吾妻鏡入門第十一巻   

建久二年(1191)辛亥閏十二月小

参考閏月は、陰暦では「大の月」が三十日、「小の月」が二十九日でそれぞれ六月だと計三五四日で十一日足りないので、数年すると季節が合わなくなるので、適度な時期に閏月を入れる。但し閏月は十五日が満月の日になるようにする。十二月に限り後十二月とも書く。

建久二年(1191)閏十二月小二日丙午。北條殿令煩脚氣給。仍爲相勞之。今曉被下向伊豆國北條。於彼所可有御越年云々。

読下し                       ほうじょうどのかっけ  わずら せし  たま    よっ  これ  あいいたわ  ため  こんぎょう いずのくにほうじょう  げこうさる
建久二年(1191)閏十二月小二日丙午。北條殿脚氣を煩は令め給ふ。仍て之を相勞らん爲、 今曉 伊豆國北條へ下向被る。

か   ところ をい  ごえつねん あ  べ    うんぬん
彼の所に於て御越年有る可しと云々。

現代語建久二年(1191)閏十二月小二日丙午。北条時政殿が脚気にかかりました。
そこでこれを治す為に、今朝伊豆国北条へ下られました。そこで年を越す予定だそうです。

建久二年(1191)閏十二月小五日己酉。高三位書状參着。所送進院廳御下文也。是相催地頭之輩。可令引東大寺柱之由也。

読下し                       こうのさんみ  しょじょうさんちゃく  いんのちょう おんくだしぶみ おく  しん ところなり
建久二年(1191)閏十二月小五日己酉。高三位が書状參着す。 院廳の 御下文を 送り進ず所也。

これ  ぢとうのやから  あいもよお   とうだいじ  はしら ひ   せし  べ   のよしなり
是、地頭之輩を相催し、東大寺の柱を引か令む可し之由也。

現代語建久二年(1191)閏十二月小五日己酉。三位高階泰経の手紙が届きました。院の庁からの命令書の送り状です。
内容は、地頭たちに命じて、東大寺の柱を引き出すようにとのことでした。

建久二年(1191)閏十二月小七日辛亥。幕下入御于三浦介義澄宅。此間依令新造。所申案内也。終日御興遊。平六兵衛尉義村。太郎景連。佐貫四郎。大井兵衛二郎等被召。决相撲勝負云々。

読下し                       ばっか みうらのすけよしずみたくににゅうぎょ  こ   かんしんぞうせし    よっ    あないもう  ところなり
建久二年(1191)閏十二月小七日辛亥。幕下三浦介義澄宅于入御す。此の間新造令む@に依て、案内申す所也。

しゅうじつごゆうきょう  へいろくひょうのじょうよしむら  たろうかげつら  さぬきのしろう  おおいのひょうえじろう ら   めされ  すまい   しょうぶ  けっ    うんぬん
終日御興遊。 平六兵衛尉義村、 太郎景連、佐貫四郎、大井兵衛二郎等を召被、相撲の勝負を决すと云々。

参考@新造令むは、三月四日の火事で八幡宮・幕府と共に焼けてしまったからと思われる。

現代語建久二年(1191)閏十二月小七日辛亥。頼朝様が三浦介義澄の屋敷へ訪問されました。
先日来、新築が終えたので接待されたのです。一日中遊ばれました。
三浦平六兵衛尉義村、三浦太郎景連、佐貫四郎広綱、大井兵衛二郎実春等を呼ばれて、相撲の勝負をさせましたとさ。

建久二年(1191)閏十二月小九日癸丑。東大寺柱四十八本。明年中可引進之由。被仰畿内西海地頭等。佐々木四郎左衛門尉高綱可爲奉行云々。

読下し                       とうだいじ  はしらしじうはっぽん  みょうねんちう  ひ   しん  べ   のよし  きない  さいかい  ぢとうら   おお  らる
建久二年(1191)閏十二月小九日癸丑。東大寺の柱四十八本。 明年中に引き進ず可し之由、畿内、西海の地頭等に仰せ被る。

 ささきのしろうさえもんのじょうたかつな ぶぎょう  な   べ     うんぬん
佐々木四郎左衛門尉高綱奉行を爲す可しと云々。

現代語建久二年(1191)閏十二月小九日癸丑。東大寺再建用の柱四十八本を、来年中に引き出してくるように、関西と九州の地頭等に命じました。
佐々木四郎左衛門尉高綱
が、担当するようにとのことでした。

建久二年(1191)閏十二月小十八日壬戌。於幕府被讀誦千巻觀音經。鶴岳并勝長壽院供僧等奉仕之。被勸酒於彼僧等。自令取酌給云々。

読下し                         ばくふ  をい  せんがん かんのんきょう よ  とな   らる   つるがおかなら  しょうちょうじゅいん  ぐそうら これ  ほうし
建久二年(1191)閏十二月小十八日壬戌。幕府に於て千巻の觀音經を讀み誦へ被る。鶴岳并びに勝長壽院の供僧等之を奉仕す。

さけを か   そうら  すす  られ  みづか しゃく と   せし  たま    うんぬん
酒於彼の僧等に勸め被、自ら酌を取ら令め給ふと云々。

現代語建久二年(1191)閏十二月小十八日壬戌。幕府の御所で千巻の観音経を唄うように読み上げました。鶴岡八幡宮と勝長寿院の坊さん達が勤めました。
酒をその坊さん達に勧められまして、なんと頼朝様自らお酌をしたそうです。

建久二年(1191)閏十二月小廿五日己巳。梶原刑部丞朝景申之。去十六日夜。左府禪閤〔實定公〕薨給。年五十三云々。幕下殊歎息給。關東有由緒。日來所被重之也。梶原者。又朝景々時共以浴彼恩澤云々。景時者依幕下御吹擧。先年爲美作國目代云々。

読下し                         かじわらのぎょうのじょうともかげ これ もう   さんぬ じうろくにち  よ   さふぜんこう  〔さねさだこう〕   こう  たま
建久二年(1191)閏十二月小廿五日己巳。 梶原刑部丞朝景 之を申す。去る十六日の夜。左府禪閤〔實定公〕@薨じ給ふ。

としごじうさん   うんぬん  ばっか こと  たんそく  たま    かんとう  ゆいしょあ      ひごろこれ  ちょうぜられ ところなり
年五十三と云々。幕下殊に歎息し給ふ。關東に由緒有りて、日來之を重被る所也。

かじわらは  またともかげ  かげときとも  もっ  か   おんたく  よく    うんぬん  かげときは ばっか  ごすいきょ  よっ    せんねん みまさかのくに もくだい な    うんぬん
梶原者、又朝景、々時共に以て彼の恩澤に浴すと云々。景時者幕下の御吹擧に依て、先年 美作國の目代を爲すと云々。

参考@左府禅閤実定は、徳大寺実定。源義経と後白河法皇による頼朝追討院宣には慎重な姿勢を示したので、義経亡命後、源頼朝の推挙で議奏十人の一人に押され、文治2年(1186年)10月には右大臣、文治5年(1189年)7月に左大臣となった。ウィキペディアから

現代語建久二年(1191)閏十二月小二十五日己巳。梶原刑部烝朝景が報告をしました。
さる十六日の夜に左大臣徳大寺実定が亡くなられました。年は五十三歳だそうです。
頼朝様は特にがっかりなされました。関東に縁があって(義経事件)、普段から大事にされておりました。梶原一族は、朝景も景時も双方共に恩に預かっておりました。梶原景時は、頼朝様の推薦で、以前美作国の代官をしておりましたとさ。

推測梶原一族の任官は、頼朝が推薦して、徳大寺実定が取り次いだのであろう。

建久二年(1191)閏十二月小廿七日辛未。自今月中旬之比。法皇御不豫。御痢病与御不食計會之由。依有其聞。幕下自今日御潔齋。爲彼御祈請。讀誦法華經給云々。

読下し                         こんげつちうじゅんのころよ   ほうおう ごふよ
建久二年(1191)閏十二月小廿七日辛未。今月中旬之比自り、法皇御不豫。

ごびょうり と ごふじき はか  あは  のよし   そ   きこ  あ     よっ    ばっか きょうよ   ごけっさい
御痢病与御不食計り會す之由、其の聞へ有るに依て、幕下今日自り御潔齋。

か    ごきしょう  ため  ほけきょう   よ  とな  たま    うんぬん
彼の御祈請の爲、法華經を讀み誦へ給ふと云々。

現代語建久二年(1191)閏十二月小二十七日辛未。今月の中旬頃に、後白河法皇が具合が悪くなりました。
腹痛に下痢と食事が咽を通らなくなったと、耳に入って来たので、頼朝様は身を清め精進して、病気が治るように祈るため、法華経を歌うように声を出して唱えられましたとさ。

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