建久二年(1191)辛亥六月小
建久二年(1191)六月小七日甲申。被建幕府南門。武藏守沙汰也。成尋法橋奉行之。幕下渡御。令覽造營次第給。 |
読下し
ばくふ
みなみもん
たてらる むさしのかみ さた なり じょうじんほっきょうこれ ぶぎょう
建久二年(1191)六月小七日甲申。幕府の南門を建被る。武藏守の沙汰也。
成尋法橋 之を奉行す。
ばっか とぎょ
ぞうえい しだい みせし たま
幕下渡御し、造營の次第を覽令め給ふ。
現代語建久二年(1191)六月小七日甲申。幕府の南門を建てました。武藏守大内義信の負担です。義勝房成尋法橋が指示担当です。
頼朝様も現地へ参られて、建築の状況を見物されましたとさ。
建久二年(1191)六月小九日丙戌。大理姫君可嫁左大將〔良經卿〕給。其儀已在近々云々。仍姫君御裝束〔御臺所御沙汰〕女房五人。侍五人。裝束。并長絹百疋〔幕下御分〕可被沙汰送之由。兼日有其定。被宛御家人等。女房裝束者。親能。廣元等於京都可調進之由。申領状了。惟義。重弘。朝綱等又可進侍裝束云々。絹者所被宛善信。義澄。盛長。知家。遠元。遠平已下也。而五輩分致沙汰。所殘分參期遲々。御氣色不快。召奉行人俊兼。盛時等於御前。被仰其由。諸人恐怖之處。善信申秀句云。先立參着絹者。付早馬早參。未到絹者。練參之間遲引歟云々。于時御入興。彼輩事無沙汰而止了。此間面々絹進云々。仍令請取于安達新三郎。明曉可持參京都之由云々。 |
読下し
だいり ひめぎみ さだいしょう 〔よしつねきょう〕 とつ たま べ
そ ぎ すで きんきん あ うんぬん
建久二年(1191)六月小九日丙戌。大理@の姫君、左大將〔良經卿〕Aに嫁ぎ給ふ可し。其の儀已に近々に在りと云々。
よっ ひめぎみ ごしょうぞく 〔 みだいどころ おんさた 〕 にょぼうごにん さむらいごにん しょうぞくなら ちょうけんひゃっぴき 〔ばっか ごぶん〕 さた おくらる べ のよし
仍て姫君の御裝束〔御臺所の御沙汰〕女房五人、侍五人、裝束并びに長絹B百疋〔幕下の御分〕沙汰し送被る可し之由、
けんじつ
そ さだ あ ごけにんら あてらる
兼日其の定め有り。御家人等に宛被る。
にょぼう しょうぞくは ちかよし ひろもとら きょうと をい ちょうしんすべ のよし りょうじょう もう をはんぬ
女房の裝束者、親能、廣元等京都に於て調進可し之由、領状を申し了。
これよし
しげひろ
ともつなら また さむらいしょうぞく しん べ
うんぬん
惟義、重弘、朝綱等は又、侍
裝束を進ず可しと云々。
きぬは ぜんしん よしずみ もりなが
ともいえ とおもと とおひら いか
あてらる ところなり
絹者善信、義澄、盛長、知家、遠元、遠平已下に宛被る所也。
しか
ごやからぶん さた いた のこ ところ ぶん まい ご
ちち みけしき ふかい
而るに五輩分を沙汰致し、殘る所の分の參る期は遲々す。御氣色不快。
ぶぎょうにんとしかね もりときら を ごぜん
め そ よし おお らる
奉行人俊兼、盛時等於御前に召し、其の由を仰せ被る。
しょにんきょうふのところ ぜんしんしゅうく
もう い
諸人恐怖之處、善信秀句を申して云はく。
さきだっ
さんちゃく きぬは はやうま つ はや
まい いま いた きぬは ねっ
まい のかん ちいん か うんぬん
先立て參着の絹者、早馬に付け早く參る。未だ到らざる絹者、練て參る之間遲引する歟と云々。
ときにごにゅうきょう
か やから こと さた な て
や をはんぬ
こ かん めんめんきぬ しん うんぬん
時于御入興。彼の輩の事、沙汰無くし而止み了。此の間に面々絹を進ずと云々。
よっ あだちのしんざぶろう に う と
せし みょうぎょうきょうと じさんすべ のよし うんぬん
仍て安達新三郎C于請け取ら令め、明曉
京都へ持參可し之由と云々。
参考A左大將〔良經卿〕は、九条兼実の子。
参考B長絹は、は、糊で張った仕上げの絹布。絹一疋は、幅二尺二寸(約66cm)、長さ五丈一尺(約18m)の絹の反物(一反は幅が半分)。
参考C安達新三郎は、足立清恒で雜色の長をしているので名字がある。
現代語建久二年(1191)六月九日丙戌。検非違使の別当「大理」の一条能保の姫君が、左大将〔良経卿〕に嫁に行きます。
その儀式は近いうちだとのことです。それなので姫君の嫁入り衣装〔御台所政子様のお世話です〕、女官五人と侍五人とその衣装それに糊で張った仕上げの絹布二百反〔頼朝様からの分〕を揃えて送るように、先日お決めになられ、御家人達に割り当てられました。
女官の衣装は、中原親能と(大江)広元が京都で調達して贈るように了解しました。大内相模守惟義、大和守山田重弘、宇都宮左衛門尉朝綱は同様に侍の衣装を調えるようにとのことでした。絹は、大夫属入道三善善信、三浦介義澄、藤九郎盛長、八田右衛門尉知家、足立右馬允遠元、土肥弥太郎遠平以下に割り当てたところです。
それなのに、五人の分は準備できましたが、残る人々の分は遅れています。頼朝様はご機嫌斜めで、指揮担当者の筑後権守俊兼と平民部烝盛時を御前に呼び出して、そのことを伝えました。皆、恐れおののいていたところ、大夫属入道三善善信が、洒落た文句で申し上げました。「先だっての絹は、早馬で届けてきました。未だ到着していないのは、練り歩いているから、遅れているのでしょう。(「列がうねるように歩く」と「絹糸に練を入れている」の掛詞)」だとさ。
それを聞いて、面白がって機嫌が直り、その遅れた連中への処分をせずに話は終わりました。それから、みんな急いで絹を届けましたとさ。そこで、安達新三郎清恒に受け取らせて、明日の朝京都へ持って行くようにとの事でしたとさ。
建久二年(1191)六月小十七日甲午。被建大御厩。三浦介奉行之。 |
読下し
だいみんまや
たてらる みうらのすけこれ ぶぎょう
建久二年(1191)六月小十七日甲午。大御厩を建被る。三浦介之を奉行す。
現代語建久二年(1191)六月十七日甲午。大きな幕府用の厩舎を建てられます。三浦介義澄が指揮担当です。
建久二年(1191)六月小廿三日己亥。於越前國平泉寺關東御家人致濫行事可尋成敗之由。 院宣之間。今日被進請文云々。 |
読下し
えちぜんのくにへいせんじ をい かんとう ごけにん らんぎょう いた こと たず せいばいすべ のよし
建久二年(1191)六月小廿三日己亥。越前國
平泉寺@に於て關東の御家人濫行を致す事、尋ね成敗可し之由、
いんぜんのかん きょう
うけぶみ しん らる うんぬん
院宣之間、今日請文を進じ被ると云々。
参考@平泉寺は、福井県勝山市平泉寺町平泉寺の平泉寺白山神社。
前攝政家領の 越前國
鮎川庄A 濫行の輩を申す事、家人に付し尋ね沙汰可し之由、仰せ下被
候と雖も、
ほくろくどう ほう こと ともむね もう つけ そうらひ しかども いまは しゅごにん さ お ざる そうろうなり
北陸道の方の事は、朝宗に申し付て候しかとも、今ハ守護人をも差し置か不に候也。
かつう ふとう 〔に〕 そうら もの さ つか そうら あおざむらい〔に〕 も へきごと もうしそうろうならば
且は不當〔ニ〕候ハむする者を、差し遣はして候はん侍〔ニ〕、若し僻事をもし候なハ、
きみ き め そうら ところ
そ おそ そうろう
君の聞こし食し候はん所其の恐れ候。
また くにちぎょうにん うった もうされそうろうか かつう どみん ため じねん 〔に〕 わずら そうろう ぞん そうろう さ お ざる そうろうなり
又、國知行人も、訴へ申被候歟。 且は土民の爲自然〔ニ〕煩ひ候なんと存じ候て、差し置か不に候也。
しか いま こ さた
ため ことを そう よ さ つか
べ しゅごにん あらずそうろう
而るに今此の沙汰の爲、事於左右に寄せ、差し遣はす可き守護人に非候。
しからば
くにちぎょうの ひと
ふ めされるべ そうろうか
然者、國知行之人に付し、召被可く候歟。
も しょうえんの
ことなり さた がた の ぎ 〔に〕 そうらはば かさ
おお したが たず さた すべ そうろう
若し庄園之事也とて、沙汰し難き之儀〔ニ〕候者、重なる仰せに随い尋ね沙汰可く候。
くだん らんぎょうにん
ふじしまのさぶろうは み きたらずそうろうのかん
じつめい
し およばずそうろう いまごじょうのとき はじ うけたまは およ そうら
件の
濫行人 藤嶋三郎ハ 見え來不候之間、
實名をも知り及不候。
今御定之時こそ始めて承り及び候へ。
かく むね もっ もう あ せし たま べ そうろう よりともきょうこうきんげん
此の旨を以て申し上げ令め給ふ可く候。頼朝恐々謹言。
ろくがつにじうににち よりとも
六月廿二日 頼朝
参考A鮎川庄は、福井県福井市鮎川町らしい。
現代語建久二年(1191)六月二十三日己亥。越前国の平泉寺白山神社で、関東の御家人が年貢の横取りをした事について、よく調べて処分するように、後白河院から手紙が来たので、今日返事を出しましたとさ。
前摂政家の領地、越前国鮎川庄を略奪した連中については、御家人に対して調べて処理するように命じられて参りましたが、北陸道については、比企藤内朝宗に調べるよう言いつけてましたが、現在は監督者も置いてないとの事です。ですから一つは、いい加減な奴を派遣されたので、その管理の侍が嘘をついている可能性があるので、貴方がお聞きになっている事には、その恐れがありますよ。また国衙の担当者から、同様の訴えが来ていませんか。もう一つは、現地耕作人も思いの外困っているのであろうと思ので、放っておく訳にもいかないでしょう。それなのに、今この処理については、便乗しているらしいのですが、私の方から派遣している監督者では無い訳です。それなので国衙の管理担当者に対して、事情を聴取されるべきでしょう。もし、荘園の権限だから処理し難いのなら、次ぎに命令をくれれば、それに従って現地聴取し処理いたしますよ。その話題の略奪人の藤島三郎は、挨拶に来たこともなくて実名も知りません。今度のご命令で初めて聞いた名前なのです。以上の内容でお伝えいただくように、謹んで頼朝が申し上げます。
六月二十二日 頼朝
建久二年(1191)六月小廿四日辛丑。神護寺文學上人申送云。駿河守廣綱遁世之後。于今在上醍醐之由。慥聞其告云々。 |
読下し
じんごじ もんがくしょうにん もう おく い
建久二年(1191)六月小廿四日辛丑。神護寺の文學上人、申し送りて云はく。
するがのかみひろつな
とんせいののち いまに かみだいご
あ のよし たしか そ つげ き うんぬん
駿河守廣綱
遁世之後、今于上醍醐に在る之由、慥に其の告を聞くと云々。
現代語建久二年(1191)六月二十四日辛丑。神護寺の門覚上人が、手紙を送って伝えてきました。
駿河守太田広綱は、行方をくらました後、今では醍醐に居ると、確かに聞いておりますだとさ。