吾妻鏡入門第十一巻   

建久二年(1191)辛亥五月大

建久二年(1191)五月大一日戊申。延暦寺所司等歸洛。賜馬二疋色々染絹三十段。又被遣御返報云々。

読下し                  えんりゃくじ  しょし ら きらく     うま にひき  いろいろそめぎぬさんじったん たま    また ごへんぽう つか  さる   うんぬん
建久二年(1191)五月大一日戊申。延暦寺の所司等歸洛す。馬二疋、色々染絹三十段を賜はる。又、御返報を遣は被ると云々。  

現代語建久二年(1191)五月大一日戊申。延暦寺の寺務の役僧達が京都へ帰ります。
馬二頭と色とりどりに染めた絹の反物三十反を与えられました。又、返事の手紙も持たせましたとさ。

建久二年(1191)五月大二日己酉。大夫尉廣元飛脚自京都參着。大理被献書状。去月廿六日。山門衆徒爲訴申左衛門尉定綱。頂戴八王子。客人。十禪師。祗園。北野等神輿。參閑院皇居之間。則有群議罪名。減死罪一等。可被處遠流云々。其趣定被 宣下歟之。又遠江守義定朝臣飛脚參申云。當時禁裏守護番也。去月廿六日神輿入洛之時。家人等及相禦。不可發鬪戰之由。頻有別當宣之間。謹愼處。家人四人。同所從三人忽爲山徒被刃傷。依仰朝威。怖神鑒。已如忘勇士之道。可殆招人之嘲歟云々。此事有其沙汰。善信。行政。俊兼。盛時等依召參上之。

読下し                  たいふのじょうひろもと ひきゃく きょうと よ さんちゃく  だいり  しょじょう けん  らる
建久二年(1191)五月大二日己酉。大夫尉廣元が飛脚京都自り參着す。大理@書状を献ぜ被る。

さんぬ つき にじうろくにち さんもん しょううと さえもんのじょうさだつな うった もう ため はちおうじ  まろうど  じうぜんじ  ぎおん  きたの ら   みこし いただ の
去る月 廿六日、 山門の衆徒 左衛門尉定綱を 訴へ申さん爲、八王子、客人、十禪師、祗園、北野等の神輿を頂き戴せ、

かんいんこうきょ まい のかん すなは ざいめい ぐんぎ あ    しざい いっとう  げん   おんる  しょせら  べ   うんぬん
閑院皇居Aへ參る之間、則ち罪名の群議有り。死罪一等を減じ、遠流に處被る可しと云々。

そ おもむき さだ   せんげさる  かのよし  また とおとうみのかみよしさだあそん ひきゃく さん もう    い      とうじ きんり しゅごばん なり
其の趣、定めて宣下被る歟之由、又、 遠江守義定朝臣が 飛脚を參じ申して云はく。當時禁裏守護番也。

さんぬ つきにじうろくにち みこしじゅらくのとき けにんら あいふさ およ  とうせん  はつ  べからずのよし しき  べつとうせん あ  のかん
去る月廿六日神輿入洛之時、家人等相禦ぎに及び、鬪戰を發す不可之由、頻りに別當宣有る之間、

きんしん   ところ  けにん よにん  おな  しょじゅうさんにん たちま さんと  ため  にんじょうされ
謹愼する處、家人四人、同じく所從三人 忽ち山徒の爲に刃傷被る。

ちょうい  あお  しんかん おそ      よつ   すで  ゆうし のみち  わす    ごと   ほと   ひと のあざけ   まね  べ  か   うんぬん
朝威を仰ぎ、神鑒を怖れるに依て、已に勇士之道を忘れる如し。殆んど人之嘲りを招く可き歟と云々。

かく  こと そ  さた  あ   ぜんしん ゆきまさ としかね もりときら めし  よつ  これさんじょう
此の事其の沙汰有り。善信、行政、俊兼、盛時等召に依て之參上す。  

参考@大理は、検非違使別当の唐名。ここでは一条能保。
参考A閑院皇居は、藤原冬嗣の邸宅。二条大路南・西洞院西の方一町の地。平安末から鎌倉中期には各天皇の里内裏(さとだいり)。1259年焼失。Goo電子辞書から

現代語建久二年(1191)五月大二日己酉。五位の檢非違使の尉の大江広元が京都から帰りつきました。検非違使長官の一条能保からの手紙を出しました。
先月二十六日に、比叡山の僧達が佐々木左衛門尉定綱の処分を訴えて、八王子・客人・十禅師・祇園・北野などの神社のみこしを担いで、里内裏へ来るので、急いで罪名を決める会議をしました。罪一等を免じて流罪にするとのことです。
その内容で、朝廷が宣下するであろうと、遠江守安田義定からも伝令が来て申し上げました。「現在、内裏の警備の番です。先月二十六日神輿が京の町中へ入ってきた時、部下たちがこれを阻止しようとして戦わないように、検非違使長官から命令があったので我慢していたところ、近親の部下四人と従者三人が、あっという間に僧達のために切られました。朝廷の命令を聞くのと、神様のたたりが怖いのとで、戦士の勇気を忘れたのと同じです。これでは人からいい笑いものになってしまいましたよ。」なんだとさ。
そこで、この事について決定が有りました。三善善信、藤原行政、平民部烝盛時たちが、呼ばれてやってきました。

建久二年(1191)五月大三日庚戌。被付 奏書於高三位〔泰經卿〕善信草之。俊兼C書也。申刻。雜色成重帶之上洛。其状云。
 言上
  事由
 右。依定綱濫行。自叡山所遣使者。所司二人。義範。弁勝。去月卅日到着。其状云。依罪科。欲預賜定綱并子息三人於衆徒中云々。此外子細。盡使者之詞。仍去一日与返報。又相遇愚意所及。答云。定綱狼逆不能左右。爭遁重科乎。隨風聞之説。即以去月十六日同廿六日可被行罪科之由。兩度達叡聞畢。任罪名被仰下歟。但存可召賜之儀者。不經言上。先令觸頼朝者。可進止之處。今付衆議召渡者。恐似輕聖断。又非有私乎。交名輩。召其身。可進 院廳也。宜令待 勅定云々。然而衆徒有註申旨者。随重状可有左右之由相存之處。以去月廿六日〔辰剋〕群參 禁闕。奉振神輿。發聲濫訴奉驚 主上〔三條不足言事也〕存此義者。不可差下使。又遣使者可待返事歟。而待計下洛之條。心与事相違。更非本意。頼朝苟以忠貞奉公。継家業守朝家。衆徒有何意趣。強廻奇謀。令待計哉。鬱望之至。啓而有餘。配流定綱。禁獄下手之由。 宣下已畢。誠是明時之彜範也。而衆徒欲背 勅裁者。本自不可經 奏達。定罪科觸頼朝者。不顧先例可行斬罪。又可随衆徒趣之處。背 綸言企乱入。凡不弁是非之性。宛不異木石歟。寛宥定綱之有罪。蔑如山王之靈威。可成衆徒之鬱憤之由。縁底存知畢。縱雖頼朝身。有其咎之時者。自公家何無御沙汰哉。抑頼朝爲天台。爲法相。雖有忠節。更無疎略。其由何者。義仲謀反之日。誅座主明雲。不經幾程追討義仲畢。又重衡狼唳之時燒拂南都誅僧徒。而生虜重衡同所刎首畢。彼等惣雖爲一期之讎。是非二宗之敵乎。爰南都感悦此志。叡岳未致一言。今以被刄傷宮主法師之忿怨。忝奉驚 公家。固知。爲義仲被誅貫首之時。何不蜂起敵對乎。謂其勝劣。貫首与宮主如何。如義仲。有不惜所之者。不出山門訴。仰崇有餘之時。乘勝企濫訴。後代濫吹。兼以所推察也。縱有訴訟者。蜂起以雖不下洛中。乱入以雖不及喧嘩。捧一通奏状。令達 天廳者。有理事。裁許何拘乎。委細之旨。不遑筆端。就中今年相當三合之暦運。可勵攘災祈請之處。以小成大。与心事發。即自吾山致騒動之條。若是僧徒小徳行。將又因果之所致歟。凡可謂逆徒〔矣〕。是則悪徒者多。善侶者少歟。然者。悪徒其性雖似瓦礫。善侶其性爭不慙愧乎。宜以此旨可達叡聽給。頼朝恐惶謹言。
   建久二年五月三日                     頼朝
  進上  高三位殿
  追言上。
 遠江守義定依奉 大内守護。差置郎等。而衆徒乱入之時。爲官兵被召付歟。依 勅定仰神威。不懸手於衆徒之處。濫行之餘。乘勝刄傷彼郎等四人。同所從三人之由。依義定申状所承也。以人之申状。如此言上。若僻事相交歟。縱雖駑駘。負鞭者何無馳騁之心乎。如斯言。官兵不堪當時之凌辱。若令敵對者。衆徒不遁不慮夭命。又數多罪業出來歟。然而仰神威。守 綸言。不懸手。以之愚存。自身威猛。還稱凌礫官兵之由言咲歟。乱逆出來之時。以官兵守 朝家。而刄傷彼日之武士。其咎如何。於衆徒訴申之旨者。不可有勅許歟。重恐惶頓首謹言。

読下し                   ほうしょを こうのさんみ 〔やすつねきょう〕  ふせらる   ぜんしんこれ  そう   としかねせいしょなり
建久二年(1191)五月大三日庚戌。奏書於高三位〔泰經卿〕に付被る、善信之を草し、俊兼C書也。

さるのこく ぞうしきなりしげこれ お   じょうらく    そ  じょう  い
申刻、雜色成重之を帶び上洛す。其の状に云はく。

  ごんじょう
 言上す

     こと  よし
  事の由

  みぎ    さだつな らんぎょう よつ   えいざんよ  つか   ところ  ししゃ   しょし ふたり   ぎはん  べんしょう  さんぬ つきみそかとうちゃく
 右は、定綱が濫行に依て、叡山自り遣はす所の使者の所司二人、義範、弁勝。去る 月卅日到着す。

  そ   じょう  い      ざいか   よつ    さだつななら   しそく さんにんを しゅと   なか  あず  たま     ほつ   うんぬん
 其の状に云はく。罪科に依て、定綱并びに子息三人於衆徒の中へ預け賜はんと欲すと云々。

   こ  ほか   しさい   ししゃの ことば  つく    よつ  さんぬ ついたちへんぽう あた   また  あい あ  ぐい   およ  ところ   こた    い
 此の外の子細、使者之詞を盡す。仍て去る一日返報を与ふ。又、相遇い愚意の及ぶ所を、答へて云はく。

  さだつな ろうぎゃく そう  あたはず  いかで じゅうか のが    や   ふうぶんのせつ  したが    すなは さんぬ つきじうろくにち おな  にじうろくにち  もつ
 定綱が狼逆左右に不能。爭か重科を遁れん乎。風聞之説に隨って、即ち去る 月十六日 同じく廿六日を以て、

  ざいか  おこな らる  べ   のよし  りょうど えいもん  たつ をはんぬ ざいめい まか  おお  くださる  か
 罪科に行は被る可し之由、兩度叡聞に達し畢。 罪名に任せ仰せ下被る歟。

  ただ  め   たま    べ   のぎ   ぞん    ば   ごんじょう  へず   ま   よりとも   ふ   せし  ば   しんじすべ   のところ
 但し召し賜はる可し之儀を存ずれ者、言上を經不、先づ頼朝に觸れ令め者、進止可き之處、

  いま しゅうぎ ふ   め   わた  ば   おそ      せいだん  けい      に       また  し  あ     あらずと
 今衆議に付し召し渡さ者、恐らくは聖断を輕ずるに似たり。又、私有るに非乎。

  きょうみょう やから そ  み   め    いんのちょう しん べ  なり   よろ    ちょくじょう ま   せし    うんぬん
 交名の輩、其の身を召し、院廳へ進ず可き也。宜しく勅定を待た令むと云々。

  しかれども しゅううとちゅう もう  むね あ  ば   ちょうじょう したが  そう あ   べ   のよし あいぞん    のところ
 然而、 衆徒註し申す旨有ら者、重状に随ひ左右有る可し之由相存ずる之處、

  さんぬ つきにじうろくにち 〔たつのこく〕  もつ きんけつ ぐんさん    みこし   ふ  たてまつ  こえ  はな  らんそ
 去る 月廿六日〔辰剋〕を以て禁闕に群參し、神輿を振り奉り、聲を發ち濫訴し、

  しゅじょう  〔 さんじょうことばたらざることなり 〕  おどか たてまつ
 主上〔三條言足不事也〕驚し奉る。

  かく   ぎ   ぞん    ば   し   さしくだ  べからず  また  ししゃ  つか    へんじ  ま   べ   か
 此の義を存ずれ者、使を差下す不可。又、使者を遣はし返事を待つ可き歟。

  しか    げらく   ま  はかるのじょう こころとことそうい     さら   ほい  あらず
 而るに下洛を待ち計之條、心与事相違す。更に本意に非。

  よりとも いやしく ちゅうてい もっ  ほうこう    かぎょう  つ   ちょうけ  まも
 頼朝 苟も 忠貞を以て奉公し、家業を継ぎ朝家を守る。

  しゅと  なん いしゅあり   あながち きぼう   めぐ      ま   はから せし  や   うつぼうの いた    けい て あま  あ
 衆徒何の意趣有て、強に奇謀を廻らし、待ち計は令む哉。鬱望之至り、啓し而餘り有り。

  さだつな  はいる     げし   きんごく    のよし   せんげ すで をはんぬ  まこと これみょうじの いはんなり
 定綱を配流し、下手を禁獄する之由、宣下 已に畢。 誠に是明時之彜範也。

  しか   しょううと ちょくさい そむ     ほつ  たれ   もとよ   そうたつ  へ  べからず
 而るに衆徒勅裁を背かんと欲す者ば、本自り奏達を經る不可。

  ざいか  さだ  よりとも  ふれ  ば       せんれい かえりみずざんざい おこな べ
 罪科を定め頼朝に觸れ者、先例を 顧不 斬罪に行ふ可し。

  また  しゅと  おもむき したが べ  のところ  りんげん  そむ らんにゅう くはだ   およ   ぜひ  べんぜずのしょう あたか ぼくせき ことならずか
 又、衆徒の趣に 随う可し之處、綸言に背き乱入を企つ。凡そ是非を弁不之性、宛も木石に異不歟。

  さだつな   うざい  かんゆう    さんのうの れいい  べつじょ    しゅとの  うっぷん  な   べ    のよし  のうていぞんち をはんぬ
 定綱之有罪を寛宥し、山王之靈威を蔑如し、衆徒之鬱憤を成す可し之由、嚢底存知し畢。

  たと  よりとも  み   いへど   そ   とが あ   のときは   こうけ よ   なに   ごさた  な      や
 縱い頼朝の身と雖も、其の咎有る之時者、公家自り何も御沙汰無からん哉。

  そもそも よりともてんだい ため  ほっそう  ため  ちうせつあ    いへど   さら  そりゃくな
 抑、頼朝 天台の爲、法相の爲、忠節有ると雖も、更に疎略無し。

  そ   よしなん      ば   よしなかむほんの ひ   ざす めいうん  ちう
 其の由何となら者、義仲謀反之日、座主明雲を誅す。

  いくほど   へず   よしなか  ついとう をはんぬ また しげひらろうるいの とき  なんと  やきはら  そうと   ちう
 幾程を經不に義仲を追討し畢。 又、重衡狼唳之時、南都を燒拂い僧徒を誅す。

   しか    しげひら  いけど  どうしょ  くび  は をはんぬ
 而るに重衡を生虜り同所に首を刎ね畢。

  かれらそう     いちご の あだ  な     いへど   これにしゅうのてき あらざ や   ここ  なんと こ こころざし かんえつ  えいがくいま いちごん いた
 彼等惣じて一期之讎を爲すと雖も、是二宗之敵に非る乎。爰に南都此の志に感悦す。叡岳未だ一言を致さず。

  いま  みやじほっしにんじょうさる の ふんえん  もっ   かたじけなく  こうけ  おどろ  たてまつる
 今、宮主法師刄傷被る之忿怨を以て、 忝 も公家を驚かし奉。

  まこと し        よしなか  ため  かんじゅ ちうさる  のとき   なん  ほうき    てきたいせざ  や
 固に知りぬ、義仲が爲に貫首@を誅被る之時、何ぞ蜂起して敵對不る乎。

  そ  しょうれつ いは    かんじゅと みやじ   いか    よしなか  ごと  ところ お  ざるの ものあ    さんもん  うった   いでざる
 其の勝劣を謂ば、貫首与宮主Aと如何に。義仲が如き所を惜か不之者有り。山門を訴へに出不。

  ごうそうあま  あ   のとき    か    じょう    らんそ   くはだ   こうだい  らんすい  かね  もっ  すいさつ   ところなり
 仰崇餘り有る之時、勝ちに乘じて濫訴を企つ。後代の濫吹、兼て以て推察する所也。

  たと  そしょうあ   ば   ほうき     もっ  らくちう  くだらず  いへど   らんにゅう   もっ  けんか  およばず いへど   いっつう そうじょう  ささ
 縱い訴訟有ら者、蜂起して以て洛中に下不と雖も、乱入して以て喧嘩に及不と雖も、一通の奏状を捧げ、

  てんちょう たっせし  ば  ことはりあ こと  さいきょなん かか    や   いさいのむね  ひったん いとまあらず
 天廳に達令め者、理有る事、裁許何ぞ拘らん乎。委細之旨、筆端に遑不。

  なかんづく ことしさんごうのれきうん  あいあた  じょうさい  きしょう  はげ   べ   のところ  しょう もっ  だい  な    こころと こと  はっ
 就中に今年三合之暦運Bに相當る。攘災の祈請を勵ます可き之處、小を以て大と成し、心与事を發し、

  すなは わがやまよ  そうどう  いた  のじょう  も   これそうと とくぎょう  しょう      はたまた いんがのいた  ところか
 即ち吾山自り騒動を致す之條、若し是僧徒徳行を小にし、將又因果之致す所歟。

  およ  ぎゃくと  い     べ          これすなは あくとは おお   ぜんりょは すくなき か
 凡そ逆徒と謂ひつ可し〔矣〕。是則ち悪徒者多く、善侶者少き歟。

  しからば  あくと そ  しょう がれき  に    いへど   ぜんりょ そ  しょういかで ざんき せざ や   よろ    かく  むね  もっ  えいちょう たっ  たま  べ
 然者、悪徒其の性瓦礫に似ると雖も、善侶其の性爭か慙愧不る乎。宜しく此の旨を以て叡聽に達し給ふ可し。

  よりともきょうこうきんげん
 頼朝恐惶謹言。

      けんきゅうにねんごがつみっか                                            よりとも
   建久二年五月三日                     頼朝

    しんじょう      こうざんみどの
  進上す  高三位殿

参考@貫首は、天台座主(ざす)の別名。のち各宗派の本山や諸大寺の管長の呼称。管主(かんしゆ)。貫長。
参考A宮主は、宮内に置かれて宮中の神事を担当する神官。宮主法師とあるので、神仏混交を表している。
参考B三合之暦運は、干支を円周に並べた際の正三角形に合わさる干支。辛亥の年は

    おっ  ごんじょう
  追て言上す。

  とおとうみのかみよしさだ だいだいしゅご たてまつ  よっ    ろうとう   さ   お     しか    しゅと らんにゅうのとき  かんぺい  な   めしつけられ
  遠江守義定 大内守護を奉るに依て、郎等を差し置く。而るに衆徒乱入之時、官兵と爲し召付被る歟。

  ちょくじょう よっ  しんい  あお    て を しゅと   か  ざるのところ   らんぎょうのあま    かち  じょう   か   ろうとうよにん
 勅定に依て神威を仰ぎ、手於衆徒に懸け不之處、濫行之餘り、勝に乘じて彼の郎等四人、

  おな   しょじゅうさんにん にんじょう    のよし  よしさだ  もう  じょう  よっ うけたまは ところなり
 同じく所從三人を刄傷する之由、義定が申し状に依て承る所也。

  ひとの もう  じょう  もっ    かく  ごと  ごんじょう
 人之申し状を以て、此の如く言上す。

  も   へきごとあいまじ   か   たと  どたい  いへど   むち  お   ば   なん  ちへいのこころな       や
 若し僻事相交はる歟。縱い駑駘と雖も、鞭を負は者、何ぞ馳騁之心無からん乎。

  こ   げん  ごと        かんぺい とうじのりょうじょく  た  ず   も   てきたいせし ば   しゅと   ふりょ   ようめい  のが  ざる
 斯の言の如くんば、官兵當時之凌辱に堪へ不。若し敵對令め者、衆徒は不慮の夭命を遁れ不。

  また  すうた   ざいごういできた   か  しかれども しんい  あお    りんげん  まも    て   かけず
 又、數多の罪業出來らん歟。然而、神威を仰ぎ、綸言を守り、手を懸不。

  これ  もっ  ぐそん   じしん  いみょう  かへっ かんぺい りょうれき   のよし  しょう  ごんしょう   か
 之を以て愚存、自身の威猛、還て官兵を凌礫する之由を稱し言咲する歟。

  らんぎゃくいできた のとき  かんぺい もっ  ちょうけ  まも
 乱逆出來る之時、官兵を以て朝家を守る。

  しか    か   ひ の  ぶし  にんじょう   そ   とが いかん  しゅと うった もう  のむね  をい  は   ちょっきょあ  べからずか
 而るに彼の日之武士を刄傷す。其の咎如何。衆徒訴へ申す之旨に於て者、勅許有る不可歟。

  かさ   きょうこうとんしゅきんげん
 重ねて恐惶頓首謹言。

現代語建久二年(1191)五月大三日庚戌。院へのお手紙を高階三位泰経様に送りました。三善善信が案を作り、筑後権守俊兼が清書をしました。午後四時頃に雑用の成重がこれを持って京都へ出発しました。その手紙に書いてあるのは、

 申し上げます
  事の次第
 右の内容は、佐々木左衛門尉定綱の犯行によって、比叡山から派遣された使者が二人、弁範と弁勝が先月三十日に到着しました。彼等が持ってきた手紙には、罪を犯したのだから、佐々木左衛門尉定綱とその子供三人を僧達に引き渡すようにと望んでいます。その他の詳しいことは使者が言葉を尽くして話しました。そこで、先日の一日に返書を与えました。又会った時に私の考えた内容を答えました。

佐々木定綱の犯罪は論議の余地が無い。なんで重罰を逃れることが出来ましょうか。噂の通りに先月の十六日と二十六日付けで罪を決定するように、二度も法皇のお耳に入れました。この罪の通りに処分するように宣言されますでしょうか。ただし、捕えて渡すようにとのことならば、院へ言上せずにまず頼朝に命じてくれれば、処理しますのに、今、僧の連中に預け渡したならば、京都朝廷での決定前なので、朝廷を軽く見ている事になるでしょう。又、御家人の頭領としての私の立場がありません

名簿の連中は、その身柄を捕えて院の庁へ突き出すことにしましょう。宜しく院からの命令を待っております。しかしながら、僧達が書き出した言い分があるのならば、度重なる手紙の通りにお決めになられるのだろうと思っていたら、先月二十六日〔午前八時頃〕に皇居へ集って、神輿を振り騒いで、大声を上げて無理やり訴えて、院を脅かしました。その事をご承知ならば、検非違使を行かせるのではなく、使いの者を行かせて僧達の返事をまった方が良いのではないでしょうか。

それなのに、僧達を京都から立ち去らせる算段ばかりをしているのは、云ってる事とやってることが違いすぎます。頼朝は、少なくも朝廷への忠節をもって仕えており、武家の家業を先祖から継いで天皇家をお守りします。僧達は、何を望んでか、強いて奇妙な策略をめぐらして、待ち受けているのでしょうか。朝廷のお困りは、察しております。佐々木定綱を流罪に決め、その下っ端の連中は懲役刑にしようと、既に宣言してしまいましたね。全く持って鮮やかな手際だ。

それなのに、僧達が朝廷の裁定に逆らおうとしていると云うのならば、元から院へお計りをせずに、罰を決めて頼朝に命じてくれれば、先例など気にしないで死刑にしてしまいます。又、僧達の言い分に合わせ様かと考えていましたが、天皇家の命令に逆らって京の町への乱入をするなんて、およそ事の是非を言葉で解決しないなんて、木や石と変らないではありませんか。佐々木定綱の罪を多めに見てやり、日吉山王神社のご意向を無視すれば、僧達の怒りを招くことになる事は、元々承知しております。例えそれが頼朝一身であっても、そのような罪の有る時は、天皇家から何の処分も無いわけがないでしょう。

おおよそ頼朝は、京都の天台宗のためにも、奈良の法相宗のためにも、忠義を尽くして来たことはあっても、粗末に扱ったことはありません。その理由は何かというと、木曽義仲が後白河院に反逆して法住寺殿を襲撃した時に、天台座主の明雲を殺しました。それから幾らも経たずに義仲を打ち終えました。又、平重衡が威勢を振るっている時分に奈良を焼き払って、僧侶を殺しました。その重衡も生け捕って奈良で首を切ってしまいました。

彼等は、生涯の敵と思っているけれども、それは比叡山と奈良の二つの宗の敵ではないでしょう。平家を滅ぼしたので奈良ではその私の志に感激している。比叡山は未だに何も云って来ない。

今、宮主法師が切られた怒りの勢いで、もったいなくも朝廷を脅しているのだ。本当に知っているのか、木曽義仲のために比叡山筆頭の貫首明雲を殺された時に、何故立ち上がって戦わなかったのだ。その上下を考えれば、貫主と宮主とどっちが上なんだ。その義仲の仕業を放っておく手があるだろうか。でも比叡山は訴えて出なかった。今、信仰心が盛んなときだからと、調子に乗ってとんでもない訴えを起こす。後になって騒ぎ立てる事は、前々から推測はしていた。

かりに訴訟を起こすのなら、皆で立ち上がって京都市中へ比叡山から下って来なくても、京都市中へ突入して喧嘩騒ぎを起こさなくたって、一通の法皇への訴状を差し出して、法皇のお耳に入ったならば、理屈の通る事なら、なんで裁決をされない事があろうか。

ま、細かい事を言い出せば、筆に切がありません。

特に今年は、干支による縁起の悪い年に当たるので、災いを取除くお祈りに励むべきなのに、小さな出来事を大きな目的より大事に取上げて、心と行動を共に出し、たちまち住処の比叡山を出て騒ぎを起こした事は、坊主どもが良い行いを少なくするのは、何か前世の因果がやらせていることでしょうかね。これは反逆者と云うべきです。其の連中は悪い僧達が多くて、良い僧侶は少ないからでしょう。それならば、悪い僧達の性分なんぞ瓦礫と同じなのに、良い僧侶達は何ゆえ己の行動を反省して残念だと思わないのでしょうね。この内容で院にお伝え戴く様に願います。頼朝が恐れ入りながら申し上げます。

   建久二年五月三日               頼朝

  お送りします  高階三位(泰経)様

 遠江守安田義定は、京都朝廷の御所大内裏を警備しているので、家来を派遣して駐屯させていました。ところが僧達が乱入してきた時、官軍として命じました。天皇の命令で神様を尊敬し、僧達に対し手を出さなかったのに、乱入したドサクサに勝っている勢いに乗って、彼の家来四人と下働き三人を切りつけられたと、安田義定の言上書にあります。人からの言上書の内容ですが、このように申し上げます。もし、間違いが混じっているかも知れません。のろい馬でも鞭で叩かれれば、なんで奔放に走り出そうとしない訳が無いでしょうか。その言葉の通りなら、官軍の兵士が、その時恥辱に耐えられなくて、もしも本気で敵対していたのならば、僧達は殺されることを逃れられなかったでしょう。又、殺傷による多くの罪が出来たことでしょう。しかしながら、神様を尊敬し、朝廷の命令を守って手を出さなかったのです。これを僧達は愚かな存在と見て、自分達の威力のずにのって、かえって官軍の兵士を取るに足らないものと云って、あざわらうのだろうか。反乱が起きた時は、官軍が朝廷を守ります。それなのに、その為の武士を殺傷しました。その罪はいかがなものでしょうか。僧達が訴え出ている内容に、朝廷が許してはなりません。重ねて恐れながら頭を下げて言上します。

建久二年(1191)五月大八日乙夘。佐々木左衛門尉定綱等事。依山門訴。所被下之去月廿六日口宣。同廿八日 院宣案文等到着。又同廿九日。被定定綱等罪名訖。去一日。神輿御歸坐云々。
 流人
  左衛門尉源定綱〔薩摩國〕 〔号小太郎〕左兵衛尉廣綱〔隠岐國〕
  左兵衛尉定重〔對嶋國〕  同小三郎定高〔土左國〕
 禁獄五人
  堀池八郎實員法師     井伊六郎眞綱
  岸本十郎遠綱       源七眞延
  源太三郎遠定
權中納言泰通卿參陣。頭中宮亮宗頼朝臣仰流人事。仰右大弁資實結政請印。左宰相中將〔實教卿〕少納言信C等參行云々。
口宣云。
 建久二年四月廿六日          宣旨
 近江國住人源定綱。殺害日吉社宮主之由。依有衆徒訴訟。欲處遠流之間。忽有逐電之聞。仰前右大將源朝臣并京畿諸國所部官人。宜令搦進其身。
             藏人頭大藏卿兼中宮亮藤原宗頼〔奉〕
院宣云。
 被 院宣稱。近江國住人源定綱。殺害日吉社宮主等之犯。罪科不輕。仍先勘罪名。雖可被行所當之罪科。勘録可及遲怠之上。且爲増神明之威光。且依優衆徒之訴訟。於定綱者處遠流。至下手輩者可禁獄所之由。欲被 宣下之間。尚任奏状。不申給其身者。不可散鬱結之由。奉振神輿。濫訴帝闕。縱不行斬刑。於給其身之條者同死罪。仍都以不可裁許。凡於件刑法者。 嵯峨天皇以來停止之後。多經年代。仍不致裁報之間。奉振神輿。即以歸山。違勅之上。弥添驚天聽之科。滅法之餘。更招忘神鑒之咎。就中恭敬當社。歸依當寺。超過餘社。卓礫餘寺。雖背佛勅。令蔑如王事。若仰聞子細。爭不停自由。遠流之罪不再歸。禁固之法滿徒年者。雖非死罪。更無勝劣歟。仍以遠流比死罪。以禁固代斬刑。但遠流之條。裁報尚不足者。雖禁固。随申請。可被行歟。抑定綱有逐電之聞。罪科弥以重疊。仍仰京畿諸國。慥可令搦進其身之由。 宣下已畢。其間暫休鬱訴。可待裁断之由。皆悉引率門徒僧綱等。不廻時剋。早企登山。可奉迎神輿之由。殊可令仰含給。兼又梟惡之輩狼唳不止者。各加同心制止之詞。宜廻衆議和平之計者。 院宣如此。仍以上啓如此。
     四月廿八日       大藏卿宗頼〔奉〕
   謹上 天台座主御房

読下し                   ささきのさえもんのじょうさだつなら   こと  さんもん  うった   よっ   くださる  ところのさんぬ つきにじうろくにち くせん
建久二年(1191)五月大八日乙夘。佐々木左衛門尉定綱等の事、山門の訴へに依て、下被る所之去る月廿六日の口宣。

おな   にじうはちにち いんぜんあんぶんら とうちゃく   また  おな   にじうくにち  さだつなら  ざいめい  さだ られをはんぬ
同じく廿八日の院宣 案文等 到着す。又、同じく廿九日、定綱等の罪名を定め被訖。

さんぬ ついたち  みこし ごきざ    うんぬん
去る一日、 神輿御歸坐すと云々。

  るにん
 流人

    さえもんのじょうみなもとのさだつな 〔さつまのくに〕    〔こたろう    ごう  〕 さひょうえのじょうひろつな 〔おきのくに〕
  左衛門尉源定綱  〔薩摩國〕 〔小太郎と号す〕左兵衛尉廣綱〔隠岐國〕

    さひょうえのじょうさだしげ 〔つしまのくに〕     おな    こさぶろうさだたか 〔 とさのくに 〕
  左兵衛尉定重〔對嶋國〕  同じき小三郎定高〔土左國〕

  きんごくごにん
 禁獄五人

    ほりいけのはちろうさねかずほっし        いいのろくろうさねつな
  堀池八郎實員法師     井伊六郎眞綱

    きしもとのじうろうとおつな             げんしちさねのぶ
  岸本十郎遠綱       源七眞延

    げんたさぶろうとおさだ
  源太三郎遠定

ごんのちうなごんやすみちきょう さんじん  とうのちうぐうさかんむねよりあそんるにん こと  おお  うだいべんすけざね  けっせいしょういん おお
 權中納言泰通卿 參陣す。頭中宮亮宗頼朝臣流人の事を仰す。右大弁資實に結政請印@を仰す。

さいしょうちうじょう 〔さねのりきょう〕 しょうなごんのぶきよらさんこう   うんぬん
左宰相中將〔實教卿〕少納言信C等參行すと云々。

 くせん  い
口宣に云はく。

参考@結政請印は、至急の官符に政を経ずに結政所で捺印する行事。結政は、奈良・平安時代、太政官庁や外記庁(げきのちよう)で、政務に関する書類を一つに束ねておいたものを、政務を行う前に開いて読み上げた儀式。請印は、律令制で、国が発給する文書に押印する儀式。内容・種類によって内印(天皇御璽)・外印(太政官印)が使い分けられたが、内印の場合、少納言が上奏して勅許を請うた。

  けんきゅうにねんしがつにじうろくにち                   せんじ
 建久二年四月廿六日          宣旨

  おうみのくに じゅうにん みなもとのさだつな ひえしゃ みやじ  せつがいのよし  しゅと   そしょう あ     よっ    おんる  しょ      ほっ    のかん
 近江國 住人 源定綱。 日吉社宮主を殺害之由、衆徒の訴訟有るに依て、遠流に處せんと欲する之間、

  たちま ちくてんのきこ  あ
 忽ち逐電之聞へ有り。

  さきのうだいしょう みなもとのあそん なら   けいき しょこく しょぶ  かんじん  おお      よろ    そ   み  から  しん  せし
 前右大將 源朝臣 并びに京畿諸國所部の官人に仰せて、宜しく其の身を搦み進じ令め。

                         くろうどのとうおおくらきょうけんちうぐうさかんふじわらむねより 〔ほう  〕
             藏人頭大藏卿兼中宮亮藤原宗頼〔奉ず〕

いんぜん  い
院宣に云はく。

  いんぜんされ   しょう   おうみのくに じゅうにん みなもとのさだつな ひえしゃ みやじ  せつがい    のつみ  ざいかかろからず
 院宣被れて稱す、近江國  住人  源定綱。 日吉社宮主を殺害する之犯。罪科輕不。

  よっ  ま   ざいめい かんが   しょとうのざいか  おこなはる  べ    いへど   かんろく ちたい  およ  べ   のうえ
 仍て先ず罪名を勘へ、所當之罪科に行被る可きと雖も、勘録遲怠に及ぶ可き之上、

  かつう しんめいのいこう   ま     ため  かつう しゅとの そしょう   ゆう      よっ    さだつな をい  は おんる  しょ
 且は神明之威光を増さん爲、且は衆徒之訴訟に優ずるに依て、定綱に於て者遠流に處す。

   げす   やから いた    は ごくしょ  いまし べ   のよし  せんげ され    ほっ    のかん  なおそうじょう まか    そ   み   もう  たま  ざれば
 下手の輩に至りて者獄所に禁む可し之由、宣下被んと欲する之間、尚奏状に任せ、其の身を申し給は不者、

  うっけつ  さん  べからざるのよし  みこし  ふ たてまつ   ていけつ  らんそ
 鬱結を散ず不可之由、神輿を振り奉り、帝闕に濫訴す。

  たと  ざんけい  おこな ず    そ   み   たま    のじょう  をい  は しざい  おな    よっ すべてもっ  さいきょ  べからず
 縱い斬刑に行は不に、其の身を給はる之條に於て者死罪に同じ。仍て都以て裁許す不可。

  およ  くだん けいほう  をい  は   さがてんのう いらい ちょうじののち  おお  ねんだい へ
 凡そ件の刑法に於て者、嵯峨天皇以來停止之後、多く年代を經る。

  よっ  さいほう  いたさざるのかん  みこし  ふ たつまる   すなは もっ  きさん
 仍て裁報を致不之間、神輿を振り奉り、即ち以て歸山す。

  いちょくのうえ  いよいよ てんちょう おどろ   のとが  そ     めっぽうのあま    さら  しんかん  わす  のとが  まね
 違勅之上、弥 天聽を驚かす之科を添へ、滅法之餘り、更に神鑒を忘る之咎を招く。

  なかんづく とうしゃ きょうけい     とうじ     きえ    よしゃ   ちょうか     よじ   たくちゃく
 就中に當社を恭敬し、當寺への歸依、餘社に超過し、餘寺を卓礫す。

  ぶっちょく そむ    おうじ   べつじょせし   いへど   も   しさい  あお  き      いかで  じゆう   とめざらん
 佛勅に背き、王事を蔑如令むと雖も、若し子細を仰ぎ聞かば、爭か自由を停不。

  おんるの つみ  ふたた かえ ざる  きんこの ほう  づ   とし  みたば   しざい  あらず いへど   さら しょうれつな      か
 遠流之罪は再び歸ら不。禁固之法は徒の年に滿者、死罪に非と雖も、更に勝劣無からん歟。

  よっ  おんる   もっ  しざい  ひ     きんこ   もっ  ざんけい  か
 仍て遠流を以て死罪に比し、禁固を以て斬刑に代える。

  ただ  おんるの じょう  さいほうなおたらずんば きんこ いへど   もう  う     したが   おこなは  べ   か
 但し遠流之條、裁報尚不足者、禁固と雖も、申し請けに随い、行被る可き歟。

  そもそ さあつなちくてんあ  のきこ    ざいかよくよ もっ ちょうじょう
 抑も定綱逐電有る之聞へ、罪科弥く以て重疊。

  よっ  けいき しょこく  おお    たしか  そ  み   から  しんぜし  べ   のよし  せんげすで をはんぬ
 仍て京畿諸國に仰せて、慥に其の身を搦み進令む可し之由、宣下已に畢。

   そ   かんしばら  うっそ  やす    さいだん  ま   べ   のよし  みな ことごと もんと そうごうら  いんそつ    じこく  めぐ  さず
 其の間暫く鬱訴を休め、裁断を待つ可き之由、皆 悉く門徒僧綱等を引率し、時剋を廻ら不、

  はや  とざん  くはだ  みこし  むか たてまつ べ   のよし  こと  おお  ふく  せし  たま  べ
 早く登山を企て、神輿を迎へ奉る可し之由、殊に仰せ含め令め給ふ可し。

  かね  また きょうあくのやからろうるいやめず ば  おのおの どうしん  せいしのことば  くは
 兼て又、梟惡之輩狼唳止不ん者、 各 同心し制止之詞を加へ、

  よろ    しゅうぎわへいのはかり  めぐ       てへ      いんぜんかく ごと    よっ  もっ じょうけいかく  ごと
 宜しく衆議和平之計を廻らすべし者れば、院宣此の如し。仍て以て上啓此の如し。

          しがつにじうはちにち             おおくらきょうむねより 〔ほう  〕
     四月廿八日       大藏卿宗頼〔奉ず〕

      きんじょう  てんだいざすのごぼう
   謹上 天台座主御房

現代語建久二年(1191)五月大八日乙卯。佐々木左衛門尉定綱達について、比叡山の訴えによって、出された先月二十六日の口頭の院命を、同じ二十八日に発した院命の写しが届きました。又、同じ二十九日には佐々木左衛門尉定綱達の罪状を決められました。そしたら先日の一日に比叡山のお神輿は山へ帰ったそうです。

 流罪は、
  佐々木左衛門尉定綱が薩摩国。佐々木左兵衛尉広綱〔小太郎と云います〕が隠岐国。
  佐々木左兵衛尉定重が対馬国。佐々木小三郎定高が土佐国。
 監獄へ五人。
  堀池八郎実員法師。井伊六郎真綱。
  岸本十郎遠綱。源七真延。
  源太三郎遠定。

公卿の権中納言泰通卿が太政官の会議に参加して、頭中宮亮宗頼朝臣が流罪の内容を宣言しました。右大弁資実が至急なので政務を通さないと宣言しました。左宰相中将〔実教卿〕と少納言信清がやってきて、院の口頭命令を宣言しました。

 建久二年四月二十六日    命令する
 近江国の侍源定綱は、日吉神社の神官を殺害したと、僧達からの訴訟があったので、島流しにしようとしたのに、たちまち行方をくらましたと聞いた。前の右大将源朝臣(頼朝)と京都と近畿地方の国衙等の役人に命じて、其の身柄を確保するように。
           蔵人頭大蔵大臣兼務中宮亮藤原宗頼〔院の仰せを受けて書きました〕

院からの命令書の院宣の内容は、
 院から仰せになられるのは、近江国の侍源定綱(佐々木)が、日吉神社の下男を殺した罪は軽いものではありません。そこで先ず罪の重さを考えて、それ相応の罰に処分するところであるが、担当からの上申書が遅れているのと、日吉神社の権威をあげるために、一つは僧達の訴えを宥めるために、佐々木定綱を流罪に決めます。その下っ端の連中は懲役刑にしようと命令を出そうとしていたら、僧達は訴状のとおりに身柄を引き渡さないと、気がおさまらないので、お神輿を振り回して朝廷に無理やり訴えてきた。たとえ死刑にしなくても、その身柄を渡したのでは、どうせ殺されてしまうので死刑と同じである。だからそのようには結審しない。
だいたいそのような死刑については、嵯峨天皇以来停止してかなり年代を経てきた。それなので裁決をしなかったら、僧達はお神輿をうっちゃって、さっさと比叡山へ帰ってしまった。朝廷の命を聞かないばかりか、益々天皇を驚かす罪を犯し、仏法を廃れさせてしまうし、挙句に神の権威を忘れてしまう罪を作っている特に朝廷では、日吉神社を敬って、延暦寺への信心は他の神社を超えて、他の寺よりも勝っております。佛の教えに背き、朝廷をないがしろにしていてさえも、朝廷からの言い分を聞くのならば、どうして勝手な行動を止めないのでしょうか。遠い島へ流罪になれば二度と帰れません。監獄にぶち込まれれば無駄に時を過ごしてしまいます。死罪にしなくても何の優劣がありましょうか。それなので流罪にして死罪に替え、監獄への禁固刑で切り殺す罰の代わりとします。ただし遠くの島への流罪は、それでも未だ刑罰が足りないと云うのならば禁固刑であっても、申請に従って付加を付けて
行われるべきでありましょうか。だいたい佐々木定綱が雲隠れしたことは、罪が重なってしまいました。それで近畿地方や全国に命じて、その身柄を拘束するように宣言しました。その間、暫くは強訴を休んで、朝廷の裁断を待つように、全ての僧達や坊さんを連れて、時をおかずにさっさと比叡山へ登ってお神輿をお迎えするように、特に云って聞かせなさい。それでも、凶悪な連中が乱暴をやめないのなら、役付きたちは心を一つにして、止めさせるように説得を加え、皆、そろって和平への道を考えるように申しておりますので、院からの命令はこの通りであります。命じられて書いたのはこのとおりです。
    四月二十八日  大蔵大臣宗頼〔命令どおり書きました〕
  謹んで差し上げます 延暦寺筆頭の天台座主様

建久二年(1191)五月大十二日己未。大夫尉廣元去月廿日加茂祭供奉。賜院御厩御馬。則具御厩舎人〔金武〕凡施眉目云々。其間記録進之。又申云。爲上皇御願。近江國高嶋郡被安五丈毘沙門天像。近日可有供養之儀云々。善信聞此事。申云。彼像者。去養和之比。於仙洞仰佛師院尊法印被作始之。幕下仰曰。此事度々所有風聞也。自平相國在世之時奉造立。推量之所及。爲源氏調伏歟。頗不甘心云々。仍其趣。内々被仰遣廷尉許云々。
 建久二年四月廿日丁酉加茂祭
 大夫尉 中原廣元〔賜院御馬。御厩舎人金武在共。赤色上下。欸冬衣〕 大江公朝
     源季國  橘定康
 六位尉 藤能宗  中原章廣
     源C忠  中原章C
 志   中原經康 中原職景
     安部資兼
 府生  紀守康
 馬助  仲通
 中宮使 權亮忠季朝臣〔左中將〕
 近衛使 右少將保家朝臣
 山城介 源盛兼
 内藏助
 典侍  平宣子〔大納言時忠卿女〕

読下し                    たいふのじょうひろもと さんぬ つきはつか かものまつり ぐぶ     いん  みんまや  おんうま  たま
建久二年(1191)五月大十二日己未。 大夫尉廣元 去る月廿日 加茂祭に供奉し、院の御厩の御馬を賜はる。

すなは みんまやのとねり 〔かねたけ〕  ぐ     およ  びもく  ほどこ   うんぬん   そ   かんこれ  きろく   しん    また  もう    い
則ち御厩舎人〔金武〕が具す。凡そ眉目を施すと云々。其の間之を記録し進ず。又、申して云はく。

じょうこう  ごがん  な     おうみのくにたかしまぐん ごじょう  びしゃもんてんぞう  やす   らる    きんじつ くようのぎ あ   べ     うんぬん
上皇の御願と爲し、近江國高嶋郡に五丈の毘沙門天像を安んじ被る。近日供養之儀有る可きと云々。

ぜんしん こ  こと  き     もう    い
善信此の事を聞き、申して云はく。

か   ぞうは   さんぬ ようわのころ   せんとう  をい  ぶっしいんそんほういん おお    これ  つく  はじ  らる
彼の像者、去る養和之比、仙洞に於て佛師院尊法印に仰せて之を作り始め被る。

ばっか おお    い
幕下仰せて曰はく。

 かく  こと たびたびふうぶんあ ところなり  へいしょうこくざいえのときよ ぞうりゅうたてまつ  すいりょうのおよ ところ    げんじ  ちょうぶくたるか
此の事、度々風聞有る所也。平相國在世之時自り造立奉る。推量之及ぶ所は、源氏の調伏爲歟。

すこぶ かんしんせず うんぬん よっ そ おもむき ないないていい  もと おお  つか  さる    うんぬん
頗る甘心不と云々。仍て其の趣、内々廷尉の許へ仰せ遣は被ると云々。

  けんきゅにねん しがつはつか ひのととり かものまつり
 建久二年 四月廿日 丁酉 加茂祭

  たいふのじょう なかはらのひろもと 〔いん  おんうま   たま       みんまやのとねり かねたけ とも  あ     あかいろ  じょうげ   かんとう  ころも〕   おおえのきんとも
 大夫尉@ 中原廣元 〔院の御馬を賜はる。御厩舎人金武共に在り。赤色の上下。欸冬の衣〕 大江公朝

          みなもとのすえくに    たちばなのさだやす
      源季國    橘定康

  ろくいのじょう とうのよしむね      なかはらのあきひろ
 六位尉A 藤能宗    中原章廣

           みなもとのきよただ   なかはらのあききよ
      源C忠    中原章C

  さかん     なかはらのつねやす  なかはらのもとかげ
 志B   中原經康   中原職景

            あべのすけかね
      安部資兼

  ふしょう      きのもりやす
 府生C  紀守康

  まのすけ      なかみち
 馬助   仲通

  ちうぐうし     ごんのさかんただすえあそん 〔さちうじょう〕
 中宮使  權亮忠季朝臣〔左中將〕

  このえし     うしょうしょうやすいえあそん
 近衛使  右少將保家朝臣

  やましろのすけ みなもとのもりかね
 山城介  源盛兼

  くらのすけ
 内藏助

  ないしのすけ  たいらののぶこ 〔だいなごんときただきょう むすめ〕
 典侍D  平宣子〔大納言時忠卿が女〕

参考@大夫尉は、五位の檢非違使。
参考A六位尉は、六位の檢非違使。
参考B志は、檢非違使庁の役職。
参考C府生は、檢非違使庁の下役。
参考D典侍は、上級の女官。

現代語建久二年(1191)五月大十二日己未。大夫尉(五位の検非違使大江)広元は、先月の二十日賀茂の祭りにお供をしたので、後白河院の厩の馬を与えられました。直ぐに厩務員〔金武〕が連れてきました。それは本当に面目をたてましたとさ。その間の事を記録して提出しました。
又、報告して云うのには、「後白河上皇のご希望で、近江国高島郡(滋賀県高島市)に五丈(15m)の毘沙門天像をお作りになられました。近日中に開眼供養が行われるようです。」
大夫属入道三善善信がこの話を聞いて云うのには、「その像は、以前の養和年間(1181-1182)に、院の御所仙洞で仏師の院尊法印に命じられて作り始めたものです。」
頼朝様がおっしゃられのには、「その話は、何度か噂で聞いた事がある。平相国〔清盛〕が生きていた頃から作り始めたのだ。私の推定では、源氏を祈り殺すためかも知れないなぁー。大変面白くない話だなぁー。」とのことです。それなので、その事情を内密に一条能保へ伝えさせることにしました。

 建久二年四月二十日丁酉 賀茂の祭りのお供について
 大夫尉 中原広元 〔院から戴いた馬。院の厩務員金武がお共です。赤色の上下。フキ色の着物〕、大江公朝
     源季国  橘定康
 六位尉 藤能宗  中原章広
     源清忠  中原章清
 志   中原経康 中原職景
     安部資兼
 府生  紀守康
 馬助  仲通
 中宮使 権亮忠季朝臣〔左中将〕
 近衛使 右少将保家朝臣
 山城介 源盛兼
 内蔵助
 典侍  平宣子〔大納言時忠卿が娘〕

建久二年(1191)五月大廿日丁夘。於近江國辛崎邊。佐々木小二郎兵衛尉定重止流刑被梟首。此事。日來可遁此難之樣。幕下雖被廻賢慮。山徒鬱陶。遂以無所被宥仰云々。此事爲景時之奉云々。
 左兵衛尉源朝臣定重
  佐々木源三秀義孫 左衛門尉定綱二男
   年月日任

読下し                   おうみのくにからさきへん をい   ささきのきじろうひょうえのじょうさだしげ るけい  と  きょうしゅさる
建久二年(1191)五月大廿日丁夘。近江國辛崎邊に於て、佐々木小二郎兵衛尉定重流刑を止め梟首被る。

 こ  こと   ひごろ こ  なん  のが  べ   のよう   ばっか けんりょ  めぐ  さる   いへど   さんと   うっとう   つい  もっ  なだ  おお  らる  ところな    うんぬん
此の事、日來此の難を遁る可き之樣、幕下賢慮を廻ら被ると雖も、山徒の鬱陶、遂に以て宥め仰せ被る所無しと云々。

かく  こと  かげときのうけたまは たり  うんぬん
此の事、景時之奉り爲と云々。

  さひょうえのじょうみなものとのあそんさだしげ
 左兵衛尉 源 朝臣定重

     ささききのげんざひでよし  まご  さえもんのじょうさだつな じなん
  佐々木源三秀義が孫 左衛門尉定綱が二男

       ねんがっぴにん
   年月日任

現代語建久二年(1191)五月大二十日丁卯。近江国唐崎(滋賀県大津市唐崎)で、佐々木小二郎兵衛尉定重は、流罪をやめて、打ち首になりました。
このことは、普段からこの困難を避けるために、頼朝様は色々と手を打ってきましたが、比叡山の僧達の不満を、遂に抑えようにもすべがなくこの有様になりましたとさ。この事件は梶原平三景時の責任としましたとさ。

 (没年記事)
 左兵衛尉源朝臣定重
  佐々木源三秀義の孫で、佐々木左衛門尉定綱の次男
   年月日(不明)に任命された

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吾妻鏡入門第十一巻   

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