吾妻鏡入門第十巻   

文治六年(1190)庚戌二月〔四月十一日改元建久元年

文治六年(1190)二月大一日乙酉。於鶴岳廻廊被讀誦大般若經。供僧等奉仕。

読下し                   つるがおか かいろう をい だいはんにゃきょう どくしょうさる   ぐそうら ほうし
文治六年(1190)二月大一日乙酉。鶴岳の廻廊に於て大般若經を讀誦被る。供僧等奉仕す。

現代語文治六年(1190)二月大一日乙酉。鶴岡八幡宮寺の回廊で、大般若経を声を上げて唱える読誦をしました。八幡宮寺に仕える坊さん達が奉仕しました。

文治六年(1190)二月大二日丙戌。貢馬二十疋被進京都。解文等可付申右兵衛督〔能保〕之由云々。

読下し                     くめ  にじっぴき  きょうと  しん  られ     げぶみ ら うひょうえのかみ 〔よしやす〕    ふ   もう   べ   のよし   うんぬん
文治六年(1190)二月大二日丙戌。貢馬@二十疋を京都へ進ぜ被る。解文A等右兵衛督〔能保〕に付し申す可し之由と云々。

参考@貢馬は、貢馬御覧といって、平泉の秀衡の時代に奥州の馬を朝廷へ税として貢ぐ時は、主人格の頼朝を通すように因縁をつけて以来、儀式化している。特に良い馬はピンはねをする。
参考Aは、下役から上役へ出すのを解、上役から下役へは符す、同格には移か牒

現代語文治六年(1190)二月大二日丙戌。税として献上する馬を二十頭、京都へ送りました。朝廷への送付状の解文などは、右兵衛督一条能保を通して申し上げるようにとのことだとさ。

文治六年(1190)二月大四日戊子。來十月依可有御上洛。随兵以下事。被觸諸國御家人等云々。

読下し                   きた  じゅうがつ ごじょうらく あ  べ      よつ   ずいへい いか  こと  しょこく   ごけにん ら   ふ   らる    うんぬん
文治六年(1190)二月大四日戊子。來る十月御上洛有る可しに依て、随兵以下の事、諸國の御家人等に觸れ被ると云々。

現代語文治六年(1190)二月大四日戊子。今年の十月に京都へ上る予定なので、お供の兵隊などの話を、諸国の御家人達に伝えさせましたとさ。

文治六年(1190)二月大五日己丑。被遣雜色眞近。常C。利定等於奥州。是於三方。依可遂合戰。爲其檢見也。亦凶徒之蜂起。不拘御家人等之武勇者。爲令發向給。可申其左右之趣。所被仰遣千葉新介胤正以下御家人等之中也。又合戰大躰。至歩兵等者。踏山澤尋之有其便。然者。求宗敵在所可襲之。凡於今度落人等者。至郎等。皆可召進之。落人相論。并就下人等事。傍輩互不可有喧嘩。

読下し                    ぞうしき  まさちか  つねきよ  としさだらを おうしゅう  つか  さる
文治六年(1190)二月大五日己丑。雜色の眞近、常C、利定等於奥州へ遣は被る。

これ  さんぽう   をい    かっせん  と     べ     よつ    そ    けみ   ためなり
是、三方@に於て、合戰を遂げる可しに依て。其の檢見Aの爲也。

また  きょうとの ほうき     ごけにんら の ぶゆう  かかは ず   ば  はっこうせし  たま    ため  そ    そう   もう  べ  のおもむき
亦、凶徒之蜂起、御家人等之武勇に拘ら不ん者、發向令め給はん爲。其の左右を申す可し之趣、

ちばのしんすけたねまさ いか  ごけにんら の なか  おお  つか  さる  ところなり
千葉新介胤正以下の御家人等之中へ仰せ遣は被る所也。

また  かっせん だいたい   かちなど いた  ば   さんたく  ふ   これ  たず  そ   びん あ
又、合戰の大躰。歩兵等に至ら者、山澤を踏み之を尋ね其の便有り。

しからば  むねと     てき  ざいしょ  もと  これ  おそ  べ     およ  このたび  をい  おちうどら は   ろうとう  いた        みな これ  め   しん  べ
然者、宗たるの敵の在所を求め之を襲う可し。凡そ今度に於て落人等者、郎等に至るとも。皆之を召し進ず可し。

おちうど  そうろん  なら    げにんら   こと  つ         ぼうはい たが   けんか あ  べからず
落人の相論、并びに下人等の事に就いては、傍輩互ひに喧嘩有る不可。

参考@三方は、海・山・陸。
参考
A檢見は、目付け。

現代語文治六年(1190)二月大五日己丑。雑用下男の真近、常清、利定達を東北へ派遣しました。これは合戦が海山陸のアチコチに広がったので、それの目付けとして見定める為です。また、合戦中の御家人の手に余るようなら、新たに軍隊を派遣しなければならないので、その有無を千葉新介胤政等の御家人に伝えるようにいいつけました。
又、この合戦では、騎馬より歩兵の方が山道を踏み分けて探し易いでしょう。そうして主だった敵の居場所を探して攻めなさい。今回の合戦の落人は、下っ端の武士達まで全て捕獲して連れてきなさい。落人を捕らえた手柄争いや、下部人の争奪などについて、仲間内での喧嘩をしてはいけない。

文治六年(1190)二月大六日庚寅。辰尅。奥州飛脚參着。申云。去月廿三日。出彼國訖。其日未無下着之軍兵。爰兼任等逆賊。群集如蜂云々。則相副雜色里長於件使者被下遣。此間可廻計儀之子細。具所仰遣也。先謀叛輩事。悉難遁死罪歟。而爲降人之參時。死罪流刑共以可任御意事也。然者。國中之輩。一旦怖兼任之猛威。雖令与彼逆心。眞實之志者。定在御方歟。至奉歸降之族者。可緩刑由。兼可披露于國中。偏以可追討之趣。於有披露者。面々發退心。強遂合戰者。爲御方可有其煩云々。次新留守所。本留守。共有兼任同意之罪科。無左右雖可被誅。暫被預葛西三郎C重。可召甲二百領之過料云々。本留守者。年齢已七旬。雖不被處斬罪。取終之條。無程事歟云々。次方々勢共中。入塩竃以下神領。不可現狼藉云々。

読下し                   たつのこく おうしゅう ひきゃくさんちゃく  もう    い       さんぬ つきにじうさんにち か  くに  い  をはんぬ
文治六年(1190)二月大六日庚寅。辰尅。奥州の飛脚參着し、申して云はく。去る月廿三日、彼の國を出で訖。

そ   ひ   いま  げちゃくのぐんぴょう な    ここ  かねとう ら  ぎゃくぞく  ぐんしゅう      はち  ごと   うんぬん
其の日、未だ下着之軍兵無し。爰に兼任等の逆賊、群集すること蜂の如くと云々。

すなは ぞうしきさとながを くだん ししゃ  あいそ   くだ  つか  さる    こ   かん  けいぎ  めぐ    べ  の しさい  つぶさ おお  つか    ところなり
則ち雜色里長於件の使者に相副へ下し遣は被る。此の間、計儀を廻らす可し之子細。具に仰せ遣はす所也。

ま   むほん  やから こと ことごと しざい  のが  がた  か   しか    こうじん た   の まい  とき  しざい   るけい とも   もつ  ぎょい   まか  べ   ことなり
先ず謀叛の輩の事。悉く死罪を遁れ難き歟。而るに降人爲る之參る時、死罪、流刑共に以て御意に任す可き事也。

しからば くにじゅうのやから いったんかねとうの もうい  おそ    か   ぎゃくしん  よ せし   いへど  しんじつのこころざしは  さだ    みかた  あ   か
然者、國中之輩。一旦兼任之猛威を怖れ、彼の逆心に与令むと雖も、眞實之 志者 、定めて御方に在る歟。

きこう  たてまつ のやから いた    は   けい  ゆる    べ     よし  かね  くにじゅうにひろうすべ
歸降し奉る之族に至りて者、刑を緩める可きの由、兼て國中于披露可し。

ひとへ もつ ついとうすべ のおもむき ひろう あ     をい  は   めんめん たいしん はつ あながち かっせん と     ば   みかた ため そ  わずら あ  べ    うんぬん
偏に以て追討可し之趣、披露有るに於て者、面々退心を發し、強に合戰を遂げれ者、御方の爲其の煩ひ有る可しと云々。

つぎ  しんるすどころ  ほんるす とも  かねとう  どういの ざいか あ
次に新留守所、本留守共に兼任に同意之罪科有り。

 そう な   ちゅうさる べ    いへど   しばら  かさいのさぶろうきよしげ  あずけられ  よろいにひゃくりょうのかりょう  め  べ    うんぬん
左右無く誅被る可しと雖も、暫くは葛西三郎C重に預被、甲二百領之過料を召す@可しと云々。

ほんるす は   よはいすで  しちじゅん  ざんざい しょされず いへど   と   おわ  のじょう  ほどな   ことか   うんぬん
本留守者、年齢已に七旬。斬罪に處被不と雖も、取り終る之條。程無き事歟と云々。

つぎ  ほうぼう  せいども  なか    しおがま  いげ しんりょう い     ろうぜき  あらわ べからず  うんぬん
次に方々の勢共の中へ、塩竃A以下神領へ入り、狼藉を現す不可と云々。

参考@甲二百領之過料を召すは、結果的に武装解除となる。
参考A
塩竃は、陸奥国一ノ宮塩釜神社。宮城県塩竃市一森山1-1。

現代語文治六年(1190)二月大六日庚寅。辰の刻(午前八時頃)に、奥州東北からの伝令が着いて云うのには、先月の二十三日に東北を出てきました。その日は、関東からの軍隊は、まだ着いておりませんでした。大河次郎兼任の反逆者の群れは、蜂が群がるような勢いだとの事でした。
直ぐに雑用の里長をその伝令と一緒に東北へ行かせました。その時に、色々と計略を練っておられる内容を、事細かに言って聞かせたのです。
まず、反逆者たちについては、全て死刑にせざるを得ないかもしれない。
しかし、降伏投降して来ても、死刑か流罪にするかはこちらの判断次第なわけだ。そういうことならば、奥州の国中の連中は、一度は大河次郎兼任の権勢を怖がって、その謀反に味方したけれども、本当のところは関東に味方したい気持を持っているかも知れないので、投降してきた者には、罪を減じて刑を緩くしてあげようと国中に情報を流しなさい。それを、何もかも攻め滅ぼしてしまう気だと発表してしまうと、それぞれがやけを起こして、無理にでも合戦することになるので、さぞかし難儀な事になってしまうだろうからと云う事です。
次ぎに、現地管理人の留守所は新しい者も古い方も、大河次郎兼任に味方した罪が有るので、しのごの無く死刑にすべきだろうけれども、当分葛西三郎清重の囚人として預かり、罰金として鎧二百着を支払わせなさい。
古い方の留守所は、年齢が七十歳を越しているので、死刑にしなくてもどうという事もないだろうとの事です。
次ぎに、あちこちの軍勢に対して、塩釜神社などの神社の領地に入って、年貢を横取りするような事のないようにとの事でした。

文治六年(1190)二月大十日甲午。遠江守義定。去月廿五日被遷任下総守訖。是外雖給替國。内有背叡慮事等之故也云々。遠州者重任送多年之上。殊執思之處。今此事出來。愁歎尤難休之由。申二品之間。可令執奏歟之趣。被副御書義定状。差飛脚令進上給。行程被定五ケ日云々。
義定申状云。
   言上條々案内事
一 勅院事對捍由事
 右。罷蒙催促候事。一事不致懈怠候。於催不候事者。不知案内之者。不及力候。然而已依被處不忠候。悲歎之餘。令聞達源二位殿候之處。以可申案内之由。所罷預候也。御消息并相具 勅院事催苻。請使請取返抄等案。謹以進覽之。對捍否之旨。顯然候歟。加之。去年恒例納物内之未濟分。承去任之由。雖罷出國候。令沙汰預在廳。所請取候之證文。同以進覽之。
一 造稻荷社造畢覆勘事
 右。上中下社正殿。爲宗之諸神々殿。合期造畢。無事令遂御遷宮候畢。自餘舎屋等事。又以非無其營勤候。行事季遠懈緩之上奸濫。仍雖相副俊宗法師候。云六條殿門築垣事。云 大内修造。彼此相累候之間。自然遲々。更以不存忽諸之儀候。已於不足材木分。悉交量直米。令沙汰宛都鄙之間候畢。
 件之注文同以進覽候。此外。材木桧皮并作料已下雜々用途米等。任損色支度。先運上已畢。
 以前。條々言上如件。可然之樣。可有計御沙汰候。恐惶謹言。
     二月十日                          義定〔上〕
  進上  中納言殿

読下し                   とうとうみのかみよしさだ さんぬ つきにじうごにち しもふさのかみ せんにんされをはん
文治六年(1190)二月大十日甲午。 遠江守@義定。 去る月廿五日 下総守Aに遷任被訖ぬ。

これ  そと    かえくに  たま     いへど   うち    えいりょ  そむ  ことら あ   のゆえなり  うんぬん
是、外には替國を給はると雖も。内には叡慮の背く事等有る之故也と云々。

えんしゅうは  ちょうにん   たねん   おく   のうえ   こと  しつ  おぼ  のところ  いま こ  こと しゅつらい
遠州者、重任して多年を送る之上。殊に執し思す之處、今此の事出來す。

参考@遠江守は、上国。
参考A
下総守は、大国。人口の多い少ないは税高に繫がる。大国・上国・中国・下国の順。

しゅうたん もっと やす がた  のよし  にほん  もう  のかん  しっそうせし  べ  かのおもむき おんしょ  よしさだ  じょう そ   られ  ひきゃく  さ  しんじょうせし  たま
愁歎尤も休み難し之由、二品に申す之間、執奏令む可き歟之趣、御書を義定が状に副え被、飛脚を差し進上令め給ふ。

こうていいつかにち  さだ  らる    うんぬん
行程五ケ日と定め被ると云々。

よしさだ  もう  じょう  い
義定が申し状に云はく。

     ごんじょう じょうじょう  あない  こと
   言上の條々、案内の事

ひとつ ちょくいんごと たいかん よし  こと
一  勅院事 對捍の由の事

  みぎ  さいそく  まか  こうむ そうろ こと  いちじ  けたい  いたさずそうろう  もよお そうらはざ こと  をい  は   あない   しらず の もの   ちからおよばすそうろう
 右。催促を罷り蒙り候う事。一事も懈怠を不致候。 催し不候る 事に於て者、案内を不知之者は、力 不及 候。

  しかれども すで  ふちゅう  しょせら そうろう よつ   ひかん の あま    げんにいどの   き      たつ  せし そうろうのところ
 然而、已に不忠に處被れ候に依て、悲歎之餘り、源二位殿に聞こし達さ令め候之處、

  あない   もう  べ    のよし  もつ    まか あずか そうろうところなり
 案内を申す可し之由を以て、罷り預り候所也。

  ごしょうそこ なら    あいぐ    ちょくいんごと さいふ  うけし うけとり  へんしょうら  あん  つつし もつ  これ  しんらん
 御消息并びに相具する勅院事の催苻。請使請取の返抄等の案、謹み以て之を進覽す。

  たいかん  いな  のむね  けんぜん そうら   か
 對捍か否か之旨、顯然に候はん歟。

  これ  くは    きょねんこうれい  のうぶつ うちの みさいぶん  にん  さ   のよし うけたまは  くに  まか  い  そうろう いへど  ざいちょう  さた   あずけ せし
 之に加へ、去年恒例の納物の内之未濟分、任を去る之由を承り、國を罷り出で候と雖も、在廳に沙汰し預け令む。

  うけと  そうろうところのしょうもん  おな    もつ   これ  しんらん
 請取る候所之證文。 同じく以て之を進覽す。

ひとつ ぞういなりしゃぞうひつふくかん  こと
一 造稻荷社造畢覆勘の事

  みぎ  じょうちゅうげしゃ しょうでん むねとた  のしょしん  しんでん  ごうご   ぞうひつ    ぶじ   ごせんぐう   と   せし  そうら をはんぬ
 右。上中下社の正殿。宗爲る之諸神の々殿。合期に造畢し、無事に御遷宮を遂げ令め候ひ畢。

    じよ   しゃおくら  こと  またもつ  そ   えいきん な    あらずそうろう  ぎょうじすえとおけたいの うえかんらん
 自餘の舎屋等の事、又以て其の營勤無きに非候。 行事季遠懈緩之上奸濫す。

  よつ  としむねほっし  あいそ そうろう いへど   ろくじょうでん もん  ついがき  こと  い     だいだいしゅうぞう い    かれこれあいかさ そうろうのかん
 仍て俊宗法師を相副へ候と雖も、六條殿の門、築垣の事と云ひ、大内修造と云ひ、彼此相累なり候之間、

  じねん    ちち     さら  もつ  こっしょの ぎ  ぞんぜずそうろう
 自然に遲々す。更に以て忽諸之儀を不存候。

  すで  ふそく   ざいもくぶん  をい     ことごと じきまい  けりょう     さた せし     とひ の かん あてそうら をはんぬ
 已に不足の材木分に於ては、悉く直米を交量し、沙汰令め、都鄙之間に宛候ひ畢。

  くだんのちうもんおな   もつ  しんらん そうろう
 件之注文同じく以て進覽し候。

  こ   ほか  ざいもくひわだ なら   さくりょう いか   くさぐさ   ようとうまいら     そんじき  したく   まか    さき  うんじょうすで をはんぬ
 此の外。材木桧皮并びに作料已下、雜々の用途米等は、損色の支度に任せ、先に運上已に畢。

  いぜん じょうじょう ごんじょうくだん ごと    しか  べ   のよう  はから  ごさた あ   べ そうろう きょうこうきんげん
 以前の條々、言上件の如し。然る可き之樣に計ひ御沙汰有る可く候。恐惶謹言。

           にがつとおか                                                 よしさだ 〔じょう 〕
     二月十日                       義定〔上す〕

    しんじょう   ちゅうなごんどの
  進上  中納言殿

現代語文治六年(1190)二月大十日甲午。遠江守安田義定は先月二十五日に下総守の任命替えになりました。
これは、表向きは別な大国を与えられたと言ってますが、本当は京都朝廷に対して反抗する事があったからです。遠江守を再任用されて来れたのは、特に頼朝様が推薦してきたからなのですが、今度このような事態が表沙汰になりました。全く気の休まる思いがないと、頼朝様に嘆いてきたので、法皇にとりなしを申し入れる内容の手紙を、安田義定の弁明書に添えて、配送人を決めて差し出しました。五日で到着するように命じました。安田義定の弁明状に書いてあるのは、

   申し上げる数々について、弁明いたします
一つ 院からの仰せについて 滞納しているとの事
 右の滞納を催促されましたが、少しも怠けているわけではありません。言ってこられていることについては、全く知らない事なので、やりようがありません。そうは言っても、すでに犯罪者として扱われているので、悲しみのあまりに源二位殿頼朝様に相談をいたしましたところ、事情を説明申し上げるように、指導を受けたところです。お手紙と一緒に来た院からの催促状、年貢受取担当の受領書の写しなど、恐れながらこれをお見せいたしました。滞納しているかどうか、見れば明らかなはずです。そればかりか、去年に納める何時もどおりの年貢のうちの未納の分は、徴税官が退任されたと聞きましたが、京都へお帰りになっても、国衙の在庁官人に命じて預けてあります。その受取証文を一緒にお見せしました。

一つ 造稲荷社造畢覆勘について
 右については、上宮・中宮・下宮の聖殿、境内社の色々の神様の神殿、全て予定期間どおりに造り終え、無事に神様の引越し式もやり終えました。他の建物についても、ちゃんと建築をしていないということではありません。担当の季遠が怠けた上横領をしたのです。それで、俊宗法師を加えましたけれども、六条殿の門や、築地塀の事や、大内裏の修理の事など、あれもこれも重なってしまったので、やむを得ず遅れてしまったのです。決して、放っておくようなことはしておりません。もう既に、足りない分の材木については、全て納税分の米を売りさばくように、命令してあちこちに割り当てております。これらの書き出しも、一緒にお見せいたします。

そのほかに、材木や屋根材の桧皮などの建築材料を始め、色々な用途の費用分の米は、慰労無く整え、既に送ってあります。
 以上の事柄が申し上げる内容でありますので、良いようにお取り計らい戴きたいと恐れながら申し上げます。
   二月十日       安田三郎義定〔上申します〕
  宜しくお届けします 中納言殿

文治六年(1190)二月大十一日乙未。上総國者。爲關東御管領九ケ國之内。以源義兼。被補任國司之處。去年御辞退之間。正月廿六日。与遠江國。同日被任國司〔平親長〕仍今日目代等國務云々。」大内修理事。花搆已成。是偏貞節之所致也。丁寧之勤。殊感思食畢。可被仰勸賞。且有所望事者。可申上之由。有院宣。其状昨日到來之間。被申御請文云々。
 去月廿二日御教書。今月十日謹以拝見候畢。依知行國々所課大内修理事。被行抽賞候はゝ。傍輩定鬱思候歟。且他國も致忠て候も候らん。勸賞事更不存候。只如此以蒙叡感。所存勸賞候也。有忠無忠之議〔於〕被試仰下候者。雖自今以後傍輩も定以勵忠勤候歟。以此旨可令洩達給候。頼朝恐々謹言。
     二月十一日                     頼朝〔請文〕

読下し                     かずさのくには  かんとうごかんりょう きゅうかこくの うち た
文治六年(1190)二月大十一日乙未。上総國者、關東御管領 九ケ國之内爲り。

みなもとよしかね  もつ   こくし   ぶにん さる  のところ  きょねん ごじたい の かん   しょうがつにじうろくにち とおとうみのくに よ
 源義兼を 以て、國司に補任被る之處、去年御辞退之間、 正月廿六日、 遠江國に与す。

どうじつ こくし 〔たいらのちかなが〕 にん  らる    よつ  きょう もくだいら こくむ     うんぬん
同日國司〔 平親長 〕任ぜ被る。仍て今日目代等國務すと云々。」

だいだいしゅうり  こと  かこう すで  な    これ ひとへ ていせつのいた ところなり  ていねいのつとめ  こと  かん  おぼ  め をはんぬ
大内修理の事。花搆已に成る。是、偏に貞節之致す所也。 丁寧之勤。 殊に感じ思し食し畢。

けんじょう おお  らる  べ     かつう しょもう  こと あ   ば   もう  あぐ  べ   のよし  いんぜんあ
勸賞を仰せ被る可し。且は所望の事有ら者、申し上る可し之由、院宣有り。

そ   じょう  さくじつとうらい    のかん  おんうけぶみ  もうさる    うんぬん
其の状、昨日到來する之間。御請文を申被ると云々。

  さんぬ つきにじうににち みぎょうしょ  こんげつとおか つつし もつ  はいけん そうらひをはんぬ
 去る月廿二日の御教書。 今月十日 謹み以て拝見し 候 畢。

  ちぎょう  くにぐに  しょか   だいだいしゅうり こと  よつ   ちうしょうおこなはれそうらはば  ぼうはいさだ   うつ  おも そうろうか
 知行の國々の所課、大内修理の事に依て、抽賞行被候はゝ。 傍輩定めて鬱し思ひ候歟。

  かつう  たこく   ちう  いた   そうろう そう      けんじょう こと  さら ぞんぜずそうろう
 且は他國も忠を致して候も候らん。勸賞の事、更に不存候。

  ただかく  ごと  えいかん  こうむ   もつ    けんじょう  ぞん  ところそうろうなり
 只此の如き叡感を蒙るを以て、勸賞と存ずる所候也。

  うちゅうむちゅうのぎ   〔を〕 こころ   おお  くだされそうらはば いまよりいご  いへど ぼうはい  さだ    もつ  ちうきん  はげ そうろうか
 有忠無忠之議〔於〕試みに仰せ下被候者、 自今以後と雖も傍輩も定めて以て忠勤に勵み候歟。

  かく  むね  もつ  も   たっさせし  たま  べ そうろう よりともきょうきょうきんげん
 此の旨を以て洩れ達令め給ふ可く候。頼朝恐々謹言。

           にがつじういちにち                                           よりとも 〔うけぶみ〕
     二月十一日                     頼朝〔請文〕

現代語文治六年(1190)二月大十一日乙未。上総国は、頼朝様が支配する関東御管領九カ国のうちであります。
だから源足利義兼を国司に任命しておりましたが、去年朝廷から辞退させられたので、正月二十六日付けで遠江国を与えました。おなじ日付で国司〔平親長〕が任命されましたので、国衙の代官が決まりましたとさ。

大内裏の修理については、華やかに建物が既に出来上がりました。これについては朝廷への忠義心がなしえた事であります。丁寧な仕上がりに、特に院が喜んでおります。何か褒美を言いなさい。望みがあるならば、院に申し上げるように院からの手紙にあります。その手紙は昨日届いたので、ご返事を用意されましたとさ。

 先月二十二日のお手紙は、今月の十日に謹んで拝見いたしました。そちらが管理している国の負担義務の大内裏修理に対しての、褒美を戴いては、さぞかし他の連中にねたまれることでありましょう。他の国々も忠義を尽くしているのでしょうから、褒美など思いもよりません。むしろこのように院からお褒めを戴いただけで、充分褒美に預かったものと存じております。忠有るものと忠無き者とに試しにきちんと言ってみて戴ければ、今後とも他の連中も忠義を尽くして励む事でしょう。このような内容で院にお伝えいただけますように。謹んで頼朝より。
   二月十一日         頼朝〔ご返事〕

文治六年(1190)二月大十二日丙申。發遺軍士并在國御家人等。爲征兼任。此間群集于奥州。各昨日馳過平泉。於泉田尋問凶徒在所之處。兼任率一万騎。已出平泉之由云々。仍打立泉田。行向之輩。足利上総前司。小山五郎。同七郎。葛西三郎。關四郎。小野寺太郎。中條義勝法橋。同子息藤次以下。如雲霞。縡及昏黒。不能越一迫。止宿于途中民居等。此間。兼任早過訖。仍今日千葉新介等馳加襲到。相逢于栗原一迫挑戰。賊徒分散之間。追奔之處。兼任猶率五百余騎。當平泉衣河於前張陣。差向栗原。越衣河合戰。凶賊渡北上河逃亡訖。於返合之輩者。悉討取之。次第追跡。而於外濱与糠部間。有多宇末井之梯。以件山爲城郭。兼任引篭之由風聞。上総前司等又馳付其所。兼任一旦雖令防戰。終以敗北。其身逐電晦跡。郎從等或梟首。或歸降云々。

読下し                     はっけん  ぐんし なら    ざいこく ごけにん ら   かねとう  せい    ため  こ  かんおうしゅうにぐんしゅう
文治六年(1190)二月大十二日丙申。發遺の軍士并びに在國御家人等、兼任を征せん爲、此の間奥州于群集し、

おのおの さくじつひらいずみ は す     いずみだ  をい  きょうと  ざいしょ  たず  と   のところ  かねとう いちまんき ひき    すで  ひらいずみ い     のよし  うんぬん
 各、 昨日平泉を馳せ過ぎ、泉田に於て凶徒の在所を尋ね問う之處、兼任一万騎を率い、已に平泉を出ずる之由と云々。

よつ  いずみだ う    た     ゆ   むか のやから あしかがのかずさぜんじ おやまのごろう  おな   しちろう  かさいのさぶろう  せきのしろう  おのでらのたろう
仍て泉田を打ち立ち、行き向う之輩、足利上総前司、小山五郎、同じき七郎、葛西三郎、關四郎、小野寺太郎、

ちゅううじょうぎしょうほっきょう おな  しそく とうじ いか   うんか  ごと
中條義勝法橋、同じく子息藤次以下、雲霞の如し。

こと  こんこく  およ   いっさこ  こ       あたはず  とちゅう  みんきょらに ししゅく    かく  かん  かねとう はや   す  をはんぬ
縡、昏黒に及び、一迫を越えるに不能、途中の民居等于止宿す。此の間、兼任早くも過ぎ訖。

よつ  きょう   ちばのしんすけら は  くは    おそ  いた   くりはらいっさこに あいあ  ちょうせん   ぞくとぶんさんの かん  お   はし  のところ
仍て今日、千葉新介等馳せ加はり襲い到り、栗原一迫于相逢い挑戰す。賊徒分散之間、追い奔る之處、

かねとう  なお ごひゃくよき  ひき    ひらいずみ ころもがわ を まえ あ    じん  は     くりはら  さ   むか    ころもがわ こ   かっせん
兼任、猶五百余騎を率い、 平泉、衣河於前に當てて陣を張る。栗原に差し向い、衣河を越え合戰す。

きょうぞく  きたかみがわ わた とうぼう をはんぬ かへ あは  のやから をい  は  ことごと これ  う   と     しだい  ついせき
凶賊、北上河を渡り逃亡し訖。 返し合す之輩に於て者、悉く之を討ち取り、次第に追跡す。

しか   そとがはま と  ぬかのべ あいだ をい    う と う ま い の かけはし くだん やま  もつ  じょうかく  な      かねとう ひ  こも  のよし ふうぶん
而るに外濱@与糠部Aの間に於て、有多宇末井之BC、件の山を以て城郭と爲し、兼任引き篭る之由風聞す。

かずさぜんじ ら また そ  ところ  は   つ    かねとう いったん ぼうせんせし いへど  しまい もつ  はいぼく
上総前司等又其の所へ馳せ付け、兼任一旦防戰令むと雖も、終に以て敗北す。

そ   み ちくてん  あと  くら      ろうじゅうら ある    きょうしゅ  ある    きこう    うんぬん
其の身逐電し跡を晦ます。郎從等或ひは梟首、或ひは歸降すと云々。

参考@外濱は、青森県津軽半島東部の陸奥湾沿岸を指す古来の地名である。青森市油川から外ヶ浜町三厩までを指し、現代の区分では青森市・蓬田村・外ヶ浜町・今別町・平内町にほぼ相当する地域名でもある。ウィキペディアから
参考A糠部は、現在の行政区画では青森県東部から岩手県北部にかけての地域に相当する。
参考B有多宇末井之梯は、青森県青森市大字浅虫の浅虫温泉南の善知烏崎を指すらしい。
参考C
は、崖などに穴をうがち、杭を横に差して、その上に橋状を懸けたもの。険しいがけ沿いに木や藤づるなどで棚のように設けた道。桟道。

現代語文治六年(1190)二月大十二日丙申。すでに奥州へ使わされた武士も、自国に居た御家人も、大河兼任を征伐しようと、皆奥州に集って、昨日はそれぞれ平泉を通過して、泉田で反逆者たちの動静を聞いたところ、大河次郎兼任は一万騎も連れて、平泉を出ていったとの事です。それなので、泉田を走り立って進軍しているのは、足利前上総介義兼、小山長沼五郎宗政、同じ小山の結城七郎朝光、葛西三郎清重、関次郎政平、小野寺太郎道綱、中条義勝房法橋成尋、同じ息子の藤次、を始めとし、雲霞のように沢山です。しかし、時間が遅くなり真っ暗闇になったので、一迫(宮城県栗原市一迫だが位置がおかしい)を越えるのは(敵が待ち構えているので)無理なので、途中の民家に宿泊しました。其の間に大河兼任は、なおも遠くへ行ってしまいました。

そこで今日になって、千葉新介胤正達が駆けて来て加わり攻めにかかったところ、栗原一迫で敵と出会って戦いました。敵軍が散り散りになったので、追いかけました。

一方、兼任は、なおも五百余騎を引き連れて、平泉と衣川を前にして陣を張って、栗原に向かって、衣川を越えて戦ってきましたが、反乱軍は(負けて)北上川を渡って逃げてしまいました。戻って戦ってきた連中は全て討ち取った上で、なおも追跡しました。しかし、外ケ浜(青森)と糠部(三戸)の間に、有多宇末井之梯(ウトウマイノカケハシ)の山を城郭化して、大河兼任が引きこもっていると噂を聞きました。足利上総前司義氏達も又、その場所へ駆けつけたので、兼任は一旦は防戦しましたが、終いには負けてしまい、何処かへ逃げてしまいました。家来達は、或る者は首を切られ、或る者は降伏投降しましたとさ。

文治六年(1190)二月大廿二日丁酉。造伊勢太神宮役夫工米事。諸國地頭等有未濟之旨。去年十二月。師中納言奉書到着之間。日者被經沙汰。今日被奉御請文云々。盛時染筆云々。
 去年極月十二日御教書。同廿四日到來。役夫工米間事。權右中弁親經奉書。謹拝見候畢。知行國々者。先日任被仰下候之旨。已令致沙汰候也。其中。下総國事。以被仰下旨。早可加下知候也。抑御免庄々。就先度仰。令除候之處。信濃越後上総等國々。可令加免之由。親能下向之度。被仰下て候へハ。追又令除候畢。
 家人輩地頭所々事。造營所注文。給預候畢。早可令下知候也。且被 宣下候なれハ。爭令對捍候哉。此中地頭輩。不分明之所々も相交候。早可尋沙汰仕候也。宇都宮。熱田宮。八幡宮。御領所役事。尤可然候。可令進濟之由。被仰下候之上。重可令下知候也。凡背被仰下之旨。致對捍候はん輩ハ。重給注文ニて可令下知候也。朝家御大事ニ候之上。廿ケ年一度之役に候。旁不可致懈怠候也。此事のみに候はす。背宣下旨候はむ輩ハ。伊かにも任法て。可有御沙汰候。且又随御定。抑て可禁沙汰候也。背君御定候はむ者をは。家人にて候とても。いかてか不被行其罪候哉。頼朝身上にて候とても。不當候はむ時ハ。御勘當も可蒙事にてこそ候へ。まして家人輩事。不及左右候事也。遠々之間。承及候事ハ。邂逅之事候。又不承及候事ハ多候。其間進退恐思給候者也。以此旨可然之樣。可令披露給候也。頼朝恐々謹言。
     二月廿二日               頼朝
  進上  師中納言殿

読下し                     ぞう いせだいじんぐう やくぶたくまい   こと   しょこく  じとう ら みさい あ   のむね
文治六年(1190)二月大廿二日丁酉。造伊勢太神宮役夫工米@の事、諸國地頭等未濟有る之旨、

きょねんじうにがつ そちのちゅうなごん ほうしょとうちゃくのかん ひごろ さた   へらる   きょう おんうけぶみ たてまつらる うんぬん  もりとき ふで  そ     うんぬん
去年十二月、師中納言が奉書到着之間、日者沙汰を經被。今日御請文を奉被ると云々。盛時筆を染めると云々。

参考@役夫工米は、正式には造神宮役夫工米といい、伊勢神宮の式年遷宮の一国平均役(一国残らず)かけられた。読みは「やくぶたくまい」とも「やくぶたくみまい」とも読んだ。一般には荘園には国司は課税できないが、一国平均役はそれも課税できるので、國衙の役人にとっては、公権力の行使と臨終収入ともなる。室町時代になると段米とか段銭と呼ばれる。

  きょねんごくづきじうににち  みぎょうしょ  おな    にじうよっかとうらい    やくぶたくまい かん  こと  ごんのちゅうべんちかつね  ほうしょ  つつし  はいけんそうらひをはんぬ
 去年極月十二日の御教書。同じき廿四日到來す。役夫工米の間の事、 權右中弁親經が 奉書、謹みて拝見候畢。

  ちぎょう  くにぐには  せんじつ おお くだされそうろうのむね まか      すで   さた いたせし そうろうなり
 知行の國々者、先日仰せ 下被候之旨に 任せて、已に沙汰致令め候也。

  そ  なか  しもふさのくに  こと  おお くださる むね  もつ    はや   げち   くは  べ  そうろうなり
 其の中、下総國の事。仰せ下被る旨を以て、早く下知を加う可く候也。

 そもそも ごめん  しょうしょう   せんど  おお    つ     のぞ  せし そうろ のところ   しなの   えちご   かずさら  くにぐに  かめん せし  べ   のよし
 抑、御免の庄々は、先度の仰せに就き、除か令め候う之處、信濃、越後、上総等の國々、加免令む可し之由、

  ちかよし げこうのたび    おお  くだされ そうらへば   おつ また のぞ せし そうらひをはんぬ
 親能下向之度に、仰せ下被て候へハ、追て又除か令め候畢。

  けにん  やから  じとう  しょしょ  こと   ぞうえいしょ ちゅうもん  たま   あずか そうらひをはんぬ
 家人の輩の地頭の所々の事、造營所の注文、給はり預り候畢。

  はや   げち せし  べ そうろうなり かつう せんげせら そうろうならば   いささ たいかんせし そうろうや
 早く下知令む可く候也。且は宣下被れ候なれハ。爭か對捍令め候哉。

  こ   うち じとう やから  ぶんめいならずのしょしょ あいまじ  そうろう  はや たず  さたつかまつ  べ  そうろうなり
 此の中地頭の輩。分明不之 所々も相交はり候。早く尋ね沙汰仕る可く候也。

  うつのみや  あつたのみや はちまんぐう ごりょうしょやく  こと  もっと しか  べ そうろう
 宇都宮、熱田宮、八幡宮の御領所役の事、尤も然る可く候。

  しんさいせし  べ   のよし  おお くだされそうろうのうえ かさ    げち せし  べ そうろうなり
 進濟令む可し之由、仰せ下被候之上、重ねて下知令む可く候也。

  およ  おお  くださる  のむね  そむ   たいかんいた  そうら  やからは  かさ    ちうもん  たま    に    げち せし  べ   そうろうなり
 凡そ仰せ下被る之旨に背き、對捍致し候はん輩ハ。重ねて注文を給はるニて下知令む可く候也。

  ちょうけ  おんだいじに そうろうのうえ にじっかねん いちどのえき そうろう かたがた けたいいた  べからずそうろうなり
 朝家の御大事ニ候之上、廿ケ年に一度之役に候。 旁、 懈怠致す不可候也。

   こ   こと     そうらはず   せんげ  むね  そむ そうらはむやからは  いかにも   ほう  まかせ   ごさた  あ   べ  そうろう
 此の事のみに候はす。宣下の旨に背き候はむ輩ハ、伊かにも法に任て。御沙汰有る可く候。

  かつう また  ごじょう  したが  おさえ いまし  さた すべ  そうろうなり
 且は又、御定に随ひ、抑て禁め沙汰可く候也。

  きみ おんさだめ そむ そうらはむ ものをば   けにん    そうろう        いかでか  そ  つみ  おこ  られずそうろうや
 君の御定に背き候はむ者をは、家人にて候とても、いかてか其の罪を行は被不候哉。

  よりとも  み   うえ    そうろう        ふとうそうらはむときは   ごかんどう  こうむ  べ   こと       そうら
 頼朝が身の上にて候とても、不當候はむ時ハ、御勘當も蒙る可き事にてこそ候へ。

        けにん  やから こと   そう  およばずそうろうことなり  とおとおのかん うけたまは およ そうろうことは  たまさかのこと  そうろう
 まして家人の輩の事、左右に不及候事也。遠々之間、 承り及び候事ハ、 邂逅之事に候。

  また うけたまは およばずことはおおくそうろう  そ あいだ  しんたいおそ おも  たま  そうろうものなり
 又、承り 及不候事ハ多く候。其の間、進退恐れ思ひ給ひ候者也。

  かく  むね  もつ  しか  べ   のよう  ひろう せし  たま  べ  そうろうなり  よりともきょうこうきんげん
 此の旨を以て然る可き之樣、披露令め給ふ可く候也。頼朝恐々謹言。

           にがつにじうににち                      よりとも
     二月廿二日           頼朝

   しんじょう   そちのちうなごんどの
  進上  師中納言殿

現代語文治六年(1190)二月大二十二日丁酉。伊勢神宮の式年遷宮費用納税については、全国で地頭の未納があるとの事を、去年の十二月に師中納言吉田経房の法皇に命じられて書いた手紙を受け取っていたので、数日検討を重ねました。今日その返事を出されましたとさ。平民部烝盛時が書きましたとさ。

 去年の暮の十二日のお手紙は、同月の二十四日に到着しました。伊勢神宮式年遷宮の費用納税については、権右中弁親経が書いた法皇のお手紙を謹んで拝見いたしました。私が管理している国々については、先日のご命令どおりに既に処理を済ませるように指令しております。その中でも、下総国については、おっしゃって来られたように、現地に命じます。本来、納税を免除されている荘園等については、以前の命令どおりに除いているところですが、信濃、越後、上総等の国については免除を加えるように、式部大夫中原親能が鎌倉へ下る際に、仰せを戴きましたので、追加して除外する事にしました。私の私的部下の御家人達が公的役職の地頭をしているあちこちの所についての、造営所用の納税の文書は戴いて預かっております。早く各御家人に命令を致しましょう。またまた、法皇様のご命令に対し、なんで怠慢する事がありましょうか。その中には、誰が地頭なのか分からないところも混ざっておりますので、早く調べ上げた上で処理させましょうね。

 宇都宮神社、熱田神宮、(岩清水)八幡宮の領地の納税は、当たり前の事なので、納付を済ませるようにおっしゃって来られたので、再び地頭に命令を出しましょうね。だいたい、ご命令に逆らって滞納している連中については、もう一度書き出して戴いて、私の方から命令します。(式年遷宮は)京都朝廷にとって大事な事ですし、二十年に一度の役務奉仕であります。いずれにしても怠けたりは致しません。

 このことばかりではなく、法皇の命令に逆らうようなものがおれば、法にしたがってご命令ください。必ずや、ご命令どおりに、お叱り致しましょう。法皇様の命令に反するような奴は、御家人であっても、その罪を罰せずにはおきません。仮に頼朝自身の事であっても、不当なことがあれば、お叱りを戴くべきであります。ましてや、御家人の連中ならば論ずる必要はありません。

 遠方におりますので、仰せを承っても、ほんの一部の事でしょう。まだ、伺っていない話も沢山あるのでしょうね。その間の事をどうしたらよいかと思っております。以上のような内容でお伝えいただくようによろしくお願いします。頼朝から謹んで。
   二月二十二日         頼朝
  送ります  師中納言吉田経房殿

文治六年(1190)二月大廿三日戊戌。奥州合戰事。胤正。C重。親家等進飛脚。申云。賊徒爲宗之輩。大抵敗北。兼任逐電。其間能直。國平等盡兵畧云々。

読下し                     おうしゅうかっせん こと  たねまさ きよしげ  ちかいえら ひきゃく すす    もう     い
文治六年(1190)二月大廿三日戊戌。奥州合戰の事、胤正、C重、親家等飛脚を進め、申して云はく。

ぞくと  むねとたるのやから たいていはいぼく  かねとう  ちくてん   そ   かん よしなお くにひらら へいりゃく つく    うんぬん
賊徒の宗爲之輩、大抵敗北し、兼任は逐電す。其の間能直、國平等兵畧を盡すと云々。

現代語文治六年(1190)二月大二十三日戊戌。奥州平泉の合戰について、千葉太郎胤正と葛西三郎清重、堀藤次親家は伝令を鎌倉へよこして言うのには、反逆軍の主だった連中は、殆ど負けてしまい、大河次郎兼任は何処かへ逃げてしまいました。其の間に大友左近将監能直や近藤七国平は活躍をしたとの事です。

文治六年(1190)二月大廿五日庚子。下総守義定申條々事。勅答之趣。權中納言〔經房〕所被執進院宣。右大弁宰相〔定長〕奉書也。義定令拝見之。愁緒弥断腸云々。其状云。
 二位卿書状。并義定申状等。奉聞候畢。遠州在國之間。公事所濟目録申上候畢。諸國宰吏。不勤此程公役哉。偏可押領之由存知歟。於在京國司者。或致濟物之上。相營恒例臨時課役。其外又所抽勤節也。於義定者。無殊忠之上。諸國遂日亡弊。非尋常之國知行之仁。加之仁六條殿造營之時。諸國皆領状。一國有申旨。輙不承諾。依二品譴責。憖勤仕。私物詣之間。雖過京洛。不言上事由。諸國吏上洛之時。密々下向。未聞食習事歟。如此事等。雖不能仰遣。大概所被仰也。七ケ年知行之後。被遷任他國。豈非御憂恕哉。子細猶廣元下向之時。可被仰之由。且可仰遣二位卿許之由。内々御氣色候也。仍上啓如件。
     二月十八日                  右大弁
  謹上  權中納言殿
   遂上啓
    義定文書等。可返遣之由所候也。

読下し                     しもふさのかみよしさだ じょうじょう こと ちょくとうのおもむき  ごんのちゅうなごん 〔つねふさ〕 しつ  しん  らる  ところ  いんぜい
文治六年(1190)二月大廿五日庚子。下総守義定申す條々の事、勅答之趣、 權中納言〔經房〕 執し進ぜ被る所の院宣は、

うだいべんさいしょう〔さだなが〕   ほうしょなり   よしさだこれ  はいけんせし  しゅうしょ やや だんちょう うんぬん そ  じょう  い
右大弁宰相〔定長〕が奉書也。義定之を拝見令め、愁緒 弥 断腸と云々。其の状に云はく。

  にいのきょう  しょじょう なら    よしさだもう  じょうら  そうもんそうら をはんぬ
 二位卿の書状、并びに義定申す状等、奉聞候ひ畢。

  えんしゅうざいこくのかん  くじ しょざい  もくろく  もう   あ   そうら をはんぬ
 遠州在國之間、公事所濟の目録、申し上げ候ひ畢。

  しょこく  さいり   こ   ほど  くえき   つと  ざら  や   ひとへ おうりゅうすべ のよし ぞんず  か
 諸國の宰吏、此の程の公役を勤め不ん哉。偏に押領可き之由存知る歟。

  ざいきょう  こくし  をい  は   ある    さいもつ  いた  のうえ  こうれい  りんじ   かえき   あいいとな   そ   ほか  また  ちうきん  ぬき     ところなり
 在京の國司に於て者、或ひは濟物を致す之上、恒例、臨時の課役を相營み、其の外に又、勤節を抽んづる所也。

  よしさだ  をい  は   こと    ちう な   のうえ  しょこく ひ  つ     ぼうへい    じんじょうのくに  ちぎょうのじん  あらず
 義定に於て者、殊なる忠無き之上、諸國日を遂いて亡弊す。尋常之國、知行之仁に非。

  これに くは   ろくじょうでんぞうえいのとき  しょこくみなりょうじょう  いっこくもう  むね あ     たやす しょうだくせず  にほん けんせき  よつ   なまじい きんじ
 之仁加へ、六條殿造營之時、諸國皆領状す。一國申す旨有りて、輙く承諾不。二品の譴責に依て、憖に勤仕す。

  し   ぶつけいのかん  けいらく  よぎ   いへど   こと  よし  ごんじょうせず   しょこくり じょうらくのとき  みつみつ  げこう
 私の物詣之間、京洛を過ると雖も、事の由を言上不。 諸國吏上洛之時、密々に下向す。

  いま  き     め   なら      ことか   かく  ごと  ことなど  おお  つか     あたはず いへど  たいがいおお  らる ところなり
 未だ聞こし食し習はざる事歟。此の如き事等、仰せ遣はすに不能と雖も、大概仰せ被る所也。

   しちかねんちぎょうののち  たこく  せんにんせら  あに  ごいうじょ  あらざ  や   しさい  なお  ひろもとげこうの とき   おお  らる  べ   のよし
 七ケ年知行之後、他國に遷任被る。豈、御憂恕に非る哉。子細は猶、廣元下向之時、仰せ被る可し之由、

  かつう にいのきょう もと  おお  つか    べ   のよし  ないない みけしきそうろうなり  よつ  しょうけい くだん ごと
 且は二位卿の許へ仰せ遣はす可し之由。内々に御氣色候也。仍て上啓件の如し。

          にがつじうはちにち                                    うだいべん
     二月十八日                 右大弁

    きんじょう   ごんのちゅうなごんどの
  謹上  權中納言殿

       と     しょうけい
   遂つて上啓す

         よしさだ  もんじょら   かへ  つか    べ   のよし  そうろうところなり
    義定が文書等、返し遣はす可し之由に候所也。

現代語文治六年(1190)二月大二十五日庚子。下総守安田三郎義定が申し上げた箇条書きに対し、法皇様からの返事を権中納言吉田経房が取次いできた院からの手紙は、右大弁宰相定長が命じられて書いた奉書です。安田義定はこれを読んで、がっかりした憂い悲しみは断腸の思いなんだとさ。その手紙に書いてあるのは。

 二位卿頼朝の手紙と安田義定上申書を、法皇様に取次ぎました。(安田義定が)遠州に居る間の、公務納税の記録内容を申します。諸国の国司は、この程度の役務を出来ないものでしょうか。皆横取り滞納をしているとご存知ですか。京都に住んでいる国司は、納税を済ました上、恒例の課税も、臨時の課税も果たしており、そのほかにも又、朝廷に尽くしているところであります。安田義定は、これといった忠義を尽くしたわけでもなく、あちこちの国は日を追って衰えてきております。まともに国を治められる者とはいえません。そればかりか、(法皇の居住)六条殿の建て直しのとき、諸国は皆、納税を了解をしました。遠江一国はゴチャゴチャ言って納得しませんでした。頼朝様からのお叱りがあって、いやいやながら勤めました。又、私用で参詣する時に、京都を通過しましたが、何の挨拶も無かった。諸国の役人が京都へ上って来たドサクサに、密かに帰りました。それも未だに聞いた事の無い事です。このような些細な事は、わざわざお伝えする事ではありませんが、おおよその事はそういう訳です。七年間管理をして、他の国へ転任したのですから、何の苛めている訳ではなく、許してやっているじゃありませんか。詳しい事は、大江広元が帰ったらお話をするでしょうからと、頼朝様にお伝えするようにとの、ことでしたので、この通り書いたのであります。
    二月十八日          右大弁定長
  謹んで 権中納言吉田経房殿
  追って申し上げます。
   安田義定の手紙は、お返しするようとの事でした。

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吾妻鏡入門第十巻   

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