建久二年(1191)辛亥十月小
建久二年(1191)十月小一日丙子。爲佐々木三郎盛綱。宮六兼仗國平等沙汰。自奥州并越後國。召進駿牛十五頭。今日有御覽。是法住寺殿。義仲叛逆之時惡徒乱入。又文治元年地震悉頽傾之間。爲關東御沙汰。被加修理。爲被立其牛屋也。而此牛不可然之由。前少將時家。大夫屬入道善信等申之。仍於京都奔波。還似無。所詮以御馬可爲牛替之由。有御沙汰云々。 |
読下し ささきのさぶろうもりつな きゅうろくけんじょうくにひらら
さた な
建久二年(1191)十月小一日丙子。佐々木三郎盛綱、宮六兼仗國平等の沙汰と爲し、
おうしゅうなら えちごのくによ しゅんぎゅうじうごとう めししん
奥州并びに越後國自り、駿牛十五頭を召進ず。
きょう ごらん あ これ ほうじゅじでん よしなかほんぎゃくのとき あくとらんにゅう
今日御覽有り。是、法住寺殿で、義仲叛逆之時、惡徒乱入す。
また ぶんじがんねん ぢしん ことごと くず かたむ のかん かんとう ごさた な しゅうり くは らる そ ぎゅうおく たてられ ためなり
又、文治元年の地震で悉く頽れ傾く之間、關東の御沙汰と爲し、修理を加へ被る。其の牛屋を立被る爲也。
しか こ うししか べからずのよし さきのしょうしょときいえ たいふさかんにゅうどうぜんしんら これ もう
而るに此の牛然る不可之由、
前少將時家、 大夫屬入道善信等 之を申す。
よっ きょうと ほんぱ をい かへっ な
に しょせんおんうま もっ うし
かえたるべ のよし ごさた あ
うんぬん
仍て京都の奔波に於ては、還て無きに似たり。所詮御馬を以て牛の替爲可き之由、御沙汰有りと云々。
現代語建久二年(1191)十月小一日丙子。佐々木三郎盛綱と宮六兼仗国平の処理として、奥州(東北)と越後(新潟)の国から、元気の良い牛十五頭を集めて献上します。今日、頼朝様の検分が有りました。
これは、後白河法皇の住まいの法住寺殿では、木曽義仲の反乱の時に乱暴者どもが乱入して牛を盗んだり、又文治元年(1185)の地震で全て崩れたり傾いたりしたままなので、関東の処理として、修理をしました。その牛舎に飼育するためです。それなのに、この牛は牛車に向いていないと、前少将時家と大夫属入道三善善信が云うのです。それでは、京都での牛車のひしめき合いには使い物にならないでしょう。それなら、牛の替わりに馬を送って代金にすればよいだろうと、お決めになられましたとさ。
建久二年(1191)十月小二日丁丑。御随身左府生兼峯去比進使者。可被停止所領紀伊國三上庄地頭之由所訴申也。是任大將御拝賀之時供奉以降有功者也。仍任申請之旨。無左右可停止地頭職之旨被仰下。地頭者豊嶋權守有經也。可賜替之趣。又被仰有經云々。 |
読下し ごずいしん さふしょう かねみね さんぬ ころししゃ しん
建久二年(1191)十月小二日丁丑。御随身@左府生A兼峯、去る比使者を進ず。
しょりょう きいのくにみかのしょう ぢとう ちょうじさる べ のよし うった もう ところなり これ たいしょうごはいがのとき ぐぶ にん
いこう こうあ ものなり
所領の紀伊國三上庄Bの地頭を停止被る可し之由
訴へ申す所也。是、大將御拝賀之時供奉に任ずる以降功有る者也。
よっ しんせいのむね
まか そう な ぢとうしき ちょうじすべ
のむね おお くださる
仍て申請之旨に任せ、左右無く地頭職を停止可き之旨仰せ下被。
ぢとう は てしまのごんのかみありつね なり かえ たま べ のおもむき また ありつね おお
られ うんぬん
地頭者 豊嶋權守有經C也。
替を賜はる可し之趣、又、有經に仰せ被ると云々。
参考@御随身は、公卿の護衛兵。
参考A府生は、六衛府・検非違使の下役。
参考B紀伊國三上庄は、和歌山市南半分。
参考C豊嶋権守有経は、紀州守護でもある。
彼は白河法王の娘の八条院が領主をしている紀州の三上庄は、預所を代々受け継いできた土地なので、地頭を廃止して欲しいと訴えてきております。彼は、頼朝様が右大臣任命のお礼参りの際に、京都朝廷から付けられたお供をしたので、手柄が有ります。そこで、希望通りに、躊躇なく地頭職を廃止すると仰せを戴きました。地頭は、豊島権守有経です。替えの領地を与えるからと、有経におっしゃられましたとさ。
説明建久元年(1190)五月大廿九日壬午に、秦兼平が同荘園の有経の滞納を訴えて来て、納付されている。このように京都の連中は一度甘い顔を見せると何度でも頭に乗ってくる。今回は、頼朝も面倒なので有経の地頭を撤退している。兼峰は兼平の縁者か?
建久二年(1191)十月小十日乙酉。成勝寺執行昌寛法橋爲使節上洛。是法住寺殿修造之間。差置前掃部頭親能。大夫判官廣元。昌寛。三人行事也。而昌寛去比依召雖歸參。爲終其功。重以上洛云々。 |
読下し じょうしょうじ しぎょう
しょうかんほっきょう しせつ な じょうらく
建久二年(1191)十月小十日乙酉。成勝寺@執行A
昌寛法橋 使節と爲し上洛す。
これ ほうじゅじでんしゅうぞうのかん さきのかもんのかみちかつな たいふほうがんひろもと
しょうかん さ お
さんにん ぎょうじなり
是、法住寺殿修造之間、 前掃部頭親能、 大夫判官廣元、 昌寛を差し置き、三人の行事也。
しか しょうかんさんぬ ころ めし よっ きさん いへど そ
こう おえ ため かさ もっ じょうらく うんぬん
而るに昌寛去る比、召に依て歸參すと雖も、其の功を終ん爲、重ねて以て上洛すと云々。
参考@成勝寺は、白河の地に代々の天皇上皇女院たちの御願によって建てられた6つの寺院六勝寺の一つで崇徳天皇御願。保延5(1139)年落慶供養。
参考A執行は、寺の政務事務担当だが、恐らく実務はしていなくて、その職の年貢徴収権を持っているものと推測される。
現代語建久二年(1191)十月小十日乙酉。成勝寺政務事務担当の一品房昌寛法橋が派遣員として、京都へ上ります。
これは後白河法皇の住まいの法住寺殿を修理するために、掃部頭中原親能、大夫判官(大江)広元、一品房昌寛を指名して三人の指揮担当です。それなのに、一品房昌寛は先日、頼朝様に呼ばれて帰ってきましたが、未だその工事が終わらないので、再び京都へ上るのだそうです。
建久二年(1191)十月小十七日壬辰。夘剋。大姫君御違例太御辛苦之。諸人群參云々。 |
読下し うのこく おおひめぎみ ごいれい
はなは これ しんく たま しょにんぐんさん
うんぬん
建久二年(1191)十月小十七日壬辰。夘剋。大姫君
御違例 太だ之を辛苦し御う。諸人群參すと云々。
現代語建久二年(1191)十月小十七日壬辰。午前6時頃大姫君(数え年14歳)が普段に無く、とても苦しんでおられるので、御家人が大勢心配で集まってきましたとさ。
建久二年(1191)十月小廿日乙未。廣元朝臣可辞明法博士之由申送之。祗候關東之輩。以顯要之官職。恣兼帶不可然。可令辞之旨被仰下云々。 |
読下し ひろもとあそんみょうぼうはくじ じ べ のよしこれ もう おく
建久二年(1191)十月小廿日乙未。廣元朝臣明法博士@を辞す可し之由之を申し送る。
かんとう しこうのやから けんようのかんしき もっ ほしいまま けんたいしか べからず じせし べ のむねおお くださる うんぬん
關東に祗候之輩、顯要之官職を以て、恣に兼帶然る不可。辞令む可し之旨仰せ下被ると云々。
現代語建久二年(1191)十月小二十日乙未。(大江)広元さんが明法博士の職を辞めますと京都朝廷へ伝えました。
関東の鎌倉幕府に仕えている者が、京都朝廷の重要な役職を兼務するべきではない。辞職するようにと命じられたからだそうだ。
建久二年(1191)十月小廿二日丁酉。信濃國善光寺供養曼陀羅供。大阿闍梨中納言。阿闍梨忠豪。請僧當寺住侶也。治承三年回禄之後。適有新造云々。 |
読下し しなののくにぜんこうじ まんだらぐ くよう
建久二年(1191)十月小廿二日丁酉。信濃國善光寺曼陀羅供@を供養す。
だいあじゃりちうなごん あじゃりちうごう しょうそう とうじ じゅうりょなり じしょうさんねんかいろくののち たまた しんぞうあ うんぬん
大阿闍梨中納言、阿闍梨忠豪、請僧は當寺住侶也。治承三年回禄之後、適ま新造有りと云々。
現代語建久二年(1191)十月小二十二日丁酉。信濃国(長野)善光寺で金剛界胎蔵界の両曼荼羅を供養する儀式です。
大阿闍梨中納言、阿闍梨忠豪です。お供の坊さんは善光寺に住み着いている坊さんです。治承三年に火事で消失して、やっと新築が出来たからだそうです。
建久二年(1191)十月小廿五日庚子。來月鶴岡可有遷宮之子細。被凝群議之。行政。善信。盛時。俊兼等申沙汰之。當宮別當候其座。條々被申定者。爲令唱宮人曲。召下多好方云々。 |
読下し らいげつつるがおあかせんぐうのしさいあ べ これぐんぎ こらさる
建久二年(1191)十月小廿五日庚子。來月鶴岡遷宮之子細有る可し。之群議を凝被る。
ゆきまさ ぜんしん もりとき としかねら これ さた もう
行政、善信、盛時、俊兼等之を沙汰し申す。
とうぐうべっとう そ ざ そうら じょうじょうさだ もうさる てへ
みやびときょく うた せし ため おおのよしかた めしくだ うんぬん
當宮別當其の座に候ひ、條々定め申被る者り。宮人曲を唱は令めん爲、 多好方@を召下すと云々。
参考@多好方は、当時一番のお神楽や邦楽の名人。弟が鎌倉に残り、その子孫が大野鎌倉彫と聞く。
現代語建久二年(1191)十月小二十五日庚子。来月、鶴岡八幡宮の引越しの細かい次第が有ります。これを討議しました。
藤原行政、三善善信、平盛時、筑後権守俊兼達が検討して、頼朝様に申し上げました。
「八幡宮の長官もその場に同席して、色々の決め事を言ってくれました」と報告しました。
お神楽の「宮人曲」を歌わせるために、多好方を京都から呼ぶことにしましたとさ。