建久元年(1190)庚戌九月大
建久元年(1190)九月大三日甲寅。大庭平太景能申云。河村三郎義秀。於今者可被梟首歟者。仰曰。申状太不得其意。早可處其刑之由雖被仰付。景能潜扶之歴多年也。依流鏑馬賞厚免訖。今更何及罪科哉者。景能重申云。日來者爲囚人之間。以景能助成活命。憖以蒙免許之後。已擬餓死。如當時者。被誅事還爲彼可爲喜歟者。于時二品頗令咲給。可還住于本領相摸國河村郷之旨。可下知者。 |
読下し おおばのへいたかげよし もう い
かわむらのさぶろうよしひで いま をい は
きょうしゅbさる べ か てへ おお い
河村三郎義秀、
今に於て者梟首@被る可き歟者れば、仰せて曰はく。
もう じょうはなは そ こころ わからず はや そ
けい しょ べ のよし おお つ らる
いへど かげよし ひそか これ たす たねん へ
なり
申す状太だ其の意を不得。早く其の刑に處す可し之由仰せ付け被ると雖も、景能、潜に之を扶け多年を歴る也。
やぶさめ しょう よつ
こうめん をはんぬ いまさらなん ざいか およ や
てへ かげよしかさ もう い
流鏑馬の賞に依て厚免し訖。
今更何の罪科に及ぶ哉者れば、景能重ねて申して云はく。
ひごろは めしうど な のかん かげよし じょせい
もつ いのち い なまじい もつ めんきょ
こうむ ののち すで がし なぞら
日來者囚人Aと爲す之間。景能の助成を以て命を活ける。憖Bに以て免許を蒙る之後、已に餓死せんと擬える。
とうじ ごと ば ちおうさる ことかえっ か ため よろこ な べ か
てへ
當時の如くん者、誅被る事還て彼の爲に喜びと爲す可き歟者れば、
ときに にほんすこぶ わら せし
たま ほんりょう さがみのくに かわむらごうに
かんじゅうすべ のむね げち すべ てへ
時于二品頗る咲は令め給ひ、本領 相摸國 河村郷C于還住D可し之旨、下知可し者り。
参考@梟首は、打ち首獄門。
参考A囚人は、預かりめしうど。
参考B憖は、しなくてもよい縡をわざわざして。
参考C河村郷は、神奈川県足柄上郡山北村。御殿場線山北駅南に城址あり。
参考D還住は、元のところへ復帰する。
現代語建久元年(1190)九月大三日甲寅。大庭平太景能が、頼朝様に申しあげました。「河村三郎義秀は、今となっては打ち首にしましょうか。」と云うと、頼朝様が仰せには「云ってることが理解できないぞ。前に早く処刑しろと言いつけておいたのに、景能はこっそりと隠して置いて年月がたっているじゃないか。流鏑馬の褒美に許したではないか。それを今更、何の罪に出来るのだ。」とおっしゃると、景能が続けて申し上げるのには「これまでは囚人として預かっていたので、景能の援助により、食い扶持を得ていました。それをわざわざ許したので、囚人ではないので助けようも無いので、餓死してしまうでしょう。今のままでは殺してあげた方が、かえって彼にとっては良いのではないでしょうか。」と云ったので、頼朝様は大笑いをして、「元の領地の相模国河村郷を戻してあげるように本領安堵するので、手続きをするように云っておこう。」とおっしゃられました。
建久元年(1190)九月大七日戊午。甚雨。入夜故祐親法師孫子祐成〔号曾我十郎〕相具弟童形〔号筥王〕參北條殿。於御前令遂元服。号曾我五郎時致。賜龍蹄一疋〔鹿毛〕是祖父祐親法師者。雖奉射二品。其子孫事。於今者不及沙汰。祐成又相從繼父祐信。在曾我庄。依不肖雖未致官仕。常所參北條殿也。然間今夜儀強不及御斟酌云々。 |
読下し はなは あめ よ い こ
すけちかほっし まご すけなり 〔そがのじゅうろう ごう 〕
おとうと どうぎょう 〔はこおう ごう 〕 あいぐ ほうじょうどの まい ごぜん をい げんぷく と せし そがのごろうときむね ごう
弟の童形〔筥王と号す〕を相具し北條殿へ參る。御前に於て元服を遂げ令む。曾我五郎時致Aと号す。
りゅうていいっぴき 〔
かげ 〕 たま
龍蹄一疋〔鹿毛〕を賜はる。
これ
そふ すけちかほっし は にほん いたてまつ いへど そ しそん こと いま
をい は さた およばず
是、祖父祐親法師者、二品を射奉ると雖も、其の子孫の事、今に於て者沙汰に不及B。
すうけなりまた けいふすけのぶ あいしたが そがのしょう あ ふしょう よつ
いま かんじ いた いへど つね ほうじょうどの まい ところなり
祐成又、繼父祐信に相從ひ、曾我庄Cに在り。不肖に依て未だ官仕に致さずと雖も、常に北條殿に參る所也。
しか
かん こんや ぎ あなが ごしんしゃく およばず
うんぬん
然る間、今夜の儀
強ちに御斟酌に不及Dと云々。
参考@祐親法師は、伊東次郎祐親法師で伊豆の伊東市。頼朝に敵対し三浦介義澄が娘聟で召し預けられていた。寿永元年二月十四日に頼朝から許されたが武士の面目が立たないと自害した。
参考A曾我五郎時致は、時の文字を貰っているので時政が加冠親。
参考B今に於て者沙汰に不及は、孫には罪は及ばず、放ってある。
参考C曾我庄は、小田原市上下曽我。曽我の梅林で有名。
参考D強ちに御斟酌に不及は、頼朝は干渉しなかった。時政が普段から面倒見ているので不自然でなかった。という意味で、後の事件の複線として時政を弁解している。
現代語建久元年(1190)九月大七日戊午。大雨です。夜になって伊東次郎祐親法師の孫の祐成〔曽我十郎と申します〕は、弟のまだ垂髪の童〔筥王と云います〕を連れて北条時政殿のもとへ来ました。時政殿の前で元服式をあげ、曽我五郎時致と名乗りました。立派な馬を一頭〔鹿毛〕をはなむけに与えられました。
これらは、祖父の伊東次郎祐親法師は、頼朝様に歯向かった訳ですが、その子孫については今となっては罪を問うことはありません。祐成は、母の再婚相手の継父曽我太郎助信に養われて曽我庄におります。事情があって未だ就職はしていませんが、何時も北条時政殿になついてきているのです。そういうわけなので、今夜のことも、特にあれこれ考えることもございませんでした。
建久元年(1190)九月大九日庚申。古庄左近將監能直自陸奥國進使者。注進兩州輩忠不并兼任伴黨所領等。仍爲盛時奉行。彼賞罸條々。被經沙汰。被下事書於能直云々。 |
読下し ふるしょうさこんしょうげんよしなお むつのくによ ししゃ すす
りょうしゅう やから ちゅうふなら
かねとう ばんとう しょりょうら ちうしん
兩州の輩の忠不并びに兼任が伴黨の所領等を注進す。
よつ もりときぶぎょう なし
か しょうばつ じょうじょう さた へら ことがきを よしなお くださる うんぬん
仍て盛時奉行と爲て、彼の賞罸の條々
沙汰を經被れ、事書於能直に下被ると云々。
参考@古庄左近將監能直は、大友能直。神奈川県小田原市上下大友。
現代語建久元年(1190)九月大九日庚申。古庄左近将監大友能直が、陸奥国から使いを寄越して、陸奥国と出羽国の連中の忠義、不忠の是非、それと大河次郎兼任に味方した連中の領地の扱いなどを書面に書いて伺ってきました。そこで平民部烝盛時が担当をして、それらの賞罰の数々を頼朝様の判断を仰いで、書き出した書面を大友能直に送りましたとさ。
建久元年(1190)九月大十三日甲子。板垣三郎兼信。高田四郎重家等。去七月雖被下配流官苻。預(領)送使@不送之。于今在京之由風聞之間。内々可被執申殿下之旨。被仰遣右武衛云々。 |
読下し いたがきのさぶろうかねのぶ たかだのしろうしげいえら さんぬ しちがつ はいるかんぷ くださる いへど
りょうそうし
これ おくらず いまに ざいきょう のよしふうぶん のかん ないない
でんか と もうさる べ のむね うぶえい おお つか さる うんぬん
領送使之を不送、今于在京する之由風聞する之間、内々に殿下に執り申被る可し之旨、右武衛に仰せ遣は被ると云々。
参考@預送使は、領送使の間違いで、流人を送り届ける役人。
現代語建久元年(1190)九月大十三日甲子。板垣三郎兼信、高田四郎重家達は、先だっての七月に、流罪の命令書を出されていながら、流人を送り届ける担当の領送使が送らず、未だに京都に居るとの噂なので、内々に殿下九条兼実に後白河院へ取次いで貰うように、右武衛一条能保に云い送りましたとさ。
建久元年(1190)九月大十五日丙寅。來月依可有御上洛。御出立間事等被經沙汰。今年諸國旱水共相侵。民戸皆無安。仍可令延引給歟之由。聊雖有御猶豫。兼日已被申 仙洞訖。於今者不可及御逗留云々。御路次間事。諸事被定奉行人。 |
読下し らいげつごじょうらく
あ べ よつ おんいでたち かん ことら さた へ
らる
ことし しょこくかんすいとも あいひた
みんこ みなやす な
今年は諸國旱水共に相侵し@、民戸皆安き無し。
よつ えんいんせし たま
べ か の よし いささ ごゆうよ あ いへど けんじつ すで
せんとう もうされをはんぬ
仍て延引令め給ふ可き歟之由、聊か御猶豫有りと雖も、兼日に已に仙洞に申被訖。
いま をいては ごとうりゅう およ
べからず うんぬん おんろじ
かん こと しょじ ぶぎょうにん さだ らる
今に於者御逗留に及ぶ不可と云々。御路次の間の事、諸事に奉行人を定め被る。
ゆきまさ
ぜんしん もりとき やすきよら これ さた
うんぬん か もくろく ぞうしきつねきよ
しげさと くださる うんぬん
行政、善信、盛時、康C等之を沙汰すと云々。彼の目録は、雜色常C、成里に下被ると云々。
参考@旱水共に相侵しは、日照りと洪水が交互に来たので。
おんきょうあが
かん ぶぎょう こと
御京上りの間の奉行の事
ひとつ
こうきん いか しんもつ こと
一 貢金以下の進物の事
みんぶのじょうゆきまさ ほっきょうしょうかん
民部丞行政 法橋昌寛
ひとつ せんじんずいへい こと
一 先陣
隨兵の事A
わだのたろうよしもり
和田太郎義盛
ひとつ こうじんずいへい こと
一 後陣
隨兵の事B
かじわらのへいざかげとき
梶原平三景時
一 御厩の事
はったのうえもんのじょうともいえ ちばのしろうたねのぶ
八田右衛門尉知家 千葉四郎胤信
ひとつ おんもののぐ こと
一 御物具の事
みうらのじゅうろうよしつら くろうとうじ
三浦十郎義連 九郎藤次
ひとつ おんやど こと
一 御宿の事
かさいのさぶろうきよしげ
葛西三郎C重
ひとつ おんながもち こと
一 御
中持の事
ほりのとうじちかいえ
堀藤次親家
ひとつ ぞうしき
いか しもべ こと
一 雜色以下の々部の事
かじわらのさえもんのじょうかげすえ おな へいじかげたか
梶原左衛門尉景季
同じき平次景高
ひとつ ろくはら おんてい
ことなら しょほう おくりもの こと
一 六波羅の御亭の事并びに諸方への贈物の事
かもんのかみちかよし いなばのぜんじひろもと
掃部頭親能 因幡前司廣元
みぎ
おお よつ さだめ ところくだん ごと
右、仰せに依て定る所件の如し。
建久元年九月日
参考A先陣随兵は、担当の和田太郎義盛は、侍所別当。
参考B後陣随兵は、担当の梶原平三景時は、侍所所司。
現代語建久元年(1190)九月大十五日丙寅。来月京都へ上る予定なので、その旅行の間の事をお決めになられました。今年は、日照りや洪水が交互に来たので、農民は皆安心の年では有りません。ですから延期した方が良いかなと、多少戸惑いもありますけれど、先日来既に後白河院へも云ってあるので、今更躊躇する必要はないとの事です。道中の事について、それぞれに担当指揮者をお決めになられました。二階堂行政、三善善信、平盛時、三善康Cが処理をしたんだそうだ。その書き出した目録は、雑用の常清、成里に渡しましたとさ。
京都へ上る旅行中の担当について
一 院への金などの進物について
民部丞二階堂藤原行政 法橋一品房昌寛
一 先払いの儀杖兵について
和田太郎義盛
一 殿(しんがり)の儀杖兵について
梶原平三景時
一 道中の厩について
八田右衛門尉知家 千葉大須賀四郎胤信
一 鎧など武具類について
三浦十郎義連 九郎藤次大曽根時長
一 宿の手配について
葛西三郎清重
一 長持について
堀藤次親家
一 雑用その他の身分の低い連中の指揮監督について
梶原源太左衛門尉景季 梶原平次景高
一 京都六波羅の屋敷の事とあちこちへの贈り物について
掃部頭中原親能 前因幡守(大江)広元
右の通り、仰せを受けて決めたのはこの通りです
建久元年九月 日
建久元年(1190)九月大十六日丁夘。畠山次郎重忠自武藏國參上。是爲御上洛供奉也。 |
読下し はたけやまのじろうしげただ むさしのくによ さんじょう これ ごじょうらく ぐぶ ためなり
参考@畠山次郎重忠は、普段国許にいるようなので、在国御家人であろう。
現代語建久元年(1190)九月大十六日丁卯。畠山次郎重忠が、武蔵の国許からやって来ました。これは、京都へのご上洛のお供をするためです。
建久元年(1190)九月大十七日戊辰。去月廿七日 院宣到來。民部卿〔經房〕所被執進也。條々内。兼信所領遠江國雙侶庄事。應御旨。今日被献御請文云々。是依光範朝臣所望。可被去進地頭職之由。所被仰下也。自余兩條者。先日自是被言上爲勅答云々。 |
読下し さんぬ つきにじうしちにち いんぜんとうらい みんぶのきょう〔つねふさ〕 と しん
らる ところなり
じょうじょう
うち かねのぶ しょりょう とうとうみのくに しころのしょう こと
おんむね おう きょう おんうけぶみ けん らる
うんぬん
條々
の内、兼信が所領 遠江國 雙侶庄@の事、御旨に應じ、今日御請文を献ぜ被ると云々。
これ みつのりあそん しょもう よつ
ぢとうしき さ しん らる べ のよし おお くださる ところなり
是、光範朝臣の所望に依て、地頭職を去り進ぜ被る可し之由、仰せ下被る所也。
じよ
りょうじょうは せんじつこれよ ごんじょうさる ちょくとうた うんぬん いんぜん い
自余の兩條者、先日是自り言上被る勅答爲りと云々。院宣に云はく
東大寺料麻苧Aの事
ひごろ さた しだい みなき
め ところなり もつと しんみょう このたびしたくのおもむき いかで おお られざらんや よつ つ おお られをはんぬ
日來沙汰の次第、皆聞こし食す所也。尤も神妙。
今度支度之 趣、爭か仰せ被不哉。仍て告げ仰せ被畢。
じょうとういぜん あなが こと か べからず きんごくおお これ
しんさい すおうのくに
そまだしの かん また い べ なり ようや もよお しん べ か
上棟以前は、強ちに事闕く不可。近國多く之を進濟す。周防國
杣出之間、又入る可き也。漸く催し進ず可き歟。
ひえしゃ せんぞうりょうきょうなら しょうぞく こと
日吉社千僧料經并びに裝束の事
さた しん べ のよし き め をはんぬ かく ごと こと けちえん
ため おお らる ところなり
沙汰進ず可し之由、聞こし食し畢。此の如き事、結縁Bの爲に仰せ被る所也。
圓勝寺領 遠江國
雙侶庄の地頭の事
くだん みどう たいけんもんいん ごそうそう こと
たじ なぞらへず おぼ め
件の御堂は、待賢門院Cの御草創。殊に他寺に
准不 思し食す。
れんれん
ぶっしょう いげ けつじょ ねんぐ たいかん
ふびん き め
連々
佛聖D以下闕如し、年貢の對捍、不便に聞こし食す。
かねのぶ
るざいせら をはんぬ そ かへ ぢとう ぶ
せらずんば かたがた よろ べ ことか
兼信を流罪被れ訖。
其の替の地頭を補被補者、 旁、 宜しかる可き事歟。
いぜん じょうじょう こ むね
もつ おお つか べ のよし ないない みけしきそうろうなり よつ じょうけいくだん ごと
以前の條々、此の旨を以て仰せ遣はす可し之由、内々に御氣色候也。仍て上啓件の如し。
はちがつにじうしちにち うだいべんさだなが
八月廿七日
右大弁定長
きんじょう みんぶのきょうどの
謹上 民部卿殿
参考@遠江國雙侶庄は、静岡県島田市志戸呂。
参考A麻苧は、麻からむし で、東大寺建設用材木を引くロープ。
参考B結縁は、仏との縁を結ぶ。ご利益に預かる、成仏できる。
参考C待賢門院は、鳥羽天皇の中宮で後白河の母。藤原璋子。
参考D佛聖以下は、仏聖田と言う佛に捧げた田んぼなど。
おんうけぶみ い
御請文に云はく
おお くだされそうら とおとうみのくに
しとろのしょう ぢとうかねのぶ るざいそうら よつ そ かは ぶ べからずそうろうのよし
仰せ下被候ふ 遠江國 雙侶庄の
地頭兼信 流罪候ふに依て、其の替りを補す不可候之由、
つつし もつ うけたまは そうら をはんぬ かく むね
もつ も たつ せし たま べ そうろう よりともきょうこうきんげん
謹み以て奉り
候ひ 訖。
此の旨を以て洩れ達さ令め給ふ可く候。頼朝恐惶謹言。
くがつじうしちにち よりとも
九月十七日 頼朝
現代語建久元年(1190)九月大十七日戊辰。先月二十七日付けの院からの手紙が来ました。民部卿吉田経房が取次いだものです。箇条書きのうち、板垣三郎兼信の領地の遠江国雙侶庄(しとろのしょう)についての申し入れに対し、返事を出されましたとさ。それは、京都朝廷の役人の光範の希望で、地頭を撤退させてくれと云って来られたからです。残りの二条は、先日こちらから申し上げたことへのご返事です。院からの文書には
東大寺に使う麻縄について
普段からの処理については、全て聞いております。とても感心しています。今度の準備について、なぜか命令しておられないようなので、云っておきます。棟上式までは、足りない事があってはなりません。近畿地方でこれを賄っております。周防国での材木の切出しに又必要ですので、順次催促しておくべきでしょう。
日吉神社の千人の坊さんのお経料とその衣装について
処理してくれたことを聞かれました。これは、関東が仏様と縁が結ばれるように云ったのです。
円勝寺の領地の遠江国雙侶庄(しとろのしょう)の地頭について
このお寺は、後白河院のお母さんの待賢門院が建立したお寺なので、他の寺と同等には思っておられません。それが年々、仏に捧げた田んぼが欠けて来ているし、年貢を無視するし、気の毒に思っておられました。それで板垣三郎兼信を流罪にした訳です。その代わりの地頭を任命しなければ、大変結構な事だと思われています。
以上のことがらは、全て院が言い伝えるようにとの、内々のご命令です。それで書いたのはこのとおりです。
八月二十七日 左台弁定長
謹んでお出しします 民部卿吉田経房殿
この返事に申されるのは
云ってこられた遠江国雙侶庄(しとろのしょう)の地頭の板垣三郎兼信は流罪になりましたので、その代替の地頭は任命いたしませんとのお言葉、承知を致しました。この内容で院へお伝えいただきように、頼朝が謹んで申し上げます。
九月十七日 頼朝
建久元年(1190)九月大十八日己巳。佐々木三郎盛綱俣野箭一腰進上。御上洛料也。即覽之。無文染羽。以鶉目樺。挨之。藤口巻也。以鷺羽爲表箭。是曩祖將軍天治年中令征伐奥州梟賊之後。皈洛之日。用此式矢云々。又飯冨源太宗季〔改宗長〕作獻簇。同歴御覽之處。重端革逆也。令問其由緒給。宗季答申云。是故實也。以赤革令重于表者。頗相似平家赤旗赤標也。重于下之條。可然歟云々。又居蛇結文於腰宛。其風情殊珍重也。旁御感之餘。向後重端。可爲此儀。次蛇結丸可爲宗季手文之由。被仰含云々。 |
読下し ささきのさぶろうもりつな またのや ひとこし しんじょう ごじょうらく かてなり
すなは これ
み むもん そめは うづら めのごい もつ これ
う とう くちまきなり あおさぎ はね もつ
うわや な
即ち之を覽る。無文の染羽、鶉の目樺を以て、之を挨つ。藤の口巻也。鷺の羽を以て表箭Aと爲す。
これ のうそしょうぐん
てんじ ねんちゅう おうしゅう きょうぞく せいばつせし ののち
きらくの ひ かく しき や もち うんぬん
是、曩祖將軍、天治B年中に奥州の梟賊を征伐令む之後、皈洛之日、此の式の矢を用いると云々。
また いいとみげんたむねすえ 〔むねなが あらた〕 や はぎ けん おな ごらん へ のところ はし かさ かわさか なり
又、飯冨源太宗季C〔宗長と改む〕簇を作て獻ず。同じく御覽を歴る之處、端を重ねる革逆さ也。
そ ゆいしょ
と せし たま むねすえこた もう い
其の由緒を問は令め給ふ。宗季答へ申して云はく。
これ こじつなり あかがわ もつ おもてにかさ せし
ば すこぶ へいけ あかはたあかじるし あいに なり したに
かさ のじょう しか べ か うんぬん
是故實也。赤革を以て表于重ね令め者、頗る平家の赤旗赤標に相似る也。下于重ねる之條、然る可き歟と云々。
また じゃけつもん
を こしあて す そ ふぜいこと ちんちょうなり かたがた ぎょかんの
あま こうご はし かさ かく ぎ た べ
又、
蛇結文D於腰宛に居へる。其の風情殊に珍重也。
旁、 御感之餘り、向後端を重ねるのは、此の儀爲る可し。
つい じゃけつ
まる むねすえ て もんた べ のよし おお ふく らる うんぬん
次で蛇結の丸は、宗季の手の文爲る可し之由、仰せ含め被ると云々。
参考@箭一腰は、24本。
参考A表箭は、24本の内2本だけ箙に刺さず取り出し易くしてある。
参考B天治は、天喜の間違い。天喜四年安倍頼時が死ぬが前九年役は終らない。
参考C飯冨源太宗季は、上総國飯富庄で、千葉県袖ヶ浦市飯富。
参考D蛇結文は、蛇籠紋かとぐろ模様だと思う。
現代語建久元年(1190)九月大十八日己巳。佐々木三郎盛綱が、狩猟用の雁又矢を一腰(ワンセット24本)を進上しました。ご上洛用の新品であります。
直ぐに(頼朝が)見ると、模様のない無地の羽で、柄側は鶉(うずら)の目の模様の山桜の皮で巻き締めてあります。鏃(やじり)側は藤づるで巻き締めてあります。青鷺の羽を使った矢を、始めに取り出す表矢(うわや・鏑矢)にしています。これは、頼朝様の先祖の伊与守源朝臣頼義様が将軍となって前九年の役で蝦夷を滅ぼした後、京都へ凱旋した時に、その矢で飾ったと云われます。
又、飯冨源太宗季〔後に名を宗長と替える〕も矢を作って献上しました。同様に見てみると筈を締める皮が上下逆さまに巻かれています。その理由を聞いてみると、宗季が説明をしました。
これには訳がありまして、普通に赤い皮を表に巻くとまるで平家の赤旗みたいじゃないですか。だから下に重ねるほうが源氏らしくていいじゃないですかとの事だとさ。それに蛇結模様を箙(えびら・矢入れ)の腰当に着けています。その見た目は格好が良いのです。(頼朝は)感心されて、これからは矢の端の皮はこうするようにと決めました。それから、蛇結びで丸く結う形は、飯冨源太宗季の家の紋にするように仰せになられましたとさ。
建久元年(1190)九月大廿日辛未。東大寺作事繩料苧。可宛催諸國御家人之由。被下 院宣之間。二品悉以施行給畢。次御上洛事内々雖思企。諸國洪水折節可爲事煩歟之由。被示遣民部卿〔經房〕許之間。依被 奏聞。有右大弁宰相奉書。戸部被執進之。今日所到來也。 |
読下し
とうだいじ さくじ なわりょう お しょこく ごけにん あ もよお べ のよし
いんぜん くださる のかん にほんことごと もつ
せぎょう たま をはんぬ
院宣を下被る之間。二品悉く以て施行し給ひ畢。
参考@作事繩料は、建築用ロープ。
つぎ ごじょうらく こと ないない おぼ
くはだ いへど しょこくこうずい おりふし こと
わずら た べ か のよし
次に御上洛の事、内々に思し企つと雖も、諸國洪水の折節、事の煩ひ爲る可き歟之由、
みんぶのきょう〔つねふさ〕 もと しめ つか さる
のかん そうもんされ よつ うだいべんさいしょう ほうしょ
あ
民部卿〔經房〕の許に示し遣は被る之間、奏聞被るに依て、右大弁宰相の奉書有り。
こぶ これ と しん らる きょう とうらい ところなり
戸部之を執り進ぜ被る。今日到來する所也。
とうだいじ をづな
こと ごきしちどう いっこく もらさずもよおさる のかん ふ
おお られをはんぬ
東大寺の苧綱の事。五畿七道、一國も漏不催被る之間、觸れ仰せ被畢。
ただ おのおの けちえんのよし ぞん おお
しんさい じょうとう ようとう をい は すで
よじょうあ のよし しょうにんもう ところなり
但し各、結縁之由を存じ多く進濟す。上棟の用途に於て者、已に餘剩有る之由上人申す所也。
じょうらくのかん しょうじ
いへど そ わずら あ か みょうしゅん か ちぎょう
くにぐに ぶん をいては さた あ べ
上洛之間、少事と雖も其の煩ひ有らん歟。明春、彼の知行の國々の分に於者、沙汰有る可し。
なかんづく かく もよお いぜん たびたびもよお つか のよし き め ところなり
就中に、此の催し以前に度々催し遣はす之由、聞こし食す所也。
かく ごと こころ い もうさる のじょう しんみょうのよし
おお つか べ てへれ みけしきそうろうなり よつ
じょうけいくだん ごと
此の如く意に入れ申被る之條、神妙之由、仰せ遣はす可し者ば、御氣色候也。仍て上啓件の如し。
くがつじうさんにち うだいべん
九月十三日 右大弁
きんじょう みんぶのきょうどの
謹上 民部卿殿
ついけい
遂啓
洪水の事、誠に驚き聞こし食す。一國も此の難を免不歟。凡そ左右に不能。
ただ じょうらく をい は さら かく こと よるべからず いまにじょうらくせず ちょうぼ ま おぼ め のところ
但し上洛に於て者、更に此の事に依不可。
今于上洛不んば、朝暮に待ち思し食す之處、
ことし また むなし と をはんぬれ〔ば〕 かえすがえす いこん ただ おぼ た べ のよし
はから おお つか べ のむねそうろうなり
今年又、空く止め畢〔ハ〕 返々も遺恨なり。只、思し立つ可し之由、計ひ仰せ遣はす可し之旨候也。
か しょうそここれ へんじょう うふ もう あは そうらひをはんぬ
彼の消息之を返上す。 右府にも申し合せ候畢。
きょうと
おんち こと こいけのだいなごん きゅうせき ちじょう
うんぬん さくじ はじ らる のよし しょうかんこれ もう うんぬん
京都御地の事、故池大納言の舊跡Aに治定すと云々。作事を始め被る之由、昌寛之を申すと云々。
参考A故池大納言の舊跡は、京都府東山区松原通から七条通。
現代語建久元年(1190)九月大二十日辛未。東大寺再建の材木牽引用のロープについては、諸国の御家人に割り当てるように、後白河院が云って来たので、頼朝様は全て実施し終えました。次ぎに京都へ上洛については、内々に思い立ったわけですが、あちこちの国で洪水が合ったので、費用などに苦労の種になるだろうかと、戸部民部卿〔吉田経房〕へ託したところ、院へ申し上げたので、右大弁宰相藤原定長が承って書いた手紙があります。それを経房が取次いで、今日到着しました。
東大寺建築用の麻縄について、院が全国残らず出させるように命令を出しました。ただし、皆、仏様との縁を結ぶために思ったより多く提出されました。上棟式に使用する分については、すでに余っていると重源上人が申しております。京都へ来られることは、小さな事件ではあるけれも、その費用については、農民の苦労はあるかもしれませんね。来春になってから、それらの管理している国の分は処理したらよいでしょう。特別に、この手紙以前に何度も材木を出させていることも承知しておられます。感心していると、伝えるようにと云うのが、院のお言葉なので、このとおりお伝えします。
九月十三日 右大弁
謹んで 民部卿殿追伸
洪水の事を聞いた時は、本当に驚かれてます。一国としてこの災難を逃れなかったとは、どうしようもないですね。但し、上洛の予定は、これで予定を変える必要は有りません。今にも京都へ来ないかと、いつでも待ち望んでおられます。今年もし、空しく止めてしまったならば、つくづく恨めしいことです。ひたすら思いを遂げるようにと、工夫をして云い伝えるようにとのことであります。前の手紙をお返しします。右大臣藤原兼雅にも言い伝えて有ります。
話し変って、京都での宿泊地の事は、故池大納言頼盛の屋敷跡地と決定しましたとさ。すでに着工したと一品房昌寛が言ってきておりますとさ。
建久元年(1190)九月大廿一日壬申。御上洛之間。被定御留守兵士。被宛御家人等近々所領云々。伊豆國寺宮庄〔北條殿〕以下廿餘ケ所也。行政奉行之。又因幡前司者先上洛云々。御入洛以前於京都有可致沙汰事等故也云々。 |
読下し ごじょうらくのかん おんるす ひょうじ さだ らる
ごけにんら ちかぢか しょりょう あてらる うんぬん いずのくに
てらみやのしょう 〔ほうじょうどの〕 いか にじうよかしょなり ゆきまさこれ ぶぎょう
御家人等で近々の所領に宛被ると云々。伊豆國
寺宮庄A〔北條殿〕以下廿餘ケ所也。行政之を奉行す。
また いなばのぜんじ
は さき じょうらく うんぬん ごじょうらくいぜん きょうと をい
さた いた べ ことら あ ゆえなり うんぬん
又、因幡前司者先に上洛すと云々。御入洛以前に、京都に於て沙汰致す可き事等有るの故也と云々。
参考@兵士(ひょうじ)は、荘園資料に年貢護送用隊で出るらしい。相田二郎著「関所の研究」。
参考A寺宮庄は、静岡県伊豆の国市寺家。
現代語建久元年(1190)九月大二十一日壬申。京都へ行っている間の、留守番用の兵員をお決めになられました。
御家人達で、鎌倉に近い領地の者に割り当てましたとさ。伊豆国寺宮庄〔北條時政殿〕を始めとして、二十四箇所です。二階堂藤原行政が指導担当です。
又、前因幡守(大江)広元は先に京都へ出発しましたとさ。頼朝様の京都入り前に、処理しておくべきことがあるからなんだそうだ。
建久元年(1190)九月大廿九日庚辰。先陣随兵記賜義盛。後陣隨兵記被下景時。各依可令奉行也。彼記内。於家子并豊後守泉八郎等。被加殿字云々。 |
読下し せんじん ずいへい き よしもり たま こうじん ずいへい き かげとき くださる
おのおの ぶぎょうせし べ よっ か き うち いえのこ
なら ぶんごのかみ いずみはちろうら をい
との じ くは らる うんぬん
各、
奉行令む可しに依て、彼の記の内、家子B并びに豊後守C、泉八郎D等に於ては、殿の字を加へ被ると云々。
参考@義盛は、侍所別当。
参考A景時は、侍所所司。
参考B家子は、この場合源家一族の御門葉をさす。
参考C豊後守は、毛呂季光で、藤原秀郷流で準門葉(頼朝が食べる米に困った時郎等が米を貸してくれる土豪を尋ねまわった時埼玉県毛呂山町のこの人がくれたので、その意気を買って準門葉)。
参考D泉八郎は、準門葉扱いしているが正体は不明。
現代語建久元年(1190)九月大二十九日庚辰。先払いの儀杖兵の名簿を和田太郎義盛に渡し、殿(しんがり)の儀杖兵の名簿は、梶原平三景時に渡しました。
それぞれ指導担当するのですが、その名簿のうち、源氏一族と豊後守毛呂季光と泉八郎の名に、殿の字を書き加えましたとさ。