろうありなお
 淺見太郎實高      淺羽五郎行長      小代八郎行平     勅使河原三郎有直

  なりたのしちろうすけつな           たかばなわたろう               えんやのたろういえみつ          あぼのじろうさねみつ
 成田七郎助綱      高鼻和太郎       塩屋太郎家光     阿保次郎實光

  きゅうろくけんじょうくにひら          かわわのさぶろうまさなり           おなじきしちろうまさより          なかのしろうこれしげ
 宮六{仗國平      河勾三郎政成      同七郎政頼      中四郎是重

  いっぽんぼうしょうかん             ひたちぼうしょうみょう              びとうたかずひら              かねこのこたろうたかのり
 一品房昌寛       常陸房昌明       尾藤太知平      金子小太郎高範

現代語文治五年(1189)七月小十九日丁丑。巳の刻(午前十時頃)頼朝様は、奥州平泉の藤原泰衡を征伐するために、出発です。
その間際に梶原平三景時が申し上げました。「城四郎長茂は、較べるものが無いほどの勇ましい武士です。今は預かり囚人で(めしうど
)ではありますが、こういう時こそ連れて行かなければ、意味がないでしょう。」との事です。「それもそうだなあー。ではそうしよう。」とおっしゃられました。そこで、その趣旨を城長茂に伝えた処、長茂は喜んでお供をする事になりました。「しかし囚人では旗印が無いのではないか」よ思われ、頼朝様の旗を貸してあげようとおっしゃられました。それでも許しを得て、自分の旗を使うことになりました。その時ついでに長茂がそばに居た仲間に云うのには「この旗を見て、散り散りになっている部下達が集まって来て従うであろう。」との事です。
出発式の先陣は畠山次郎重忠です。初めに非戦闘員80人が重忠の馬の前におります。50人はそれぞれが戦闘用の矢3セット(24本×3)〔雨除けの皮で包んでいます〕を背負い、30人は鋤鍬を持たせています。次に乗り換え用の馬3頭。次に重忠。次に直属の部下が5騎です。それは、長野三郎重清・大串小次郎・本田次郎・榛沢六郎・柏原太郎達です。

おおむね鎌倉を出発する頼朝勢は、1000騎です。

次ぎに、頼朝様が馬に乗っておられます〔袋入りの弓箭持ち。旗持ち。鎧を替わりにつけている者。は頼朝様の馬の前に居ます〕。鎌倉から出発するお供の連中は、

 大内武蔵守義信  安田遠江守義定  蒲三河守範頼    加々美信濃守遠光
 大内相模守惟義  駿河守太田広綱  足利上総介義兼   山名伊豆守義範
 安田越後守義資  毛呂豊後守季光  北条四郎時政    同小四郎義時
 同五郎時連    式部大夫中原親能 新田蔵人義兼    浅利冠者遠義
 武田兵衛尉有義  伊沢五郎信光   加々美次郎長清   同太郎長綱
 三浦介義澄    同平六義村    佐原十郎義連    和田太郎義盛
 同三郎宗実    岡崎四郎義実   同先次郎惟平    土屋次郎義清
 小山兵衛尉朝政   同五郎宗政      同七郎朝光       下河辺庄司行平
 吉見次郎頼綱   南部次郎光行   平賀三郎朝信    小山田三郎重成
 同四郎重朝    藤九郎盛長
    足立右馬允遠元   土肥次郎実平
 同弥大郎遠平
   梶原平三景時   同源太左衛門尉景季 同平次兵衛尉景高
 同三郎景茂    同刑部烝朝景   同兵衛尉定景    波多野五郎義景
 波多野余三実方  阿曽沼次郎広綱  小野寺太郎道綱   中山四郎重政
 同五郎為重    渋谷次郎高重   同四郎時国     大友左近将監能直
 河野四郎通信   豊嶋権守清光   葛西三郎清重    同十郎
 江戸太郎重長   同次郎親重    同四郎重通     同七郎重宗
 山内三郎経俊   大井二郎実春   宇都宮左衛門尉朝綱 同次郎業綱
 八田右衛門尉知家 同太郎朝重    主計允行政
     民部烝盛時
 豊田兵衛尉義幹  大河戸太郎広行  佐貫四郎広綱    同五郎
 同六郎広義    佐野太郎基綱
   工藤庄司景光    同次郎行光
 同三郎助光    狩野五郎親光
   常陸次郎為重    同三郎資綱
 加藤太光員
    同藤次景廉    佐々木三郎盛綱   同五郎義清
 曽我太郎助信   橘次公業     宇佐美三郎祐茂   二宮太郎朝忠
 天野右馬允保高  同六郎則景    伊東三郎      同四郎成親
 工藤左衛門祐経  新田四郎忠常   同六郎忠時     熊谷小次郎直家
 堀藤太      同藤次親家    伊沢左近将監家景  江右近次郎
 岡辺小次郎忠綱  吉香小次郎    中野小太郎助光   同五郎能成
 渋河五郎兼保   春日小次郎貞親  藤沢次郎清近
    飯冨源太宗季
 大見平次家秀   沼田太郎     糟屋藤太有季    本間右馬允義忠
 海老名四郎義季  所六郎朝光    横山権守時広    三尾谷十郎
 平山左衛門尉季重 師岳兵衛尉重経  野三刑部烝成綱   中条藤次家長
 岳辺六野太忠澄  小越右馬允有弘  庄三郎忠家     四方田三郎弘長
 浅見太郎実高   浅羽五郎行長   小代八郎行平    勅使河原三郎有直
 成田七郎助綱   高鼻和太郎    塩屋太郎家光    阿保次郎実光
 宮六{仗国平   河勾三郎政成   同七郎政頼     中四郎是重
 一品房昌寛    常陸房昌明    尾藤太知平     金子小太郎高範

説明門葉は、源氏一族で頼朝の推挙を得て国司に任命される。準門葉は、源氏以外で同様に一族扱いを受ける。
説明役職について、武者所に○○武者。国衙水軍は舟所。納税は、税所と書いて「さいしょ」と読むので、読みだけ残って「最初」と苗字の地名で書かれる所もある。

文治五年(1189)七月小廿五日癸未。二品着御于下野國古多橋驛。先御奉幣宇津宮。有御立願。今度無爲令征伐者。生虜一人可奉于神職云々。則令奉御上箭給。其後入御御宿。于時小山下野大掾政光入道献駄餉。此間着紺直垂上下者候御前。而政光。何者哉之由尋申之。仰曰。彼者本朝無双勇士熊谷小次郎直家也云々。朝光申云。何事無双号候哉云々。仰云。平氏追討之間。於一谷已下戰塲。父子相並欲弃命。及度々之故也云々。政光頗笑。爲君弃命之條。勇士之所志也。爭限直家哉。但如此輩者。依無顧眄之郎從。直勵勳功。揚其号歟。如政光者。只遣郎從等。抽忠許也。所詮於今度者。自遂合戰。可蒙無双之御旨之由。下知于子息朝政。宗政。朝光。并猶子頼綱等。二品入興給云々。

読下し                     にほん しもつけのくに こたはし のうまやに ちゃくご  ま   うつのみや  ごほうへい  ごりゅうがん あ
文治五年(1189)七月小廿五日癸未。二品 下野國 古多橋@驛于 着御。先ず宇津宮Aに御奉幣。御立願有り。

このたび むい  せいばつせし ば  いけどりひとり  しんしき に たてまつ べ うんぬん  すなは おんうわや  たてまつ せし たま    そ   ご おんやど  にゅうご
今度無爲に征伐令め者、生虜一人を神職B于奉る可しと云々。則ち御上箭Cを奉ら令め給ふ。其の後御宿に入御。

ときに おやまのしもつけだいじょうまさみつにゅうどう だしゅう けん   こ  かん  こん  ひたたれ  じょうげ  き   もの ごぜん  そうら
時于 小山下野大掾政光入道 駄餉Dを献ず。此の間、紺の直垂の上下を着る者御前に候う。

しか    まさみつ  なにものやのよし これ  たず  もう     おお    い       か  もの  ほんちょう むそう  ゆうし くまがいのこじろうなおいえなり  うんぬん
而して政光、何者哉之由之を尋ね申す。仰せて曰はく、彼の者は本朝無双の勇士熊谷小次郎直家也と云々。

ともみつもう   い        なにごと  むそう   ごう  そうろうや  うんぬん
朝光申して云はく。何事に無双の号を候哉と云々。

おお    い       へいし ついとう のかん  いちのたに いか せんじょう をい   おやこあいなら いのち すて    ほつ        たびたび  およ  のゆえなり  うんぬん
仰せて云はく、平氏追討之間、一谷已下の戰塲に於て、父子相並び命を弃んと欲すこと、度々に及ぶ之故也と云々。

まさみつすこぶ わら   きみ  ため  いのち すつ のじょう  ゆうしのこころざ ところなり いかで なおいえ かぎ   や
政光頗る笑ひ、君の爲に命を弃る之條、勇士之志す所也。爭か直家に限らん哉。

ただ  かく  ごと  やからは  こべんのろうじゅう な     よつ    じき  くんこう  はげ      そ    ごう  あげ  か
但し此の如き輩者、顧眄之郎從無きに依て、直に勳功を勵まし、其の号を揚ん歟。

まさみつ ごと   は   ただろうじゅうら  つか      ちう  ぬき    ばか  なり
政光の如き者、只郎從等を遣はし、忠を抽んず許り也。

しょせんこのたび  をい  は  みずか かっせん  と    むそうのおんむね  こうむ べ    のよし  しそく ともまさ  むねまさ  ともみつなら    ゆうし よりつならに  げち
所詮今度に於て者、自ら合戰を遂げ、無双之御旨を蒙る可し之由、子息朝政、宗政、朝光并びに猶子頼綱等于下知す。

にほん きょう い   たま   うんぬん
二品興に入り給ふと云々。

参考@古多橋は、現在の宇都宮市下河原町付近の古い地名。『吾妻鑑』には源頼朝が宿泊して二荒山神社に参拝したこと、また近世に書かれた『下野風土記』にもその名が紹介されている。
参考A宇津宮は、現在の宇都宮二荒山神社(ふたらやまじんじゃ)の別号
参考B
神職、神奴シンヌとも云い神社の労働力。
参考C
上箭は、鏑矢のことで、鏑の分だけ他の矢より長く上に突き出ているのでそう呼ぶ。表箭とも書く。
参考D駄餉は、お弁当。

現代語文治五年(1189)七月小二十五日癸未。頼朝様は、下野国古多橋駅(宇都宮市下川原町)に着きました。
何は兎も角、宇都宮の二荒山神社へお参りをしました。これは、願い事を立てているからです。今度の奥州征伐が無事にし終えたならば、生け捕りの内から神職に一人寄付いたしますとの事だそうだ。直ぐに鏑矢を奉納されました。それから宿泊所へ入られました。
そこで、小山下野大掾政光入道(出家)が、お弁当を献上しました。その時に、紺の直垂の上下を着た者が、頼朝様の前に控えております。不思議に思った政光は、「彼は一帯誰なのですか。」と問いました。頼朝様は「彼は、日本の中でも比べる相手の居ない程の勇敢な武士の熊谷小次郎直家だよ。」と云われたそうです。すると、七郎朝光は「何の手柄で較べるもののない勇士の称号を与えられたのですか」と聞きました。
頼朝様は、「平家を征伐の一の谷の合戦で、親子並んで命を顧みず責めていく事を何度もしているからだよ。」と答えたそうです。
政光は大笑いをしながら「主君のために命を捨てる事は、勇士が皆心がける事です。なんで直家に限りましょうか。ただし、彼等のような、従っている家来のいない人は、直接手柄を得ようと頑張って、その名を上げなくてはなりません。政光のような大名は、単に家来達を働かせて手柄をたてればよいのです。そういうことならば、今度の戦では、自分で戦って比べる者が無いほどの勇士の称号を貰うようにしなさい。」と息子の四郎朝政、五郎宗政、七郎朝光や、養子の宇都宮弥三郎頼綱に命じました。頼朝様も感心しながら満足しておられました。

文治五年(1189)七月小廿六日甲申。令立宇都宮給之處。佐竹四郎自常陸國追參加。而佐竹所令持之旗。無文白旗也。二品令咎之給。與御旗不可等之故也。仍賜御扇〔出月於佐竹。可付旗上之由被仰。佐竹隨御旨付之云々。

読下し                      うつのみや  た   せし  たま  のところ  さたけのしろうひたちのくによ  おい  さん  くは
文治五年(1189)七月小廿六日甲申。宇都宮を立た令め給ふ之處、佐竹四郎常陸國自り追て參じ加はる。

しか    さたけ   も   せし ところのはた  むもん  しらはたなり  にほんこれ  とが  せし  たま    みはた と ひと   すべからずのゆえなり
而るに佐竹が持た令む所之旗、無文の白旗也。二品之を咎め令め給ふ。御旗與等しく不可之故也。

よつ おんおおぎ〔いでしつき〕 を さたけ  たま      はたがみ  つ    べ   のよしおお  らる    さたけ おんむね  したが これ  つ       うんぬん
仍て御扇〔出月〕@於佐竹に賜はり、旗上に付ける可し之由仰せ被る。佐竹御旨に隨ひ之を付けると云々。

参考@御扇〈出月〉は、これより佐竹の家紋は扇に月となった。

現代語文治五年(1189)七月小二十六日甲申。宇都宮を出発しようとしている処へ、佐竹四郎隆義が常陸国から追いかけて参り、加わりました。それなのに、佐竹四郎隆義が旗持ちに持たせている旗が、無紋の白旗です。頼朝様は、これを咎めました。それは源氏の頭領の自分の旗と同じだからです。
そこで、扇〔月が書いてある〕を佐竹四郎隆義に与え、「これを旗の天辺につけておきなさい。」と仰せられました。佐竹四郎隆義は、言いつけどおりに扇をつけましたとさ。

文治五年(1189)七月小廿八日丙戌。着新渡戸驛給。已奥州近々之間。爲知食軍勢。仰御家人等面々。被注手勢。仍各進其着到。城四郎々從二百餘人也。二品令驚給。景時申云。相從長茂之輩。本自數百人也。而爲囚人之時。悉以分散。今聞候御共之由。令群集歟。就中此邊者本國近鄰也云々。于時御氣色快然云々。

読下し                      にとべ のうまや つ  たま
文治五年(1189)七月小廿八日丙戌。新渡戸@驛に着き給ふ。

すで  おうしゅうちかぢかのかん ぐんぜい  し    め       ため  ごけにんら   おお      めんめん  てぜい  ちう  らる
已に奥州近々之間、軍勢を知ろし食さんが爲、御家人等に仰せて、面々に手勢を注せ被る。

よつ おのおの そ  ちゃくとう  しん   じょうのしろう ろうじゅう にひゃくよにんなり  にほん おどろ せし たま
仍て 各、其の着到を進ずA。城四郎が々從は二百餘人也。二品驚か令め給ふ。

かげとき もう   い        ながもち あいしたが のやから もとよ すうひゃくにんなり  しか   めしうど   な    のとき  ことごと もつ ぶんさん
景時申して云はく、長茂に相從ふ之輩、本自り數百人也。而るに囚人と爲す之時、悉く以て分散す。

いま おんとも そうら のよし  き     ぐんしゅうせし   か  なかんづく このあたりはほんごく きんりんなり うんぬん ときに みけしき かいぜん  うんぬん
今御共に候う之由を聞き、群集令める歟。就中に此邊者本國の近鄰也と云々。時于御氣色快然と云々。

参考@新渡戸は、 新渡戸稲造の父祖の地とされ、栃木県真岡市水戸部あたりらしい。昭和23年12月10日発行の栃木県那須郡川西町余瀬、蓮實長氏の「那須郡誌」中の”新渡戸駅と新渡戸氏”に記載されており、「新渡戸」の地名は後に「水戸部」と転訛されている旨書かれている。新渡戸記念館新渡戸憲之著
参考A
其の着到を進ずは、軍勢催促に応じて軍陣へ赴いた場合は、連れた来た軍勢を紙に書いて(着到状)を提出する。但しこの時代には未だ着到状の語はない。

現代語文治五年(1189)七月小二十八日丙戌。新渡戸駅に着かれました。もう直ぐに奥州が近いので、軍隊の総数を知るために、御家人達に命令して、それぞれに連れてきている兵数を書き出させました。それで、皆それぞれに書き出した名簿の手勢注文を提出しました。
城四郎長茂の家来は二百人以上も居ます。頼朝様はびっくりなさいました。梶原平三景時が云うには、「城四郎長茂の家来達は、元々数百人おりましたが、囚人になった時に、全て分散してしまいました。今になって、頼朝様のお供をしていると聞いて、集ってきたのでしょう。特にこの辺りは、城四郎長茂の元の領地
(奥山庄)にちかいですからね。」と云ったそうだ。それを聞いて頼朝様は、部下達の忠義心に感心し、良い気分になったんだそうな。

文治五年(1189)七月小廿九日丁亥。越白河關給。關明神御奉幣。此間召景季。當時初秋候也。能因法師古風不思出哉之由被仰出。景季扣馬詠一首。
  秋風ニ草木ノ露ヲ拂セテ君カ越レハ關守モ無シ

読下し                     しらかわのせき こ  たま    せき  みょうじん ごほうへい  こ   かん  かげすえ め     とうじ  しょしゅう   こうなり
文治五年(1189)七月小廿九日丁亥。白河關@を越え給ふ。關の明神Aに御奉幣。此の間、景季を召す。當時は初秋の候也。

のういんほうし   こふう  おも   いだ  ず や のよし  おお  い   らる    かげすえうま  ひか  いっしゅ  ぎん
能因法師Bの古風を思い出さ不哉之由、仰せ出で被る。景季馬を扣へ一首を詠ず。

    あきかぜに  くさきのつゆを   はらはせて きみがこゆれば  せきもりもなし
  秋風ニ 草木ノ露ヲ 拂セテ 君カ越レハ 關守モ無シ

参考@白河關は、福島県白河市旗宿滝に関跡あり。
参考A關の明神は、福島県白河市旗宿白河内の白河神社。南200mに白河の関跡。
参考B能因法師は、988年生まれの平安時代の歌人。中古三十六歌仙の一人。旅の歌人と評され、二度の奥州下向を始め、諸国を旅し、多くの歌枕に接した。白河の関では、「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」と詠んでいるので、それにちなんだ。

現代語文治五年(1189)七月小二十九日丁亥。白河関を越えられました。関の神様白河神社にお参りなさいました。ついでに、梶原源太景季をそばに御呼びになられ、今は初秋の候だね。能因法師の昔の詩を思い出さないかね。」とおっしゃられたので、梶原源太景季は、馬を止めて、一首の詩を献上しました。

  秋風に草木の露を払わせて君が通れば関守も無し(秋の風に露払いをさせて、大将軍が通れば、その権威を恐れて止められる者はおりません)

八月へ

吾妻鏡入門第九巻   

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