吾妻鏡入門第十一巻   

建久二年(1191)辛亥三月小

建久二年(1191)三月小三日辛亥。霽。鶴岳宮法會。有童舞十人〔箱根。垂髪〕又臨時祭。馬長十騎。流鏑馬十六騎。相撲十六番。幕下御參宮。越後守。伊豆守。江間殿。小山左衛門尉。同七郎。三浦介。畠山二郎。和田左衛門尉。三浦左衛門尉。伊東四郎。葛西兵衛尉已下候御共。晩景事訖。還御之後供奉人等未退出。各候侍所。其中有廣田次郎邦房者。語傍輩云。明日鎌倉大火災出來。若宮幕府殆不可免其難云々。是大和守維業男也。然者。継家業者。雖有儒道之号。難得天眼歟之由。人咲之云々。  

読下し                                  はれ  つるがおかぐう ほうえ  わらわまいじうにんあ     〔はこね すいはつ〕
建久二年(1191)三月小三日辛亥。霽。鶴岳宮の法會。童舞十人有り。〔箱根の垂髪〕

また りんじさい  うまおさ  じっき   やぶさめ じうろっき   すまい じうろくばん
又臨時祭。馬長@十騎。流鏑馬十六騎。相撲十六番。

ばっか  ごさんぐう  えちごのかみ いずのかみ  えまどの   おやまのさえもんのじょう おなじきしちろう みうらのすけ はたけやまのじろう わだのさえもんのじょう
幕下A御參宮。越後守、伊豆守、江間殿、小山左衛門尉、 同七郎、 三浦介、 畠山二郎、 和田左衛門尉、

みうらのさえもんのじょう いとうのしろう  かさいのひょうえのじょう いか おんとも そうら
三浦左衛門尉、伊東四郎、葛西兵衛尉 已下御共に候う。

ばんけい ことをはんぬ かんごの のち ぐぶにんら いま  たいしゅつ    おのおのさむらいどころ そうら
晩景に事訖。 還御之後供奉人等未だ退出せず。 各 侍所に候う。

そ   なか  ひろたのじろうくにふさ      ものあ     ぼうはい  かた    い
其の中に廣田次郎邦房という者有り。傍輩に語りて云はく。

みょうにちかまくら だいかさい い  きた    わかみや  ばくふ ほと    そ  なん  のが  べからず  うんぬん
明日鎌倉に大火災出で來る。若宮、幕府殆んど其の難を免る不可と云々。

これやまとのこれなり おとこなり しからずんば かぎょう つ  ば   じゅどうのごう あ    いへど   てんがん  え がた  か のよし  ひとこれ  わら   うんぬん
是大和守維業が男也。然者、家業を継が者、儒道之号有ると雖も、天眼を得難き歟之由、人之を咲うと云々。

参考@馬長は、岩手県の〔ちゃぐちゃぐ馬っこ〕の様に飾り立てた馬。
参考A幕下は、近衛大将または将軍の唐名で、ここでは〔頼朝〕。

現代語建久二年(1191)三月小三日辛亥。晴れました。鶴岡八幡宮の重三の節句(上巳の節句)の法事を行いました。
舞を舞う稚児は十人〔箱根権現の稚児〕です。同様に臨時のお祭で、飾り馬が十頭、流鏑馬が十六騎手、相撲が十六番を奉納しました。
頼朝様もお参りをしました。越後守安田義資、伊豆守山名義範、北条江間義時、小山左衛門尉朝政、小山七郎朝光、三浦介義澄、和田左衛門尉義盛、三浦左衛門尉佐原義連、伊藤四郎家光、葛西兵衛尉清重以下がお供に従いました。夕方に行事は終わりました。
御所へ戻ってもお供の人達は立ち去らずに、控えの侍所に居ました。その中に広田次郎邦房と云う者が、そばの同僚に話して聞かせました。「明日、鎌倉で大火事があるだろう。八幡宮も幕府の御所もその災難を逃れることは出来ないだろう。」だとさ。
この人は大和守広田維業の息子です。それなので家業を継いで、儒学の道に通じているとの名は通っているけれども、まさか未来を予言する神様の目はもてないだろうと、人は馬鹿にして笑いましたとさ。

建久二年(1191)三月小四日壬子。陰。南風烈。丑剋小町大路邊失火。江間殿。相摸守。村上判官代。比企右衛門尉。同藤内。佐々木三郎。昌寛法橋。新田四郎。工藤小次郎。佐貫四郎已下人屋十宇燒亡。餘炎如飛而移于鶴岡馬塲本之塔婆。此間幕府同災。則亦若宮神殿廻廊經所等悉以化灰燼。供僧宿房等少々同不遁此災云々。凡邦房之言如指掌歟。寅剋。入御藤九郎盛長甘縄宅。依炎上事也。  

読下し                                  くもり    なんぷうはげ   うしのこく  こまちおおじへん    しっか
建久二年(1191)三月小四日壬子。陰。南風烈し。丑尅、小町大路邊から失火す。

 えまどの  さがみのかみ むらかみほうがんだい ひきうえもんのじょう  おな   とうない  ささきのさぶろう   しょうかんほっきょう  にたんのしろう  くどうのこじろう
江間殿、相摸守、村上判官代、比企右衛門尉、同じく藤内、佐々木三郎、昌寛法橋、仁田四郎、工藤小次郎、

さぬきのしろう いか   じんおくすうじゅううしょうぼう   よえん と     ごと    て  つるがおかのばばもと の とうば に うつ
佐貫四郎巳下の人屋數十宇燒亡す。餘炎飛ぶが如くし而、鶴岳馬場本@之塔婆A于移る。

こ   かん  ばくふおな   わざわい すなは また わかみやしんでんかいろうきょうじょらことごと もっ かいじん か
此の間、幕府同じく災す。則ち亦、若宮神殿 廻廊經所等 悉く以て灰燼と化す。

ぐそう  しゅくぼうらしょうしょうおな   こ  わざわい のが ず  うんぬん  およ くにふさのことば  たなごころ さ   ごと  か
供僧の宿坊等少々同じく此の災を遁れ不と云々。凡そ邦房之言、 掌を 指すが如き歟。

とらのこく とうくろうもりなが あまなわたく  にゅうご    えんじょう  こと  よっ  なり
寅尅藤九郎盛長の甘繩宅に入御す。炎上の事に依て也。

参考@鶴岡馬塲本は、八幡宮西側の今の道路と住宅あたり。
参考A
塔婆は、文治五年に建立した三重塔と思われる。この火事で、幕府及び八幡宮は、全焼。御坊は一部が焼失したようである。

現代語建久二年(1191)三月小四日壬子。曇り。南風が激しい日でした。日付が変わって直ぐの丑の刻午前二時頃に小町大路の辺りから出火です。江間北条義時殿、相模守大内惟義、判官代村上基国、比企右衛門尉能員、同じ比企藤内朝宗、佐々木三郎盛綱、一品房昌寛法橋、新田四郎忠常、工藤小次郎行光、佐貫四郎広綱の家を始め、民家数十軒が燃えてしまいました。その火の粉が飛んで、鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の五重塔に燃え移りました。
この火事で幕府も同様に燃えてしまいました。たちまち八幡宮の神殿も回廊も経堂も全てことごとく焼失してしまいました。八幡宮の北西奥の坊さん達の宿坊も若干は、同様にこの延焼を逃れられませんでした。昨晩の
広田次郎邦房の言葉の云うとおりでした。
寅の刻午前四時頃に(頼朝様たちは)藤九郎盛長の甘縄の家へ入られました。火事から逃れるためです。

建久二年(1191)三月小五日癸丑。依炎上事。近國御家人等參集。相摸澁谷庄司。武藏毛呂豊後守。最前馳參云々。

読下し                     えんじょう こと  よつ    きんごく   ごけにんら さんしゅう
建久二年(1191)三月小五日癸丑。炎上の事に依て、近國@の御家人等參集す。

さがみ  しぶやのしょうじ  むさし   もろのぶんごのかみ  さいぜん  は  さん    うんぬん
相摸は澁谷庄司A、武藏は毛呂豊後守B、最前に馳せ參ずと云々。

参考@近國は、今までは畿内近国と云って、関西を表していたが、書かれたのが鎌倉末期なので鎌倉周辺を近国と云っている。
参考A
澁谷庄司は、澁谷庄司重國で小田急江ノ島線高座渋谷。
参考B
毛呂豊後守は、毛呂季光で源氏一族の御門葉で埼玉県入間郡毛呂山町。

現代語建久二年(1191)三月小五日癸丑。鎌倉の火事を知って近い領地の御家人達が集って来ました。
相模国では渋谷庄司重国が、武蔵国では毛呂豊後守季光が、それぞれ一番先に駆けつけましたとさ。

建久二年(1191)三月小六日甲寅。若宮火災事。幕下殊歎息給。仍參鶴岳。纔拝礎石。御涕泣歟。則渡御別當房。被仰含新營間事云々〕戌剋。大地震。〔帝釈動〕頗吉瑞也云々。

読下し                      わかみやかさい  こと  ばっか こと  たんそく  たま   よつ  つるがおか まい   わづか そせき  おが  ごていきゅうか
建久二年(1191)三月小六日甲寅。若宮火災の事、幕下殊に歎息し給ふ。仍て鶴岳へ參り、纔に礎石を拝み御涕泣歟。

すなは べっとうぼう  とぎょ     しんえい  かん  こと  おお  ふく  らる   うんぬん    いぬのこく おおじしん 〔たいしゃくどう〕すこぶ きちずいなり うんぬん
則ち別當房へ渡御し、新營の間の事を仰せ含め被ると云々。」戌剋。大地震〔帝釈動〕頗る吉瑞也と云々。

現代語建久二年(1191)三月小六日甲寅。鶴岡八幡宮の火事では、頼朝様は特にがっかりしました。
鶴岡へお参りに行かれましたが、わずかに残っている礎石を拝まれて涙をこぼしておられたようです。すぐに筆頭僧の宿坊へ行かれて、建て直しの要領などを申し付けられましたとさ。
話し変って、戌の刻午後八時頃に大地震がありました〔帝釈天の思し召しです〕。とても縁起の良い前兆だそうです。

建久二年(1191)三月小八日丙辰。若宮假寶殿造營事始也。行政。頼平奉行之。幕下監臨給云々。

読下し                     わかみや かりほうでんぞうえい ことはじめなり ゆきまさ  よりひらこれ  ぶぎょう    ばっか かんりん  たま   うんぬん
建久二年(1191)三月小八日丙辰。若宮の假寶殿造營の事始也。行政、頼平之を奉行す。幕下監臨し給ふと云々。

現代語建久二年(1191)三月小八日丙辰。八幡宮の仮の神殿建築の事業始め式です。藤原二階堂行政と武藤頼平が担当です。頼朝様も立ち会いましたとさ。

建久二年(1191)三月小十三日辛酉。快霽。入夜。若宮假殿遷宮。別當法眼并供僧及巫女職掌等皆參。隨兵百餘人。兼固宮四面。義盛。景時。盛長等奉行之。御出間佐貫大夫役御釼。愛甲三郎懸御調度。河匂七郎着御甲。所雜色基繁。源判官代高重等取松明候御前。  

読下し                         かいせい  よ   い    わかみやかりでん せんぐう  べっとうほうげんなら   ぐそう およ   みこ  しきしょうらみなさん
建久二年(1191)三月小十三日辛酉。快霽。夜に入り。若宮假殿へ遷宮。別當法眼并びに供僧及び巫女、職掌等皆參ず。

ずいへいひゃくよにん かね  みや  しめん  かこ    よしもり  かげとき  もりながら これ ぶぎょう    ぎょしゅつ かん さぬきのだいぶ ぎょけん  えき
隨兵 百餘人、兼て宮の四面を固む。義盛、景時、盛長等之を奉行す。御出の間 佐貫大夫 御釼を役す。

あいきょうのさぶろうごちょうど か      さかわのしちろうおんよろい き    ところのぞうしきもとしげ みなもとのほうがんだいたかしげら たいまつ と   ごぜん  そうら
愛甲三郎御調度を懸ける。酒匂七郎 御甲を着る。 所雜色基繁、 源判官代高重 等 松明を取り御前に候う。

現代語建久二年(1191)三月小十三日辛酉。快晴になりました。夜になって、八幡宮神の仮の神殿への移転です。八幡宮長官とお供の坊さん達と巫女さんや楽団の人々みんなが参りました。
武装の警備兵が百人以上で八幡宮の四方を囲みました。和田義盛(侍所長官)梶原景時(侍所次官)藤九郎安達盛長がこの指揮を取りました。
頼朝様のお出ましには、佐貫四郎広綱が太刀持ちで、愛甲三郎季隆が弓矢を肩に懸け、酒匂七郎が頼朝様の鎧を着けてます。所雑色基繁や安房判官代源高重が松明を持って頼朝様の露払いをしました。

建久二年(1191)三月小廿日戊辰。大理〔能保卿〕使者參着。是依被申炎上事也。

読下し                       だいり  〔よしやすきょう〕  ししゃさんちゃく    これえんじょう こと  もうさる    よつ  なり
建久二年(1191)三月小廿日戊辰。大理@〔能保卿〕が使者參着す。是炎上の事を申被るAに依て也。

参考@大理は、檢非違使別当の唐名。
参考A
炎上の事を申被さるは、火事見舞い。

現代語建久二年(1191)三月小二十日戊辰。京都朝廷の警察庁検非違使の長官〔一条能保〕の使いが到着しました。これは、火事見舞いを云いに来たのです。

建久二年(1191)三月小廿七日乙亥。リ。若宮假經所始。供僧等參入。故以有讀經之儀云々。

読下し                         はれ わかみや かりきょうしょはじ  ぐそうらさんにゅう    ことさら もつ  どっきょうのぎ あ    うんぬん
建久二年(1191)三月小廿七日乙亥。リ。若宮の假經所始め。供僧等參入す。故に以て讀經之儀有りと云々。

現代語建久二年(1191)三月小二十七日乙亥。晴れです。八幡宮の仮の建物ににお経を納める儀式です。所属の坊さん達が入って行きました。
火事があったので特にお経を読み唱える式をやりましたとさ。

四月へ

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