吾妻鏡入門第九巻   

文治五年(1189)己酉九月小

文治五年(1189)九月小二日己未。出平泉。令赴岩井郡厨河邊給。是爲相尋泰衡隱住所也。亦祖父將軍追討朝敵之比。十ニケ年之間所々合戰不决勝負。送年之處。遂於件厨河柵。獲貞任等首。依曩時佳例。到當所。可討泰衡獲其頚之由。内々令思案給云々。

読下し                             ひらいずみ  い    いわいぐんくりやがわへん おもむ せし たま   これ  やすひら  かく  す  ところ  あいたず    ためなり
文治五年(1189)九月小二日己未。平泉で、岩井郡厨河邊@給ふ。是、泰衡が隱れ住む所を相尋ねん爲也。

また  そふしょうぐん  ちょうてき ついとう    のころ  じゅうにかねんのかんしょしょ  かっせんしょうぶ  けっさず    とし  おく  のところ
亦、祖父將軍A朝敵を追討する之比、十ニケ年B之間所々の合戰勝負を不决に、年を送る之處、

つい くだん くりやがわのき をい    さだとうら   くび  え
遂に件の厨河柵に於て、貞任等の首を獲る。

おうじ   かれい   よつ    とうしょ  いた       やすひら  う   そ   くび  え   べ  のよし  ないない  しあんせし  たま    うんぬん
曩時の佳例に依て、當所に到りて、泰衡を討ち其の頚を獲る可し之由、内々思案令め給ふと云々。

参考@岩井郡厨河邊は、盛岡市厨川。
参考A
祖父將軍は、源頼義、義家を差す。
参考B
十ニケ年は、前九年の役で、この戦役は、源頼義の奥州赴任(1051年)から安倍氏滅亡(1062年)までに要した年数から奥州十二年合戦と呼ばれていたが、後に、〔後三年の役(1083年-1087年)と合わせた名称」と誤解されるため、前九年の役と呼ばれるようになった。源頼義の嫡子義家が敗走する官軍を助け活躍した戦いとしても知られる。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

現代語文治五年(1189)九月小二日己未。頼朝様は、平泉を出て、盛岡市厨川へ向かってきました。
それは、泰衡の潜んでいる所を見つけるためです。昔、先祖の与州禅門〔頼義〕や義家が前九年の役で、足掛け十二年にわたりあちらこちらで合戰をしましたが、勝ったり負けたりを繰り返し、勝負が付かずに何年か過ぎましたけれど、とうとう厨川の砦において阿部
貞任を討伐して首級をとることが出来ました。
その昔の良い縁起を担いで、この場所にくれば泰衡を討って首を取ることもあるのではないかと、考えられたとの事です。

文治五年(1189)九月小三日庚申。泰衡被圍數千軍兵。爲遁一旦命害。隱如鼠。退似鶃。差夷狄嶋。赴糠部郡。此間。相恃數代郎從河田次郎。到于肥内郡贄柵之處。河田忽變年來之舊好。令郎從等相圍泰衡梟首。爲献此頚於二品。揚鞭參向云々。
 陸奥押領使藤原朝臣泰衡〔年卅五〕
 鎭守府將軍兼陸奥守秀衡次男。母前民部小輔藤原基成女
 文治三年十月。継於父遺跡爲出羽陸奥押領使管領六郡

読下し                              やすひらすうせん ぐんぴょう かこまれ いったん みようがい のが   ため  ねずみ ごと  かく    の       げき  に
文治五年(1189)九月小三日庚申。泰衡數千の軍兵に圍被、一旦の命害を遁れん爲、鼠の如く隱れ、退くこと鶃@に似たり。

えぞしま    さ  ぬかのべぐん  おもむ
夷狄嶋を差し糠部郡Aへ赴く。

こ  かんすうだい ろうじゅうかわだのじろう  あいたの ひないぐん にへのきに いた  のところ  かわだ たちま ねんらいのきゅうこう へん
此の間數代の郎從河田次郎を相恃み肥内郡B贄柵C于到る之處、河田忽ち年來之舊好を變じ、

ろうじゅうらやすひら あいかこ きょうしゅせし    こ   くびを にほん  けん    ため  むち  あ   さんこう    うんぬん
郎從等泰衡を相圍み梟首令む。此の頚於二品に献ぜる爲、鞭を揚げ參向すと云々。

  むつのおうりょうし ふじわらあそんやすひら 〔としさんじゅうご〕
 陸奥押領使藤原朝臣泰衡〔年卅五〕

  ちんじゅふしょうぐんけんむつのかみひでひら  じなん   はは  さきのみんぶしょうゆうふじわらもとなり むすめ
 鎭守府將軍 兼 陸奥守秀衡が次男、母は前民部小輔藤原基成が女。

  ぶんじさんえんじゅうがつ  ちち  ゆいせきを つ     でわ   むつ  おうりょうし   な    ろくぐん  かんりょう
 文治三年十月、父の遺跡於継ぎ、出羽、陸奥の押領使Dと爲し、六郡Eを管領す。

参考@鶃(げき)は、中国の想像上の水鳥。鷺(さぎ)に似て大きく、空をも飛ぶという。
参考A糠部郡は、青森県津軽郡。
参考B肥内郡は、検索の結果多くの方が大館市比内町を指定している。
参考C贄柵も、同様に大館付近としている。国土交通省東北地方整備局秋田港湾事務所の〔秋田港の歴史」では、〔大館市仁井田」との記述があるが、大館市に同町名は存在しないのは、専門ではないので仕方のないことであろう。仁井田の地名はは秋田市内と横手市十文字にあるが、おそらく仁井田は新田の変化したものと思われる。
参考D押領使は、地方の暴徒の鎮圧、盗賊の逮捕などにあたった。初め、令外(りようげ)の官として国司・郡司・土豪などから臨時に任命したが、天暦(947-957)の頃から常置の官となった。
参考E奥六郡は、岩手、志和(しわ)、稗抜(ひえぬき)、和賀(わが)、江刺、伊沢(いさわ)

現代語文治五年(1189)九月小三日庚申。泰衡は、数千の軍隊に囲まれてしまったので、一時の命逃れのため、鼠の様に隠れ、逃げる様は〔げき」のようにすばやく、北海道へ渡ろうと津軽へ向かいました。途中で先祖代々の部下の河田次郎を頼って、大館の贄柵(にへのき)に付いた時に、河田は先祖代々の恩義を裏切って、家来達が泰衡を取り囲んで討ち取ってしまいました。泰衡の首を頼朝様へ献上するために馬に飛び乗って向かっているとの事です。

没年記事:東北の地方司令官泰衡(享年35歳)東北地方鎮圧司令部将軍兼陸奥の国守護秀衡の次男。母は藤原基成の娘。文治三年十月に父の官職をついで東北地方司令官の任命を受け、出羽(秋田、山形)陸奥(岩手)の治安維持司令官として管理していました。

説明武士の館は、本家が二町四方。庶家は、一町四方。一町は六十間(109m)。

文治五年(1189)九月小四日辛酉。着御于志波郡。而泰衡親昵俊衡法師。驚此事。燒失當郡内比爪舘。逐電赴奥方云々。仍爲追討之。遣三浦介義澄。并義連。義村等畢。今日。二品令陣于陣岡蜂杜給。而北陸道追討使能員。實政等。靡出羽國狼唳。參加之間。軍士廿八万四千騎〔但加諸人郎從等〕也。面々討立白旗。各倚置黄間。秋尾花混色。晩頭月添勢云々。

読下し                               しはぐんに  ちゃくご
文治五年(1189)九月小四日辛酉。志波郡@于着御。

しか    やすひらじつこん  としひらほっし  こ   こと  おどろ   とうぐんない  ひづめのたち  しょうしつ   ちくてん    おく  かた  おもむ   うんぬん
而るに泰衡親昵の俊衡法師A、此の事を驚き、當郡内の比爪舘Bを燒失し、逐電して奥の方へ赴くと云々。

よつ  これ ついとう    ため  みうらのすけよしずみなら   よしつら  よしむらら  つか  をはんぬ
仍て之を追討せん爲、三浦介義澄并びに義連、義村等を遣はし畢。

きょう  にほん じんがおかはちしゃ に じんせし  たま
今日。二品陣岡蜂杜C于陣令め給ふ。

しか    ほくろくどう  ついとうし  よしかず  さねまさら  でわのくに  ろうるい  なびか   さん  くは    のかん
而して北陸道の追討使の能員、實政等、出羽國の狼唳を靡せ、參じ加はる之間、

ぐんし にじゅうはちまんよんせき 〔ただ しょにん ろうじゅうら  くは 〕 なり  めんめん  しらはた  う    た   おのおの ようかん  よ   お
軍士廿八万四千騎〔但し諸人の郎從等を加う〕也。面々に白旗を討ち立て、各、黄間に倚せ置く。

あき  をばな   いろ  まじ    ばんとう  つき  せい  そ     うんぬん
秋の尾花、色を混へ、晩頭の月、勢を添うと云々。

参考@志波郡は、岩手郡紫波郡紫波町
参考
A俊衡法師は、基衡の子。
参考B比爪舘は、岩手県紫波郡紫波町南日詰箱清水に二町四方の樋爪館跡あり。
参考C陣岡蜂杜は、紫波町陣ケ岡蜂神社。

現代語文治五年(1189)九月小四日辛酉。頼朝様は、紫波郡紫波町に到着されました。
そしたら、泰衡と親類縁者の俊衡法師は、
(頼朝軍の進行を)驚いて紫波郡内の
樋爪館に火をかけて燃やし、逃げて東北の奥の方へ行きましたとさ。それでこれを追って攻めるために、三浦介義澄と三浦十郎義連、三浦平六義村を派遣しました。
今日、頼朝様は、
紫波町陣ケ岡蜂神社に陣を敷かれました。そしたら、日本海沿岸経由の北陸道の将軍追討使の比企四郎能員と宇佐美平次実政は、出羽国の豪族を従わせてやってきて加わったので、軍勢は、二十八万四千騎〔ただし、諸御家人の家来を加えてです〕にもなりました。
それぞれが、源氏の白旗を掲げて、月夜になびかせていました。秋の尾花が色を加え、宵の口の月が興を添えていますなんだとさ。

文治五年(1189)九月小六日癸亥。河田次郎持主人泰衡之頚。參陣岡。令景時奉之。以義盛。重忠。被加實檢上。召囚人赤田次郎。被見之處。泰衡頚之條。申無異儀之由。仍被預此頚於義盛。亦以景時。被仰含河田云。汝之所爲。一旦雖似有功。獲泰衡之條。自元在掌中之上者。非可假他武略。而忘譜第恩。梟主人首。科已招八虐之間。依難抽賞。爲令懲後輩。所賜身暇也者。則預朝光。被行斬罪云々。其後。被懸泰衡首。康平五年九月。入道將軍家頼義獲貞任頚之時。爲横山野大夫經兼之奉。以門客貞兼。請取件首。令郎從惟仲懸之〔以長八寸鐵釘。打付之云々〕追件例。仰經兼曾孫小權守時廣。々々以子息時兼。自景時手。令請取泰衡之首。召出郎從惟仲後胤七太廣綱令懸之〔釘同彼時例云々〕

読下し                             かはだのじろうしゅじんやすひらの くび  も     じんがおか さん   かげとき      これ たてまつ せし
文治五年(1189)九月小六日癸亥。河田次郎主人泰衡之頚を持ち、陣岡に參ず。景時をして之を奉ら令む。

よしもり しげただ  もつ    じっけん  くは  らる    うえ   めしうどあかだのじろう  め     みさせ  のところ  やすひら  くびのじょう   いぎ な   のよし  もう
義盛重忠を以て、實檢を加へ被るの上、囚人赤田次郎@を召し、見被る之處、泰衡が頚之條、異儀無き之由を申す。

よっ  こ   くびを よしもり  あず  らる    また  かげとき  もつ    かわだ  おお  ふく  られ  い
仍て此の頚於義盛に預け被る。亦、景時を以て、河田に仰せ含め被て云はく。

なんじのしょい  いったんこうあ    に       いへど   やすひら え   のじょう  もとよ  しょうちゅう  あ    のうえは  ほか  ぶりゃく  か     べ     あらず
汝之所爲、一旦功有るに似たりと雖も、泰衡を獲る之條。元自り掌中に在る之上者、他の武略を假りる可きに非。

しか    ふだい  おん  わす    しゅじん  くび  きょう      とがすで  はちぎゃく まね  のかん  ちうしょう がた    よつ    のち やから こ   せし    ため
而るに譜第の恩を忘れ、主人の首を梟すは、科已に八虐Aを招く之間、抽賞し難きに依て、後の輩を懲ら令めん爲、

み  いとま  たまは ところなりてへ すなは ともみつ あず   ざんざい  おこな らる   うんぬん
身の暇を賜る所也者り。則ち朝光に預け、斬罪に行は被ると云々。

そ   ご   やすひら  くび  か   らる    こうへいごねんくがつ   にゅうどうしょうぐんけよりよし  さだとう  くび  え   のとき  よこやまのだいぶつねかねのうけたまはり な
其の後、泰衡の首を懸け被る。康平五年九月、入道將軍家頼義、貞任の頚を獲る之時、横山野大夫經兼之奉と爲し、

 もんきゃくさだかね  もつ  くだん くび  う   と     ろうじゅうこれなか これ  か   せし    〔ながさはっすん てつくぎ もつ   これ  う   つ      うんぬん〕
門客貞兼を以て、件の首を請け取り、郎從惟仲之を懸け令む〔長八寸の鐵釘を以て、之を打ち付けると云々〕

くだん れい  おい   つねかね そうそん おのごんのかみときひろ おお   ときひろ  しそく ときかね  もつ    かげとき  て       やすひらの くび  う   と   せし
件の例を追て、經兼が曾孫 小權守時廣に 仰す。々々が子息時兼を以て、景時が手より、泰衡之首を請け取ら令め、

ろうじゅうこれなか こういんしちたひろつな  め  いだ  これ  か   せし    〔くぎ  か   とき  れい  おな   うんぬん〕
郎從惟仲が後胤七太廣綱を召し出し之を懸け令む〔釘は彼の時の例に同じBと云々〕

参考@赤田次郎は、秋田市赤田。
参考A八虐は、律に定められた、きわめて重い八種の罪。謀反・謀大逆・謀叛・悪逆・不道・大不敬・不孝・不義をいう。八虐罪。
参考B釘は彼の時の例に同じは、中尊寺金色堂の泰衡のしゃれこうべには釘の穴が開いている。

現代語文治五年(1189)九月小六日癸亥。河田次郎は、自分の主人の泰衡の首を持って、陣岡に参りました。梶原景時を通して、この首を捧げました。
和田義盛、畠山重忠に首実検をさせた上で、囚人の赤田次郎を呼び出して見させたところ、泰衡の首に相違ありませんと申し上げました。そこで、この首を和田義盛に預けられました。
又、梶原景時を使って、河田に言い含められたのは、「お前の行為は、一見手柄があるように見えるが、泰衡をやっつけるのは、すでに掌中の玉のように時間の問題だったので、何も自分の軍隊以外の武力を借りる必要は無かった。それなのに、
先祖代々の家来としての恩を忘れて、主人の首を刎ねるとは、その罪は、八つの重い犯罪に匹敵するので、表彰するに値しないので、後の見せしめのために、御家人にはしないと宣言する」と、云われました。
直ぐに結城七郎朝光に預けて、首を刎ねさせましたとさ。その後に、泰衡の首を釘で木に打ちつけて、晒しました。
康平五年九月の前九年合戦で、将軍の入道源頼義は、阿部貞任の首を取った時に、横山野大夫経兼を担当として、その客分の貞兼に首を受け取らせて、部下の惟仲が釘で打ち付けました〔長さ八寸(24a)の鉄釘で首を打ち付けましたとさ〕その昔の例に習って、経兼の子孫に当たる横山權守時廣に命じました。小権守横山時廣は、息子の横山太郎時兼に命じて、梶原平三景時の手から泰衡の首を受け取らせて、部下の惟仲の子孫七太廣綱を呼び出して、この首を打ち付けさせました〔釘の長さは、あの時の例に同じにしたそうです〕

文治五年(1189)九月小七日甲子。宇佐美平次實政生虜泰衡郎從由利八郎。相具參上陣岡。而天野右馬允則景生虜之由相論之。二品仰行政。先被注置兩人馬并甲毛等之後。可尋問實否於囚人之旨。被仰于景時。々々〔着白直垂折烏帽子。紫革烏帽子懸〕立向由利云。汝者泰衡郎從中有其号者也。眞僞強不可搆矯餝歟。但任實正可言上也。着何色甲者。生虜汝哉云々。由利忿怒云。汝者兵衛佐殿家人歟。今口状過分之至。無物取喩。故御舘者。爲秀郷將軍嫡流之正統。已上三代。汲鎭守府將軍之号。汝主人猶不可發如此之詞。矧亦汝与吾對揚之處。何有勝劣哉。運盡而爲囚人。勇士之常也。以鎌倉殿家人。見奇恠之條。甚無謂。所問事。更不能返答云々。景時頗頳面。參御前申云。此男惡口之外。無別言語之間。無所欲糺明者。仰云。景時依現無礼。囚人咎之歟。尤道理也。早重忠可召問之者。仍重忠手自取敷皮。持來于由利之前令坐之。正礼而誘云。携弓馬者。爲怨敵被囚者。漢家本朝通規也。不可必稱耻辱之。就中。故左典厩。永暦有横死。二品又爲囚人。令向六波羅給。結句配流豆州。然而佳運遂不空。拉天下給。貴客今雖蒙生虜之号。始終不可貽沈淪之恨歟。奥六郡内。貴客備武將譽之由。兼以聞其名之間。勇士等爲立勳功。搦獲客之旨。互及相論歟。仍云甲云馬。被尋畢。彼等浮沈。可究于此事者也。爲着何色之甲者。被生虜給哉。分明可被申之者。由利云。客者畠山殿歟。殊存礼法。不似以前男奇恠。尤可申之。着黒糸威甲。駕鹿毛馬者。先取予引落。其後追來者。嗷々而不分其色目云々。重忠令皈參。具披露此趣。件甲馬者。實政之也。已開御不審訖。次仰曰。以此男申状察心中。勇敢者也。有可被尋事。可召進御前者。重忠又相具之參上。被上御幕覽之。仰曰。己主人泰衡者。振威勢於兩國之間。加刑之條。難儀之由。思食之處。無尋常郎從歟之故。爲河田次郎一人被誅訖。凡管領兩國。乍爲十七万騎之貫首。百日不相支。廿ケ日内。一族皆滅亡。不足言事也。由利申云。尋常郎從。少々雖相從。壯士者分遣于所々要害。老軍者依不行歩進退。不意自殺。如予不肖之族者。又爲生虜之間。不相伴最後者也。抑故左馬頭殿者。雖令管領海道十五ケ國給。平治逆乱之時。不支一日給而零落。雖爲数万騎之主。爲長田庄司。輙被誅給。古与今甲乙如何。泰衡所被管領之者。僅兩州勇士也。数十ケ日之間。奉惱賢慮。一篇不可令處不覺給歟云々。二品無重仰。被垂幕。由利者。被召預重忠。可施芳情之由。被仰付云々。

読下し                               うさみのへいじさねまさ    やすひら ろうじゅう ゆりのちゅうはち いけど   あいぐ    じんがおか  さんじょう
文治五年(1189)九月小七日甲子。宇佐美平次實政、泰衡が郎從由利八郎@を生虜り、相具して陣岡に參上す。

しか    あまののうまのじょうのりかげ いけど   のよし  これ  そうろん
而るに天野右馬允則景が生虜る之由、之を相論す。

にほん ゆきまさ  おお    ま   りょうにん うま なら    よろい  けなど  ちう   お  れる ののち  じっぷを めしうど   たず  と   べ   のむね  かげときに おお  らる
二品行政に仰せて先ず兩人の馬并びに甲の毛等を注し置か被之後、實否於囚人に尋ね問う可し之旨、景時于仰せ被る。

  かげとき 〔 しろ  ひたたれ  おれえぼし  き      むらさきがわ  えぼし  か  〕    ゆり   た   むか    い
 々々〔白の直垂に折烏帽子を着る。紫革の烏帽子を懸く〕由利に立ち向いて云はく。

なんじはやすひら ろうじゅう なか そ   ごう あ   ものなり  しんぎ あなが  きょうしょく  かま  べからずか  ただ  じっしょう まか  ごんじょうすべきなり
汝者泰衡が郎從の中に其の号有る者也。眞僞強ちに矯餝を搆う不可歟。但し實正に任せ言上可也。

なにいろ よろい き  もの    なんじ いけど  や   うんぬん   ゆり  ふんぬ    い
何色の甲を着た者が、汝を生虜る哉と云々。由利忿怒して云はく、

なんじは ひょうえのすけどの けにんか いま こうじょう かぶんのいた   たと    と     もの な    こみたちは  ひでさとしょうぐんちゃくりゅうのせいとう  な
汝者兵衛佐殿が家人歟。今の口状過分之至り。喩へを取るに物無し。故御舘者、秀郷將軍嫡流之正統と爲す。

いじょうさんだい  ちんじゅふしょうぐんの ごう  く     なんじ しゅじんなおかく ごと  のことば  はつ   べからず
已上三代、鎭守府將軍之号を汲む。汝が主人猶此の如き之詞を發する不可。

いわん また  なんじとわれ  たいようのところ  いず    しょうれつ  あ     や   うんつきてめしうど  な      ゆうしの つねなり
矧や亦、汝与吾は對揚之處、何れに勝劣が有らん哉。運盡而囚人と爲すは、勇士之常也。

かまくらどの けにん  もつ    きっかい  あらは のじょう  はなは いはれな   と   ところ こと  さら  へんとう  あたはず  うんぬん
鎌倉殿が家人を以て、奇恠を見す之條、甚だ謂無し。問う所の事、更に返答に不能と云々。

かげときすこぶ おもて あか   ごぜん  さん  もう    い       こ   おとこあっこうの ほかべつ    ごんご な  のかん きゅうめい     ほつ      ところな  てへ
景時頗る面を頳らめ御前に參じ申して云はく。此の男惡口之外別して言語無き之間糺明せんと欲するに所無し者り。

おお    い       かげときぶれい  あらは   よつ    めしうど  これ  とが     か  もっと  どうりなり   はや  しげただこれ  め   と   べ  てへ
仰せて云はく。景時無礼を現すに依て、囚人が之を咎める歟。尤も道理也。早く重忠之を召し問う可し者り。

よつ  しげただて  よ   しきがわ  と     ゆり の まえに もちきた  これ  ざ せし    れい  ただしてこしら  い
仍て重忠手ず自り敷皮を取り、由利之前于持來り之に坐令め、礼を正而誘へて云はく。

きゅうば たづさは もの  おんてき ため とらわれるは かんけほんちょう つうきなり   かならず  これ  ちじょく  しょう  べからず
弓馬に携る者、怨敵の爲に囚被者、漢家本朝の通規也。必しも之を耻辱と稱す不可。

なかんづく  こさてんきゅう  えいりゃく  おうしあ     にほん まためしうど  な      ろくはら   むか  せし  たま    あげく ずしゅう  はいる
就中に、故左典厩A、永暦に横死有り。二品又囚人と爲し、六波羅へ向は令め給ひ、結句豆州へ配流す。

しかれども かうんつい むなしからず てんか  と   たま    ききゃくいませいりょのごう  こうむ   いへど   しじゅうちんりんのうらみ のこ  べからざるか
然而、佳運遂に不空。天下を拉り給ふ。貴客今生虜之号を蒙ると雖も、始終沈淪之恨を貽す不可歟。

おくろくぐん  うち    ききゃく  ぶしょう  ほまれ そなへ  のよし  かね  もつ  そ   な   き   のかん
奥六郡の内に、貴客は武將の譽を備る之由、兼て以て其の名を聞く之間。

ゆうし ら くんこう  た     ため  きゃく から  え   のむね  たがい そうろん  およ  か  よつ  よろい い   うま  い     たず られをはんぬ
勇士等勳功を立てん爲、客を搦め獲る之旨、互に相論に及ぶ歟。仍て甲と云ひ馬と云ひ、尋ね被畢。

かれら   ふちん  こ   ことに きは    べ   ものなり  なにいろのよろい き   もの  ため    いけどられたま  や  ぶんめい  これ  もう  らるるべ てへ
彼等の浮沈、此の事于究まる可き者也。何色之甲を着た者の爲に、生虜被給ふ哉。分明に之を申さ被可し者れば。

 ゆり  い       きゃくは はたけやまどのか こと  れいほう  ぞん    いぜん  おとこ  きっかい  にあはず  もっと これ  もう  べ
由利云はく。客者畠山殿歟。 殊に礼法を存じ、以前の男の奇恠に不似。尤も之を申す可し。

くろいとをど    よろい  き    かげ   うま  が   もの ま   よ   と     ひきおと    そ   ご お   きた  もの  がうがう  して そ   いろめ  わかたず  うんぬん
黒糸威しの甲を着て鹿毛の馬に駕す者先ず予を取りて引落す。其の後追い來る者は嗷々と而其の色目を不分と云々。

しげただ きさんせし    つぶさ こ おもむき  ひろう   くだん よろい うまは  これさねまさなり  すで  ごふしん  ひら をはんぬ つぎ  おお    いは
重忠皈參令め、具に此の趣を披露す。件の甲、馬者、之實政也。已に御不審を開き訖。次に仰せて曰く。

かく  おとこ もう  じょう もつ  しんちゅう さつ        ゆうかん  ものなり  たず  られ  べ  こと あ     ごぜん   め    しん  べ   てへ
此の男の申す状を以て心中を察するに、勇敢の者也。尋ね被る可き事有り。御前に召し進ず可し者り。

しげただまたこれ あいぐ    さんじょう   おんまく  あ   られ これ  み     おお   いは
重忠又之を相具して參上す。御幕を上げ被之を覽る。仰せて曰く。

すで  しゅじんやすひらは いせいを りょうごく  ふる    のかん   けい  くは    のじょう  なんぎのよし    おぼ  め   のところ
己に主人泰衡者、威勢於兩國に振まう之間。刑を加うる之條、難儀之由、思し食す之處。

じんじょう ろうじゅう な   か の ゆえ    かわだのじろう  ため  ひとり ちうされをはんぬ
尋常の郎從無き歟之故に、河田次郎の爲に一人誅被訖。

およ  りょうごく かんりょう    じうしちまんき の かんじゅたりなが   ひゃくにち あいささえず はつかにち うち   いちぞくみなめつぼう   い   たらざることなり
凡そ兩國を管領し、十七万騎之貫首爲乍ら、百日を相支不、廿ケ日の内に、一族皆滅亡す。言うに不足事也。

ゆり もう    い       じんじょう ろうじゅう しょうしょうあいしたが いへど   そうしは しょしょ   ようがいに わか  つか
由利申して云はく。尋常の郎從、少々相從うと雖も、壯士者所々の要害于分ち遣はし。

ろうぐんは ぎょうほしんたいせざ   よつ    いならずじさつ    よ   ごと  ふしょうのやからは  またいけどりた  のかん  さいご  あいともなはずものなり
老軍者行歩進退不るに依て、意不自殺す。予の如き不肖之族者、又生虜爲る之間、最後に相伴不者也。

そもそも こさまのかみどのは   かいどうじうごかこく  かんりょうせし  たま   いへど  へいじぎゃくらんの とき いちにち  ささ  たま  ずして れいらく
抑、故左馬頭殿者、海道十五ケ國を管領令め給ふと雖も、平治逆乱之時。一日を支へ給は不而零落す。

すうまんき の ぬしたり  いへど  おさだのしょうじ ため  たやす ちうせられたま  いにしへといまこうおついかん  やすひらかんりょう らるところのもの わずか りょうしゅう ゆうしなり
数万騎之主爲と雖も、長田庄司Bの爲、輙く誅被給ふ。 古 与今甲乙如何。 泰衡管領せ被所之者、僅に兩州の勇士也。

すうじっかにちのかん   けんりょ  なや   たてまつ  いっぺん  ふかく  しょせし  たま  べからざるか うんぬん
数十ケ日之間、賢慮を惱ませ奉る。一篇、不覺に處令め給ふ不可歟と云々。

にほん かさ      おお  な     まく  た   らる     ゆりは   しげただ  め   あず  られ  ほうじょう ほどこ べ   のよし  おお  つ   らる  うんぬん
二品重ねての仰せ無く、幕を垂れ被る。由利者、重忠に召し預け被、芳情を施す可し之由、仰せ付け被ると云々。

参考@由利八郎は、旧秋田県由利郡由理町。現由利本荘市。
参考A故左典厩は、左馬頭の唐名で源義朝。
参考B長田庄司は、長田忠致で愛知県知多半島野間内海庄。元来源氏の家人で鎌田正Cの舅でありながら、裏切って義朝と正Cを暗殺した。

現代語文治五年(1189)九月小七日甲子。宇佐美平次実政は、泰衡の家来の由利八郎を捕虜にして、連れて陣岡に参りました。ところが、天野右馬允六郎則景が自分が生け捕ったのだと争いになりました。頼朝様は、(二階堂)行政に命じて、双方の馬の毛並みと鎧の威し紐の色を書き出させておいて、その上で事の真偽を囚人(めしうど)に聞くようにしなさいと梶原景時に伝えさせました。

梶原景時〔白い直垂に風折れ烏帽子を着る。紫の皮紐の烏帽子です〕由利に立ったまま向かって云いました。「お前は、泰衡の家来の中でも、名のある武将であろうから、事の真偽を無理に取り繕う必要はない。正しい事だけを云えばよいのだ。何色の威しの鎧を着た者が、お前を生け捕ったのだ?」由利は怒って答えました。「お前は、兵衛佐頼朝殿の家来か。今の物言いは、身分を逸した物言いだぞ。例えようもないほどだ。故御舘藤原秀衡様は、俵の藤太秀郷将軍の直系の正統な子孫なんだぞ。奥州藤原氏三代は鎮守府将軍を拝命した家系である。お前の主人の頼朝様さえも、そのような物言いはしないだろう。それに又、お前と私は家来同士という同格の身分ではないか。どちらが上ということはないだろう。たまたま運が無くて囚人となるのは、勇敢の武士には良くある事なのだ。それを鎌倉殿の家来の癖に、とんでもないおかしな態度を表されても、云う事なんか何もない。ましてや、質問に答える必要もない。」との事なんだとさ。

梶原景時は、顔を真っ赤にして、頼朝様の御前に行き申し上げました。「あの男は、文句ばっかり言っていて、ちゃんと説明をしないので、糾明のしようがありません。」といいました。頼朝様がおっしゃられるのには「梶原景時は、無礼な態度をしたので、囚人がそれを怒っているのだろう。それは確かに道理が通っている。早く畠山重忠を呼んで、質問させなさい」と云われました。それなので、畠山次郎重忠は自分で敷皮を持って、由利の前へ来てそれに座って、きちんと礼儀正しく挨拶をしてから云いました。

「弓馬に関わる職業の武士として、敵に捕われてる事は、中国でもこの日本でもよくあることで、必ずしも恥ずかしい事ではありません。ましてや、故左典厩〔義朝〕様も、永暦年中に途中で死にました。頼朝様も囚人となって六波羅の平家へ連れて行かれ、あげくに伊豆へ流罪になりました。それでも、運が無かった訳ではないので、天下を治めることになりました。貴殿も今は捕虜の身となってはおりますが、将来にまで悲観の恨みを残すことはないでしょう。奥六郡の内では、貴殿は武士としての勇敢な誉れがあり、その名を予め聞いています。それで勇士達も手柄を立てたいと、貴殿を捕えたと、互いに主張しあってもめているのです。そういう訳で鎧や馬の色を聞いた訳なのです。それで彼等の手柄の有る無しも決まるのですが、何色の鎧を着た者に生け捕られたのですか?はっきりと云って下さい。」と云ったので、由利も言いました。「貴殿は畠山殿ですか。特にきちんとした礼儀を心得ておられ、先ほどの男の礼儀知らずとは似てもにつきませんので、ちゃんと申し上げましょう。黒糸威しの鎧を着て、鹿毛の馬に乗った人が、私を捕まえて馬から引きずり落としました。その後で、追ってきた者は沢山居て、後は見分けがつきませんでした。」だそうだ。

畠山重忠は、戻ってきて内容を細かに報告しました。その色の鎧と馬は、宇佐美平次實政です。これで、問題ははっきりとしました。ついで(頼朝様が)おっしゃられたのは、「その男の云っている事で心中を推察すると勇敢な者であろう。聞いてみたい事があるので、私の前へ連れてきなさい。」と申されました。畠山重忠が、連れてまいりました。

幔幕を上げられて彼を見て、仰せになられました。「そなたの主人泰衡は、その権威を陸奥出羽の両国に振るっていたので、罰を加えるのに、大変な事かと思ったが、まともな部下が居なかったようで、川田次郎に一人で殺されてしまった。なんと両国を管理して、十七万騎もの部下を持つ大将なのに、百日も支える事が出来ず、たった二十日で一族が滅びてしまった。云うほどのことでもなかった。」

これに対し由利が云いました。「まともな部下も多少はおりましたが、若い武将はあちこちの砦に派遣され、年老いた武将は、思うような動きもとれないので、やむを得ず自殺してしまいました。私のような不肖の連中は、生け捕られてしまったので、最後までお供を出来ませんでした。だいたい、故左典厩〔義朝〕殿は、東海道の十五カ国を管理しておられましたが、平治の乱で一日も支えられないで落ちぶれたじゃないですか。数万騎の大将であっても、長田庄司忠致のために簡単に殺されてしまいました。昔と今と甲乙つけがたいですね。泰衡が管理していたのは、たった二カ国の軍隊ですよ。数十日でも抵抗をして悩ませましたよ。簡単に不覚を取った奴だと言わないで下さいね」

なんだとさ。頼朝様は、これ以上の言葉を失って幔幕を下げました。「由利は、畠山次郎重忠の預かり囚人(めしうど)にして、充分大事にするように。」と、命じられましたとさ。

文治五年(1189)九月小八日乙丑。安逹新三郎爲飛脚上洛。是依被付合戰次第於師中納言也。主計允行政書御消息。其状云。
 爲攻奥州泰衡。去七月十九日。打立鎌倉。同廿九日。越白河關打入。八月八日。於厚加志楯前。合戰靡敵訖。同十日。越厚加志山。於山口。秀衡法師嫡男西城戸太郎國衡。爲大將軍。向逢合戰。即討取國衡訖。而泰衡自多賀國府以北。玉造郡内高波々ト申所。搆城郭相待。廿日押寄候之處。不相待落件城訖。自此所平泉中間。五六ケ日道候。即追繼。泰衡郎從等於途中相禦。然而打取爲宗之輩等。寄平泉之處。泰衡廿一日落畢。頼朝廿二日申剋着平泉。泰衡一日前立迯行。猶追繼。今月三日。打取候訖。雖須進其首候。遼遠之上。非指貴人。且相傳家人也。仍不能進候。又於出羽國。八月十三日合戰。猶以討敵候訖。以此旨可令洩言上給。頼朝恐々謹言。
     九月八日             頼朝
 進上 師中納言殿

読下し                              あだちのしんざぶろうひきゃく  な  じょうらく
文治五年(1189)九月小八日乙丑。安逹新三郎飛脚と爲し上洛す。

これ  かっせん しだいを そちのちうなごん つけられ   よつ  なり  かぞえのじょうゆきまさごしょうそこ か    そ   じょう  い
是、合戰の次第於師中納言に付被るに依て也。主計允行政御消息を書く。其の状に云はく、

  おうしゅう やすひら  せ       ため    さんぬ しちがつじうくにち  かまくら  う   た     おな   にじうくにち  しらかわのせき  こ  う    い
 奥州の泰衡を攻めんが爲に、去る七月十九日、鎌倉を打ち立つ。同じく廿九日、白河關を越え打ち入る。

  はちがつようか あつかし  たて  まえ  をい  かっせん  てき おびやか をはんぬ
 八月八日厚加志の楯の前に於て合戰し、敵を靡し訖。

  おな   とおか  あつかしやま   こ    やまぐち  をい  ひでひらほっし ちゃくなん にしきどのたろうくにひら  だいしょうぐん な   むか  あ   かっせん
 同じく十日厚加志山を越へ、山口に於て秀衡法師が嫡男の西城戸太郎國衡、大將軍と爲し向い逢い合戰す。

  すなは くにひら う   と をはんぬ  しか  やすひら たがのこくふ よ   いほく  たまつくりぐんない たかはば と  もう  ところ じょうかく  かま  あいま
 即ち國衡を討ち取り訖。而るに泰衡多賀國府自り以北、玉造郡内の高波々ト申す所に城郭を搆へ相待つ。

  はつか  お   よ そうろうのところ  あいまたずくだん しろ お をはんぬ  こ ところよ ひらいずみ ちゅうかん ごろっかにち みち そうろう
 廿日、押し寄せ候之處、相待不件の城は落ち訖。此の所自り平泉の中間、五六ケ日の道に候。

  すなは お   つ    やすひら ろうじゅうら  とちゅう  をい  あいふさ  しかれども むねとたるのやからら う   と     ひらいずみ よ    のところ
 即ち追い繼ぐ。泰衡が郎從等、途中に於て相禦ぐ。然而、宗爲之輩等を打ち取り、平泉へ寄する之處、

  やすひら にじういちにちお をはんぬ よりとも にじうににち さるのこく ひらいずみ つ  やすひらいちにちまえ た  にげ  い     なお お  つ
 泰衡、廿一日落ち畢。 頼朝、廿二日 申剋 平泉に着く。泰衡一日前に立ち迯て行く。猶追い繼ぐ。

  こんげつみっか  う   と そうらひをはんぬ すべから そ くび  しん  そうろう いへど  りょうえんのうえ  させ  きじん  あらず
 今月三日。打ち取り候訖。  須く其の首を進じ候と雖も、遼遠之上、指る貴人に非。

  かつう そうでん  けにんなり  よつ  しん    あたはずそうろう また でわのくに  をい    はちがつじうさんにち かっせん
 且は相傳の家人也。仍て進ずるに不能候。又、出羽國に於て、八月十三日合戰す。

  なおもつ てき  う そうらひをはんぬ こ むね  もつ  も   せし  ごんじょう たま  べ     よりともきょうきょうきんげん
 猶以て敵を討ち候訖。此の旨を以て洩ら令め言上し給ふ可し。頼朝恐々謹言。

           くがつようか                             よりとも
     九月八日             頼朝

  しんじょう そちのちうなごんどの
 進上 師中納言殿

現代語文治五年(1189)九月小八日乙丑。雑色の長の安達新三郎清恒は、飛脚(書類送達)として京都へ向かいました。これは、奥州合戦の経過を師中納言吉田経房を通して法皇に伝えるためなのです。主計允二階堂行政がその手紙を書きました。その手紙の内容は

 奥州の藤原泰衡を攻撃するために、先だっての七月十九日に鎌倉を出発して、同月二十九日に白河の関を越えて奥州へ進撃しました。八月八日に阿津賀志山の陣地の前で戦をして敵を脅かしました。同月十日には阿津賀志山を越えて、山口で藤原秀衡法師の嫡男の西木戸太郎国衡が、大将軍として向かってきて合戦をしました。直ぐに国衡をやっつけてしまいました。それから泰衡は多賀国府から北の玉造郡内の高波々という所に砦を構えて待っていました。二十日に大軍で攻めたところ、殆ど待つ間もなく落城しました。この場所から平泉までは、五六日の距離であります。直ぐに追いかけましたら、泰衡の家来が、途中に防御していました。しかし主だった者を討ち取って平泉へ着いてみたら、泰衡は二十一日に落ち延びて行ってしまった後でした。頼朝は、二十二日の申の刻(午後四時頃)に平泉へ着きました。泰衡は一日前に立ち寄って逃げていったので、なおも追いかけまして、今月三日に討ち取り終えました。すぐさま首をお届けしたいのですが、なにせ遠くである上に、たいした身分の者でもありません。しかも源氏代々の家来に過ぎません。それなのでわざわざお届けする必要もないでしょう。他にも出羽国では、八月十三日に合戦をしました。勿論敵は討ち取りました。以上のような内容で、お伝えいただくように申し上げます。恐れながら頼朝が申しあげます。
   九月八日          頼朝
  お届けします 師中納言殿

文治五年(1189)九月小九日丙寅。鶴岡八幡宮臨時祭也。流鏑馬已下如例。」今日。二品猶逗留蜂杜。而其近邊有寺。名曰高水寺。是爲 稱徳天皇勅願。諸國被安置一丈觀自在菩薩像之隨一也。彼寺住侶禪修房已下十六人。有參訴于此御旅店事。其故者。御野宿之間。御家人等僮僕。多以乱入當寺。放取金堂壁板十三枚畢。冥慮尤難測。早可被糺明者。二品殊驚歎給。則可相尋之旨。召仰景時。々々尋糺之處。宇佐美平次之僕從所爲也。仍召進之。於衆徒前加刑法。可令散彼鬱陶之由。重被仰之間。令切件犯人之左右手於板面。以釘令打付其手訖。二品就寺中興隆事。有所望否之由被仰。僧侶申云。愁訴忽以蒙裁断。此上稱無所望。歸寺訖。又被遣比企藤内朝宗於岩井郡。是於彼郡。C衡基衡秀衡等建立數宇堂塔之由。依被聞食。雖被征泰衡。至僧侶者。不可有窂籠之儀。且可注進佛閣員數。就其可被計宛佛性灯油田旨。被仰遣彼寺々之故也。及晩。右武衛使者到着于陣岡。所持參去七月十九日口宣也。可追討泰衡之由也。被副下 院宣云。奥州追討事。一旦雖被制止。仰重被計申之旨。尤可然之由云々。件使者申云。此 宣旨。同廿四日。奉行藏人大輔送師中納言。同廿六日。師卿被送献武衛。同廿八日出京云々。
   文治五年七月十九日  宣旨
 陸奥國住人泰衡等。梟心禀性。雄張邊境。或容隱賊徒而猥同野心。或對捍詔使而如忘朝威。結搆之至。既渉逆節者歟。加之掠篭奥州出羽之兩國。不輸公田庄田之乃貢。恒例之佛神事。納官封家之諸濟物。其勤空忘。其用欲缺。奸謀非一。嚴科難遁。宜仰正二位源朝臣。征伐其身。永断後濫。
                      藏人宮内大輔藤原家實〔奉〕

読下し                            つるがおかはちまんぐう  りんじさいなり  やぶさめ いか れい  ごと
文治五年(1189)九月小九日丙寅。鶴岡八幡宮の臨時祭也。流鏑馬已下例の如し。」

きょう   にほん なお はちしゃ とうりゅう    しか    そ   きんぺん  てら あ    な   こうすいじ  いは
今日、二品猶蜂杜に逗留す。而るに其の近邊に寺有り。名を高水寺@と曰く。

これ  しょうとくてんのう  ちょくがん な    しょこく  あんちせら  いちじょう  かんじざいぼさつぞうの ずいいつなり
是、稱徳天皇Aの勅願と爲し、諸國に安置被る一丈の觀自在菩薩像之隨一也。

か   てら じゅうりょぜんしゅうぼう いか じうろくにん こ   ごりょてん に さんそ   こと あ
彼の寺の住侶禪修房已下十六人、此の御旅店于參訴の事有り。

そ   ゆえは  おんのじゅくの かん  ごけにんら   どうぼく  おお  もつ  とうじ   らんにゅう   こんどう  かべいたじうさんまい  はな  と  をはんぬ
其の故者、御野宿之間、御家人等が僮僕、多く以て當寺へ乱入し、金堂の壁板十三枚を放ち取り畢。

えいりょもっと はか  がた    はや きゅうめいせら べ   てへ      にほん こと  きょうたん たま    すなは あいたず  べ  のむね  かげとき  め   おお
冥慮尤も測り難し。早く糺明被る可し者れば、二品殊に驚歎し給ひ、則ち相尋ぬ可し之旨、景時に召し仰す。

かげときたず  ただ  のところ  うさみのへいじ の ぼくじゅう  しわざなり
々々尋ね糺す之處、宇佐美平次之僕從の所爲也。

よつ  これ  め   しん    しゅうと  まえ  をい  けいほう  くは    か   うっとう   さん  せし  べ   のよし  かさ    おお  らる   のかん
仍て之を召し進じ、衆徒の前に於て刑法を加へB、彼の鬱陶を散じ令む可し之由、重ねて仰せ被る之間、

くだん はんにんの さゆう  て を き  せし    いためん くぎ  もつ  そ   て   う   つ   せし をはんぬ
件の犯人之左右の手於切ら令め、板面に釘を以て其の手を打ち付け令め訖。

にほん じちゅうこうりゅう  こと  つ       しょもう あ    いな  のよし おお  らる
二品寺中興隆の事に就きて、所望有るや否や之由仰せ被る。

そうりょ もう    い       しゅうそたちま もつ  さいだん  こうむ   こ   うえ  しょもう な    しょう    てら  かえ をはんぬ
僧侶申して云はく。愁訴忽ち以て裁断を蒙る。此の上は所望無しと稱し、寺へ歸り訖。

また  ひきのとうないともむね を いわいぐん  つか  さる    これ か  こおり をい   きよひら  もとひら  ひでひら ら  すうう    どうとう  こんりゅう    のよし
又、比企藤内朝宗於岩井郡へ遣は被る。是彼の郡に於て、C衡、基衡、秀衡等が數宇の堂塔を建立する之由、

き     めさるる  よつ    やすひら  うたる    いへど   そうりょ  いた    は   ろうろうの ぎ あ  べからず
聞こし食被に依て、泰衡を征被ると雖も、僧侶に至りて者、窂籠之儀有る不可。

かつう   ぶっかく  いんずう  ちうしんすべ   それ  つ     ぶっしょうとうゆでん はから あ   らる  べ    むね  か   てらでら  おお  つか  さる  のゆえなり
且は、佛閣、員數を注進可し。其に就き、佛性灯油田Cを計ひ宛て被る可しの旨、彼の寺々に仰せ遣は被る之故也。

参考@高水寺は、紫波郡紫波町高水寺の地名有り。紫波町二日町字向山171。
参考A稱徳天皇(称徳天皇)は、、第48代で孝謙天皇が重祚した天平宝字八年(764)から神護景雲四年(770)らしい。
参考B刑法を加へは、侍品と凡下とは、同一犯でも罰が違う。侍は所領没収など財産権を罰するが、凡下には体罰を加える。
参考C佛性灯油田は、仏様に捧げる灯明用の油を切らすことの無い様に、その分の年貢を納める田畑を与えること。お経を唱える坊主の食い扶持も含む。

ばん  およ    うぶえい   ししゃ じんがおかにとうちゃく   さぬ  しちがつじうくにち こうせん  じさん     ところなり
晩に及び、右武衛が使者陣岡于到着す。去る七月十九日の口宣を持參する所也。

やすひら ついとうすべ  のよしなり  そ   くださる  いんぜん  い
泰衡を追討可し之由也。副へ下被る院宣に云はく。

おうしゅうついとう こと  いったんせいしさる   いへど  よくよくかさ  はから もうさる  のむね  もっと しかるべしのよし うんぬん
奥州追討の事、一旦制止被ると雖も、仰重ねて計ひ申被る之旨、尤も可然之由と云々。

くだん ししゃ もう     い       かく  せんじ  おな    にじうよっかぶぎょうくろうどたいふ   そちのちうなごん  おく
件の使者申して云はく。此の宣旨。同じく廿四日奉行藏人大輔、師中納言に送り。

おな  にじうろくにち そちのきょう ぶえい  おく  けん  らる    おな  にじうはちにち しゅっきょう  うんぬん
同じく廿六日 師卿 武衛に送り献ぜ被る。同じく廿八日 出京すと云々。

      ぶんじごねんしちがつじうくにち     せんじ
   文治五年七月十九日  宣旨

  むつのくにじゅうにんやすひらら きょうしんしょう う    へんきょう ゆうちょう   ある    ぞくと   よういんして みだ    やしん  おなじう
 陸奥國住人泰衡等、梟心性に禀け、邊境に雄張す。或ひは賊徒を容隱而猥りに野心を同し、

  ある    しょうし  たいかんして ちょうい わす     ごと    けっこうの いた    すで  ぎゃくせつ わた ものか
 或ひは詔使に對捍而朝威を忘るるが如し。結搆之至り、既に逆節に渉る者歟。

  これ  くは  おうしゅう   では の りょうごく  りゃくろう   くでん   しょうでんの のうぐ  いたさず  こうれいの ぶつしんじ  のうかんふうけの しょさいもつ
 之に加へ奥州、出羽之兩國を掠篭し、公田、庄田之乃貢を不輸。恒例之佛神事、納官封家之諸濟物。

  そ   つと  むな    わす   そ   ようかん  ほつ    かんぼういち あらず  げんかのが  がた
 其の勤め空しく忘れ。其の用缺と欲す。奸謀一に非。嚴科遁れ難し。

  よろ   しょうにいみなもとのあそん おお     そ   み   せいばつ   なが  ごかん   た
 宜しく正二位源朝臣に仰せて、其の身を征伐し、永く後濫を断つ。

                                             くろうど くない たいふ  ふじわらいえざね 〔ほうず〕 
                      藏人宮内大輔藤原家實〔奉〕

現代語文治五年(1189)九月小九日丙寅。鶴岡八幡宮の臨時(重陽の節句)のお祭です。流鏑馬などの奉納は何時もの通りです。

 今日、頼朝様は、なおも紫波町陣ケ岡蜂神社に留まっておられます。そしたら、その近所に寺があります。名前を高水寺と申します。これは、四十八代称徳天皇の勅願として、諸国に安置した一丈(3m)の観音菩薩象の唯一です。その寺の住職の禅修坊以下十六人の坊さん達が、頼朝様の宿舎に訴えてきた事があります。

その内容は、頼朝様が野宿をされている間に、御家人の下部たちの多くが寺へ乱入して、本堂の壁板十三枚を剥ぎ取っていきました。仏様のことを理解しておりません。早く調べて戴きたいと言ってきたので、頼朝様はビックリなされて、直ぐに調べるように梶原平三景時を呼んで言いつけました。

梶原景時が聞いて歩いたところ、宇佐美平次實政の下男達のしわざでした。そこで、そいつ等を捕まえて連れてきて、坊さん達の前で処罰して、坊さん達の憂さを晴らしてあげるように申されたので、例の犯人の左右の手を切断して、釘でその板に打ち付けさせてしまいました。

頼朝様は、お寺を盛り立てる事について、他にも注文があるかどうかと、仰せになられました。坊さんは言いました。我々の訴えを直ぐに裁断していただきました。これ以上は何も要望はありませんと云って、寺へ帰って行きました。

 一方、比企藤内朝宗を岩井郡へ派遣しました。それは、その郡で、清衡、基衡、秀衡達がいくつかのお寺を建立した事を聞いておられたので、泰衡を征伐したけれども、坊さん達には、経済的困窮をさせてはいけません。なお、寺の建物の仏閣や坊さんの人数を書き出しなさい。それに基づいて仏様に上げる燈明代用にあてる田畑をくれてやるように、それらの寺に言い伝えるためです。

 晩になって、右武衛一条能保の伝令が陣岡に到着しました。先の七月十九日の天皇のお言葉を書いた命令書「口宣」を持ってきたのです。泰衡を朝廷の命でやっつけるようにとの内容です。一緒に添えて下された後白河法皇の命令書「院宣」に書いてあるのは、奥州平泉を征伐する事は、一度は止めたけれど、何度も催促した来たので、そうしなさいと決めましたなんだとさ。その文書を持ってきた伝令が云うのには、この命令書も同様に二十四日に担当の蔵人大輔が、師中納言吉田經房に送り、同二十六日に經房が一条能保に送りまして、同様に二十八日に京都を出発しましたとさ。

 文治五年(1189)七月十九日 朝廷からの命令「宣旨」
 陸奥国の豪族の藤原泰衡は、よこしまな心を持ち、辺境に権威を張っている。或る時は、朝廷の犯罪者を擁護して、その武力を頼み、天下を乱そうとの心に同意し、又或る時は、朝廷からの命令を無視して、朝廷の権威を忘れたかのように、構えているのは、反逆者と看做されるのだ。しかも、そればかりか陸奥と出羽の両国を支配して、朝廷への納税や、荘園への献納をしていない。決められている神や仏へを祀る為の物納や、朝廷へ納める家に課せられた義務の品物など、その本来の納付を忘れて、欠損させようとしている。悪巧みは一つに限らないので、その罪科を逃れる事は出来ない。そう云う訳で、正二位の源頼朝に命じて、その身体を征伐して、後顧の憂いをなくしなさい。
       蔵人宮内大輔藤原家実〔命令を奉じて書きました〕

文治五年(1189)九月小十日丁卯。鶴岡末社熱田社祭也。流鏑馬〔十騎〕競馬〔三番〕相撲〔十番〕也。」今日。奥州關山中尊寺經藏別當大法師心蓮參上于二品御旅店。愁申云。當寺者經藏以下佛閣塔婆。C衡雖草創之。忝爲 鳥羽院御願所。年序惟尚。被寄附寺領。又所被募置御祈祷料也。經藏者被納金銀泥行交一切經。於事嚴重靈塲也。然者始終無窂籠之樣。可被定歟。次當國合戰之間。寺領土民等。成怖畏逐電。早可令安堵之旨。欲被仰下云々。則召件僧於御前。C衡基衡秀衡三代間。所建立之寺塔事。尋聞食之。分明報申之上。可注進巨細之由言上。仍先經藏領當寺堺四至〔東鎰懸。西山王窟。南岩井河。北峯山堂馬坂也〕被下御奉免状。逐電土民等可還住本所之由。被仰下云々。散位親能奉行之。

読下し                              つるがおかまっしゃ あつたしゃ まつりなり やぶさめ   〔じっき〕 くらべうま 〔さんばん〕 すまい 〔じうばん〕 なり
文治五年(1189)九月小十日丁卯。鶴岡末社の熱田社の祭也。流鏑馬〔十騎〕競馬〔三番〕相撲〔十番〕也。」

きょう   おうしゅう かんざんちゅうそんじ きょうぞうべっとう だいほっししんれん  にほん  ごりょてんに さんじょう    うれ  もう    い
今日、奥州 關山中尊寺の 經藏別當 大法師心蓮、二品の御旅店于參上し、愁ひ申して云はく。

とうじは  きょうぞう いか ぶっかくとうば   きよひらこれ  そうそう   いへど  かたじけなく とばいん  ごがんしょ  な     ねんじょこれひさ
當寺者經藏以下佛閣塔婆、C衡之を草創すと雖も、忝も 鳥羽院の御願所と爲し、年序惟尚し。

じりょう    きふ せら    また ごきとうりょう   つの  お れるところなり  きょうぞうは こんぎんでい ぎょうまじ   いっさいきょう  おさ  られ
寺領を寄附被れ、又御祈祷料を募り置か被所也。經藏者、金銀泥 行交りの一切經@を納め被る。

こと  をい  げんじゅう れいじょうなり  しからずんば しじゅう ろうろう な   のよう  さだ  らる  べ   か
事に於て嚴重の靈塲也。 然者、 始終窂籠無き之樣、定め被る可き歟。

つぎ  とうごくかっせん のかん  じりょう  どみんら   ふい   な   ちくてん    はや  あんどせし  べ   のむね  おお くだされん ほつ   うんぬん
次に當國合戰之間、寺領の土民等、怖畏を成し逐電す。早く安堵令む可し之旨、仰せ下被と欲すと云々。

すなは くだん そうを ごぜん  め    きよひら  もとひら ひでひらさんだい かん  こんりゅう   ところの じとう  こと  これ  たず  き     め
則ち件の僧於御前に召し、C衡、基衡、秀衡三代の間、建立する所之寺塔の事、之を尋ね聞こし食す。

ぶんみょう  ほう  もう   のうえ  こさい   ちうしんすべ  のよし ごんじょう
分明に報じ申す之上、巨細を注進可し之由言上す。

よつ  ま   きょうぞうりょうとうじ  さかい しい 〔ひがし かぎかけ にし さんのういわや みなみ いわいがわ  きた みね やま どう うまさかなり   〕  ごほうめん  じょう くださる
仍て先ず經藏領當寺の堺四至〔東は鎰懸。西は山王窟。南は岩井河。北は峯の山堂の馬坂也A御奉免の状を下被る。

ちくてん  どみんら   ほんじょ  かんじゅうすべ のよし  おお  くださる  うんぬん  さんにちかよし これ ぶぎょう
逐電の土民等、本所に還住可し之由、仰せ下被と云々。散位親能之を奉行す。

参考@一切経は、釈迦の説教とかかわる、経・律・論の三蔵その他注釈書を含む経典の総称。
参考A中尊寺経藏領當寺の堺四至〔東は鎰懸。西は山王窟。南は岩井河。北は峯の山堂の馬坂也〕は、一関市厳美町本寺地区(通称骨寺村荘園遺跡)。中尊寺経蔵別当所領。

現代語文治五年(1189)九月小十日丁卯。鶴岡八幡宮境内の末社の熱田社のお祭です。流鏑馬〔十騎〕競馬〔三番〕相撲〔十番〕を奉納しました。
(一方東北では)
今日、奥州平泉の関山中尊寺の経蔵の代表者大法師心蓮が、頼朝様の宿泊所にやってきて、嘆き訴えました。
「この寺は、経蔵を始めとする仏殿や塔を清衡が造られたのですが、もったいない事に鳥羽院の祈祷をするお寺として、長く由緒を守ってきました。寺に荘園を寄付して、又、鳥羽院のご祈祷のための領地も与えてくれました。経蔵には、紺紙に金泥銀泥で一行おきに書かれた一切経が奉納されております。とても厳かな霊場であります。そういう訳なので、寺が困窮するこのないようにお決めになってください。それと、今度の合戦のおかげで、農民達がおびえて何処かへ逃げ散って隠れてしまいましたので、早くもう安全なので安心して元へ戻って農業に励むように命令をお出しになってください。」と要望しました。
すぐに頼朝様はその坊さんを目の前に呼ばれて、清衡、基衡、秀衡の奥州藤原氏三代の建立した寺や塔の事を尋ねられて聞きました。坊さんは、はっきりと申し上げた上で、詳しいことは書き出して提出しますと申し上げました。そこで、まず経蔵の領地である荘園の東西南北の境
〔東は鎰懸かぎかけ。西は山王窟。南は岩井河。北は峯の山堂の馬坂也〕を認める許可証を発行しました。それには、逃げ隠れている農民達は、元の所へ戻って住むように命じられております。散位中原親能が担当をしました。

文治五年(1189)九月小十一日戊辰。平泉内寺々住侶源忠已講。心蓮大法師。快能等參上。仍寺領事。C衡之時。募置 勅願圓滿御祈祷料所之上。向後亦不可有相違之由。賜御下文。寺領者。縱雖爲荒廢之地。不可致地頭等妨之旨。被載之云々。今日。令立陣岡給。至于今已七ケ日。逗留此所給者也。而高水寺鎭守者。奉勸請走湯權現。其傍又有小社。号大道祖。是C衡勸請也。此社後有大槻木。二品莅彼樹下。稱奉走湯權現。令射立上箭鏑二給。自是厨河柵者。依爲廿五里行程。未属黄昏。着御件舘云々。

読下し                               ひらいずみない てらでら じゅうりょ げんちゅういこう  しんれんだいほっし  かいのうら さんじょう
文治五年(1189)九月小十一日戊辰。平泉内の寺々の住侶 源忠已講、心蓮大法師、快能等參上す。

よつ  じりょう  こと  きよひらのとき  ちょくがんえんまん  ごきとう りょうしょ   つの  お    のうえ  きょうごまた  そうい あ   べからず のよし  おんくだしぶみ  たま
仍て寺領の事、C衡之時。勅願圓滿の御祈祷料所を募り置く之上、向後亦、相違有る不可之由、御下文を賜はる。

じりょう は   たと  こうはいの ち   な    いへど   ぢとう ら さまた   いた  べからずのむね  これ  の   らる    うんぬん
寺領者、縱ひ荒廢之地と爲すと雖も、地頭等妨げを致す不可之旨、之を載せ被ると云々。

きょう   じんがおか た   せし  たま    いまに いた     すで  なぬかにち  こ   ところ とうりゅう  たま  ものなり
今日、陣岡@を立た令め給ふ。今于至るまで已に七ケ日、此の所に逗留し給ふ者也。

しこう   こうすいじ   ちんじゅは   そうとうごんげん  かんじょう たてまつ  そ かたわら またしょうしゃあ     おおさえ  ごう
而して高水寺Aの鎭守者、走湯權現を勸請し奉る。其の傍に又小社有り。大道祖と号す。

これ  きよひら  かんじょうなり  こ  やしろ うしろ だいつき ぎ あ
是、C衡が勸請也。此の社の後に大槻B木有り。

にほん か   じゅか  のぞ    そうとうごんげん たてまつ しょう      うわや かぶらふたつ い た   せし  たま
二品彼の樹下に莅み、走湯權現に奉ると稱して、上箭の鏑二を射立て令め給ふ。

これよ   くりやがわ  さく   は   にじうごり  こうてい  な     よつ    いま  たそがれ ぞく        くだん たち  ちゃくご    うんぬん
是自り厨河の柵C者、廿五里Dの行程を爲すに依て、未だ黄昏に属さずに、件の舘に着御すと云々。

参考@陣岡は、紫波町宮手字陣ヶ岡69。
参考A
高水寺は、紫波郡紫波町高水寺の地名有り。紫波町二日町字向山171。
参考B槻(つき)は、欅(けやき)の古称。
参考C
厨河柵は、岩手県盛岡市安倍館町。隣が前九年。
参考D二十五里を現在の一里4kmで換算すると100kmにもなってしまう。律令制では、五尺を一歩とし、三百歩で一里(454.5m)とした。だとすると454.5m×25里は、11.36kmなので、盛岡(青山駅)と紫波(古館駅)の間17km、直線で16km位なのでよしとしよう。

現代語文治五年(1189)九月小十一日戊辰。平泉の中にあるお寺の住職達の源忠已講、心蓮大法師、快能が参りました。それで、寺の領地について、清衡の時代に天皇家の無事を祈る祈祷をするための坊さん達の年貢用の領地を以前どおり満杯に寄付した上で、今後とも間違えのないように保護する命令書を与えられました。お寺の領地は、たとえ農民が逃げてしまって荒れているからと云って、地頭達が勝手に占領開拓してはいけないと書いてあげましたとさ。

今日、陣ケ岡を出発なされました。今日まで七日間も、この場所に留まっておられました。その間に、高水寺を守る神様に熱海の走湯神社を勧請して分祀しました。その隣にもまた、小さな神様があります。大道祖神と云います。これは、清衡が勧請したものです。その社の後ろに大きな欅(けやき)の木があります。頼朝様は、その木の下に向かって、「走湯神社に捧げる。」と云われて、矢入れの内から鏑矢二本を木に向かって打ち立てました。それから厨川の柵は、ここから二十五里の距離なので、日が暮れないうちにそちらの宿泊所へお着きになられましたとさ。

文治五年(1189)九月小十二日己巳。於岩井郡厨河。點此所坤角兼仗次之波氣。被定御舘。今日。工藤小次郎行光献盃酒垸飯。是於當郡者。行光依可拝領。別以被仰下之間。及此儀云々。

読下し                                 いわいぐんくりやがわ をい   こ  ところ ひつじさる すみ けんじょうじの はっけ   てん   おんたち さだ  らる
文治五年(1189)九月小十二日己巳。岩井郡厨河@に於て、此の所 坤 の角の兼仗次A之波氣Bを點じ、御舘と定め被る。

きょう   くどうのこじろうゆきみつ はいしゅおうばん  けん
今日、工藤小次郎行光、盃酒垸飯を献ず。

これとうぐん  をい  は  ゆきみつはいりょうすべ よつ   べつ   もっ  おお くださる  のかん  かく  ぎ   およ   うんぬん
是當郡に於て者、行光拝領可しに依て、別して以て仰せ下被る之間、此の儀に及ぶと云々。

参考@岩井郡厨河は、岩手県盛岡市厨川・安陪館町。
参考A兼仗次は、次は人名(次郎)らしい。
参考B波氣は、岩手県岩手郡雫石町八卦西南(坤)にあたる。

現代語文治五年(1189)九月小十二日己巳。岩井郡厨川で、この場所の坤ひつじさる西南の隅に兼仗次の八卦を指定して、旅館と決められました。今日は、工藤小次郎行光がお酒やご馳走のふるまいを用意しました。この岩井郡は、工藤行光が領地として与えようと、特別に命じられましたので、領主としてこの接待を催したのです。

文治五年(1189)九月小十三日庚午。此間。依兩國騒動。及庶民冤屈。或失子孫。或別夫婦。所殘又交山林。空抛雲稼。仍被召聚之。可安堵本所之旨。被仰含。加之於宿老之輩。面々賜綿衣一領。龍蹄一疋。又由利八郎預恩免。是依有勇敢之譽也。但不被聽兵具云々。

読下し                                このかん  りょうごく  そうどう  よつ    しょみんえんくつ およ    ある    こ まご  うしな    ある    みょうと  わか
文治五年(1189)九月小十三日庚午。此間、兩國の騒動に依て、庶民冤屈に及び、或ひは子孫を失ひ、或ひは夫婦に別れ、

のこ  ところまたさんりん  まじ      むな    うんか   なげう   よつ  これ  め   あつ  られ  ほんしょ  あんどすべ  のむね  おお  ふく  らる
殘る所又山林に交はり、空しく雲稼を抛つ。仍て之を召し聚め被、本所に安堵@可し之旨、仰せ含め被る。

これ  くは  しゅくろうのやから をい     めんめん  めんいいちりょう りゅうていいっぴき たま
之に加へ宿老之輩に於ては、面々に綿衣一領、龍蹄A一疋を賜はる。

また  ゆりのはちろう  おんめん  あづか  これ  ゆうかんのほまれあ    よつ  なり  ただ  ひょうぐ  ゆるされず  うんぬん
又、由利八郎は恩免に預る。是、勇敢之譽有るに依て也。但し兵具を聽不被Bと云々。

参考@安堵は、元々「堵の内に安んじる」ことから領地を持つこと。或いは領地を保障する。
参考A龍蹄は、立派な馬。体高が四寸(120cm)以上。未満は駒と云う。
参考B兵具を聽不被は、侍身分を剥奪され帰農したのだろうか?

現代語文治五年(1189)九月小十三日庚午。最近、出羽陸奥の両国での、戦のお蔭で庶民は苦しく逃げ隠れさせられたので、ある人は子供にしなれ、ある人は夫婦別れ別れになってしまいました。生き残った人達は、山林に隠れていて農業を投げ出さざるを得ませんでした。
そこで、これらの人々を呼び集めて、元の所で安心して暮らせるように仰せになられました。そればかりか、古参の側近達は、それぞれに綿入れを一着、馬一頭を与えました。
又、由利八郎維平は囚人身分を許されました。それは、勇士としての名声があるからです。但し、武装は禁じられましたとさ。

文治五年(1189)九月小十四日辛未。二品令求奥州羽州兩國省帳田文已下文書給。而平泉舘炎上之時。燒失云々。難知食其巨細。被尋古老之處。奥州住人豊前介實俊。并弟橘藤五實昌。申存故實由之間。被召出。令問子細給。仍件兄弟。暗注進兩國繪圖并定諸郡券契。郷里田畠。山野河海。悉以見此中也。注漏餘目三所之外更無犯失。殊蒙御感之仰。則可被召仕之由云々。  

読下し                                にほん  おうしゅう うしゅう りょうごく  しょうちょうたぶみ  いげ   もんじょ  もと  せし  たま
文治五年(1189)九月小十四日辛未。二品、奥州 羽州 兩國の省帳@田文A已下の文書を求め令め給ふ。

しか   ひらいずみ やかた えんじょうのとき しょうしつ  うんぬん  そ   こさい   し     め   がた    ころう   たず  らる  のところ
而るに平泉の 舘 炎上之時、燒失すと云々。其の巨細を知ろし食し難く、古老に尋ね被る之處。

おうしゅうじゅうにん ぶぜんのすけさねとしなら おとうと たちばなとうごさねまさ  こじつ  ぞん    よし  もう   のかん  め   い   され   しさい   と   せし  たま
奥州住人 豊前介實俊并びに 弟 橘藤五實昌、 故實を存ずる由を申す之間、召し出だ被、子細を問は令め給ふ。

よつ  くだん きょうだい そら  りょうごく   えずなら    しょぐん  けんけい  さだ     ちうしん
仍て件の兄弟、暗に兩國の繪圖并びに諸郡の券契Bの定めを注進す。

きょうり でんぱた さんや かかい ことごと もつ  こ   なか  み     なり
郷里 田畠 山野 河海、悉く以て此の中に見ゆる也。

あまるめさんじょ  ちう  もら   のほかさら  はんしつな    こと  ぎょかんのおお    こうむ   すなは め   つか  らる  べ    のよし  うんぬん
餘目C三所Dを注し漏す之外更に犯失無く、殊に御感之仰せを蒙る。則ち召し仕へ被る可し之由と云々。

参考@省帳は、民部省の土地台帳で国衙にも写しが保管されていた。国図とも云う。
参考A田文は、国衙が作成して保管している土地台帳。大田文とも云う。
参考B券契は、土地などの財産に関する権利証書。
参考C餘目は、山形県東田川郡庄内町余目。
参考D三所は、散所で貴族の所領の一形態で,地子物 (年貢) の弁済を免除されるかわりに,住民が領主に対して雑役をつとめた地域をいう。

現代語文治五年(1189)九月小十四日辛未。頼朝様は、陸奥と出羽両国の国衙が管理している台帳や土地と年貢を書き出した田文を提出するように要求されました。
しかし、平泉の館が燃えた時に、一緒に燃えてなくなってしまいましたとさ。その詳しい内容を調べられないので、誰か知っている老人は居ないかと訪ねられたところ、奥州の在郷武士の豊前介実俊とその弟の橘藤五実昌が、昔の事を知っていると云うので、呼び出して詳しくお尋ねになられました。
それでその兄弟は、そらんじていて両国の絵図と土地の権利證書を提出しました。郷も里も、田や畑も、山野、川と海、すべからくこの中に書かれています。余目散所を書き漏らした以外には、全く間違いがありませんので、特に感心したとお褒めのお言葉を与えて、直ぐに家来として仕えるようにさせましたとさ。

文治五年(1189)九月小十五日壬申。樋爪太郎俊衡入道。并弟五郎秀衡。爲降人參厨河。俊衡具子息三人〔太田冠者師衡。次郎兼衡。同河北冠者忠衡〕秀衡相具子息一人〔字新田冠者經衡〕二品召出彼等。覽其躰。俊衡齢已及六旬。頭亦剃繁霜。誠老羸之容貌。尤足于御憐愍也。被召預八田右衛門尉知家。々々相具之。歸休所。而俊衡讀誦法華經之外。不發一言。知家自本崇敬佛法之士也。依隨喜甚深也云々。  

読下し                                ひづめのたろうとしひらにゅうどう   なら  おとうとごろうすえひら こうじん  な   くりやがわ まい
文治五年(1189)九月小十五日壬申。樋爪太郎俊衡入道@、并びに弟五郎季衡、降人と爲し厨河に參る。

としひら ぐ   しそくさんにん 〔おおたのかじゃもろひら  じろうかねひら  おな   かわきたのかじゃただひら〕 すえひら  あいぐ  しそく ひとり  〔あざ にったのかじゃつねひら〕
俊衡具する子息三人〔太田冠者師衡、次郎兼衡、同じく河北冠者忠衡〕季衡が相具す子息一人〔字を新田冠者經衡〕

にほん かれら  め   いだ  そ   てい  み     としひら よわいすで ろくじゅん およ あたままたはんそう そ     まこと ろうるいの ようぼう   もっと ごれんみんに た   なり
二品彼等を召し出し其の躰を覽る。俊衡、齢已に六旬に及び頭亦繁霜を剃り、誠に老羸之容貌、尤も御憐愍于足る也。

はったのうえもんのじょうともいえ め   あず らる    ともいえこれ  あいぐ   やすみどころ かえ   しか    としひら ほけきょう どくしょうのほか  ひとこと  はっせず
八田右衛門尉知家に召し預け被る。々々之を相具し、休所Aに歸る。而るに俊衡法華經を讀誦之外、一言も不發。

ともいえもとよ   ぶっぽう  すうけいの し なり  よつ ずいきはなは ふか  なり  うんぬん
知家本自り佛法を崇敬之士也。依て隨喜甚だ深き也と云々。

参考@樋爪太郎俊衡は、藤原清衡の四男十郎清綱の子。
参考A休所は、この場合陣所。

現代語文治五年(1189)九月小十五日壬申。樋爪太郎俊衡入道と弟の五郎季衡が、降伏して出頭するため、厨川へ来ました。
俊衡が連れてきた息子三人〔太田冠者師衡、次郎兼衡、同様に河北冠者忠衡〕、季衡が連れてきた息子一人〔呼び名は新田冠者経衡〕。
頼朝様は彼を呼び出して、その様子を見ました。俊衡は、年齢が六十歳を越え、頭は白髪が真っ白で、本当に弱った老人の姿をしているので、哀れみを誘うのでした。それなので、八田右衛門尉知家に囚人として預けられました。知家はかれを一緒に連れて、自分の陣へ帰りました。囚人となったのに俊衡は法華経を読み上げる以外は、何も云いません。知家も元々仏教を崇拝している武士なので、とても嬉しがっていましたとさ。

文治五年(1189)九月小十六日癸酉。知家參進御前申俊衡入道轉經事。二品自往日令持此經給之間。不被定罪名。可安堵本所〔比爪〕之由。令下知給。是併奉優十羅刹照鑒之旨。被仰含云々。

読下し                                 ともいえごぜん  さんしん  としひらにゅうどう てんきょう   こと  もう
文治五年(1189)九月小十六日癸酉。知家御前に參進し俊衡入道が轉經@の事を申す。

にほん   おうじつよ   こ   きょう じ せし  たま  のかん  ざいめい  さだ  られず     ほんじょ 〔ひづめ〕   あんど すべ   のよし   げち せし  たま
二品、往日自り此の經を持令め給ふ之間、罪名を定め不被に、本所〔比爪〕を安堵可し之由、下知令め給ふ。

これ しかしなが じうらせつ しょうかん ゆう たてまつ のむね おお  ふく  らる    うんぬん
是、併ら十羅刹Aの照鑒を優じ奉る之旨、仰せ含め被ると云々。

参考@轉經は、お経を轉讀(略して読む=経文をアコーデオンのように左右の手に行ったり来たりさせる。)すること。
参考A
十羅刹女は、法華經の護法神。

現代語文治五年(1189)九月小十六日癸酉。八田知家が、頼朝様の前へ進み出て、俊衡入道の法華経轉讀の話をしました。頼朝様は、前々からこのお経を大事にするべきだと思っていたので、罪人とはしないで、元の領地〔比爪〕を従来どおり与えるように、命令をされました。これで、法華経によって地獄の十羅刹女に免じて許したのだと、伝えさせましたとさ。

文治五年(1189)九月小十七日甲戌。C衡已下三代造立堂舎事。源忠已講。心蓮大法師等注献之。親能朝宗覽之。二品忽催御信心。仍寺領悉以被寄附。可令募御祈祷云々。則被下一紙壁書。可押于圓隆寺南大門云々。衆徒等拝見之。各全止往之志云々。其状曰。
 於平泉内寺領者。任先例所寄附也。堂塔縱雖爲荒廢之地。至佛性燈油之勤者。地頭等不可致其妨者也者。

読下し                                 きよひら いか さんだい  ぞうりゅう  どうしゃ  こと  げんちゅういこう  しんれんだいほっしら これ  ちう  けん
文治五年(1189)九月小十七日甲戌。C衡已下三代が造立の堂舎の事、源忠已講、心蓮大法師等之を注し献ず@

ちかよし  ともむねこれ み     にほん たちま  ごしんじん  もよお   よつ  じりょう ことごと もつ   きふ せら     ごきとう    つの  せし  べ     うんぬん
親能、朝宗之を覽る。二品忽ち御信心を催す。仍て寺領 悉く以て寄附被れ、御祈祷を募ら令む可しと云々。

すなは いっし  かべがき くだされ  えんりゅうじ  なんだいもんに お   べ    うんぬん
則ち一紙の壁書を下被、圓隆寺Aの南大門于押す可しと云々。

しゅうとら これ  はいけん  おのおの しおうのこころざし まっと     うんぬん  そ   じょう いは
衆徒等之を拝見し、各 止往之 志を 全うすと云々。其の状に曰く。

  ひらいずみないじりょう をい は  せんれい  まか  きふ    ところなり
 平泉内寺領に於て者、先例に任せ寄附する所也。

  どうとうたと  こうはい  な    のち   いへど   ぶっしょうとうゆの つと    いた    は    じとう ら そ   さまた   いた べからざるものなりてへ
 堂塔縱い荒廢を爲す之地と雖も、佛性燈油之勤めに至りて者、地頭等其の妨げを致す不可者也者り。

参考@注し献ずは、文書に書いて提出する。一度は没収して、寄付をした形をとる。
参考A圓隆寺は、毛通寺の金堂。

現代語文治五年(1189)九月小十七日甲戌。清衡以下三代の建立したお堂や建物の事を、源忠已講、心蓮大法師は、書き出して献上しました。
中原親能と比企朝宗がこれを見て説明しました。頼朝様は神仏への信仰心を思い出されたので、全て寺の領地を認められて、良く拝むようにとのことでした。すぐに、一枚のお触書を渡され、円隆寺の南大門に張って置くようにとのことでした。坊さんや僧兵達はこれを見て、それぞれ今までどおり神仏にお使いする気持を固めましたとさ。その張り紙には、

 平泉のお寺の領地については、今までの先例どおりに寄付いたしました。お堂や塔が無くなったり、たとえ荒れてしまって土地であっても、仏様に捧げる燈明を上げたり、お経のための年貢を提供する土地を、地頭は勝手に占領してはならないと命じております。

寺塔已下注文曰〔衆徒注申之〕
一 關山中尊寺事
 寺塔四十餘宇。禅坊三百餘宇也。
 C衡管領六郡之最初草創之。先自白河關。至于外濱。廿余ケ日行程也。其路一町別立笠率都婆。其面圖繪金色阿弥陀像。計當國中心。於山頂上。立一基塔。又寺院中央有多寶寺。安置釋迦多寶像於左右。其中間開關路。爲旅人往還之道。次釋迦堂安一百余躰金容。即釋迦像也。次兩界堂兩部諸尊。皆爲木像。皆金色也。次二階大堂〔号大長壽院。高五丈。本尊三丈金色弥陀像。脇士九躰。同丈六也〕次金色堂〔上下四壁内殿皆金色也。堂内搆三壇。悉螺鈿也。阿弥陀三尊。二天。六地蔵。定朝造之〕鎮守即南方崇敬日吉社。北方勸請白山宮。此外宋本一切經藏。内外陣莊嚴。數宇樓閣。不遑注進。凡C衡在世三十三年之間。自吾朝延暦。園城。東大。興福等寺。至震旦天台山。毎寺供養千僧。臨入滅年。俄始修逆善。當于百ケ日結願之時。無一病而合掌唱佛号。如眠閉眼訖。

読下し

 じとう いげ   ちうもん  いは    〔しゅうとこれ  ちう  もう    〕
寺塔已下の注文に曰く@〔衆徒之を注し申す〕

参考@注文に曰くは、報告書に書いてある。

現代語お寺や塔についての書き出した文書に書いてあるのは〔僧兵がこれを書き出しました〕

ひとつ かんざんちゅうそんじ こと
一 關山中尊寺の事A

 じとう  よんじうよう   ぜんぼうさんびゃくようなり
寺塔四十餘宇、襌坊三百餘宇也。

きよひら  ろくぐん  かんりょう   の さいしょ  これ  そうそう    ま  しらかわのせき よ  そとがはま にいた にじゅうよかじつ こうていなり
清衡、六郡を管領する之最初に之を草創す。先ず白河關
B自り外濱C于至る廿餘箇日の行程也。

そ   みち  いっちょうごと  かさそとうば   た     そ   おもて こんじき   あみだぞう    ずえ     とうごく  ちうしん  はか
其の路に一町別
Dに笠率都婆を立て、其の面に金色の阿弥陀像を圖繪し、當國の中心を計りて、

やま  ちょうじょう をい  いちぼ   とう  た
山の頂上に於て一墓の塔を立てる。

また   じいん  ちゅうおう   たほうじ あ     しゃか たほうぞう を さゆう   あんち     そ   ちうかん  せきろ  ひら    たびびとおうかんのみち な
又、寺院の中央に多寳寺有り。釋迦多寳像於左右に安置す。其の中間に關路を開き、旅人徃還之道と爲す。

つぎ  しゃかどう  いっぴゃくよたい  きんよう  やす     すなは しゃかぞうなり
次に釋迦堂に一百余體の金容を安んず。即ち釋迦像也。

つぎ  りょうかいどうりょうぶ  しょそん  みなもくぞうな     みなこんじきなり
次に兩界堂兩部の諸尊は皆木像爲り。皆金色也。

つぎ  にかいだいどう 〔だいちょうじゅいん  ごう  たか  ごじょう   ほんぞん  さんじょう  こんじきあみだぞう  わきだちくたい  おな    じょうろくなり 〕
次に二階大堂〔大長寿院と号す。高さ五丈
E、本尊は三丈の金色弥陀像、脇立九躰は同じく丈六F也〕

つぎ  こんじきどう 〔じょうげ  しへき  ないでんみなこんじきなり  どうない さんだん かま ことごと らでんなり    あみださんぞん    にてん   ろくじぞう  じょうちょうこれ つく   〕
次に金色堂〔上下、四壁、内殿皆金色也。堂内を三壇に搆へ悉く螺鈿也。阿弥陀三尊、二天、六地藏、定朝之を造る〕

ちんじゅ  すなは なんぽう  ひえしゃ  すうけい    ほっぽう  はくさんぐう  かんじょう
鎮守は即ち南方に日吉社を崇敬し、北方に白山宮を勸請す。

こ   ほか  そうぼん いっさいきょうぞう  ないげじん  そうごん  すうう   ろうかく  ちうしん いとまあらず
此の外、宋本の一切經藏、内外陣の莊嚴、數宇の樓閣、注進に不遑。

およ    きよひらざいせ  さんじうねんのかん  わがちう えんりゃく おんじょう  とうだい  こうふく ら  てらよ     しんたん  てんだいさん  いた
凡そ、清衡在世の三十年之間、吾朝の延暦、園城、東大、興福等の寺自り、震旦の天台山に至るまで、

てらごと  せんそう  くよう
寺毎に千僧を供養す。

にゅうめつ とし  のぞ     にはか はじ   げきぜん  しゅう
入滅の年に臨みて、俄に始めて逆善を修す。

ひゃっかにち けちがんに あた  のとき  いちびょう な    て がっしょう   ぶつごう  とな  ねむ    ごと  め   と  をはんぬ
百箇日の結願于當る之時、一病無くし而合掌し、佛號を唱へ眠るが如く眼を閉じ訖。

参考A中尊寺、毛越寺の資料はこの他に無い。
参考B
白河關は、東北地方の入り口。現福島県白河市旗宿白河内に関跡あり。
参考C
外濱は、当時の日本の北の果て。南の果ては、鬼界島で現鹿児島県三島村硫黄島。
参考D一町別は、109mごとに。
参考E
五丈は、約15m。
参考F
丈六像は、立って一丈六尺4.8m、座ってその半分2.4m。

現代語一 関山中尊寺について

 お寺のお堂や塔は、四十余り、坊さんの住んでいる坊は三百余りもあります。

清衡が、奥六郡を管理し始めた最初に創建しました。先ず白河の関(福島県と栃木県境)から外が浜(青森)までは、二十余日の行程です。その道に、一町(100m)ごとに屋根のついた石碑「笠塔婆」を立て、その表面には金泥で阿弥陀様を描きました。又、陸奥国の中心を計って、その山の頂上に一軒の塔を建てました。そして、寺院の中央に多宝寺があります。釈迦如来と多宝如来を本尊に左右に並べ祀りました。塔と多宝寺の中間に道を通して関所をおいて、旅人の往来の道としました。

次ぎに釈迦堂には、百余体の像を祀りました。当然釈迦如来像です。

次ぎは、密教の金剛界と胎蔵界を祀った両界堂は、両方の世界をあらわす仏像は、全て木像で金色です。

次ぎは、二階大堂〔大長寿院と云います。高さは五丈(15m)、本尊は三丈(立って9mなので座って4.5m)の金色の阿弥陀像です。脇に並んでいる九体の阿弥陀像は丈六(座って2.4m)です〕

次ぎは、金色堂〔上も下も、周囲の壁も建物全てが金色です。堂の中に左右真ん中と三つの壇をこしらえ全て螺鈿で飾ってあります。阿弥陀三尊、二天、六地蔵などは、定朝がこれを作成しました〕

中尊寺を守る鎮守様は、南側に日吉神社を祀り、北側には白山神社を勧請して分祀しました。その他に、宋の国から輸入した一切経を納める経蔵や、建物内の荘厳な様子や幾つもの建物などは、書ききれません。清衡が生きていた三十年の間に、わが国の延暦寺、園城寺、東大寺、興福寺などの寺からそして中国の天台山まで、それぞれの寺に千人分の坊さんの費用を寄付しました。市の間際に臨んで、急に初めて生きているうちに自分を供養する祈りの儀式「逆修」をしました。その祈りが百日目に当たる日に、全く病気もないのに手を合唱して、南無阿弥陀仏と唱えながら、眠るようにお亡くなりになりました。

一 毛越寺事
 堂塔四十余宇。禪坊五百余宇也。
 基衡建立之。先金堂号圓隆寺。鏤金銀。継紫檀赤木等。尽万寳。交衆色。本佛安藥師丈六。同十二神將〔雲慶作之。佛并像以玉入眼事。此時始例〕講堂。常行堂。二階惣門。鐘樓。經藏等在之。九條關白〔忠通〕家染御自筆被下額。參議教長卿書堂中色紙形也。此本尊造立間。基衡乞支度於佛師雲慶。々々注出上中下之三品。基衡令領状中品。運功物於佛師。所謂圓金百兩。鷲羽百尻。七間々中徑ノ水豹皮六十余枚。安達絹千疋。希婦細布二千端。糠部駿馬五十疋。白布三千端。信夫毛地摺千端等也。此外副山海珍物也。三ケ年終功之程。上下向夫課駄。山道海道之間。片時無絶。又稱別祿。生美絹積船三艘送之處。佛師抃躍之餘。戲論云。雖喜悦無極。猶練絹大切也云々。使者奔皈。語此由。基衡悔驚。亦積練絹於三艘送遣訖。如此次第。達 鳥羽禪定法皇叡聞。令拝彼佛像御之處。更無比類。仍不可出洛外之由被 宣下。基衡聞之。心神失度。閉篭于持佛堂。七ケ日夜断水漿祈請。愁申子細於九條關白之間。殿下令伺天氣給。蒙 勅許。遂奉安置之。 次吉祥堂本佛者。奉摸洛陽補陀洛寺本尊〔觀音〕生身之由有託語。爲嚴重靈像之間。更建立丈六觀音像。其内奉納件本佛也。 次千手堂。木像廿八部衆。各鏤金銀也。鎭守者。惣社金峯山。奉崇東西也。 次嘉勝寺〔未終功之以前。基衡入滅。仍秀衡造之畢〕四壁并三面扉。彩畫法華經廿八品大意。本佛者。薬師丈六也。 次觀自在王院〔号阿弥陀堂也〕基衡妻〔宗任女〕建立也。四壁圖繪洛陽靈地名所。佛壇者銀也。高欄者磨金也。 次小阿弥陀堂。同人建立也。障子色紙形。參議教長卿所染筆也。

読下し

ひとつ  もうつじ  こと
一 毛越寺の事

どうとう  しじゅうよう    ぜんぼうごひゃくようなり
堂塔四十餘宇、禪房五百餘宇也。

もとひらこれ  こんりゅう   ま   こんどう  えんりゅうじ  ごう    きんぎん  ちりば   したん   あかぎ ら  つ     ばんぽう  つく    しゅうしき まじは
基衡之を建立す。先ず金堂を圓隆寺と號す。金銀を鏤め、紫檀
@、赤木A等を繼ぎ、萬寳を盡し、衆色を交ふB

ほんぶつ やくしじょうろく  おな   じゅうにしんしょう 〔うんけいこれ  つく    ほとけなら    ぞう   ぎょく  もっ   め    いれ   こと   こ   ときはじ       れい〕   やす
本佛は藥師丈六、同じく十二神將〔雲慶之を作る。佛并びに像に玉を以て眼を入る事、此の時始めての例〕を安んず。

こうどう  じょうこうどう  にかい   そうもん  しょうろう きょうぞうら これ あ
講堂、常行堂、二階の惣門、鐘樓、經藏等之在り。

 くじょうかんぱくけ  おんじひつ  そ     がく  くだされ    さんぎのりながきょう どうちゅう しきしがた  しょ  なり
九條關白家
C、御自筆を染めて額を下被る。參議教長卿D、堂中の色紙形を書E

参考@紫檀は、マメ科の常緑小高木。唐木の一。インド南部原産。高さ約10メートル。葉は羽状複葉。花は黄色の蝶形花。辺材は白色、心材は暗紫紅色で、質硬く、木目が美しいので、床柱や家具に用いる。熱帯各地に産する類似の材をも紫檀材と呼ぶことがある。朱檀(しゆだん)。ローズウッド。Goo電子辞書から
参考A赤木は、トウダイグサ科の常緑高木。沖縄・台湾・東南アジア・オーストラリアなどに分布。高さ20メートルに達する。樹皮は赤褐色。葉は三小葉からなる複葉。花は小さく黄緑色。材は赤褐色を帯び、装飾材・家具材とする。カタン。Goo電子辞書から 又は
皮をむいてある木〔立派な」の意。これに対し黒木は皮をむいていない木で〔粗末な」の意。
参考B衆色を交うは、色を沢山使う。
参考玉を以て眼を入る事、此の時始めての例は、玉眼の仏像はこれが始めてだといっているが、現存では奈良の長岳寺のが仁平元年1151で一番古いが、基衡は1157頃の死らしく、鳥羽法皇が1123退位で1156崩御なので、もしかしたら合っているのかも知れない。
参考C九條關白家は、藤原忠道(兼実の父)。
参考D參議教長卿は、藤原教長で当時の能書家。
参考E堂中の色紙形を書くは、堂内に貼る色紙に和歌を書いてもらった。

現代語一 毛越寺について
 お寺のお堂や塔は、四十余り、坊さんの住んでいる坊は五百余りもあります。
基衡が、これを建立しました。先ず本堂の金堂は円隆寺と云います。金銀を沢山用いて、紫檀や赤木などの輸入材を豊富に使い、多くの宝石類で、色とりどりです。
ご本尊様は、丈六
(座って2.4m)の薬師如来、それを取り囲む十二神将〔運慶がこれを作りました。仏様や神将像に玉を使って目を入れたのは、これが初めての例です〕を祀っています。講堂や神仏の燈明を消さない常行堂、二階建ての総門、鐘楼、経蔵などもあります。九条関白家藤原忠道様が、ご自分で書かれた額を下さいました。能書家の参議藤原教長様に堂の中に飾る色紙に和歌を書いてもらいました。

こ   ほんぞんぞうりゅう  かん  もとひら したく を ぶっしうんけい  こ    うんけいじょうちゅうげのさんぽん   ちゅう いだ
此の本尊造立の間、基衡支度於佛師雲慶に乞ふ。々々上中下之三品
Fを注し出す。

もとひら ちうぼん りょうじょうせし   こうぶつ を ぶっし   はこ   いはゆる えんきんひゃくりょう わしはねひゃくしり しちけんまなかわたり  あざらし  かわろくじゅうよまい
基衡中品を領状令め
G、功物H於佛師に運ぶ。所謂、金百兩I、鷲羽百尻J、七間々中徑りの水豹の皮K六十余枚、

あだちぎぬせんびき けふのさぬの にせんたん ぬかのべ しゅんめごじっぴき  はくふ さんぜんたん  しのぶ もじずり せんたんなり
安達絹L千疋、希婦細布M二千端、糠部Nの駿馬五十疋、白布三千端、信夫毛地摺O千端等也。

こ  ほかさんかい  ちんぶつ  そ    なり
此の外山海の珎物を副ふる也。

さんかねん  こう  おう   のほど  じょうげこう   ぶ  かだ   さんどうかいどうのかん   へんし  た         な
三箇年の功を終る之程、上下向の夫課駄
P、山道海道Q之間に片時も絶えること無し。

また  べつろく しょう    すずしぎぬ   ふねさんそう  つ    おく  のところ  ぶっし へんやく の あま  げろん    い
又、別禄と称して
R生美絹Sを舩三艘に積みて送る之處、佛師抃躍之餘り戲論して云はく、

きえつ きはま な    いへど なお  のりぎぬ  たいせつなり うんぬん  ししゃ はし  かえ    こ   よし  かた
喜悦極り無しと雖も猶、練絹が大切也と云々。使者奔り歸りて此の由を語る。

もとひら く  おどろ   また  ねりぎぬ を さんそう  つ     おく  つか   をはんぬ
基衡悔い驚き、亦、練絹
於三艘に積みて送り遣はし訖。

参考F上中下之三品は、商品のランク。
参考G基衡中品を領状令めは、中位のランクを注文した。
参考H功物は、費用。
参考I百兩は、粒上の金約500万円。金の重量単位は、一両は四分で重さ四匁四分は、16.5g。百両は1650g2009.09.09現在1g=3,152円なので
参考J鷲羽百尻は、鷲の羽根百羽分で、弓矢の矢羽になるので、馬や反物同様に貨幣の替わりをした。
参考K七間々中徑ノ水豹皮は、真ん中の直径が七(単位不明)のアザラシの皮。
参考L安達絹は、福島県伊達郡川俣町の特産品
参考M希婦細布は、狭布の細麻布。謡曲〔錦木」では、秋田県鹿角市と福島県伊達郡桑折町大字伊達崎字錦塚9の説とがある。
参考N糠部は、青森県の浅虫温泉とか。
参考O信夫毛地摺は、福島県福島市山口の文知摺観音堂に毛地摺石がある。
参考P上下向うの夫課駄は、都へ上ったり奥州へ下ったりする役夫と荷駄。
参考Q山道海道は、東山道と東海道。
参考R別祿と稱しは、おまけとして。
参考S生美絹は、生絹(すずし)で生の絹。生糸のこと。精練せず、このまま織物に使うこともある。お召し、のしめなど、沖縄などでもこのまま使うことが多いよう。生絹のオーガンジーなども素敵です。
参考㉑抃躍は、飛び上がって喜ぶ。
参考㉒
戲論は、ふざけた内容の言葉。ふざけて云うには。
参考㉓
練絹は、精錬された絹。

現代語このご本尊を造ってもらうのに、基衡は造作を仏師運慶に頼みました。運慶は、上中下の三段階の種類があると書き出しました。基衡は中位で良いと注文して、製作料を仏師の所へ運び込みました。それは、つぶ金百両(約500万円)、鷲の羽根百羽分、真ん中が七間のアザラシの皮六十枚くらい、安達郡名産の上等の絹千疋(二千反)。幅の狭い麻布二千反、糠部(青森県)の若くて立派な馬を五十頭、白い布三千反、信夫毛地摺りの絹千反などです。その他にも、山や海の名産品を一緒に送りました。三年間の作成期間の間、その品物を運ぶ人足や、荷駄は東山道や東海道を往復する事が、全くない事はありませんでした。
又、おまけとして、精錬していない生絹を船三艘に積んで送ってみたところ、仏師は飛び上がって喜んだ調子にふざけて云うには(軽口を叩いて)、「その喜びは大変なものですが、あえて言うならば、精錬された練絹が大事なんですよね。」と云ったんだとさ。使いのものは平泉へ急いで帰ってこの言葉を伝えました。基衡は、後悔しながら驚いて、すぐに練絹を三艘の船に積んで送ったものなんだとさ。

かく  ごと   しだい  とばぜんじょうほうおう  えいもん  たつ    か   ぶつぞう  おが  せし  たま  のところ  さら  ひるいな
此の如き次第が鳥羽禪定法皇の叡聞に達し、彼の佛像を拜ま令め御ふ之處、更に比類無し、

よつ  らくがい  いだ  べからずのよし   せんげ せら
仍て洛外へ出す不可之由、宣下被る。

もとひら      き      しんしん ど  うしな   じぶつどうに と   こも    なのかにちや すいしょう  た   きしょう
基衡これを聞き、心神度を失い
持佛堂于閉じ籠り、七箇日夜水漿を斷ち祈請し、

しさいを くじょうかんぱく  うれ  もう   のかん  でんか てんき  うかが せし  たま    ちょっきょ こうむ     つい  これ  あんち  たてまつ
子細於九條關白に愁ひ申す
之間、殿下天氣を伺は令め給ひ、勅許を蒙りて、遂に之を安置し奉る。

参考㉔心神度を失いは、驚いてがっかりする。
参考㉕
持仏堂は、日常的に礼拝する仏像(念持仏)を安置する堂
参考㉖愁い申すは、嘆き頼んだ。
参考㉗
天氣を伺は令めは、天皇のご機嫌を伺って頼んだ。

現代語以上のような、エピソードが鳥羽上皇のお耳に入り、その仏像を拝んだのですが、これは他に較べようも無く良い。だから京都から外へ持ち出してはいけないと、宣言されました。基衡は、このことを聞いて、驚いてがっかりしてしまい、自分の守り本尊の仏様を安置している持仏堂に閉じこもって七日間、飲食を断って祈ったうえで、詳しい事情を九条関白忠通に嘆きながらお願いをしたら、関白殿下はこの話を聞いて、鳥羽上皇の機嫌の良い時を選んでお伺いを立て、許可を得てやっとこれを平泉に祀る事が出来ました。

つぎ  きっしょうどう  ほんぶつは らくよう ふだらくじ   ほんぞん 〔かんのん〕   も  たてまつ  しょうしんのよし たくご あ
次に吉祥堂。本佛者洛陽補陀洛寺@の本尊〔觀音〕を摸し奉る。生身之由語有り。

げんじゅう れいぞうた  のかん  さら  じょうろく  かんのんぞう  こんりゅう   そ   うち  くだん ほんぶつ  おさ たてまつ なり
嚴重の靈像爲る之間、更に丈六の觀音像を建立し、其の内に件の本佛を納め奉る也。

参考@洛陽補陀洛寺は、京都洛北静原の通称小町寺

つぎ  せんじゅどう  もくぞうにじうはちぶしゅう おのおの きんぎん ちりばめ なり  ちんじゅは  そうしゃきんぶせん  とうざい  あが たてまつ なり
次に千手堂。 木像廿八部衆、 各 金銀を鏤る也。鎭守者、惣社金峯山を東西に崇め奉る也。

つぎ   かしょうじ    〔いま   こう  おはわ       のいぜん    もとひら にゅうめつ   よつ  ひでひらこれ  つく をはんぬ〕
次に嘉勝寺〔未だ功を終らざる之以前に、基衡入滅す。仍て秀衡之を造り畢〕

しへき なら   さんめんとびら  ほけきょうにじうはちほん たいい  いろど えが   ほんぶつは やくし  じょうろくなり
四壁并びに三面扉は、法華經廿八品の大意を彩り畫く。本佛者薬師。丈六也。

つぎ かんじざいおういん 〔  あみだどう       ごう    なり   〕 もとひら  つま 〔むねとう  むすめ〕  こんりゅうなり
次に觀自在王院〔阿弥陀堂と号す也〕基衡が妻〔宗任の女〕の建立也。

しへき   らくよう  れいちめいしょ   ずえ    ぶつだんはぎんなり  こうらんはときんなり
四壁に洛陽の靈地名所を圖繪し、佛壇者銀也。高欄者磨金也。

つぎ  しょうあみだどう   どうじん  こんりゅうなり  しょうじ  しきしがた     さんぎのりながきょうふで そ    ところなり
次に小阿弥陀堂。同人の建立也。障子の色紙形は、參議教長卿筆を染める所也。

現代語次ぎは吉祥堂についてですが、ご本尊様は京都洛北静原の通称小町寺の補陀洛寺の本尊〔観音様〕を模刻したものです。釈迦の生身を伝えているとお告げがあったと伝えられております。とても霊力の有るお像なのです。更に丈六の觀音像を建立して、その胎内に本尊を納めております。
次ぎに千手観音を祀る千寿堂には、眷属の木像二十八部衆もあり、それぞれ金泥金泥で彩られております。これを守る鎮守様は、惣社の金峯山を東西に崇め奉っています。

次ぎに嘉勝寺について〔未完成のうちに基衡が亡くなりましたので、秀衡が造り終えました〕四方の壁と三面の扉は、法華經第二十八巻の内容を彩り鮮やかに描きました。ご本尊は、薬師如来で丈六です。

次ぎに観自在王院〔阿弥陀堂とも云います〕は、基衡の妻〔安陪宗任の娘〕の建立です。四方の壁に京都の霊場名所を描いて、仏壇は銀塗りです。周囲の手すりは金メッキです。

次ぎに小阿弥陀堂も、同じ人の建立です。障子(今で言う衾)に張られた色紙には、参議藤原教長様に和歌を書いてもらいました。

一 無量光院〔号新御堂〕事
 秀衡建立之。其堂内四壁扉。圖繪觀經大意。加之。秀衡自圖繪狩獵之躰。本佛者阿弥陀丈六也。三重寳塔。院内莊嚴。悉以所摸宇治平等院也。

読下し

ひとつ むりょうこういん  (しんみどう   ごう)    こと
一 無量光院@〔新御堂と号す〕

  ひでひらこれ こんりゅう   そ   どうない  しへき  とびら   かんきょう たいい   ずえ     これ  くは   ひでひらみづか しゅりょうのてい ずえ
 秀衡之を建立す。其の堂内の四壁の扉に、觀經Aの大意を圖繪す。之に加へ、秀衡自ら狩獵之躰を圖繪す。

ほんぶつは あみだ   じょうろくなり さんじゅう  ほうとう  いんない そうごん ことごと もつ  うじのびょうどういん  も    ところなり
本佛者阿弥陀の丈六也。三重の寳塔B、院内の莊嚴C、悉く以て宇治平等院を摸する所也。

参考@無量光院は、現在は無く、発掘調査が進んでおり野原に中島の跡と堂跡に礎石を残す。なお、えさし藤原の里に五分の一の復元模型がある。
参考A觀經は、観無量寿経。
参考B
三重の宝塔は、不明。但し平等院には、頼通の娘の四条宮寛子(かんし)建立の多宝塔があったという。
参考C莊嚴は、飾り。

現代語一 無量光院〔新御堂と云います〕について
 藤原秀衡が建立しました。そのお堂の四方の扉には、観無量寿経の内容を絵にして描いています。そればかりか、藤原秀衡の狩猟の様子を絵にをしています。ご本尊は、丈六の阿弥陀様です。三重の宝塔や建物内部の装飾も、全て宇治の平等院を真似しております。

一 鎭守事
 中央惣社。東方日吉。白山兩社。南方祇園社。王子諸社。西方北野天神。金峯山。北方今熊野。稻荷等社也。悉以摸本社之儀。
一 年中恒例法會事
 二月常樂會 三月千部會一切經會
 四月舎利會 六月新熊野會祇園會
 八月放生會 九月仁王會
 講讀師請僧。或三十人。或百人。或千人。舞人卅六人。樂人卅六人也。
一 兩寺一年中問答講事
 長日延命講 弥陀講 月次問答講 正五九月最勝十講等也。
一 舘事〔秀衡〕
 金色堂正方。並于無量光院之北。搆宿舘〔号平泉舘〕西木戸有嫡子國衡家。同四男隆衡宅相並之。三男忠衡家者。在于泉屋之東。無量光院東門搆一郭〔号伽羅御所〕秀衡常居所也。泰衡相継之爲居所焉。
一 高屋事
 觀自在王院南大門南北路。於東西及數十町。造並倉町。亦建數十宇高屋。同院西面南北有數十宇車宿。

読下し

ひとつ ちんじゅ こと
一 鎭守の事

  ちうおうそうしゃ  とうほう   ひえ   はくさんりょうしゃ なんぽう  ぎおんしゃ  おうじしょしゃ  さいほう  きたのてんじん  きんぶせん
 中央惣社。東方に日吉、白山兩社。南方に祇園社、王子諸社。西方に北野天神、金峯山。

  ほっぽう  いまくまの   いなりら  しゃなり  ことごと もつ ほんじゃのよそおい も
  北方に今熊野、稻荷等の社也。悉く以て本社之儀を摸す。

現代語一 平泉を守る鎮守様について
 中央には惣社を、東には日吉神社と白山神社、南には祗薗さんと八王子社、西には北野天神様と金峯山、北には新熊野社とお稲荷様を祀っています。全て本社を真似ております。

ひとつ ねんちうこうれい ほうえ  こと
一 年中恒例の法會の事

  にがつじょうらくえ  さんがつせんぶえいっさいきょうえ  しがつ しゃりえ   ろくがつ いまくまのえ ぎおんえ   はちがつほうじょうえ くがつにんのうえ
 二月常樂會 三月千部會一切經會 四月舎利會 六月新熊野會祇園會 八月放生會 九月仁王會

  こうどくし   しょうそう  ある   さんじうにん  ある   ひゃくにん  ある   せんにん まいびとさんじうろくにん がくじんさんじうろくにん
 講讀師、請僧。或ひは三十人。或ひは百人。或ひは千人。 舞人卅六人。 樂人卅六人也。

現代語一 年間の恒例行事の仏事は、
 二月が常楽会 三月は千部のお経会と一切経会 四月は舎利会 六月は新熊野社と祗薗さんのお祭 八月は放生会 九月は仁王経の会
 お経を読む主役の人「購読師」や、一緒にお経を上げる「請僧」は、三十人。時により百人、千人もいました。神楽を舞う人は三十六人。音楽を奏でる「楽人」は三十六人でした。

ひとつ りょうじ  いちねんちゅう  もんどうこう  こと
一 兩寺の一年中の問答講@の事

  ちょうじつ えんめいこう   みだこう   つきなみ  もんどうこう  しょう ご く がつ   さいしょうじっこうら なり
 長日Aの延命講 弥陀講 月次Bの問答講 正五九月の最勝十講等也。

参考@問答講は、下の者が上の者に質問をする。
参考A長日は、一日中。
参考B
月次は、毎月。

現代語一 両方の寺での年間のお経の解釈を議論する「問答講」について
 一日中休み無く続ける「長日」の延命講 阿弥陀如来の「弥陀講」 毎月の問答講 正月、五月、九月に行う最勝十項などです。

ひとつ たち こと  〔ひでひら〕
一 舘の事〔秀衡〕

  こんじきどう  せいほう  むりょうこういんの きたに なら    しゅくかん 〔ひらいずみ たち   ごう  〕    かま      にしきど   ちゃくしくにひら  いえあ
 金色堂の正方、無量光院之北于並び、宿舘〔平泉の舘と号す〕を搆へる。西木戸に嫡子國衡の家有り。

おな    よんなんたかひら  たく  これ  あいなら  さんなんただひら  いえは  いずみやのひがしにあ
同じき四男隆衡の宅が之に相並ぶ。三男忠衡の家者、泉屋之東于在り。

むりょうこういん  ひがしもん  いっかく  〔きゃらごしょ    ごう 〕     かま      ひでひら  つね  きょしょなり  やすひらこれ  あいつぎ きょしょ な  をはんぬ
無量光院の東門に一郭〔伽羅御所と号す〕を搆へる。秀衡が常の居所也。泰衡之を相継て居所と爲し焉。

現代語一 お屋敷について〔藤原秀衡の分〕
 金色堂の西方、無量光院の北にを並んでおり、館〔平泉の舘と呼びます〕を構えていました。西木戸には嫡男の国衡のいえがあり、同様に四男隆衡の宅が一緒に並んでいました。三男の忠衡の家は、泉屋の東にあります。無量光院の東門の前に一屋敷〔伽羅御所と云います〕を構えていました。そこに、藤原秀衡は普段住んでいました。これは、泰衡が相続して居所にしていました。

ひとつ たかや  こと
一 高屋の事

  かんじざいおういん みなみだいもん なんぼく みち とうざいをすうじゅうまち およ    くらまち  つく  なら
 觀自在王院の南大門の南北の路の東西於數十町@に及び、倉町を造り並べる。

  また  すうじうう    たかや  た     どういん さいめん なんぼく  すうじうう  くるまやどあ
 亦、數十宇の高屋を建て、同院の西面を南北に數十宇の車宿A有り。

参考@南大門の南北の路の東西於數十町は、藤島亥治郎著「古寺再現」(昭和42年発刊)に「この寺の南大門南北路が数十町もない、「町」をチョウと読まずマチと読むと東大教授福山敏雄博士におそわった。南大門と総門の間の南北路の東西には数十の区画の町内があったのであろう。」と推測されている。
参考A車宿は、牛車の車庫と思われ、一部の身分高き人々は都人のように牛車を用いていたと思われる。観自在王院跡地は、寺院以前は基衡夫人の屋敷だったようなので、そのための車庫と推測される。

現代語一 高屋について
 観自在王院の南大門の南北の道(外院)を、東西に数十区画の町内に倉町を作って並べていました。又、数十棟の二階建ても建てており、觀自在王院の西隣には南北に幅30mに数十軒の牛車の車庫「車宿り」もあります。

文治五年(1189)九月小十八日乙亥。秀衡四男本吉冠者高衡爲降人。下河邊庄司召進之。泰衡一方後見熊野別當。上総介義兼召進之。凡殘黨悉以今日獲之給也。粗考先規。康平五年九月十七日。入道將軍家〔頼義〕於此厨河柵。獲貞任。宗任。千世童子等頚給。叶彼佳例。今達宿望給。此等子細。差飛脚被奉消息於京都。其状云。
 追討泰衡事。先日以脚力令言上候訖。而其黨類比爪俊衡法師。同五郎季衡等。燒比爪舘。迯篭奥方候を。即追継候て。厨河と申舘まて。罷着候之間。俊衡法師并季衡等爲降人出來候。注折紙謹進上之。其中俊衡法師者。年齒高候之上。依令受持法花經。宛給本住所て。所令安堵候也。其外輩皆召具て。鎌倉へ可上道候。而其後可進京都候歟。又相計候て。關東住人なとに可預給候歟。何樣可令沙汰候哉。來月内可罷着鎌倉候。又重自鎌倉可令言上候也。以此旨可令洩達給候。頼朝恐々謹言。
  九月十八日      頼朝
 進上  師中納言殿
 私言上
 今年許ハ暫と御制止候を。催軍士不可黙止之間。無左右打入候て。如此令追討泰衡候訖。
 宣旨の候へハ。不及左右候へとも。御氣色恐思給候。又公卿僉議も候けると承候。内々御氣色可仰給候。當時ハ恐入候也。抑前民部少輔基成。并息男三人。所召取候也。彼基成雖非指武士。云平家時。云此時。偏輕 朝威之者ニ候。而其交名不載折紙候事ハ。非指武士候之故也。謹言。
折紙状云
 降人
  本吉冠者高衡〔秀衡法師四男〕
  比爪俊衡法師男三人〔大田冠者師衡。次郎兼衡。河北冠者忠衡〕
  比爪五郎季衡〔俊衡法師舎弟〕男新田冠者經衡
 件輩不漏一人。召調候事者。今月〔九月〕十八日也。仍所令上逹候也。

読下し                                 ひでひら よんなん  もとよしのかじゃたかひらこうじん な     しもこうべのしょうじこれ めししん
文治五年(1189)九月小十八日乙亥。秀衡が四男、本吉冠者高衡降人と爲し、下河邊庄司之を召進ず。

やすひら いっぽう  こうけん くまののべっとう   かずさのすけよしかね これ めししん   およ  ざんとう ことごと もつ  きょうこれ  えたま  なり
泰衡が一方の後見熊野別當は、上総介義兼 之を召進ず。凡そ殘黨 悉く以て今日之を獲給ふ也。

あらあら せんき   かんがえ     こうへいごねんくがつじうしちにち  にゅうどうしょうぐんけ〔よりよし〕 こ  くりやがわのさく をい
 粗、先規を考うるに、康平五年九月十七日、入道將軍家〔頼義〕此の厨河柵に於て、

さだとう  むねとう   ちよ どうじら   くび  えたま     か   かれい  かな    いますくぼう  たつ  たま
貞任、宗任、千世童子等の頚を獲給ふ。彼の佳例に叶ひ、今宿望を達し給ふ。

これら   しさい     ひきゃく  さ     しょうそこを きょうと たてまつらる  そ  じょう  い
此等の子細を、飛脚を差して消息於京都へ奉被る。其の状に云はく。

  やすひらついとう  こと  せんじつかくりき  もつ  ごんじょうせし そうらひをはんぬ
 泰衡追討の事。先日脚力を以て言上令め候訖。

  しか    そ   とうるいひづめのとしひらほっし  おな    ごろうすえひらら    ひづめ   たち  や     おく  かた  のが  こも そうろう
 而るに其の黨類比爪俊衡法師、同じく五郎季衡等、比爪の舘を燒き、奥の方へ迯れ篭り候を、

  すなは お  つ  そうろう   くりやがわ  もう  たち       まか  つ  そうろうのかん  としひらほっしなら   すえひららこうじん    な   い   きた そうろう
 即ち追ひ継ぎ候て、厨河と申す舘まて、罷り着き候之間、俊衡法師并びに季衡等降人と爲し出で來り候。

  おりがみ  ちう  つつし これ  しんじょう
 折紙に注し謹み之を進上す。

  そ   うち   としひらほっしは   ねんしたか そうろうのうえ  ほけきょう  じゅじ せし       よつ    もと すまいどころ  あ  たま   あんどせし そうろうところなり
 其の中、俊衡法師者、年齒高く候之上、法花經を受持令むるに依て、本の住所を宛て給ひ、安堵令め候所也。

  そ   ほか  やからみなめ ぐ      かまくら  じょうどうすべ そうろう しか   そ   ご   きょうと  しん  べ  そうろうか
 其の外の輩皆召し具して、鎌倉へ上道可く候。而して其の後、京都へ進ず可く候歟。

  またあいはか そうろう  かんとう  じうにん など   あず  たま  べ  そうろうか  いかよう   さた せし  べ  そうろうや
 又相計り候て、關東の住人なとに預け給ふ可く候歟。何樣に沙汰令む可く候哉。

  らいげつ  うち  かまくら  まか  つ   べ そうろう  また  かさ    かまくらよ   ごんじょうせし べ そうろうなり このむね  もつ  も  たっさせし  たま  べ  そうろう
 來月の内に鎌倉へ罷り着く可く候。又、重ねて鎌倉自り言上令む可く候也。此旨を以て洩れ達令め給ふ可く候。

  よりともきょうきょうきんげん
 頼朝恐々謹言。

    くがつじうはちにち            よりとも
  九月十八日      頼朝

  しんじょう   そちのちうなごんどの
 進上  師中納言殿

  し   ごんじょう
 私に言上す

  ことしばかりは しばらく おんせいしそうろう ぐんし  もよお   もくし   べからずのかん   とこう な  うちいりそうろう  かく  ごと  やすひら  ついとうせし そうらひをはんぬ
 今年許ハ暫と御制止候を、軍士を催して黙止す不可之間、左右無く打入候て、此の如く泰衡を追討令め候訖。

  せんじ  そうらへば   とこうにおよばすそうらへども    みけしき おそ  おも  たま そうろう また  くぎょうせんぎ そうらひける うけたまはりそうろう
 宣旨の候へハ、左右に不及候へとも、御氣色恐れ思ひ給ひ候。又、公卿僉議も候けると承候。

  ないない  みけしき  おお  たま  べ  そうろう とうじはおそれいりそうろうなり  そもそも さきのみんぶしょうゆうもとなり なら    そくなんさんにん  め   と  ところそうろうなり
 内々の御氣色を仰せ給ふ可く候。當時ハ恐入候也。 抑、 前民部少輔基成、并びに息男三人、召し取る所候也。

  か   もとなりさし     ぶし  あらず  いへど  へいけ  とき  い     こ   とき  い     ひとへ  ちょうい  かろ      のものにそうろう
 彼の基成指たる武士に非と雖も、平家の時と云ひ、此の時と云ひ、偏に朝威を輕んずる之者ニ候。

  しか    そ  きょうみょう おりがみ のせずそうろうことは さし     ぶし    あら   そうろうのゆえなり きんげん
 而して其の交名は折紙に不載候事ハ、指たる武士に非ざる候之故也。謹言。

おりがみ じょう  い
折紙の状に云はく

  こうじん
 降人

    もとよしのかじゃたかひら〔ひでひらほっし よんなん〕
  本吉冠者高衡〔秀衡法師が四男〕参考宮城県本吉郡本吉町。

    ひでめのとしひらほっし おとこさんにん〔おおたのかじゃもろひら じろうかねひら かほくのかじゃただひら
  比爪俊衡法師が男三人〔大田冠者師衡。次郎兼衡。河北冠者忠衡〕

    ひづめのごろうすえひら 〔としひらほっし しゃてい〕  おとこにったのかじゃつねひら
  比爪五郎季衡〔俊衡法師が舎弟〕が男新田冠者經衡

  くだん やから ひとり もらさず めししら そうろうことは こんげつ〔くがつ〕 じうはちにちなり  よつ じょうたつせし そうろうところなり
 件の輩一人も不漏、召調べ候事者、今月〔九月〕十八日也。仍て上逹令め候所也。

現代語文治五年(1189)九月小十八日乙亥。秀衡の四男の本吉冠者高衡は、投降して下河邊庄司行平が囚人として召し連れてきました。泰衡の一方の後見人の熊野社別当は、足利上総介義兼がこれを召し連れてきました。これで、泰衡軍の残党は殆ど今日で捕虜になりました。大雑把に昔の話を思い出してみると、康平五年(1062)九月十七日に、入道将軍〔源頼義〕が、この厨川柵で貞任、宗任、千世童子等の首をとりました。その昔の目出度い例と同様に今、念願を果たされました。この事の詳しい様子を手紙に書いて伝令に持たせ、京都へ報告しました。その手紙の内容は、

 泰時を滅ぼした事は、先日伝令を遣わして申し上げました。しかし、その一族の比爪俊衡法師、弟五郎季衡などは、館に火をつけて北の奥へ逃げ隠れてしまいました。すぐに追いかけて行きましたら、厨川と云う舘で追いつきましたら、俊衡法師と季衡達は降伏してまいりました。これをお手紙に書いて謹んでお届けいたします。その中で、俊衡法師は、高齢者でも有り、法華経を良く拝んでいる人なので、元の住所を宛がい許してあげたのです。その他の連中は、皆引き連れて鎌倉へ帰ります。その後で、京都へ送り届けるつもりでおりますが、或いは朝廷と計って、関東の武士に囚人として預けましょうか。どのように致しましょうかね。来月中には鎌倉へ着くと思いますので、追って鎌倉から改めて便りを致しましょうか。この内容で、上皇様のお耳に入れていただくようにお願いします。

 頼朝恐れながら申し上げます
  九月十八日       頼朝
 お届けします 師中納言吉田経房殿
 私的に申し上げます
 今年は見合わせるようにとの仰せを、軍隊を集めてしまったので、放っておくわけにも行かないので、兎に角奥州へ攻め込んだら、この通り泰衡を滅ぼしてしまいました。朝廷の命令「宣旨」が出たので、問題はないのだけれど、反対していた上皇のご機嫌を気にしております。公卿たちの決議でもそうだったと聞いております。本当のところを内緒で教えてください。
今では恐れ入っておりますよ。しかし、だいたい前民部少輔基成とその息子三人を捕まえたのですよ。この基成はたいして侍ではありませんが、平家合戦の時も、今度の事も、京都朝廷をないがしろにしていた連中です。だから、その名前は、報告書に載せていないのは、たいした武士ではないからなんですよ。宜しく。
お手紙に書き出したのは、
 投降者
  本吉冠者高衡〔秀衡法師が四男〕
  比爪俊衡法師の息子三人〔大田冠者師衡。次郎兼衡。河北冠者忠衡〕
  比爪五郎季衡〔俊衡法師の弟〕の息子 新田冠者経衡
 以上の連中は一人残らず、捕まえて調べましたのは、今月〔九月〕十八日のことです。そこで報告をするんです。

文治五年(1189)九月小十九日丙子。立厨河柵。令還向平泉保給。御逗留厨河七ケ日也。

読下し                                くりやがわのさく た   ひらいずみ ほう  かんこうせし  たま   くりやがわ ごとうりゅうなぬかびなり
文治五年(1189)九月小十九日丙子。厨河柵を立ち、平泉の保へ還向令め給ふ。厨河に御逗留七ケ日也。

現代語文治五年(1189)九月小十九日丙子。(頼朝様は)厨河の柵を立って、平泉の保へ戻って来られました。厨川には七日間おられました。

文治五年(1189)九月小廿日丁丑。奥州羽州等事。吉書始之後。糺勇士等勳功。各被行賞訖。其御下文今日被下之。或先日被定置之。或今所被書下也。而千葉介最前拝領之。凡毎施恩。以常胤可爲初之由。蒙兼日之約者。先國中佛神事。任先規勤仕之。次於金師等。不可成違乱之旨。被仰含于浴恩之輩云々。畠山次郎重忠賜葛岡郡。是狹少之地也。重忠語傍人云。今度重忠雖奉先陣。大木戸之合戰先登爲他人被奪畢。于時雖知子細。重忠敢不確執。是爲令周其賞於傍輩也。今見之。果而皆預數ケ所廣博之恩。恐可謂重忠芳志歟云々。此外面々賞不可勝計。次紀權守。波賀次郎大夫等勳功事。殊蒙御感之仰。但不及賜所領。被下旗二流。被仰可備子孫眉目之由云々。小山下野大掾政光入道郎等保志黒次郎。永代六次。池次郎等。同賜旗弓袋。依勳功之賞下賜之由。所被加銘也。盛時書之。
 文治五年九月廿日云々。

読下し                               おうしゅううしゅうら  こと  きっしょはじめののち  ゆうしら   くんこう  ただ   おのおの しょう おこなはれをはんぬ
文治五年(1189)九月小廿日丁丑。奥州羽州等の事。吉書始之後、勇士等の勳功を糺し、各 賞を行被訖。

そ  おんくだしぶみ きょうこれ  くださる     ある    せんじつこれ さだめおかれ ある    いまか  くださる  ところなり
其の御下文、今日之を下被る。或ひは先日之を定置被。或ひは今書き下被る所也。

しか    ちばのすけさいぜん これ  はいりょう   およ  おん  ほどこ ごと    つねたね もつ  はじめ な   べ   のよし  けんじつのやく  こうむ てへ
而して千葉介最前に之を拝領す。凡そ恩を施す毎に、常胤を以て初と爲す可し之由、兼日之約を蒙る者り。

ま   くにじう  ぶつしん  こと せんき  まか  これ  ごんじ
先ず國中の佛神の事先規に任せ之を勤仕す。

つぎ  こがねしら   をい  いらん な  べからず のむね  おん  よく  のやからに おお  ふく  らる    うんぬん
次に金師等@に於て違乱成す不可之旨、恩に浴す之輩于仰せ含め被ると云々。

はたけやまのじろうしげただ  くすおかぐん  たまは  これきょうしょうのちなり  しげただ かたわら ひと  かた    い
 畠山次郎重忠は、葛岡郡Aを賜る。是狹少之地也。重忠 傍の 人に語りて云はく。

このたび しげただ せんじん たてまつ いへど   おおきどのかっせん  たにん  ため  せんと うばはれをはんぬ
今度、重忠 先陣を奉ると雖も、大木戸之合戰に他人の爲に先登を奪被畢。

ときにしさい  し     いへど   しげただあえ かくしつせず
時于子細を知ると雖も、重忠敢て確執不。

これ  そ  しょうを ぼうはい  あまね せし   ためなり  いまこれ  み       はたしてみなすうかしょ  こうはくの おん  あず
是、其の賞於傍輩に周く令めん爲也。今之を見るに、果而皆數ケ所の廣博之恩に預かる。

おそら しげただ  ほうし   い   べ   か  うんぬん  こ   ほか めんめん しょうあげ  かぞ  べからず
恐く重忠が芳志と謂ふ可き歟と云々。此の外の面々の賞勝て計う不可。

つぎ きいごんのかみ  はがのじろうだいぶら  くんこう  こと  こと  ぎょかんの おお    こうむ   ただ  しょりょう たまは   およばず
次に紀權守。波賀次郎大夫等Bの勳功の事、殊に御感之仰せを蒙る。但し所領を賜るに不及。

はたにりゅう  くだされ  しそん  びもく  そな   べ   のよし  おお  らる    うんぬん
旗二流を下被、子孫の眉目に備う可し之由、仰せ被ると云々。

おやまのしもつけだいじょうまさみつにゅうどう ろうとう ほしのくろのじろう  えいたいのろくじ いけのじろうら  おな    はた  ゆぶくろ  たま
 小山下野大掾政光入道が 郎等の保志黒次郎、永代六次、池次郎等、同じく旗、弓袋を賜はる。

くんこうのしょう   よつ  くだ  たま     のよし  めい  くは  らる ところなり  もりときこれ  か
勳功之賞に依て下し賜はる之由、銘を加へ被る所也。盛時之を書く。

  ぶんじごねんくがつはつか    うんぬん
 文治五年九月廿日と云々。

参考@金師等は、金堀人夫。
参考A
葛岡郡は、旧宮城県玉造郡岩出山町上山里字葛岡。現大崎市岩出山字葛岡。(後の伊達政宗の二箇所目の城)。
参考B紀權守。波賀次郎大夫は、八月十日条に宇都宮左衛門尉朝綱の郎従として出演。俣者なので所領に及ばず旗などの名誉の証となったらしい。

現代語文治五年(1189)九月小二十日丁丑。陸奥の国と出羽の国とを治めたので、為政者としての仕事始めの式典「吉書始」を終えた後で、戦いに頑張った勇士達の手柄の度合いを調べて、表彰を行いました。その手柄の褒美を与える命令書「下文」を与えられました。
一つには、戦の始めの方の手柄を先日書かせて置かれましたし、後からの手柄には、今書かせてお与えになられたのです。そこで、千葉介常胤が一番初めにこれを戴きました。だいたい、ご恩の褒美を与える時は、千葉介常胤をトップにするのは、治承の参陣以来の約束事にしております。まず、国中の神仏へお祈り用の領地などは従来の決め事どおりに寄付をしました。次ぎに金精錬の技を持つ人々を勝手に占有したり、権利を邪魔してはならないと、奥州に領地を貰った者達に、良く言い聞かせました。

畠山次郎重忠は、葛岡郡(岩出山町)を与えられました。この土地は、狭い領地です。畠山次郎重忠がそばに居る同僚に話しました。「今度の戦で、重忠は先頭を任されたけれども、大木戸の合戦に先頭に攻め込む手柄を、他の人に取られてしまった。事情は全て知っているけれど、私はあえてそれをこだわってはいない。それは、褒美が多くの仲間たちに満遍なくいき渡るようにしたからだ。今その人達の恩賞を見ると、なんと皆数箇所の広い領地を貰っている。これは、重忠の配慮だと言ってもいいんじゃないかね。」だとさ。その他に褒美を貰った人達は数え切れませんでした。

次ぎに紀権守。波賀次郎大夫などの手柄については、特にお褒めの言葉を与えられました。しかし、領地を与えるほどではないと、旗二枚を上げられて、子孫の名誉のために納めておきなさいと、おっしゃられましたとさ。小山下野大掾政光入道の家来の、保志黒次郎、永代六次、池次郎たちも、同様に旗や弓をしまう袋などを与えられました。

 手柄として、これを与えられると書き、(頼朝様の)お名を書き加えました。平民部烝盛時がこれを代筆しました。文治九年九月二十日とね。

文治五年(1189)九月小廿一日戊寅。於伊澤郡鎭守府。令奉幣八幡宮〔号第二殿〕瑞籬給云々。是田村麿將軍爲征東夷下向時。所奉勸請崇敬之靈廟也。彼卿所帶弓箭并鞭等納置之。于今在寳藏云々。仍殊欽仰給。於向後者。神事悉以爲御願。可令執行給之由被仰云々。

読下し                                いさわぐんちんじゅふ  をい    はちまんぐう  〔だいにでん    ごう   〕 みずがき  ほうへいせし たま   うんぬん
文治五年(1189)九月小廿一日戊寅。伊澤郡鎭守府に於て、八幡宮@〔第二殿と号す〕瑞籬を奉幣令め給ふと云々。

これ  たむらまろしょうぐん とうい  せい    ためげこう  とき  かんじょうすいけい たてまつ ところのれいびょうなり
是、田村麿將軍東夷を征せん爲下向の時、勸請 崇敬 奉る 所之 靈廟也。

 か きょうおび ところ  きゅうせんなら   むちら これ  おさ  お
彼の卿帶る所の弓箭并びに鞭等之を納め置く。

いまに ほうぞう  あ     うんぬん  よつ  こと  きんぎょう たま
今于寳藏に在りと云々。仍て殊に欽仰し給ふ。

きょうご  をい  は   しんじ ことごと  もつ  ぎょがん  な     しぎょうせし  たま  べ   のよし  おお  らる    うんぬん
向後に於て者、神事 悉く 以て御願と爲し、執行令め給ふ可し之由、仰せ被ると云々。

参考@八幡宮(二宮明神)は、岩手県奥州市水沢区黒石町字小島の石手堰神社

現代語文治五年(1189)九月小二十一日戊寅。伊沢郡鎮守府で、八幡宮〔二宮明神と呼びます〕(石手堰神社いわてい)に瑞垣(社をとりまく垣根)を寄付いたしましたとさ。この神社は、坂上田村麻呂が、東北を制圧するために、下って来た時、勧請し祀った厳かな聖地「霊廟」です。田村麿呂が持参していた弓箭やむちを奉納していきました。今でも宝蔵にあるんだそうです。それなので尚更、崇拝されました。今後については、神様への奉仕は全て私のお祈りとして、勤めるように言いつけましたとさ。

文治五年(1189)九月小廿二日己夘。陸奥國御家人事。葛西三郎C重可奉行之。參仕之輩者。属C重可啓子細之旨。被仰下云々。

読下し                                 むつのくに  ごけにん   こと かさいのさぶろうきよしげ これ  ぶぎょうすべ
文治五年(1189)九月小廿二日己夘。陸奥國の御家人の事、葛西三郎C重 之を奉行可し@

さんしのやからは   きよしげ  ぞく  しさい  もう  べ   のむね  おお  くださる    うんぬん
參仕之輩者、C重に属し子細を啓す可し之旨、仰せ下被ると云々。

参考@葛西三郎C重之を奉行可しは、奥州総奉行。

現代語文治五年(1189)九月小二十二日己卯。「陸奥の国の御家人については、葛西三郎清重が奥州総奉行として)差配すること。陸奥の御家人として鎌倉へ仕えに来る者は、全て清重を通して事情を伺うように」と、仰せになられましたとさ。

文治五年(1189)九月小廿三日庚辰。於平泉巡礼秀衡建立無量光院給。是摸宇治平等院地形之所也。豊前介爲案内者候御供。申云。C衡繼父武貞〔号荒河太郎。鎭守府將軍武則子〕卒去後。傳領奥六郡〔伊澤。和賀。江刺。稗抜。志波。岩井〕去康(嘉カ)保年中。移江刺郡豊田舘於岩井郡平泉。爲宿舘。歴卅三年卒去。兩國〔陸奥。出羽〕有一万余之村。毎村建伽藍寄附佛性灯油田〔矣〕基衡者。果福軼父。管領兩國。又卅三年之後。夭亡。秀衡得父讓。繼絶興廢。蒙將軍 宣旨以降。官祿越父祖。榮耀及子弟。亦送卅三年卒去。已上三代九十九年之間。所造立之堂塔。不知幾千万宇云々。

読下し                                ひらいずみ をい  ひでひらこんりゅう むりょうこういん じゅんれい たま
文治五年(1189)九月小廿三日庚辰。平泉に於て 秀衡建立の 無量光院を巡礼し給ふ。

これ  うじのびょうどういん  ちけい  も     のところなり  ぶぜんのすけ あないじゃ な  おんとも そうら   もう    い
是、宇治平等院の地形に摸する之所也。豊前介案内者と爲し御供に候う。申して云はく。

きよひら けいふ たけさだ 〔あらかわのたろう   ごう  ちんじゅふしょうぐんたけのり  こ  〕 そっきょ  のち  おくろくぐん 〔 いざわ   わが    えさし   ひえぬき  しは    いわい 〕    でんりょう
C衡が繼父武貞〔荒河太郎@と号す。鎭守府將軍武則の子〕卒去の後、奥六郡〔伊澤、和賀、江刺、稗抜、志波、岩井〕を傳領し、

さんぬ かほうねんちう  えさしぐんとよたのたち を いわいぐんひらいずみ  うつ    しゅくかん  な     さんじうさんねん へ  そっきょ
去る 嘉保年中、 江刺郡豊田舘A於岩井郡平泉に移し、宿舘と爲し、卅三年を歴て卒去す。

りょうごく 〔 むつ    でわ 〕    いちまんよのむら  あ     むらごと  がらん  た   ぶっしょうとうゆでん  きふ
兩國〔陸奥、出羽〕に一万余之村有り。村毎に伽藍を建て佛性灯油田を寄附す〔矣〕

もとひらは   かふく ちち す    りょうごく  かんりょう    またさんじうねんののち ようぼう
基衡者、果福父に軼ぎ、兩國を管領し、又卅三年之後に夭亡す。

ひでひら ちち  ゆず    え     た         つ   すた        おこ
秀衡、父の讓りを得て、絶えたるを繼ぎ廢れたるを興すB

しょうぐん せんじ  こうむ   いこう    かんろく  ふそ   こ    えいよう してい  およ    また さんじうさんねん おく そっきょ
將軍の宣旨を蒙りて以降、官祿C父祖に越え、榮耀子弟に及ぶ。亦卅三年を送り卒去す。

いじょうさんだい くじうくねんの かん  ぞうりゅう   ところのどうとう  いくせんまんう   しらず  うんぬん
已上三代九十九年之間、造立する所之堂塔、幾千万宇を不知と云々。

参考@荒河太郎は、岩手県山田町荒河。
参考A江刺郡豐田舘は、江刺市藤里鎌田に東西五十七間南北三十九間を発見。
参考B絶えたるを繼ぎ廢れたるを興すの語は、演説的に良く使われる文句。かつての栄光に戻すのが最良とされる。徳政も一種の元に戻す事で、土地は本来開拓者が本主として、土地神と開拓契約をしたので、田主とも云い、本主に権利を戻す事が理にかなっているとする政治。神領興行令。
参考C官祿は、官職と俸禄。

現代語文治五年(1189)九月小二十三日庚辰。平泉で、藤原秀衡建立したという無量光院へお参りをしました。この建物は宇治の平等院の地形をまねしたものです。奥州の豪族の豊前介実俊が、案内をするためにお供をしました。

彼の言うことには、「清衡の継父の清原武貞〔荒川太郎と呼びます。鎮守府将軍の清原武則の子〕が亡くなった後、陸奥の国の六郡〔伊沢、和賀、江刺、稗貫、志波、岩井〕を相続して、昔の嘉保年中(1094-1096)に、江刺郡豊田の館を平泉に移して宿舎とし、三十三年後に亡くなりました。両国〔陸奥と出羽〕には、一万以上の村があり、村ごとにお寺を建てて燈明を絶やさないよう維持費を寄付しました。

基衡は、父以上に裕福になり、両国を統治して、同様に三十三年後に亡くなりました。藤原秀衡は、父から相続を受け、絶えたのを受け継いで、廃れた寺院を再興しました。将軍の位を与えられてからは、官職の位は父や祖父を越えて、その栄華は子や弟にも分け伝えられまして、又もや三十三年を経て亡くなりました。以上の九十九年間に、建築したお寺のお堂や塔は、数え切れないほどでした。」とさ。

文治五年(1189)九月小廿四日辛巳。平泉郡内檢非違使所事。可管領之旨。葛西三郎C重賜御下文。於郡内。諸人停止濫行。可糺断罪科之由云々。凡C重今度勳功。殊抜群之間。匪奉此等重職。剩伊澤磐井牡鹿等郡已下。拝領數ケ所云々。

読下し                                ひらいずみぐんない けびいしどころ   こと  かんりょうすべ のむね  かさいのさぶろうきよしげ おんくだしぶみ たま
文治五年(1189)九月小廿四日辛巳。平泉郡内の檢非違使所@の事、管領可し之旨、葛西三郎C重、御下文を賜はる。

ぐんない  をい   しょにん  らんぎょう  ちょうじ   ざいか  きゅうだんすべ  のよし   うんぬん
郡内に於て、諸人の濫行を停止し、罪科を糺断可し之由と云々。

およ  きよしげ  このたび  くんこう  こと  ぐん  ぬ  のかん  これら  じゅうしょく たてまつ     あらず
凡そC重、今度の勳功、殊に群を抜く之間、此等の重職を奉るにみに匪、

あまつさ いざわ   いわい  おじから ぐん いか  すうかしょ  はいりょう    うんぬん
剩へ伊澤A、磐井B、牡鹿C等郡已下、數ケ所を拝領すと云々。

参考@檢非違使所は、警察権で後の守護と似ている。
参考A
伊澤は、岩手県奥州市。
参考B
磐井は、岩手県南部磐井郡で、一の関市、平泉町、奥州市前沢区生母。
参考C
牡鹿は、宮城県牡鹿郡で牡鹿半島附近。

現代語文治五年(1189)九月小二十四日辛巳。平泉郡内の治安鎮圧の為の軍司役所の「検非違使所」については、管理監督するように、葛西三郎清重に命令書を与えられました。郡内での武士達の横領を止めさせ、罪を糾明裁断するようにとの事です。なんと、葛西三郎清重の手柄は特に抜群でしたので、この重職を当たられたばかりでなく、なんと伊沢、岩井、牡鹿半島等の郡、数箇所を戴きましたとさ。

文治五年(1189)九月小廿六日癸未。囚人前民部少輔基成父子四人。雖須被召具于鎌倉。非指勇士之間。不及沙汰。且其子細被申京都畢。仍暫被宥置之。追可有左右之旨。被仰含云々。

読下し                                 めしうどさきのみんぶしょうゆうもとなりおやこ よにん すべから かまくらに めしぐさる      いへど
文治五年(1189)九月小廿六日癸未。囚人 前民部少輔 基成父子四人、須く鎌倉于召具被べしと雖も、

さした  ゆうし  あらずのかん  さた  およばず  かつう そ   しさい   きょうと  もうされをはんぬ
指る勇士に非之間、沙汰に不及。且は其の子細を京都へ申被畢。

よつ しばらく これ  なだ  おかれ  おつ  とこう あ   べ   のむね  おお  ふく  らる    うんぬん
仍て暫く之を宥め置被、追て左右有る可し之旨、仰せ含め被ると云々。

現代語文治五年(1189)九月小二十六日癸未。囚人となった前民部少輔基成父子四人は、皆鎌倉へ連行するべきかもしれないけど、たいした武力の有る武士でもないので、処置する必要もない。それでその状況を京都へ報告しておきました。
それなので、暫く許しておいて、後日何か考えようとの事を、命じられておりましたとさ。

文治五年(1189)九月小廿七日甲申。二品歴覽安部頼時〔本名頼義也〕衣河遺跡給。郭土空殘。秋草鎖兮數十町。礎石何在。舊苔埋兮百餘年。頼時掠領國郡之昔。點此所搆家屋。男子者。井殿盲目。厨河次郎貞任。鳥海三郎宗任。境講師官照。黒澤尻五郎正任。白鳥八郎行任等也。女子者。有〔加〕一〔乃〕末陪。中〔加〕一〔乃〕末陪。一〔加〕一〔乃〕末陪也。已上八人男女子宅並簷。郎從等屋圍門。西(南)界於白河關。爲十余日行程。東(北)據於外濱乎。又十余日。當其中央。遥開關門。名曰衣關。宛如函谷。左鄰高山。右顧長途。南北同連峯嶺産業。亦兼海陸。卅余里之際。並殖櫻樹。至于四五月。殘雪無消。仍号駒形嶺。麓有流河而落于南。是北上河也。衣河自北流。降而通于此河。凡官照小松楯。成通〔貞任後見〕琵琶柵等舊跡。在彼巖之間云々。

読下し                                にほん あべのよりとき  〔ほんみょうよりよしなり〕  ころもがわ  ゆいせき  れきらん  たま
文治五年(1189)九月小廿七日甲申。二品安部頼時〔本名頼義也@の衣河の遺跡を歴覽し給ふ。

かくど むな    のこ       あきくさ とざして すうじっちょう そせきいずれ あ   きゅうたい うも  て ひゃくよねん
郭土空しく殘れども、秋草鎖兮數十町。礎石何に在る。舊苔に埋れ兮百餘年。

よりときこくぐん  りゃくりょう   のむかし  こ   ところ てん  かおく   かま
頼時國郡を掠領する之昔。此の所を點じ家屋を搆へ、

だんしは   いどののめくら くりやがわのじろうさだとう とりのうみのさぶろうむねとう きょうこうしかんしょう  くろさわじりのごろうまさとう しろとりのはちろうゆきとう らなり
男子者、井殿盲目、厨河次郎貞任、 鳥海三郎宗任、 境講師官照C、黒澤尻五郎正任、白鳥八郎行任等也。

にょしは    あり 〔が〕 いち 〔の〕   まへ   なか 〔が〕 いち  〔の〕  まへ   いち  〔が〕   いち  〔の〕   まへ なり
女子者、有〔加〕〔乃〕末陪、中〔加〕〔乃〕末陪、一〔加〕〔乃〕末陪也。

いじょう はちにん だんじょし  たく ひさし なら   ろうじゅうら  いえ もん かこ
已上八人の男女子が宅簷を並べ、郎從等が屋門を圍む。

みなみ  しわかわのせきをさかい  じうよにち  こうてい  な     きた  そとがはまをよるかと またじうよにち
は白河關於界Aに、十余日の行程を爲し、北は外濱於據乎B、又十余日。

そ   ちゅうおう  あた    はるか かんもん ひら    な      ころものせき いは
其の中央に當り、遥に關門を開く。名づけて衣關と曰く。

あたか かんこく   ごと    ひだり こうざん  となり   みぎ  ちょうと  かえり   なんぼく おな    ほうりょう つら      さん なりわい
宛も函谷Dの如し。左は高山に鄰し、右は長途を顧み、南北は同じく峯嶺が連ねて、産の業とす。

また かね  かいりくさんじうよりのきわ     さくらぎ  なら  うえ    し ごがつ に いた        ざんせつ き       な     よつ  こまがたのみね ごう
亦、兼て海陸卅余里之際に、櫻樹を並べ殖る。四五月于至るまで、殘雪消ること無し。仍て駒形嶺Eと号す。

ふもと なが   かわありて みなみに お     これきたかみがわなり  ころもがわ きたよ   なが    くだりて こ  かわに つう
麓に流れる河有而南于落ちる。是北上河也。衣河は北自り流れ、降而此の河于通ず。

およ  かんしょう こまつのたて  なりみち 〔さだとう こうけん〕    びわのさく ら   きゅうせき   か   せいがんのあいだ あ     うんぬん
凡そ官照の小松楯F。成通〔貞任が後見〕の琵琶柵G等の舊跡は、彼の巖之間に在りと云々。

参考@安部頼時〔本名頼義也〕は、源頼義が陸奥守で下ってきた時、同名を遠慮して改名した。
参考A西(南)界於白河關は、白河の関は福島県と栃木県の境なので、南の間違いではないか。
参考B(北)據於外濱乎は、外が浜は青森の事なので、北の間違いではないか。45度ずれている。
参考C官照は、良照とも。
参考D函谷は、函谷関で箱根の山の歌に出てくる中国の関所
参考E駒形嶺は、「平泉町の送り火行事「大文字まつり」が(中略)束稲山に連なる駒形峰に赤々と浮かび上がった」と地元のブログにあり、大文字キャンプ場が地図にある。
参考F小松楯は、磐井川。
参考G琵琶柵は、奥州市衣川区並木前の衣川柵跡西200mの川端あたりらしい。

現代語文治五年(1189)九月小二十七日甲申。頼朝様は、安陪頼時〔本名は、頼義です〕の衣川の屋敷跡等を見学して回りました。屋敷の土地ばかりが虚しく残っているが、秋の草ですっかり覆われているのが数十町(数ha)。礎石は何処にあるのだろう。苔に埋もれてしまって百年以上も経つ。頼時が陸奥の国やその各郡を征服していた頃は、ここに屋敷を構えていたんだそうだ。息子達は、井殿盲目、厨川次郎貞任、鳥海三郎宗任、境講師官照、黒沢尻五郎正任、白鳥八郎行任たちです。娘は、有が一の前、中が一の前、一が一の前です。以上の八人の息子娘達が屋敷を並べて、家来達がその周りに守るように住んでいました。

南は白河の関を領土の境として、そこから十数日の行程、北は外ケ浜まで、同様に十数日の行程、その真ん中に当たるので、関所を作りました。これを名付けて衣川の関と云います。丁度中国の函谷関のようです。左には高い山が隣接し、右には大きな川を臨んで、南北には峰峯が続いて、物資を産む生業となっている。そして、陸奥を取り囲む海や山三十余里にぐるっと桜の木を植えたのです。(陸奥の国は)四月五月になるまで、山の残雪が消えてしまうことはありませんので、駒形峰と呼びます。麓に流れている川は、南へ流れ下っています。これが北上川です。衣川は北から流れてきて、この川へ下って合流しています。官照の小松楯(磐井川)。成通〔貞任の後見〕の琵琶柵等の昔の館跡は、あの青い山々の向こうにあったんだとさ。

文治五年(1189)九月小廿八日乙酉。二品專敗泰衡之邊功。飽掌俊衡等歸往。漸還向鎌倉給。被召具之囚人。於所處多被放免之間。所殘卅餘輩也。御路次之間。令臨一山給。被尋其号之處。田谷窟也云々。是田村麿利仁等將軍。奉綸命征夷之時。賊主惡路王并赤頭等搆塞之岩屋也。其巖洞前途。至于北十餘日。鄰外濱也。坂上將軍於此窟前。建立九間四面精舎。令摸鞍馬寺。安置多門天像。号西光寺。寄附水田。寄文云。東限北上河。南限岩井河。西限象王岩屋。北限牛木長峯者。東西三十余里。南北廿余里云々。

読下し                                にほん ほしいまま やすいらのへんこう  やぶ   あ        としひらら  きおう  たなごころ  ようや かまくら  かんこう  たま
文治五年(1189)九月小廿八日乙酉。二品 專に 泰衡之邊功を敗り、飽くまで俊衡等の歸往を掌し、漸く鎌倉へ還向し給ふ。

め   ぐさる   のめしうど   しょしょ  をい  おお  ほうめんさる  のかん  のこ ところさんじうよやからなり
召し具被る之囚人、所處に於て多く放免被る之間、殘る所 卅餘輩也。

おんろじのあいだ   ひと    せいざん のぞ  せし  たまそ   ごう  たず  らる  のところ  たっこくのいわや なり うんぬん
御路次之間、一つの山に臨ま令め給ふ。其の号を尋ね被る之處、 田谷窟@也と云々。

これ  たむらまろ  としひと ら  しょうぐん  りんめい たてまつ  えびす せい   のとき  ぞくしゅ あくろおう なら  あかがしらら とりで かま    のいわやなり
是、田村麿、利仁等の將軍、綸命を 奉り 夷を征する之時、賊主惡路王并びに赤頭等塞を搆える之岩屋也。

そ  いわやどう  ぜんと     きたに いた  じうよにち   そとがはま となるなり
其の巖洞の前途は、北于至り十餘日、外濱に鄰也。

さかのうえしょうぐん こ いわや まえ  をい    きゅうけんしめん  しょうじゃ こんりゅう   くらまでら   も せし     たもんてんぞう  あんち
 坂上將軍 此の窟の前に於て、九間四面の精舎を建立し、鞍馬寺に摸令め、多門天像を安置す。

さいこうじ   ごう    すいでん  きふ      よせぶみ  い
西光寺と号し、水田を寄附す。寄文に云はく。

ひがし きたかみがわ かぎ  みなみ いわいがわ  かぎ   にし  ざおうのいわや  かぎ   きた  うしきながね   かぎ  てへ
東を北上河に限り、南を岩井河に限る。西を象王岩屋に限り、北を牛木長峯に限る者れば、

とうざい さんじより    なんぼく にじうより  うんぬん
東西三十余里、南北廿余里と云々。

参考@田谷窟は、現在は達谷窟と書き、毛越寺から西南西の厳美渓へでる途中にある。大船の田谷の洞窟ではない。

現代語文治五年(1189)九月小二十八日乙酉。頼朝様は、思い通りに泰衡の辺境のたくらみをやぶり、ちゃんと俊衡たちの降伏臣従を掌握し、ほっと一息ついて鎌倉へ帰ります。つれてきた捕虜達も、あちこちで釈放してやったので、未だ残っているのは三十数人です。
帰り道の途中で、一つの聖域に行き会いました。その名を聞いてみると「達谷窟(たっこくのいわや)」だそうです。これは、坂上田村麻呂と藤原利仁達が、桓武天皇の命令を受けて、夷を征伐したときに、悪党の親玉の悪路王とその仲間の赤頭が砦を構えていた岩屋です。その岩屋の先の奥州は、北へ十数日の外ケ浜までになります。
坂上田村麻呂将軍は、この岩屋の前に九間四面のお堂を建立して、鞍馬寺のまねをして、北方の守りである多聞天を祀りました。西光寺と名付け、維持の為の年貢用の水田を寄付しました。その際の寄付状には、東は北上川まで、南は岩井川までとし、西は蔵王岩屋まで、北は牛木長峰までと言っているので、東西が三十数里、南北が二十数里なんだとさ。

十月へ

吾妻鏡入門第九巻   

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