吾妻鏡入門第十巻   

建久元年(1190)庚戌七月

建久元年(1190)七月大一日癸丑。今明年之間。固可禁断殺生之由。被仰關東御分國。是依 聖断也。於其外國々者。不可限年之旨。去月九日被 宣下云々。

読下し                   こんみょうねんのかん  かた  せっしょう きんんだんすべ のよし  かんとうごぶんこく  おお  らる
建久元年(1190)七月大一日癸丑。今明年之間@、固く殺生を禁断可し之由、關東御分國に仰せ被る。

これ  せいだん よつ  なり   そ   ほか  くにぐに  をい  は   とし  かぎ べからずのむね さんぬ つきここのかせんげせら    うんぬん
是、聖断に依て也A。其の外の國々に於て者、年を限る不可之旨、去る月九日宣下被ると云々。

参考@今明年之間は、今年と来年の間は。
参考A是、聖断に依て也は、これは天皇家からの命令だから。

現代語建久元年(1190)七月大一日癸丑。今年と来年とは、厳しく生き物を殺す殺生を禁止するようにと、関東の管理している国々へ命じられました。
これは、後白河院がお決めになったからです。関東以外の国などでは、今年と来年に限らないと、先月の九日に院から命令が出たからだそうです。

建久元年(1190)七月大十一日癸亥。土左國住人夜湏七郎行宗。可安堵本領之旨。賜御下文。是土左冠者被討取給之時。不惜身命。討取怨敵蓮池權守以降。度々有勳功云々。

読下し                     とさのくにじゅうにん やすのしちろうゆきむね  ほんりょう あんどすべ  のむね  おんくだしぶみ たま
建久元年(1190)七月大十一日癸亥。土左國住人 夜湏七郎行宗@。本領を安堵可し之旨、御下文を賜はる。

これ  とさのかじゃ う   と  ら   たま  のとき  しんめい おしまず  おんてき はすいけごんのかみ  う  と   いこう   たびたびくんこうあ    うんぬん
是、土左冠者A討ち取被れ給ふ之時、身命を惜不、怨敵 蓮池權守を 討ち取る以降、度々勳功有ると云々。

参考@夜須七郎行宗は、高知県夜須町、希義の舅で、寿永元年九月二十五日条参考。
参考
A土左冠者は、希義で頼朝の同母弟。

現代語建久元年(1190)七月大十一日癸亥。土佐国の地侍の夜須七郎行宗に、元からの領地を公式に認める本領安堵の命令書を与えられました。
それは、頼朝様の弟土佐冠者希義様が討たれた時に、自分の命をかえりみずに、敵の蓮池権守家綱を討ち取った後も、何度も手柄を立てているからだそうです。

建久元年(1190)七月大十二日甲子。法橋昌寛爲使節上洛。是來十月可有御上洛之間。於六波羅。當時可被新造御亭。仍爲奉行也云々。

読下し                     ほっきょうしょうかん しせつ  な   じょうらく   これ  きた  じうがつ ごじょうらく あ べ   のかん
建久元年(1190)七月大十二日甲子。 法橋昌寛 使節と爲し上洛す。是、來る十月御上洛有る可し之間、

 ろくはら   をい    とうじ おんてい  しんぞうさる  べ     よつ  ぶぎょう  ためなり  うんぬん
六波羅に於て、當時御亭を新造被る可し。仍て奉行の爲也と云々。

現代語建久元年(1190)七月大十二日甲子。法橋一品房昌寛が派遣員として京都へ上ります。
それは、この十月に頼朝様が京都へ上られるので、六波羅で現在新しい屋敷を建設されるので、その指揮担当のためなんだそうです。

建久元年(1190)七月大十五日丁夘。今日。盂蘭盆之間。二品參勝長壽院給。被勤修万燈會。是爲照平氏滅亡衆等黄泉云々。

読下し                     きょう   うらぼん の かん  にほん しょうちょうじゅいん さん  たま    まんどうえ  ごんじゅさる
建久元年(1190)七月大十五日丁夘。今日、盂蘭盆@之間、二品 勝長壽院に參じ給ひ、万燈會Aを勤修被る。

これ  へいしめつぼう  しゅうら   よみ   てら    ため  うんぬん
是、平氏滅亡の衆等の黄泉を照さん爲と云々。

現代語建久元年(1190)七月大十五日丁卯。今日は、お盆なので、頼朝様は勝長寿院南御堂で沢山のお燈明を上げる万燈会の式を捧げました。
これは、源平合戦で滅びた平家一族の真っ暗な黄泉の国での旅に、足元を照らしてあげて、迷わないようにするためだそうだ。

説明@盂蘭盆は、今で云うお盆。もと中国で、餓鬼道に落ちた母を救う手段を仏にたずねた目連(もくれん)が、夏安居(げあんご)の最後の日の7月15日に僧を供養するよう教えられた故事を説いた盂蘭盆経に基づき、苦しんでいる亡者を救うための仏事で七月十五日に行われた。日本に伝わって初秋の魂(たま)祭りと習合し、祖先霊を供養する仏事となった。迎え火・送り火をたき、精霊棚(しようりようだな)に食物を供え、僧に棚経(たなぎよう)を読んでもらうなど、地域によって各種の風習がある。江戸時代から旧暦の七月十三日から十六日までになり、現在地方では月遅れの八月一三日から一五日に行われるが、都会では七月に行う地域も多い。
参考A万燈會は、懺悔・報恩のために、多くの灯明をともして供養する行事。奈良時代から行われ、東大寺・高野山のものが有名。万灯供養とも云う。ウィキペディアから

建久元年(1190)七月大廿日壬申。營中有雙六御會。佐々木三郎盛綱候御合手。子息太郎信實〔年十五〕在父之傍。而工藤左衛門尉祐經追參加。依無座懷取信實。令居傍候其跡。此間信實頗變顏色退出。持來一礫。打祐經之額。其血流降水干之上。二品太有御氣色。仍信實逐電。父盛綱則起座雖追之。不知行方云々。

読下し                   えいちゅう すごろく  おんかい あ    ささきのさぶろうもりつな おんあいて そうらう
建久元年(1190)七月大廿日壬申。營中で雙六の御會有り。佐々木三郎盛綱御合手に候。

しそく たろうのぶざね 〔としじうご〕  ちちのかたわら あ
子息太郎信實〔年十五〕@父之傍に在り。

しか    くどうのさえもんのじょうすけつね おつ  さんか    ざ な     よつ  のぶざね  かかえと   かたわら いせし  そ   あと そうらう
而るに 工藤左衛門尉祐經 追て參加し、座無きに依て信實を懷取り、傍に居令め其の跡に候。

こ   かん  のぶざね すこぶ かおいろ か  たいしゅつ  ひと   つぶて も   きた   すけつねのひたい う
此の間、信實 頗る顏色を變え退出し、一つの礫を持ち來り、祐經之額を打つ。

そ   ち すいかんの うえ なが  お     にほん はなは みけしき あ    よつ  のぶざねちくてん
其の血水干之上に流れ降ち、二品太だ御氣色有り。仍て信實逐電す。

ちちもりつな すなは ざ   た   これ  お     いへど   ゆくえしれず  うんぬん
父盛綱は則ち座を起ち之を追うと雖も、行方不知と云々。

現代語建久元年(1190)七月大二十日壬申。御所で双六の会がありました。佐々木三郎盛綱が頼朝様のお相手をしておりました。息子の太郎信実〔年は十五歳〕は、父の脇で見ていました。
そこへ工藤左衛門尉祐経が後から参加してきて、座る場所が無いので信実を抱え上げて脇へどかして、その後へ座ってしまいました。そうしたら、信実は頭へ来てえらく顔色を変えて部屋から出て行ったかと思うと、手には小石を持ってきて、それを工藤左衛門尉祐経のおでこに打ち当てました。額から流れ出た血が着ている水干に流れたので、頼朝様はご立腹なされました。そしたら、信実は逃げてしまいました。父の佐々木三郎盛綱は席を立って、追いかけましたが、何処へ行ったか分かりませんでしたとさ。

説明@佐々木太郎信實〔年十五〕は、後に越後加治荘(旧新潟県北蒲原郡加治川村・現新発田市上今泉に加治川小学校あり)を相続する。領家は藤原信義。

建久元年(1190)七月大廿一日癸酉。信實遂出家迯亡云々。可召進其身之旨。雖被仰盛綱。更無所于求之。仍永令義絶訖。不可譲與立針地之由言上。仰曰。信實雖爲廿未満小冠。難知祐經所存。早向祐經。可謝此趣者。盛綱報申云。於祐經兼不挾宿意。只臨時信實現奇恠思。其不義不能左右。然而盛綱爲彼父。令陳謝之條。頗非勇士本意。爲上計可被宥仰歟者。聊相叶理致之由。依被思食。以邦通爲御使。被仰曰。盛綱已令義絶信實訖。於其向後。不可有所存者。祐經申云。思事濫觴。信實道理也。隨而小冠所爲。更無確執。况於盛綱。不存異心乎云々。

読下し                のぶざねしゅっけ と   とうぼう    うんぬん
建久元年(1190)廿一日癸酉。信實出家を遂げ迯亡すと云々。

そ   み   め   しん  べ   のむね  もりつな  おお  らる   いへど   さら  これ  もと    に ところ な
其の身を召し進ず可し之旨、盛綱に仰せ被ると雖も、更に之を求むる于所無し。

よつ  なが  ぎぜつせし をはんぬ はり  た     ち   じょうよ  べからずのよし ごんじょう
仍て永く義絶令め訖。 針の立てる地も譲與す不可之由言上す。

おお    い      のぶざね はたちみまん しょうかん な    いへど   すけつね しょぞん  し   がた
仰せて曰はく、信實 廿未満の小冠を爲すと雖も、祐經の所存を知り難し。

はや すけつね むか    かく おもむき あやま べ  てへ   もりつな ほう  もう    い
早く祐經に向ひ、此の趣を謝る可し者り。盛綱報じ申して云はく。

すけつね をい    かね  すくい  さしはさ ず   ただ  とき  のぞ  のぶざねきっかい おも    あらわ   そ    ふぎ とこう  あたはず
祐經に於ては兼て宿意を挾ま不。只、時に臨み信實奇恠の思ひを現す@。其の不義左右に不能A

しかれども もりつな か ちち  なし    ちんしゃせし  のじょう  すこぶ ゆうし    ほい   あらず
然而、盛綱彼の父と爲て、陳謝令む之條。頗る勇士の本意に非。

かみ  はから   な   なだ  おお  らる  べ   か てへ      いささ  りち   あいかな  のよし  おぼ  め さる    よつ
上の計ひと爲し宥め仰せ被る可き歟者れば、聊か理致に相叶う之由、思し食被るに依て、

くにみち  もつ  おんつかい な    おお  られ  い       もりつなすで  のぶざね ぎぜつせし をはんぬ そ   こうご  をい    しょぞんあ   べからずてへ
邦通を以て御使と爲し、仰せ被て曰はく。盛綱已に信實を義絶令め訖。 其の向後に於て、所存有る不可者れば。

すけつね もう    い       こと  らんしょう  おも      のぶざねどうりなり
祐經 申して云はく。事の濫觴Bを思うに、信實道理也。

したがって しょうかん しょい  さら  かくしつな    いはん もりつな  をい   いしん  ぞん  ず と うんぬん
隨而、小冠の所爲、更に確執無し。况や盛綱に於て、異心を存ぜ不乎云々。

参考@奇恠の思ひを現すは、とんでもないことをしでかした。
参考
A其の不義左右に不能は、それが悪いかどうかは議論の余地が無い。
参考B事の濫觴は、事件の原因は。

現代語建久元年(1190)七月大二十一日癸酉。佐々木信実は、頭を剃って何処かへ逃げてしまったそうだ。その身柄を連れてくるように、(頼朝様が)佐々木三郎盛綱に命じられましたが、捜しようもありませんでした。仕方が無いので「勘当を決めて、立錐の余地も相続はしません。」と申し上げました。
すると頼朝様がおっしゃるのには、「信実は二十歳未満の若造だけれども、工藤祐経がどう思っているか分からない。早く祐経に会ってその事を謝った方が良い。」とのことです。
盛綱は答えて申し上げました。「祐経は、特に遺恨は持っていないが、只、あの場での信実はとんでもない事をしでかしたので、その罪は議論の余地もありません。しかし、盛綱としては、父だからと云って頭を下げることは、勇ましい武士の本文ではありません。お上の方から祐経を宥めてくださいよ。」と云ったので、それも多少理屈に合っているなぁと思われたので、大和判官代邦道を使いとして、お言葉を伝えさせました。
「佐々木盛綱は、すでに信実を勘当したので、今後は根に持たないように。」とおっしゃられました。
祐経が云うのには、「事件の原因を考えてみれば、信実に道理があります。したがって小倅の行いなので、特に遺恨に思っていません。まして盛綱に対しては仕返しなんぞ致すつもりは有りません。との事だったんだとさ。

建久元年(1190)七月大廿七日己夘。京都宿所地事。度々雖令申給。其所未治定之上。今年依可有御上洛。殊被馳申之。於作事奉行人者。如材木爲用意。兼以上洛地事者。重被立飛脚。行程可爲五ヵ日云々。御書云。
 宿所事。先日言上候畢。東路之邊宜候歟。廣らかに給候て。家人共の屋形なとを搆て候はんするに。可令宿之由。思給候也。以此旨可令洩達給候。頼朝恐惶謹言。
      七月廿七日      頼朝
  進上  權中納言殿

読下し                     きょうと  しゅくしょち  こと  たびたび もう  せし  たま   いへど   そ ところいま  ちじょう     のうえ
建久元年(1190)七月大廿七日己夘。京都の宿所地の事。度々申さ令め給ふと雖も、其の所未だ治定せず之上、

ことし ごじょうらく あ   べ    よつ    こと  これ  は   もうさる    さくじぶぎょうにん  をい  は   ざいもく  ごと    ようい  ため  かね  もつ  じょうらく
今年御上洛有る可しに依て、殊に之を馳せ申被る@。作事奉行人に於て者、材木の如きの用意の爲、兼て以て上洛す。

ち   ことは   かさ    ひきゃく  た   らる    こうていいつかにち  な   べ     うんぬん  おんしょ  い
地の事者、重ねて飛脚を立て被る。行程五ヵ日と爲す可しと云々。御書に云はく。

参考@殊に之を馳せ申被るは、特に急がせた。

  しゅくしょ  こと  せんじつごんじょう そうら をはんぬ  とうろのへん よろ    そうら   か
 宿所の事。先日言上し 候ひ 畢。 東路之邊宜しく候はん歟。

  ひろ      たま   そうらひ   けにんども  やかた      かまへ そうら    ずるに    しゅくせし  べ   のよし  おも  たま そうろうなり
 廣らかに給はり候て、家人共の屋形なとを搆て候はんするに、宿令む可し之由、思ひ給ふ候也。

  こ   むね  もつ  も   たつ  せし  たま  べ そうろう よりともきょうこうきんげん
 此の旨を以て洩れ達さ令め給ふ可く候。頼朝恐惶謹言。

              しちがつにじうしちにち                          よりとも
      七月廿七日              頼朝

    しんじょう   ごんのちゅうなごんどの
  進上  權中納言殿

現代語建久元年(1190)七月大二十七日己卯。京都の宿泊地については、何度も要望しているのですが、その場所が未だに決まりませんので、今年は京都へ上洛する予定なので、特に急がせておられます。建物建築指揮者は建物の材木を調達するために、前もって京都へ行かせてます。土地の問題については、又も伝令を発しました。五日で京都へたどり着くようにと命じられましたとさ。その手紙の内容は。

 京都宿舎については、先日申し上げて有ります。東の出入り口に当たる辺りが良いと思うのです。広い土地を斡旋して欲しいのは、部下たちの宿舎も建設して泊めたいと思うからです。この内容で院にお伝えいただくように、頼朝が恐れながら申し上げます。
    七月二十七日              頼朝
  お届けします 権中納言吉田経房殿

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