建久二年(1191)辛亥
建久二年(1191)八月大一日丁丑。雨降。終日不休止。今日。大庭平太景能於新造御亭献盃酒。其儀強不極美。以五色鱸魚等爲肴物。足利上総介。千葉介。小山左衛門尉。三浦介。畠山二郎。八田右衛門尉。工藤庄司。土屋三郎。梶原平三。同刑武丞。比企右衛門尉。岡崎四郎。佐々木三郎等候其座。勸盃之間。依仰各語申往事。景能語保元合戰事。此間申云。勇士之可用意者武具也。就中。可縮用者弓箭寸尺也。鎮西八郎者吾朝無雙弓矢達者也。然而案弓箭寸法。過于其涯分歟。其故者。於大炊御門河原。景能逢于八男弓手。八男欲引弓。景能潜以爲。貴客者自鎭西出給之間。騎馬之時弓聊不任心歟。景能於東國能馴馬也者。則馳廻八男妻手之時。縡相違。及于越弓之下。可中于身之矢中膝訖。不存此故實者。忽可失命歟。勇士只可達騎馬事也。壯士等可留耳底。老翁之説莫嘲哢云々。常胤已下當座皆甘心。又蒙御感仰云々。 |
読下し あめふ しゅうじつきゅうしせず きょう おおばのへいたかげよし
しんぞう
おんてい をい はいしゅ けん
建久二年(1191)八月大一日丁丑。雨降る。終日休止不。今日、大庭平太景能、新造の御亭に於て盃酒を献ず。
そ ぎ
あなが び きは ず ごしき ろぎょ ら
もっ さかなもの な
其の儀強ちに美を極め不。五色@、鱸魚A等を以て肴物と爲す。
あしかがのかずさのすけ ちばのすけ おやまのさえもんのじょう みうらのすけ はたけやまのじろう はったのうえもんのじょう くどうのしょうじ つちやのさぶろう かじわらのへいざ
足利上総介、
千葉介、 小山左衛門尉、 三浦介、
畠山二郎、八田右衛門尉、工藤庄司、土屋三郎、梶原平三、
おな ぎょうぶのじょう ひきのうえもんのじょう おかざきのしろう ささきのさぶろう ら そ
ざ そうら かんぱいのかん おお よっ
おのおの おうじ かた もう
同じき刑武丞、比企右衛門尉、岡崎四郎、佐々木三郎等其の座に候う。勸盃之間、仰せに依て 各 往事を語り申す。
かげよし
ほうげん かっせん こと かた こ かんもう い
景能は保元の合戰の事を語る。此の間申して云はく。
ゆうし の ようい すべ は ぶぐ なり なかんづく
しじ もち べ は きゅうせん
すんしゃく なり
勇士B之用意可き者武具也。就中に、縮め用いる可き者弓箭の寸尺C也。
ちんぜいはちろうは わがちょうむそう ゆみや
たっしゃなり しかれども きゅうせん すんぽう あん
そ がいぶんに す か
鎮西八郎者、吾朝無雙の弓矢の達者也。然而、
弓箭の寸法Dを案ずるに、其の涯分于過ぎたる歟。
そ ゆえは
おおいみかどのがわら をい かげよしはちなん ゆんで
に あ はちなんゆみ ひ ほっ かげよしひそか おもへらく
其の故者、大炊御門河原に於て、景能八男の弓手于逢ひ、八男弓を引かんと欲す。景能潜に以爲。
きかくは
ちんぜいよ いでたま のかん きば の とき
ゆみいささ こころ まか ざるか
貴客者鎭西自り出給ふ之間、騎馬之時弓聊か心に任せ不歟。
かげよしは
とうごく をい よ うま なじ なりてへ すなは はちなん めて
は めぐ のとき ことあいたが
ゆみのした こ に およ
景能は東國に於て能く馬に馴む也者れば、則ち八男の妻手に馳せ廻る之時、縡相違ひ、弓之下を越ゆるE于及び、
み
に あた べ の や ひざ
あた をはんぬ こ こじつ ぞん ざれば
たちま いのち うしな べ か
身于中る可き之矢膝に中り訖。
此の故實を存ぜ不者、忽ち命を失う可き歟。
ゆうし
ただ きば たっ べ ことなり そうし ら みみ
そこ とど べ ろうおうのせつ ちょうろう なか うんぬん
勇士は只騎馬に達す可き事也。壯士等耳の底に留む可し。老翁之説を嘲哢する莫れと云々。
つねたね いか とうざ
みなかんしん またぎょかん おお こうむ
うんぬん
常胤已下の當座皆甘心す。又御感の仰せを蒙ると云々。
参考@五色は、瓜の異名。五色瓜。細川重男先生の教示による。
参考A鱸魚は、すずきの異名。
参考B勇士は、法に頼らず武力による独立を出来る人、と云う意味で自惚れる自称もあるが、世間でも畏怖の目でそう称される。細川重男先生の御教示による。
参考C弓箭の寸尺は、通常は七尺五寸(227.25cm)。
参考D弓箭の寸法は、為朝の弓は八尺五寸(257.55cm)。矢は那須与一が12束3伏。為朝は15束。
参考E弓之下を越ゆるは、細川重男先生の論を聞いて「とっさに弓を馬首越えさせようとした八郎の弓の下をくぐった形になったので的が狂った」と塾長は解釈した。
現代語建久二年(1191)八月大一日丁丑。雨降りです。一日中止みませんでした。今日、大庭平太景能が新築の御所で酒肴を献上しました。
その様子は、特に豪勢にはせず、瓜、すずきなどの魚を酒のつまみに用意しました。
足利上総介義兼、千葉介常胤(74)、小山左衛門尉朝政(37)、三浦介義澄(65)、畠山次郎重忠(27)、八田右衛門尉知家、工藤庄司景光、土屋三郎宗遠、梶原平三景時、梶原刑部烝朝景、比企右衛門尉能員、岡崎四郎義実、佐々木三郎盛綱達がご一緒しました。
宴会の間に頼朝様からの命令で、それぞれの若い頃の逸話を話しました。
大庭平太景能(60代)は保元の乱(1156)の合戦の話を語りました。特に強調して言ったのは、
「勇敢な兵士は、日頃から用意しておくべきは武器である。中でも、短めに使うべきは弓の長さである。
鎮西八郎為朝は、わが国で並ぶものの無い弓の名人だ。しかしながら、弓の長さを考えてみると、その身丈に比べ大きすぎたのではないのだろうか。
その理由は、保元の乱に鴨川の大炊御門河原で、ワシ大庭景能は、八郎殿の弓手(左側)のど正面に出会ってしまい、弓を引こうとしたので絶体絶命だった。そこでワシ景能は、ひそかに思った。
『八郎殿は九州から出て来たので、馬に乗っている時の弓は、さほどではないんじゃないか。ワシ景能は関東で馬に慣れている』と。
そこで八郎の妻手(右側へ向けて)にすばやく走ったので、状況が変わって、左へ八郎の弓の下をくぐる形になってしまい、八郎は(弓を右へ向けたけど)(馬の首を越えようとしていたから)弓が長すぎて(馬首に弓の筈が引っ掛かって)下がってしまい、体に当たるはずの矢が(右)膝に当たってしまった。この敵から狙われたら左側へ回る作戦を知らなければ、たちまち命を失っていた事であろう。勇敢な兵士は、ひたすら乗馬の名人になっておくべきなのである。若い連中は耳の底に残しておきなさい。老人の話だと馬鹿にしちゃなんねえよ。」なんだとさ。
千葉介常胤以下の同席の人達は、皆感心しました。又、頼朝様(45才)からもお褒めのお言葉を戴きましたとさ。
建久二年(1191)八月大六日壬午。御移徙之後有御行初之儀。申剋。渡御八田右衛門尉家〔是又新造〕近々間御歩儀也。糟谷藤太兵衛尉役御釼。武藏守。上総介已下供奉人濟々焉。知家献御引出物。宇都宮四郎持參御釼。子息兵衛尉朝重引御馬。 |
読下し ごいし の のち みゆきはじ の ぎ あ
さるのこく はったのうえもんのじょう いえ 〔これまたしんぞう〕 とぎょ
建久二年(1191)八月大六日壬午。御移徙之後、御行初め之儀有り。申剋、
八田右衛門尉 が家〔是又新造〕へ渡御す。
ちかぢか かん かち ぎ なり かすやのとうたひょうえのじょう
ぎょけん えき むさしのかみ かずさのすけ
いか ぐぶにん せいせいたり
近々の間御歩の儀也。
糟谷藤太兵衛尉 御釼を役す。武藏守、上総介
已下の供奉人濟々焉。
ともいえ おんひきでもの けん
うつのみやのしろうぎょけん じさん
しそくひょうえのじょうともしげ おんうま ひ
知家御引出物を献ず。宇都宮四郎御釼を持參し、子息兵衛尉朝重
御馬を引く。
現代語建久二年(1191)八月大六日壬午。引越し後の外出始め式がありました。
申の刻(午後四時頃)に八田右衛門尉知家の家〔同様に新築です〕へお渡りになられました。御所南門の斜め前と云う近さなので、徒歩で行きました。糟谷藤太兵衛尉有季が刀持ちです。大内武蔵守義信、足利上総介義兼以下のお供の人達が大勢です。
八田右衛門尉知家が引き出物を献上しました。宇都宮四郎頼業が刀を持ってきて、子供の八田太郎兵衛尉知重が馬を引いてきました。
建久二年(1191)八月大七日癸未。幕下御外甥僧任憲相傳熱田社領内御幣田之處。爲号勝實之僧被妨之。勝實已經奏聞之間。任憲整解状。又欲奏達。仍望申幕下御擧状。幕下頗有御猶豫之氣。爲報故祐範〔任憲父〕之功。縱廻他計畧。於此執奏者難題云々。而是先人亡骨在所也。相搆欲達之。他事曾無所據之由。重言上之間。今日相副慇懃御書於彼解状。被付高三位云々。 |
読下し ばっか
おんそとおい そうにんけん あつたしゃりょうない
ごほうでん そうでん
のところ
建久二年(1191)八月大七日癸未。幕下の御外甥
僧任憲、熱田社領内の御幣田を相傳する之處、
しょうじつ ごう のそう ためこれ
さまた らる しょうじつすで そうもん へ
のかん にんけんげじょう
ととの またそう たっ ほっ
勝實と号する之僧の爲之を妨げ被る。勝實已に奏聞を經る之間、任憲解状を整へ、又奏に達せんと欲す。
よっ ばっか ごきょじょう のぞ もう ばっかしきり ごゆよ の け あ
仍て幕下の御擧状を望み申す。幕下頗に御猶豫之氣有り。
こすけのり 〔にんけん ちち〕 の こう むく ため たと ほか けりゃく めぐ こ しっそう をい は
なんだい うんぬん
故祐範〔任憲が父〕之功に報いんが爲、縱い他の計畧を廻らし、此の執奏に於て者難題と云々。
しか これせんじんぼうこつ ざいしょなり あいかま
これ たっ ほっ
而るに是先人亡骨の在所也。相搆へて之を達せんと欲す。
ほか こと
かえっ よんどころな のよし
かさ ごんじょうのかん きょう
いんぎん おんしょを か げじょう あいそ
こうのさんみ つけらる うんぬん
他の事曾て據所無き之由、重ねて言上之間、今日慇懃の御書於彼の解状に相副へ、高三位に付被ると云々。
僧任憲が解状〔書等を副具す〕謹んで之を進上す。
かく ごと こと と もう べからずのよし ぞん そうろう たいりゃく
つつし な もう あ ず そうろう
此の如き事執り申す不可之由存じ候て、大略
愼み成して申し上げ不に候。
しか しょうじ には そうらえ ども ろんにんしょうほうから もう そうろうのかん とうじいっぽう もう
じょう よっ おお くだされそうろうか
而るに少事二ハ候へとも、論人勝實掠め申し候之間、當時一方の申し状に依て仰せ下被候歟。
しょうほうどうり お そうら ば なん じょうさいもんいん おんときさいきょ
こうむ ずそうろうや
勝實道理を帶び候は者、何ぞ上西門院@の御時裁許を蒙ら不候乎。
かく じょう しさい
もう ひら がた のよし にんけんなげ もう そうろう よっ おそ なが ごんじょう ところ そうろうなり
此の條子細を申し披き難き之由、任憲歎き申し候に依て、恐れ乍ら言上する所に候也。
かく むね もっ もれせし ごひろう たま べ そうろう
きょうこうきんげん
此の旨を以て洩令め御披露し給ふ可く候。恐惶謹言。
はちがつなぬか よりとも
八月七日 頼朝
参考@上西門院は、後白河法皇の姉。上西門院。
しんじょう
進上
し もう そうろう
私に申し候。
くだん すけのり もう そうろうは
よりとも ぼどう しゃてい そうらひ
件の祐範と申し候ハ、頼朝が母堂の舎弟にて候き。
しか
しゃていたりなが とりわ いとおしそうらい
ゆえ そ おん おも し そうろう 〔て〕
而し舎弟爲乍ら、取別け糸惜志候し故、其の恩を思い知り候〔テ〕、
よりとも
ぼどうせいきょ ときは なななぬか ぶつじ すけのり さた そうろう ちょうけんほういん
どうし な ごんじゅ そうらひ
頼朝が母堂逝去の時者、七々の佛事、祐範沙汰し候て、澄憲法印導師と爲し、勤修して候き。
また へいじのらんののち よりともはいるされそうらひ とき
すけのりひと つ そうろう はいしょ くに おく つ そうろう
又、平治乱之後、頼朝配流被候し
時も、祐範人を付け候て、配所の國まて送り付け候て、
そ ご か おんもん わすれず そうらひ 〔き〕
其の後彼の恩問を忘不に候〔キ〕。
しからば よりとも ぼどうたれ 〔ば〕 ぼだい とぶ よりとも ため 〔には〕 ちう ほどこ にゅうめつ そうら をはんぬ
然者、頼朝の母堂爲〔ハ〕菩提を訪らひ、頼朝の爲〔ニハ〕忠を施して、入滅し候ひ畢。
しか いま にんけんかく よし 〔を〕
なげ もう そうろう
而るに今、任憲此の由〔ヲ〕歎き申し候。
れんみんそうろう と
そう べからざるのよし ふか ぞん そうろう
にんけん じよ こと をば おも ず
いかにも憐愍候て、執り奏す不可之由、深く存じ候に、任憲自余の事をハ思は不に、
かく こと なげ おも そうろうのよしあなが
もう そうろうのかん
かつう すけのりのきゅうこう むく ため
此の事を歎き思い候之由、強ちに申し候之間、且は祐範之舊好に報いん爲、
かつう にんけん しゅうたん ちら ため かく ごと ごんじょう そうろうなり
且は任憲の愁歎を散さん爲、此の如くわりなく言上し候也。
しか いへど そ ことわ
な そうら をば まげ おお
くださる べ
の ぎ いかで ぞんねんそうら や
然ると雖も、其の理り無く候はんをハ、抂て仰せ下被る可き之義、爭か存念候はん乎。
ただ
すけのりとしごろ ちぎょうのよし しょうじつまえまえ
さた いた いへど ごさいきょ
こうむ ざるのところ
但し祐範年來の知行之由、勝實前々も沙汰致すと雖も、御裁許を蒙ら不之處、
いまさらあらた もう よしもう そうら
ば ごんじょう そうろうなり
今更改め申す由申し候へハ、言上し候也。
しょうじつまこと
そ ことは そうらはば こにょいん
おんとき なん くだん ところ たまは 〔て〕
ちぎょうせざ そうら や
勝實誠に其の理り候はゝ、故女院の御時、何ぞ件の所を賜り〔テ〕知行不る候はん乎。
しからば
すけのり
たねんりょうしょうのゆいしょ よっ にんけんそうでんすべ のよし おお
くだされそうら ば
然者、祐範多年領掌之由緒に依て、任憲相傳可き之由、仰せ下被候は者、
よりとも み と そうろう しか べ ことそうろう
頼朝が身に取りて候て、然る可き事候なむ。
すけのりのおん むく
ため かく ごと もう あ そうろ
のじょう なにごと
ごんじょう べからざるのよし
祐範之恩に報いん爲、此の如く申し上げ候う之條、何事もわりなく言上す不可之由、
と おも そうら いしゅ
すで そうい そうろう
執り思い候ひつる意趣、已に相違し候。
かく むね もっ もう い せし
たま べ そうろう きょうきょうきんげん
此の旨を以て申し入ら令め給ふ可く候。恐々謹言。
現代語建久二年(1191)八月大七日癸未。頼朝様の母方の甥に当たる僧侶の任憲は、熱田神宮領の神様用の田んぼの徴収権を相続しましたが、勝実と名乗る坊主のために横取りされました。勝実はすでに朝廷へ届けてしまったので、任憲は上申書を書いて、同様に朝廷へ提出したいので、頼朝様のお力添えを望んで云って来たのです。
頼朝様はとても躊躇なされております。故藤原祐範〔任憲の父親〕は母の兄弟なので、その縁に報いてやりたいと、例え他の方法を考えたとしても、この朝廷への上申は難しい事なんだそうな。しかし、そこは藤原祐範の残した土地なので、しっかり考えて何とか力になってあげたいと思われました。しかし、他の方法は頼りになる相手が居ないので、やっぱり上申するしかないので、今日、丁寧なお手紙をその上申書に添えて、高階泰経様へ頼みましたとさ。
僧任憲の上申書〔私の手紙を添えます〕を、謹んでお届けします。
このような事は、取次ぐべきではないのですが、事情があって謹んで申し上げる訳です。この出来事は小さなことではありますが、訴訟原告の勝実が、掠奪しておきながら訴えたので、現在は一方だけの上申によって判断していませんか。勝実の言い分が道理が通っているのならば、何で上西門院の時代に許可を貰っていないのでしょうか。この頃の経緯を説明し難いのだと、任憲がこぼしているので、恐れながら申し上げる次第で有ります。このような内容で上皇様に取次いで戴く様に謹んで申しあげます。
八月七日 頼朝
上申します
私信に申し上げます。
任憲の父の祐範と云う人は、頼朝の母親の弟なのです。しかし弟だからといって、特別に思っているのは、その恩を知っているからなのです。頼朝の母が亡くなった時、七日毎の法事に、祐範が手配をして、澄憲法院を指導僧として、拝ませてくれました。又、平治合戦の後、頼朝が伊豆へ島流しになった時も、祐範は私に部下を付けて、流罪先の伊豆国まで送り届けさせました。それからも、彼への恩義を忘れて事はありません。そう云う訳で、頼朝の母には法事をきちんとして、頼朝のためには忠義を尽くして、亡くなられました。それなのに今、任憲がこの訴えを嘆いてきました。そんな同情で取次ぐべきではない事は、深く承知しておりますけれど、任憲は他の事は何にも願わず、ただこの事を嘆いているのだと、一心に云って来たのです。一つは、祐範の恩をお返しするために、一つは、任憲の悲しみを晴らしてあげるために、この様に道理をわきまえず申し上げるのです。しかしそうは云っても、その道理が通らない話を、まげて申し出ていただくように、ご承知ください。ただし、祐範がずうっと管理していたことも、勝実が前々から支配していたと言うことも、上西門院の許可を得ていないので、今になって変更することにしたと言うので、申し上げたのでしょう。勝実が本当にそのとおりならば、故上西門院の時代に、なぜその所を戴いて支配していなかったのでしょう。それならば、祐範が長い間管理してきたという根拠に基づいて、任憲が相続すべきであると、仰せをいただければ、頼朝の身にとっても思惑通りです。祐範の恩にお返しをするためにも、このように申し上げているので、道理をわきまえずに云うべきではないとの思いと、取次いで上げたい気持とが、違ってきております。このような内容で院へ申し入れていただくよう、恐れながら申し上げます。
建久二年(1191)八月大十五日辛夘。鶴岳放生會。幕下御參宮。經供養。導師安樂坊重慶。有童舞〔箱根兒童云々〕 |
読下し つるがおかほうじょうえ ばっか ごさんぐう きょうくよう
どうし あんらくぼうちょうけい
建久二年(1191)八月大十五日辛夘。鶴岳放生會。幕下御參宮。經供養。導師は安樂坊重慶。
わらわまい〔
はこね じどう うんぬん 〕 あ
童舞〔箱根の兒童と云々〕有り。
現代語建久二年(1191)八月大十五日辛卯。鶴岡八幡宮の恒例の、供養のため捕らえられた生き物(魚鳥)を放してやる儀式です。頼朝様もお参りしました。
お経を唱えました。指導僧は安楽坊重慶です。稚児舞〔箱根の稚児だそうです〕の奉納も有りました。
建久二年(1191)八月大十六日壬辰。御奉幣如昨。被進神馬二疋。流鏑馬竸馬如例。 |
読下し ごほうへいきのう ごと
しんめ にひき しん らる やぶさめ くらべうまれい ごと
建久二年(1191)八月大十六日壬辰。御奉幣昨の如く。神馬二疋を進じ被る。流鏑馬、竸馬例の如し。
現代語建久二年(1191)八月大十六日壬辰。八幡宮へのお参りは昨日と同じです。神様に馬を二頭奉納しました。
流鏑馬やくらべ馬の奉納は、いつもの通りです。
建久二年(1191)八月大十八日甲午。此間人々所進馬被立于新造御厩。本自与所被立置之御馬。相並有用捨。先於南庭御覽。十六疋也。下河邊四郎政義。梶原兵衛尉景茂。狩野五郎宣安。工藤小次郎行光。佐々木五郎義C等騎之。俊兼役毛付。 |
読下し かく かん ひとびとしん
ところ うま しんぞう みんまやに たてらる
建久二年(1191)八月大十八日甲午。此の間、人々進ずる所の馬、新造の御厩于立被る。
もとよ た おかれるところの おんうまと あいなら ようしゃあ ま なんてい をい ごらん じうろっぴきなり
本自り立て置被所之御馬与、相並べ用捨有り。先ず南庭に於て御覽。十六疋也。
しもこうべのしろうまさよし かじわらひょうえのじょうかげもち かのうのごろうのぶやす くどうのこじろうゆきみつ ささきのごろうよしきよ ら
これ の
下河邊四郎政義、
梶原兵衛尉景茂、
狩野五郎宣安、工藤小次郎行光、佐々木五郎義C等之に騎る。
としかねけづけ えき
俊兼毛付@を役す。参考@毛付は、馬の毛色を書き留める事。又はその文書。
一疋〔鴾毛〕 上総介進ず 一疋〔槽毛〕千葉介進ず
一疋〔黒栗毛〕北條殿御分 一疋〔駮〕武田五郎進ず
一疋〔鴾毛〕 小山左衛門尉進ず 一疋〔鴾毛〕葛西三郎進ず
一疋〔黒鹿毛〕畠山次郎進ず 一疋〔鹿毛〕小山七郎進ず
一疋〔黒〕
下河邊庄司進ず 一疋〔葦毛〕和田左衛門尉進ず
一疋〔鹿毛〕 小山五郎進ず 一疋〔鴾毛〕宇都宮四郎進ず
一疋〔栗毛〕 土屋三郎進ず 一疋〔栗毛〕三浦介進ず
一疋〔鴾毛〕 足立左衛門尉進ず 一疋〔黒〕 梶原平三進ず
現代語建久二年(1191)八月大十八日甲午。先日来、人々が上納する馬のために、新築の厩舎を建てられました。前から飼育している馬と、新しい馬とを並べて、選り分けをして、先ず公邸の南の庭で、ご覧になりました。十六頭です。下河辺四郎政義、梶原三郎兵衛尉景茂、狩野五郎宣安、工藤小次郎行光、佐々木五郎義清達が騎乗してます。筑後権守俊兼が馬の毛色の記録係です。
一頭〔鴾毛〕 足利上総介義兼の進上です 一頭〔槽毛〕千葉介常胤の進上です
一頭〔鴾毛〕 小山左衛門尉朝政の進上です 一頭〔鴾毛〕葛西三郎清重の進上です
一頭〔黒鹿毛〕畠山次郎重忠の進上です 一頭〔鹿毛〕小山七郎朝光の進上です
一頭〔黒〕 下河辺庄司行平の進上です 一頭〔葦毛〕和田左衛門尉義盛の進上です
一頭〔鹿毛〕 小山五郎宗政の進上です 一頭〔鴾毛〕宇都宮四郎頼業の進上です
一頭〔栗毛〕 土屋三郎宗遠の進上です 一頭〔栗毛〕三浦介義澄の進上です
一頭〔鴾毛〕 足立左衛門尉遠元の進上です 一頭〔黒〕 梶原平三景時の進上です
参考 馬の毛並み
鴾毛は、葦毛でやや赤みをおびたもの。
糟毛は、原毛色(灰色)の地に肩や頸、下肢等に白い刺毛が混生する。
黒栗毛は、全身が褐色の毛で覆われている。たてがみや尾も同色のものが多いが、黒いものは黒栗毛と呼ぶ。
青駮は、体に大きな白斑のあるもの。原色毛によって栗駁毛、鹿駁毛、青駁毛と表記され、白斑が体の多くを占めるとき駁栗毛、駁鹿毛、駁青毛という。
黒鹿毛は、全体に黒味がかった赤褐色。眼の周辺、下腹、内股などは褐色。たてがみと尾は黒色。黒みがかった鹿毛。青鹿毛とは区別しづらいが、四肢や長毛の黒さに対して胴体がやや褐色を帯びている。
鹿毛は、最も一般的な毛色で、鹿の毛のように茶褐色で、タテガミ・尾・足首に黒い毛が混じる。
黒・黒は、全身真っ黒の最も黒い毛色。季節により毛先が褐色を帯び青鹿毛に近くなることがある。
葦毛は、体の一部や全体に白い毛が混生し、年齢とともにしだいに白くなる。はじめは栗毛や鹿毛にみえることが多い。原毛色の残り方から赤芦毛・連銭芦毛など種々ある。
栗毛は、全身が褐色の毛で覆われている。たてがみや尾も同色のものが多いが、白いものは尾花(おばな)栗毛と呼ぶ。
建久二年(1191)八月大廿七日癸夘。鶴岳若宮并末社熱田三嶋社廻廊等上棟云々。 |
読下し つるがおかわかみや
なら まっしゃあつた みしましゃ かいろうら じょうとう うんぬん
建久二年(1191)八月大廿七日癸夘。
鶴岳若宮
并びに末社熱田、三嶋社の廻廊等上棟すと云々。
現代語建久二年(1191)八月大二十七日癸卯。鶴岡八幡宮の下社、それに境内社の熱田神宮、三島大社の回廊の上棟式をしたんだとさ。