吾妻鏡入門第十一巻   

建久二年(1191)辛亥十一月小

建久二年(1191)十一月小三日戊申。御馬三疋〔共鴾毛〕日來被預置三浦介。今日被遣京都勞飼之。仙洞御移徙後朝可進上之由。被仰廣元朝臣之許云々。

読下し              おんうまさんびき 〔 とも つきげ  〕   ひごろ みうらのすけ  あず  おかれ
建久二年(1191)十一月小三日戊申。御馬三疋〔共に鴾毛@。日來三浦介に預け置被る。

きょう きょうと  つか  され  これ  いたは か       せんとう ごいし    ごちょう  しんじょうすべ のよし  ひろもとあそんの もと  おお  らる    うんぬん
今日京都へ遣は被、之を勞り飼ひて、仙洞御移徙の後朝に進上可き之由、廣元朝臣之許に仰せ被ると云々。

参考@鴾毛(つきげ)は、葦毛でやや赤みをおびたもの。葦毛(あしげ)は、体の一部や全体に白い毛が混生し、年齢とともにしだいに白くなる。

現代語建久二年(1191)十一月小三日戊申。御所の馬三頭〔皆月毛〕を、普段は三浦介義澄に預けて飼育させております。
今日、京都へ送られて「これらの馬を労わって飼育し、後白河法皇の引越しの祝いに翌朝届けるように。」と、京都へ行っている(大江)広元さんに伝えさせましたとさ。

建久二年(1191)十一月小八日癸丑。大姫君御不例復本御。日來所被致懇祈也。是御邪氣云々。

読下し              おおひめぎみ ごふれい もと  ふく  たま    ひごろ   こんきいたさる ところなり  これ  おんじゃき  うんぬん
建久二年(1191)十一月小八日癸丑。大姫君の御不例@本に復し御う。日來、懇祈致被る所也。是、御邪氣と云々。

参考@不例は、普段の例にあらずで病気。病気とは病の気が取り付く。

現代語建久二年(1191)十一月小八日癸丑。大姫君(数え年14歳)の病気が治りました。ずうーと熱心にお祈りしているからです。
これは邪気のせいとのことです。

建久二年(1191)十一月小十二日丁巳。北條殿室家自京都下向給。兄弟武者所宗親。外甥越後介高成等被相伴云々。

読下し               ほうじょうどの  しつけ きょうと よ   げこう    たま
建久二年(1191)十一月小十二日丁巳。北條殿が室家京都自り下向@し給ふ。

きょうだい むしゃどころむねちか  そとおい えちごのすけたかしげら しょうばんさる   うんぬん
兄弟 武者所宗親、 外甥 越後介高成等 相伴被ると云々。

参考@京都自り下向は、九月二十九日に春日大社参拝のため上洛。

現代語建久二年(1191)十一月小十二日丁巳。北条時政殿の奥さん牧の方が、京都から下ってきました。
兄弟の牧三郎武者所宗親と牧の方の甥にあたる越後介高成達が一緒に来ましたとさ。

建久二年(1191)十一月小十四日己未。梶原平三景時於由井邊。搦取男一人。是反逆餘黨之由自稱。景時雖問名字。直可申幕下之由稱之。不發言。仍召進。幕下於簾中覽之次朝宗。俊兼被記申詞。故伊豆右衛門尉家人前右兵衛尉平康盛也。爲謀北條平六左衛門尉。窺行之所。微運如此。金吾者前豫州〔義顯〕聟也。与同彼叛逆之間。遣平六被誅訖。爲果其宿意歟。鶴岡遷宮以後。可有罪名沙汰云々。

読下し                かじわらのへいざかげとき  ゆいへん  をい   おとこひとり  から  と     これ  はんぎゃくよとうのよしじしょう
建久二年(1191)十一月小十四日己未。梶原平三景時、由井邊に於て、男一人を搦め取る。是、反逆餘黨之由自稱す。

かげときみょうじ  と    いへど   じき  ばっか  もう  べ   のよしこれ  しょう   はつげんせず
景時名字を問うと雖も、直に幕下に申す可し之由之を稱し、發言不。

よっ  め   しん    ばっか れんちう  をい  み   のついで  ともむね  としかねもう  ことば き さる
仍て召し進ず。幕下簾中に於て覽る之次に朝宗、俊兼申す詞を記被る。

こいずうえもんのじょう    けにん  さきのうひょうえのじょう たいらのやすもりなり
故伊豆右衛門尉@が家人の 前右兵衛尉平康盛也。

ほうじょうへいろくさえもんのじょう  はか   ため  うかが  ゆ  のところ  びうん かく  ごと    きんごは さきのよしゅう 〔よしあき〕   むこなり
北條平六左衛門尉Aを謀らん爲、窺い行く之所、微運此の如し。金吾者前豫州〔義顯〕の聟也。

か   ほんぎゃく よどのかん   へいろく  つか   ちうされをはんぬ  そ   すくい  はた    ためか   つるがおかせんぐういご   ざいめい   さた あ   べ    うんぬん
彼の叛逆に与同之間、平六を遣はし誅被訖。 其の宿意を果さん爲歟。鶴岡遷宮以後に、罪名の沙汰有る可しと云々。

参考@故伊豆右衛門尉は、源有綱。金吾も同じ。
参考A
北條平六左衛門尉は、北條時政殿の代官の時定。彼は京都に居るのに、なぜ鎌倉へ?

現代語建久二年(1191)十一月小十四日己未。梶原平三景時が、由比の辺りで一人の男を捕まえました。
こいつは、反逆者の仲間だと自分で云っております。梶原景時が名前を聞いても、頼朝様に直接申し上げたいとだけ云って、後は黙ってしまいました。
そこで御前へ連れてきました。頼朝様は御簾の中から見ながら、比企藤内朝宗と筑後権守俊兼に話す内容を記録させることにしました。
亡くなった伊豆右衛門尉源有綱の家来の、前右兵衛尉平康盛です。北条平六左衛門尉時定をやっつけようと捜していたところ、運の無さはこの通りです。金吾源有綱は前予州義経の婿です。義経に味方をしたために、時定を派遣して殺させました。その恨みを果たすためになんでしょうかね。八幡宮の引越し以後に刑を決めるとのことでした。

建久二年(1191)十一月小十九日甲子。召右近將監好方於幕府賜盃酒。好方盡野曲。善信候御前。助音太絶妙也。又重忠。景季等。依仰於當座習神樂曲。兩人器量之由。好方感申云々。

読下し                うこんしょうげんよしかた を  ばくふ   め  はいしゅ  たま      よしかたやきょく   つく
建久二年(1191)十一月小十九日甲子。右近將監好方@於幕府に召し盃酒を賜はる。好方野曲Aを盡す。

ぜんしんごぜん  そうら   じょいん はなは びみょうなり また  しげただ  かげすえら  おお   よっ  とうざ   をい  かぐら  きょく  なら
善信御前に候ひ、助音B太だ絶妙也。又、重忠、景季等、仰せに依て當座に於て神樂の曲を習う。

りょうにんきりょうのよし  よしかたかん  もう    うんぬん
兩人器量之由、好方感じ申すと云々。

参考@右近将監多好方は、先月二十五日に京都から来ている。多好方は、当時一番のお神楽や邦楽の名人。弟が鎌倉に残り、その子孫が大野鎌倉彫と聞く。
参考A野曲は、郢曲、酒席で歌う雅楽に対する俗曲。
参考B助音は、朗詠などで、歌う人を助けて、声を添えて歌うこと。Yahoo辞書から

現代語建久二年(1191)十一月小十九日甲子。右近将監多好方を幕府にお呼びになり、酒をふるまわれました。好方は俗歌を唄いました。
大夫属入道三善善信も、頼朝様の御前に居て、声を添えてのハーモニーは素晴らしい出来でした。
又、畠山次郎重忠と梶原源太左衛門尉景季に命じて、その場でお神楽の曲を習わせました。「両人とも才能があります。」と好方が感心しましたとさ。

建久二年(1191)十一月小廿一日丙寅。天霽風靜。鶴岡八幡宮并若宮及末社等遷宮也。義盛。景時等。率隨兵警衛辻々并宮中。其後幕下〔御束帶。帶釼〕御參宮。江間殿〔義時〕持御釼。被候御座之傍。朝光同參候。已殿内奉送。好方唱宮人曲。頗有神感之瑞相云々。

読下し                そらはれかぜしず  つるがおかはちまんぐう なら  わかみやおよ まっしゃら   せんぐうなり
建久二年(1191)十一月小廿一日丙寅。天霽風靜か。 鶴岡八幡宮 并びに若宮及び末社等の遷宮也。

よしもり  かげときら   ずいへい ひき  つじつじなら   みやなか けいえい    そ   ご ばっか 〔おんそくたい  たいけん〕 ごさんぐう
義盛、景時等、隨兵を率い辻々并びに宮中を警衛す。其の後幕下〔御束帶、帶釼〕御參宮。

 えまどの   〔よしとき〕  ぎょけん  も     ぎょざのかたはら そうら らる    ともみつおな    さんこう   すで  でんない  おく たてまつ
江間殿@〔義時〕御釼を持ち、御座之傍に候は被る。朝光同じく參候す。已に殿内に送り奉る。

よしかたみやびときょく うた    すこぶ しんかんのずいそうあ    うんぬん
好方宮人曲を唱う。頗る神感之瑞相有りと云々。

現代語建久二年(1191)十一月小二十一日丙寅。空は晴れて風も静かです。鶴岡八幡宮と下社若宮それに境内末社の引越しです。
侍所長官の和田左衛門尉義盛と、副長官の梶原平三景時等が、武装儀杖兵を連れて交差点や境内を警備しています。
引越し式の後に頼朝様〔礼服の束帯に剣を佩く〕がお参りです。江間殿〔北条義時〕が刀持ちとして頼朝様の座の脇に控えており、小山七郎朝光も同様にそばについて、神殿内へ見送りました。多好方が宮人曲を唄いました。とても神様も感じるほどに縁起の良い歌声でしたとさ。

建久二年(1191)十一月小廿二日丁夘。多好方等欲歸洛之間。自政所賜餞物。行政。仲業。家光等奉行之。其上有別祿。馬十二疋云々。參州同被引馬十疋云々。
自幕下引給御馬。
 一疋〔おほくりけ〕        一疋〔つきけ〕
 一疋〔くりけこひたい〕      一疋〔ささつきのひはりけ〕
 一疋〔あくりくろ〕        一疋〔こかけ〕
 一疋〔くろふち〕         一疋〔くろ〕
 一疋〔志らくりけ〕        一疋〔おほあしけ〕
 一疋〔くりけきめひたい〕     一疋〔かけ〕
參河守被引馬。
 一疋〔くろかわらけ〕       一疋〔かけ〕
 一疋〔あをさきかすけ〕      一疋〔くろ〕
 一疋〔あしけ〕          一疋〔をはなあしけ〕
 一疋〔くりけ〕          一疋〔かけ〕
 一疋〔かけ〕           一疋〔あしけ〕
公文所送文云。
 好方給
 馬五疋内
 一疋〔くろ河原毛あかくらをゝい〕 一疋〔かけ黒ねりのはりかハ鞍〕
 一疋〔あおさきかすけ〕      一疋〔くろ〕
 荷鞍馬五疋
  一疋〔あしけ〕         一疋〔おなし〕
  一疋〔くりけ〕         一疋〔かけ〕
  一疋〔かけ〕
 むかはき一懸〔くまのかハ〕    屣 てふくろ
 なかもち一合内〔あかおゝいた いゆたん〕
 とのゐ物一領〔めつくしのこん〕  こそて七〔しろし〕
 すいかんはかま一具〔水干 こんくす はかま いとくす〕
 うすぎぬ二〔白〕         又こんの御こそて二
 ひたたれ十二具内
 こん一具             あいすり六具
 志ろき二具            かき三具
 上品絹十疋            い籙 の布二十段
 そめきぬ十切           い籙 かハ十五枚
 ゑほし二頭            ぬのさしなわ七方
 白布二百段
好節
 馬三疋内
 一疋〔つきけ まきゑ鞍〕     一疋〔くろ河原毛〕
 一疋かけ
 むかはき一懸〔なつけ〕      屣 てふくろ
 のや一こし            ゆみ一張
 もへきのいとおとしのはらまき一領
〔府生〕 公秀
 馬二疋内
 一疋〔かけ くろぬりのはりかハ鞍〕 一疋〔かけ〕
 むかはき一懸〔なつけ〕
 むかばき一懸〔なつけ〕      屣 てぶくろ
〔同〕 守正
  馬二疋内
  一疋〔くりけ くろハりかハ鞍〕 一疋〔にけ〕
  むかはき一懸〔ふゆけ〕     屣 てふくろ
  助直〔備中國吉備津宮C目助信子〕
  馬二疋内
  一疋〔かけ くろはりかハ鞍〕  一疋〔かけ〕
  むかはき一懸〔なつけ〕     屣 てぶくろ
    建久二年十一月 日
 おくりふ廿一人

読下し               おおののよしかたきらく      ほっ  のかん まんどころよ  せんべつ おく
建久二年(1191)十一月小廿二日丁夘。多好方等歸洛せんと欲す之間、政所自り餞物を賜る。

ゆきまさ  なかなり  いえみつ ら これ  ぶぎょう
行政、仲業、家光@等之を奉行す。 参考@家光は、伊藤四郎家光か塩屋太郎家光のいずれからしいが分からない。

 そ   うえべつろくあ     うまじうにひき  うんぬん さんしゅうおな   うまじっぴき  ひ   れる  うんぬん
其の上別祿有り。馬十二疋と云々。參州同じく馬十疋を引か被と云々。

ばっか よ   ひ     たま  おんうま
幕下自り引かれ給ふ御馬。

  いっぴき 〔 大 栗 毛  〕                いっぴき 〔 鴾 毛 〕    参考栗毛(くりげ)は、全身が褐色の毛で覆われている。
 一疋〔おほくりけ〕        一疋〔つきけ〕 参考鴾毛(つきげ)は、葦毛でやや赤みをおびたもの。

  いっぴき 〔 栗 毛 小 額  〕              いっぴき 〔 笹 鴾 の 雲 雀 毛 
 一疋〔くりけこひたい〕      一疋〔ささつきのひはりけ〕

  いっぴき 〔 亜 栗 黒  〕                いっぴき 〔 小鹿
 一疋〔あくりくろ〕        一疋〔こかけ〕

  いっぴき 〔 黒    〕                  いっぴき 〔 黒 
 一疋〔くろふち〕         一疋〔くろ〕

  いっぴき 〔 白 栗 毛  〕                いっぴき 〔 大 葦 毛 
 一疋〔志らくりけ〕        一疋〔おほあしけ〕 参考葦毛は、体の一部や全体に白い毛が混生し、年とともに次第に白くなる。

  いっぴき 〔 栗 毛 き め 額  〕            いっぴき 〔 鹿
 一疋〔くりけきめひたい〕     一疋〔かけ〕参考鹿毛は、一般的な毛色で、鹿の毛の様に茶褐色で、鬣尾足首に黒い毛が混じる。

みかわのかみ ひかれ  うま
參河守の引被る馬。

  いっぴき 〔 黒 河 原 毛  〕              いっぴき 〔 鹿〕 参考黒瓦毛(くろかわらけ)は、河原毛の黒部分が多いものと思われる。
 一疋〔くろかわらけ〕       一疋〔かけ〕 参考河原毛(かわらけ)は、体は淡い黄褐色か亜麻色で四肢の下部と長毛は黒い。

  いっぴき 〔 青 先 糟 毛  〕              いっぴき 〔 黒 〕
 一疋〔あをさきかすけ〕      一疋〔くろ〕

  いっぴき 〔 葦 毛 〕                    いっぴき 〔 尾 花 葦 毛 
 一疋〔あしけ〕          一疋〔をはなあしけ〕参考尾花葦毛は、葦毛のたてがみや尾が、白いものは尾花葦毛と呼ぶ。

  いっぴき 〔 栗 毛 〕                    いっぴき 〔 鹿
 一疋〔くりけ〕          一疋〔かけ〕

  いっぴき 〔 鹿〕                      いっぴき 〔 葦 毛 〕 
 一疋〔かけ〕           一疋〔あしけ〕

 くもんじょ  おく  ぶみ  い
公文所の送り文に云はく。

  よしかた  たま
 好方に給ふ

  うま ごひき  うち
 馬五疋の内

  いっぴき 〔 黒 河原毛   赤  鞍  覆い  〕   いっぴき 〔鹿毛  黒塗り    貼り皮  くら〕 
 一疋〔くろ河原毛あかくらをゝい〕 一疋〔かけ黒ねりのはりかハ鞍〕

  いっぴき 〔 青  先   糟 毛 〕            いっぴき 〔 黒 〕 
 一疋〔あおさきかすけ〕      一疋〔くろ〕

  に くらうま ぎひき
 荷鞍馬五疋

    いっぴき 〔 葦 毛 〕                   いっぴき 〔 尾 無し 
  一疋〔あしけ〕         一疋〔おなし〕

    いっぴき 〔 栗 毛 〕                  いっぴき 〔 鹿
  一疋〔くりけ〕         一疋〔かけ〕

    いっぴき 〔 鹿
  一疋〔かけ〕

     行縢   いっかけ 〔  熊   皮   〕        はきもの   手袋
 むかはき一懸〔くまのかハ〕    屣 てふくろ

     中持   ひとあわ   うち  〔 赤  大板       ???? 
 なかもち一合せの内〔あかおゝいた いゆたん〕

    宿直  ものいちりょう 〔 目尽くし    紺  〕       小袖 しち 〔 白し 〕
 とのゐ物一領〔めつくしのこん〕  こそて七〔しろし〕

     水干      袴    いちぐ 〔 すいかん  紺葛      袴     糸葛   〕
 すいかんはかま一具〔水干 こんくす はかま いとくす〕

     薄 絹   に  〔しろ〕                 また  紺の   おん 小袖  に
 うすぎぬ二〔白〕         又こんの御こそて二

      直垂   じうにぐ   うち
 ひたたれ十二具の内

    紺  ひとぐ                                  藍 摺り むつぐ
 こん一具             あいすり六具

    白き   ふたぐ                              柿  みつぐ
 志ろき二具            かき三具

  じょうぼんきぬじっぴき                            いろく     ぬのにじったん
 上品絹十疋            い籙 の布二十段

    染絹     じっきり                           いろく    皮  じうごまい
 そめきぬ十切           い籙 かハ十五枚

   烏帽子  にとう                               布    指し縄   しちほう
 ゑほし二頭            ぬのさしなわ七方

  すらぬのにひゃくたん
 白布二百段

よしとき
好節

  うまさんびき  うち
 馬三疋の内

  いっぴき 〔 鴾 毛      蒔絵 くら〕          いっぴき 〔 黒 かわらけ 〕
 一疋〔つきけ まきゑ鞍〕     一疋〔くろ河原毛〕

  いっぴき 鹿
 一疋かけ

     行縢    いちかけ 〔  夏毛  〕              はきもの    手袋
 むかはき一懸〔なつけ〕      屣 てふくろ

   野矢 ひと 腰                               弓  ひとはり
 のや一こし            ゆみ一張

    萌黄  の    糸威し          腹巻   いちりょう
 もへきのいとおとしのはらまき一領

 〔 ふしょう   きんひで
〔府生〕 公秀

   うまにひき  うち
 馬二疋の内

  いっぴき 〔 鹿 毛    黒塗り      貼り皮 くら〕   いっぴき 〔 鹿
 一疋〔かけ くろぬりのはりかハ鞍〕 一疋〔かけ〕

     行縢    ひとかけ 〔 夏毛 〕            はきもの   手袋
 むかばき一懸〔なつけ〕      屣 てぶくろ

 〔 おな      もりまさ
〔同じき〕 守正

     うまにひき  うち
  馬二疋の内

    いっぴき 〔 栗 毛       黒   貼り皮 くら〕   いっぴき 〔 二
  一疋〔くりけ くろハりかハ鞍〕 一疋〔にけ〕

     行縢    ひとかけ 〔 夏毛 〕            はきもの   手袋
  むかはき一懸〔ふゆけ〕     屣 てふくろ

     すけなお〔びっちゅうのくに きびつのみや きよめ すけのぶ   こ〕
  助直〔 備中國 吉備津宮 C目助信の子〕

     うまにひき  うち
  馬二疋の内

    いっぴき 〔 鹿 毛    黒   貼り皮 くら〕     いっぴき 〔 鹿
  一疋〔かけ くろはりかハ鞍〕  一疋〔かけ〕

     行縢    ひとかけ 〔 夏毛 〕            はきもの   手袋
  むかはき一懸〔なつけ〕     屣 てぶくろ

         けんきゅうにねんじういちがつ にち
    建久二年十一月 日

     送り夫  にじういちにん
 おくりふ廿一人

現代語建久二年(1191)十一月小二十二日丁卯。多好方が京都へ帰りたいと言うので、幕府の政務機関政所から、公的お礼として餞別を与えます。
主計允藤原行政と中原右京進仲業と家光が担当をしました。其の他別に贈り物がありますが、馬十二頭だそうです。源参河守範頼も同様に馬十頭を引いて出しました。

頼朝様が引き出した馬は、大栗毛、月毛、栗毛小額、笹月毛の雲雀毛、亜栗黒、小鹿毛、黒斑、黒、白栗毛、大葦毛、栗毛決め額、鹿毛。

源參河守範頼様が引き出した馬は、黒河原毛、鹿毛、青先糟毛、黒、葦毛、尾花葦毛、栗毛、鹿毛、鹿毛、葦毛、

政所事務所からの送付状に書いてあるのは、

多好方に与える
 馬五頭の内 一頭〔黒・河原毛、赤い鞍を掛ける〕 一頭〔鹿毛、黒塗りの張皮の鞍〕 一頭〔青先糟毛〕 一頭〔黒〕
 荷駄用の鞍を載せた馬五頭 一頭〔葦毛〕 一頭〔尾無し〕 一頭〔栗毛〕 一頭〔鹿毛〕 一頭〔鹿毛〕
 行縢一懸〔熊の皮〕 履物 手袋 長持一合せの内〔赤大板、湯反〕 宿直物一領〔目つくしの紺〕 小袖(普段着)七〔白い〕
 水干袴一組〔水干紺葛袴糸葛〕薄絹二〔白〕 又紺の御小袖二  直垂十二組の内 紺一組 藍摺り六組 白黄二組 柿色三組
 上等の絹十匹(二十反) 色々野布二十反  染絹十切れ 色々皮十五枚  烏帽子二頭 布指し縄七種 白布二百反

多好節(息)の分
 馬三頭の内 一頭〔月毛 蒔絵の鞍付き〕 一頭〔黒河原毛〕 一頭鹿毛 行縢一懸〔夏毛〕 履物 手袋 野矢一腰(二十四本)
 弓一張 萌黄糸威しの腹巻一領

〔近衛府の下役府生〕公秀 馬二頭の内  一頭〔鹿毛 黒塗りの張皮の鞍付き〕 一頭〔鹿毛〕 行縢一懸〔夏毛〕 履物 手袋
〔同じく〕守正 馬二頭の内 一頭〔栗毛 黒塗りの張皮の鞍付き〕 一頭〔二毛〕 行縢一懸〔冬毛〕 履物 手袋
     助直〔備中国吉備津神社のC目助信の子〕馬二頭の内 一頭〔鹿毛 黒塗りの張皮の鞍付き〕 一頭〔鹿毛〕 行縢一懸〔夏毛〕 履物 手袋

   建久二年十一月 日
    送る人夫二十一人

建久二年(1191)十一月小廿三日戊辰。以遠江國河村庄。本主三郎高政奉寄附北條殿。有愁訴之故也。

読下し                とおとうみのくに かわむらのしょう もっ   ほんじゅさぶろうたかまさ ほうじょうどの  きふ  たてまつ  しゅうそあ   のゆえなり
建久二年(1191)十一月小廿三日戊辰。 遠江國  河村庄 を以て、本主三郎高政 北條殿に寄附し@奉る。愁訴有る之故也。

参考@北條殿に寄附しは、頼朝の舅の時政の力を借りるため。

現代語建久二年(1191)十一月小二十三日戊辰。遠江国河村庄を本来の領主の三郎高政が、北条時政殿の領地に寄附しました。実は、嘆き訴える事があるからです。

参考遠江國河村庄は、静岡県小笠郡菊川町の中央部を荘域と推測される(日本歴史地名大系)

建久二年(1191)十一月小廿七日壬申。及晩。幕下令立北面簀子給之處。法師一人跪庭上。聊有御用心。以三浦太郎景連。被尋仰子細。法師曰。吾駿河守童加世丸也。守自怨恨。令發心逐電。當時爲求法。住上醍醐。而頻蒙慇懃御扶持之條難忘。挿叛逆逐電歟之由。定有疑胎哉。早申披事由。可歸來之旨。示付之故所參也者。仰曰。恨何事乎。申云。大將御拝賀之時。撰馴京都輩。被定供奉人之處。廣綱自幼稚住洛陽之上。謂官位者。又就最初御吹擧任之間。於一族爲上臈。然而漏其列訖。次駿河國々務事。雖成望不達之。兩條依失眉目遁世。於今者。彼已爲出離知識。凡於浮生榮花者。所不庶幾也。御没後如奉訪菩提可酬恩徳。有前後相違者。可爲善處引導云々。仰云。此事兩條共。更難稱恨事歟。前駈者自院被定之外。參州者爲兄弟之間。難准自餘之條。相摸守已下令存知之。敢不胎所存。廣綱獨何可有憤念哉。次國務事者。不伺叡慮者。非私計畧之處。不相待左右逐電。不知行方之間。力不及次第也。須相副御使於汝。遣陳謝状云々。仍暫可令候。點旅宿。可招引之由。景連示之。白地出訖。立歸相尋之處。彼法師不知行方云々。事之躰奇恠之由云々。

読下し                ばん  およ    ばっか ほくめん  すのこ   た   せし  たま  のところ  ほっし ひとり ていじょう ひざまづ
建久二年(1191)十一月小廿七日壬申。晩に及び、幕下北面の簀子に立た令め給ふ之處、法師一人庭上に跪く。

いささ  ごようじんあ     みうらのたろうかげつら  もっ    しさい  たず  おお  らる
聊か御用心有り。三浦太郎景連を以て、子細を尋ね仰せ被る。

ほっし い      われ  するがのかみ わらわかせまるなり  みづか えんこん まも    ほっしんせし  ちくてん    とうじ  ぐほう   ため  かみだいご  す
法師曰はく、吾は駿河守の童加世丸也。自ら怨恨を守り、發心令め逐電す。當時求法の爲、上醍醐に住む。

しか   しきり いんぎん   ごふち  こうむ  のじょうわす  がた   ほんぎゃく さしはさ ちくてん   かのよし   さだ    ぎたい あ   や
而るに頻に慇懃の御扶持を蒙る之條忘れ難し。叛逆を挿み逐電する歟之由、定めて疑胎有り哉。

はやく こと  よし  もう  ひら    かえ  きた  べ   のむね  しめ  つ     のゆえ まい ところなりてへ     おお    い
早く事の由を申し披き、歸り來る可し之旨、示し付ける之故參る所也者れば、仰せて曰はく。

うら    なにごとや   もう    い
恨みは何事乎。申して云はく。

たいしょう おんはいがのとき  きょうと  なじ  やから えら     ぐぶにん  さだ  らる  のところ  ひろつなようちよ   らくよう  す   のうえ
大將の御拝賀之時、京都に馴む輩を撰び、供奉人を定め被る之處、廣綱幼稚自り洛陽に住む之上、

かんい  い   ば   また  さいしょ  ごすいきょ  つ   にん    のかん  いちぞく  をい    じょうろう  なす しかれども そ   れつ  も をはんぬ
官位を謂は者、又、最初の御吹擧に就き任ずる之間、一族に於ては上臈と爲。然而 其の列に漏れ訖。

つぎ  するがのくにこくむ  こと  のぞ    な    いへど  これ たっせず  りょうじょうびもく  うしな    よっ  とんせい
次に駿河國々務の事、望みを成すと雖も之を達不。 兩條眉目を失うに依て遁世す。

いま  をい  は   か  すで  しゅつり  ちしき  な     およ  ふせい   えいか  をい  は   しょきせざ  ところなり
今に於て者、彼は已に出離の知識と爲す。凡そ浮生の榮花に於て者、庶幾不る所也。

おんぼつご  ぼだい  とぶら たてまつ  おんとく むく  べ   ごと    ぜんご そうい あ   ば   ぜんしょ  いんどう  な   べ     うんぬん
御没後に菩提を訪ひ 奉り 恩徳に酬う可く如し。前後相違有ら者、善處に引導を爲す可しと云々。

おお    い       こ   こと りょうじょう とも    さら  うら    しょう  がた  ことか
仰せて云はく。此の事 兩條 共に、更に恨みと稱し難き事歟。

ぜんく は いんよ   さだ  らる  のほか  さんしゅうは きょうだいたるのかん  じよ  なぞら がた  のじょう  さがみのかみ いか これ  ぞんちせし    あえ  しょぞん  のこさず
前駈者院自り定め被る之外、參州者兄弟爲之間、自餘に准い難き之條、 相摸守 已下之を存知令め、敢て所存を胎不。

ひるつなひと なん  ふんねんあるべき や
廣綱獨り何ぞ憤念有可き哉。

つぎ   こくむ  ことは   えいりょ  うかが ざるは   し  けいりゃく あらざ のところ   そう   あいまたず   ちくてん    いくえ  しらざるのかん
次に國務の事者、叡慮を伺は不者、私の計畧に非る之處、左右を相待不に逐電し、行方を知不之間、

ちからおよ ざ  しだいなり
力及ば不る次第也。

すべから  おんしを なんじ  あいそ    ちんしゃ じょう  つか      うんぬん  よっ  しばら そうせし  べ
 須く 御使於汝に相副へ、陳謝の状を遣はすと云々。仍て暫く候令む可し。

りょしゅく  てん   しょういんすべ  のよし  かげつらこれ  しめ   あからさま い  をはんぬ
旅宿を點じ、招引可し之由、景連之を示し、白地に出で訖。

た   かえ  あいたず  のところ  か   ほっし いくえ   しらず   うんぬん  このてい きっかいのよし  うんぬん
立ち歸り相尋ぬ之處、彼の法師行方を知不と云々。事之躰奇恠之由と云々。

現代語建久二年(1191)十一月小二十七日壬申。夜になって、頼朝様は御所北の私邸の濡れ縁に立っていたところ、僧が一人庭に跪いています。怪しいと見て用心の為、三浦太郎景連を使って事情を聞かせました。
僧が云うのには、「私は、駿河守太田広綱に仕える召使です。自分から贖罪の為に出家をして行方をくらませました。今は仏教を習うために上醍醐(京都市伏見区醍醐の上醍醐寺)に住んでいます。それでも、とても丁寧にお世話になった事が忘れられません。でも、逆らって行方をくらましたと、きっと疑われていることでしょう。早く事情を説明して帰ってくるようにと云われたので、参りました。」と云ったので、頼朝様は仰せになられ「恨み言は何なのだ?」答えて云うのには、「頼朝様が右大将のお礼参りの時、京都を良く知っているものを選んで、お供にお決めになられましたが、駿河守太田広綱は子供の頃から京都に住んでいた上に、官位を云えば、最初に推薦されて官職を得たので、一族の間でも先輩筋です。それなのにお供に洩れてしまいました。次ぎに駿河の国の国司には任命されましたけど、実務にはついておりません。この二つが面目を失ったので、とんずらした訳です。今となっては、彼は既に出家して坊さんになっています。はかない浮世の栄華なんて望んでいる訳ではありません。死んだ後で菩提を弔って恩返しをする事になるでしょう。内容に間違いがあれば、指摘をしてください。」とのことなんだとさ。

おっしゃらるのには、「この事はどちらも、恨みの材料とはなしえない事じゃないか。前を行くものは院から派遣された者以外では、源参河守範頼は兄弟なので、他の人と一緒とは行かない事は、大内相模守惟義以下の源氏は、これを承知していて、あえて遺恨を残さないでしょう。それなのに駿河守太田広綱一人が何で怒らなくちゃいけないのだ。次ぎに国司の仕事は、朝廷の意見を聞かなくてはならず、私の範疇ではないので、結果を待たないでいなくなり、行方知れずになったのでどうしようもなかった訳だ。早速に私の使いをお前と一緒に、詫び状を発しよう。」とのことだとさ。そこで暫く待っているようにと、旅館を決めて連れて行きましょうと三浦太郎景連が伝えて、一旦出て行きました。(手配をして)戻ってみると、あの僧が居なくなっていました。何だよ、「おかしいじゃないか。(一帯どうなっちまってんだよ。)」なんだとさ。

十二月へ

吾妻鏡入門第十一巻   

inserted by FC2 system