吾妻鏡入門第十一巻   

建久二年(1191)辛亥四月大

建久二年(1191)四月大三日庚辰。鶴岳臨時祭如例。今日幕府事始。依去月火事也。盛時俊兼奉行之。

読下し                              つるがおか りんじさいれい  ごと    きょう ばくふ  ことはじめ  さぬ つき   かじ   よつ  なり
建久二年(1191)四月大三日庚辰。鶴岳の臨時祭例の如し。今日幕府の事始。去る月の火事に依て也。

もりとき  としかねこれ  ぶぎょう
盛時、俊兼之を奉行す。

現代語建久二年(1191)四月大三日庚辰。鶴岡八幡宮の臨時の祭りは何時もの通りです。
今日、幕府の御用始式です。先月の火事で燃えてしまったからです。平民部烝盛時と筑後権守藤原俊兼が担当しました。

建久二年(1191)四月大五日壬午。大理〔能保卿〕并廣元朝臣等飛脚參着。各被献書状。去月比。佐々木小太郎兵衛尉定重。於近江國彼庄。刃傷日吉社宮仕法師等。仍山徒蜂起。所司捧奏状參洛。可賜定重身之由申之。又可差進延暦寺所司等於關東之由風聞。朝家大事。忽然出來之。其濫觴。近江國佐々木庄者。延暦寺千僧供領也。去年有水損之愁。乃貢太闕乏間。云定綱〔定重父〕云土民。無所于欲沙汰送之。仍衆徒等去月下旬。差遣日吉社宮仕等。捧日吉神鏡。乱入定綱之宅。叩門戸。破城壁。譴責家中男女。頗及恥辱。于時定重不堪一旦忿怒。令郎從等刃傷宮仕等一兩人。此間誤破損神鏡云々。

読下し                               だいり  〔よしやすきょう〕 なら     ひろもとあそんら   ひきゃく さんちゃく おのおの しょじょう けん  らる
建久二年(1191)四月大五日壬午。大理@〔能保卿〕并びに廣元朝臣等が飛脚參着す。各、書状を献ぜ被る。

さんぬ つき  ころ  ささきのこたろうひょうえのじょうさだしげ  おうみのくに  か   しょう  をい    ひえしゃ みやじ ほっし ら   にんじょう
去る月の比、佐々木小太郎兵衛尉定重、近江國の彼の庄に於て、日吉社宮仕A法師B等を刃傷す。

よつ  さんと ほうき     しょし そうじょう ささ  さんらく    さだしげ  み   たま    べ    のよし  これ  もう
仍て山徒蜂起し、所司奏状を捧げ參洛し、定重が身を賜はる可し之由、之を申す。

また  えんりゃくじ  しょし ら を かんとう  さ   すす  べ   のよしふうぶん   ちょうけ  だいじ   こつぜん  これ い  きた
又、延暦寺の所司等於關東へ差し進む可し之由風聞す。朝家の大事、忽然に之出で來る。

そ   らんしょう   おうみのくに ささきのしょうは  えんりゃくじ せんぞうぐりょうなり  きょねんすいそんのうれいあ
其の濫觴は、近江國佐々木庄者、延暦寺千僧供領C也。去年水損之愁有り。

のうぐ はなは けつぼう かん  さだつな 〔さだしげ  ちち〕  い      どみん  い     これ   さた   おく      ほつ    に ところなし
乃貢太だ闕乏の間、定綱〔定重が父〕と云ひ、土民と云ひ、之を沙汰し送らんと欲する于所無。

よつ  しゅうとら さんぬ つき  げじゅん    ひえしゃ みやじ ら  さ   つか       ひえ   しんきょう ささ    さだつなの たく  らんにゅう
仍て衆徒等去る月の下旬に、日吉社宮仕等を差し遣はし、日吉の神鏡を捧げ、定綱之宅へ乱入し、

もんこ   たた    じょうえき  やぶ   いえじゅう だんじょ  けんせき    すこぶ ちじょく  およ
門戸を叩き、城壁を破り、家中の男女を譴責Dし、頗る恥辱に及ぶ。

ときに さだしげいったん  ふんぬ  たえず  ろうじゅうら せし  ぐうじ ら いちりょうにん  にんじょう   こ   かんあやま  しんきょう はそん    うんぬん
時于定重一旦の忿怒に不堪、郎從等を令め宮仕等一兩人Eを刃傷す。此の間誤りて神鏡を破損すと云々。

参考@大理は、検非違使別当の唐名。ここでは一条能保。
参考A
宮仕は、神社に仕える僧兵のような者。
参考B法師は、大衆とも言われる僧兵。
参考C佐々木庄者、延暦寺千僧供領也は、佐々木の荘は延暦寺が荘園領主(本所)である。
参考D
譴責は、厳しく咎めだてをする。
参考
E一兩人は、二人。

現代語建久二年(1191)四月大五日壬午。京都朝廷の警察庁「検非違使」の長官〔一条能保〕と大江広元の伝令が着きました。それぞれ手紙を持ってきたのです。
先月、佐々木小太郎兵衛尉定重が、近江の佐々木の庄で、日吉神社の下男の僧「宮仕法師」を斬りました。それなので、比叡山の僧達は武装蜂起して、執行部の役僧が朝廷への訴えの手紙を捧げて京都へ繰り出して、定重の身柄を引き渡すように申し出ました。
又、延暦寺からは執行部の役僧を関東へ送ってくるとの噂が流れました。京都朝廷にとって一大事が勃発しました。
その原因は、近江国の佐々木庄は、延暦寺の千人の坊さんが供養会をする年貢の領地なのです。去年は水害にあって、納税品の米が不足してしまったので、地頭の佐々木太郎定綱〔定重の父〕だって、農民だって納税したくても飢饉なので手の付けようがありませんでした。納付が無いので、僧達が先月下旬に日吉神社の下男を派遣しました。下男たちは日吉神社の神様である鏡を捧げ持って、佐々木定綱の屋敷へ乱入しました。門や扉を叩いて、塀を壊して、家中の男女を厳しく咎めたてて、大変侮辱を与えました。
その時、定重は怒りに耐えかねて、家来達に神社の下男を二人ばかり切りつけさせました。そしたら、そのはずみで誤って鏡を割ってしまったんだそうだ。

建久二年(1191)四月大六日癸未。佐々木三郎。同五郎等赴近江國。是爲訪定綱也。

読下し                               ささきのさぶろう   おな    ごろう ら おうみのくに  おもむ  これ  さだつな とぶら   ためなり
建久二年(1191)四月大六日癸未。佐々木三郎、同じき五郎@等近江國へ赴く。是、定綱を訪わん爲也。

参考@五郎は、佐々木五郎義Cで定綱、經高、盛綱、高綱等四兄弟の母違いの弟。(母は渋谷重国の女)

現代語建久二年(1191)四月大六日癸未。佐々木三郎盛綱と佐々木五郎義清は、近江国へ出かけました。これは、長兄の佐々木太郎定綱を見舞うためです。

建久二年(1191)四月大八日乙酉。南御堂佛生會也。爲御禮佛。幕下并御臺所若公等御參。

読下し                              みなみみどう ぶっしょうえなり  ごれいぶつ  ため  ばっか なら    みだいどころ わかぎみら ぎょさん
建久二年(1191)四月大八日乙酉。南御堂の佛生會也。御禮佛の爲、幕下并びに御臺所、若公等御參す。

現代語建久二年(1191)四月大八日乙酉。南御堂勝長寿院で、お釈迦様生誕の法要(はなまつり)です。
仏像に拝むために、頼朝様と奥様の政子様、若君万寿がお参りにきました。

建久二年(1191)四月大九日丙戌。佐竹別當自常陸國參上。今日於營中献盃酒。幕下雖有御入興之氣。山門騒動事。依思食惱。不及數献之儀云々。

読下し                              さたけのべっとう  ひたちのくによ  さんじょう   きょう えいちゅう をい  はいしゅ  けん
建久二年(1191)四月大九日丙戌。佐竹別當@、常陸國自り參上す。今日營中に於て盃酒を献ず。

ばっか   ごにゅうきょうのけ あ    いへど   さんもん  そうどう  こと  おぼ  め   なや    よつ    すうこんの ぎ  およばず  うんぬん
幕下、御入興之氣有ると雖も、山門の騒動の事、思し食し惱むに依て、數献之儀に不及と云々。

現代語建久二年(1191)四月大九日丙戌。佐竹別当義季が、常陸(茨城県常陸太田市)から出てきました。
今日、御所の中でお酒を献上し宴会をしました。頼朝様は気が乗って楽しみたいところですが、佐々木の問題で比叡山が騒いでいることをお気になされて、盃を重ねる気にはなれませんでしたとさ。

参考@佐竹別當は、佐竹蔵人義季隆義の弟で五郎。頼朝の門客に列せられるが、奇怪な行動により7巻文治33月21日駿河へ配流されたりした

建久二年(1191)四月大十一日戊子。定綱逐電佐々木庄之由有其聞。就之有被凝群議事云々。定參向關東由。幕下被仰云々。

読下し                                 さだつな ささきのしょう  ちくてん     のよし  そ   きこ  あ
建久二年(1191)四月大十一日戊子。定綱、佐々木庄を逐電する之由、其の聞へ有り。

これ  つ   ぐんぎ   こらさる  こと あ    うんぬん  さだ    かんとう  さんこう      よし  ばっか おお  らる    うんぬん
之に就き群議を凝被る事有りと云々。定めて關東へ參向するの由、幕下仰せ被ると云々。

現代語建久二年(1191)四月大十一日戊子。佐々木定綱が、佐々木の庄から消えてしまったと噂が伝わりました。
このことについて相談しあったそうです。「恐らく関東へ来るつもりであろう」と頼朝様はおっしゃられましたとさ。

建久二年(1191)四月大十五日壬辰。天霽。鶴岳宮寺始結安居。

読下し                                てんはれ  つるがおかぐうじ はじ    あんご   むす
建久二年(1191)四月大十五日壬辰。天霽。鶴岳宮寺、始めて安居@を結ぶ。

参考@安居は、夏安居(げあんご)と云って、4月15日から三ヶ月外出せずに修行をする。元は釈迦がジャイナ教からの影響(雨季は歩くと足の下の多くの虫を殺すから出歩かない)で雨季の三ヶ月間は托鉢を止め、部屋に閉じこもるのを雨安居(うあんご)と云った。それが、中国へ伝わり雨季が無いので同季節の暑い夏にしたので夏安居という。

現代語建久二年(1191)四月大十五日壬辰。空は晴れました。鶴岡八幡宮寺で、初めて部屋に閉じこもり修行をする安居(あんご)を始めました。

建久二年(1191)四月大十六日癸巳。梶原平三景時爲使節上洛。是延暦寺衆徒可申請定重黨類之由。及強訴之間。罪科無所遁者。早可被行其科之旨。依被奏聞也。又所司可參向之由風聞之間。遮而如此云々。

読下し                                かじわらのへいざかげとき しせつ  な   じょうらく
建久二年(1191)四月大十六日癸巳。梶原平三景時、使節と爲し上洛す。

これ  えんりゃくじしゅうと  さだしげとうるい  もう  う    べ    のよし  ごうそ   およ  のかん
是、延暦寺衆徒、定重黨類を申し請く可し之由、強訴に及ぶ之間、

ざいか のが   ところなしてへ     はや  そ   とが  おこなわるべ  のむね  そうもんさる    よつ  なり
罪科遁るる所無者れば、早く其の科に行被可し@之旨、奏聞被るに依て也。

また  しょし さんこう  べ   のよし  ふうぶんの かん  さへぎってかく ごと    うんぬん
又、所司參向す可し之由、風聞之間、遮而此の如しと云々。

参考@其の科に行被可しは、一命を助けるための罪科にしてもらえば、衆徒に引き渡さずにすむ。

現代語建久二年(1191)四月大十六日癸巳。梶原平三景時が派遣員として京都へ上ります。
これは、延暦寺の僧達が、佐々木定重とその仲間をよこせと、無理やり京都朝廷へ訴え出ました。その罪は逃れることが出来そうもないので、早くその罪状を決めるように、朝廷へ申し出るためです。
又、
延暦寺から寺務の役僧を関東へよこすとの噂が入ったので、先手を打ってこのような処理となったそうです。

建久二年(1191)四月大廿六日癸夘。天霽風靜。鶴岡若宮上之地。始爲奉勸請八幡宮。被營作寳殿。今日上棟也。奉行行政云々。幕下御參。今日。後藤兵衛尉基C爲使節上洛。依定綱定重事。山門之訴更難休。殆申可被行定重於斬罪之由云々。飛脚連々到來之間。重及此儀。先度於言上給之趣者。已達叡聞。就之内々雖被宥仰。衆徒更不靜謐云々。然者。若無左右及梟罪者。景時私令懇望于衆徒。佐々木庄已下定綱知行所半分。限未來際。可奉附山門之趣。可問答之由。被仰遣云々。

読下し                                そらはれかぜしずか つるがおかわかみや うえの ち    はじ    はちまんぐう かんじょう たてまつ ため
建久二年(1191)四月大廿六日癸夘。 天霽風靜。 鶴岡若宮の 上之地に、始めて八幡宮を勸請し奉らん爲、

ほうでん  えいさくさる
寳殿を營作被る。

きょう じょうとうなり  ぶぎょう  ゆきまさ  うんぬん  ばっか ぎょさん
今日上棟也。奉行は行政と云々。幕下御參す。」

きょう   ごとうひょうえのじょうもときよ しせつ  な  じょうらく    さだつな  さだしげ  こと  よつ    さんもんのうった  さら  やす  がた
今日、後藤兵衛尉基C使節と爲し上洛す。定綱、定重が事に依て、山門之訴へ更に休み難し。

ほと    さだしげを ざんざい  おこなはるべ  のよし  もう    うんぬん  ひきゃくれんれん とうらいのかん  かさ    かく  ぎ   およ
殆んど定重於斬罪に行被可し之由を申すと云々。飛脚連々に到來之間、重ねて此の儀に及ぶ。

せんど ごんじょう たま のおもむき をい は   すで  えいもん  たつ    これ つ   ないない  なだ  おお  らる    いへど   しゅうとさら  せいひつせず うんぬん
先度言上し給ふ之趣に於て者、已に叡聞に達す。之に就き内々に宥め仰せ被ると雖も、衆徒更に靜謐不と云々。

しからば  も   とこう な   きゅうざい およ  ば  かげとき  し  しゅうとにこんもうせし    ささきのしょう いげ   さだつな ちぎょうしょ はんぶん
然者、若し左右無く梟罪に及ば者、景時私に衆徒于懇望令め、佐々木庄已下の定綱が知行所の半分を、

 みらいさい  かぎ    さんもん  ふ たてまつ べ のおもむき もんどう  べ    のよし  おお  つか  さる    うんぬん
未來際を限り@、山門に附し奉る可し之趣、問答す可し之由、仰せ遣は被ると云々。

参考@未來際を限りは、未来の際(きわ・はて)までなので、永久にの意味。

現代語建久二年(1191)四月大二十六日癸卯。空は晴れて風も静かです。鶴岡八幡宮の上の場所に、初めて八幡宮を祀るために、神殿を造営します。
今日は、その上棟式です。指揮担当は藤原行政です。頼朝様も出席なされました。
話し変って今日、後藤兵衛尉基清が派遣員として京都へ上ります。佐々木定綱と定重のことで、比叡山の訴えは止みそうも有りません。どうしても定重を死刑にするようにと申し入れてきているそうです。その情報伝令が次々と来るので、梶原景時に続いて行かせるのです。
前回、申し入れたことは、既に院のお耳に入っています。この事で、内々に比叡山をなだめておられますが、僧達は全くおさまらないそうです。それならば、若しもとやかく無しに晒し首にしてしまったならば、梶原景時が個人的に僧達に頼んで、佐々木庄を始めとする佐々木定綱が治める領地の半分を、永遠に比叡山へ寄附しても良いと話し合ってみるように、仰せ付けるためです。

建久二年(1191)四月大廿七日甲辰。相摸國生澤直下社神主C包。与地頭土屋三郎。於御前遂一决。是C包爲地頭被切取社内桑之由所訴申也。土屋一旦雖論申。可停止旨被仰訖。行政奉行之。於御前對决事雖不輙。依爲神社事如此云々。

読下し                                 さがみのくにいくさわなおもとしゃ  かんぬしきよかね  じとうつちやのさぶろうと   ごぜん  をい  いっけつ  と
建久二年(1191)四月大廿七日甲辰。相摸國 生澤直下社@の神主C包、地頭土屋三郎与、御前に於て一决を遂ぐ。

これ  きよかね じとう  ため  しゃない  くわ  き   と られ   のよし  うった もう ところなり
是、C包地頭の爲に社内の桑を切り取被るA之由、訴へ申す所也。

つちや いったん  ろん  もう    いへど   ちょうじすべ  むねおお られをはんぬ
土屋一旦は論じ申すと雖も、停止可し旨仰せ被訖。

ゆきまさこれ  ぶぎょう    ごぜん  をい  たいけつ こと たやすからず いへど じんじゃ ことたる  よつ  かく  ごと    うんぬん
行政之を奉行す。御前に於て對决の事、輙不と雖も、神社の事爲に依て此の如しと云々。

参考@生澤直下社は、神奈川県中郡大磯町生沢の鷹取山山頂の鷹取神社。平塚市土屋の南。
参考A桑を切り取るは、当時の蚕の飼育は、葉を取ってきて食わせるのではなく、木にたからせて飼育するので、木を切ることは蚕を持っていかれてしまう。

現代語建久二年(1191)四月大二十七日甲辰。相模国生沢神社の神主の清包が、地頭の土屋三郎宗遠と、頼朝様の御前対決をしました。
この起訴内容は、清包が地頭のために神社敷地内の桑の木を切り取られてしまったと訴えております。
土屋宗遠は一度は反論しましたが、頼朝様は止めるように仰せられました。
藤原行政に担当させ、頼朝様の御前での対決なので、判決は簡単にはつけるものではないが、神様の領地の事なので、このようにしましたとさ。

建久二年(1191)四月大卅日丁未。雨降。延暦寺所司弁勝。義範等參着。先徘徊横大路〔營南門前〕申事由。仍點基C之家。被招入彼二人。先賜酒肴。次遣俊兼。盛時等。令問答給。献上衆徒状。可給定綱父子身之由所載之也。亦彼父子之外。稱下手人。注進交名。是去三月於佐々木庄。凌轢山門使。其張本之所謂。堀池八郎實員法師。井伊六郎直綱。岸本十郎遠綱。源七眞延。源太三郎遠定等也。而無召渡其身於敵讎例之由。仰及再三云々。

読下し                              あめふる  えんりゃくじしょしべんしょう ぎはんらさんちゃく
建久二年(1191)四月大卅日丁未。雨降。延暦寺所司弁勝、義範等參着す。

ま   よこおおじ  〔えい みなみもんまえ〕   はいかい  こと  よし  もう
先ず横大路〔營の南門前〕を徘徊し事の由を申す。

よつ  もときよの いえ  てん    か   ふたり  まね  い   らる    ま   しゅこう  たまは
仍て基C之家を點じ、彼の二人を招き入れ被る。先ず酒肴を賜る。

つい  としかね  もりときら   つか      もんどうせし  たま
次で俊兼、盛時等を遣はし、問答令め給ふ。

しゅうとじょう けんじょう   さだつなおやこ  み  たま  べ   のよし  これ  のせ ところなり
衆徒状を献上す。定綱父子の身を給ふ可し之由、之を載る所也。

また  か   おやこの ほか  げしゅにん しょう  きょうみょう ちう  すす
亦、彼の父子之外、下手人と稱し、交名を注し進む。

これ  さんぬ さんがつ ささきのしょう をい    さんもん  つか   りょうりゃく
是、去る三月佐々木庄に於て、山門の使いを凌轢す。

そ  ちょうほんのいはゆる  ほりいけのはちろうさねかずはっし いいのろくろうなおつな きしもとのじうろうとおつな げんしちまさのぶ  げんたさぶろうとおさだら なり
其の張本之所謂、 堀池八郎實員法師、 井伊六郎直綱、 岸本十郎遠綱、 源七眞延、 源太三郎遠定等也。

しか    そ   み を てきしう  めしわた   れい な   のよし  おお  さいさん  およ    うんぬん
而るに其の身於敵讎に召渡すの例無き之由、仰せ再三に及ぶと云々。

現代語建久二年(1191)四月大三十日丁未。雨が降ってます。
延暦寺の
寺務の役僧弁勝と義範が鎌倉へ着きました。先ず横大路〔御所の南門前〕を訪ね歩き事情を云いました。
そこで、後藤基Cの家を指定して、その二人を呼び込みました。先ず酒や肴を振る舞い、次ぎに筑後権守俊兼と平民部烝盛時を行かせて話し合いをさせました。
僧達は手紙を出しました。それには、佐々木定綱親子の身柄をよこせと書かれています。又、その親子の他にも下手人として数名の名を書いています。それは、先月佐々木の庄で比叡山の使者をいたぶったからです。その張本人として、堀池八郎実員法師、井伊六郎直綱、岸本十郎遠綱、源七真延、源太三郎遠定達であります。
しかし、その身柄を拘束し敵方に渡すような例は無いと、何度もおっしゃられておられたそうです。

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