吾妻鏡入門第九巻   

文治五年(1189)己酉十月大

文治五年(1189)十月大一日丁亥。於多賀國府。郡郷庄園所務事。條々被仰含地頭等。就中不可費國郡煩土民之由。御旨及再三。加之被置一紙張文於府廳云々。其状云。
 以庄号之威勢。不可押不當之道理。於國中事者。任秀衡泰衡之先例。可致其沙汰者。
凡奥州御下向之間。自御出鎌倉之日。至于御還向之今。毎日御羞膳盃酒御湯殿各三度。更雖無御懈怠之儀。遂以所不令成民庶之費也。運送上野下野兩國乃貢云々。人以莫不欽仰。又河野四郎通信令持土器。食事毎度用之。榛谷四郎重朝洗乗馬事。日々不怠。是等則今度御旅舘之間。珍事之由。在人口云々。

読下し                               たがのこくふ    をい    ぐんごうしょうえんしょむ  こと  じょうじょう  ぢとう ら  おお  ふく    らる
文治五年(1189)十月大一日丁亥。多賀國府@に於て、郡郷庄園所務の事、條々を 地頭等へ仰せ含めA被る。

なかんづく  こくぐん ついや どみん  わずらわ べからず のよし おんむね さいさん およ    これ  くは  いっし  はりぶみを ふちょう   おかる    うんぬん
就中に、國郡を費し土民Bを煩す 不可之由、御旨 再三に及ぶ。之に加へ一紙の張文於府廳Cに置被ると云々。

そ   じょう  い
其の状に云はく。  

  しょうごうの いせい  もつ    ふとう の  どうり   お         べからず
 庄号之威勢を以て、不當之道理を押しつける不可。

  くにぢう  こと  をい  は  ひでひら やすひらの せんれい まか    そ   さた   いた  べ  てへ
 國中の事に於て者、秀衡、泰衡之先例に任せ、其の沙汰を致す可し者り。

およ おうしゅう ごげこうの かん  かまくら  ぎょしゅつのひよ     ごかんこうの いまに いた       まいにちごしゅうぜん はいしゅ  おゆどの  おのおの さんど
凡そ奥州御下向之間、鎌倉を御出之日自り、御還向之今于至るまで、毎日御羞膳、盃酒、御湯殿を 各 三度。

さら   ごけたいの ぎ な    いへど   つい  もつ  みんしょのついえ な せしめざるところなり  こうづけ  しもつけりょうごく のうぐ   はこ  おく    うんぬん
更に御懈怠之儀無きと雖も、遂に以て民庶之費を成さ令不 所也。上野、下野兩國の乃貢を運び送ると云々。

ひともつ きんぎょうせず なし  また  こうののしろうみちのぶ   かわらけ  も   せし    しょくじ  まいど これ  もち
人以て欽仰不は莫。又、河野四郎通信Dは土器を持た令め、食事に毎度之を用いる。

はんがやつのしろうしげとも じょうば  あら  こと  ひび おこたらず これらすなは このたび  ごりょかんのかん  ちんじのよし   ひと  くち  あ    うんぬん
 榛谷四郎重朝Eは乗馬を洗う事、日々不怠。是等則ち今度の御旅舘之間、珍事之由、人の口に在りと云々。

参考@多賀國府は、宮城県多賀城市市川城前の多賀城。東北本線「国府多賀城駅」下車、北側。南側に国立東北歴史博物館あり。
参考A地頭等へ仰せ含めの地頭は、關東などからの新恩給付の地頭であろう。
参考B土民は、農民。
参考
C府廳は、国府の庁舎。
参考D河野四郎通信は、伊予の人で北條時政の女婿。
参考E榛谷四郎重朝は、横浜市保土ヶ谷区から旭区で、保土ヶ谷区天王町に重朝(秩父一族)勧請の社あり。旭区さちが丘に半谷(はんがや)のバス停有り。

現代語文治五年(1189)十月大一日丁亥。多賀城の陸奥国府で、郡や郷、荘園の管理の事を箇条書きにして地頭達に命令を出されました。中でも特に、国や郡の年貢を無駄遣いして、民百姓を困らせる事のないように、その旨を何度も伝えました。しかしそればかりでなく、一枚のお触書を国府に張り出されましたとさ。その紙面には、

荘園の地頭の名を使って、でたらめな理屈を押し付けてはいけない。陸奥の国内の支配の仕方は、藤原秀衡や泰衡の時代の先例の通りに、指示するようにおっしゃられております。

だいたい陸奥国へ参ってきておられる間は、鎌倉を出発してから、帰りの今まで、毎日ご飯と酒とお風呂は日に三度。まったく抜きにすることはありませんでしたが、とうとう現地調達をして民を困らせるようなことはありませんでした。上野と下野の国から年貢を運んで来させましたとさ。人々が大喜びしないと言うことはありませんでした。
又、河野四郎通信は、かわらけを持ってこさせ、食事にはこの慎ましい道具を使っていました。榛谷四郎重朝は、乗馬を洗う事を日々欠かせませんでした。これ等の話は、今度の旅行の間、珍しい出来事して、人々の口にのぼりましたとさ。

文治五年(1189)十月大二日戊子。囚人佐藤庄司。名取郡司。熊野別當。蒙厚免各皈本所云々。

読下し                              めしうど さとうのしょうじ   なとりのぐんじ  くまののべっとう  こうめん こうむ おのおの ほんじょ かえ   うんぬん
文治五年(1189)十月大二日戊子。囚人佐藤庄司@、名取A郡司、熊野B別當、厚免を蒙り 各 本所へ皈ると云々。

参考@佐藤庄司は、信夫庄。福島県福島市全域らしい。
参考A
名取は、宮城県名取市。
参考B熊野は、宮城県名取市下増田小字熊野。

現代語文治五年(1189)十月大二日戊子。囚人となった佐藤信夫庄司、名取郡司、熊野別当は、許しを受けて、それぞれ自分の領地へ帰りましたとさ。

文治五年(1189)十月大五日辛夘。有手越平太家綱云者。征伐之間。候御共。募其功。可被行賞之由言上。且賜駿河國麻利子一色。招居浪人。可建立驛家云々。仍任申請之旨。被仰下。爲散位親能奉行。早可宛行之趣。下知内屋沙汰人等云々。

読下し                             てごしのへいたいえつな  い   もの あ    せいばつのかん  おんとも  そうら
文治五年(1189)十月大五日辛夘。手越平太家綱@と云う者有り。征伐之間、御共に候う。

そ   こう  つの    しょう おこな らる  べ   のよし ごんじょう
其の功に募り、賞を行は被る可し之由言上す。

かつう   するがのくに まりこ いちむら  たま      ろうにん   まね  お     うまや  こんりゅうすべ    うんぬん
且は、駿河國麻利子A一邑を賜はり。浪人Bを招き居き、驛家を建立可しと云々。

よつ  しんせいのむね  まか          おお  くださる
仍て申請之旨に任せるよう、仰せ下被る。

さんにちかよしぶぎょう  な   はやばや あておこな べ  のおもむき  うちや   さたにんら     げち     うんぬん
散位親能奉行と爲し、早〃と宛行る可し之趣、内屋の沙汰人C等に下知すと云々。

参考@手越平太家綱は、静岡県駿河区手越(静岡の先安倍川を渡った場所)。
参考A
麻利子は、静岡県静岡市駿河区北丸子(手越の先。とろろ汁店で有名)。
参考B浪人は、地頭、名主以外の実務立場の定住性を持っていなかった農民。室町時代には間人(もうと)と呼ばれる。
参考C内屋の沙汰人は、良く分からないので、身分の低い事務方と解釈した。

現代語文治五年(1189)十月大五日辛卯。手越平太家綱と云う武士がおります。奥州征伐の間、御家人としてお供について戦いました。その手柄に恩賞を戴きたいと申し出ました。駿河国の鞠子の一村を戴き、農地にあぶれている民を呼び集めて住まわせ、通信用の馬を置いておく駅馬を経営させたいとのことなんだとさ。
そしたら、頼朝様は申し出を許すとおっしゃられました。中原親能が指揮担当者として、早く命令書を出すように、事務の連中に命令しましたとさ。

文治五年(1189)十月大十一日丁酉。御厩舎人平五新藤次。去夜參着鎌倉。所相具駒十疋也。是先立于御歸着。被進若公御方云々。仍今日。若公於南面覧之。亦爲佐々木次郎奉行。令掃除御所中。還御近々之由。平五等依申之也。

読下し                                みんまやのとねりへいごしんとうじ  いんぬ よ   かまくら  さんちゃく   あいぐ  ところ  こま じっぴきなり
文治五年(1189)十月大十一日丁酉。御厩舎人平五新藤次、去る夜、鎌倉に參着す。相具す所の駒@十疋也。

これ  ごきちゃく に さきだ    わかぎみのおんかた しん らる   うんぬん  よつ  きょう  わかぎみなんめん  をい  これ  み
是、御歸着于先立ち、若公御方に進ぜ被ると云々。仍て今日、若公南面に於て之を覧る。

また   ささきのじろう    ぶぎょう  な    ごしょぢう   そうじ せし    かんご ちかぢかのよし   へいごら これ  もう     よつ  なり
亦、佐々木次郎が奉行と爲し、御所中を掃除令む。還御近々之由、平五等之を申すに依て也。

参考@は、若い馬、又は体高四尺に満たない馬。四尺以上を龍蹄という。

現代語文治五年(1189)十月大十一日丁酉。鎌倉御所の厩務員の平五藤次は、昨夜鎌倉へ帰りつきました。連れて帰ってきたのは若い駒十頭でした。これは、ご帰還よりも先に若君に贈り物をされたんだってさ。
そこで今日、若君は御所の南の公式会見所でこれを見物されました。そのほかに、佐々木仲務丞経高が指揮担当として、御所中を掃除させました。御所様の帰りも近い内になりますよと、平五達が云っているからです。

文治五年(1189)十月大十七日癸夘。御臺所御參詣鶴岡宮。并甘繩神明。是報賽御神拝也。

読下し                                みだいどころ つるがおかぐうなら あまなわしんめい ごさんけい  これほうさい  ごしんぱいなり
文治五年(1189)十月大十七日癸夘。御臺所、鶴岡宮并びに甘繩神明へ御參詣。是報賽の御神拝也。

現代語文治五年(1189)十月大十七日癸卯。御台所政子様は、鶴岡八幡宮と甘縄神明社へお参りにいかれました。これは、奥州征伐の無事な先勝祈願成就のお礼参りです。

文治五年(1189)十月大十九日乙巳。二品於下野國令奉幣于宇都宮社壇給。蓋是非巡道御參詣偏爲御報賽也。則奉寄一庄園。剩以樋爪太郎俊衡法師之一族。爲當社職掌云々。

読下し                                にほん  しもつけのくに をい うつのみやしゃだんに ほうへいせし  たま
文治五年(1189)十月大十九日乙巳。二品、下野國に於て宇都宮社@壇于奉幣令め給ふ。

けだしこれ じゅんどう ごさんけい あらず ひとへ ごほうさい  ためなり  すなは いちしょうえん よ  たてまつ
蓋 是、巡道の御參詣に非、偏に御報賽の爲也。則ち一庄園を寄せ奉る。

あまつさ  ひづめたろうとしひら ほっし の いちぞく  もつ     とうしゃ  しきしょう な      うんぬん
 剩へ 樋爪太郎俊衡A法師之一族を以て、當社の職掌Bと爲すと云々。

参考@宇都宮社は、栃木県宇都宮市馬場通り1-1-1の宇都宮二荒山神社。
参考A樋爪太郎俊衡は、藤原清衡の四男十郎清綱の子。息子三人と弟五郎秀衡その子と九月十五日に投降している。
参考B職掌は、(1)平安時代、中宮職・大膳職などの職で雑務に当たった下級の官吏。(2)中世、社寺で神楽を演ずる役を務めた者。

現代語文治五年(1189)十月大十九日乙巳。二品頼朝様は、下野国(栃木県)の宇都宮の神社へお参りをなされました。
実はこれは、通常の仏教崇拝のお参りではありません。全て今度の先勝祈願成就のお礼参りなのです。直ぐに荘園を一箇所寄進なされました。そればかりか、
樋爪太郎俊衡法師の一族をこの神社の雑務やお神楽の担当にしましたとさ。

文治五年(1189)十月大廿二日戊申。被送愛染王御供米於慈光山。又被下長絹百疋於衆徒之中。是依素願成就也。

読下し                                あいぜんおう  おくま  を じこうさん   おくらる    また  ちょうけん ひゃっぴきを しゅうとのなか  くださる
文治五年(1189)十月大廿二日戊申。愛染王の御供米@於慈光山Aに送被る。又、長絹B百疋於 衆徒之中に下被る。

これ そがんじょうじゅ  よつ  なり
是、素願成就に依て也。

参考@御供米(おくま又はくましね)は、お供えの米だが、そのお経を上げるための坊主の食料にもお金の元にもなる。
参考A慈光山は、慈光寺、埼玉県都幾川村西平。武蔵最古伝白鳳2年(673)。坂東三十三観音霊場九番札所。
参考B長絹糊で張った仕上げの絹布。絹一疋は、幅二尺二寸(約66cm)、長さ五丈一尺(約18m)の絹の反物二反分(一反は幅が半分)。

現代語文治五年(1189)十月大二十二日戊申。愛染明王に祈るためお供えのお米を慈光寺へ送りました。又、絹の反物長絹百疋(二百反)を僧兵達あてに下げ渡しました。これは、奥州征伐の祈願が叶ったからです。

文治五年(1189)十月大廿四日庚戌。申剋。御歸著鎌倉。入御營中之後。未被温座。召因幡前司。被遣御消息於師中納言并右武衛等。其詞云。
 追討奥州泰衡訖。召具彼黨類。今日〔廿四日〕令皈鎌倉候也者。
雜色帶此書。爲飛脚上洛。其後御家人等献盃酒。是豫所儲御所也。可遂出羽國地檢之由。被仰置留守所。御進發之後。地頭等愁申云。地檢之間。可顛門田之旨。留守張行之由云々。仍今日可停止件事之趣。所被遣御書也。
 當國檢注之間。可被倒所々地頭門田之由事。尤驚聞食。於出羽陸奥者。依爲夷之地。度々新制にも除訖。偏守古風。更無新儀。然者。件門田等。何被停發哉。有限公田之外門田者。如年來にて。不可有相違之旨。依鎌倉殿仰。執逹如件。
       十月廿四日              前因幡守
        出羽留守所

読下し                                さるのこく かまくら  ごきちゃく  えいちう  にゅうぎょののち
文治五年(1189)十月大廿四日庚戌。申剋。鎌倉へ御歸著。營中へ入御之後。

いま  ざ   あたた られ     いなばのぜんじ  め    ごしょうそこを そちのちうなごんなら    うぶえい ら   つか  さる    そ  ことば い
未だ座を温め被ずに、因幡前司を召し、御消息於師中納言并びに右武衛等に遣は被る。其の詞に云はく。

  おうしゅう  やすひら ついとう をはんぬ   か  とうるい  め    ぐ     きょう   〔にじうよっか〕  かまくら  かえ   せし  そうろうなりてへ
 奥州@の泰衡を追討し 訖。 彼の黨類を召し具し、今日〔廿四日〕鎌倉へ皈ら令め候也者り。

ぞうしき こ   しょ  お      ひきゃく   な   じょうらく    そ    ご   ごけにん ら  はいしゅ  けん    これ あらかじ ごしょ    もう    ところなり
雜色此の書を帶び、飛脚と爲し上洛す。其の後、御家人等盃酒を献ず。是、豫め御所に儲ける所也。

でわのくに    ちけん   と      べ   のよし   るすどころ   おお  お   らる
出羽國Aの地檢Bを遂げる可し之由、留守所Cに仰せ置か被る。

ごしんぱつののち    ぢとうら  うれ   もう     い         ちけんのかん   もんでん てん   べ   のむね   るす ちょうこうのよし    うんぬん
御進發之後、地頭等愁ひ申して云はく、地檢之間、門田を顛ず可し之旨、留守張行之由と云々。

よつ  きょう  くだん こと   ちょうじすべ のおもむき  おんしょ  つか  さる  ところなり
仍て今日件の事を停止可し之趣、御書を遣は被る所也。

   とうごくけんちゅうのかん  しょしょ   ぢとう   もんでん  たおさるべしのよし   こと   もつと おどろ き      め
 當國檢注之間。所々の地頭Dの門田Eを倒被可之由の事。尤も驚き聞こし食す。

   でわ むつ     をい は   えびす のち た     よつ     たびたび しんせい   のぞ をはんぬ  ひとへ  こふう  まも     さら  しんぎ  な
 出羽陸奥Fに於て者、夷G之地爲るに依て、度々の新制にも除き訖。偏に古風を守り、更に新儀無し。

  しからずんば くだん もんでんら   なん ていはつ され  や  かぎ   あ   くでんのほか    もんでんは    ねんらい  ごと         そうい あ   べからず のむね
 然者、件の門田等、何ぞ停發被ん哉。限り有る公田之外の門田者、年來の如きにて、相違有る不可之旨。

  かまくらどの   おお    よつ    しったつ くだん ごと
 鎌倉殿の仰せに依て、執逹件の如し。

                 じうがつにじうよっか                                さきのいなばのかみ
       十月廿四日              前因幡守

                   でわのるすどころ
        出羽留守所

参考@奥州は、東北の太平洋側。
参考A出羽国は、秋田県(羽後)・山形県(羽前)。
参考B地検は、年貢を取るための田畑を書き出した大田文と現地を確認する。
参考C留守所は、現地代官の職。平安中期以降、国司の遥任化によって新たに国衙(こくが)内に生じた機構。有力な在庁官人が、在京の国司にかわって国務を執行する役所をいう。
参考D所々の地頭は、恐らく預所職(あずかりどころしき)や下司職(げすしき)の者。
参考E
門田(もんでん)は、原作には間田と書かれているが、門田に訂正する(吉川本により黒板勝美氏訂正)。地頭門田とも云い、地頭の屋敷地に所属する田で通常は年貢の対象としない。1説に谷戸田とも云い館の一部として税免除。2説に屋敷内にある田。朝廷では、園地、薗地と云った。江戸時代に分かれて水田を畠、屋敷を畑と云う。また門田は、孫引きだが、安芸の国三入りの荘、熊谷有直譲り状に「一所 五反 もんでん ひんがしのやしきのまへ」(吉川弘文館・豊田武著「武士団と村落」P64)とあるそうなので「もんでん」とかなを振った。
参考F陸奥は、奥州とも青森県・岩手県・宮城県・福島県等の東北の太平洋側。
参考G(えびす)は、関東武士とは種族の違う日本人の意味で、先住民的哀れみが入っており、差別しているわけではない。

現代語文治五年(1189)十月大二十四日庚戌。午後四時頃に、(頼朝様は)鎌倉へご帰還になられました。御所へ入った後、座った場所が体温で暖まらない程性急に大江広元を呼びつけて、手紙を師中納言吉田経房(関東申し次)と右武衛一条能保に出させました。その内容は、

 奥州の藤原泰衡を討伐してしまいました。彼の家来達を引き連れて、今日〔二十四日〕に鎌倉へ戻られましたと云っております。

下っ端の雑用がこの手紙を持って、伝令として京都へ出発しました。その後、御家人達がお酒を献上しましたが、これはお帰りにあわせて前もってお膳を整えて待っていたのです。

出羽国の農地の検査をやり遂げるように、留守所に命じておいてきていましたが、東北を出発した後で現地の地頭が嘆いて云うには、農地検査で門田を一般の田と同じに扱うと留守職が主張したからだとさ。そこで今日、その門田への課税は止めるように、留守職へ命令書を出すようにおっしゃられました。

 この国の検地文書作りに際しては、それぞれの地頭の門田に課税することは、話を聞いて(頼朝様は)お驚きになられました。出羽陸奥の国では、元々夷の土地なので、京都朝廷も新しい制度からは除いて、昔どおりの慣習を守ってきているので、尚更新しい制度を導入するつもりはない。それなので、免税の門田制度をなにゆえ止めようとするのだ。天皇の御支配になっている公領地以外の門田は、今までどおりにして勝手なことをしないように鎌倉殿の命令によって、ここに書き記すことはこの通りである。
      十月十四日     前因幡守大江広元
       出羽国留守所職へ

文治五年(1189)十月大廿五日辛亥。鶴岡別當法眼被參入。依御請也。供僧等同應召。是奥州追討無爲之條。偏答祈祷玄應歟之由。依被賀仰也。次被施沙金帖絹藍摺等云々。

読下し                                つるがおかべっとうほうげんさんにゅうさる   ごしょう  よつ  なり   ぐそうら  おな     めし  おう
文治五年(1189)十月大廿五日辛亥。鶴岡別當法眼參入被る。御請に依て也。供僧等同じく召に應ず。

これ  おうしゅうついとう むい のじょう  ひとへ きとう げんおう   こた     かのよし    が   おお  らる     よつ   なり
是、奥州追討無爲之條、偏に祈祷玄應に答うる歟之由、賀し仰せ被るに依て也。

つぎ  しゃきん ちょうけん   あいずりら   ほどこさる    うんぬん
次に沙金・帖絹@・藍摺等を施被ると云々。

参考@帖絹は、準布準銭ともいい、銭代わりの絹。

現代語文治五年(1189)十月大二十五日辛亥。鶴岡八幡宮の筆頭の法眼が、御所へ参りました。これは頼朝様がお呼びになったからです。お供の坊さん達も同様に呼び出されました。それは、奥州征伐が無事に終了したので、これも坊さん達が懸命に拝んだことへの神様のご利益なのでしょうと、お礼をおっしゃられるためでした。次に砂金・お金の代わりの絹布・藍染の絹などを与えましたとさ。

文治五年(1189)十月大廿六日壬子。自奥州御還向之處。葛西三郎C重母所勞之由。於路次被聞食之間。遣御使於葛西住所。令訪之給。彼使者。今日參着于鎌倉。所勞無指危急事云々。C重奉別仰。爲沙汰鎭奥州條々事。令在國云々。

読下し                                おうしゅうよ    ごかんご  のところ  かさいのさぶろうきよしげ はは しょろうのよし
文治五年(1189)十月大廿六日壬子。奥州自り御還向之處、葛西三郎C重が母所勞之由、

 ろじ    をい  き      め   さる   のかん  おんし を  かさい  じゅうしょ  つか      これ  とぶら  せし  たま
路次に於て聞こし食め被る之間、御使於葛西の住所へ遣はし、之を訪は令め給ふ。

 か   ししゃ   きょう かまくらに さんちゃく   しょろう  さ       ききゅう   こと な    うんぬん
彼の使者、今日鎌倉于參着す。所勞指したる危急の事無しと云々。

きよしげ べつ   おお  うけたまは  おうしゅう  じょうじょう  こと    さた   しず    ため   ざいこく せし   うんぬん
C重別して仰せを奉り、奥州の條々の事を沙汰し鎭めん爲、在國令むと云々。

現代語文治五年(1189)十月大二十六日壬子。東北からの帰り道に、葛西三郎清重のお母さんが病気らしいと、道中の途中で(頼朝様は)聞いたので、使いを葛西の領地へ向けて、見舞いに行かせました。その使いが今日、鎌倉へ着きました。
病気は特に急を要するような事は無いんだそうな。
葛西清重は(頼朝様の)特別な命令を受けて、東北の占領行政を進めて世情を安定させるために、東北に残っているからなんだそうです。

文治五年(1189)十月大廿八日甲寅。景時申云。安藝國大名葉山介宗頼。依伊澤五郎之催。爲奥州御下向御共。率勇士參向之處。於駿河國藁科河邊。聞已御進發之由。自其所歸國訖。自由之至也。無誡御沙汰者。自今以後。傍輩之所思如何云々。仍可被収公宗頼所領等之由。被定云々。

読下し                                  かげとき もう    い        あきのくに だいみょう はやまのすけむねより いさわのごろうのもよおし より
文治五年(1189)十月大廿八日甲寅。景時申して云はく、安藝國の大名葉山介宗頼、伊澤五郎之催に依て、

おうしゅう ごげこう   おんとも  ため   ゆうし   ひき  さんこうのところ  するがのくにわらしながわ へん をい    すで   ごしんぱつ のよし  き
奥州御下向の御共の爲、勇士を率い參向之處、駿河國藁科河@邊に於て、已に御進發之由を聞き、

そ  ところよ   きこく   をはんぬ
其の所自り歸國し訖。

じゆうのいたりなり   いさめ  おんさた  な     ば   いまよ   いご    ぼうはいのおも  ところ いかん     うんぬん
自由之至也。誡の御沙汰無くん者、今自り以後、傍輩之思う所如何にと云々。

よつ  むねより  しょりょうら   しゅうこうされ   べ   のよし   さだ   らる    うんぬん
仍て宗頼の所領等を収公被る可し之由、定め被ると云々。

参考@駿河國藁科河は、静岡市杉尾。

現代語文治五年(1189)十月大二十八日甲寅。梶原平三景時が申し上げるのには、「安芸国(広島県)の大名の葉山介宗頼は、伊沢五郎信光の催促で頼朝様の奥州征伐にお供として参加するために、優れた部下達を連れて向かってきていましたが、駿河国藁科川のあたりで、すでに出発してしまったと聞いて、そこから自分の国へ引き返してしまいました。勝手気ままな行動ですよ。何か罰を与えないと、今後仲間の連中がどう思うでしょうかね」なんだと。
それなので、宗頼の所領を取上げるように、お決めになられましたとさ。

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吾妻鏡入門第九巻   

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