吾妻鏡入門第九巻   

文治五年(1189)己酉十一月小

文治五年(1189)十一月小一日丁巳。供御甘苔十合。令進上京都給。是伊豆國乃貢也。

読下し                                 くご    あまのりじうごう   きょうと  しんじょうせし  たま    これ  いずのくに  のうぐなり
文治五年(1189)十一月小一日丁巳。供御@の甘苔十合。京都へ進上令め給ふ。是、伊豆國の乃貢也。

参考@供御は、天皇の食べるものとして。租は、3%。庸は、年に十日の労働提供。調は、土産物で布は調布。

現代語文治五年(1189)十一月小一日丁巳。天皇家の食べ物として甘海苔十合(一升)を、京都へお届けさせました。これは、伊豆の国の年貢です。

文治五年(1189)十一月小二日戊午。牧六郎政親蒙御氣色。北條殿令申預給。是者与泰衡。依有融通之聞也。

読下し                                まきのろくろうまさちか みけしき  こうむ   ほうじょうどのもう  あず    せし  たま
文治五年(1189)十一月小二日戊午。牧六郎政親 御氣色を蒙る。北條殿申し預から@令め給ふ。

これ ひごろ やすひらと  ゆうづうの きこ  あ     よつ  なり
是日者 泰衡与、融通之聞へ有るに依て也。

参考@申し預からは、親戚なので申し出て預かり囚人(めしうど)として預かる。

現代語文治五年(1189)十一月小二日戊午。牧六郎政親が、頼朝様のご機嫌を損ねました。北条時政殿が申し出て囚人として預かりました。この人は、以前から泰衡と仲が良くて連絡を取り合っていたとの噂があるからです。

文治五年(1189)十一月小三日己未。右武衛飛脚。并先日自奥州所被進之御使等參着。被下御感 院宣之上。降人事。勸賞事。被下仰詞記也。二品太抃悦給云々。
 羂索事。御不審之處。委聞食訖。不廻時日。追罸之條。古今無比類事歟。返々感思食之由。 院御氣色候也。仍執啓如件。
   十月廿四日             太宰權師
  謹上  源二位殿
 奥州降人事
  只可計沙汰也。但於可爲公家御沙汰者。雖不進京都。可被下流罪 官苻歟。可隨重申状。
 勸賞事
  征罸早速。猶々感思食。隨計申可有勸賞。按察使有闕。被任如何。郎從之中。有功之輩可注申。尤可被行其賞也。
次有武衛状。追討無爲事。所被賀申也。又云。依御鬱陶。蒙 勅勘輩。於今者。有宥御沙汰。所謂八月一日。前大藏卿泰經朝臣。前木工頭範季朝臣。可出仕之旨被仰。九月一日。前大納言〔朝方。〕聽本座。出雲守朝經被聽院内昇殿云々。

読下し                                 うぶえい   ひきゃく なら    せんじつ おうしゅうよ  しん  らる  ところのおんしら さんちゃく
文治五年(1189)十一月小三日己未。右武衛が飛脚并びに先日 奥州自り進ぜ被る所之御使等 參着す。

ぎょかん  いんぜん  くださる  のうえ  こうじん  こと  げんしょう こと  おお ことば  き   くださる  なり  にほんはなは べんえつ  たま    うんぬん
御感の院宣を下被る之上、降人の事、勸賞の事、仰せ詞の記@を下被る也。二品太だ抃悦Aし給ふと云々。

  けんさく  こと  ごふしんのところ  くわ    き     め をはんぬ  じにち  めぐらさず ついばつのじょう  ここん   ひるい な   ことか
 羂索の事、御不審之處、委しく聞こし食し訖。時日を廻不、 追罸之條、古今に比類無き事歟。

  かえ  がえ   かん  おぼ  め   のよし  いん みけしきそうろうなり  よつ しっけいくだん ごと
 返す々すも感じ思し食す之由。院の御氣色候也。仍て執啓件の如し。  

       じうがつにじうよっか                         だざいごんのそつ
   十月廿四日             太宰權師

    きんじょう    げんにいどの
  謹上  源二位殿

  おうしゅうこうじん  こと
 奥州降人Bの事

    ただはから さた すべ  なり  ただ  こうけ  おんさた たるべき  をい  は   きょうと  しんぜず いへど   るざい   かんぷ  くださるべ   か
  只計ひ沙汰可き也。但し公家の御沙汰爲可に於て者、京都へ進不と雖も、流罪の官苻を下被可き歟。

  かさ      もうしじょう  したが べ
 重ねての申状に隨う可し。

  げんしょう こと
 勸賞の事

    せいばつさっそく  なおなおかん おぼ  め    はから もう   したが けんじょうあるべ    あぜち   か     あ     にん  らる     いかん
  征罸早速。猶々感じ思し食す。計ひ申すに隨い勸賞有可し。按察使C闕くる有り。任ぜ被ること如何。

  ろうじゅうの うち   ゆうこうのやから ちう  もう  べ     もっと そ   しょう おこな れ   べ   なり
 郎從之中、有功之輩を注し申す可し。尤も其の賞を行は被る可き也。

つぎ  ぶえい   じょうあ    ついとう むい   こと    が   もうさる ところなり
次に武衛の状有り。追討無爲の事を、賀し申被る所也。

また い      ごうっとう   よつ    ちょっかん こうむ  やから  いま  をい  は   なだ   おんさた あ
又云はく、御鬱陶に依て、勅勘を蒙るの輩D、今に於て者、宥めの御沙汰有り。

いはゆる はちがつついたち  さきのおおくらのきょうやすつねあそん  さきのもくのかみのりすえあそん しゅっし すべ  のむねおお  らる
所謂  八月一日、  前大藏卿泰經朝臣、  前木工頭範季朝臣 出仕可し之旨仰せ被る。

くがつついたち さきのだいなごん 〔ともかた〕 ほんざ  ゆる     いずものかみともつね いんない  しょうでん ゆるされ   うんぬん
九月一日、前大納言〔朝方〕本座を聽さるE。 出雲守朝經 院内の昇殿を聽被ると云々。

参考@仰せ詞の記は、後白河法皇が命じた内容を書き記したもの。
参考A抃悦は、手を打って悦ぶこと。非常に喜ぶこと。類似語に抃喜(べんき)。抃舞:手を打って踊り回って喜ぶこと。抃躍(べんやく)。
参考B奥州降人は、奥州合戰の捕虜。
参考C按察使(あぜち)は守を監督する役職(監察)。
参考D勅勘を蒙るの輩は、文治元年(一一八五)十一月大廿六日に義經事件で籠居。
参考E
本座を聽さるは、元の職に返り咲いた。

現代語文治五年(1189)十一月三日己未。右武衛一条能保の伝令と、先日平泉から京都へ使わした使者が一緒に来ました。
後白河法皇のお褒めのお言葉を下さり、平泉の降伏した人の処遇や、ご褒美について、法皇がお話になられた事を書き出して下さいました。頼朝様は、手を打ってお喜びになられました。

 奥州征伐の事について、良く分からずに心配しておられましたが、詳しく報告をお聞きになられました。時間をかけず、あっという間に攻め切ってしまったのは、昔も今も例のないことでしょう。つくづく驚いておられるとの、院のお言葉です。それなので、命じられてこのとおり書きました。
  十月二十四日          太宰権師(吉田経房)
  謹んで差し上げます 源二位殿

 平泉の捕虜について
  そちらで、判断してください。但し、京都朝廷の臣下として裁決するべき者は、京都へ連行しなくても、流罪(島流し)の公文書を出しましょうか。追ってご連絡くだされば、それに合わせます。

 ご褒美について
 すばやい征伐につくづく感じておられます。お考えになった申し出によって、賞をお与えになります。地方統制官の按察使(あぜち)のポストが空いております。任命するのはいかがでしょう。ご家来の内から、特に手柄のある者を書き送って下さい。確実にその表彰を行いますよ。

それから、一条能保の書状もあります。無事な追討をお祝いする言葉です。また追伸で、頼朝様に嫌われて解職されていた公卿の連中のことを、もういいだろうと朝廷で許す決定をされました。それは、八月一日に前大蔵大臣高階泰経と、前木工頭朝経とを、出仕するように法皇が申されました。九月一日には、前大納言朝方の復職も許されました。出雲守朝経の院への昇殿も許されたとの事です。

文治五年(1189)十一月小五日辛酉。自京都被仰下之趣。爲被申御返事。殊有其沙汰。

読下し                                 きょうと よ  おお  くださる のおもむき  ごへんじ  もうされ  ため  こと  そ   さた あ
文治五年(1189)十一月小五日辛酉。京都自り仰せ下被る之趣、御返事を申被ん爲、殊に其の沙汰有り。

現代語文治五年(1189)十一月小五日辛酉。京都からの手紙の内容に対して、返事を書くため、特にその検討がありました。

文治五年(1189)十一月小六日壬戌。武衛飛脚皈洛。被付遣師中納言御報。勸賞事所被辞申也。御家人中。有勳功之輩。追可被注申之趣。被載之云々。

読下し                                 ぶえい  ひきゃく きらく    そちのちうなごん  つか    ごほう  ふせら
文治五年(1189)十一月小六日壬戌。武衛が飛脚皈洛す。師中納言に遣はす御報を付被る。

けんじょう  こと じ  もうさる  ところなり  ごけにんちう    くんこう あ   のやから  おつ  ちう  もうさる  べ  のおもむき これ  の   らる   うんぬん
 勸賞の事辞し申被る所也。御家人中に、勳功有る之輩。追て注し申被る可し之趣、之を載せ被ると云々。

現代語文治五年(1189)十一月小六日壬戌。一条能保の伝令が京都へ帰ります。師中納言吉田経房への返事を託しました。ご褒美については、辞退すると申し上げました。御家人の内で、手柄のあるものについては、追って書き出しますとの内容を、書かれたんだとさ。

文治五年(1189)十一月小七日癸亥。因幡前司廣元爲御使可上洛云々。是日來有其沙汰。今日已治定云々。征奥州之後。可令所務給條々被申之。勸賞事。固被辞申。亦御家人勳功事可注申有功輩之由。有 院宣。可被行賞故歟。辞申之上者。不及子細。但勇士者。臨戰塲以施武威爲先途。以此次。其名達 上聽之條。可爲其身眉目之間。雖可注姓名。且乍辞申賞。令注進之者。縡与意似相違。且如注進折紙。若被継加記録等者。永留代々。及後見之時。被漏名字輩之子孫。不顧先祖無軍忠。定貽恨歟。旁無所據之由。謁師卿并右武衛之時。内々可申出之旨。被仰因州云々。

読下し                                いなばのぜんじひろもと おんし  な  じょうらくすべ   うんぬん  これひごろ そ   さた あ
文治五年(1189)十一月小七日癸亥。因幡前司廣元御使と爲し上洛可しと云々。是日來其の沙汰有り。

きょうすで  ちじょう    うんぬん
今日已に治定すと云々。

おうしゅう せい    ののち  しょむ せし  たま  べ    じょうじょう  これ  もうさる    けんじょう こと  かた  じ   もうさる
奥州を征する之後、所務令め給ふ可きの條々、之を申被る。勸賞の事、固く辞し申被る。

また  ごけにん   くんこう  こと  こう あ  やから  ちう   もう  べ   のよし  いんぜん あ    しょう   おこなわ  べ    ゆえか
亦、御家人が勳功の事、功有る輩を注し申す@可し之由、院宣有り。賞を行被る可しの故歟。

じ   もう   のうえは    しさい  およばず  ただ  ゆうしは   せんじょう のぞ   ぶい   ほどこ   もつ  せんと   な
辞し申す之上者、子細に不及。但し勇士者、戰塲に臨み武威を施すを以て先途と爲す。

こ   ついで  もっ    そ   な  じょうちょう たつ    のじょう   そ   み   びもく たるべ   のかん  せいめい ちう   べ    いへど
此の次を以て、其の名を上聽に達する之條、其の身の眉目爲可き之間、姓名を注す可しと雖も、

かつう しょう  じ   もう   なが    これ  ちうしんせし  ば   こと と い   そうい       に
且は賞を辞し申し乍ら、之を注進令め者、縡与意と相違するに似たり。

かつう おりがみ ちうしん    ごと    も   きろく など  つ   くわ  らる  ば   なが  だいだい とど      こうけん  およ  のとき
且は折紙に注進する如く、若し記録等に継ぎ加へ被れ者、永く代々に留まり、後見に及ぶ之時

みょうじ  も   さる    やからのしそん    せんぞ かえりみず ぐんちゅう な   さだ    うら  のこ    か
名字を漏ら被るの輩之子孫は、先祖を不顧、軍忠無きを定めて恨み貽さん歟。

かたがた よんどころな  のよし  そちのきょう なら   うぶえい   えつ    のとき  ないない  もう  いだ  べ   のむね  いんしゅう おお  らる   うんぬん
 旁、 據所無き之由、 師卿 并びに右武衛に謁する之時、内々に申し出ず可き之旨、因州に仰せ被ると云々。

参考@注し申すは、書いて提出する。

現代語文治五年(1189)十一月小七日癸亥。因幡前司(大江)広元が使者として京都へ行きましたとさ。この話は、色々検討されて来ましたが、今日決定しましたとさ。
奥州平泉を征服したので、この後に処理すべき色々な事を箇条書きにして報告します。ご褒美については、固く辞退を申し上げます。
又、御家人の手柄については、手柄の有る連中の名を書き出すように、院からの手紙にあるのは、表彰をするつもりなのでしょう。辞退したのだから、詳しく言う必要はない。但し、勇敢な武士は、戦場で心懸けるのは一番乗りなので、話のついでにその名を上皇のお耳に入れれば、それだけでも充分に名誉な事なので、名前を書き出せと云っているけど、表彰を辞退しながらその名前を書き出すのは、言行一致しない行為である。それに、手紙に書き出して提出したならば、もしも朝廷の公文書に載せられ伝えられたら、時代が先へ行って検分した時に、名前を載せられなかった連中の子孫は、先祖を思い浮かべても、手柄が無かった事を恨みに思うであろう。そう云う訳なのでやりようがないと、師中納言吉田経房や一条能保の面会したときに、内々に伝えるように、(大江)広元におっしゃられました。

説明御家人の勲功の賞は、書いて提出しろといっているが、書類が残るので書き忘れた連中の子孫は先祖を恨んだりするといけないので、經房や能保に合ったときに口頭で告げればよい。なまじいに名前を書き送ると、それを使って後白河が策略をするので警戒している。

文治五年(1189)十一月小八日甲子。因幡前司廣元爲使節上洛。諸人莫不餞送。龍蹄百餘疋云々。二品賜鞍馬十疋。於京都爲令送人々也云々。又被奉綿千兩於 仙洞。是駿河國富士郡濟物也。」
葛西三郎C重依被仰付奥州所務事。還御之時不令供奉。所留彼國也。仍今日條々有被仰遣事。先國中。今年有稼穡不熟愁之上。二品相具多勢。數日令逗留給之間。民戸殆難安堵之由。就聞食。平泉邊殊廻秘計沙汰。可被救窮民云々。仍岩井伊澤柄差。以上三ケ郡者。自山北方可遣農料。和賀部貫兩郡分者。自秋田郡可被下行種子等也。近日則雖可有沙汰。當時依爲深雪。可有其煩歟。明春三月中。可被施行。且兼日可相觸土民等者。次稱故佐竹太郎子息等。有泰衡同意之者。合戰敗北之時。逐電訖。守路次宿々。可搦進者。次泰衡幼息。不被知食在所。可尋進之。彼名字爲若公御同名。可令改名者。次大田冠者師衡失乗馬〔鴾毛。〕之間。頻訴申之。可令尋進之旨。於奥州被仰C重。還御之處。已尋進之間。尤神妙之由云々。次所領内立市事。有御感。凡國中靜謐之由。聞食神妙也云々。次老母之勞。於今者無殊事。不可有皈國之思。能可警固國中云々。

読下し                                いなばのぜんじひろもと しせつ な  じょうらく    しょにん はなむけ おくらざる  な   りゅうてい ひゃくよひき  うんぬん
文治五年(1189)十一月小八日甲子。因幡前司廣元使節と爲し上洛す。諸人 餞を 送不は莫し。龍蹄@百餘疋と云々。

にほん あんめ じっぴき  たま    きょうと  をい  ひとびと  おく  せし   ためなり  うんぬん  また  わたせんりょうを せんとう たてまつらる
二品鞍馬十疋を賜う。京都に於て人々に送ら令めん爲也と云々。又、綿千兩於 仙洞に奉被る。

これ するがのくにふじぐん  さいもつなり
是駿河國富士郡Aの濟物也。」

参考@龍蹄は、体高四尺以上の立派な馬。以下は駒という。
参考A駿河國冨士郡は、公領で、浅間神社が領家、北條義時が預人。

かさいのさぶろうきよしげ  おうしゅうしょむ  こと  おお  つ   らる    よつ    かんご の とき ぐぶせしめず  か   くに  とど   ところなり
 葛西三郎C重、 奥州所務の事を仰せ付け被るに依て、還御之時供奉不令。彼の國に留まる所也。

よつ  きょう じょうじょう おお つか  さる  ことあ
仍て今日 條々 仰せ遣は被る事有り。

ま   くにじう  ことし かしょく ふじゅく   うれ  あ   のうえ   にほん たぜい  あいぐ     すうじつとうりゅうせし  たま  のかん  みんこほとん あんど  がた   のよし
先づ國中に今年稼穡不熟Bの愁い有る之上、二品多勢を相具し、數日逗留令め給ふ之間、民戸殆ど安堵し難き之由、

 き      め     つ    ひらいずみ へん  こと  ひけい   さた   めぐ      きゅうみん  すく  らる  べ     うんぬん
聞こし食すに就き、平泉の邊、殊に秘計の沙汰を廻らし、窮民を救は被る可しと云々。

よつ  いわい  いざわ  えさし  いじょう さんかぐんは   せんぼく  ほうよ   のうりょう つか    べ
仍て岩井、伊澤、柄差の以上三ケ郡者、山北Cの方自り農料Dを遣はす可し。

 わが   ひえぬき りょうぐん  ぶんは   あきたぐんよ   しゅしら   げぎょうさる  べ   なり
和賀E、部貫F兩郡の分者、秋田郡自り種子等を下行被る可き也。

きんじつ すなは さた あ   べ     いへど   とうじ ふかゆきたる  よつ    そ わずら あ   べ   か  みょうしゅん さんがつちう    せぎょうさる  べ
近日、則ち沙汰有る可しと雖も、當時深雪爲に依て、其の煩ひ有る可き歟。明春 三月中に、施行被る可し。

かつう けんじつ  どみんら  あいふ  べ   てへ
且は兼日に土民等に相觸る可し者り。

つぎ  こさたけのたろう    しそくら   しょう    やすひら  どうい     のもの あ
次に故佐竹太郎Gが子息等と稱し、泰衡に同意する之者有り。

かっせんはいぼくのとき  ちくでん をはんぬ ろじ しゅくしゅく  まも     から  しん  べ   てへ
合戰 敗北之時、逐電し訖。路次の宿々を守り、搦め進ず可し者り。

つぎ  やすひら ようそく  ざいしょ  し     められず   これ  たず  しん  べ
次に泰衡が幼息、在所を知ろし食被不。之を尋ね進ず可し。

か   みょうじ  わかぎみ  ごどうめい  な      な  あらた せし  べ   てへ
彼の名字、若公と御同名を爲す。名を改め令む可し者り。

つぎ おおたのかじゃもろひら  じょうば 〔つきげ〕   うしな  のかん  しきり これ  うった  もう
次に大田冠者師衡が乗馬〔鴾毛〕を失う之間、頻に之を訴へ申す。

たず  しん  せし  べ   のむね  おうしゅう を    きよしげ  おお  らる    かんごのところ  すで  たず  しん    のかん  もっと しんみょうのよし  うんぬん
尋ね進ぜ令む可し之旨。奥州に於けるC重に仰せ被る。還御之處、已に尋ね進ずる之間、尤も神妙之由と云々。

つぎ  しょりょう  うち  いち  た     こと  ぎょかん あ    およ  くにじうせいひつの よし  き     め   しんみょうなり  うんぬん
次に所領の内に市を立てる事、御感有り。凡そ國中靜謐之由、聞こし食し神妙也と云々。

つぎ  ろうぼ の いたわ    いま  をい  は こと    ことな     きこく の おも   あ  べからず  よくよく くにじう  けいご すべ    うんぬん
次に老母之勞り、今に於て者殊なる事無し。皈國之思い有る不可。 能、國中を警固可しと云々。

参考B稼穡不熟は、飢饉。
参考C
山北は、仙北郡。
参考D
農料は、種子。
参考E
和賀は、岩手県岩手郡。岩手県西部。
参考F
部貫は、岩手県稗貫郡。岩手県中央西。
参考G故佐竹太郎は、義政で治承四年(1180)十一月四日条佐竹攻めの際、上総權介廣常に命じてだまし討ちにしている。

現代語文治五年(1189)十一月小八日甲子。因幡前司(大江)広元が派遣員として、京都へ上ります。皆、お餞別を送らない人はありませんでした。立派な馬が百頭以上です。頼朝様は、鞍置き馬十頭を与えました。京都に着いたら公卿の連中に贈るためです。又、綿(絹綿、真綿)千両を法皇にお贈りになられました。これは、駿河国の納税分です。

一方、葛西三郎清重は、奥州の総奉行を仰せ付けられたので、頼朝様の鎌倉への帰りにはお供をせず、奥州に駐屯しています。そこで今日、数々の命令する事をまとめられました。まずは、陸奥の国中でお米が不作の心配がある上に、頼朝様が大勢を引き連れて、数日も逗留されたので、農民達はおびえて安心して農作業につけないと、聞いているので、平泉の辺りでは、特に何か策を練って、困っている農民を救うようにとの事です。そこで、岩井、伊沢、柄差の三郡には、出羽の仙北郡から種籾を運ばせなさい。和賀、稗貫の二郡は、出羽の秋田郡から種籾を与えなさい。すぐに実施させたいのだけれど、今は深雪の季節なので大変であろうから、明春の三月に実施しなさい。それを農民達に知らせておきなさい。

次ぎに故佐竹太郎義政の子供だと名乗って、泰衡に味方をしている者が居る。合戦で負けた時に行方をくらましてしまった。街道沿いの宿場を抑えて、捕まえてしまうように云われました。

次ぎに泰衡の幼い子供達の行方が分かりません。これを捜して見つけなさい。名前が若君(万寿)と同じなので、改名させなさい。

次ぎに大田冠者師衡の乗馬〔つき毛〕が居なくなってしまったと、盛んに訴えてきている。捜して見つけてあげるように、奥州平泉の葛西三郎清重に命じられてきました。鎌倉へ帰ってきてみたら、既に見つけて送ったとの事なので、とても感心なさいましたとさ。

次ぎに所領の内で市を立てる事も、お喜びなされました。すでに奥州では国中が静かに落ち着いた様子をお聞きになり、ほっとなされましたとさ。

次ぎに葛西三郎清重の老いたる母への労わりの思いについては、現在では特に何もなく無事なので、心配で帰ろうなんて思ってはいけません。よおく、国中を管理しなさいとの事だとさ。

文治五年(1189)十一月小十七日癸酉。雪降。巳以後属リ。二品爲歴覽鷹塲。出大庭邊給。野徑催興之間。令到澁谷庄給。及昏黒。狐一疋走御馬前。數十騎相逢於左右。二品令挿鏑給。爰千葉四郎胤信郎從号篠山丹三者。弓箭達者也。引弓合鐙。進寄於御駕右。此間。与御矢同時發之處。御矢不中之。丹三之箭中狐之腰。二品乍知食。被發御聲。于時篠山一瞬之程。下馬取替御箭於己矢立狐。堤之持參。二品則令問彼名字於胤信給。其後入御澁谷庄司許。先有御酒宴。重國經營尽美云々。

読下し                                   ゆきふ    み いご はれ  ぞく    にほん たかば  れきらん   ため  おおば  あた    い   たま
文治五年(1189)十一月小十七日癸酉。雪降る。巳以後リに属す。二品鷹塲を歴覽せん爲、大庭@の邊りに出で給ふ。

やけい きょう もよお  のあいだ しぶやのしょう  いた  せし  たま
野徑 興を催す之間、 澁谷庄Aに到ら令め給ふ。

こんこく  およ   きつねいっぴき ごばぜん  はし   すうじっき さう を あいあ     にほん かぶら  たば  せし  たま
昏黒に及び、狐一疋御馬前を走る。數十騎左右於相逢う。二品、鏑Bを挿さ令め給ふ。

ここ  ちばのしろうたねのぶ  ろうじゅう ささやまたんざ  ごう  もの  きゅうせん たっしゃなり
爰に千葉四郎胤信が郎從で篠山丹三Cと号す者、弓箭の達者也。

ゆみ  ひ  あぶみ あわ   おんが   みぎ  をい  すす  よ
弓を引き鐙を合せ、御駕の右に於て進み寄る。

かく あいだ  おんやと どうじ   はつ   のところ  おんや  これ  あたらず  たんざのや  きつねの こし  あた
此の間、御矢与同時に發する之處、御矢は之に不中。丹三之箭は狐之腰に中る。

にほん し     め   なが    おんこえ  はつ  らる
二品知ろし食し乍ら、御聲を發せ被る。

ときに ささやまいっしゅうのほど  げば  おんやを おのれ とりかえ  や  きつね た    これ  ささ  も   まい
時于篠山一瞬之程に下馬し御箭於己と取替へ矢を狐に立て、之を堤げ持ち參る。

にほん すなは か   みょうじを たねのぶ  と   せし  たま

二品、則ち彼の名字於胤信に問は令め給ふ。

そ   ご しぶやのしょうじ  もと  にゅうぎょ   ま   ごしゅえん あ     しげくに  けいえい び   つく    うんぬん
其の後澁谷庄司の許へ入御す。先ず御酒宴有り。重國が經營美を尽すと云々。

参考@大庭は、藤沢市大庭(湘南ニュータウン)。
参考A
澁谷庄は、小田急江ノ島線「高座渋谷」駅周辺。
参考Bは、鏑矢のこと。
参考C篠山丹三は、常陸国篠山郷、茨城県下館市御所宮。

現代語文治五年(1189)十一月小十七日癸酉。雪が降りましたが、巳の刻(午前十時頃)以後は晴れました。頼朝様は、鷹狩の猟場を見歩くために、大庭の辺りにお出かけになられました。野山の風情を楽しんでいるうちに、渋谷庄までおいでになられました。
日が暮れて暗くなった頃に、狐が一匹馬の前を横切りました。数十騎がこれを囲みました。頼朝様は、鏑矢を構えました。そしたら、千葉(大須賀)四郎胤信の家来の篠山丹三と云う弓の名人が、弓を引いて鐙に立ち上がり屈伸して調子を合わせ、頼朝様の馬の右側に進み寄って来ました。
そして、頼朝様と同時に矢を発射したところ、頼朝様の矢は当たらないで、丹三の矢が狐の腰に当たりました。頼朝様は、承知の上で当ったと奇声を上げられました。そしたら、篠山は一瞬の間に馬から降りて、頼朝様の矢と取り替えて狐に差し立てて、これを手にぶら下げて見せました。頼朝様は、すぐにその名を大須賀四郎胤信にお聞きになられました。
その後、渋谷庄司重国の屋敷へ入られました。まず宴会がありました。重国の用意した料理などは、ぜいを尽くしたものでしたとさ。

文治五年(1189)十一月小十八日甲戌。還御鎌倉。重國進御引出物。御馬一疋。鷲羽。桑脇息一脚等也。乗燭之程。入御營中後。仰千葉四郎胤信。召篠山丹三。可候恪勤之由被仰含。是昨日所爲。御感之餘也。

読下し                                    かまくら  かんご    しげくにおんひきでもの  しん   おんうまいっぴき  わしのはね  くわ きょうそく いっきゃくらなり
文治五年(1189)十一月小十八日甲戌。鎌倉へ還御す。重國御引出物を進ず。御馬一疋、 鷲羽、 桑の脇息 一脚等也。

へいしょく のほど えいちう  い   たま   のち  ちばのしろうたねのぶ  おお      ささやまたんざ  め      かくごん  そうら べ    のよしおお  ふく  らる
乗燭@之程、營中へ入り御うの後、千葉四郎胤信に仰せて、篠山丹三を召し、恪勤に候うA可し之由仰せ含め被る。

これ  さくじつ  しょい  ぎょかんの あま  なり
是、昨日の所爲を御感之餘り也。

参考@乗燭は、明かりをつける時間、つまり夕方。
参考A恪勤に候うは、直属の部下に。領地のない人が大倉御所に住み着いて1日あたり玄米五升の年俸で勤務する。

現代語文治五年(1189)十一月小十八日甲戌。鎌倉へ帰られました。渋谷庄司重国は、引き出物を差し上げました。馬が一頭。鷲の羽、桑の木で作った肘掛の脇息一台です。灯りを点ける時間になって、御所へお着きになられた後で、千葉大須賀四郎胤信に命じて、篠山丹三を呼び出し、御所に勤務する恪勤になるように、言い聞かせました。これは、昨日の行為をお感じになられたからです。

文治五年(1189)十一月小廿三日己夘。冴陰。終日風烈。入夜。大倉觀音堂回祿。失火云々。別當淨臺房見煙火涕泣。到堂砌悲歎。則爲奉出本尊。走入焔中。彼藥王菩薩者。爲報師徳燒兩臂。此淨臺聖人者。爲扶佛像捨五躰。衆人所思。万死不疑。忽然奉出之。衲衣纔雖焦。身躰敢無恙云々。偏是火不能燒之謂歟。

読下し                                   さ    くも  しゅうじつかぜはげ   よ   い     おおくらかんのんどう かいろく   しっか  うんぬん
文治五年(1189)十一月小廿三日己夘。冴え陰る。終日風烈し。夜に入り、大倉觀音堂@回祿す。失火と云々。

べっとうじょうだいぼう  えんか  み   ていきゅう   どう  みぎり いた   ひかん    すなは ほんぞん いだ たてまつ ため ほのお なか  はし  い
別當淨臺房、煙火を見て涕泣し、堂の砌に到りて悲歎す。則ち本尊を出し奉らん爲、焔の中へ走り入る。

 か   やくおうぼさつ は   しとく   ほう    ためりょうび  や       こ じょうだいしょうにんは  ぶつぞう  たす   ため ごたい  す
彼の藥王菩薩A者、師徳に報ぜん爲兩臂を燒かれ。此の淨臺聖人者、佛像を扶けん爲五躰を捨つる。

しゅうじん おも ところ  ばんし うたがわざる  こつぜん  これ  いだ たてまつ  のうえわずか こ      いへど   しんたいあえ つつがな   うんぬん
衆人の思う所、万死を不疑に、忽然と之を出し奉る。衲衣纔に焦げると雖も、身躰敢て恙無しと云々。

ひとへ これ  ひ   や     あたはずの いは  か
偏に是、火も燒くに不能之謂れ歟。

参考@大倉觀音堂は、鎌倉の杉本寺。坂東三十三觀音一番札所。
参考A薬王菩薩は、法華経の薬王菩薩本事品では、薬王菩薩の前世は、一切衆生喜見菩薩といい日月浄明徳如来(仏)の弟子だった。この仏より法華経を聴き、楽(ねが)って苦行し、現一切色身三昧を得て、歓喜して仏を供養し、ついに自ら香を飲み、身体に香油を塗り焼身した。ウィキペディアから

現代語文治五年(1189)十一月小二十三日己卯。冷えた曇り空です。一日中風が激しく吹いていました。夜になって、大倉観音堂が火事になりました。失火だそうです。
責任者の浄台坊は、煙を見て泣きながら、お堂のそばまで来て悲観しました。直ぐに本尊を運び出さなければと、炎の中へ走って入りました。
彼の国の薬王菩薩は、仏教に尽くすために両肩を焼かれたが、この浄台上人は、仏像を助けるためにおのが身を投じた。見ていた人々は、絶対に死ぬのは疑いない事だろうと思いましたが、にわかに仏像を抱き出しました。衣がわずかに焦げては居ますが、体はなんとも無かったのでした。これは、仏様は火にも焼かれないとの謂れでしょうかね。

文治五年(1189)十一月小廿四日庚辰。北條殿下向伊豆國。是奥州征伐之後。可建立一伽藍之由。六月御立願之間。已於北條及其沙汰。仍爲奉行云々。

読下し                                   ほうじょうどのいずのくに  げこう     これ おうしゅう せいばつののち  いちがらん  こんりゅううすべ  のよし
文治五年(1189)十一月小廿四日庚辰。北條殿伊豆國へ下向す。是、奥州 征伐之後、 一伽藍@を建立可し之由、

ろくがつ  ごりゅうがんのあいだ  すで  ほうじょう をい  そ   さた   およ    よつ  ぶぎょうた    うんぬん
六月に御立願之間已に北條に於て其の沙汰に及ぶ。仍て奉行爲りと云々。

参考@一伽藍は、伊豆の国市韮山町の願成就院。

現代語文治五年(1189)十一月小二十四日庚辰。北条時政殿は、伊豆國へ行かれました。これは、奥州征伐がうまくいったら、お寺を一つ建立しますと、六月に願掛けをしたのが、すでに伊豆の北条で実施されています。その指揮者としての事だそうです。

十二月へ

吾妻鏡入門第九巻   

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