吾妻鏡入門第十巻   

建久元年(1190)庚戌八月

建久元年(1190)八月小三日乙酉。河内國内庄々地頭等押領事。并糟谷藤太有季致狼藉事。可被尋成敗之由。被下院宣之間。被献御請文之上。所被問子細於彼地頭也。
 河内國努事。任被仰下候之旨。相尋于光輔候畢。濫妨輩。公朝。時定。義兼等。以消息所下知候也。件状三通。謹以進上之。至有季濫行者。不當第一に候。隨罪科て。御沙汰候はむを。とかく不可言上候也。以此旨可令洩達給。頼朝恐々謹言。
      八月三日               頼朝
御下文等
 河内國々領〔ヲ〕。時定〔加〕陸奥所といふ假名〔ヲ〕立て。令押領之由有其聞。先陸奥所〔と〕云假名。聞耳見苦之上。無礼〔と〕不存哉。彼奥州にて。出羽國内を押領せん爲〔ニハ〕。陸奥所とも云てん。縱押領して有とても。地頭許にて。有限國事を不對捍ハこそ。過怠を遁所もあらめ。對捍濫妨爲先て。如然不當を致事。奇恠之至。不及左右事也。早有限國事ハ。任先例可致其勤。又可隨國司下知也。若猶有懈怠者。將可令停止地頭職也。仰旨如此。仍以執達如件。
      八月三日               盛時〔奉〕
     平六左衛門尉殿
 河内國山田郷事。爲地頭可随國命之由を。下文〔ニ〕載畢。而當任國司光輔之時。鎌倉の仰を蒙たり。早可觸鎌倉之由令稱云々。此條鎌倉〔ニ〕國司なくハこそ。令進止左右。如何樣〔ニ〕仰給けるそ。又誰人をもて仰聞けるやらん。如此虚言以外之次第也。早任先例。可被改其沙汰之由所候也。仍以執達如件。
     八月三日                盛時〔奉〕
 江大夫判官殿

読下し                   かわちのこくない しょうしょう  ぢとうら おうりょう  こと  なら    かすやのとうたありすえ ろうぜきいた  こと
建久元年(1190)八月小三日乙酉。河内國内の庄々の地頭等押領の事、并びに 糟谷藤太有季@狼藉致す事。

たず  せいばいさる べ   のよし  いんぜん  くださる  のかん  おんうけぶみ  けん  らる  のうえ  しさいを か   ぢとう  とはれ  ところなり
尋ね成敗被る可し之由、院宣を下被る之間、御請文を献ぜ被る之上、子細於彼の地頭に問被る所也。

参考@糟谷藤太有季は、父は糟屋庄司盛季で相模糟屋荘(伊勢原市上粕屋)。

  かわちこくむ   こと  おお  くださりそうろうのむね まか    みつすけ に あいたず そうらひをはんぬ
 河内國努の事。仰せ下被候 之旨に任せ、光輔A于相尋ね候畢。

  らんぼう やから  きんとも  ときさだ  よしかねら    しょうそこ  もつ  げち  そうろうところなり  くだん じょうさんつう  つつし もつ  これ  しんじょう
 濫妨の輩、公朝B、時定C、義兼D等に、消息を以て下知し候所也。 件の状 三通、謹み以て之を進上す。

  ありすえ  らんぎょう いた    は   ふとう だいいち そうろう  ざいか   したが     おんさたそうら              ごんじょう べからずそうろうなり
 有季の濫行に至りて者、不當第一に候。 罪科に隨ひて、御沙汰候はむを、とかく言上す不可候也。

  こ   むね  もつ  も   たつ  せし  たま  べ   よりともきょうきょうきんげん
 此の旨を以て洩れ達さ令め給ふ可し。頼朝恐々謹言。

             はちがつみっか                                             よりとも
      八月三日                      頼朝

参考A光輔は、河内国司で宇多源氏。
参考B公朝は、大江公朝
参考
C時定は、北条平六時定同じような事件を東大寺領黒田庄でも起こしている。鎌倉遺文133号
参考D義兼は、足利義兼

  おんくだしぶみら
 御下文等

  かわちのくに こくりょう〔を〕  ときさだ〔が〕  みちのくどころ    けみょう〔を〕 た    おうりょうせし のよし そ  きこ  あ
 河内國 々領E〔ヲ〕時定〔加〕陸奥所といふ假名〔ヲ〕立て、押領令む之由其の聞へ有り。

  ま  みちのくどころ  い  けみょう  き   みみ みぐる     のうえ  ぶれい  ぞんぜずや
 先づ陸奥所〔と〕云う假名、聞き耳見苦しき之上、無礼〔と〕不存哉。

  か   おうしゅう      でわこくない  おうりょう    ため〔には〕   みちのくどころ  いい
 彼の奥州にて、出羽國内を押領せん爲〔ニハ〕、陸奥所とも云てん。

  したが おうりょう   ある        ぢとう ばか        かぎ  あ   こくじ   たいかんせざればこそ   けたい  のが    ところ
 縱い押領して有とても、地頭許りにて、限り有る國事を對捍不ハこそ、過怠を遁るる所もあらめ、

  たいかんらんぼう  さき  なし    しか  ごと  ふとう  いた  こと  きっかいの いた    とこう  およばずことなり
 對捍濫妨を先と爲て、然る如き不當を致す事、奇恠之至り、左右に不及事也。

  はや  かぎ  あ   こくじ は   せんれい まか  そ   つと  いた  べ     また  こくし   げち   したが  べ   なり
 早く限り有る國事ハ、先例に任せ其の勤め致す可し。又、國司の下知に隨う可き也。

  も   なお  けたい あらば  しょう  ぢとうしき  ちょうじせし  べ   なり  おお   むね  かく  ごと    よつ  もつ  しったつくだん ごと
 若し猶も懈怠有者、將、地頭職を停止令む可き也。仰せの旨、此の如し。仍て以て執達件の如し。

             はちがつみっか                                     もりとき 〔ほうず〕
      八月三日                  盛時〔奉〕

           へいろくさえもんのじょうどの
     平六左衛門尉殿C

参考E河内國 々領は、国衙領。

  かわちのくにやまだごう   こと  ぢとう  なし  こくめい  したが べ   のよし    くだしぶみ〔に〕 の をはんぬ
 河内國山田郷Fの事。地頭と爲て國命に随う可し之由を、下文〔ニ〕載せ畢。

  しか    とうにん  こくし みつすけの とき  かまくら おおせ こうむり    はや  かまくら  ふれ  べ   のよし  しょうせし   うんぬん
 而るに當任の國司光輔之時、鎌倉の仰を蒙たり。早く鎌倉に觸る可し之由を稱令むと云々。

  かく  じょう  かまくら〔に〕 こくし  なくばこそ     とこう   しんじ せし     いかよう〔に〕  おお  たまいけるぞ
 此の條、鎌倉〔ニ〕國司なくハこそ、左右を進止令め、如何樣〔ニ〕仰せ給ひけるそ。

  また  だれひと  もって おお  きこ              かく  ごと  きょげん  もつ   ほかの しだいなり
 又、誰人をもて仰せ聞えけるやらん。此の如き虚言、以ての外之次第也。

  はや  せんれい まか   そ    さた   あらた らる  べ   のよし そうろうところなり  よつ もつ  しったつくだん ごと
 早く先例に任せ、其の沙汰を改め被る可し之由に候所也。 仍て以て執達件の如し。

             はちがつみっか                                     もりとき 〔ほうず〕
      八月三日                  盛時〔奉〕

   えのたいふほうがんどの
  江大夫判官殿B

参考F河内國山田郷は、大阪府枚方市山田。

現代語建久元年(1190)八月小三日乙酉。河内国内の荘園等での地頭の年貢横取りについて、それと糟谷藤太有季の違反嫌疑について、事情調査のうえ処分して欲しいと院から手紙が来たので、返事を出される為、詳しい事情を地頭にお尋ねになられました。

 河内国の奉仕義務について、おっしゃられたとおりに院の北面の源光輔に聞きました。その結果、違反した大江公朝、北条時定、足利義兼に対して、文書で命令をいたしました。その手紙の案文三通を謹んでお届けいたします。糟谷藤太有季の悪行につきましては、まことに不当なことであります。罪によってご自由にご判断をいただき、それにとやかく云うつもりはありません。この内容で院へお伝えくださるように、頼朝が謹んで申し上げます。
    八月三日             頼朝

 御家人への命令書には、
 河内国の国衙領を、時定が陸奥所などど名付け勝手に開発をして占領していると院から云って来ています。まずは陸奥所などと云う仮の小字をつけて開発するなんぞみっともないばかりか無礼千万と思わないか。例の奥州(東北地方東部)において、出羽国内(東北地方西部)で占領するのなら、陸奥所と云ってもおかしくない。そこで占領したとしても、その現地での地頭は、大切な国衙への義務を怠けなければこそ、占領の罪を逃れることも出来るけど、滞納や横取りが先にあるなんて、そのような不当な行為は、とんでもないことなので、議論の余地の無いことである。早く大切な国衙への義務は、今までどおりに勤め果たしなさい。又、国司の命令に従うように。もし、これ以上に滞納があれば、鎌倉殿は地頭の地位を取上げてしまいます。殿のご命令はこのとおりなので、書き出したのはこのとおりです。
    八月三日               平民部烝盛時が命じられて書きました
   平六左衛門尉時定殿

 河内国の山田郷については、地頭の役目として国衙の命令に従うように、命令書には書いておいた。それなのに現任国司の源光輔に対して鎌倉から許可を受けているので、鎌倉へ云ってくれといっているそうじゃないか。これについて、鎌倉には国司がいないと承知していながら、そうするなんて、いったいなんと命じられているのだ。又、誰を通してそう云われていると聞いたんだ。そのような嘘はとんでもないことだ。早く今までの例のとおりに、その義務を果たすようにとのことである。命じられて書いたのはこのとおりである。
    八月三日               平民部烝盛時が命じられて書きました
   検非違使大江公朝殿

建久元年(1190)八月小九日辛夘。京御地事。家實朝臣奉書到來。右大弁宰相〔定長〕所被執進也。
 二位卿宿所事。可用邦綱卿東山家之由。先日被仰候畢。於件近邊者。爲御領之上。已多空地云々。相計可令寄宿之由。可被仰遣候之由。内々 御氣色所候也。仍上啓如件
     八月三日                左衛門權佐家實
  謹上  右大弁宰相殿

読下し                   きょう おんち   こと  いえざねあそん  ほうしょとうらい   うだいべんさいしょう  と  しん  らる ところなり
建久元年(1190)八月小九日辛夘。京の御地の事。家實朝臣の奉書到來す。右大弁宰相@執り進ぜ被る所也。

  にいのきょう  しゅくしょ こと  くにつなきょう  ひがしやま いえ  もち    べ   のよし  せんじつおお られそうら をはんぬ
 二位卿の宿所の事、 邦綱卿Aの東山の家を用いる可し之由、先日仰せ被 候ひ畢。

  くだん きんぺん をい  は   ごりょう   な   のうえ   すで  あきち おお    うんぬん
 件の近邊に於て者、御領Bと爲す之上、已に空地多しと云々。

  あいはから きしゅくせし べ   のよし  おお  つか  さる  べ そうろうのよし  ないない  みけしきそうろうところなり   よつ じょうけいくだん  ごと
 相計ひ寄宿令む可し之由、仰せ遣は被る可く候之由、 内々に御氣色候所也。 仍て上啓件の如し。

         はちがつみっか                                                 さえもんのごんのすけいえざね
     八月三日                       左衛門權佐家實C

   きんじょう    うだいべんさいしょうどの
  謹上  右大弁宰相殿

参考@右大弁宰相は、藤原定長。
参考
A邦綱卿は、五条邦綱で清盛の懐刀。兵範記に邦綱卿東山六条末別業とある。
参考B御領は、平家没官領。
参考C左衛門權佐家實は、日野。

現代語建久元年(1190)八月小九日辛卯。京都の宿舎用の土地について、日野家実さんが書いた院からの手紙が届きました。右大弁宰相の藤原定長が取次いだのです。

 二位卿頼朝様の宿所について、平家の五条邦綱氏の東山の家を使うようにと、先日院が仰せになられました。その近所は皆、院が平家から取上げた所で、殆ど空き地になっているそうです。旨く寄宿舎に使うように、伝えなさいとの内々の仰せなので、このとおりお伝えします。
     八月三日               左衛門権佐日野家実
   謹んでお届けします 
右大弁宰相藤原定長殿

建久元年(1190)八月小十三日乙未。右武衛使自京都參着。去月卅日被下流人官苻。重隆〔前佐渡守。常陸國〕兼信〔板垣三郎。隠岐國〕重家〔高田四郎。土佐國〕等也。別當〔通親〕參陣。右少弁親經朝臣奉行之。藤宰相中將〔公時〕於結政請印云々。件輩違勅重疊之間。就被仰下其罪名。可在聖斷由。二品被申切訖。仍及此儀云々。

読下し                    うぶえい   つか  きょうと よ   さんちゃく   さんぬ つきみそか るにんかんぷ  くださる
建久元年(1190)八月十三日乙未。右武衛@の使い京都自り參着す。去る月卅日流人官苻Aを下被る。

しげたか 〔 さきのさどのかみ ひたちのくに 〕   かねのぶ 〔 いたがきのさぶろう  おきのくに 〕   しげいえ  〔 たかだのしろう   とさのくに 〕   ら なり
重隆〔前佐渡守、常陸國〕。兼信〔板垣三郎、隠岐國〕。重家〔高田四郎、土佐國〕等也。

べっとう 〔みちちか〕 さんじん    うしょうべんちかつねあそん これ  ぶぎょう   とうのさいしょうちゅうじょう 〔きんとき〕 かたなし  をい  しょういん    うんぬん
別當〔通親B參陣しC、右少弁親經朝臣 之を奉行す。 藤宰相中將 〔公時〕結政Dに於て請印すと云々。

くだん やから いちょく ちょうじょう  のかん  そ   ざいめい  おお  くださる    つ     せいだん あ  べ   よし  にほん もう  きられをはんぬ
件の輩 違勅 重疊する之間、其の罪名を仰せ下被るに就き、聖斷在る可き由、二品申し切E被訖。

よつ  かく  ぎ   およ    うんぬん
仍て此の儀に及ぶと云々。

参考@右武衛は、右近衛の唐名。ここでは頼朝の姉聟一条能保。
参考A官苻は、正しくは太政官府。
参考B通親は、源性で名字が久我、後に土御門。
参考C參陣は、朝廷の近衛陣へ来て決定した。
参考D
結政は、結政所で臨時の会議室。辞令を読み上げる所。臨時令をだすので、他の大臣達は急過ぎると称して欠席している。
参考E申し切は、言い切っている。

現代語建久元年(1190)八月小十三日乙未。右武衛一条能保の使いが京都から到着しました。
先月三十日付けの流罪の太政官布告をよこしました。
山田
重隆〔前佐渡守は、常陸国へ〕。兼信は〔板垣三郎、隠岐国へ〕。重家は〔高田四郎、土佐国へ〕等です。
長官〔源通親〕が朝廷で決定して、右少弁親経が処理担当をしました。宰相藤原公時が臨時会議室で承諾の印を押しましたとさ。流罪の連中は、朝廷の命令を聞かなかった事が重なったので、その罰を院が命じられてきました。院のご判断なので、そのとおりにしようと頼朝様は言い切りました。そこで、布告どおりに処分しましたとさ。

建久元年(1190)八月小十五日丁酉。鶴岳放生會也。二品御參宮。小山七郎朝光持御釼。佐々木三郎盛綱着御甲。榛谷四郎重朝懸御調度。此外隨兵以下供奉人列前後。先供僧等大行道。次法花經供養。導師別當法眼圓曉。有舞樂。舞童皆自伊豆山參上云々。

読下し                   つるがおか ほうじょうえなり  にほん ごさんぐう  おやまのしちろうともみつ ぎょけん  も
建久元年(1190)八月十五日丁酉。鶴岳の放生會也。二品御參宮。 小山七郎朝光@御釼を持つ。

ささきのさぶろうもりつな おんよろい つ    はんがやつのしろうしげとも ごちょうど  か     こ   ほかずいへい いか    ぐぶにん  ぜんご  れつ
佐々木三郎盛綱御甲を着くA。 榛谷四郎重朝 御調度を懸くB。此の外隨兵以下の供奉人、前後に列す。

ま    ぐそうら だいぎょうどう つぎ  ほけきょう くよう   どうし  べっとうほういんえんぎょう  ぶがく あ    ぶどう  みな いずさん よ   さんじょう   うんぬん
先づ供僧等大行道。次に法花經供養。導師は別當法眼圓曉。舞樂有り。舞童は皆伊豆山C自り參上すと云々。

参考@小山七郎朝光は、栃木県小山市小山政光の七男で後の結城朝光。
参考A
御甲を着くは、將軍の鎧を着けていく。
参考B御調度を懸くは、將軍の弓を持ち矢を担いでいく。
参考C
伊豆山は、伊豆山権現で熱海の走湯神社。

現代語建久元年(1190)八月小十五日丁酉。鶴岡八幡宮の生き物を放ち供養する放生会です。
頼朝様のお参りです。結城七郎朝光が太刀持ちで、佐々木三郎盛綱が鎧を着る代理で、榛谷四郎重朝が弓矢一式を持ってます。その他にもお供の武装兵が、頼朝様の前後に並んでいます。
先ずお供の坊さん達が大きく輪を描き歩きながらお経を上げました。次ぎに法華経をあげました。指導僧は八幡宮長官法眼円暁です。舞楽の奉納もありました。舞を舞っている稚児は、皆伊豆山権現走湯神社からやってきたのです。

建久元年(1190)八月小十六日戊戌。馬塲之儀也。先々會日。雖有流鏑馬竸馬。依事繁。今年始被分兩日也。二品御出如昨日。爰流鏑馬射手一兩人。臨期有障。已及闕如。于時景能申云。去治承四年所与景親之河村三郎義秀。爲囚人景能預置之。達弓馬之藝也。且彼時与黨大畧預厚免訖。義秀獨非可沈淪歟。斯時可被召出哉者。仰曰。件男可行斬罪由下知畢。于今現存。奇異事也。然而優神事。早可召進。但非指堪能者。重可處罪科者。則招義秀。召仰此旨之間。射之訖。二品召覽其箭之處。箭十三束。鏑八寸也。仰曰。義秀依達弓箭有驕心。与景親之條。案先非。今更奇恠也。然者猶可令射三流作物。於有失礼者。忽可行其咎者。義秀又施其藝。始終敢無相違。是三尺手挾八的等也。觀者莫不感。二品變鬱陶。住感荷給云々。

読下し                    ばば の ぎなり
建久元年(1190)八月十六日戊戌。馬塲之儀也。

さきざき  えにち   やぶさめ   くらべうま あ    いへど   ことしげ    よつ     ことし  はじ    りょうじつ わ   らる  なり
先々の會日@、流鏑馬、竸馬有りと雖も、事繁きに依てA今年は始めて兩日に分け被る也。

にほん ぎょしゅつさくじつ  ごと    ここ  やぶさめ  いて いちりょうにん  ご   のぞ  さは  あ     すで  けつじょ  およ
二品の御出昨日の如し。爰に流鏑馬の射手一兩人。期に臨み障り有り。已に闕如に及ぶ。

ときに かげよし もう    い
時于景能B申して云はく。

さんぬ じしょうよねんかげちか   くみ   ところのかわむらのさぶろうよしひで  めしうど  な   かげよしこれ  あずか お   きゅうばの げい  たつ   なり
去る治承四年景親Cに与する所之河村三郎義秀D、囚人と爲し景能之を預り置く。弓馬之藝に達する也。

かつう か   とき  よとう  たいりゃくこうめん あずか をはんぬ  よしひでひと ちんりんすべ   あらざ か    こ   とき め  いださる  べ   や てへれ
且は彼の時の与黨は大畧厚免に預りE訖。義秀獨り沈淪可きFに非る歟。斯の時召し出被る可き哉者ば。

おお    い
仰せて曰はく。

くだん おとこ ざんざい おこな べ  よし げち  をはんぬ  いまに げんぞん        きい  ことなり
件の男は斬罪に行う可き由下知し畢。 今于現存するのは奇異の事也。

しかれども しんじ  ゆう    はや  め   しん  べ     ただ  さした たんのう あらずんば  かさ    ざいか  しょ  べ   てへ
然而 神事に優じ、早く召し進ず可し。但し指る堪能に非者。 重ねて罪科に處す可し者り。

すなは よしひで まね    こ   むね  め   おお  のかん  これ  いをはんぬ  にほん そ   や   め   み  のところ  やじうさんつか   かぶらはっすんなり
則ち義秀を招き、此の旨を召し仰す之間。之を射訖。 二品其の箭を召し覽る之處。箭十三束G。鏑八寸也。

おお    い      よしひできゅうせん たつ     よつ  きょうしん あ      かげちか  くみ   のじょう  せんぴ  あん        いまさら  きっかいなり
仰せて曰はく。義秀弓箭に達するに依て驕心有りて、景親に与する之條、先非を案ずるに、今更に奇恠也。

しからば  なおみなが  さくもの   い せし  べ     しつれい  あ   をい  は    たちま そ   とが  おこな   べ   てへれ
然者、猶三流れ作物Hを射令む可し。失礼I有るに於て者、忽ち其の咎に行はる可し者ば、

よしひでまた そ   げい  ほどこ   しじょうう あ    そうい な    これ  さんじゃく たばさみ  やつまとら なり  み   ものかんぜず な
義秀又、其の藝を施す。始終敢へて相違無し。是、三尺J、手挾K、八的L等也。觀る者感不は莫し。

にほん うっとう  か     かんか   じゅう たま    うんぬん
二品鬱陶を變へ、感荷に住し給ふと云々。

参考@先々の會日は、今までの放生會の日は。
参考
A事繁きに依ては、行事が増えてせわしなくなったので。
参考B景能は、大庭で桓武平氏末流。一度分家したので懐島とも呼ばれる。
参考C景親は、大庭景義の弟であるが、鎌倉權五郎が開発した大庭御厨の直流の嫡子。頼朝に敵対し討たれた。
参考D河村三郎義秀は、波多野一族のうち神奈川県山北町。JR御殿場線山北駅南に河村城址有り。
参考E大畧厚免に預りは、殆どの人が許された。
参考F
沈淪可きに非るは、憂き目を見ている。放っておかれた。
参考G箭十三束は、矢の長さを数える単位で、矢を握ったこぶしの幅が1束。束に足りない幅は指を伏せて2本なら2伏。伏は3伏までで、指四本なら1束になる。
参考
H三流れ作物は、三種類の的。
参考I失礼は、失敗すると神様に対し失礼になる。
参考J三尺は、流鏑馬(小笠懸)の一種で的串の高さが三尺。三々九ともいう。阿部猛著「鎌倉武士の世界」から。
参考
K手挾は、騎射の一種で方四寸の板をうすくへぎ、的とする。阿部猛著「鎌倉武士の世界」から。
参考
L八的は、二町に八つの的を次々に射る騎射。阿部猛著「鎌倉武士の世界」から。

現代語建久元年(1190)八月小十六日戊戌。鶴岡八幡宮の生き物を放ち供養する放生会の二日目は、馬場での行事です。今までの儀式に比べ、流鏑馬や競馬などもしていましたが、行事が増えてきたので、今年から初めて二日間に分けられました。頼朝様のご出座は、昨日と同様です。ここで流鏑馬の射手の一、二人が、始まる時になって、具合が悪くなったので、その分が空いてしまいました。

そしたら大庭景能が申し上げました。「ずうっと前の治承四年(1180)に大庭景親に味方をした河村三郎義秀は、預かり囚人(めしうど)として、大庭景能が預かっています。彼は、馬上弓の名人です。その時に敵対した連中は殆どの人が許されましたが、河村義秀一人が、未だに憂き目を見ていることがありましょうか。こんな時に呼び出してみてはいかがでしょう。」と云いますと、頼朝様は「その男は、死刑にするように命じていたはずだ。未だに生きているとは、こりゃ不思議なことじゃないか。しかし、神事に免じるから、早く連れてきなさい。但し、上手でなかったら、改めて死刑にするぞ。」と云いました。すぐに河村義秀を呼んで、この旨を命じられましたので、流鏑馬を射ました。

頼朝様がその矢を取り寄せて見ると、矢の長さは十三束(十三握り)矢の先の鏑は八寸(24センチ)もあります。
頼朝様が仰せになられました。「河村三郎義秀は、弓矢の腕に慢心している。大庭景親に味方をした事は、その罪を考えると、今でもとんでもないことである。しかしその腕自慢で、三種類の的打ちをやってみなさい。失敗があれば、今度こそ刑を実施するぞ。」と云われました。そこで、河村三郎義秀は、その腕前を披露しました。始めから終りまで全く危なげ有りませんでした。その種類は、三尺、手挟み、八的などでした。見ている人で感心しない人はありません。頼朝様は、気分が晴れて、感心しましたとさ。

建久元年(1190)八月小十七日己亥。甚雨。入夜暴風穿人屋。洪水頽河岸。相摸河邊民家一宇流寄河尻。宅内男女八人皆以存命。各居棟上云々。奇特事也。

読下し                     はなは あめ  よ   い   ぼうふうじんおく  うが   こうずい かがん  くず
建久元年(1190)八月小十七日己亥。甚だ雨。夜に入り暴風人屋を穿ち、洪水河岸を頽す。

さがみがわ  へん  みんか いちう  かわじり  なが   よ   たくない  だんじょはちにん みなもつ ぞんめい おのおの むね うえ  い     うんぬん
相摸河の邊の民家一宇河尻に流れ寄る。宅内の男女八人 皆以て存命す。各、棟の上に居たと云々。

 きとく   ことなり
奇特な事也。

現代語建久元年(1190)八月小十七日己亥。ものすごい雨です。夜になると暴風が吹いて人家をなぎ倒し、洪水で川岸が崩されます。
相模川では、周辺の民家一軒が川口まで流れて来ましたが、住民の男女八人が皆助かったそうです。それは、皆屋根の上にいたからだそうです。奇妙だけど良い出来事ですね。

建久元年(1190)八月小十九日辛丑。板垣三郎兼信依違 勅以下積悪。被處配流科之上其領所可被改地頭職事。備後國在廳等捧申状。訴土肥弥太郎遠平之不法事。被下 院宣之間。兩條御請文。載一紙所令言上給也。
 圓勝寺領遠江國雙侶庄地頭事。不當に不候ハ。何事之候哉と存候處。於兼信者。誠〔ニ〕不當に候らむ。早可令改易候也。但不當に候ハさらむ者お。其替に令補候はむと思給候。此條も可隨御定候。一向に可被停止候者。不及左右候。
 備後國在廳申状給候畢。相尋子細。追可令言上候也。以此旨可令洩達給。頼朝恐々謹言。
      八月十九日                    頼朝

読下し                     いたがきのさぶろうかねのぶ いちょく いげ  せきあく  よつ    はいる   とが  しょせら   のうえ
建久元年(1190)八月小十九日辛丑。 板垣三郎兼信@、 違勅以下の積悪に依て、配流の科に處被る之上、

そ   りょうしょ   ぢとうしき  あらた らる  べ     こと
其の領所、地頭職を改め被る可しの事。

びんごのくに ざいちょう らもうしじょう ささ   といのいやたろうとおひら  の ふほう  うった   こと
備後國の在廳A等申状を捧げ、土肥弥太郎遠平B之不法を訴へる事。

いんぜん  くださる   のかん りょうじょう おんうけぶみ いっし  の   ごんじょうせし  たま  ところなり
院宣を下被る之間、兩條の御請文、一紙に載せ言上令め給ふ所也。

参考@板垣三郎兼信は、甲斐武田党の分家。
参考A在廳は、在庁官人の事で国衙の役人。
参考B土肥弥太郎遠平は、神奈川県足柄下郡湯河原町。

   えんしょうじりょう とおとうみのくに しとろのしょう  ぢとう  こと  ふとう  そうらはずんば  なにごとのそうら   や   ぞん そうろうところ
  圓勝寺領 遠江國 雙侶庄Cの地頭の事、不當に不候ハ、 何事之候はん哉と存じ候處。

  かねのぶ をい  は  まことに ふとう  そうら   はや  かいえきせし べ  そうろうなり
 兼信に於て者、誠ニ不當に候む。早く改易令む可く候也。

  ただ    ふとう  そうらは ざらむの ものを   そ   かえ  ぶ せし  そうら     おぼ  たま そうろう  こ  じょう  ごじょう  したが べ そうろう
 但し、不當に候ハさらむ者お、其の替に補令め候はむと思し給ひ候。此の條も御定に隨う可く候。

  いっこう  ちょうじせら  べ   そうら ば  とこう  およばずそうろう
 一向に停止被る可く候は者、左右に不及候。

  びんごのくに ざいちょう もうしじょうたま  そうら をはんぬ  しさい  あいたず   おつ ごんじょうせし べ  そうろうなり
 備後國の在廳の申状給はり候ひ畢。 子細を相尋ね、追て言上令む可く候也。

  かく  むね  もつ    もら  しんざせし  たま  べ     よりともきょうきょうきんげん
 此の旨を以て、洩し達さ令め給ふ可し。頼朝恐々謹言。

             はちがつじうくにち                                                        よりとも
      八月十九日                           頼朝

参考C雙侶庄は、静岡県島田市志戸呂。

現代語建久元年(1190)八月小十九日辛丑。板垣三郎兼信は、朝廷の命令に背く積み上げてきた悪事によって、流罪の罰に処理されたので、その領地の地頭職を解任すること、備後国の在庁官人が訴状をもって土肥弥太郎遠平の違反事項を訴えてきたこと、それらを書いた手紙が院から来たので、双方の事柄への返報を一枚の紙に書いてお届けになられます。

 円勝寺領地の遠江国雙侶庄(しとろのしょう)の地頭については、不当の行いがなければ、何事もないだろうと思っていました。板垣三郎兼信については、本当に不当であります。早く解任を致しましょう。不当などをしない人を、その代わりに任命しようと思います。しかし、それについても院のお決めに従いますので、全て止めろと云われるのなら、どうこう申しません。
備後国の在庁官人の言い分も承りました。事情を詳しく調べて、追って申し上げます。このような内容で院へお伝えいただきたい。頼朝が恐れながら申し上げます。
   八月十九日            頼朝

建久元年(1190)八月小廿八日庚戌。院廳官康貞。内々依有宿意歟。訴申民部卿〔經房〕右大弁宰相〔定長〕等事於二品也。戸部者希有讒臣也。諸人爲彼可損亡。右大弁者又同意大藏卿泰經朝臣之凶臣也。參河守範頼執申之。二品更不承引給。兩人共有良臣聞之上。關東事連々傳奏之間。未知其不可。努々此事不可及口外之由。令諾參州給云々。

読下し                    いん  ちょう  かん やすさだ  うちうち  すくい あ     よつ  か
建久元年(1190)八月小廿八日庚戌。院の廳の官 康貞@、内々に宿意A有るに依て歟。

みんぶのきょう〔つねふさ〕 うだいべんさいしょう〔さだなが〕 ら   ことを にほん  うった  もう  なり
民部卿〔經房〕右大弁宰相〔定長〕等の事於二品に訴へ申す也。

 こぶ  は  けう  ざんしんなり  しょにん か ため  そうぼうすべ   うだいべんはまた おおくらきょうやすつねあそん  どういのきょうしんなり
戸部B者希有の讒臣也。諸人彼が爲に損亡可し。右大弁者又 大藏卿泰經朝臣に同意之凶臣也。

みかわのかみのりより  これ  と   もう    にほん さら  しょういん たま  ず
參河守範頼C、之を執り申す。二品更に承引し給は不D

りょうにんとも りょうしん きこ  あ   のうえ  かんとう  ことれんれんてんそう    のかん  いま  そ    ふか  しら
兩人共に良臣の聞へ有る之上、關東の事連々傳奏する之間、未だ其の不可を知ず。

ゆめゆめ こ ことこうがい  およ  べからずのよし  さんしゅう だくせし  たま    うんぬん
努々此の事口外に及ぶ不可之由、參州を諾令め給ふと云々。

参考@康貞は、藤原。この時代名字が書いていなけりゃ藤原氏。後には北條氏に表記が変わっていく。
参考A宿意は、念願とか計画などだが、この場合は恨み。
参考B
戸部は、民部卿の唐名。
参考C參河守範頼は、すでに官を辞退しているので頭に前の字を入れるべき。
参考D更に承引し給は不は、全然受け付けなかった。全く相手にしなかった。の意。

現代語建久元年(1190)八月小二十八日庚戌。院の役所の役人の康定は、心の内に恨みがあるらしく、民部卿〔吉田経房〕と右大弁宰相〔定長〕達の事を告げ口をしてきました。「戸部(民部卿)経房は、人を陥れる奴です。右大弁定長は、義経びいきの大蔵卿泰経と同心の悪い役人です。」源参河守範頼が取次いで来ましたが、頼朝様は聞き入れませんでした。「両人ともに良い役人だとの噂があるし、関東の事を何度も取次いでくれているので、未だに不都合は生じていない。充分気をつけて、このことは口に出してはいけない。」と云われ、蒲冠者範頼は承知をしましたとさ。

九月へ

吾妻鏡入門第十巻   

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