吾妻鏡入門第十一巻   

建久二年(1191)辛亥正月大

建久二年(1191)正月大一日庚戌。千葉介常胤献垸飯。其儀殊刷。是御昇進故云々。午剋前右大將家出御南面。前少將時家朝臣上御簾。先有進物。御劔千葉介常胤。御弓箭新介胤正。御行騰沓二郎師常。砂金三郎胤盛。鷲羽〔納櫃〕六郎大夫胤頼。
 御馬
一 千葉四郎胤信 平次兵衛尉常秀
二 臼井太郎常忠 天羽二郎眞常
三 千葉五郎胤道
四 寺尾大夫業遠

庭儀畢垂御簾。更出御于西面母屋。被上御簾。盃酒及歌舞云々。

読下し                              ちばのすけつねたね おうばん  けん    そ   ぎ こと かいつくろ  これごしょうしん  ゆえ  うんぬん
建久二年(1191)正月大一日庚戌。千葉介常胤、垸飯@を献ず。其の儀殊に刷うA。是御昇進の故Bと云々。

うまのこく さきのうだいしょうけ  なんめん しゅつご  さきのしょうしょうときいえあそん おんみす あ    ま   しんもつ あ     ぎょけん  ちばのすけつねたね
午剋、前右大將家、南面に出御。 前少將時家C朝臣 御簾を上ぐ。先づ進物有り。御劔は、千葉介常胤。

おんゆみや  しんすけたねまさ  おんむかばきくつ  じろうもろつね  さきん    さぶろうたねもり  わしのはね 〔ひつ  おさ 〕   ろくろうたいふたねより
御弓箭は、新介胤正。御行騰沓は、二郎師常。砂金は、三郎胤盛。鷲羽〔櫃に納む〕は、六郎大夫胤頼。

  おんうま
 御馬

いち  ちばのしろうたねのぶ   へいじひょうえのじょうつねひで
一 千葉四郎胤信  平次兵衛尉常秀D

に    うすいのたろうつねただ  あまはのじろうまさつね
二 臼井太郎常忠E  天羽二郎眞常F

さん  ちばのごろうたねみち
三 千葉五郎胤道

し   てらおのだいぶなりとお
四 寺尾大夫業遠G


にわ  ぎ   おは   みす   た      さら  せいめん おもやに しゅつご   みす   あげら     はいしゅ   かぶ   およ    うんぬん
庭の儀が畢り御簾を垂る。更に西面の母屋于出御。御簾を上被れ、盃酒、歌舞に及ぶと云々。

参考@垸飯は、椀飯とも書き、家人が將軍にご馳走を振舞い。他の家人も相伴に預かる。元旦から順に当時の重鎮順に献上する。後の大盤振舞の語源。
参考A殊に刷うは、特別にご馳走をあつらえた。
参考B是御昇進の故は、右大将に昇進したお祝い。
参考C
前少將時家は、平時忠の息子。
参考D平次兵衛尉常秀は、胤正の次男で境氏。
参考E臼井太郎常忠は、上総広常の弟の親常の子。
参考F天羽二郎眞常は、広常の弟直胤の子。異本では直常とも。
参考G寺尾大夫業遠は、横浜市鶴見区寺尾?。おそらく千葉と姻戚関係があると思われる。

現代語建久二年(1191)正月大一日庚戌。千葉介常胤が正月のご馳走振る舞いを差し上げました。特に豪華に整えました。それは頼朝様が昇進なされたからです。昼頃に前右大将家頼朝様は、公邸である御所の南の建物にお出ましになられました。前少将平時家が上座と下座を仕切る御簾を上げました。まず椀飯担当からの贈り物です。
刀を千葉介常胤、弓矢を新介千葉太郎胤正、行縢と沓は次郎相馬師常、砂金は三郎武石胤盛、鷲に羽〔箱入り〕は千葉六郎大夫東胤頼です。
馬は
一頭は、 千葉大須賀四郎胤信 と 千葉境平次常秀。
二頭目は、臼井太郎常忠    と 天羽次郎真常。
三頭目は、千葉国分五郎胤道  と 某。
四頭目は、寺尾大夫業遠    と 某。
五頭目は、 某        と 某。
庭での馬贈り物儀式を終えて御簾を下げました。なお、西側の建物にお出になられ、御簾を上げて酒盛りや歌や舞の宴会になりましたとさ。 

説明馬の献上は、手綱持が馬の両側につくので、後で調べて書くつもりがそのままになってしまったか、資料に既に抜けていたかどちらかである。

建久二年(1191)正月大二日辛亥。御垸飯〔三浦介義澄沙汰〕三浦介義澄持參御釼。御弓箭岡崎四郎義實。御行騰和田三郎宗實。砂金三浦左衛門尉義連。鷲羽比企右衛門尉能員。
 御馬
一 三浦平六義村 太郎景連



読下し                   おんおうばん 〔みうらのすけよしずみ さた〕  みうらのすけよしずみ ぎょけん  じさん
建久二年(1191)正月大二日辛亥。御垸飯〔三浦介義澄が沙汰〕三浦介義澄御釼を持參す。

おんゆみや  おかざきのしろうよしざね  おんむかばき  わだのさぶろうむねざね   さきん   みうらのさえもんのじょうよしつら わしのはね  ひきのうえもんのじょうよしかず
御弓箭は、岡崎四郎義實。御行騰は、和田三郎宗實。砂金は、三浦左衛門尉義連。鷲羽は、比企右衛門尉能員。

  おんうま
 御馬

いち  みうらのへいろくよしむら   たろうかげつら
一 三浦平六義村  太郎景連


さん



現代語建久二年(1191)正月大二日辛亥。ご馳走振る舞いです〔三浦介義澄の提供です〕三浦介義澄が刀を捧げました。弓箭は岡崎四郎義実。行縢は和田三郎宗実。砂金は三浦左衛門尉義連。鷲の羽根は比企右衛門尉能員です。
 馬は
一頭目は、三浦平六兵衛尉義村と三浦太郎景連。
二頭目から五頭目は某と某。

説明義連。鷲羽は比企右衛門尉」新人物往来社の読み下し本には、この部分が誤植で抜けている。

建久二年(1191)正月大三日壬子。小山右衛門尉朝政献垸飯。御釼下河邊庄司行平。御弓箭小山五郎宗政。御行騰沓同七郎朝光。鷲羽下河邊四郎政能。砂金者最末朝政自捧持之。自堂上參進。置御座前云々。次御馬五疋。

読下し                              おやまのうえもんのじょうともまさ  おうばん  けん    ぎょけん    しもこうべのしょうじゆきひら
建久二年(1191)正月大三日壬子。小山右衛門尉朝政、垸飯を献ず。御釼は、下河邊庄司行平。

おんゆみや  おやまのごろうむねまさ  おんむかばきくつ  おなじきしちろうともみつ  わしのはね  しもこうべのしろうまさよし
御弓箭は、小山五郎宗政。御行騰沓は、 同七郎朝光。 鷲羽は、下河邊四郎政能@

さきん は  さいまつ  ともまさみづか これ  ささ  も     どう  あが          よ   さんしん   ぎょざ   まえ  お    うんぬん  つぎ おんうまごひき
砂金者、最末に朝政自ら之を捧げ持ち、堂に上ったところ自り參進し、御座の前へ置くと云々。次に御馬五疋。

参考@政能は、政義とも書き行平の弟。

現代語建久二年(1191)正月大三日壬子。小山右衛門尉朝政が正月のご馳走振る舞いを差し上げました。
刀は下河辺庄司行平。弓箭は小山五郎長沼宗政。行縢と沓は小山七郎結城朝光。鷲の羽根は下河辺四郎政義。
砂金は、一番後から小山朝政が自分で捧げ持って、堂に上った所から前へ進み、頼朝様の目の前に置きましたとさ。次ぎに馬を五頭進上しました。

建久二年(1191)正月大五日甲寅。宇都宮左衛門尉献垸飯。御酒宴之間。則出勘能者。有弓始。
一番
 下河邊庄司行平  榛谷四郎重朝
二番
 和田左衛門尉義盛 藤澤二郎C親
各一五度射訖。依召參進御座間砌外。賜祿。行平御釼〔時家朝臣傳之〕義盛御弓箭〔江間殿傳之〕重朝鷲羽。C親御行騰。是今日進物云々。

読下し                             うつのみやのさえもんのじょう おうばん けん    ごしゅえんの かん すなは かんのう  もの  いだ    ゆみはじめ あ
建久二年(1191)正月大五日甲寅。宇都宮左衛門尉、垸飯を献ず。御酒宴之間、則ち勘能の者を出し、弓始有り。

いちばん   しもこうべのしょうじゆきひら     はんがやつのしろうしげとも
一番  下河邊庄司行平   榛谷四郎重朝

に ばん   わだのさえもんのじょうよしもり    ふじさわのじろうきよちか
二番  和田左衛門尉義盛  藤澤二郎C親

おのおの いちごどいをはんぬ めし よつ   ござ   ま   みぎり そと  さんしん    ろく  たま      ゆきひら  ぎょけん 〔ときいえあそん これ つた  〕
 各、 一五度@射訖。召に依て御座の間の砌の外に參進す。祿を賜はる。行平は御釼〔時家朝臣之を傳う〕

よしもり    おんゆみや  〔 えま どの これ  つた 〕    しげとも  わしのはね  きよちか  おんむかばき  これきょう  しんもつ  うんぬん
義盛は、御弓箭〔江間殿之を傳う〕。重朝は、鷲羽。C親は、御行騰。是今日の進物Aと云々。

参考@一五度は、四十九巻正元二年(1260)正月十二日・十四日の記事により、一五度は、二本づつ五度で、二五度は二本づつ五度を二回らしい。
参考A
是今日の進物は、宇都宮からの進物を改めて褒美として下賜した。

現代語建久二年(1191)正月大五日甲寅。宇都宮左衛門尉朝綱が正月のご馳走振る舞いを差し上げました。宴会の合間に、弓矢の達者な者を名指して、弓始めを行いました。
一番が、下河辺庄司行平  対 榛谷四郎重朝
二番が、和田左衛門尉義盛 対 藤沢二郎清親
それぞれ二本を五度射終えました。呼ばれて頼朝様がおられる座敷の上がり口の外へ進みました。褒美を与えられました。下河辺行平は太刀〔前少将時家が手渡しました〕。和田義盛は弓矢〔義時がこれを渡しました〕。榛谷重朝は鷲の羽根。藤沢清親は行縢。これらは今日献上されたものだそうです。

建久二年(1191)正月大八日丁巳。今年中際。可讀誦毎日十二巻藥師經之由。被仰若宮供僧并伊豆箱根山衆徒等云々。

読下し                              ことしちゅう  あいだ
建久二年(1191)正月大八日丁巳。今年中の際。

まいにち じうにかん  やくしきょう    どくしょうすべ  のよし  わかみぐそう なら    いず  はこねやま  しゅうとら  おお  らる    うんぬん
毎日、十二巻の藥師經@を讀誦可し之由、若宮供僧并びに伊豆、箱根山の衆徒等へ仰せ被ると云々。

参考@藥師經は、病気平癒のお経なので、大姫の為であろうか?

現代語建久二年(1191)正月大八日丁巳。今年一杯、毎日十二回薬師経を読み上げるように、八幡宮の坊さんと伊豆山権現、箱根権現の坊さん達に命じられましたとさ。

建久二年(1191)正月大十一日庚申。前右大將家御參鶴岳若宮。三浦左衛門尉持御釼。小早河弥太郎遠平懸御調度。伊豆守。三浦介。梶原平三以下供奉。神馬三疋引烈御前。
 一疋 梶原兵衛尉景高〔下手職掌引之自餘同〕
 一疋 千葉二郎師常
 一疋 葛西十郎

読下し                                 さきのうだいしょうけ つるがおかわかみや ぎょさん みうらのさえもんのじょう ぎょけん も
建久二年(1191)正月大十一日庚申。前右大將家、 鶴岳若宮へ御參。 三浦左衛門尉御釼を持つ。

こばやかわのいやたろうとおひら ごちょうど   か       いずのかみ  みうらのすけ かじわらのへいざ いか  ぐぶ    しんめ さんひき  ごぜん  ひ   つら
小早河弥太郎遠平、御調度を懸ける。伊豆守、三浦介、梶原平三以下供奉す。神馬三疋を御前に引き烈ぬ。

  いちひき   かじわらのひょうえのじょうかげたか 〔 めて   しきしょう これ  ひ    じよ   おな 〕
 一疋  梶原兵衛尉景高  〔下手@は職掌A之を引く自餘は同じ〕

  いちひき   ちばのじろうもろつね
 一疋  千葉二郎師常

  いちひき   かさいのじうろう
 一疋  葛西十郎

参考@下手は、女手・馬手・右側。
参考A職掌は、八幡宮の雅楽師。

現代語建久二年(1191)正月大十一日庚申。前右大将家頼朝様は、鶴岡八幡宮へお参りです。三浦左衛門尉十郎義連が太刀持ちです。小早河弥太郎遠平が弓矢を持っています。伊豆守山名義範、三浦介義澄、梶原平三景時以下がお供をしました。神様への奉納の馬を三頭前へ引いて並べました。
 一頭は、梶原兵衛尉景高〔もう一方の女手は八幡宮の雅楽師が引いています。後も同じです〕、
 一頭は、千葉相馬次郎師常、
 一頭は、葛西十郎です。

建久二年(1191)正月大十五日甲子。被行政所吉書始。前々諸家人浴恩澤之時。或被載御判。或被用奉書。而今令備羽林上將給之間。有沙汰。召返彼状。可被成改于家御下文之旨被定云々。
 政所
 別當
  前因幡守平朝臣廣元
 令
  主計允藤原朝臣行政
 案主
  藤井俊長〔鎌田新藤次〕
 知家事
  中原光家〔岩手小中太〕
 問注所執事
  中宮大夫屬三善康信法師〔法名善信〕
 侍所
 別當
  左衛門少尉平朝臣義盛〔治承四年十一月奉此職〕
 所司
  平 景時〔梶原平三〕
 公事奉行人
 前掃部頭藤原朝臣親能 筑後權守同朝臣俊兼
 前隼人佑三善朝臣康C 文章生同朝臣宣衡
 民部丞平朝臣盛時   左京進中原朝臣仲業
 前豊前介C原眞人實俊
 京都守護
  右兵衛督〔能保卿〕
 鎮西奉行人
  内舎人藤原朝臣遠景〔号天野藤内左衛門尉〕

読下し                                まんどころ  きっしょはじめ おこなはらる  さきざき  しょけにん おんたく  よく    のとき
建久二年(1191)正月大十五日甲子。政所@の吉書始Aを行被る。前々は諸家人恩澤に浴する之時、

ある    ごはん   の    ら    ある    ほうしょ  もち  らる    しかる いま   うりんじょうしょう そな  せし  たま  のかん   さた あ
或ひは御判Bを載せ被れ、或ひは奉書Cを用ひ被る。而に今、羽林上將Dに備へ令め給ふ之間、沙汰有り。

か   じょう  め   かえ   け  おんくだしぶみに な  あらた らる  べ  のむね  さだ  らる    うんぬん
彼の状を召し返しE、家の御下文F于成し改め被る可し之旨、定め被ると云々。

参考@政所は、初見であり、三位以上が使っても良い単語。
参考A吉書始は、年初や事務所開きの時などにやる。縁起の良い事を書く。一に神事、二に春の耕作、三に秋の収穫を書く。
参考B御判は、袖花押。
参考C
奉書は、花押が無い。
参考D羽林上將は、近衛府の大将。
参考E召返は、戻させる。
参考F
家の御下文は、右大将家のくだしぶみ。

  まんどころ
 政所

  べっとう
 別當G

    さきのいなばのかみたいらのあそんひろもと
  前因幡守平朝臣廣元H

  れい
 令

    かぞえのじょうふじわらのあそんゆきまさ
  主計允藤原朝臣行政I

  あんず
 案主

    ふじいのとしなが 〔かまたのしんとうじ〕
  藤井俊長〔鎌田新藤次〕J

  ちけいじ
 知家事

    なかはらみついえ〔いわてのこちうた〕
  中原光家〔岩手小中太〕K

  もんちうじょしつじ
 問注所執事

    ちうぐうだいぶさかんみよしぜんしんほっし〔ほうみょうぜんしん〕
  中宮大夫屬三善康信法師〔法名善信〕

   さむらいどころ
 侍所

   べっとう
 別當

    さえもんのしょうじょうたいらのあそんよしもり 〔じしょうよねんじういちがつ  こ  しき  たてまつ 〕
  左衛門少尉平朝臣義盛 〔治承四年十一月此の職を奉る〕

   しょし
 所司

    たいらのかげとき〔かじわらのへいざ〕
  平景時 〔梶原平三〕

    くじ ぶぎょうにん
 公事奉行人

  さきのかもんのかみふじわらのあそんちかよし   ちくごごんのかみおなじきあそんとしかね
 前掃部頭藤原朝臣親能    筑後權守同朝臣俊兼

  さきのはやとのすけみよしのあそんやすきよ    もんじょうのしょうおなじきあそんのぶひら
 前隼人佑三善朝臣康C    文章生同朝臣宣衡

  みんぶのじょうたいらのあそんもりとき        さけいのしんなかはらのあそんなかなり
 民部丞平朝臣盛時      左京進中原朝臣仲業

  さきのぶぜんのすけきよはらのまひとさねとし
 前豊前介C原眞人實俊

  きょうとしゅご
 京都守護

    うひょうえのかみ 〔よしやすきょう〕
  右兵衛督〔能保卿〕

  ちんぜいぶぎょうにん
 鎮西奉行人

    うちのとねりふじわらのあそんとおかげ 〔あまののとうないさえもんのじょう  ごう〕
  内舎人藤原朝臣遠景 〔天野藤内左衛門尉と号す〕

参考G別當は、國の場合の守(かみ)。は、介(すけ)。案主は、掾(じょう)。知家事は、目(さかん)。
参考H前因幡守平朝臣廣元は、大江広元だが、平と書くのはこの一箇所のみで、広元は藤原氏なので間違い。
参考I
主計允藤原朝臣行政は、後に永福寺の近所に住み地名から二階堂と名乗る。
参考J藤井俊長〔鎌田新藤次〕は、鎌田正Cの子。
参考K小中太は、小が分家、中は中原、太は太郎の略。

現代語建久二年(1191)正月大十五日甲子。三位以上になられたので、政務機関として公文所を政所と変えたので、その事務始式の吉書始を行われました。以前は頼朝様から本領安堵や新しい地頭職を貰う恩沢を与える時は、花押を載せたり、命じて書かせる奉書に頼朝様の名を載せたりしていました。しかし、近衛府の大将になったので、変えるように命じられました。今までの命令書を戻させて、大将家の政所下し文として出し直すように、お決めになられました。
政務機関の政所
 長官の別当に前因幡守平朝臣広元
 次官の令に主計允藤原行政
 三等官の案主に藤井俊長〔鎌田新藤次〕
 事務官知家事に中原光家〔岩手小中太〕
裁判所の問注所
 筆頭の執事に中宮大夫属三善康信法師〔出家名善信〕
軍事警察の侍所
 長官に左衛門少尉平朝臣和田太郎義盛〔治承四年(1180)十一月にこの職につきました〕
 次官の所司に平景時〔梶原平三〕
公務執行担当の公事奉行人は、
 
前掃部頭藤原朝臣親能 筑後権守同朝臣俊兼
 前隼人佑三善朝臣康清 文章生同朝臣宣衡
 民部丞平朝臣盛時   左京進中原朝臣仲業
 前豊前介清原真人実俊
京都駐在支配人兼取次ぎ
 右兵衛督〔一条能保卿〕
九州監督官
 内舎人藤原朝臣遠景〔天野藤内左衛門尉と云います〕

説明ここでは、今までは頼朝対家人の個人的主従関係だったが、右大将家としての家人とした。

建久二年(1191)正月大十七日丙寅。民部丞盛時。武藤二郎資頼等。奉仰遣使者於伊勢志摩兩國。又出納和泉掾國守相副之云々。是平家没官地。未被補地頭所々相交之由。依聞食及。爲巡檢之也云々。

読下し                                 みんぶのじょうもりとき むとうのじろうすけよりら  おお   たてまつ ししゃを いせ   しま りょうこく  つか
建久二年(1191)正月大十七日丙寅。民部丞盛時、武藤二郎資頼等、仰せを奉り使者於伊勢、志摩兩國へ遣はす。

また しゅつのう いずみのじょうくにもり これ  あいそ    うんぬん
又、出納 和泉掾國守 之に相副うと云々。

これへいけもっかん ち   いま  ぢとう  ぶ せられ   しょしょ あいまじ   のよし  き     め   およ    よっ    じゅんけん のためなり うんぬん
是平家没官の地、未だ地頭を補被ざる所々相交はる之由、聞こし食し及ぶに依て、巡檢@之爲也と云々。

参考@巡檢は、巡検使で、これが後に廻国使となる。

現代語建久二年(1191)正月大十七日丙寅。民部烝平盛時と武藤小次郎資頼は、頼朝様に命じられて使いを伊勢と志摩の両国へ行かせました。又、物品支出入担当の和泉国三等官の国守を一緒に行かせましたとさ。
それは、平家の領地を滅亡とともに院が取上げて頼朝様に与えた国ですが、未だに治安維持の地頭を決めていない土地が混ざっていると、聞いたので調べさせるためなんだそうだ。

建久二年(1191)正月大十八日丁夘。御家人内藤六盛家。去年春以後。令乱入于周防國遠石庄内石C水別宮領。刃傷神人友國。抑留神税。社家就訴申之。去年六月廿一日被下院宣。仍石C水權別當使者捧其状。參訴之間。院宣嚴密之上不能左右。早可令退出其所之旨。被仰下盛家許云々。親能。盛時等奉行之。雖不被究子細。及此儀。是且被重綸命。且御敬神之所致也云々。

読下し                                 ごけにん ないとうろくもりいえ  きょねん  はる いご   すおうのくに といしのしょうない いわしみずべつぐうりょうに らんにゅうせし
建久二年(1191)正月大十八日丁夘。御家人内藤六盛家@、去年の春以後、周防國 遠石庄A内 石C水別宮領于 乱入令め、

じんにん ともくに にんじょう   しんぜい  よくりゅう   しゃけ これ  うった  もう    つ    きょねんろくがつにじういちにち いんぜん  くださる
神人B友國を刃傷し、神税を抑留す。社家之を訴へ申すCに就き、 去年六月廿一日 院宣を下被る。

よっ  いわしみずごんのべっとう ししゃ そ   じょう  ささ    さんそ のかん  いんぜん げんみつの うえ    そう   あたはず  はやばや  そ  ところ  たいしゅつせし べ  のむね
仍て石C水權別當が使者其の状を捧げD、參訴E之間、院宣嚴密之上Fは、左右に不能、 早と 其の所を退出令む可し之旨、

もりいえ  もと  おお  くださる    うんぬん  ちかよし  もりときら これ  ぶぎょう    しさい  きは  られず  いへど   かく  ぎ   およ
盛家が許に仰せ下被ると云々。親能、盛時等之を奉行す。子細を究め被不と雖も、此の儀に及ぶ。

これ  かつう りんめい おも    られ  かつう ごけいしんのいた ところなり  うんぬん
是、且は綸命を重んぜ被、且は御敬神之致す所G也と云々。

参考@内藤六盛家は、内舎人藤原から内藤を名乗るようになった。
参考A周防國遠石庄は、山口県周南市遠石。
参考B
神人は、神社に使える僧兵のような侍。
参考C
訴へ申すは、後白河法皇へ訴え出た。
参考D其の状を捧げは、朝廷からの院宣を持って。
参考E
參訴は、頼朝の処へ訴えて来た。
参考F院宣嚴密之上は、院宣が出ているのだから守らなくては。
参考G御敬神之致す所は、岩清水八幡宮は頼義依頼の源氏の氏神だから。

現代語建久二年(1191)正月大十八日丁卯。御家人の内藤六盛家は、去年の春以後、周防国遠石庄(山口県周南市遠石)内にある岩清水八幡宮の領地を占領しに入って、神社からの現地管理人の友国を切って、神社への年貢を横取りしました。神社に属する現地耕作人が訴えて出たので、去年六月二十一日付けで朝廷から院の命令書をよこしました。
そこで、岩清水八幡宮長官代理が使いにその院宣を持たせて訴えてきたので、院宣には逆らえないので、とやかくなしにさっさと其処を立ち退くようにと、盛家のもとへ命令を出されました。中原親能と平民部烝盛時がこれを担当しました。
詳しい事を調べられずにこの決定になったのは、朝廷の命令を大事にするとともに、岩清水八幡宮への信心深さのためなんでしょうね。

建久二年(1191)正月大廿三日壬申。女房大進局浴恩澤。是伊達常陸入道念西息女。幕下御寵也。奉生若公之後。縡露顯。御臺所殊怨思給之間。可令在京之由。内々被仰含。仍就近國便宜。被宛伊勢國歟云々。

読下し                                にょぼうだいしんのつぼね おんたく よく    これ だてのひたちにゅうどうねんさい  そくじょ  ばっか  ごちょうなり
建久二年(1191)正月大廿三日壬申。 女房大進局 恩澤に浴す。是、伊達常陸入道念西@が息女、幕下が御寵也。

わかぎみ  う  たてまつ ののち  こと ろけん    みだいどころこと  うら  おも  たま  のあいだ ざいきょうせし べ   のよし  ないないおお ふく  らる
若公Aを生み奉る之後、縡露顯す。御臺所殊に怨み思ひ給ふ之間、在京令む可きB之由、内々仰せ含め被る。

よつ  きんごく  びんぎ   つ     いせのくに  あてらる  か   うんぬん
仍て近國Cの便宜に就き、伊勢國を宛被る歟と云々。

参考@伊達常陸入道念西は、元は伊佐時長で福島県伊達郡を貰い長男を常陸に残し移住し伊達と名乗る。子孫に隻眼の正宗。伊達系図では宗村。
参考A若公は、ご落胤で後の貞曉。この時点で既に京都へ連れて行かれている。六巻文治二年(1186)二月大廿六日条に誕生。
参考B在京令む可きは、大進局を京都へ逃がす。
参考C近國は、畿内近国と云って近畿地方を表す言葉。しかし後に鎌倉周辺の関東を近国と表現してくる。

現代語建久二年(1191)正月大二十三日壬申。幕府の女官の大進局が領地を与えられました。この人は伊達常陸入道念西伊佐時長の娘で頼朝様が可愛がっている妾です。
頼朝様の若君を生んだのですが、それがばれて御台所政子様がやきもちを焼くので、京都で暮らすようによくよく言い聞かせております。
それなので年貢事務のやりやすい京都に近い国をと、伊勢国の領地にしましたとさ。

建久二年(1191)正月大廿四日癸酉。左武衛消息參着。當時洛中無殊事云々。右馬允小野家長去年十二月卅日被解官者。是成尋法橋子息也。不蒙御吹擧。自由任官之間。父子共御氣色不快。仍可被停召名之由。被申請之故也。

読下し                                 さぶえい  しょうそこさんちゃく   とうじ らくちう こと    こと な     うんぬん
建久二年(1191)正月大廿四日癸酉。左武衛が消息參着す。當時洛中殊なる事無しと云々。

うまのじょうおののいえなが  きょねんじうにがつさんじうにち げかん さる てへ
右馬允小野家長、 去年十二月卅日 解官@被る者り。

これ  じょうじんほっきょう しそくなり   ごすいきょ  こうむらず  じゆう  にんかんのかん  おやことも みけしきこころよからず
是、成尋法橋が子息也。御吹擧を不蒙A、自由の任官B之間、父子共に御氣色不快。

よつ  めしな  と    らる  べ   のよし   しんせい さる  のゆえなり
仍て召名を停め被る可し之由、申請C被る之故也。

参考@解官は、官職を解かれる。剥奪される。
参考A
御吹擧を不蒙は、頼朝の推薦なしで。
参考B
自由任官は、勝手に任官を受けた。鎌倉政権では、重い罪になる。
参考C
申請は、頼朝が申請した。

現代語建久二年(1191)正月大二十四日癸酉。京都の一条能保の手紙が届きました。
現在京都では特に変ったことはありません。右馬允小野中条家長が去年の十二月三十日に官職を解かれたとのことです。
この人は義勝房成尋の息子です。頼朝様の推薦を受けずに勝手に官職を貰ったので、親子ともに頼朝様のご機嫌を損ねていました。それで官職を辞めさせるように、京都へ申し入れていたからです。

説明武士の任官は、名誉そのものなので、京都朝廷ではこれを餌に武士を操り、又、武士同士を対立させその力を削ぎ、朝廷の権力の保持に努めた。この罠にかかった義経は滅びた。

建久二年(1191)正月大廿八日丁丑。リ。幕下爲二所御精進。出御于由比浦。着水干。駕鴾毛馬給。小早河次郎惟平持御劔。上総介義兼。江間四郎主〔義時〕已下扈從及五十人。令浴潮給後。被改着御淨衣云々。

読下し                                 はれ  ばっか にしょ  ごしょうじん  ため  ゆいのうら に しゅつご  すいかん  き    つきげ   うま   が   たま
建久二年(1191)正月大廿八日丁丑。リ。幕下二所@の御精進の爲、由比浦A于出御。水干を着て、鴾毛の馬に駕し給ふ。

こばやかわのじろうこれひら  ぎょけん  も    かずさのすけよしかね えまのしろうぬし いか こしょうごじうにん  およ
小早河次郎惟平、御劔を持つ。上総介義兼。江間四郎主已下扈從五十人に及ぶ。

うしお よくせし  たま    のち  ごじょうい  あらた  きられ    うんぬん
潮を浴令めB給ふの後、御淨衣Cに改め着被ると云々。

参考@二所は、二所詣でといって箱根權現と伊豆山權現の二箇所に詣でる。必ず三島神社にも詣でる。皆、頼朝が平家討伐を祈願した神社。
参考A由比浦は、鎌倉市由比ガ浜2丁目3地先の発掘された大鳥居跡の辺りまで浦が入っていたものと思われる。
参考B潮を浴令めは、海水で沐浴し身を清めるが、イザナギ以来上の潮で三回、中の潮で三回、下の潮で三回身を洗う。
参考C淨衣は、白い参拝用の着物。

現代語建久二年(1191)正月大二十八日丁丑。晴れです。頼朝様は、箱根権現と伊豆山権現へ詣でる二所詣での身を清めるために、由比の浦へお出ましです。
水干を着てつきげに乗馬です。小早川次郎惟平が太刀持ちでです。足利上総介義兼や江間四郎義時様以下のお供は五十人もいました。
海水で身を清めた後、白い清浄な着物に着替えられましたとさ。

二月へ

吾妻鏡入門第十一巻   

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