吾妻鏡入門第十巻   

建久元年(1190)庚戌十一月

建久元年(1190)十一月大二日壬子。於近江國柏原。被召取前兵衛尉忠康。則以雜色被觸申其由於民部卿〔經房〕之許云々。又山田次郎重隆。高田四郎重家等。雖蒙配流 宣旨。各不赴配所之間。重隆者自墨俣所被召具也。彼輩事。并路次子細。爲内 奏可申戸部之旨。先立専使。被遣御書於因幡前司廣元〔在京〕許云々。其詞云。
 依内々仰。於墨俣邊て尋聞之處。重隆。重家可發謀反之由依聞。重隆にハ付使。有父子來向。仍召具たる也。子息をハ美濃〔ニ〕留て。重隆をハ召具て參也。其故は重隆申状〔ニ〕。九月卅日。宣旨御使ハ出ツ。十月一日被行赦免。定てゆり候ぬらんとおほゆと申也。縱赦免候ハむからに。いかてゆりぬらんとハ計哉。以外次第也。重家申状には。付東大寺上人て申〔ニ〕。可被免之由承れハ。のほらしと存也と申。如此して。誠謀反儀〔ヲ〕企けに候へハ。重家にも。御使上〔ニ〕付使て進上候也。重家。兼信〔ハ〕先京都〔ヘ〕被召上候後〔仁〕。府の者も請取候なん。重隆を配所へ不遣して召具て候事。人も傍に申事や候はんすらん。さ候とて。手放〔に〕沙汰すへき者にて候はねハ。當時召具て候。随御定て可沙汰候也。此由〔ヲ〕急民部卿殿に申て。御返事を迎さまに可令走也。兼又美濃在廳雜事候て。可沙汰之由申しかとも。國の御目代も不下向事なれハ。御定ハ畏思給れとも。當時ハ可申入事無かりしかハ。さて有き。此條も若あらぬさまの。見參ニもそ入と存也。此由〔ヲ〕も能々可申上也。遠江御目代橋本宿〔ニ〕來て。儲して候しかは領納畢。是又可入見參。猶々重隆。重家等。忽諸 宣旨し候て。かやうに私使〔ヲ〕付候之刻〔ニ〕。或來り。或〔ハ〕さはきなとし候。返々奇恠に候事也。已 朝威を忽諸し候。猶以不敵事候。仰朝威候はゝ。身の冥加こそハ候はめ。又重隆使〔ヲ〕給て候也 。申状〔ニ〕。上洛以前可被流罪之由ヲ。自鎌倉申候たりと申者候也。以廣元申たりと。大藏卿の奉行にて。被仰下之由〔ヲ〕申者候也。
     十一月二日                   盛時〔奉〕
    因幡前司殿

読下し                     おうみのくにかしわばら をい  さきのひょうえのじょうただやす め  とられ
建久元年(1190)十一月大二日壬子。近江國柏原@に於て、 前兵衛尉忠康を 召し取被る。

すなは ぞうしき  もつ  そ   よしをみんぶのきょう〔つねふさ〕  のもと  ふ   もうさる    うんぬん
則ち雜色を以て其の由於民部卿〔經房〕之許へ觸れ申被ると云々。

また  やまだのじろうしげたか  たかだのしろうしげいえら はいる  せんじ  こうむ   いへど  おのおのはいしょ おもむかずのかん
又、山田次郎重隆、高田四郎重家等配流の宣旨を蒙ると雖も、 各 配所へ不赴之間、

しげたかは すみまたよ  め   ぐされるところなり
重隆者 墨俣自り召し具被所也。

か   やから こと  なら     ろじ    しさい  ないそう  ため   こぶ   もう  べ   のむね  さき  せんし  た
彼の輩の事、并びに路次の子細を内奏の爲に戸部Aに申す可し之旨、先に専使を立て、

おんしょを いなばのぜんじひろもと〔ざいきょう〕  もと  つか  さる    うんぬん  そ   ことば い
御書於因幡前司廣元〔在京〕の許へ遣は被ると云々。其の詞に云はく。

参考@近江國柏原は、滋賀県米原市柏原。
参考A
戸部は、民部省の唐名で、この場合は民部卿經房を指す。

  ないない おお    よつ    すみまたへん をい  たず き   のところ  しげたか  しげいえむほん はっ  べ   のよし  き     よつ    しげたか には つかい つ
 内々の仰せに依て、墨俣邊に於て尋ね聞く之處、重隆、重家謀反を發す可し之由を聞くに依て、重隆にハ使を付く。

  ふし らいこう あ      よつ  め   ぐ       なり  しそく をば  みのに  とどめ   しげたか をば め    ぐ     さん    なり
 父子來向有り。仍て召し具したる也。子息をハ美濃ニ留て、重隆をハ召し具して參ずる也。

  そ   ゆえ  しげたか  もうしじょうに  くがつさんじうにち せんじ おんし は いづ  じうがつついたちしゃめんおこな れる さだめ     そうらは       おぼゆ   もう  なり
 其の故は重隆が申状ニ、九月卅日、宣旨の御使ハ出ツ。十月一日 赦免行は被。定てゆり候ぬらんとおほゆと申す也。

  たと  しゃめんそうらは            いかで            は はか    や   もっ    ほか  しだいなり
 縱ひ赦免候ハむからに、いかてゆりぬらんとハ計らん哉。以ての外の次第也。

  しげいえ  もうしじょう     とうだいじ しょうにん つけ  もうすに  めん らる  べ   のよし うけたまわれば  のぼらじ   ぞん    なり  もう
 重家が申状には、東大寺上人に付て申ニ、免ぜ被る可し之由承れハ、のほらしと存ずる也と申す。

  かく  ごと        まこと  むほん  ぎ を くはだて  そうらへば  しげいえ   おんし   うえに し   つ     しんじょう そうろうなり
 此の如くして、誠に謀反の儀ヲ企けに候へハ、重家にも御使の上ニ使を付けて進上し候也。

  しげいえ かねのぶは ま  きょうと  め   あ  られそうろうのちに  ふ  もの  う   と   そうら
 重家、兼信ハ先づ京都ヘ召し上げ被候後仁、府の者も請け取り候ひなん。

  しげたか  はいしょ  つかわさず  め   ぐ   そうろうこと  ひと  かたわら もう  こと  そうらわんずらん
 重隆を配所へ不遣して召し具して候事、人も 傍に 申す事や候はんすらん。

   そうろう     てばな      さた  すべきもの     そうらはねば    とうじ め  ぐ    そうろう  ごじょう  したがひ さた すべ そうろうなり
 さ候とて、手放しに沙汰すへき者にて候はねハ、當時召し具して候。御定に随て沙汰可く候也。

  かく  よしを いそ みんぶのきょうどの もうし   ごへんじ    むかへ    はし  せし  べ   なり
 此の由ヲ急ぎ民部卿殿に申て、御返事を迎さまに走ら令む可き也。

  かね  また   みの   ざいちょうぞうじそうろう  さた すべ   のよし もう     ども   くに  おんもくだい げこうせざることなれば
 兼て又、美濃の在廳雜事候て、沙汰可き之由申しかとも、國の御目代も下向不事なれハ、

  ごじょうは おそ  おも  たまう       とうじ は もう  い   べ   こと  な       しかば       あり
 御定ハ畏れ思ひ給れとも、當時ハ申し入る可き事無かりしかハ、さて有き。

  かく  じょう も                    げざんにもぞ  いる   ぞん    なり  かく  よし をも よくよく もう   あ   べ   なり
 此の條も若しあらぬさまの、見參ニもそ入ると存ずる也。此の由ヲも能々申し上ぐ可き也。

  とうとうみ おんもくだいはしもとしゅくに き   もうけ  そうらいしかば りょうのう をはんぬ これまた  げざん  い   べ
 遠江の御目代橋本宿ニ來て、儲して候しかは領納し畢。 是又、見參に入る可し。

  なおなおしげたか しげいえら せんじ   こっしょ  そうらい          し   つかいを つ  そうろうのときに
 猶々重隆、重家等、宣旨を忽諸し候て、かやうに私の使ヲ付け候之刻ニ、

  ある    きた    ある  は  さわぎなどしそうろう   けすがえす きっかい そうろうことなり すで  ちょうい  こっしょ そうろう   なおもっ  ふてき  こと そうろう
 或ひは來り、或ひハさはきなとし候。返々も奇恠に候事也。 已に朝威を忽諸し候。 猶以て不敵の事に候。

  ちょうい  あお  そうらはば   み   みょうが    はそうら      また  しげたかつかいをたまい そうろうなり  もうしじょうに じょうらくいぜん  るざい さる  べ   のよしを
 朝威を仰ぎ候はゝ、身の冥加こそハ候はめ。又、重隆使ヲ給て 候也。 申状ニ、上洛以前に流罪被る可し之由ヲ、

  かまくらよ   もう  そうろう     もう ものそうろうなり ひろもと  もっ  もうし       おおくらきょう ぶぎょう      おお  くださる  のよしを もう  ものそうろうなり
 鎌倉自り申し候たりと申す者候也。廣元を以て申たりと、大藏卿の奉行にて、仰せ下被る之由ヲ申す者候也。

          じういちがつふつか                                        もりとき 〔ほうず〕
     十一月二日                   盛時〔奉〕

        いなばのぜんじどの
    因幡前司殿

現代語建久元年(1190)十一月大二日壬子。近江国(滋賀県)の柏原(伊香郡高月町柏原)で、前兵衛尉藤原忠康を捕まえました。直ぐに雑用を使って、その事を民部卿吉田経房の所へ伝えさせましたとさ。
又、山田次郎重隆と高田四郎重家は流罪の後白河法皇の命令を出されているのに、二人とも流罪先へ行かないので、山田次郎重隆は墨俣川(岐阜県大垣市墨俣町墨俣)からしょっ引いて行くところです。その連中の事と、京都へ入る際の細かい事を、後白河法皇に伺うように、民部卿吉田経房に伝えるように、先ずその使いを立たせ、手紙を前因幡守大江広元へ持って行かせましたとさ。その手紙の内容は。

 内々にお知らせがあったので、墨俣川のあたりで噂を聞いたところ、重隆と重家は謀反をしようしてると聞いたので、重隆には使いを出しました。父と子でやってきたので、捕らえました。息子の方は美濃に置いて、重隆を連れて行く所存です。

それは、重隆の云うことには「9月30日に宣旨の使いが出て、10月1日には赦免があったので、さぞかし、自分も許されたのだろうと思ってた。」と云います。たとえ赦免があったからといって自分も許されたと思ったなんて、もってのほかのことであります。重家の云うことには「東大寺の上人を仲立ちにして、許されたと承知したので、京都へ上らなくても良いと思った。」と云います。このことから、本当に違反をしているのならば、重家にも院の使いの他に私の使いを付けて、京へ行かせましょう。

重家と板垣兼信はまず京都へ上らせたうえで、衛門府(の下の檢非違使庁)の檢非違使が受け取ればよいでしょう。重隆を流罪先に行かせないで連れて来たことも、人は陰口をきくかも知れません。だからといって、簡単に処理するべきものでもないので、今連れて行くので、そちらの定めに応じて処理するようにしようと思うからです。この内容を、急いで経房卿に申して、返事をもらえるように使いを走らせます。同様に気になっているのは、美濃の在庁官人が余分な労働を命令しているので、言おうと思ったけど、国司の代官も現地へ派遣されていない事なので、院の決定は恐れ多いことと思いますが、今は特に申し出るほどではないので、そのようにしました。このことも、もし違っているとのことなら、この内容で院のお耳に入れてください。要があると思います。この内容もきちんと話しておく必要があります。

遠江の代官は、橋本宿に来て、接待をしてくれたので、それは受けました。このことも、伝えておきますように。また何といっても山田次郎重隆、高田四郎重家が法皇の命令をないがしろにしたので、是に対し私の使いを出した時に、出張ってきて騒いで脅したりしたのは、とんでもないことであります。そのことが、朝廷を馬鹿にしています。随分と大胆不敵な行動であります。朝廷の命を聞くのは、名誉なことなんでしょうがねぇ。又、山田重隆について検非違使からのを通知が有ります。その内容は、京都へ来る前に流罪にするように、鎌倉から云って来たと云う者もいます。大江広元を通じで云ったと大蔵卿高階泰経の差配で言ってきてのだとも云うようです。

   十一月二日        平民部烝盛時が命じられて書きました

    因幡前司大江広元殿

建久元年(1190)十一月大四日甲寅。二品御入洛可爲今明之由。達叡聞之間。以度々追討賞。可有拝官之恩。然者可爲何官哉之由。有 勅問云々。今日。基C。朝光等爲御使先入洛。

読下し                     にほん  ごじゅらく  こんみょうたるべきのよし  えいもん  たつ   のかん
建久元年(1190)十一月大四日甲寅。二品が御入洛、今明爲可之由、叡聞に達する之間、

たびたび ついとう しょう もっ    はいかんの おんあ   べ     しからば  なにかんたるべきやのよし  ちょくもん あ   うんぬん
度々の追討の賞を以て、拝官之恩有る可し。然者、何官爲可哉之由、勅問有ると云々。

きょう   もときよ  ともみつら おんし  な   さき  じゅらく
今日、基C、朝光等御使と爲し先に入洛す。

現代語建久元年(1190)十一月大四日甲寅。二品頼朝様の京入りは、今日・明日あたりと後白河院の耳に達したので、何度かの追討の褒美として、何か官職に付く恩賞を与えよう。それでは、何の官職が良いかなと、院が聞いていたそうです。
今日、後藤基清と結城朝光は、使者として先に京入りします。

建久元年(1190)十一月大五日乙夘。着御野路宿。前右馬助朝房自當國之三上社。献垸飯酒肴等。不令領納之給云々。

読下し                     のぢのしゅく ちゃくご  さきのうまのすけともふさ とうごくの みかみしゃ よ     おうばんさけさかなら けん
建久元年(1190)十一月大五日乙夘。野路宿@に着御。前右馬助朝房、當國之三上社A自り、垸飯酒肴等を献ず。

これ りょうのうせし たまはず うんぬん
之を領納令め給不と云々。

参考@野路宿は、滋賀県草津市野路町。
参考A
三上社は、滋賀県野洲市三上の御上神社。

現代語建久元年(1190)十一月大五日乙卯。野路宿に着きました。
前右馬助朝房が、近江の国の御上神社からご馳走とお酒を届けてきましたが、受け取りませんでしたとさ。

建久元年(1190)十一月大六日丙辰。甚雨。凌雨雖可有御入洛。依道虚并御衰日延引。令逗留野路宿給。今日。騎馬勇士在門前無礼也。可令下馬之由。景時加下知之處。答申未習其礼旨。仍可召進其身之由。被仰義盛。々々窺出于門外。件男已退去之程也。義盛挾引目追射之。則落馬。于時義盛郎從等搦取之。問子細之處。大舎人允藤原泰頼也。承鎌倉殿御上洛事。爲御迎參向。且爲愁申伯耆國長田庄得替事也。全不知御旅舘之由陳謝之。非指雜(緩)怠。早相宥可被召具之由云々。

読下し                   はなはだあめ あめ  しの  ごじゅらく あるべし いへど   どうきょ なら    ごすいにち  よっ  えんいん
建久元年(1190)十一月大六日丙辰。甚雨。雨を凌ぎ御入洛有可と雖も、道虚@并びに御衰日Aに依て延引し、

のぢのしゅく とうりゅうせし  たま
野路宿に逗留令め給ふ。

きょう    きば   ゆうし もんぜん  あ     ぶれいなり
今日、騎馬の勇士門前に在りて無礼B

 げば せし  べしのよし  かげとき げち  くは    のところ  いま  そ   れい  なら     むね  こた  もう
下馬令む可之由、景時下知を加へる之處、未だ其の礼を習はずの旨を答へ申す。

よつ  そ   み   めししん  べしのよし  よしもり  おお  らる   よしもり もんがいに うかが いで     くだん おとこすで たいきょのほどなり
仍て其の身を召進ず可之由、義盛に仰せ被る。々々門外于窺ひ出るに、件の男已に退去之程也。

よしもり ひきめ  たばさ これ  お   い     すなは らくば
義盛引目Cを挾み之を追い射る。則ち落馬す。

ときに よしもり  ろうじゅうら これ  からめと    しさい  とうのところ  おおとねりのじょうふじわらやすよりなり
時于義盛が郎從等之を搦取り、子細を問之處、大舎人允藤原泰頼也。

かまくらどの ごじょうらく こと うけたまは  おむかえ ため  さんこう    かつう   ほうきにくに ながたのしょう とくたい こと  うれ  もう     ためなり
鎌倉殿御上洛の事を承り、御迎の爲に參向す。且は、伯耆國 長田庄D得替Eの事を愁ひ申さん爲也。

まった ごりょかん   しらずのよし これ  ちんしゃ    さし   かんたい あらず はや  あいなだ   めしぐさる   べしのよし  うんぬん
全く御旅舘と知不之由之を陳謝す。指たる緩怠Fに非。早く相宥めて召具被る可之由と云々。

参考@道虚は、道教からの縁起で六とその倍数の日は出立は良くない。
参考A御衰日は、同じく道教で、誕生の干支の翌日は縁起が悪い。頼朝は卯年の卯の日生まれ。
参考B門前に在りて無礼也は、高貴な人の宿などの前を馬に乗ったまま通るのを「乗打」と云って無礼になる。
参考C引目は、鏃を取った鏑矢で、鏑の穴がヒキガエルの目に見えることから、この名が付いている。刺さらなくてもとっても痛い。
参考D伯耆國長田庄は、鳥取県西伯郡大山町長田(サイハクグンダイセンチョウナガタ)に長田神社あり。近くに妻木晩田遺跡展示室あり。
参考E得替は、年貢徴収権を変えられ取り上げられた。
参考F
緩怠は、怠ることから「罪」をあらわす。

現代語建久元年(1190)十一月六日丙辰。土砂降りです。雨に負けずに京入りしようかと思われましたが、占いでは出立に良くない日なのと干支の縁起が悪い日なので先へ延ばして、野路宿に留まられました。
今日、馬に乗った侍が宿の門前で乗馬のまま乗打ちなのは無礼だから、下りる様に梶原景時が注意したら、「そんな礼儀は習った覚えが無い。」と答えました。怪しいと持ったので捕えるように、和田義盛に言いつけました。
義盛が門の外へ出てみると、その男は引き上げて行く所でした。義盛は鏃をはずした鏑矢でもって後ろから射当てました。すぐに落馬しましたので、義盛の部下がふんづかまえて聞いてみると、朝廷の役人大舎人允藤原泰頼です。鎌倉殿が京入りされるので、お迎えに参りました。実はついでに、伯耆国長田庄の権利を取上げられた事を、訴えるためなのです。それなのにご宿泊所とは知らなかったのでと、無礼な振る舞いを謝りました。たいした不始末ではないので、早く優しくしておそばへ連れてくるようにとのことでしたとさ。

建久元年(1190)十一月大七日丁巳。雨降。午一剋属リ。其後風烈。二品御入洛。 法皇密々以御車御覽。見物車輾轂立河原。申剋先陣入花洛。三條末西行。河原南行。令到六波羅給。其行列。
先貢金辛櫃一合
次先陣
 畠山次郎重忠〔着黒糸威甲。家子一人。郎等十人等相具之〕
次先陣隨兵〔三騎列之。一騎別張替持一騎。冑腹巻行騰。又小舎人童上髪負征箭。着行騰。各在前。其外不具郎從〕
一番
  大井四郎太郎  大田太郎   高田太郎
二番
  山口小七郎   熊谷小次郎  小倉野三
三番
  下河邊四郎   澁谷弥五郎  熊谷又次郎

四番
  仙波次郎    瀧野小次郎  小越四郎
五番
  小河次郎    市小七郎   中村四郎
六番
  加治次郎    勅使河原三郎 大曾四郎
七番
  平山小太郎   樟田小次郎  古郡次郎
八番
  大井四郎    高麗太郎   鴨志田十郎
九番
  馬塲次郎    八嶋六郎   多加谷小三郎
十番
  阿加田澤小太郎 志村小太郎  山口次郎兵衛尉
十一番
  武次郎     中村七郎   中村五郎
十二番
  都筑三郎    小村三郎   石河六郎
十三番
  庄太郎三郎   四方田三郎  淺羽小三郎
十四番
  岡崎平四郎   塩谷六郎   曾我小太郎
十五番
  原小三郎    佐野又太郎  〔相摸〕豊田兵衛尉
十六番
  阿保六郎    河匂三郎   河匂七郎三郎
十七番
  坂田三郎    春日小次郎  阿佐美太郎
十八番
  三尾谷十郎   河原小三郎  〔上野〕沼田太郎
十九番
  金子小太郎   〔駿河〕岡部小次郎  吉香小次郎
二十番
  小河次郎    小宮七郎   戸村小三郎
廿一番
  土肥次郎    佐貫六郎   江戸七郎
廿二番
  寺尾太郎    中野小太郎  熊谷小太郎
廿三番
  祢津次郎    中野五郎   小諸太郎次郎
廿四番
  祢津小次郎   志賀七郎   笠原高六
廿五番
  嶋楯三郎    今堀三郎   小諸小太郎
廿六番
  土肥荒次郎   廣澤三郎   二宮小太郎
廿七番
  山名小太郎   新田藏人   徳河三郎
廿八番
  武田太郎    遠江四郎   佐竹別當
廿九番
  武田兵衛尉   越後守    信濃三郎
三十番
  淺利冠者    奈胡藏人   伊豆守
卅一番
  參河守     相摸守    里見太郎
卅二番
  工藤小次郎   佐貫五郎   田上六郎
卅三番
  〔下總〕豊田兵衛尉 鹿嶋三郎 小栗次郎
卅四番
  藤澤次郎    阿保五郎   伊佐三郎
卅五番
  中山四郎    中山五郎   江戸四郎
卅六番
  加世次郎    塩屋三郎   山田四郎
卅七番
  中澤兵衛尉   海老名兵衛尉 豊嶋兵衛尉
卅八番
  中村兵衛尉   阿部平六   猪股平六
卅九番
  駒江平四郎   西小大夫   高間三郎
四十番
  所六郎     武藤小次郎  豊嶋八郎
四十一番
  佐々木五郎   糟江三郎   岡部右馬允
四十二番
  堀四郎     海老名次郎  新田六郎
四十三番
  葛西十郎    伊東三郎   浦野太郎
四十四番
  小澤三郎    澁河弥五郎  横山三郎
四十五番
  豊嶋八郎    堀藤太    和田小次郎
四十六番
  山内先次郎   佐々木三郎  筥王丸
四十七番
  右衛門兵衛尉  尾藤次    中條平六
四十八番
  三浦十郎太郎  後藤内太郎  比企藤次
四十九番
  小山四郎    右衛門太郎  岡部与一太郎
五十番
  糟谷藤太    野平右馬允  九郎藤次
五十一番
 多氣太郎    小平太    宇佐美小平次
五十二番
  波多野小次郎  新田四郎   机井八郎
五十三番
  小野寺太郎   足利七郎四郎 足利七郎五郎
五十四番
  佐貫四郎    足利七郎太郎 横山太郎
五十五番
  梶原兵衛尉   和田小太郎  宇治藏人三郎
五十六番
  梶原左衛門尉  宇佐美三郎  賀嶋藏人次郎
五十七番
  小山田四郎   三浦平六   小山田五郎
五十八番
  和田三郎    堀藤次    土屋兵衛尉
五十九番
  千葉新介    氏家太郎   千葉平次
六十番
  小山田三郎   北條小四郎  小山兵衛尉
 次御引馬一疋
 次御具足持一騎
 次御弓袋差一騎
 次御甲着一騎
次二位家〔折烏帽子。絹紺丹打水干袴。紅衣。夏毛行騰。染羽野箭。黒馬。楚鞦。水豹毛泥障〕
次著水干輩〔負野箭〕
一番〔三騎相並〕  八田右衛門尉 伊東四郎   加藤次
二番〔同前〕    三浦十郎   八田太郎   葛西三郎
三番  河内五郎
四番  三浦介
五番  足立右馬允  工藤左衛門尉
次後陣隨兵
一番
  梶原刑部丞  鎌田太郎   品河三郎
二番
  大井次郎   大河戸太郎  豊田太郎
三番
  人見小三郎  多々良四郎  長井太郎
四番
  豊嶋權守   江戸太郎   横山權守
五番
  金子十郎   小越右馬允  小澤三郎
六番
  吉香次郎   大河戸次郎  工藤庄司
七番
  大河戸四郎  下宮次郎   奥山三郎
八番
  海老名四郎  宇津幾三郎  本間右馬允
九番
  河村三郎   阿坂余三   山上太郎
十番
  下河邊庄司  鹿嶋六郎   眞壁六郎
十一番
  大胡太郎   祢智次郎   大河戸三郎
十二番
  毛利三郎   駿河守    平賀三郎
十三番
  泉八郎    豊後守    曾祢太郎
十四番
  村上左衛門尉 村上七郎   高梨次郎
十五番
  村上右馬允  同判官代   加々美次郎
十六番
  品河太郎   高田太郎   荷沼三郎
十七番
  近間太郎   中郡六郎太郎 同次郎
十八番
  秩父平太   深栖太郎   倉賀野三郎
十九番
  沼田太郎   志村三郎   臼井六郎
二十番
  大井五郎   岡村太郎   春日与一
廿一番
  大胡太郎   深栖四郎   都筑平太
廿二番
  大河原次郎  小代八郎   源七
廿三番
  三宮次郎   上田楊八郎  高屋太郎
廿四番
  淺羽五郎   臼井余一   天羽次郎
廿五番
  山上太郎   武者次郎   小林次郎
廿六番
  井田太郎   井田次郎   武佐五郎
廿七番
  目黒弥五郎  皆河四郎   平佐古太郎
廿八番
  鹿嶋三郎   廣澤余三   庄太郎
廿九番
  上野權三郎  大井四郎   〔相摸〕小山太郎
三十番
  塩部四郎   同小太郎   中條藤次
卅一番
  小見野四郎  庄四郎    仙波平太
卅二番
  片穂平五   那須三郎   常陸平四郎
卅三番
  塩谷太郎   毛利田次郎  平子太郎
卅四番
  〔遠江〕淺羽三郎   新野太郎   横地太郎
卅五番
  高橋太郎   印東四郎   須田小大夫
卅六番
  高幡太郎   小田切太郎  岡舘次郎
卅七番
  筥田太郎   長田四郎   同五郎
卅八番
  廳南太郎   藤九郎    成田七郎
卅九番
  別府太郎   奈良五郎   同弥五郎
四十番
  岡部六野太  瀧瀬三郎   玉井太郎
四十一番
  玉井四郎   岡部小三郎  三輪寺三郎
四十二番
  楠木四郎   忍三郎    同五郎
四十三番
  和田五郎   木丹五   寺尾三郎太郎
四十四番
  深濱木平六  加冶太郎   道後小次郎
四十五番
  多々良七郎  眞下太郎   江田小太郎
四十六番
  高井太郎   道智次郎   山口小次郎
次後陣
  勘解由判官
  梶原平三〔相具郎從数十騎〕
  千葉介〔以子息親類等爲随兵〕
秉燭之程。令着六波羅新御亭〔故池大納言頼盛卿舊跡。此間被建之〕給。下総守邦業。前掃部頭親能。因幡前司廣元。宇都宮左衛門尉朝綱。小山七郎朝光等。豫候此所云々。

読下し                     あめふる  うまのいっこくはれ ぞく   そのご かげはげ    にほん ごじゅらく
建久元年(1190)十一月大七日丁巳。雨降。午一剋リに属す。其後風烈し。二品御入洛。

ほうおうみつみつ  おくるま  もっ  ごらん  けんぶつ くるま こしき きし  かわら   た
法皇密々に御車を以て御覽。見物の車、轂@を輾り河原に立つ。

さるのこく せんじん からく い     さんじょう すえ  さいこう    かわら   なんこう    ろくはら   いた  せし  たま
申剋、先陣花洛に入る。三條の末を西行し、河原を南行し六波羅に到ら令め給ふ。

参考@は、牛車などの車輪の中央にあって、輻 (や) が差し込んであるもの。中を車軸が貫いている。Goo電子辞書から

そ   ぎょうれつ  ま  けんきん からびついちごう
其の行列。先づ貢金の辛櫃一合。

つぎ  せんじん はたけやまのじろうしげただ 〔 くろいとおどし よろい  き      いえのこ ひとり   ろうとう じうにんら これ    あいぐ   〕
次に先陣。 畠山次郎重忠 〔黒糸威の甲を着る。家子一人、郎等十人等之に相具す〕

つぎ  せんじん  ずいへい
次に先陣の隨兵

 〔 さんき これ  れつ    いっきごと   はりかえもちいっき  かぶと  はらまき  むかばき  また  ことねりわらわ かみ  あ     そや   お      むかばき  つ   おのおの まえ  あ     そ  ほかろうじゅう ぐせず 〕
〔三騎之に列す。一騎別に張替持一騎。冑、腹巻、行騰。又、小舎人童髪を上げ征箭を負う。行騰を着け、各 前に在り。其の外郎從を不具〕

いちばん     おおいのしろたろう          おおたのたろう             たかだのたろう
一番   大井四郎太郎    大田太郎      高田太郎
      武蔵、八番大井四郎の長男   康宗            武蔵

 にばん     やまぐちのこしちろう          くまがいのこじろう            おぐらののざ
二番   山口小七郎     熊谷小次郎     小倉野三
        武蔵、所沢市       直実、武蔵        野は小野一族(横山党)

さんばん      しもこうべのしろう           しぶやのいやごろう          くまがいのまたじろう
三番   下河邊四郎     澁谷弥五郎     熊谷又次郎
       政義、下総、庄司行平の弟  相摸、高座渋谷            熊谷小次郎直家の子?

よんばん      せんばのじろう            たきののこじろう            おこしのしろう
四番   仙波次郎      瀧野小次郎     小越四郎
       安家、武蔵、川越市       ?          武蔵、越生

ごばん       おがわのじろう            いちのこしちろう            なかむらのしろう
五番   小河次郎      市小七郎      中村四郎
        武蔵、小川町?       崎西党?         相摸中村、足柄上郡中井町

ろくばん      かじのじろう             てしがわらのさぶろう         おおそのしろう
六番   加治次郎      勅使河原三郎    大曾四郎
        宗季、武蔵所沢のそば   有直、武蔵上里村     大曽根カ?

しちばん      ひらやまのこたろう         くすだのこじろう            ふるごおりのじろう
七番   平山小太郎     樟田小次郎     古郡次郎
       重村、武蔵、季重の一族     ?          保忠?  相摸

はちばん     おおいのしろう            こまのたろう               かもしだのじゅうろう
八番   大井四郎      高麗太郎      鴨志田十郎
       實高、武蔵、大井町      武蔵          武蔵、緑区鴨居?

 くばん      ばばのじろう             やしまのろくろう            たがやのこさぶろう
九番   馬塲次郎      八嶋六郎      多加谷小三郎
       資幹、常陸大掾氏      上野、太田市谷島?       ?

じうばん      あがたざわのこたろう         しむらのこたろう           やまぐちのじろうひょうえのじょう
十番   阿加田澤小太郎   志村小太郎     山口次郎兵衛尉
        県沢、信州佐久       板橋区          武蔵、二番の山口に同じ

じういちばん    たけのじろう              なかむらのしちろう          なかむらのごろう
十一番  武次郎       中村七郎      中村五郎
        横須賀氏武        相摸中村、足柄上郡中井町    同

じうにばん     つづきのさぶろう           こむらのさぶろう            いしかわのろくろう
十二番  都筑三郎      小村三郎      石河六郎
        武蔵、横浜市都筑区      ?              ?

じうさんばん    しょうのたろうさぶろう         よもだのさぶろう           あさばのこさぶろう
十三番  庄太郎三郎     四方田三郎     淺羽小三郎
          ?          弘長、武蔵、本庄市     遠江、浅羽町

説明四方田の読みを当初「しもだ」としておりましたが、「奥州余目記録」の五人一揆結成の条で、「四方田」のよみに「シハウテン」と振り仮名がされている。とのご指摘を戴きましたので、「しほうでん」とします。その後四方田さんから名字は「よもだ」との申し出により訂正しました。20120715

じうよんばん    おかざきのへいしろう        えんやのろくろう            そがのこたろう
十四番  岡崎平四郎     塩谷六郎      曾我小太郎
        義實、相摸、平塚市      ?           祐綱、相摸、小田原市

じうごばん     はらのこさぶろう           さののまたたろう            とよたのひょうえのじょう〔さがみ〕
十五番  原小三郎      佐野又太郎     豊田兵衛尉〔相摸〕
        忠益           下野、佐野市、藤性足利     平塚市

じうろくばん    あぼのろくろう             かわわのさぶろう           かわわのしちろうさぶろう
十六番  阿保六郎      河匂三郎      河匂七郎三郎
        武蔵、調布市        相摸二ノ宮河匂神社       同

じうしちばん    さかたのさぶろう            かすがのこじろう           あさみのたろう
十七番  坂田三郎      春日小次郎     阿佐美太郎
         ?          貞親、信濃(泰時の家来になる) 實高、上野、笠懸村

じうしちばん    みおやのじゅうろう          かわはらのこさぶろう         ぬまたのたろう 〔こうづけ〕
十八番  三尾谷十郎     河原小三郎     沼田太郎〔上野〕
       埼玉県比企郡川島町三保谷    ?          群馬県沼田市

じうくばん      かねこのこたろう          おかべのこじろう   〔するが〕   きっかわのこじろう
十九番  金子小太郎     岡部小次郎〔駿河〕 吉香小次郎
       埼玉県所沢市       静岡県志田郡岡部町     静岡県清水市

にじうばん     おがわのじろう            こみやのしちろう           とむらのこさぶろう
二十番  小河次郎      小宮七郎      戸村小三郎

にじういちばん   といのじろう             さぬきのろくろう            えどのしちろう
廿一番  土肥次郎      佐貫六郎      江戸七郎
       實平、相摸、湯河原町   広義、下野、藤性足利    重宗、秩父一族

にじうにばん    てらおのたろう            なかののこたろう           くまがいのこたろう
廿二番  寺尾太郎      中野小太郎     熊谷小太郎
       武蔵、高崎市      助光、信州、長野市     忠直、武蔵

にじうさんばん  ねずのじろう              なかののごろう            こもろのたろじろう
廿三番  祢津次郎      中野五郎      小諸太郎次郎
       宗直、信州、諏訪の近く 能成、信州、長野市     信州、小諸市(父が太郎でその二男)

にじうよんばん  ねずのこじろう             しがのしちろう            かさはらのこうろく
廿四番  祢津小次郎     志賀七郎      笠原高六
       宗道、宗直の子      信州?志賀高原?      武蔵

にじうごばん    しまだてのさぶろう          いまほりのさぶろう          こもろのこたろう
廿五番  嶋楯三郎      今堀三郎      小諸小太郎
       信州、松本市       ?             信州、廿三番の兄(父が太郎で自分も太郎なので小太郎)

にじうろくばん   といのあらじろう           ひろさわのさぶろう          にのみやのこたろう
廿六番  土肥荒次郎     廣澤三郎      二宮小太郎
       相摸、湯河原町      實高、上野、桐生市藤性足利  光忠、相摸、二宮町

にじうしちばん  やまのこたろう             にったのくらんど           とくがわのさぶろう
廿七番  山名小太郎     新田藏人      徳河三郎
       重國、上野       義兼、上野、太田市      義秀、新田氏、関西本では世良田、太田市得川

にじうはちばん  たけだのたろう            とおとうみのしろう           さたけのべっとう
廿八番  武田太郎      遠江四郎      佐竹別當
        不明、甲斐武田党     ?            義季、常陸、

にじうくばん    たけだのひょうえのじょう      えちごのかみ              しなののさぶろう
廿九番  武田兵衛尉     越後守       信濃三郎
       有義、甲斐武田党     安田義資、信濃源氏     南部光行、甲斐武田党

さんじうばん    あさりのかじゃ            なごんくらんど             いずのかみ
三十番  淺利冠者      奈胡藏人      伊豆守
       長義、甲斐武田党      義行、上野        山名義範、上野、多古郡

さんじういちばん みかわのかみ             さがみのかみ              さとみのたろう
卅一番  參河守       相摸守       里見太郎
       蒲冠者範頼(頼朝弟)    大内惟義、信濃源氏    義成、上野、榛名郡榛名町、新田氏

さんじうにばん   くどうのこじろう            さぬきのごろう              たのうえのろくろう
卅二番  工藤小次郎     佐貫五郎      田上六郎
        行光、伊豆、伊東     下野            ?

さんじうさんばん  とよたのひょうえのじょう〔しもふさ〕  かしまのさぶろう            おぐりのじろう
卅三番  豊田兵衛尉〔下總〕  鹿嶋三郎      小栗次郎
       義幹、常陸大掾氏     政幹、鹿島神宮、同左  重広、常陸、小栗御厨

さんじうよんばん ふじさわのじろう            あぼのごろう              いさのさぶろう
卅四番  藤澤次郎       阿保五郎      伊佐三郎
       C親、信州、諏訪一族    武蔵、調布市       行政、常陸、後の伊達氏

さんじうごばん  なかやまのしろう            なかやまのごろう           えどのしろう
卅五番  中山四郎      中山五郎      江戸四郎
       重政、武蔵、飯能市     為重、武蔵後に横浜市緑区中山 重通、武蔵、秩父一族

さんじうろくばん  かせのじろう              えんやのさぶろう          やまだのしろう
卅六番  加世次郎      塩屋三郎      山田四郎
        武蔵、川崎市幸区     栃木県塩谷郡塩谷町      ?

さんじうしちばん  なかざわのひょうえのじょう      えびなのひょうえのじょう      てしまのひょうえのじょう
卅七番  中澤兵衛尉     海老名兵衛尉    豊嶋兵衛尉
        ?             季綱、相摸、海老名市   武蔵、北区豊島町

さんじうはちばん なかむらのひょうえのじょう      あべのへいろく           いのまたのへいろく
卅八番  中村兵衛尉     阿部平六      猪股平六
        ?             武蔵、高崎線      範綱、武蔵七党

さんじうくばん   こまえのへいしろう          にしのこだゆう             たかまのさぶろう
卅九番  駒江平四郎     西小大夫      高間三郎
        武蔵、狛江市        武蔵、私西党(武蔵七党)  ?

よんじうばん    ところのろくろう             むとうのこじろうう            てしまのはちろう
四十番  所六郎       武藤小次郎     豊嶋八郎
       朝光、武蔵、秀郷流      資頼、後の少弐氏  武蔵

よんじういちばん  ささきのごろう             かすえのさぶろう           おかべのうまのじょう
四十一番 佐々木五郎     糟江三郎      岡部右馬允
        義C、母は澁谷重國女   ?            武蔵、高崎線

よんじうにばん  ほりのしろう              えびなのじろう             にたんのろくろう
四十二番 堀四郎       海老名次郎     新田六郎
        ?            相摸、海老名市      忠時、伊豆、仁田忠常男

よんじうさんばん  かさいのじゅうろう          いとうのさぶろう             うらののたろう
四十三番 葛西十郎      伊東三郎      浦野太郎
        武蔵、C重男       伊豆、伊豆の東なので   信濃、上田市、頼光流清和源氏

よんじうよばん  おざわのさぶろう            しぶかわのいやごろう         よこやまのさぶろう
四十四番 小澤三郎      澁河弥五郎     横山三郎
        武蔵、稲毛重成男      上野、渋川市            武蔵、横山党、八王子市

よんじうごばん   てしまのはちろう            ほりのとうた               わだのこじろう
四十五番 豊嶋八郎      堀藤太       和田小次郎
        武蔵           伊豆、堀藤次親家と親戚   義茂の二男と思われる?

よんじうろくばん  やまのうちのせんじろう        ささきのさぶろう            はこおうまる
四十六番 山内先次郎     佐々木三郎     筥王丸
        相摸から移住       盛綱、佐々木兄弟      ?曾我兄弟ではない

よんじうしちばん  うえもんひょうえのじょう        びとうじ                 ちゅうじょうへいろく
四十七番 右衛門兵衛尉    尾藤次       中條平六
         ?           知景、尾藤太景綱男     武蔵         参考:尾藤は尾張守藤原から

よんじうはちばん みうらのじゅうとうたろう        ごとうのうちのたろう           ひきのとうじ
四十八番 三浦十郎太郎    後藤内太郎     比企藤次
        景連、相摸、三浦義連男   ?内は内舎人?      武蔵

よんじうくばん   おやまのしろう             うえもんたろう             おかべのよいちたろう
四十九番 小山四郎      右衛門太郎     岡部与一太郎
        下野            ?            武蔵

ごじうばん     かすやのとうた             のひらのうまのじょう          くろうとうじ
五十番  糟谷藤太      野平右馬允     九郎藤次
       有季、相摸、伊勢原市   平子有長、武蔵、横浜市南区  大曽根時長、千葉氏

ごじういちばん  たけのたろう               こへいた                うさみのこへいじ
五十一番 多氣太郎      小平太       宇佐美小平次
        義幹、多気郡、常陸大掾氏    ?          伊豆

ごじうにばん   はたののこじろう            にたんのしろう             つくいのはちろう
五十二番 波多野小次郎    新田四郎      机井八郎
        忠綱、伊勢波多野氏、相摸と同族  忠常、伊豆    相摸、横須賀氏津久井、三浦一族

ごじうさんばん  おのでらのたろう            あしかがのしちろうしろう        あしかがのしちろうごろう
五十三番 小野寺太郎     足利七郎四郎    足利七郎五郎
       道綱、藤性足利氏、子孫に赤穂浪士の小野寺十内   ?    ?

ごじうよんばん  さぬきのしろう              あしかがのしちろうたろう       よこやまのたろう
五十四番 佐貫四郎      足利七郎太郎    横山太郎
       広綱、藤性足利氏       ?           時兼、武蔵、横山党

ごじうごばん   かじわらのひょうえのじょう       わだのこたろう             うじのくらんどさぶろう
五十五番 梶原兵衛尉     和田小太郎     宇治藏人三郎
       景定、鎌倉党        義盛、三浦一族       ?

ごじうろくばん  かじわらのさえもんのじょう       うさみのさぶろう            かしまのくらんどじろう
五十六番 梶原左衛門尉    宇佐美三郎     賀嶋藏人次郎
       景季、鎌倉党        祐茂、伊豆        駿河、富士市

ごじうしちばん  おやまだのしろう            みうらのへいろく            おやまだのごろう
五十七番 小山田四郎     三浦平六      小山田五郎
       重朝、後の榛谷四郎重朝   義村、三浦一族の嫡子    行重

ごじうはちばん  わだのさぶろう            ほりのとうじ                つちやのひょうえのじょう
五十八番 和田三郎      堀藤次       土屋兵衛尉
       宗實、義盛弟       親家、伊豆         義C、岡崎四郎義實男、土屋へ養子

ごじうくばん    ちばのしんすけ            うじいえのたろう            ちばのへいじ
五十九番 千葉新介      氏家太郎      千葉平次
       胤政、千葉一族嫡子       下野         常秀、千葉一族

ろくじうばん    おやまだのさぶろう          ほうじょうのこしろう           おやまのひょうえのじょう
六十番  小山田三郎     北條小四郎     小山兵衛尉
       稲毛重成、秩父一族     義時           朝政、小山氏嫡子

  つぎ おんひきうまいっぴき
 次に御引馬一疋

  つぎ おんぐそくもち いっき
 次に御具足持一騎

  つぎ おんゆぶくろさしいっき
 次に御弓袋差一騎

  つぎ おんよろいぎしいっき
 次に御甲着一騎

つぎ   にいけ   〔 おれえぼし   きぬこんじょうにうちすいかんばかま べにごろも なつげむかばき   そめは    のや   くろうま  そしりがい あざらしげのどろよけ 〕
次に二位家〔折烏帽子、絹紺丹打水干袴。紅衣。夏毛行騰。染羽の野箭。黒馬。楚鞦。水豹毛泥障〕

つぎ  すいかん き  やから〔 のや    お 〕
次に水干を著る輩〔野箭を負う〕

いちばん 〔さんき  あいなら 〕     はったのうえもんのじょう       いとうのしろう              かとうじ
一番〔三騎相並ぶ〕  八田右衛門尉    伊東四郎      加藤次
               知家、常陸        成親、伊豆          景廉、伊豆

 にばん 〔まえ   おな〕        みうらのじゅうろう           はったのたろう             かさいのさぶろう
二番〔前に同じ〕   三浦十郎      八田太郎      葛西三郎
               義連、三浦一族(佐原)  朝重、知家男        C重、秩父一族、葛飾の西

さんばん                かわちのごろう
三番        河内五郎
               義長

よんばん                みうらのすけ
四番        三浦介
               義澄、三浦一族党首、義明男

ごばん                 あだちのうまのじょう           くどうのさえもんのじょう
五番        足立右馬允     工藤左衛門尉
              遠元、下総、足立区     祐經、伊豆、曾我兄弟に討たれる

つぎ  こうじん  ずいへい
次に後陣の隨兵

いちばん     かじわらのぎょうのじょう        かまたのたろう             しながわのさぶろう
一番   梶原刑部丞     鎌田太郎      品河三郎
       友景、梶原景時弟      ?            武蔵、江戸系秩父党

 にばん     おおいのじろう             おおかわどのたろう          とよたのたろう
二番   大井次郎      大河戸太郎     豊田太郎
       實春、武蔵、江戸系秩父党  広行、埼玉県北葛飾郡松伏町  幹重、常陸大掾氏

さんばん     ひとみのこさぶろう           たたらのしろう             ながいのたろう
三番   人見小三郎     多々良四郎     長井太郎
       行經、上野、松井田町    明宗、三浦一族、観音崎  三浦一族、横須賀市長井

よんばん     てしまのごんのかみ          えどのたろう              よこやまのごんのかみ
四番   豊嶋權守      江戸太郎      横山權守
       清光、下総        重長、武蔵、秩父一族    時広、小野一族、八王子市

 ごばん      かねこのじうろう            おこしのうまのじょう          おざわのさぶろう
五番   金子十郎      小越右馬允     小澤三郎
       家忠、武蔵七党、所沢    有弘、越生        ?先陣四十四番と同名

ろくばん      きっかわのじろう            おおかわどのじろう          くどうのしょうじ
六番   吉香次郎      大河戸次郎     工藤庄司
       静岡県清水市、小次郎の父?  秀行、二番の弟     景光、伊豆

しちばん      おおかわどのしろう          しもみやのじろう           おくやまのさぶろう
七番   大河戸四郎     下宮次郎      奥山三郎
       行平、埼玉県北葛飾郡松伏町  ?           越後三浦、義茂男?

はちばん     えびなのしろう             うつきのさぶろう           ほんまのうまのじょう
八番   海老名四郎     宇津幾三郎     本間右馬允
       義季、相摸、海老名市、横山党  宇津木        義忠、相摸、厚木市依知、後に時房の代官になり佐渡へ、子孫が庄内高田の本間さま

 くばん      かわむらのさぶろうう         あさかのよざ              やまがみのたろう
九番   河村三郎      阿坂余三      山上太郎
       義秀、相摸、山北町    伊勢、阿射賀、松坂氏阿坂  高光、下野、藤性足利氏

じうばん      しもこうべのしょうじ          かしまのろくろう            まかべのろくろう
十番   下河邊庄司     鹿嶋六郎      眞壁六郎  
       行平、下総        頼幹、常陸大掾氏      長幹、同

じういちばん   おおこのたろう            ねちのじろう              おおかわどのだぶろう
十一番  大胡太郎      祢智次郎      大河戸三郎
       群馬県前橋市大胡町     ?            行元、埼玉県北葛飾郡松伏町

じうにばん     もうりのさぶろう            するがのかみ             ひらがのさぶろう
十二番  毛利三郎      駿河守       平賀三郎
       頼隆、森庄、清和源氏   源広綱           朝信、信濃、佐久市

じうさんばん    いずみのがちろう          ぶんごのかみ             そねのたろうう
十三番  泉八郎       豊後守       曾祢太郎
       ?            毛呂季光、秀郷流       大曽祢か?

じうよんばん    むらかみのさえもんのじょう     むらかみのしちろう          たかなしのじろう
十四番  村上左衛門尉    村上七郎      高梨次郎
       頼時、源氏         同?           信濃、須坂氏

じうごばん     むらかみのうまのじょう        おなじきほうがんだい         かがみのじろう
十五番  村上右馬允     同判官代      加々美次郎
       經業、源氏         基國           長C、信濃源氏、義光系

じうろくばん    しながわのたろう           たかだのたろう             かぬまのさぶろう
十六番  品河太郎      高田太郎      荷沼三郎
       ?             ?            下野、鹿沼市

じうしちばん    ちかまのたろう            なかごおりのろくろうたろう       おなじきじろう
十七番  近間太郎      中郡六郎太郎    同次郎
       名古屋市南区千竈通     ?             ?

じうはちばん    ちちぶのへいた          ふかすのたろう              くらがののさぶろう
十八番  秩父平太      深栖太郎      倉賀野三郎
       行俊           下野、鹿沼市深津に深栖城?  上野、群馬県高崎市倉賀野町

じうくばん     ぬまたのたろう            しむらのさぶろう             うすいのろくろう
十九番  沼田太郎      志村三郎      臼井六郎
       群馬県沼田市?      ?              上野、群馬県碓氷峠?

にじうばん     おおいのごろう            おかむらのたろう            かすがのよいち
二十番  大井五郎      岡村太郎      春日与一
       品川区大井?       横浜市磯子区岡村?      信濃、与一は十に余る一で十一男

にじういちばん  おおこのたろう            ふかすのしろう             つづきのへいた
廿一番  大胡太郎      深栖四郎      都筑平太
        群馬県前橋市大胡町   十八番の弟?        武蔵都築郡、横浜市都築区?

にじうにばん    おおがはらのじろう         しょうだいのはちろう          げんしち
廿二番  大河原次郎     小代八郎      源七
       埼玉県飯能市大河原?   行平、東松山市       ?

にじうさんばん   さんのみやのじろう         うえだのようはちろう          たかやのじろう
廿三番  三宮次郎      上田楊八郎     高屋太郎

にじうよんばん   あさばのごろう            うすいのよいち             あもうのじろう
廿四番  淺羽五郎      臼井余一      天羽次郎
       遠江、浅羽町       碓氷?           直常、下総、市原市

にじうごばん    やまがみのたろう          むしゃのろくろう             こばやしのじろう
廿五番  山上太郎      武者次郎      小林次郎
       九番に同名あり      ?             重弘、上野、吾妻町

にじうろくばん   いだのたろう             いだのじろう               むさのごろう
廿六番  井田太郎      井田次郎      武佐五郎
       川崎市中原区        同             下総、武射郡

にじうしちばん   めぐろのいやごろう         みながわのしろう            ひらさこのたろう
廿七番  目黒弥五郎     皆河四郎      平佐古太郎
        ?           栃木県下都賀郡大平町皆川   爲重、横須賀氏平作

にじうはちばん   かしまのさぶろう           ひろさわのよさ             しょうのたろう
廿八番  鹿嶋三郎      廣澤余三      庄太郎
       政幹、常陸大掾氏      實方、下野         家長、武蔵

にじうくばん    こうづけのごんのさぶろう       おおいのしろう             おやまのたろう 〔さがみ〕
廿九番  上野權三郎     大井四郎      小山太郎〔相摸〕

さんじうばん    しおべのしろう            おなじきこたろう            ちゅうじょうのとうじ
三十番  塩部四郎      同小太郎      中條藤次
        ?           ?              家長、武蔵

さんじういちばん  おみののしろう           しょうのしろう              せんばのへいた
卅一番  小見野四郎     庄四郎       仙波平太
        武蔵、埼玉県比企郡川島町  ?            信平、武蔵

さんじうにばん   かたほのへいご           なすのさぶろう             ひたちのへいしろう
卅二番  片穂平五      那須三郎      常陸平四郎
        伊豆          下野             ?

さんじうさんばん  えんやのたろう            もりたのじろう              たいらこのたろう
卅三番  塩谷太郎      毛利田次郎     平子太郎
        ?           ?              武蔵、横浜市南区磯子区

さんじうよんばん  あさばのさぶろう 〔とおとうみ〕    あらののたろう              よこちのたろう
卅四番  淺羽三郎〔遠江〕   新野太郎      横地太郎
       遠江、浅羽町        ?             長重、

さんじうごばん   たかはしのたろう           いんとうのしろう             すだのこだいぶ
卅五番  高橋太郎      印東四郎      須田小大夫
       ?             印旛沼の東?              ?

さんじうろくばん  たかはたのたろう           おだぎりのたろう           おかだてのじろう
卅六番  高幡太郎      小田切太郎     岡舘次郎

さんじうしちばん  はこたのたろう            おさだのしろう             おなじきごろう
卅七番  筥田太郎      長田四郎      同五郎

さんじうはちばん  ちょうなんののたろう         とうくろう                 なりたのしちろう
卅八番  廳南太郎      藤九郎       成田七郎
        上総           安達盛長         助綱

さんじうくばん    べっぷのたろう           ならのごろう               おなじきいやごろう
卅九番  別府太郎      奈良五郎      同弥五郎
        義行           高家

しじうばん      おかべのろくやた          たきせのさぶろう            たまいのたろう
四十番  岡部六野太     瀧瀬三郎      玉井太郎
        忠澄

しじういちばん   たまいのしろう            おかべのこさぶろう          みわじのさぶろう
四十一番 玉井四郎      岡部小三郎     三輪寺三郎
        資重

しじうにばん    くすのきのしろう            おしのさぶろう             おなじきごろう
四十二番 楠木四郎      忍三郎       同五郎

しじうさんばん   わだのごろう              あおきのたんご            てらおのさぶろうたろう
四十三番 和田五郎      木丹五      寺尾三郎太郎
        義長           眞直

しじうよんばん   ふかはまきのへいろく        かじのたろう               どうごのこじろう
四十四番 深濱木平六     加冶太郎      道後小次郎

しじうごばん     たたらのしちろう           ましものたろう              えだのこたろう
四十五番 多々良七郎     眞下太郎      江田小太郎

しじうろくばん    たかいのたろう            どうちのじろう              やまぐちのこじろう
四十六番 高井太郎      道智次郎      山口小次郎

つぎ  こうじん     かげゆほうがん
次に後陣  勘解由判官

           かじわらのへいざ 〔ろうじう すうじっき    あいぐ〕
     梶原平三〔郎從数十騎を相具す〕

           ちばのすけ 〔 しそく しんるいら   もつ  ずいへい  な 〕
     千葉介〔子息親類等を以て随兵と爲す〕

へいしょくのほど  ろくはら  しんおんてい 〔こいけのだいなごんよりもりきょう  きゅうせき  こ   かん これ  た   らる 〕       つ   せし  たま
秉燭之程、六波羅の新御亭〔故池大納言頼盛卿が舊跡。此の間之を建て被る〕に着か令め給ふ。

しもふさのかみくになり  さきのかんのかみちかよし  いなばのぜんじひろもと  うつのみやのさえもんのじょうともまさ  おやまのしちろうともみつら あらかじ こ ところ  そうら   うんぬん
下総守邦業、 前掃部頭親能、 因幡前司廣元、 宇都宮左衛門尉朝綱、 小山七郎朝光等、豫め此の所に候うと云々。

現代語建久元年(1190)十一月大七日丁巳。雨降りです。午前十一時半頃に晴れてきました。その後強い風が吹きました。頼朝様の京入りです。後白河法皇はお忍びで牛車で見物です。見物の牛車が車軸をきしませながら沢山、鴨川の河原に並んでいます。午後四時頃に先頭が京入りして、三条東のはずれから西へ進み、鴨川の河原を南へ進んで六波羅に到着しました。

その行列は、一番前に院への贈り物の砂金を入れた唐風一合です。次ぎに先頭を受け持っている畠山次郎重忠〔黒い威し糸の鎧(金具は金)を着け、身内が一人、家来が十人を従えています〕

次ぎに、先払いの儀杖兵〔馬三頭づつ並ぶ。一頭毎に替えの弓持ちが一頭で兜を被り、腹巻を着け、乗馬袴をはく。御家人の身の回りの世話する童髪は髪を上に結い戦闘用の矢を背負い、乗馬袴をはく。それぞれは御家人の前を行き、その他の家来はついていません〕

一番   大井四郎太郎    大田太郎康宗    高田太郎
二番   山口小七郎     熊谷小次郎直家   小倉野三
三番   下河邊四郎政義   澁谷弥五郎     熊谷又次郎
四番   仙波次郎      瀧野小次郎     小越四郎
五番   小河次郎      市小七郎      中村四郎
六番   加治次郎宗季    勅使河原三郎有直  大曾四郎
七番   平山小太郎重村   樟田小次郎     古郡次郎
八番   大井四郎実高    高麗太郎      鴨志田十郎
九番   馬塲次郎資幹    八嶋六郎      多加谷小三郎
十番   阿加田澤小太郎   志村小太郎     山口次郎兵衛尉

十一番  武次郎       中村七郎      中村五郎
十二番  都筑三郎      小村三郎      石河六郎
十三番  庄太郎三郎     四万田三郎弘長   淺羽小三郎
十四番  岡崎平四郎義実   塩谷六郎      曾我小太郎祐綱
十五番  原小三郎忠益    佐野又太郎     豊田兵衛尉〔相摸〕
十六番  阿保六郎      河匂三郎      河匂七郎三郎
十七番  坂田三郎      春日小次郎貞親   阿佐美太郎実高
十八番  三尾谷十郎     河原小三郎     沼田太郎〔上野〕
十九番  金子小太郎     岡部小次郎〔駿河〕 吉香小次郎
二十番  小河次郎      小宮七郎      戸村小三郎

廿一番  土肥次郎実平    佐貫六郎広義    江戸七郎重宗
廿二番  寺尾太郎      中野小太郎助光   熊谷小太郎忠直
廿三番  祢津次郎宗直    中野五郎能成    小諸太郎次郎
廿四番  祢津小次郎宗道   志賀七郎      笠原高六
廿五番  嶋楯三郎      今堀三郎      小諸小太郎
廿六番  土肥荒次郎     廣澤三郎実高    二宮小太郎光忠
廿七番  山名小太郎重国   新田藏人義兼    徳河三郎義秀
廿八番  武田太郎      遠江四郎      佐竹別當義季
廿九番  武田兵衛尉有義   越後守安田義資   信濃三郎南部光行
三十番  淺利冠者長義    奈胡藏人義行    伊豆守山名義幹

卅一番  參河守蒲範頼    相摸守大内惟義   里見太郎義成
卅二番  工藤小次郎行光   佐貫五郎      田上六郎
卅三番  豊田兵衛尉義幹〔下總〕 鹿嶋三郎政幹  小栗次郎重広
卅四番  藤澤次郎清親    阿保五郎      伊佐三郎行政
卅五番  中山四郎重政    中山五郎為重    江戸四郎重通
卅六番  加世次郎      塩屋三郎      山田四郎
卅七番  中澤兵衛尉     海老名兵衛尉季綱  豊嶋兵衛尉

卅八番  中村兵衛尉     阿部平六      猪股平六範綱
卅九番  駒江平四郎     西小大夫      高間三郎
四十番  所六郎朝光     武藤小次郎資頼   豊嶋八郎

四十一番 佐々木五郎義清   糟江三郎      岡部右馬允
四十二番 堀四郎       海老名次郎     新田六郎忠時
四十三番 葛西十郎      伊東三郎      浦野太郎
四十四番 小澤三郎      澁河弥五郎     横山三郎
四十五番 豊嶋八郎      堀藤太       和田小次郎
四十六番 山内先次郎     佐々木三郎盛綱   筥王丸
四十七番 右衛門兵衛尉    尾藤次知景     中條平六
四十八番 三浦十郎太郎景連  後藤内太郎     比企藤次
四十九番 小山四郎      右衛門太郎     岡部与一太郎
五十番  糟谷藤太      野平右馬允平子有長 九郎藤次大曽根時長

五十一番 多氣太郎義幹    小平太       宇佐美小平次
五十二番 波多野小次郎忠綱  新田四郎忠常    机井八郎
五十三番 小野寺太郎道綱   足利七郎四郎    足利七郎五郎
五十四番 佐貫四郎広綱    足利七郎太郎    横山太郎時兼
五十五番 梶原兵衛尉景定   和田小太郎義盛   宇治藏人三郎

五十六番 梶原左衛門尉景季  宇佐美三郎助茂   賀嶋藏人次郎
五十七番 小山田四郎榛谷重朝 三浦平六義村    小山田五郎行重
五十八番 和田三郎宗実    堀藤次親家     土屋兵衛尉義清
五十九番 千葉新介胤政    氏家太郎      千葉平次常秀
六十番  小山田三郎稲毛重成 北條小四郎義時   小山兵衛尉朝政

 次に頼朝様の乗り換え用の馬一頭

 次に頼朝様の鎧周り品持ちが一騎

 次に頼朝様の弓の入った袋持ちが一騎

 次に頼朝様の鎧を着る者が一騎

次に二位家頼朝様〔折烏帽子で、絹で紺と青と赤とを打ち散らしに染めた水干袴。紅色の上着。鹿の夏毛の乗馬袴。模様に染めた羽の狩猟用の矢。黒い馬。楚風の馬の鞍から尻への飾りのしりがい。アザラシの毛で作った泥除け〕

次に水干を着ている連中〔狩猟用の矢を背負っている〕

一番〔三頭ぐつ並んで〕  八田右衛門尉知家  伊東四郎成親    加藤次景廉
二番〔前に同じ〕   三浦十郎佐原義連  八田太郎朝重    葛西三郎清重
三番        河内五郎義長
四番        三浦介義澄
五番        足立右馬允遠元   工藤左衛門尉祐経

次にしんがりの儀杖兵

一番   梶原刑部丞友景   鎌田太郎      品河三郎
二番   大井次郎実春    大河戸太郎広行   豊田太郎幹重
三番   人見小三郎行経   多々良四郎明宗   長井太郎
四番   豊嶋權守清光    江戸太郎重長    横山權守時広

五番   金子十郎家忠    小越右馬允有弘   小澤三郎
六番   吉香次郎      大河戸次郎秀行   工藤庄司景光
七番   大河戸四郎行平   下宮次郎      奥山三郎
八番   海老名四郎義秀   宇津幾三郎     本間右馬允義忠
九番   河村三郎義秀    阿坂余三      山上太郎高光
十番   下河邊庄司行平   鹿嶋六郎頼幹    眞壁六郎長幹

十一番  大胡太郎      祢智次郎      大河戸三郎行元
十二番  毛利三郎頼隆    駿河守源広綱    平賀三郎朝信
十三番  泉八郎       豊後守毛呂季光   曾祢太郎
十四番  村上左衛門尉頼時  村上七郎      高梨次郎
十五番  村上右馬允経業   同判官代基国    加々美次郎長清
十六番  品河太郎      高田太郎      荷沼三郎
十七番  近間太郎      中郡六郎太郎    同次郎
十八番  秩父平太行俊    深栖太郎      倉賀野三郎
十九番  沼田太郎      志村三郎      臼井六郎
二十番  大井五郎      岡村太郎      春日与一

廿一番  大胡太郎      深栖四郎      都筑平太経家
廿二番  大河原次郎     小代八郎行平    源七
廿三番  三宮次郎      上田楊八郎     高屋太郎
廿四番  淺羽五郎      臼井余一      天羽次郎直常
廿五番  山上太郎      武者次郎      小林次郎重弘
廿六番  井田太郎      井田次郎      武佐五郎
廿七番  目黒弥五郎     皆河四郎      平佐古太郎為重
廿八番  鹿嶋三郎政幹    廣澤余三実方    庄太郎家長
廿九番  上野權三郎     大井四郎      小山太郎
有高カ〔相摸〕
三十番  塩部四郎      同小太郎      中條藤次家長

卅一番  小見野四郎     庄四郎       仙波平太信平
卅二番  片穂平五      那須三郎      常陸平四郎
卅三番  塩谷太郎      毛利田次郎     平子太郎有員
卅四番  淺羽三郎〔遠江〕   新野太郎      横地太郎重

卅五番  高橋太郎      印東四郎      須田小大夫
卅六番  高幡太郎      小田切太郎     岡舘次郎
卅七番  筥田太郎      長田四郎      同五郎
卅八番  廳南太郎      藤九郎盛長     成田七郎助綱
卅九番  別府太郎義行    奈良五郎高家    同弥五郎
四十番  岡部六野太忠澄   瀧瀬三郎      玉井太郎

四十一番 玉井四郎資重    岡部小三郎     三輪寺三郎
四十二番 楠木四郎      忍三郎       同五郎
四十三番 和田五郎義長    木丹五真直    寺尾三郎太郎
四十四番 深濱木平六     加冶太郎      道後小次郎
四十五番 多々良七郎     眞下太郎      江田小太郎
四十六番 高井太郎      道智次郎      山口小次郎

次にその後の陣  勘解由判官

     梶原平三〔家来数十騎が従っている〕
     千葉介〔子供や親類使って家来をして従わせている〕

明かりをともす時間になって、六波羅の新しい屋敷〔故池大納言頼盛卿の跡です。先日来建設をしました〕に着かれました。下総守邦業、前掃部頭親能、因幡前司廣元、宇都宮左衛門尉朝綱、小山七郎朝光達は、前もってここで待っておりましたとさ。

建久元年(1190)十一月大八日戊午。早旦。伊賀前司仲教參六波羅。所持參御直衣也。是日來整置云々。給御馬云々。左武衛〔能保〕參給。御參内以下事御談合云々。明日可有御院參之由。被觸遣民部卿〔經房〕云々。又其間可警固辻々之旨。被仰下佐々木左衛門尉定綱。注申辻々。義盛。景時取目録。觸仰御家人等云々。

読下し                     そうたん   いがぜんじなかのり  ろくはら   さん     ごのうし   じさん    ところなり
建久元年(1190)十一月大八日戊午。早旦に伊賀前司仲教六波羅に參ず。御直衣を持參する所也。

これひごろととの お    うんぬん  おんうま  たま      うんぬん
是日來整へ置くと云々。御馬を給はると云々。

 さぶえい 〔よしやす〕  さん  たま    ごさんだい いか   こと   ごだんごう   うんぬん
左武衛〔能保〕參じ給ふ。御參内以下の事を御談合すと云々。

みょうにち ごいんさん あ   べ   のよし  みんぼのきょう〔つねふさ〕  ふ   つか  さる    うんぬん
明日、御院參有る可し之由、民部卿〔經房〕に觸れ遣は被ると云々。

また  そ  かんつじつじ  けいごすべ  のむね  ささきのさえもんのじょうさだつな  おお  くださる
又、其の間辻々を警固可し之旨、佐々木左衛門尉定綱に仰せ下被る。

ちう  もう  つじつじ  よしもり  かげときもくろく  と      ごけにんら   ふ   おお    うんぬん
注し申す辻々、義盛、景時目録を取り、御家人等に觸れ仰すと云々。

現代語建久元年(1190)十一月八日戊午。早朝に伊賀前司田村仲教が六波羅へ来ました。貴族の三位以上が着て参内できる直衣を持ってきました。これは、兼ねて用意をしておいたそうです。その褒美に馬をお与えになりました。
武衛一条能保が参りました。御所への挨拶回りなどの相談をなされましたとさ。明日、院へ参られるようにと、民部卿吉田経房に伝えさせましたとさ。
また、その時はあちこちの交差点を警備するように佐々木左衛門尉定綱に言いつけました。書き出した交差点警備要員を侍別当の和田義盛と所司の梶原景時が、用紙を見ながら、御家人達に伝えたんだそうです。

建久元年(1190)十一月大九日己未。天霽。二品令參 院内給。御家人等警固辻々云々。今日付民部卿。〔經房〕可聽直衣之由奉之給。即勅許。藏人左京權大夫光綱奉之。民部卿〔布衣平礼〕爲申次。豫被候 御所。申剋。自六波羅御出。先御參 仙洞。〔六條殿。不追前(前追)〕直衣。網代車〔大八葉文〕
行列
先随兵三騎
  三浦介義澄〔最前一騎〕
  小山兵衛尉朝政   小山田三郎重成
次御車〔車副二人牛童〕
  小山五郎宗政    佐々木三郎盛綱  加藤次景廉〔以上三人歩行御車傍〕
次御調度懸
  中村右馬允時經〔紺丹打上。御入浴日所着給之水干也〕
次布衣侍六人〔各具調度懸二騎列之〕
  宇都宮左衛門尉朝綱 八田右衛門尉知家 工藤左衛門尉祐經
  畠山次郎重忠    梶原平三景時   三浦十郎義連
次随兵七騎
  千葉新介胤正    梶原左衛門尉景季 下河邊庄司行平
  佐々木左衛門尉定綱 和田太郎義盛   葛西三郎C重
  武田太郎信義〔最末一騎〕
参考武田太郎信義は、既に死んでるので武田五郎信光の間違い。
於六條殿。昇中門廊。候公卿座端給。戸部兼候奥座。即被奏之。〔以子息權弁定經朝臣傳奏〕 法皇〔着御淨衣〕出御常御所。南面廣廂縁敷疊。依戸部引導。參其座給。 勅語移尅。及理世御沙汰歟。他人不候此座。臨昏黒御退出。爰暫可有御祗候。有可被仰事之旨。戸部示申。然而稱後日可參之由。御退出訖。戸部 奏此旨處。可任大納言之由。可仰遣。定令謙退歟。不可待請文。今夜可被行徐書之旨。有 勅定。又勅授事。同可被宣下云々。次御參内。〔閑院〕自弓塲殿方。候鬼間邊給。頭中宮亮宗頼朝臣 奏事由。 主上〔御引直衣〕出御晝御座。〔攝政殿候御座北給〕依召御參簀子。〔敷圓座〕小時入御。次於鬼間。殿下御對面。子一尅令歸六波羅給。次戸部被下 院宣云。
 依勳功賞。所被任權大納言也。度々雖被仰遣。依令謙退申。于今無其沙汰。而忽有上洛。爭背先規哉。參入之時。先欲被觸仰之處。令早出給之間。無左右所被行除書也。於今者不可有異儀。可令存其旨給。兼又可聽 勅授之由。同被宣下畢者。 院宣如此。仍執達如件。
    十一月九日                 民部卿
  謹上  新大納言殿
此状到着六波羅。被進御請文。昌寛書之云々。其状云。
 拝任權大納言事。恐悦申候。但候關東之時。任官事雖被仰下候。存旨候〔天〕申辞退候畢。而今被仰下候之條。面目雖無極候。乍恐所申辞退候也。辞申之旨納候はんをもて。朝恩深〔と〕可存候。兼又可聽 勅授事。畏承候畢。以此旨可令洩達給候。頼朝恐惶謹言。
       十一月
 追啓
  被仰下候之後。辞申候之條。猶以恐思給候。 勅授事。重も畏申候也。以此旨。可然之樣。可令披露給候。重恐惶謹言。

読下し                     てんはれ  にほん いんだい  さん  せし  たま    ごけにんら つじつじ  けいご    うんぬん
建久元年(1190)十一月大九日己未。天霽。二品院内へ參じ令め給ふ。御家人等辻々を警固すと云々。

きょう みんぶのきょう〔つねふさ〕   ふ     のうし   ゆる    べ   のよし これ  ほう  たま    すなは ちょっきょ
今日民部卿〔經房〕に付し、直衣を聽さる可し之由之を奉じ給ふ。即ち勅許す。

くろうどさきょうごんのだいぶみつつな これ ほう
 藏人左京權大夫光綱、之を奉ず。

みんぶのきょう〔ほい  ひれ〕  もうしつぎ  な    あらかじ ごしょ  こう  らる
民部卿〔布衣@平礼〕申次と爲し、豫め御所に候じ被る。

さるのこく  ろくはら よ  ぎょしゅつ   ま    せんとう 〔ろくじょうでん さきおい   ず〕   ぎょさん   のうし  あじろぐるま  〔だいはちよう  もん〕
申剋、六波羅自り御出。先ず仙洞〔六條殿、前追せ不Aへ御參。直衣、網代車〔大八葉Bの文〕

参考@布衣は、布製の狩衣の別称。狩衣は武家社会では、束帯に次ぐ礼装。
参考A不追前は、前追せ不で、貴人が外出する際にその行列の先頭に立って、路上の人々を邪魔にならないように声を立てて追い払う事。
参考B八葉は、牛車。屋形に八葉の紋のある網代 (あじろ) 車。紋の大小により大八葉・小八葉と呼ぶ。Goo電子辞書から

ぎょうれつ
行列

ま   ずいへいさんき
先ず随兵三騎

    みうらのすけよしずみ〔さいぜん   いっき〕
  三浦介義澄〔最前に一騎〕

    おやまのひょうえのじょうともまさ       おやまだのさぶろうしげなり
  小山兵衛尉朝政     小山田三郎重成

つぎ おんくるま〔くるまぞえふたり うしわらわ〕
次に御車〔車副二人牛童B

    おやまのごろうむねまさ            ささきのさぶろうもりつな           かとうじかげかど 〔 いじょうさんにん おんくるま かたはわ  かち  〕
  小山五郎宗政      佐々木三郎盛綱     加藤次景廉〔以上三人御車の傍に歩行す〕

参考B牛童は、牛を世話したり牽引したりす ることを職とする。子供とは限らず、稚児髪(垂髪)。

つぎ  ごちょうどがけ
次に御調度懸

    なかむらのうまのじょうときつね〔こんじょうたん うちあげ  ごじゅらく   ひ つ   たま  ところのすいかんなり〕
  中村右馬允時經〔紺丹の打上、御入洛の日着け給ふ所之水干也〕

つぎ   ほい  さむらいろくにん 〔おのおの ちょうどがけ   ぐ    にき これ   れつ〕
次に布衣の 侍 六人〔各、調度懸けを具す二騎之に列す〕

    うつのみやのさえもんのじょうともつな    はったのうえもんのじょうともいえ       くどうのさえもんのじょうすけつね
  宇都宮左衛門尉朝綱   八田右衛門尉知家    工藤左衛門尉祐經

    はたけやまのじろうしげただ          かじわらのへいざかげとき           みうらのじゅうろうよしつら
  畠山次郎重忠      梶原平三景時      三浦十郎義連

つぎ  ずいへい しちき
次に随兵七騎

    ちばのしんすけたねまさ            かじわらのさえもんのじょうかげすえ     しもこうべのしょうじゆきひら
  千葉新介胤正      梶原左衛門尉景季    下河邊庄司行平

    ささきのさえもんのじょうさだつな       わだのたろうよしもり              かさいのさぶろうきよしげ
  佐々木左衛門尉定綱   和田太郎義盛      葛西三郎C重

    たけだのごろうのぶみつ 〔さいまつ   いっき〕
  武田五郎信光〔最末に一騎〕

ろくじょうでん をい    ちうもん  ろう  のぼ    くぎょう  ざ   はじ  そうら たま
六條殿に於て、中門の廊を昇り、公卿の座の端に候ひ給ふ。

 こぶ かね  おく  ざ   そうら   すなは これ  ほう  らる     〔 しそく ごんのべんさだつねあそん  もつ  てんそう  〕
戸部兼て奥の座に候ひ、即ち之を奏じ被る。〔子息權弁定經朝臣を以て傳奏す〕

ほうおう 〔 ごじょうい    き  〕  つね  ごしょ  しゅつご
法皇〔御淨衣を着る〕常の御所に出御。

なんめん ひろびさし えん たたみ し     こぶ   いんどう  よつ    そ   ざ   さん  たま
南面の廣廂の縁に疊を敷き、戸部の引導に依て、其の座に參じ給ふ。

ちょくご とき  うつ     りせい    ごさた    およ  か   たにん こ   ざ   こうぜず  こんこく  のぞ  ごたいしゅ
勅語尅を移す。理世の御沙汰に及ぶ歟。他人此の座に不候。昏黒に臨み御退出。

ここ  しばら  ごしこう  あ  べ     おお  らる  べ   こと  あ   のむね   こぶ しめ  もう
爰に暫く御祗候有る可く、仰せ被る可き事の有る之旨、戸部示し申す。

しかれども ごじつ さん べ   のよし  しょう   ごたいしゅつ をはんぬ
然而後日參ず可し之由を稱し、御退出し訖。

 こぶ かく  むね  ほう     ところ  だいなごん  にん  べ   のよし  おお  つか    べし  さだ    けんたいせしめ か  うけぶみ  ま  べからず
戸部此の旨を奏ずるの處、大納言に任ず可し之由、仰せ遣はす可。定めて謙退令ん歟。請文を待つ不可。

こんや じしょ  おこなはるべしのむね  ちょくじょうあ  また  ちょくじゅ こと  おな    せんげ せら  べ     うんぬん
今夜徐書を行被可之旨、勅定有り。又、勅授の事、同じく宣下被る可しと云々。

つぎ  ごさんだい 〔 かんいん 〕   ゆばでん  かたよ     おにのま  へん  そうら たま    とうのちゅうぐうさかんむねよりあそん こと  よし  ほう
次に御參内〔閑院〕。弓塲殿の方自り、鬼間Cの邊に候ひ給ふ。 頭中宮亮宗頼朝臣、 事の由を奏ず。

しゅじょう 〔 おひきのうし 〕 ひのおまし   しゅつご   〔せっしょうどの ぎょざ  きた  そうら  たま  〕  めし  よつ すのこ  〔 えんざ   し   〕   ぎょさん    しばらく    にゅうご
主上〔御引直衣D晝御座へ出御。〔攝政殿御座の北に候ひ給ふ〕召に依て簀子〔圓座を敷く〕に御參す。小時して入御。

つぎ  おにのま   をい    でんか   ごたいめん  ね   いっこく ろくはら   かえ  せし  たま
次に鬼間に於て、殿下に御對面。子の一尅六波羅へ歸ら令め給ふ。

参考C鬼間は、昼の座の控え室。南方の壁に白沢王(不明)が鬼を切る図を描いてあるのでこう名付けられている、 女房の控えの間。
参考D御引直衣は、裾の後ろを長く引いて着用した直衣。天皇・上皇の日常の着用の仕方。

つぎ   こぶ いんぜん  くだされ  い
次に戸部院宣を下被て云はく。

   くんこう  しょう よつ    ごんのだいなごん にん  らる ところなり
 勳功の賞に依て、權大納言に任ぜ被る所也。

  たびたびおお つか さる   いへど   けんたい もう  せし    よつ    いまに そ    さた な
 度々仰せ遣は被ると雖も、謙退し申さ令むに依て、今于其の沙汰無し。

   しか   たちまち じょうらくあ    いかで せんき  そむか や
 而るに忽に上洛有り。爭か先規に背ん哉。

  さんにゅうのとき  ま   ふ   おお  られ   ほつ   のところ はやばや い  せし  たま  のかん   とこう な   じしょ  おこな  らる ところなり
 參入之時、先づ觸れ仰せ被んと欲する之處、早と出で令め給ふ之間、左右無く除書を行は被る所也。

  いま  をい  は  いぎ あ   べからず  そ  むね  ぞん  せし  たま  べし
 今に於て者異儀有る不可。其の旨を存じ令め給ふ可。

  かね   またちょくじゅ  ゆる    べ   のよし  おな    せんげなさ をはんぬてへ  いんぜんかく  ごと   よつ  しったつくだん ごと
 兼ては又勅授を聽さる可し之由、同じく宣下被れ畢者ば、院宣此の如し。仍て執達件の如し。

        じういちがつここのか                                  みんぶのきょう
    十一月九日                 民部卿

    きんじょう   しんだいなごんどの
  謹上  新大納言殿

こ   じょう ろくはら  とうちゃく   おんうけぶみ  しん  らる   しょうかんこれ か     うんぬん  そ   じょう  い
此の状六波羅に到着し、御請文を進ぜ被る。昌寛之を書くと云々。其の状に云はく。

  ごんのだいなごん はいにん   こと  きょうえつもう そうろう
 權大納言を拝任する事、恐悦申し候。

  ただ  かんとう  そうら  のとき  にんかん ことおお  くだされそうら  いへど   ぞん    むねそうら て   じたい もう  そうら をはんぬ
 但し關東に候う之時、任官の事仰せ下被候うと雖も、存ずる旨候ひ天、辞退申し候ひ 畢。

  しか    いまおお くだされそうろうのじょう  めんもくきはま な  そうろう いへど  おそ  なが  じたい もう ところそうろうなり
 而るに今仰せ下被 候 之條、面目極り無く候と雖も、恐れ乍ら辞退申す所 候 也。

  じ   もう  のむね おさ  そうら     もって  ちょうおん ふか   ぞん べくそうろう  かね またちょくじゅ ゆる      べきこと  かしこ  うけたまは そうら をはんぬ
 辞し申す之旨納め候はんをもて、朝恩深しと存ず可候。 兼て又勅授を聽される可事、畏まり承り 候ひ 畢。

  かく  むね  もつ  も   たつ  せし  たま  べくそうろう よりともきょうこうきんげん
 此の旨を以て洩れ達さ令め給ふ可候。 頼朝恐惶謹言。

               じういちがつ
       十一月

  ついけい
 追啓

    おお  くだされそうろうののち  じ   もう そうろうのじょう なおもっ おそ  おぼ  たま そうろう ちょくじゅ こと  かさねがさねて かしこ もう そうろうなり
  仰せ下被 候 之後、辞し申し候之條、猶以て恐れ思し給ひ候。 勅授の事、 重〃も 畏み申し候 也。

    かく  むね  もっ    しかるべくのよう    ひろう せし  たま  べくそうろう かさねがさね きょうこうきんげん
  此の旨を以て、然可之樣に、披露令め給ふ可 候。 重〃、 恐惶謹言。

現代語建久元年(1190)十一月九日己未。晴れです。二品頼朝様は、京都御所へ挨拶回りです。御家人達は、各交差点に張り付いて、辺りを警戒しまするんだとさ。

今日、民部卿吉田経房を通して、直衣の着衣を許可戴く様申し入れましたので、直ぐに許可されました。院の官吏蔵人左京権大夫光綱がこれを取次ぎました。吉田経房は〔布衣(狩衣)平礼烏帽子〕取次ぎ役として、前もって御所に行っております。

午後四時頃に六波羅を出発です。まずは、院のおられる仙洞〔六条殿です。追い払いはしません〕へ参ります。直衣をめし、網代のお車〔大きな〕です。

行列は、
まず儀杖兵三騎
 三浦介義澄〔一番前に一騎です〕
 小山兵衛尉朝政   小山田三郎重成。
次ぎに頼朝様の牛車〔牛車の介添えは二人の牛車世話人〕
 小山五郎宗政    佐々木三郎盛綱  加藤次景廉〔この三人は牛車の脇を歩きます〕
次ぎは、頼朝様の弓矢持ち
 中村右馬允時経〔
紺と青と赤とを打ち散らしの染め、頼朝様が入京の日に着ていたた水干です〕
次ぎに布衣(狩衣)の侍が六人〔それぞれ弓箭を持った二騎が付いています〕
 宇都宮左衛門尉朝綱 八田右衛門尉知家 工藤左衛門尉祐経
 畠山次郎重忠    梶原平三景時   三浦十郎義連
次ぎに、
儀杖兵七騎
 千葉太郎胤正    梶原源太左衛門尉景季 下河辺庄司行平
 佐々木左衛門尉定綱 和田太郎義盛     葛西三郎清重
 武田五郎信光〔一番後ろに一騎〕

六条殿では、中門の廊下から昇って、公卿達のいる座の端に並ばれました。民部卿吉田経房は予め、奥の座に居て、直ぐに院へ報告しました〔倅の権弁定経が取次ぎです〕。法皇〔白の法衣を着ている〕は、普段おられる御所にお出になられました。そして南の建物の縁側に畳を敷いて、經房の手引きでその座に参られました。お言葉が続きました。きっと世間を治めるようにとの事なのでしょうか。頼朝様以外は一緒に居なかったので分かりません。暗くなってから引き下がりました。「そこで暫くお待ちになってください。院から申されることが有りますので。」と経房が云っております。しかし「いやー後日改めて参りますよ。」とおっしゃられて帰られました。経房がこの状況を院へお伝えすると、「大納言に任命すると伝えなさい。きっと遠慮するかも知れないから、承諾書を待つ必要は無い。」今夜中に人事異動をするように院から命令が有りました。又、院が直接与えると伝えるようにとのことでした。

次ぎに、天皇の御所閑院へ参りました。弓場殿の方から鬼間辺りに行かれました。頭中宮亮宗頼がそのことを伝えました。天皇〔裾の長い直衣〕は、昼間の座へお出になられました〔摂政兼実殿は天皇の後ろの北側におられます〕。呼ばれたので縁側〔丸い座布団が敷かれている〕に参られました。少しして天皇は奥へ入られました。次ぎに鬼間で、殿下九条兼実に会いました。夜中の十二時頃に六波羅へ戻られました。

その後、吉田経房が院からの命令書を寄越して云うには、

 今までのお手柄への褒美として、権大納言の任命いたします。度々、褒美をと院から申されましたが、遠慮を申されていたので、今まで決めませんでした。しかし、やっと京入りされたので、なんで先の約束を破ることがありましょうか。院へ参られた時に、命じようと思っておられましたが、さっさと帰ってしまったので、とにかく人事異動を決定いたしました。今となっては反対せず、この旨を承知してください。
又同様に、推薦無しに直接位勲を授けるように命令されましたので、院からの手紙はこのとおりです。命じられて書きました。
    十一月九日                    民部卿吉田経房
  謹んで 新しく任命された大納言殿

この手紙が六波羅のもとへ来たので、受取の返事を出されました。一品房昌寛がこれを書いたそうです。その手紙の内容は、

 権大納言を戴き、とても恐れ入りながらも喜んでおります。しかし、関東に居た時に、官職の任命のお言葉を戴きましたが、思うところあって辞退を申し上げておりました。しかしながら今、戴きましたお言葉は、充分に面目でありますけれど、恐れながら辞退させていただきます。この辞退を了承戴ければ、朝廷の恩を深く感じるものです。又、推薦無しに院から直接位勲を授けるように命令された事にも、有り難く存じております。この内容で、院へお伝え戴く様に、頼朝がかしこまって謹んで申し上げます。
    十一月

 追伸 ご命令を戴いたにもかかわらず、辞退申し上げるのは、恐れ多いことだと思っております。推薦無しに直接位勲を授けるように命令されたのも、重ね重ねもったいないこととかしこまっております。このような内容でもって、旨く取り繕ってお知らせ戴くように、くれぐれも宜しくお願いします。

建久元年(1190)十一月大十一日辛酉。リ。新大納言家〔頼朝〕御參六條若宮并石C水八幡宮等。其行列。
先神馬一疋。〔鴾毛。直被引石C水。不逗留六條若宮〕
次先陣隨兵
  小山兵衛尉朝政   小山田三郎重成   越後守義資
  加々美次郎長C   土肥次郎實平    梶原左衛門尉景季
  村上左衛門尉頼時  武田兵衛尉有義   千葉新介胤正
  葛西三郎C重
次御車
  新田四郎忠常    糟屋藤太有季    佐々木次郎經高
  同三郎盛綱     大井次郎實春    小諸太郎光兼
  金子十郎家忠    河匂七郎政頼    本間右馬允義忠
  猪俣平六範綱
   以上十人。歩行御車左右。
御調度懸
  武藤小次郎資頼
次後騎〔淨衣〕
  參河守範頼     駿河守廣綱     相摸守惟義
  伊豆守義範     村上右馬助經業   北條小四郎
  三浦介義澄     宇都宮左衛門朝綱  八田右衛門尉知家
  足立右馬允遠元   比企四郎能員    千葉介常胤
次後陣随兵
  畠山次郎重忠    八田太郎朝重    毛利三郎頼隆
  村山七郎頼直    小山七郎朝光    千葉次郎師常
  佐々木左衛門尉定綱 加藤次景廉     信濃三郎光行
  三浦十郎義連
最末
  和田太郎義盛    梶原平三景時〔各淨衣〕
先六條若宮。次參石C水給。於八幡宮。神馬一疋。銀釼一腰被奉之。馬塲御所雖儲御駄餉。依無便。入御于任覺房。今夜御逗留。御通夜寶前也。

読下し                       はれ  しんだいなごんけ 〔よりとも〕  ろくじょうわかみや なら  いわしみずはちまんぐう ら ぎょさん
建久元年(1190)十一月大十一日辛酉。リ。新大納言家〔頼朝〕六條若宮@并びに石C水八幡宮A等へ御參。

そ  ぎょうれつ  ま   しんめいちひき 〔 つきげ  じき  いわしみず  ひかれ      ろくじょうわかみや とうりゅうせず〕
其の行列、先づ神馬一疋〔鴾毛。直に石C水へ引被る。六條若宮に逗留不〕

参考@六條若宮は、若宮八幡宮で、元は1053年に源頼義が六条醒ヶ井(さめがい)の邸宅に創建した鎮守社。六条通と堀川通りの交差点の東北側に550m四方であった。(六条堀川若宮八幡宮
参考A石C水八幡宮は、京都府八幡市八幡高坊の岩清水八幡宮

つぎ  せんじん  ずいへい
次に先陣の隨兵

     おやまのひょうえのじょうともまさ     おやまだのさぶろうしげなり       えちごのかみよしすけ
  小山兵衛尉朝政    小山田三郎重成    越後守義資

     かがみのじろうながきよ          といのじろうさねひら           かじわらのさえもんのじょうかげすえ
  加々美次郎長C    土肥次郎實平     梶原左衛門尉景季

     むらかみのさえもんのじょうよりとき    たけだのひょうえのじょうありよし    ちばのしんすけたねまさ
  村上左衛門尉頼時   武田兵衛尉有義    千葉新介胤正

     かさいのさぶろうきよしげ
  葛西三郎C重

つぎ  おんくるま
次に御車

     にたんのしろうただつね         かすやのとうたありすえ          ささきのじろうつねたか
  新田四郎忠常     糟屋藤太有季     佐々木次郎經高

     おなじきさぶろうもりつな         おおいのじろうさねはる          こもろのたろうみつかね
  同三郎盛綱      大井次郎實春     小諸太郎光兼

     かねこのじうろういえただ         かわわのしろうまさより           ほんまのうまのじょうよしただ
  金子十郎家忠     河匂七郎政頼     本間右馬允義忠

     いのまたのへいろくのりつな
  猪俣平六範綱

       いじょうじうにん  おんくるま  さゆう   かち
   以上十人。御車の左右に歩行。

ごちょうどがけ
御調度懸

     むとうのこじろうすけより
  武藤小次郎資頼

つぎ   ごき  〔じょうい〕
次に後騎〔淨衣〕

     みかわのかみのりより           するがのかみひろつな          さがみのかみこれよし
  參河守範頼      駿河守廣綱      相摸守惟義

     いずのかみよしのり            むらかみのうまのすけつねなり      ほうじょうのこしろう
  伊豆守義範      村上右馬助經業    北條小四郎

     みうらのすけよしずみ           うつのみやのさえもんともつな      はったのうえもんのじょうともいえ
  三浦介義澄      宇都宮左衛門朝綱   八田右衛門尉知家

     あだちのうまのじょうとおもと        ひきのしろうよしかず           ちばのすけつねたね
  足立右馬允遠元    比企四郎能員     千葉介常胤

つぎ  こうじん  ずいへい
次に後陣の随兵

     はたけやまのじろうしげただ       はったのたろうともしげ          もうりのさぶろうよりたか
  畠山次郎重忠     八田太郎朝重     毛利三郎頼隆

     むらやまのしちろうよりなお        おやまのしちろうともみつ         ちばのじろうもろつね
  村山七郎頼直     小山七郎朝光     千葉次郎師常

     ささきのさえもんのじょうさだつな     かとうじかげかど              しなののさぶろうみつゆき
  佐々木左衛門尉定綱  加藤次景廉      信濃三郎光行

     みうらのじうろうよしつら
  三浦十郎義連

さいまつ
最末

     わだのたろうよしもり            かじわらのへいざかげとき 〔おのおのじょうい〕
  和田太郎義盛     梶原平三景時 〔 各 淨衣〕

さき ろくじょうわかみや つぎ  いわしみず  さん  たま   はちまんぐう  をい    しんめいちひき ぎんけんひとこし これ  たてまつらる
先に六條若宮、次に石C水へ參じ給ふ。八幡宮に於て、神馬一疋、銀釼一腰之を奉被る。

 ばば   ごしょ   ごだしゅう   もうけ   いへど   びん な    よっ     にんかくぼうに にゅうぎょ  こんや ごとうりゅう  ほうぜん  おんつうやなり
馬塲の御所に御駄餉を儲ると雖も、便無きに依て、任覺房于入御す。今夜御逗留。寶前に御通夜也。

参考御通夜は、読んで字のごとく夜通し経を読むこと。

現代語建久元年(1190)十一月十一日辛酉。晴れです。新大納言家〔頼朝様〕は、六条若宮左女牛と岩清水八幡宮へ参詣です。その行列は、まず神様へ奉納する馬の神馬一頭〔鴾毛です。直接岩清水へ引いていく。六条若宮は経由しない

先払いの儀杖兵
  小山兵衛尉朝政   小山田三郎重成   越後守義資
  加々美次郎長清   土肥次郎実平    梶原左衛門尉景季
  村上左衛門尉頼時  武田兵衛尉有義   千葉新介胤正
  葛西三郎清重

 次ぎに頼朝様ご乗車の牛車
  新田四郎忠常     糟屋藤太有季     佐々木次郎経高
  同三郎盛綱      大井次郎実春     小諸太郎光兼
  金子十郎家忠     河匂七郎政頼     本間右馬允義忠
  猪俣平六範綱
 以上の十人は、牛車の左右を歩き警備しています。

 次に頼朝様の弓矢を持ち鎧を着ている武藤小次郎資頼

次が、頼朝様の後に従う者
  參河守蒲範頼     駿河守太田広綱    相模守大内惟義
  伊豆守山名義範    村上右馬助経業    北條小四郎義時
  三浦介義澄      宇都宮左衛門朝綱   八田右衛門尉知家
  足立右馬允遠元    比企四郎能員     千葉介常胤

次が、しんがりの儀杖兵
  畠山次郎重忠     八田太郎朝重     毛利三郎頼隆
  村山七郎頼直     小山七郎朝光     千葉次郎師常
  佐々木左衛門尉定綱  加藤次景廉      信濃三郎光行
  三浦十郎義連

一番後ろが
  和田太郎義盛     梶原平三景時 〔それぞれ白の神聖な浄衣です〕

先に六条若宮にお参りし、次ぎに岩清水八幡宮へお参りをしました。八幡宮では、馬を一頭と銀で装飾した太刀一本を奉納しました。八幡宮の流鏑馬馬場の小屋にお弁当を用意しましたが、泊まれる程ではないので、坊さんの宿舎の任覚房に入られました。今夜はここにお泊りです。神前で一晩中お経を上げるからです。

建久元年(1190)十一月大十二日壬戌。入夜。自石C水。令還六波羅給云々。

読下し                       よ   い     いわしみず よ      ろくはら   かへ  せし  たま    うんぬん
建久元年(1190)十一月大十二日壬戌。夜に入り、石C水自り、六波羅へ還ら令め給ふと云々。

現代語建久元年(1190)十一月十二日壬戌。夜になって、岩清水から六波羅へ帰り着きましたとさ。

建久元年(1190)十一月大十三日癸亥。リ。新大納言家御別進。以伊賀前司仲教。被付御解文〔入函。被封之〕於戸部。戸部又付左大丞〔定長〕被 奉覽云々。
進上
  砂金八百兩
  鷲羽二櫃
  御馬百疋
 右。進上如件。
   建久元年十一月十三日              源頼朝
如此被載之。此外。龍蹄十疋所被進禁裏也。

読下し                       はれ  しんだいなごんけ ごべつしん  いがのぜんじなかのり  もっ    おんげぶみ 〔はこ  い   これ  ふう   らる〕  を  こぶ   ふせら
建久元年(1190)十一月大十三日癸亥。リ。新大納言家御別進。伊賀前司仲教を以て、御解文〔函に入れ之を封ぜ被〕於戸部に付被る。

 こぶ またさだいじょう 〔さだなが 〕  ふ     そうらんせら    うんぬん
戸部又左大丞〔定長〕に付し、奉覽被ると云々。

しんじょう
進上

    さきんはちひゃくりょう
  砂金八百兩

    わしはねふたびつ
  鷲羽二櫃

    おんうまひゃくひき
  御馬百疋

  みぎ しんじょうくだん ごと
 右。進上件の如し。

      けんきゅうがんねんじういちがつじうさんにち                         みなもとのよりとも
   建久元年十一月十三日              源頼朝

かく  ごと  これ  の   らる    こ   ほか りゅうていじっぴき きんり  しん  らる  ところなり
此の如く之を載せ被る。此の外、龍蹄十疋、禁裏に進ぜ被る所也。

現代語建久元年(1190)十一月十三日癸亥。晴れです。新大納言家頼朝様のお礼の贈り物です。伊賀前司仲教を通じて、上申書〔箱に入れて封をされてます〕を民部卿吉田経房に預けました。経房は左大丞(左大弁)定長に託して後白河院へ伝えましたとさ。

お送りします
 砂金八白両
 鷲の羽根二箱
 馬百頭
右の贈り物はこのとおりです。
  建久元年十一月十三日       源頼朝

このように、書きました。その他にも、立派な馬を十頭、天皇の御所へ贈られました。

建久元年(1190)十一月大十五日乙丑。霽。大納言家御所進御馬。被分進諸社云々。

読下し                       はれ  だいなごんけ   ごしょ  しん   おんうま  しょしゃ  わか  しん  らる    うんぬん
建久元年(1190)十一月大十五日乙丑。霽。大納言家、御所へ進ずるの御馬、諸社へ分ち進ぜ被ると云々。

現代語建久元年(1190)十一月十五日乙丑。晴れました。大納言家頼朝様が朝廷へ贈った馬は、あちこちの神社へ分けて奉納されましたとさ。

建久元年(1190)十一月大十六日丙寅。雨下。大納言家送遣辛櫃二合〔蒔鶴〕於御所女房三位局。被納桑絲二百疋。紺絹百疋云々。大和前司重弘爲御使云々。

読下し                       あめふる  だいなごんけ からびつにごう 〔まきつる〕 を ごしょ  にょうぼうさんみのつぼね おく  つか
建久元年(1190)十一月大十六日丙寅。雨下。大納言家辛櫃二合〔蒔鶴〕於御所の 女房三位局@へ送り遣はす。

そうし にひゃくひき  こんけんひゃくひき おさ  らる    うんぬん  やまとのぜんじしげひろおんし  な     うんぬん
桑絲二百疋、 紺絹百疋を 納め被ると云々。大和前司重弘御使と爲すと云々。

参考@三位局は、高階栄子で木曾義仲に鳥羽殿へ後白河と共に押し込められ、後白河の子を生んでいる。

現代語建久元年(1190)十一月十六日丙寅。雨降りです。大納言家頼朝様は、中国風の箱の唐櫃〔鶴の蒔絵〕を女官の三位局高階栄子に贈らせました。中には絹糸を四百反、紺の絹を二百反を入れているんだとさ。大和前司山田重弘が派遣員として届けたんだとさ。

建久元年(1190)十一月大十八日戊辰。亞相御参C水寺。御車也。供奉人被用八幡詣人數。但隨兵之中。小山七郎朝光。和田太郎義盛二人相列于御車前云々。於彼寺。令衆僧讀誦法華經。施物多々云々。

読下し                       あしょう きよみずでら  ぎょさん  おんくるまなり  ぐぶにん  はちまんもうで  にんずう  もち  らる
建久元年(1190)十一月大十八日戊辰。亞相@C水寺へ御参。御車也。供奉人は八幡詣の人數を用ひ被る。

ただ  ずいへいのうち  おやまのしちろうともみつ  わだのたろうよしもり  ふたり  おんくるま まえに あいなら    うんぬん
但し隨兵之中、小山七郎朝光、和田太郎義盛の二人は御車の前于相列ぶと云々。

か   てら  をい   しゅうそう  ほけきょう  どくしょうせし   せぶつ   たた   うんぬん
彼の寺に於て、衆僧に法華經を讀誦令む。施物は多々と云々。

参考@亞相は、亞は〜に次ぐ、相は大臣なので、大臣に次の人すなはち大納言(ここでは頼朝)を指す。

現代語建久元年(1190)十一月十八日戊辰。大臣に次ぐ位で亜相とも呼ばれる大納言頼朝様は、清水寺へお参りです。
お供の護衛兵たちは、岩清水詣での時の人数と同じにしました。但し、後ろの方の
儀杖兵だった結城七郎朝光と和田太郎義盛の二人は、頼朝様の牛車の前に並びましたとさ。
清水寺で坊さん達が法華経を読誦したので、お布施を沢山あげましたとさ。

建久元年(1190)十一月大十九日己巳。雨下。臨夕休止。未尅。大納言家〔直衣〕御參 仙洞。左武衞〔能保〕被參會。法皇御對面。及數尅云々。

読下し                       あめふる  ゆう  のぞ  きゅうし  ひつじのこく だいなごんけ  〔のうし〕  せんとう  ぎょさん
建久元年(1190)十一月大十九日己巳。雨下。夕に臨み休止す。未尅、大納言家〔直衣〕仙洞へ御參。

 さぶえ  〔よしやす〕 さんかいせら    ほうおう ごたいめん  すうこく  およ    うんぬん
左武衞〔能保〕參會被る。法皇御對面、數尅に及ぶと云々。

現代語建久元年(1190)十一月十九日己巳。雨降りですが、夕方には止みました。午後二時頃に大納言家頼朝様〔三位以上が着て参内できる直衣〕で後白河院へ参られました。左武衛〔一条能保〕も行き合わせました。後白河法皇との面会は、数時間に及びましたとさ。

建久元年(1190)十一月大廿二日壬申。雪飛。大納言家可被任大將之由。 院宣〔經房奉〕到來。而御請文之趣。不慮之外雖任大納言。顧涯分之處。重又被任大將。不及申左右云々。就之。以經房卿。被申合殿下。但無左右可被任付之由思食云々。殿下覽彼御請文。不可有異儀之由被申云々。

読下し                       ゆき と    だいなごんけ   たいしょう にん  らる  べ   のよし  いんぜん〔つねふさ ほう 〕 とうらい
建久元年(1190)十一月大廿二日壬申。雪飛ぶ。大納言家、大將に任ぜ被る可し之由、院宣〔經房奉ず〕到來す。

しか    おんうけぶみのおもむき  ふりょのほか  だいなごん  にん   いへど   がいぶん  かえりみ のところ  かさ   またたいしょう にん  らる
而るに御請文之 趣、 不慮之外に大納言に任ずと雖も、涯分を顧る 之處、重ねて又大將に任ぜ被る。

そう   もう    およばず  うんぬん
左右を申すに不及と云々。

これ  つ    つねふさきょう もっ     でんか  もう   あ   さる    ただ   そう な   にん  ふ さら  べ  のよし おぼ  め    うんぬん
之に就き、經房卿を以て、殿下@へ申し合は被る。但し左右無く任じ付被る可し之由思し食すと云々。

でんか か  おんうけぶみ  み     いぎ あ   べからずのよし  もうさる    うんぬん
殿下彼の御請文を覽て、異儀有る不可之由を申被ると云々。

参考@殿下は、摂政でここでは九条兼実を指す。

現代語建久元年(1190)十一月大二十二日壬申。雪が飛び散っています。大納言家頼朝様が、近衛の大将に任命するとの院からの手紙〔吉田経房が書いています〕が届きました。
しかし、返書の内容には、思いがけずに大納言を拝領したけれども、良いのだろうかと自分の分相応を考えている所へ、なおも追加して大将に任命されるなんて、何の不服がありましょうかなんだとさ。
この返書を吉田経房を通して、殿下九条兼実に渡しました。但し、(殿下の力添えで)易々と任命されたのだろうと思っていますとね。
殿下は、この返書を見て、「そのとおりです」とおっしゃられたんだそうだ。

建久元年(1190)十一月大廿三日癸酉。小雪。大納言家御參 仙洞。終日令候御前給。又長絹百疋。綿千兩。紺絹卅端。被進内臺盤所云々。

読下し                       こゆき   だいなごんけ せんとう  ぎょさん  しゅうじつ ごぜん こう  せし  たま
建久元年(1190)十一月大廿三日癸酉。小雪。大納言家仙洞へ御參。終日御前に候ざ令め給ふ。

また ちょうけんひゃくひき めんせんりょう こんけんさんじったん  うち だいばんどころ  しん らる    うんぬん
又、 長絹百疋、 綿千兩、 紺絹卅端を、内の臺盤所@へ進ぜ被ると云々。

参考@臺盤所は、台盤を置いておく所。宮中では、清涼殿内の一室で、女房(女官)の詰め所。

現代語建久元年(1190)十一月大二十三日癸酉。小雪が降っています。大納言家頼朝様は院の御所仙洞へ行かれました。一日中おそばにおられました。
又、手土産に長絹二百反、絹綿を千両、紺色の絹三十反を院の家政部署へ送られましたとさ。

建久元年(1190)十一月大廿四日甲戌。霽。入夜雨降。右丞相〔兼雅公〕被上右大將辞状。今夜。亞相可被任右大將事。被下 院宣。〔經房奉〕御請文趣。辞退之志者多之。所望之儀者無之。何樣可令奉哉云々。入夜被行除目。藏人右少弁家實宣下。
   右近衛大將源頼朝
上卿別當。〔通親卿〕執筆右宰相中將。〔公時卿〕幕下之外無任人云々。

読下し                       はれ  よ   い   あめふ    うじょうしょう 〔かねまさこう 〕 うだいしょう  じじょう  たてまつらる
建久元年(1190)十一月大廿四日甲戌。霽。夜に入り雨降る。右丞相〔兼雅公〕右大將の辞状を上被る@

こんや   あそう   うだいしょう  にん  らる  べ   こと  いんぜん 〔つねふさ ほう 〕   くださる
今夜、亞相、右大將に任ぜ被る可き事、院宣〔經房奉ず〕を下被る。

おんうけぶみ おもむき じたいのこころざしは これおお    しょもうの ぎ は  これな    いかよう  ほう  せし  べ   や   うんぬん
御請文の 趣、 辞退之 志 者之多し。所望之儀者之無し。何樣に奉ぜ令む可き哉と云々。

 よ   い   じもく おこな らる   くろうどのうしょうべんいえざね せんげ
夜に入り除目行は被る。 藏人右少弁家實 宣下す。

      うこのえのたいしょう みなもとのよりとも
   右近衛大將 源頼朝

しょうけい  べっとう 〔みちちかきょう〕  しつひつ  うさいしょうちゅうじょう 〔きんとききょう〕   ばくかの ほか にん    ひと な   うんぬん
上卿は別當〔通親卿A、執筆は 右宰相中將〔公時卿〕、幕下之外任ずる人無しBと云々。

参考@兼雅公、右大將の辞状を上被るは、頼朝が右大将に任命されると知って、遠慮して席を空けるために辞表を出した。
参考A通親卿は、源通親、土御門通親で、この後兼実を追い落とし政権を握り、頼朝は娘の入内を餌に振り回され、頭へ来て京都へ大軍で上る寸前に倒れた。
参考B幕下之外任ずる人無しは、頼朝だけのための任命式だった。武力へのお手盛り人事。

現代語建久元年(1190)十一月大二十四日甲戌。晴れました。夜になって雨が降りました。右大臣〔藤原兼雅公〕は右大将の辞表を提出しました。
そこで今夜亜相(大納言頼朝)を右大将に任命するようにと、後白河院からの命令書〔吉田経房が書いた〕が出されました。
請け書の内容には、辞退したいくらいです。望んでもいなかったので、どのようにお礼を申し上げたものでしょうかだとさ。
夜になって人事異動が行われました。蔵人右少弁の家実が読み上げました。太政官の会議指導者は、土御門源通親卿、書記をしたのは右宰相中将〔大江公時卿〕で、頼朝様以外の任命はありませんでしたとさ。

建久元年(1190)十一月大廿六日丙子。リ。右大將家番長以下。自院被定仰之。右府生秦兼平可爲番長。幡磨貞弘可爲一座云々。亦拝賀間。御所爲先。今日被仰下。右府承 勅被計申云々。

読下し                       はれ  うだいしょうけ  ばんのおさ いか  いん よ  これ  さだ  おお  らる    うのふしょう はたのかねひら ばんのおさたるべし
建久元年(1190)十一月大廿六日丙子。リ。右大將家の番長以下、院自り之を定め仰せ被る。右府生@秦兼平 番長A爲可。

はりまのさだひろ いちのざたるべし うんぬん  またはいが  かん  ごしょ  さき   な     きょう おお  くださる     うふ ちょく うけたまは はから もうさる    うんぬん
幡磨貞弘 一座B爲可と云々。亦拝賀の間、御所を先と爲す。今日仰せ下被る。右府勅を 承り 計ひ申被ると云々。

@府生は、近衛府の検非違使の下役。
参考A番長は、朝廷から派遣された護衛隊の隊長。番は班を組むこと。四百人の部下を統率するとある。
参考B一座は、何班かの第一斑の長。最上席。

現代語建久元年(1190)十一月大二十六日甲戌。晴れです。右大将家頼朝様の朝廷からの護衛隊の隊長以下を院が決めてきました。朝廷の警備近衛府の警察官検非違使の秦兼平が隊長で、播磨貞弘が筆頭の班長だそうです。
又、朝廷へ挨拶の時は、院の御所を先にするように、今日院から云ってきました。右大臣が院から命じられて取次いでよこしましたとさ。

建久元年(1190)十一月大廿八日戊寅。依可有大將御拝賀。隨兵等事。今日有其定。爰江間殿密々被示送小山兵衛尉朝政曰。随兵事。當日臨御出之期。可被定左右。以令着同色甲并直垂之者。可爲予合手之由。已申請訖。予赤革威甲。筋懸丁直垂所用意也。汝令着此色。可番予者。朝政本自有一諾申事之間。殊喜此告。仍用意彼色直垂并甲冑云々。

読下し                       たいしょう おんはいが あ  べ     よっ    ずいへいら  こと  きょう そ   さだ  あ
建久元年(1190)十一月大廿八日戊寅。大將の御拝賀有る可しに依て、隨兵等の事、今日其の定め有り。

ここ  えまどのみつみつ  おやまのひょうえのじょうともまさ しめ  おくられ  い       ずいへい  こと  とうじつ ぎょしゅつのご  のぞ    さゆう   さだ  らる  べ
爰に江間殿密々に 小山兵衛尉朝政に 示し送被て曰はく、随兵の事、當日御出之期に臨み、左右を定め被る可し。

どうしょく よろいなら   ひたたれ き せし  の もの  もっ     よ   あいて たるべし のよし  すで  もう  う  をはんぬ
同色の甲并びに直垂を着令む之者を以て、予が合手爲可之由、已に申し請け訖。

 よ   あかがわをどしのよろい あいすじかけちょう ひたたれ  ようい   ところなり  なんじ こ   いろ  き せし     よ  つご  べ   てへ
予は 赤革威甲、 筋懸丁の 直垂を用意する所也。汝は此の色を着令め、予に番う可し者れば、

ともまさ もとよ   いちだくもう  ことあるのかん  こと  こ   つげ  よろこ   よっ  か   いろ  ひたたれなら   かっちゅう ようい     うんぬん
朝政本自り一諾申す事有之間、殊に此の告を喜ぶ。仍て彼の色の直垂并びに甲冑を用意すと云々。

現代語建久元年(1190)十一月大二十八日戊寅。大将任官のお礼参りをしなけりゃならないので、その儀杖兵について今日それを決められました。
そこで江間義時殿は、内緒で小山兵衛尉朝政に使いを送って言うのには、「儀杖兵の事で当日出発の時に細かい指示があると思うが、同じ色の鎧と鎧直垂を着た者を私とペアになるようにと既に申し上げております。私は赤い革紐威しの鎧に、青い筋を書いた直垂を用意しました。貴方もこの色を着たならば、私とペアになります。」と云ったら、小山朝政は、元々承諾するつもりだったので、その報せを特に喜びました。そこで、その色の直垂と鎧兜を用意したんだとさ。

参考この記事から、或る程度の大大名ともなるとファッション性にとんだ鎧を何着か用意しているようだ。

建久元年(1190)十一月大廿九日己卯。入夜。右大將家御 院參。布衣侍十二人在御共。各狩衣下着腹巻云々。
  三浦介義澄    足立右馬允遠元 下河邊庄司行平
  小山七郎朝光   千葉新介胤正  八田太郎朝重
  小山田三郎重成  三浦十郎義連  三浦平六義村
  梶原左衛門尉景季 加藤次景廉   佐々木三郎盛綱

読下し                        よ   い     うだいしょうけ ごいんさん   ほい  さむらいじうににんおんとも あ
建久元年(1190)十一月大廿九日己卯。夜に入り、右大將家御院參。布衣@の侍十二人御共に在り。

おのおの かりぎぬ  した  はらまき  ちゃく   うんぬん
 各、 狩衣の下に腹巻Aを着すと云々。

    みうらのすけよしずみ         あだちのうまんじょうとおもと      しもこうべのしょうじゆきひら
  三浦介義澄     足立右馬允遠元   下河邊庄司行平

    おやまのしちろうともみつ       ちばのしんすけたねまさ       はったのたろうともしげ
  小山七郎朝光    千葉新介胤正    八田太郎朝重

    おやまだのさぶろうしげなり      みうらのじうろうよしつら        みうらのへいろくよしむら
  小山田三郎重成   三浦十郎義連    三浦平六義村

    かじわらのさえもんのじょうかげすえ かとうじかげかど            ささきのさぶろうもりつな
  梶原左衛門尉景季  加藤次景廉     佐々木三郎盛綱

参考@布衣は、布製の狩衣の別称。狩衣は武家社会では、束帯に次ぐ礼装。参考狩衣は、〔もと、狩りなどのときに着たところから〕盤領(まるえり)で脇を縫い合わせず、くくり緒のある袖が後ろ身頃にわずかに付いているだけの衣服。地質は、布(ふ)を用いるので布衣(ほい)とも呼んだが、のちに絹綾(きぬあや)のものもできた。平安時代には公家の平常の略服であったが、鎌倉時代以後は公家・武家ともに正服、または礼服として用いた。現在は、神官の服装に見られる。狩襖(かりあお)。かりごろも。Goo電子辞書から
参考A腹巻は、鎧の一種。右脇で合わせ草摺が八間(枚)で、大鎧に比べ、前立ても札板剥き出しで、その他は省略されている。大鎧は右脇で合わせ草ずりが前後左右の四間(枚)で前立てには模様の描かれた弦走革が貼られ、栴檀板や鳩尾板、袖、脇楯などが付属し騎馬武者用に造られており豪華である。胴丸は、室町時代半ばに腹巻以上になお簡略されたもので、合わせ目が後ろにあり、その分草摺が一枚少なく7枚。その合わせ目の隙間を庇う為その後ろからもう一枚重ねるが、これを「臆病板」と称し、余り着けなくなってゆく。なお、腹巻と胴丸は江戸時代になると呼称が逆転してしまい、近藤好和さんの著書以外の本や博物館は、江戸時代の呼称で分けられているので反対だと思ってください。

現代語建久元年(1190)十一月大二十九日己卯。夜になって、右大将家頼朝様は、院へ参りました。武家の制服布衣を着た侍十二人がお供です。実はそれぞれに狩衣の着物の下に簡易鎧の腹巻を用心のために着けたんだとさ。

  三浦介義澄    足立右馬允遠元 下河辺庄司行平
  小山七郎朝光   千葉新介胤正  八田太郎朝重
  小山田三郎重成  三浦十郎義連  三浦平六義村
  梶原左衛門尉景季 加藤次景廉   佐々木三郎盛綱

建久元年(1190)十一月大卅日庚辰。雨下。日中天霽。右大將家毛車并廂車。御裝束。〔束帶。直衣〕釼緒。随身舎人以下裝束。皆悉自院被調下。檢非違使則C爲 勅使。舎人居飼裝束等。右府御沙汰云々。

読下し                     あめふる  にっちゅうてんはれ  うだいしょうけ  けくるまなら   ひさしぐるま ごしょうぞく 〔そくたい   のうし〕  けんしょ  ずいしん
建久元年(1190)十一月大卅日庚辰。雨下。 日中天霽。 右大將家の毛車并びに廂車、御裝束〔束帶、直衣〕釼緒、随身、

とねり  いか   しょうぞく    みな ことごと いんよ   ととの  くださる    けびいし のりきよ ちょくしたり
舎人以下の裝束は、皆 悉く 院自り調へ下被る。檢非違使則C勅使爲。

とねり   いがい  しょうぞくら     うふ    おんさた   うんぬん
舎人、居飼の裝束等は、右府の御沙汰@と云々。

参考@右府の御沙汰は、廿四日の前任の右丞相(兼雅公)が自分が与えられていた分を全て朝廷へ返し、その分が下賜された。

現代語建久元年(1190)十一月大三十日庚辰。雨降りです。右大将家頼朝様の牛車の糸毛車(いとげのくるま)と唐庇車(からひさしのくるま)、衣装〔束帯と直衣〕、刀の柄頭の飾り紐の剣緒、お供や身の回りの世話人たちの衣装を、全て院から調えて与えられました。検非違使の則清が院から届けました。身の回りの世話人や牛飼いの衣装は、右大臣兼雅公が自分が与えられていたのを朝廷へ返した分なのです。

十二月へ

吾妻鏡入門第十巻   

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