吾妻鏡入門第十巻   

建久元年(1190)庚戌十月

建久元年(1190)十月小二日癸未。御上洛間先陣事。御家人等。或内々企所望。或定被仰付之由思儲輩多之。而日來全無其沙汰。今日召仰畠山次郎重忠。是有御存念之間。欲被仰付處。依有御夢想。弥以思食定云々。

読下し                    ごじょうらく  かん  せんじん  こと   ごけにんら   ある    ないない  しょもう  くはだ
建久元年(1190)十月小二日癸未。御上洛の間、先陣の事、御家人等、或ひは内々に所望を企て、

ある    さだ    おお  つ   らる   のよし  おも  もう     やからこれおお   しか    ひごろ まった  そ    さた な
或ひは定めて仰せ付け被る之由、思ひ儲くるの輩之多し。而るに日來全く其の沙汰無し。

きょう はたけやまのじろうしげただ  め   おお
今日 畠山次郎重忠を 召し仰す。

これ  ごぞんねん あ   のかん  おお  つ   られ    ほつ    ところ   ごむそう あ     よつ   いよい もつ  おぼ  め   さだ        うんぬん
是、御存念有る之間、仰せ付け被んと欲するの處、御夢想有る@に依て、弥よ以て思し食し定めらると云々。

参考@御夢想有るは、神様から夢のお告げが合った。

現代語建久元年(1190)十月小二日癸未。頼朝様の上洛行列の一番先頭の役「先陣」について、御家人達が内心ではひそかに望んでいたり、又或る者はきっと自分が云いつけられるだろうと、思っている連中が多いのです。しかし、普段は全然その気配がありません。今日、畠山次郎重忠をお呼びになり命令されました。これは、実はお心に決めて置かれて、命じようかと思っていたところ、夢のお告げがあったので、なおさらにそうしようと御決心なされましたとさ。

建久元年(1190)十月小三日甲申。令進發給。御共輩之中爲宗之者多以列居南庭。而前右衛門尉知家自常陸國遲參。令待給之間已移時剋。御氣色太不快。及午剋。知家參上。乍着行騰。經南庭直昇沓解。於此所撤行騰。參御座之傍。仰曰。依有可被仰合事等。被抑御進發之處遲參。懈緩之所致也云々。知家稱所勞之由。又申云。先後陣誰人奉之哉。御乘馬被用何哉者。仰曰。先陣事。重忠申領状訖。後陣所思食煩也。御馬被召景時黒駮者。知家申云。先陣事尤可然。後陣者常胤爲宿老可奉之仁也。更不可及御案事歟。御乘馬。彼駮雖爲逸物。不可叶御鎧之馬也。知家用意一疋細馬。可被召歟者。則引出御前。八寸余黒馬也。殊有御自愛。但御入洛日可被召之。路次先試可被用件駮者。又召常胤。相具六郎大夫胤頼。平次常秀等。可供奉最末之旨。被仰含訖。其後御首途。冬天無程臨黄昏之間。令宿于相摸國懷嶋給。後陣輩未出鎌倉云々。大庭平太景能儲御駄餉。

読下し                    しんぱつせし たま    おんとも やからのうち むねとた  のもの   おお  もつ  なんてい  れっきょ
建久元年(1190)十月小三日甲申。進發令め給ふ。御共の輩之中 宗爲る之者@、多く以て南庭に列居す。

しか   さきのうえもんのじょうともいえ ひたちにくによ   ちさん    ま   せし  たま   のかん  すで  じこく    うつ    みけしき はなは こころよろしからず
而るに前右衛門尉知家A、常陸國自り遲參す。待た令め給ふ之間、已に時剋を移す。御氣色太だ不快。

うまのこく  およ    ともいえさんじょう   むかばき   つ   なが    なんてい  へ  じき  くつぬぎ   のぼ
午剋に及び、知家參上す。行騰Bを着け乍ら、南庭を經て直に沓解Cへ昇る。

こ   ところ  をい  むかばき  と     おんざのかたわら  さん
此の所に於て行騰を撤き、御座之傍に參ず。

おお    い       おお  あは  らる  べ   ことら あ     よっ    ごしんぱつ  おさ  らる  のところ ちさん    けたいの いた ところなり  うんぬん
仰せて曰はく。仰せ合せ被る可き事等有るに依て、御進發を抑へ被る之處遲參す。懈緩之致す所也と云々。

ともいえ しょろうのよし  しょう   また  もう    い       せんこうじんだれひと  これ たてまつ や  ごじょうば  なに  もち  らる  や てへ
知家所勞之由を稱す。又、申して云はく。先後陣誰人が之を奉る哉。御乘馬は何を用ひ被る哉者れば、

おお    い

仰せて曰はく。

せんじん  こと   しげただりょうじょう もう をはんぬ こうじん  おぼ  め  わずら ところなり  おんうま  かげとき  くろぶち  め さる  てへ
先陣の事は、重忠領状を申し訖。 後陣は思し食し煩ふ所也。 御馬は景時の黒駮を召被る者れば、

ともいえ もう    い
知家申して云はく。

せんじん こともっともしか べ    こうじんは つねたねすくろう な たてまつ べ   のじんなり  さら  ごあん  およ  べからざることか
先陣の事尤然る可し。後陣者常胤宿老と爲し奉る可し之仁也。更に御案に及ぶ不可事歟。

 ごじょうば     か   ぶち  いちもつ  な     いへど   おんよろい かな べからざるのうまなり  ともいえいっぴき  さいば  ようい
御乘馬は、彼の駮は逸物を爲すと雖も、御鎧に叶う不可之馬也。 知家一疋の細馬を用意す。

めさる   べ   か てへ     すなは ごぜん   ひきだ      やきよ   くろうまなり   こと   ごじあい あ
召被る可き歟者れば、則ち御前に引出す。八寸余Dの黒馬也。殊に御自愛有り。

ただ   ごじゅらく   ひ   これ  めさ  べ      ろじ   ま   こころ   くだん ぶち  もち  らる  べ   てへ
但し御入洛の日に之を召被る可し。路次は先ず試みに件の駮を用ひ被る可し者り。

また  つねたね め     ろくろうたいふたねより  へいじつねひで ら  あいぐ    さいまつ  ぐぶ すべ   のむね  おお  ふく  られをはんぬ
又、常胤を召し。六郎大夫胤頼、平次常秀等を相具し、最末に供奉可し之旨。仰せ含め被訖。

そ   ご おんかどで     ふゆ  そら  ほどな   たそがれ  のぞ  のかん  さがみのくに ふところじまに しゅくせし たま
其の後御首途す。冬の天、程無く黄昏に臨む之間。相摸國 懷嶋E于 宿令め給ふ。

こうじん  やから いま  かまくら  い       うんぬん  おおばのへいたかげよし ごだしゅう  もう
後陣の輩は未だ鎌倉を出でずと云々。大庭平太景能 御駄餉を儲く。

参考@宗爲る之者は、主だったもの。
参考
A前右衛門尉知家は、八田知家で茨城県筑西市八田。
参考B
行騰は、馬に乗るとき袴の上に履く皮、ローハイド。乗馬袴。
参考
C沓解は、縁側へ上がる台の靴脱ぎ石。
参考
D八寸余は、体高四尺八寸の頼朝がお気に入りの馬の大きさ。
参考
E懷嶋は、茅ヶ崎市円蔵。

現代語建久元年(1190)十月小三日甲申。ご出発です。お供の連中のうち、大物達が大勢、南庭に立ち並びました。それなのに八田右衛門尉知家が、常陸国からなので遅れております。頼朝様はお待ちになっておられますが、時間の経過とともに、不機嫌になってきております。
昼頃になって知家がやってきました。乗馬袴をはいたまま、南庭へ入ってきて、靴脱ぎの台(上がりかまち)へ上りました。そこで乗馬袴を脱いで、頼朝様の座敷のそばへ来ました。
頼朝様はおっしゃいました。「打ち合せる事があるので、出発を控えていたが遅れてきたじゃないか。たるんでんじゃないの。」との事です。
知家は、体調が悪かったのですと言いながら、「先頭としんがりは誰がうけたまわっていますか?お乗りになられる馬はどれにするのですか?」と訪ねると、おっしゃられるのには「先頭は畠山次郎重忠が承知した。しんがりは未だ決めかねておる。乗馬は梶原景時の黒斑を使うのだ。」と云えば、知家が云いました。
「先頭は最もだと思います。しんがりは千葉介常胤が長老としてお仕えすべきお人ですよ。何も悩むことは有りませんよ。ご乗馬は、あの斑は立派な馬では有りますが、鎧の色に似合いませんよ。知家が一匹のスマートな馬を用意しました。ぜひお使いください。」と云って、早速目の前に引いてきました。
体高四尺八寸(144cm)の黒馬です。直ぐに気に入られました。
「但し、京都入りの時にお乗り下さい。途中の道中は、例の斑馬をお使い下さい。」と云いました。
又、千葉介常胤をお呼びになり、千葉六郎大夫胤頼、境平次常秀を連れて、しんがりを勤めるように、言い聞かせました。
それから、やっと出発されました。冬の空は短いので、間もなく日が暮れてきましたので、相模国懐島(茅ヶ崎市円蔵)に泊まられました。しんがりはやっと鎌倉を出た所だそうです。大庭平太景能が弁当を用意しました。

建久元年(1190)十月小四日乙酉。入御酒匂宿。

読下し                   さかわのしゅく にゅうぎょ
建久元年(1190)十月小四日乙酉。酒匂宿に入御す。

現代語建久元年(1190)十月小四日乙酉。酒匂宿(小田原市酒匂川)に入られました。

建久元年(1190)十月小五日丙戌。於關下邊。陸奥目代解状到來。仍彼國地頭所務間有被定事等。雖爲路驛。猶及此御沙汰。繁務不失寸陰之故也。
 下 陸奥國諸郡郷新地頭等所
  可早從留守并在廳下知先例有限國事致其勤事
 一 國司御厩舎人等給田畠事
  右。件舎人等。居住郡郷。募來彼田畠在家等者也。早任先例。可令引募。且隨作否之多少。可宛行也。
 一 國司御厩佃事
  右。件佃。本自有定置之郡郷。宮城。名取。柴田。黒河。志太。遠田。深田。長世。大谷。竹城是也。早任先例。可致沙汰。縱所雖損亡。随作否可宛行沙汰也。
 以前條々。背此状致不當之輩者。可改定地頭職也。且御目代不下向之間。隨留守家景并在廳之下知可致沙汰。但留守家景可問先例於在廳也。國司者自公家被補任。在廳者國司鏡也。於先例沙汰來之事者。不憚人無偏頗可致沙汰。兼又國可興復之。只在勸農之沙汰。所仰付家景也。而不随國務所々〔ニハ〕。家景自身罷向。見知實否可加下知也。猶不承引之所〔ヲハ〕。可注申。但依人成憚。有偏頗不申上濫行之輩者。仰家景。可處奇恠之状如件。以下。
     建久元年十月五日

読下し                   せきもと へん  をい    むつ もくだい  げじょうとうらい
建久元年(1190)十月小五日丙戌。關下@邊に於て、陸奥目代の解状到來す。

よつ  か   くに  ぢとう しょむ  かん  さだ  らる  ことら あ
仍て彼の國の地頭所務Aの間、定め被る事等有り。

ろえき た     いへど   なお こ    ごさた   およ    はんむすんいん うしな ざるのゆえなり
路驛爲りと雖も、猶此の御沙汰に及ぶ。繁務寸陰を失は不之故B也。

参考@關下は、神奈川県南足柄市関本。足柄峠の入口。
参考A彼の國の地頭所務は、地頭の服務で東北占領整理。
参考B繁務寸陰を失は不之故は、忙しくてもちゃんと時を惜しんで仕事をする。

   くだ    むつのくに しょぐんごう しんぢとうら   ところ
 下す 陸奥國諸郡郷新地頭等の所

     はや  るす  なら    ざいちょう   げち  したが せんれいかぎ あ   こくじ   そ   つと    いた  べ   こと
  早く留守B并びに在廳Cの下知に從ひ先例限り有る國事、其の勤めを致す可き事

参考B留守は、留守家景で元は伊沢氏。文治3年時政推挙で幕府に文筆として召抱えられ、多賀国府の留守所に兼任、奥州の最高責任者。
参考C
在廳は、在庁官人で国衙の役人。

  ひとつ こくし   みんまやのとねり ら  たま    でんぱた  こと
 一 國司の御厩舎人D等、給はる田畠の事

    みぎ  くだん とねりら ぐんごう  きょじゅう    か   でんぱた  ざいけ ら   つの  きた  ものなり  はや  せんれい  まか   ひきつのらせし  べ
  右、件の舎人等郡郷に居住し、彼の田畠を在家E等に募り來る者也。早く先例に任せ、引募令む可し。

    かつう   さくひ の たしょう  したが   あ   おこな   べきなり
  且は、作否之多少に隨ひ、宛て行はる可也。

参考D國司の御厩舎人は、国司の厩の世話係と云う役職で御厩佃の税金徴収権を持つと思われる?
参考E在家は、在家役と云って、農家の建物と一緒に農民の手工業材料や副産物用の畑をひっくるめて徴税する単位。実際の耕作者。

  ひとつ こくし  みんまやつくだ  こと
 一 國司の御厩佃Fの事

    みぎ  くだん つくだ   もとよ   さだ  お   のぐんごうあ     みやぎ   なとり   しばた   くろかわ   しだ   とおだ   ふかだ
  右、件の佃は、本自り定め置く之郡郷有り。宮城G、名取H、柴田I、黒河J、志太K、遠田L、深田M

    はせ   おおたに  たけじょう これなり    はや  せんれい  まか     さた いた  べ
  長世N、大谷O、竹城 是也。早く先例に任せ、沙汰致す可し。

    たとひ ところ そんぼう   いへど   さくひ  したが あ   おこな  さた すべ  なり
  縱、所は損亡すと雖も、作否に随ひ宛て行ひ沙汰可き也。

  いぜん  じょうじょう  こ  じょう  そむ  ふとういた  のやからは   ぢとうしき  あらた さだ  べ   なり
 以前の條々、此の状に背き不當致す之輩者、地頭職を改め定む可き也。

  かつう   おんもくだいげこうせざるのかん   るすのいえかげなら   ざいちょうの げち   したが  さた いた  べ
 且は、御目代下向不之間は、留守家景并びに在廳之下知に隨ひ沙汰致す可し。

  ただ  るすのいえかげ   せんれいを ざいちょう と   べ   なり  こくし は こうけ よ   ぶにんせら    ざいちょうは こくし かがみなり
 但し留守家景は、先例於在廳に問ふ可き也。國司者公家自り補任被る。在廳者國司の鏡也。

  せんれい さた   きた   のこと  をいては  ひと はばからず へんぱ な   さた いた  べ
 先例沙汰し來る之事に於者、人を不憚、偏頗無く沙汰致す可し。

  かね  また  くにこれ  ふっこうすべ      ただかんのうの さた   あ     いえかげ  おお  つけ ところなり
 兼て又、國之を興復可きは、只勸農之沙汰に在り。家景に仰せ付る所也。

  しか    こくむ   したが ざるしょしょ 〔 には 〕   いえかげじしん まか  むか    じっぷ   み し    げち  くは  べ   なり
 而るに國務に随は不所々〔ニハ〕、家景自身罷り向ひ、實否を見知り下知を加う可き也。

  なおしょういんせざ のところ 〔 をば 〕   ちう  もう  べ     ただ  ひと  よっ はばかり な    へんぱ あ    らんぎょう もう  あ   ざるのやからは
 猶承引不る之所〔ヲハ〕、注し申す可し。但し人に依て憚を成し、偏頗有りて濫行を申し上げ不之輩者、 

  いえかげ  おお      きっかい  しょ  べ   のじょう  くだん ごと    もつ  くだ
 家景に仰せて、奇恠に處す可し之状、件の如し。以て下す。

          けんきゅうがんねんじうがついつか
     建久元年十月五日

参考Fは、国衙(こくが)領や荘園に設定された領主直営の農地。種子・農具・日当・食料などは領主が負担し、耕作は農民の夫役により行われ、全収穫を領主の得分とした。平安中期以降、農民に請作(うけさく)させる傾向が現れ、平安末期には名田と同質化していった。
参考G宮城は、宮城県宮城郡。
参考H名取は、宮城県名取市。
参考I柴田は、宮城県柴田郡。
参考J黒河は、宮城県黒川郡。
参考K志太は、宮城県志田郡(大崎市)。
参考L遠田は、宮城県遠田郡。
参考M深田は、不明なれど大崎市鹿島台広長深田カ?。
参考N長世は、宮城県岩沼市長谷。
参考O*大谷は、不明なれど大崎市三本木大谷カ?。
参考P竹城は、不明。

現代語建久元年(1190)十月小五日丙戌。関下(神奈川県南足柄市関本)の辺りで、陸奥国の代官からの申し上げ状が届きました。そこで陸奥国の地頭達の東北占領行政服務を決められました。旅の途中ではありますが、ちゃんとこのご決済を行いました。忙しい身なので、ちょっとの間もおろそかにはしません。

 命じる 陸奥国の郡や郷の新しく任命された地頭達へ
  早く、私の代官である留守所と国衙の在庁官人の命令に従って、先例どおりの大切な国衙への奉仕を、ちゃんと勤めるように
 一つ 国司の馬を世話する厩務員達に与えられている田畑について
    右は、その厩務員達が郡や郷に住んでいて、その田畑に在家役と云う徴税をかけているものです。早く先例どおりに見合った分の課税をかけさせなさい。又、額は作の出来高の多少によって割り当てなさい。
 一つ 国司の取り分の馬屋領の中にある地頭の免税田の佃について
    右は、その地頭の免税田の佃は元々決めて置いた郡や郷があります。
宮城、名取、柴田、黒河、志太、遠田、深田、長世、大谷、竹城がそれです。早く先例どおりに処理しなさい。たとえその土地が荒地の作柄が悪くっても、耕作の出来不出来によって割り当てて処理すべきです。
 以上の事について、この命令書に反して違反をすれば、地頭職を他の者に替えてしまいます。新たな国司の代官の現地入りがなければ、留守所の家景や国衙の命令に従って処理をしなさい。但し留守所の家景は、先例を国衙の在庁官人に問い合わせなさい。国司は朝廷から任命されます。在庁官人は国司の命で動く人達です。先例として実施してきた事は、人に遠慮しないで、偏ることなく処理すべきです。それと国を復興させるには、農業を盛んにするのが一番だと家景に教えてきている所です。それなのに国衙の服務に従わないあちこちについては、家景自身が現地へ行って、それが本当かどうかを見て調べた上で、命令を与えなさい。それでも、云うことを聞かない所は、書き出しなさい。但し、相手によって遠慮して贔屓して違反を申し出てこない連中は、家景に与えた権限で、けしからん奴としての罰を与えるようにとの、命令書はこの通りなので、命令する。
  建久元年十月五日

説明留守家景は、この文書により事実上国司の代理としての権限を与えられた。

建久元年(1190)十月小九日庚寅。於駿河國蒲原驛。 院宣到來。是近江國田根庄者。按察大納言〔朝房(方)〕領所也。依二品御鬱陶。日者篭居之間。地頭佐々木左衛門尉定綱忽緒領家所務云々。彼卿複本之後就申子細。可令尋成敗給之趣也。則以其趣。被仰含定綱訖云々。

読下し                   するがのくに かんばらのうまや をい   いんぜんとうらい
建久元年(1190)十月小九日庚寅。駿河國蒲原驛@Aに 於て、院宣到來す。

これ  おうみのくに たねのしょうは  あぜちだいなごん 〔ともかた〕   りょうしょなり
是、近江國田根庄B者、按察大納言〔朝方〕が領所也。

にほん   ごうっとう   よつ    ひごろ ろうきょ     のかん  ぢとう ささきのさえもんのじょうさだつな りょうけ  しょむ   こっしょ    うんぬん
二品の御鬱陶に依て、日者篭居する之間、地頭佐々木左衛門尉定綱領家の所務を忽緒すと云々。

か   きょう  ふくほん の のち しさい  もう    つ     たず  せいばいせし  たま  べ のおもむきなり
彼の卿、複本C之後子細を申すに就き、尋ね成敗令め給ふ可し之趣也。

すなは そ おもむき もつ   さだつな  おお  ふく られをはんぬ うんぬん
則ち其の趣を以て、定綱に仰せ含め被 訖 と云々。

参考@駿河國蒲原驛は、蒲原宿。静岡県静岡市清水区蒲原。
参考Aは、律令制度でおかれた宿駅で、宿は自然発生的に出来た道を挟んで家が並んだ宿場と思われる。市と墓と遊女が付き物らしい。
参考B近江國田根庄は、滋賀県長浜市野田町に田根小学校あり。
参考C
複本は、復職。

現代語建久元年(1190)十月小九日庚寅。駿河国蒲原の馬立場で、後白河院からの手紙を受け取りました。その内容は、近江国田根庄(長浜市野田町)は、按察大納言〔葉室朝方〕の領地です。彼は、義経に味方したので、頼朝様のお怒りに触れて、現在は蟄居しているので、地頭の佐々木左衛門尉定綱は領家への年貢をおろそかにしているとの事です。その大納言が許されて復職したら、その滞納の話を云ってきているので、詳しく調べて処理してくれとの内容です。すぐにその内容を、定綱に伝えられましたとさ。

建久元年(1190)十月小十二日癸巳。於岡部宿。進 院宣請文給。按察大納言使此程奉扈從。賜御請文。進以歸洛云々。
 去月九日御教書。去九日到來。謹拝見候畢。近江國田根庄務事。早随領家使下知。成和与可沙汰之由。仰含地頭定綱候畢。此上猶致對捍候者。可勘當候也。以此旨可令申上給候。恐々謹言。
      十月十二日                 頼朝

読下し                     おかべのしゅく をい   いんぜん  うけぶみ  しん  たま
建久元年(1190)十月小十二日癸巳。岡部宿@に於て、院宣の請文を進じ給ふ。

あぜちだいなごん  つか  こ   ほど こしょう たてまつ  おんうけぶみ  たま     すす    もつ  きらく     うんぬん
按察大納言の使い此の程扈從し奉り、御請文を賜はり、進みて以て歸洛すと云々。

  さんぬ つきここのか みぎょうしょ  さんぬ ここのかとうらい  つつし   はいけん そうらひをはんぬ
 去る月九日の御教書、去る九日到來す。謹みて拝見し 候 畢。

  おうみのくに たね  しょうむ  こと  はや  りょうけし    げち   したが    わよ   な    さた すべ  のよし
 近江國田根の庄務の事、早く領家使の下知に随ひ、和与Aを成し沙汰可し之由、

  ぢとう さだつな  おお  ふく そうらひをはんぬ  こ  うえなお たいかん いた そうらはば  かんどうすべ そうろうなり
 地頭定綱に仰せ含み 候 畢。 此の上猶 對捍 致し候 者、勘當可く候也。

  かく  むね  もつ  もう  あ   せし  たま  べ そうろう きょうきょうきんげん
 此の旨を以て申し上げ令め給ふ可く候。恐々謹言。

             じうがつじうににち                                        よりとも
      十月十二日                   頼朝

参考@岡部は、駿河国志太郡。静岡県藤枝市岡部町岡部。
参考A和与は、示談。

現代語建久元年(1190)十月十二日癸巳。岡部宿で、院からの手紙に返事を出されました。按察大納言〔葉室朝方〕の使いが九日から付いて来ていましたが、返事を受け取り、先に京都へ戻って行きましたとさ。

 先月九日付けのお手紙が、今月の九日に届きました。謹んで拝見いたしました。近江国田根庄の年貢について、早く領家から派遣されている代官の命令に従って、示談にして処理するように、地頭の佐々木定綱に申し付けておきました。それでも云う事を聞かなかったら、彼を勘当します。この内容で院へお伝えいただくように、謹んで申し上げます。
    十月十二日    頼朝

建久元年(1190)十月小十三日甲午。於遠江國菊河宿。佐々木三郎盛綱相副小刀於鮭楚割。〔居折敷。〕以子息小童送進御宿。申云。只今削之令食之處。氣味頗懇切。早可聞食歟云々。殊御自愛。彼折敷被染御自筆曰。
 まちゑたる人のなさけもすはや里のわりなく見ゆる心さしかな

読下し                     とおとうみのくに きくかわのしゅく をい  ささきのさぶろうもりつな
建久元年(1190)十月小十三日甲午。 遠江國 菊河宿@に於て、佐々木三郎盛綱、

こがたなを さけ すはやり  〔おしき   お   〕    あいそ     しそく   こわらは  もつ    おんやど  おく  しん
小刀於鮭の楚割A〔折敷Bに居く〕に相副へ、子息の小童を以て、御宿に送り進ず。

もう    い       ただいまこれ  けず  しょくせし  のところ  きみ すこぶ こんせつ はや  き     め   べ   か   うんぬん
申して云はく、只今之を削り食令む之處、氣味頗る懇切。早く聞こし食す可き歟と云々。

こと   ごじあい   か   おしき   おんじひつ  そ   られ  い
殊に御自愛。彼の折敷に御自筆を染め被て曰はく。

    待ちえたる  ひとの   情も     すはやりの     割無く    みゆる   志かな
 まちゑたる人のなさけもすはや里のわりなく見ゆる心さしかな

参考@遠江國菊河宿は、静岡県島田市菊川。
参考
A鮭の楚割は、鮭の燻製で越後村上名物「さかびたし」のようなものではないか。佐々木三郎盛綱は越後加治荘(新潟県北蒲原郡加治川村)を与えられているので、そちらで獲れたものではないか。
参考B折敷は、四角い板の隅切りをし、縁取りを付けたお盆のような足の無い食卓。この下に箱型の足をつけて三方に松型の穴を開けたのが、「三方(さんぼう)」

現代語建久元年(1190)十月十三日甲午。遠江国菊川宿で、佐々木三郎盛綱から小刀を鮭のすわやり〔お盆状の折敷に乗せている〕に添えて、息子の子供に宿へ届けて来させて云いました。「たった今、これを削って食べてみたところ、味がとっても良いのです。早く食してみてください。」との事です。頼朝様は、とても気に入りましたので、その折敷に自筆でお書きになりました。

待ちいたる人の情けもすはやりの割りなくみゆる志かな
(待っていた人の情けは、すはやりを割るように志が私から離れては居ないとわかりましたよ)

説明この話を「頼朝の好物は何?」のクイズ内容で「笑っていいとも」に奥富孝之先生が出演された。

建久元年(1190)十月小十八日己亥。於橋本驛。遊女等群參。有繁多贈物云々。先之有御連歌。
  はしもとの君にハなにかわたすへき
  たゝそ満かハのくれてすきはや    平景時

読下し                     はしもとのうまや をい    ゆうじょら ぐんさん    はんた  おくりものあ   うんぬん  これ    さき ごれんが あ
建久元年(1190)十月小十八日己亥。 橋本驛に於て、遊女等群參す。繁多の贈物有りと云々。之より先御連歌有り。

       橋本の       君には何を      渡すべき
  はしもとの 君にハなにを わたすへき

      ただそまかわの      くれてすぎばや           たいらのかげとき
  たゝそ満かハの くれてすきはや    平景時

現代語建久元年(1190)十月十八日己亥。橋本の馬立場では、遊女達が群集ってきて、沢山の贈り物を差し出しましたとさ。ここでしりとり合戦的に続ける和歌の会連歌を催しました。

  橋本の君には何を渡すべき   ただそまかわの暮れて過ぎばや 平景時

  (橋本の遊女さんたちに何を渡しましょうか頼朝の往歌)
  (
考えて居て早くそま川を渡らないと日が暮れてしまいますよ 平梶原景時返歌)

説明橋本は、浜名湖の新居関で、現静岡県浜名郡新居町浜名に橋本バス停あり。但し浜名湖はもと淡水湖で、遠江(遠つ淡海)の国名にもなったほどだが、湖から南の海へ通じた浜名川といふ短い川に架る橋のそばに橋本宿があった。明応七年(1498)の大地震以来、地殻変動によって海水が入りこみ、橋本宿も水没したので、宿場は新居宿へ移ったそうだ。

建久元年(1190)十月小廿五日丙午。以尾張國御家人須細治部大夫爲基。爲案内者。到于當國野間庄。拝故左典厩廟堂〔平治有事。奉葬于此所云々。〕給。此墳墓被掩荊蕀不拂薛羅歟之由。日來者於關東遥令遺懷給之處。佛閣排扉。荘嚴之粧遮眼。僧衆搆座。轉經之聲満耳也。二品恠之。爲解疑氷。被尋濫觴之處。前廷尉康頼入道守于國之時。令寄附水田三十町以降。建立一伽藍。奉祈三菩提云々。此事。爲謝康頼入道殊功。兼日雖賜一村。彼任國者往年事也。行業定令廢絶歟。可加潤餝之由思食之處。鄭重之儀親覽之。弥憐禪門之懇志。更感古塚之締搆給。又屈数十許輩龍象。被修廿五三昧勤行。口別錦衣二領。曝布十端施之給云々。

読下し                     おわりのくにごけにん すさいのじぶだいぶためもと   もつ    あないじゃ   な     とうごく のまのしょうに いた
建久元年(1190)十月小廿五日丙午。尾張國御家人須細治部大夫爲基@を以て、案内者と爲し、當國 野間庄A于到る。

こさてんきゅう   びょうどう  〔へいじ   ことあ      こ   ところにほうむ たてまつ  うんぬん〕    はい  たま
故左典厩が廟堂B〔平治に事有りC。此の所于葬り奉ると云々〕を拝し給ふ。

こ   ふんぼ  けいきょく おおわれ へいら  はらわざるか のよし  ひごろは かんとう  をい はるか おもい や  せし  たま  のところ
此の墳墓が荊蕀Dに掩被、薛羅Eを不拂歟之由、日來者關東に於て遥に懷を遺ら令め給ふ之處、

ぶっかく  とびら はい       しょうごんのよそおい め  さへぎ  そうしゅう ざ  かま    てんきょう のこえみみ みつ  なり
佛閣の扉を排すれば、荘嚴之 粧 眼を遮る。僧衆座を搆へ、轉經F之聲耳に満る也。

にほん これ  あやし   ぎひょう  と     ため  らんしょう たず  らる  のところ
二品之を恠み、疑氷を解かん爲、濫觴を尋ね被る之處。

さきのていい やすよりにゅうどう くにに かみのとき  すいでんさんじっちょう きふ せし  いこう   いちがらん  こんりゅう   さんぼだい  いの たてまつ  うんぬん
前廷尉 康頼入道G、 國于守之時、水田三十町を寄附令む以降、一伽藍を建立し、三菩提を祈り奉ると云々。

かく  こと  やすよりにゅうどう こと    こう  しゃ  ため  けんじつ いっそん  たま     いへど   か   にんこくは おうねん  ことなり
此の事、康頼入道の殊なる功に謝す爲、兼日 一村を賜はると雖も、彼の任國者往年の事也。

ぎょうごう さだ   はいぜつせし   か
行業定めし廢絶令めん歟。

じゅんしょく くわ べ   のよし おぼ  め   のところ  ていちょうの ぎ  まのあた これ  み
潤餝を加う可し之由思し食す之處、鄭重之儀、親りに之を覽て、

いよいよ ぜんもんのこんし  あわれ   あらた   こづかのていこう  かん  たま

弥、禪門之懇志を憐み、更めて古塚之締搆を感じ給ふ。

また  すうじうばかりやから りゅうぞう くつ   にじうござんまい ごんぎょう しゅうせら   くべつ  めんいふたりょう  さらしぬのじったん これ ほどこ たま    うんぬん
又、数十許輩の龍象を屈し、廿五三昧の勤行を修被れ、口別Hに錦衣二領、 曝布 十端 之を施し給ふと云々。

参考@須細治部大夫爲基は、知多郡南知多町豊浜須佐ノ浦。
参考
A野間庄は、野間内海庄で愛知県知多郡美浜町野間。
参考B故左典厩廟堂は、野間の大御堂寺にあり。
参考C平治に事有りは、平治の乱で敗れた義朝が執事の鎌田正Cの舅の長田庄司忠致に風呂場で暗殺された。
参考D荊蕀は、いばら。
参考E
薛羅は、葛。
参考
F轉經は、お経を轉讀する。
参考G前廷尉康頼入道は、平康頼で鹿ケ谷の変で流罪になっている。守であった証拠は無い。
参考H口別は、坊主は口ばっかりで人ではないので、一人二人と数えずに一口二口と数えるので「一人づつに」の意味。

現代語建久元年(1190)十月小二十五日丙午。尾張国須佐の浦の御家人の須細治部大夫爲基に案内をさせて、野間庄へ行きました。ここは故左馬頭義朝のお墓〔平治の乱の時に事件があり、ここに葬られております〕をお参りしました。このお墓がいばらにおおわれ、葛が払われていないのではないかと、常々関東に居て遥かに思いを寄せていましたが、お堂の扉を開けてみると、なんと荘厳な様子が目に入りました。しかもお坊さんが座ってお経を略読みしている声が聞こえるではありませんか。頼朝様は不思議に思われて、疑問を解決するために、事の次第を訪ねられました。元檢非違使の平康頼入道が尾張に赴任した時に、水田三十町(30ha)を寄附してくれたのでそれ以後、一つのお堂を建立して冥福を祈っているそうです。この話を聞いて、康頼入道の特別な懇意に感謝をするために、以前に一村の領地を与えましたが、彼の赴任は昔の事である。手入れは、恐らく排しされてしまった事であろう。何かつくろってあげようと思い立って来ました。が、丁重に維持されているのを目の当たりにして、なおさら康頼入道の志に感激したので、改めて古いお墓の手入れされている構えに感激なされました。それで、十人以上の偉い坊さんを選んで南無阿弥陀仏の勤行をさせました。一人づつに綿入れを二着、さらしを十反づつお布施として与えましたとさ。

建久元年(1190)十月小廿七日戊申。御潔齋。令奉幣熱田社給。當社依爲外戚祖神。殊被致中心之崇敬云々。

読下し                     ごけっさい   あつたしゃ  ほうへいせし たま
建久元年(1190)十月小廿七日戊申。御潔齋、熱田社@へ奉幣令め給ふ。

とうしゃ  がいせき  そしん た     よつ    こと  ちうしんのすうけい  いたさる    うんぬん
當社は外戚の祖神爲るに依て、殊に中心之崇敬を致被ると云々。

参考@熱田社は、熱田神宮で頼朝の母の実家である。母の名を熱田神宮では「由良」だと云ってる。

現代語建久元年(1190)十月小二十七日戊申。御身を清めたうえで、熱田神宮にお詣りをしました。この神社は御母さんの実家なので、特に心の底から崇拝しお参りをされましたとさ。

建久元年(1190)十月小廿八日己酉。於小熊宿。須細大夫爲基賜身暇。自鳴海迄于此所。候御駕前。當國内窂籠所領等令安堵云々。及晩着御于美濃國墨俣。爰高田四郎重家。乍蒙配流 宣旨。猶住本所。剩有謀反企之由依聞食及之。遣御使之處。重家父子參上。陳申無異心之由云々。

読下し                     おぐまのしゅく  をい   すさいのだいぶためもと み  いとま たまは
建久元年(1190)十月小廿八日己酉。小熊宿@に於て、須細大夫爲基身の暇を賜る。

なるみ よ   こ  ところにまで  おんが  まえ  こう
鳴海A自り此の所于迄、御駕の前に候ずる。

とうごくない ろうろう  しょりょう ら  あんど せし      うんぬん
當國内窂籠の所領B等を安堵令めると云々。

ばん  およ  みののくに すみまたに ちゃくご  ここ  たかだのしろうしげいえ  はいる  せんじ  こうむ なが    なおほんじょ すま
晩に及び美濃國 墨俣于着御。爰に高田四郎重家、配流の宣旨を蒙り乍ら、猶本所に住う。

あまりさ むほん  くはだ あ   のよし  これ  き     め   およ    よつ    おんし   つか   のところ
剩へ謀反の企て有る之由、之を聞こし食し及ぶに依て、御使を遣はす之處、

しげいえ おやこ さんじょう  いしん な    のよし  ちん  もう    うんぬん
重家父子參上し、異心無き之由を陳じ申すと云々。

参考@小熊宿は、小熊保で、岐阜県羽島市小熊町。
参考A鳴海は、愛知県名古屋市緑区鳴海町。
参考B
牢篭の所領は、所領を取り上げられていた領地。

現代語建久元年(1190)十月小二十八日己酉。小熊宿で須細大夫爲基はお役御免を許されました。鳴海からここまで、頼朝様の馬前を勤めました。この国内の取上げられていた領地を元通りに許されましたとさ。
夜になって美濃国の墨俣に着きました。ここで、高田四郎重家が流罪の判決を受けながらも、尚自分の領地に住んでいる。そればかりか謀反を企んでいると、お耳にされたので、使いを行かせたら、高田重家親子がやってきて、反抗の心は御座いませんと謝罪をしましたとさ。

建久元年(1190)十月小廿九日庚戌。於波賀驛。被召出長者大炊息女等有纏頭。故左典厩都鄙上下向之毎度。令止宿此所給之間。大炊者爲御寵物也。仍被重彼舊好之故歟。故六條廷尉禪門最後妾〔乙若以下四人幼息母。大炊姉〕内記平太政遠〔保元逆亂時被誅。乙若以下同令自殺畢〕平三眞遠〔出家後号鷲栖源光。平治敗軍時。爲左典厩御共。廻秘計。奉送于内海也〕大炊〔墓長者〕此四人皆連枝也。内記大夫行遠子息等云々。

読下し                      あおばか   うまや をい    ちょうじゃおおい そくじょら  め   いだされ  てんとう  あ
建久元年(1190)十月小廿九日庚戌。波賀@の驛に於て、長者大炊Aが息女等を召し出被、纏頭B有り。

 こさてんきゅう   とひ   じょうげこうの まいど   こ   ところ  ししゅくせし  たま  のかん  おおいは ごちょうもつ  な   なり
故左典厩、都鄙に上下向之毎度C、此の所に止宿令め給ふ之間、大炊者御寵物Dと爲す也。

よつ  か  きゅうこう  おも    らる  のゆえか
仍て彼の舊好Eを重んぜ被る之故歟。

ころくじょうていいぜんもん  さいご  しょう 〔おとわか いか よにん   ようそく   はは  おおい   あね〕
故六條廷尉禪門が最後の妾〔乙若以下四人の幼息の母で大炊の姉〕

 ないきのへいたまさとお 〔ほうげんぎゃくらん とき ちうされ    おとわか いか おな    じさつ せし をはんぬ〕
内記平太政遠〔保元逆亂の時誅被る。乙若以下同じく自殺令め畢。〕、

へいざまさとお  〔しゅっけ のち わしずのげんこう  ごう      へいじはいぐん  とき  さてんきゅう  おんとも  な      ひけい   めぐ      うつみ に おく  たてまつ  なり 〕
平三眞遠〔出家の後鷲栖源光Fと号す。平治敗軍の時、左典厩の御共と爲し、秘計を廻らせ、内海G于送り奉る也。〕、

おおい  〔 あおばか ちょうじゃ 〕 
大炊〔墓の長者。〕

こ   よにん みな れんし なり  ないきのだいぶゆきとお  しそくら  うんぬん
此の四人皆連枝H也。内記大夫行遠が子息等と云々。

参考@波賀は、岐阜県大垣市青墓町。
参考A
長者大炊は、延寿御前で義朝の妾。
参考B纏頭は、本来は芸能のご祝儀として、物々交換の時代に着ている物を脱いで芸人の肩に掛けてやる。
参考C都鄙に上下向之毎度は、鎌倉と京都とを行き来するたびに。
参考
D御寵物は、寵愛していた。
参考E舊好は、昔の好。
参考
F鷲栖源光は、名古屋市緑区大高町鷲津で、織田信長の鷲津の砦跡あり。
参考G内海は、愛知県知多郡南知多町大字内海。
参考H
連枝は、兄弟。

現代語建久元年(1190)十月小廿九日庚戌。青墓の馬立場で、遊女屋の主人の大炊(延寿御前)の娘を呼び出して、贈り物を与えました。父の左典厩義朝は、鎌倉と京の都とを往復する度に、この宿に泊まった時に、大炊を寵愛しました。それなので昔のよしみを大事になされるからです。又、祖父の六条廷尉禅門源為義の最後の妾〔乙若以下四人の幼い息子の母で大炊の姉〕、内記平太政遠〔保元の乱で反乱軍のため殺されました。乙若以下同様に自殺させられました。〕、平三真遠〔出家して鷲栖源光と名乗りました。平治の乱で敗れた時に、左典厩義朝のお供をして、工夫を凝らして内海まで送りました。〕、大炊〔青墓の支配者〕この四人は兄弟姉妹で、内記大夫行遠の子供達で有りますとさ。

               行遠
          ┌──┬─┴─┬──┐
       為義=姉  政遠  真遠 大炊=義朝

話題この青墓で、平治の乱での都落ちのとき、次男の朝長が太ももに深手の矢傷をおって、足手まといになるからと父の義朝にせがんで介錯をしてもらったという、悲しい出来事があった地ですね。頼朝はその前に迷子になっているので、その場には居合わせませんでしたが、話は聞いていると思うのです。詳しくは平時物語を。

又、保元の乱では、爲義が大炊の姉に生ませた乙若以下四人の子は、敗軍の將の子供として斬首されています。義朝は、父や兄弟の助命嘆願をするのですが、信西が頑として譲らず、鎮西八郎爲朝以外はすべて殺されます。詳しくは保元物語を。

十一月へ

吾妻鏡入門第十巻   

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