吾妻鏡入門第十巻   

文治六年(1190)庚戌五月

建久元年(1190)五月大三日丙辰。於南御堂。爲一條殿追善。被修佛事。導師信救得業。被供養繪像阿弥陀三尊。二位家并御臺所有御聽聞。前少將時家取導師被物。左衛門尉祐經引同馬云々。

読下し                    みなみみどう をい    いちじょうどの ついぜん ため  ぶつじ   しゅうせら   どうし  しんきゅうとくごう
建久元年(1190)五月大三日丙辰。南御堂@に於て、一條殿の追善の爲、佛事を修被る。導師は信救得業A

えぞう    あみださんぞん   くようせら      にいけ なら   みだいどころごちょうもんあ   さきのしょうしょうときいえ どうし  かづけもの と
繪像の阿弥陀三尊を供養被る。二位家并びに御臺所御聽聞有り。前少將時家、導師の被物を取る。

さえもんのじょうすけつね おな   うま  ひ     うんぬん
左衛門尉祐經B同じく馬を引くと云々。

参考@南御堂は、勝長寿院。
参考A
信救得業は、元は大夫坊覚明で、平家物語では木曾冠者義仲の参謀である。
参考B左衛門尉祐經は、曾我兄弟に仇討ちで討たれる工藤左衛門尉祐經。

現代語建久元年(1190)五月大三日丙辰。南御堂勝長寿院で、一条能保の妻の追善供養に、法事を行いました。指導僧は信救得業です。
絵画の阿弥陀三尊象を拝みました。二位家頼朝様と奥方の政子様がお経を聞きました。前少将時家が導師への布施に被り物を渡しました。工藤左衛門尉祐経は同様に馬を引いて渡しましたとさ。

建久元年(1190)五月大五日戊午。今日営中不被茸菖蒲。是御輕服之間。御悲歎之餘也云々。

読下し                    きょう えいちゅう しょうぶ  ふかれず   これ  ごきょうぶく のかん  ごひかんの あま  なり  うんぬん
建久元年(1190)五月大五日戊午。今日営中に菖蒲を茸@被不。是、御輕服A之間、御悲歎之餘り也と云々。

参考@菖蒲を葺は、端午の節句に厄よけの菖蒲を茅葺の棟に刺し飾る。鎌倉時代には公卿仲間では廃れ、武士のあいだでは尚武(しょうぶ=武をたっとぶ)の気風が強く、「菖蒲」と「尚武」をかけて、端午の節句を尚武の節日として盛んに祝うようになった。
参考A輕服は、離れて住んでいる姉の喪なので、軽いほうの喪に服している。

現代語建久元年(1190)五月大五日戊午。今日は(端午の節句ですが)、御所の屋根には菖蒲を飾りませんでした。それは、喪中なので、悲しみの余り飾るのを止めましたとさ。

建久元年(1190)五月大十日癸亥。右武衛室家四十九日。可被修御佛事之由。被仰遣佐々木左衛門尉定綱。導師請僧布施事。募近江國田上報恩寺等乃貢。可致其沙汰之由云々。

読下し                     うぶえい   しつけ  しじゅうくにち  おんぶつじ  しゅうせらる べ  のよし
建久元年(1190)五月大十日癸亥。右武衛が室家の四十九日、御佛事を修被る可し之由、

ささきのさえもんのじょうさだつな  おお  つか  さる
佐々木左衛門尉定綱に仰せ遣は被る。

どうし   しょうそう  ふせ   こと  おうみのくに たなかみ    ほおんじ ら    のうぐ   つの    そ    さた いた  べ   のよし  うんぬん
導師、請僧の布施の事、近江國の田上@、報恩寺A等の乃貢を募り、其の沙汰致す可し之由と云々。

参考@近江國田上は、滋賀県大津市田上、上田上。田上山とも云い東大寺の杣があった。
参考A報恩寺は、荘園で滋賀県高島市新旭町饗庭(あいば)

現代語建久元年(1190)五月大十日癸亥。右武衛一条能保の奥さんの四十九日の法事を行うように、佐々木左衛門尉定綱に命じられました。法事指導僧や供の坊さん達へのお布施は、近江国(滋賀県)の田上の庄と報恩寺の庄から年貢を集め、それで賄いなさいとの事でした。

建久元年(1190)五月大十二日乙丑。加賀國井家庄地頭都幡小三郎隆家不義事。自 仙洞被仰下之間。今日令加下知給。平民部丞盛時奉行之。
 井家庄内。都幡方号地頭。致方々不當之間。不用領家之所命。不受京下之使者。押領所務。冤陵土民。况乎自名之課役。一切不致其勤之由。自 院所被仰下也。所行之至。奇恠無極。直雖可停止地頭職。先所下知遣也。自今以後。令違背領家命者。可令停廢地頭職也。其上隆家之身も。難遁重科歟。仰旨如此。仍以執達如件。
     五月十三日                     盛時〔奉〕
   加賀國井家庄内都幡小三郎所

読下し                      かがのくにいのへのしょう ぢとう  つはたこさぶろうたかいえ    ふぎ   こと  せんとうよ  おお  くださる   のかん
建久元年(1190)五月大十二日乙丑。加賀國井家庄@地頭、都幡小三郎隆家Aが不義の事。仙洞自り仰せ下被る之間、

きょう   げち   くは  せし  たま   へいみんのじょうもりとき  これ  ぶぎょう
今日下知を加え令め給ふ。平民部丞盛時、之を奉行す。

  いのへのしょうない つはた かた   ぢとう  ごう    かたがた  ふとう  いた   のかん  りょうけの しょめい  もち  ず  きょうげの ししゃ    う   ざる
 井家庄内、都幡の方、地頭と号し、方々の不當を致す之間、領家之所命を用い不、京下之使者を受け不、

  しょむ   おうりょう    どみん  えんりょう   いはん じみょうのかえき    いっさい そ  つと    いた  ず のよし  いん よ  おお  くださる  ところなり
 所務を押領し、土民を冤陵す。况や自名之課役乎、一切其の勤めを致さ不之由。院自り仰せ下被る所也。

  しょぎょうのいた    きっかいきは    な     じき  ぢとうしき   ちょうじすべ   いへど   ま    げち   つか   ところなり
 所行之至り、奇恠極まり無し。直に地頭職を停止可しと雖も、先ず下知を遣はす所也。

  いまよ    いご   りょうけ  めい  いはい せし  ば   ぢとうしき  ていはいせし  べ   なり  そ   うえ たかいえのみ    ちょうか  のが  がた  か
 今自り以後、領家の命に違背令め者、地頭職を停廢令む可き也。其の上隆家之身も、重科を遁れ難き歟。

  おお    むねかく  ごと    よつ  もつ  しったつくだん ごと
 仰せる旨此の如し。仍て以て執達件の如し。

           ごがつじうさんにち                                            もりとき 〔ほう  〕
     五月十三日                     盛時〔奉ず〕

      かがのくに いのへのしょうない つはたここさぶろう  ところ
   加賀國 井家庄内 都 幡小三郎の 所

参考@井家は、イノヘと読み、石川県金沢市と津幡町一帯で長講堂領=後白河領。
参考A都幡小三郎隆家、富樫の一族。石川県河北郡津幡町。

現代語建久元年(1190)五月大十二日乙丑。加賀国井家(いのへ)庄の地頭「都幡小三郎隆家」が義務を果たしていない事を、院から云って来たので、今日命令を出しました。平民部烝盛時が担当です。

 井家(いのへ)庄の都幡の者が地頭だと云って、あちこちで不当な行いをして、領家の命令を聞かず、京都からの派遣者を受け入れず、年貢の実務権限を横取りし、農民をいたぶっている。勿論、自分の元々の領地の負担分の義務も一切しませんと、院から云ってこられました。それらの行いはとんでもない事極まりない。直ぐに地頭職を解任するところだが、とりあえず命令を出します。これからは領家の命令を聞かなければ、地頭職を解任する。しかも隆家の身の上も刑を免れない事になる。(鎌倉殿)の命じているのはこの通りです。それで命に応じての通知はこの通りです。
  五月十三日             平民部烝盛時〔執筆〕
  加賀国井家庄内都幡小三郎隆家へ

説明名(みょう)とは、大規模経営農場の家父長的経営者との説と、帳簿上の徴税単位に過ぎないとの説がある。双方ともに存在したのではないか。

建久元年(1190)五月大十三日丙寅。六條院修理并庄々年貢事。被下 院宣。今日到來。其状云。
 六條院者。 白河法皇御草創。崇重年久。而近年荒廢。住侶失止住之便。其地爲牛馬之栖。御起請之趣。旁可恐事歟。仍殊有御沙汰。云修理。云年貢。所被相催也。其内御沙汰庄々注文遣之。殊可令下知給之由。
 院御氣色候也。仍上啓如件。
      四月廿六日           右大弁
  謹上  源二位殿
   逐啓
    權中納言被參熊野之間。可仰遣之由候也。仍所上啓候也。

読下し                     ろくじょういん しゅうりなら    しょうしょう ねんぐ  こと  いんぜん  くださる    きょうとうらい
建久元年(1190)五月大十三日丙寅。六條院@の修理并びに庄々の年貢の事。院宣を下被る。今日到來す。

そ   じょう い
其の状に云はく。

  ろくじょういんは  しらかわほうおう ごそうそう  すいちょうとしひさ    しか    きんねんこうはい   じゅうりょしじゅうのびん  うしな   そ  ち ぎゅうばのすみか  な
 六條院者、白河法皇の御草創、崇重年久し。而るに近年荒廢し、住侶止住之便を失う。其の地牛馬之栖と爲す。

  ごきしょうのおもむき かたがた おそ べ   ことか  よつ  こと   ごさた  あ     しゅうり  い   ねんぐ   い     あいもよ  さる ところなり
 御起請之趣、 旁 恐る可き事歟。仍て殊に御沙汰有り。修理と云ひ年貢と云ひ、相催ほ被る所也。

  そ   うち    ごさた   しょうしょう ちうもんこれ  つか      こと   げち せし  たま  べ   のよし
 其の内、御沙汰の庄々の注文之を遣はす。殊に下知令め給ふ可し之由。

  いん  みけしきそうろうなり よつ じょうけいくだん ごと
 院の御氣色候也。仍て上啓件の如し。

           しがつむいか                                  うだいべん
     四月廿六日               右大弁

    きんじょう    げんにいどの
  謹上  源二位殿

      ついけい
   逐啓

        ごんのちゅうなごんくまの まいらる  のかん  おお  つか   べ  のよしそうろうなり よつ じょうけい そうろうところなり
    權中納言熊野へ參被る之間、仰せ遣はす可し之由候也。仍て上啓し候所也。

参考@六條院は、下京区六条宮町東通。白河天皇の皇女郁芳門院の邸宅が寺になった六条御堂。

現代語建久元年(1190)五月大十三日丙寅。六條院(六条御堂)を修理して欲しい事と、荘園等の年貢について、院からの命令が今日届きました。その手紙の内容は

 六条院は、白河法皇がご創建され、敬われて随分と年月を経ております。それなので最近あちこち痛んできて、坊さんが住みにくくなってしまい、牛馬位しかすむことが出来ない有様です。それは白河院のご祈願に対し、大変恐れ多いことであります。そこでご命令がありました。殿の修理についても、年貢についても、処理を催促されております。その内、特に処理して欲しい荘園等の書き出しを送りますので、特に命令するようにとの
 院のお気持なので、申し上げますのはこの通りです。
        四月二十六日               右大弁
  謹んで、源二位殿
 追伸
  権中納言吉田経房さんが、熊野詣に行っているので、私が通知するように命じられて書きました。

建久元年(1190)五月大十五日戊辰。甚雨。大風。雷鳴。終日不休止。大倉山震動。樹木多顛倒。巖石頽落。其跡俄爲細流。是龍降云々。

読下し                     はなは あめ  おおかぜ  らいめい  しゅうじつやまず  おおくらやましんどう
建久元年(1190)五月大十五日戊辰。甚だ雨。大風。雷鳴。終日不休止。大倉山震動す。

じゅもく おお  てんとう    がんせきくず お     そ  あとにはか さいりゅう な    これ  りゅう くだ    うんぬん
樹木多く顛倒し、巖石頽れ落ち、其の跡俄に細流と爲す。是、龍が降ると云々。

現代語建久元年(1190)五月大十五日戊辰。ものすごい雨と大風、それに雷が一日中止みません。
この暴風で大倉山が揺れ動いて、木が沢山倒れて、崖崩れが起きて、その崩れたところを水が流れ落ち、まるで龍が天から降りてきたみたいだったのだとさ。

建久元年(1190)五月大十九日壬申。大和前司重弘自京都歸參。能及專使。爲悲歎之中喜悦之由。右武衛殊被申御返報。重弘申云。去月十三日。彼室家爲存命落餝給。雖有産。遂以早世。翌日奉葬仁和寺邊。彼日賀茂祭也云々。

読下し                     やまとのぜんじしげひろ  きょうと よ  きさん
建久元年(1190)五月大十九日壬申。大和前司重弘、京都自り歸參す。

わざわざ せんし  およ        ひかんのなか   きえつ た   のよし   うぶえい こと  ごへんぽうもうさる    しげひろ もう    い
 能と專使に及ぶこと、悲歎之中の喜悦爲る之由、右武衛殊に御返報申被る。重弘申して云はく、

さんぬ つきじうさんにち か   しつけ ぞんめい ため かざり おと   たま      さん あ    いへど   つい  もつ  そうせい
去る月十三日、彼の室家存命の爲に餝を落し@給ひて、産有ると雖も、遂に以て早世す。

よくじつ  にんなじ   へん ほうむ たてまつ  か  ひ    かも  まつりなり  うんぬん
翌日、仁和寺の邊に葬り奉る。彼の日は賀茂の祭也と云々。

参考@餝を落しは、高齢出産の為、母子の無事を祈って出家をした。

現代語建久元年(1190)五月大十九日壬申。大和前司山田重弘が、京都から帰ってきました。
わざわざ弔問の使いを寄越してくれた事は、悲しみの中で唯一の嬉しい事でしたと、右武衛一条能保がお礼の手紙で云って来ました。
山田重弘の報告は、先月の十三日に命乞いのために出家までした上で、お産に望みましたが、残念ながら亡くなってしまいました。翌日、仁和寺の辺りに埋葬しました。その日は賀茂神社の祭りの日でしたとさ。

建久元年(1190)五月大廿三日丙子。仙洞女房三位局來月於台嶺。可修佛事由。依令聞及給。被遣砂金帖絹等云々。

読下し                     せんとう  にょぼうさんみのつぼね  らいげつ たいれい  をい    ぶつじ  しゅう べ   よし
建久元年(1190)五月大廿三日丙子。仙洞の 女房三位局@、來月 台嶺Aに於て、佛事を修す可し由、

き   およ  せし  たま    よっ    さきん  ちょうけんら  つか  さる    うんぬん
聞き及ば令め給ふに依て、砂金、帖絹等を遣は被ると云々。

参考@仙洞の 女房三位局は、高階栄子。この人に大姫の入内をそそのかされる。夫が有りながら鳥羽殿に幽閉の間、後白河の子を孕んだ。
参考A台嶺は、天台宗比叡山。

現代語建久元年(1190)五月大二十三日丙子。院の住まい仙洞の女官三位局高階栄子が、来月比叡山で法事を行うと聞いたので、砂金や絹織物を送られましたとさ。

建久元年(1190)五月大廿九日壬午。御随身左府生秦兼平去比進使者。是八條院領紀伊國三上庄者。兼平譜第相傳地也。而自關東所被定補之地頭豊嶋權守有經。於事對捍。抑留乃具。早可蒙恩裁之由訴申。仍任先例可沙汰濟物之旨。給御下文之間。彼使者今日歸洛云々。

読下し                     ごずいしん  さ   ふしょう  はたのかねひら さぬ ころ ししゃ しん
建久元年(1190)五月大廿九日壬午。御随身@左の府生A、秦兼平 去る比使者を進ず。

これ  はちじょういんりょう きいのくにみかみのしょう は かねひら ふだいそうでん  ちなり
是、八條院領の 紀伊國三上庄B者、兼平が譜第相傳の地也。

しか    かんとうよ   じょうぶさる  ところのぢとう  てしまのごんのかみありつね   こと  をい  たいかん   のうぐ   よくりゅう
而るに關東自り定補被る所之地頭、豊嶋權守有經C、事に於て對捍し、乃具を抑留す。

 はや  おんさい  こうむ べ   のよし うった もう    よつ  せんれい まか  さいもつ  さた   べ   のむね
早く恩裁を蒙る可し之由訴へ申す。仍て先例に任せ濟物を沙汰す可し之旨、

おんくだしぶみ  たま    のかん  か   ししゃ   きょう きらく     うんぬん
 御下文を 給はる之間、彼の使者、今日歸洛すと云々。

参考@御随身は、朝廷勤務の公卿の護衛兵。
参考A府生は、六衛府・検非違使の下役。
参考
B
三上庄は、和歌山市南半分。
参考C豊嶋権守有経は、紀州守護でもある。

現代語建久元年(1190)五月大二十九日壬午。院の護衛兵で近衛府の下役府生の秦兼平が使いを鎌倉へ寄こしました。
それは、後白河院の妹八条院が領家の紀伊国三上庄は、兼平が預所を代々受け継いできた土地なのです。それなのに関東から任命されて来た地頭の豊島権守有経が、年貢の納付を逆らって、滞納しています。早く有り難い判決を戴きたいと訴えてきました。
それなので、今までどおりに年貢を納めるように、命令書を与えたので、使いは今日京都へ帰りましたとさ。

六月へ

吾妻鏡入門第十巻   

inserted by FC2 system