吾妻鏡入門第十二巻   

建久三年(1192)壬子三月小

建久三年(1192)三月小二日甲戌。廷尉廣元書状自京都參着。當職事既上辞状訖。其案文謹献上云々。此事太相叶御意云々。彼状云。
  正五位下行左衛門大尉中原朝臣廣元誠惶誠恐謹言。
  請殊蒙 天恩被罷所帶左衛門尉檢非違使職状
 右廣元去年四月一日任明法博士左衛門大尉。即蒙檢非違使 宣旨。三箇之恩。一所不耐。是以同十一月五日。先遁季曹之儒職。憖居棘署之法官。竊以。累祖立身。雖趨北闕之月。一族傳跡。皆學南堂之風。而校尉者王之爪牙也。専爲輦轂之警衛。廷尉者民之銜勒也。宜致囹圄之手足。爰廣元性受暗愚。爭弁薫豊兩日之夢。心非明察。宛隔紫雄三代之塵。不如早謝榮於非分之任。竭忠於方寸之誠耳。望請天慈。曲照地慮。然則内避〔瞰〕鬼之廻眸。外〔弭〕議人之聚口。難慰悚競之至。廣元誠惶誠恐謹言。
   建久三年二月廿一日               正五位下行左衛門大尉中原廣元  

読下し                   ていい ひろもと しょじょうきょうとよ さんちゃく    とうしき  こと  すで  じじょう  あ  をはんぬ
建久三年(1192)三月小二日甲戌。廷尉廣元が書状京都自り參着す。當職の事、既に辞状@を上げ訖。 

そ  あんぶん つつし   けんじょう   うんぬん  こ   ことはなは ぎょい  あいかな   うんぬん  か  じょう  い
其の案文A謹みて献上すと云々。此の事太だ御意に相叶うと云々。彼の状に云はく。

参考@辞状は、辞職願い。
参考A其の案文は、写し。

    しょうごいげぎょう さえもんのたいじょう なかはらあそんひろもと じょうこうじょうきょうきんげん
  正五位下行B左衛門大尉 中原朝臣廣元 誠惶誠恐謹言

    こと    てんおん こうむ しょたい  さえもんのじょう けびいししき   やめられ    う    じょう
  殊に 天恩を蒙り所帶Cの左衛門尉檢非違使職を罷被んと請ける状

  みぎ ひろもと きょねんしがつついたち みょうぼうはくじ  さえもんのだいじょう  にん   すなは  けびいし    せんじ こうむ
 右の廣元、去年四月一日、明法博士D、左衛門大尉に任じ、即ち檢非違使の宣旨を蒙る。

  さんかのおん   いっしょ  たえず  これおな  じういちがついつか   もつ    さき  りそう の ずしき  のが    なまじい ぎょくしょのほうかん い
 三箇之恩を一所に不耐E。是同じき十一月五日を以て、先に季曹之儒職Fを遁れ、憖に棘署之法官Gに居る。

  ひそか もつ   るいそ み   た     ほくけつのつき おもむ  いへど   いちぞくあと つた   みななんどうのかぜ  まな
 竊に以て、累祖身を立て、北闕之月Hに趨くと雖も、一族跡を傳へ、皆南堂之風Iを學ぶ。

  しか   こうじょうは おうのほうがなり   もつぱ れんこくのけいえいた  ていいは たみのかんろくなり   よろ   れいご の てあし  いた
 而して校尉者王之爪牙也J。専ら輦轂之警衛K爲り。廷尉者民之銜勒L也。宜しく囹圄之手足を致すM

  ここ  ひろもと  しょうあんぐ  う     いかで くんほうりょうじつのゆめ べん    こころめいさつ あらず あたか しゆうさんだいのちり   へだ
 爰に廣元、性暗愚に受く。爭か薫豊兩日之夢Nを弁ぜん。心明察に非。 宛も紫雄三代之塵を隔つO

  しかず  はや  さかえをひぶんのにん  しゃ   ちゅうをほうすんのまこと つく のみ  のぞ  こ       てん いつくし  つまびら  ちりょ   てら
 如不、早く榮於非分之任に謝し、忠於方寸之誠に竭すP耳。望み請うは、天の慈み、曲かに地慮を照せ。

  しから すなは うち  かんきのかいぼう   さ     そと  ぎじんのしゅうこう  なん  や     しょうきょうのいたり なぐさ
 然ば則ち内に瞰鬼之廻眸Qを避け、外に議人之聚口の難を弭め、悚競之至を慰めん。

  ひろもとじょうこうじょうきょうきんげん
 廣元誠惶誠恐謹言

      けんきゅうさんねんにがつにじういちにち                           しょうごいげぎょうさえもんのたいじょうなかはらひろもと
   建久三年二月廿一日               正五位下行左衛門大尉中原廣元

参考B正五位下行の行は、高位低官。逆の低位高官は、守。
参考C所帶は、帯びる所で、身に着けている官職。
参考D明法博士は、律令制の大学寮における学科の一の教師の長官。
参考E一所に不耐は、一身では耐え切れない。
参考F季曹之儒職は、明法博士のこと。
参考G
棘署之法官は、檢非違使のこと。
参考H北闕之月に趨くは、鎌倉へ行って勤務している。朝廷から見れば北の野蛮人達の。月は朝廷を表の日と例え、鎌倉幕府を陰の月と遠慮している。
参考I南堂之風を學ぶは、(親戚の皆は)京都で勤務している。
参考J
校尉者王之爪牙也は、校尉は近衛の兵士なのに。
参考K
輦轂之警衛は、天皇の警備員。
参考L民之銜勒は、民を動かす轡。
参考M囹圄之手足を致しは、牢屋に入れる。
参考N兩日之夢は、京都と鎌倉の両方の。
参考O宛も紫雄三代之塵を隔つは、意味不明。乞教示。
参考P
忠於方寸之誠に竭すは、心の中だけで。
参考Q瞰鬼之廻眸は、ねたみを買う。

現代語建久三年(1192)三月小二日甲戌。検非違使職の(大江)広元の手紙が京都から到着しました。その職については既に辞職願いを提出し終えました。その写しを謹んで届けて来ましたとさ。(頼朝様の力とは関係なく京都から貰った官職なので)その態度はとても頼朝様の方針にあっておりますとさ。その案文に書いてあるのは

 正五位下行左衛門大尉中原朝臣広元 慎み敬って申し上げます
 特に朝廷からの恩を頂いた官職の左衛門尉検非違使職を止めさせて欲しいとの内容です
 右の大江広元は、去年の四月一日に大学寮教師長官と左衛門大尉に任命され、直ぐに検非違使の宣告を受けました。三つもの官職を一身では耐え切れません。これは同じ年の十一月五日付けで、まず大学寮教師長官の職を離れましたが、まだ無理に検非違使の職にあります。こっそりと身を立てるために、東国の鎌倉幕府に参りましたが、一族は先祖代々、皆京都朝廷に勤務しております。しかし
校尉は近衛の兵士なのです。天皇の警備が専門です。廷尉は、民を動かすくつわで、牢屋に入れる役です。この広元は生まれながらに利口者では有りませんので、何故京都鎌倉の両方に仕えようなんてとても云えません。心も明瞭に分けられません。宛も紫雄三代之塵を隔つ。さっさと身分違いの任官を遠慮して、心の中でお仕えするばかりです。出来ることならば天のお恵みがちゃんと地を照らして欲しいものです。そう云う訳で、心のうちにはねたみを買うのを避けて、外には他の公卿達の口にのぼる批難がはずれ、恐れの思いを慰めることになるでしょう。
  広元が謹んで申し上げます
   建久三年二月二十一日               正五位下行左衛門大尉中原広元

建久三年(1192)三月小三日乙亥。鶴岡法會舞樂如例。幕下御參。若公扈從給云々。

読下し             つるがおかほうえぶがくれい ごと    ばっかぎょさん  わかぎみこしょう  たま   うんぬん
建久三年(1192)三月小三日乙亥。鶴岡法會舞樂例の如し。幕下御參。若公扈從し給ふと云々。  

現代語建久三年(1192)三月小三日乙亥。鶴岡八幡宮の上巳の節句の法事には、舞楽の奉納は何時もの通りです。
幕下頼朝様のお参りです。若君万寿も一緒に行きましたとさ。

建久三年(1192)三月小四日丙子。江次久家爲相傳神樂秘曲等上洛。仍被遣奉書於左近將監好節之許。平民部丞盛時奉行之。
 江次久家所上遣也。弓立星哥等爲相傳上洛之由申之。件哥以下神樂口傳故實。入意能々被教授。來八月放生會以前。定被參向關東歟。其時相具久家。可被下向者。鎌倉殿仰旨如此。仍執達如件。
   三月四日                      盛時〔奉〕  

読下し              えじひさいえ  かぐら  ひきょくら   そうでん  ため  じょうらく
建久三年(1192)三月小四日丙子。江次久家、神樂の秘曲等を相傳の爲に上洛す。

よつ  ほうしょを さこんしょうげんよしとき の もと  つか  さる   へいみんのじょうもりときこれ ぶぎょう
仍て奉書於左近將監好節@之許に遣は被る。平民部丞盛時之を奉行す。

参考@左近將監好節は、神楽の第一人者の多好方の息子。

  えじひさいえ のぼ  つか   ところなり  ゆたて  ほしうたら そうでん  ため  じょうらくのよしこれ  もう
 江次久家上せ遣はす所也。弓立・星哥等相傳の爲に上洛之由之を申す。

  くだん うた いか かぐら  くでん   こじつ   こころ い  よくよくおし  さず  られ  きた  はちがつ ほうじょうえ いぜん    さだ    かんとう  さんこうされ  か
 件の哥以下神樂の口傳・故實、意を入れ能々教え授け被、來る八月放生會以前に、定めて關東に參向被ん歟。

  そ   とき  ひさいえ  あいぐ     げこう され  べ   てへ    かまくらどのおお    むねかく  ごと    よつ しったつくだん ごと
 其の時、久家を相具し、下向被る可し者り。鎌倉殿仰せの旨此の如し。仍て執達件の如し。  

      さんがつよっか                                              もりとき 〔ほうず〕
   三月四日                      盛時〔奉〕  

現代語建久三年(1192)三月小四日丙子。(大江)広元の次男(大江)久家は、お神楽の秘曲を教わるために京都へ上ります。そこで頼朝様の意見書を左近将監多好節あてに持たせました。平民部烝盛時が担当しました。

 大江久家を京都へ派遣します。湯立てや星歌を教わるために京都へ登らせるとおっしゃっています。その歌を始めとするお神楽の代々の口伝えや昔の教えなどを、心を込めて教えていただきたい。今年の八月の放生会以前に、出来るだけ関東へ来て欲しいのだが、その時に久家を連れて下られるように云っておられます。鎌倉殿の命令はこの通りなので、そのように書きました。
  三月四日     平民部烝盛時が命じられて書きました

建久三年(1192)三月小十六日戊子。未剋。京都飛脚參着。去十三日寅剋。 太上法皇於六條殿崩御。々不豫大腹水云々。召大原本成房上人。爲御善知識。高聲御念佛七十反。御手結印契。臨終正念。乍居如睡。遷化云々。計寳算六十七。已過半百。謂御治世四十年。殆超上古。白河法皇之外。如此君不御坐〔矣〕。幕下御悲歎之至。丹府碎肝瞻。是則忝合體之儀。依被重君臣之礼也云々。

読下し              ひつじのこく  きょうと  ひきゃくさんちゃ
建久三年(1192)三月小十六日戊子。未剋。京都の飛脚參着す。

さんぬ じうさんいちとらのこく だじょうほうおう ろくじょうでん をい ほうぎょ     ごふよ   だいふくすい  うんぬん
去る十三日寅剋、 太上法皇六條殿に於て崩御す。々不豫は大腹水と云々。

おおはら ほんじょうぼうしょうにん めさ   ごぜん ちしき   な     こうしょう ごねんぶつしちじっぺん  おんて  いんけい  むす
大原の本成房上人@を召れ、御善知識と爲し、高聲の御念佛七十反、御手に印契を結び、

りんじゅうしょうねんなが ねむ ごと    せんげ    うんぬん
臨終正念居乍ら睡る如く、遷化すと云々。

ほうさん  はか      ろくじうしち  すで はんひゃく す     ごちせ    いは しじゅうねん  ほと    じょうこ   こ
寳算を計うるに六十七、已に半百を過ぐ。御治世を謂ば四十年、殆んど上古に超へゆ。

しらかわほうおうのほか  かく  ごと  きみ おわさざる
白河法皇之外、此の如き君御坐不〔矣〕

ばっか ごひかんの いた    たんぷかんたん くだ    これすなは ごうれいのぎ かたじけな   くんしんのれい  おも   らる     よつ  なり  うんぬん
幕下御悲歎之至り、丹府肝瞻を碎く。是則ち合體之儀を忝うし、君臣之礼を重んぜ被るに依て也と云々。

参考@本成房上人は、本成房湛斅。たんこう。

現代語建久三年(1192)三月小十六日戊子。午後二時頃に京都からの伝令が到着しました。去る十三日午前四時頃に太政法皇後白河が崩御されました。
死因はお腹に沢山水が溜まったからだそうです。京都大原来迎院の本成房上人をお呼びになり、仏道に帰依させる指導者として、高らかな声で念仏を七十回唱えて、手をしっかり阿弥陀印に結んで、臨終を向かえ、眠るようにお亡くなりになりましたそうな。
寿命を数えてみると六十七歳です。既に百の半分を通り越しています。政治をなさったのが四十年、過去の例を越えています。白河法皇以外には、そのような天皇はおりませんでした。
頼朝様は、悲しみのため心の砕ける思いです。それは、いつも一緒の思いをなし、
天皇と臣下としての礼儀をきちんと承知されておられるからなんだとさ。

建久三年(1192)三月小十九日辛夘。迎 法皇初七日御忌景。於幕府被修御佛事。義慶房阿闍梨爲御導師。請僧七口也。幕下毎七々日御潔齋。有御念誦等云々。

読下し               ほうおうしょなぬか   ごきけい   むか    ばくふ  をい  おんぶつじ しゅうせら
建久三年(1192)三月小十九日辛夘。法皇初七日の御忌景を迎へ。幕府に於て御佛事を修被る。

ぎけいぼう あじゃり  ごどうし た    しょうそうしちく なり  ばっかなななぬかごと   ごけっさい  ごねんしょうら あ    うんぬん
義慶房阿闍梨御導師爲り。請僧七口@也。幕下七々日毎に御潔齋、御念誦等有りと云々。

参考@請僧七口は、一緒に経を上げるお供の坊さん。坊主は口だけなので七人と書かず七口と書く。

現代語建久三年(1192)三月小十九日辛卯。後白河法皇の初七日なので、幕府の御所で法事を行いました。
義慶房阿闍梨が指導僧です。お供の坊さんは七人です。頼朝様は七日ごとに四十九日まで身を清めて、念仏を唱えることに決めましたとさ。

建久三年(1192)三月小廿日壬辰。於山内有百ケ日温室。往反諸人并土民等可浴之由。被立札於路頭。是又爲 法皇御追福也。俊兼奉行之。今日御分也云々。平民部丞。堀藤次等沙汰之。以百人被結番。雜色十人在此内云々。  

読下し             やまのうち をい ひゃっかにち うんじつ あ
建久三年(1192)三月小廿日壬辰。山内に於て百ケ日の温室@有り。

おうはん しょにんなら     どみんら よく  べ    のよし  ふだを ろとう    たてらる
往反の諸人并びに土民等浴す可し之由、札於路頭に立被る。

これまた ほうおうごついぶく  ため なり  としかねこれ  ぶぎょう   きょう   ごぶんなり  うんぬん
是又、法皇御追福の爲A也。俊兼之を奉行す。今日の御分也と云々。

へいみんぶのじょう  ほりのとうじら これ   さた    ひゃくにん もつ けちばんさる   ぞうしきじゅうにん こ   うち   あ    うんぬん
平民部丞、 堀藤次等之を沙汰す。百人を以て結番被る。雜色十人此の内に在りと云々。  

参考@温室は、薬草の蒸し風呂。
参考A
法皇御追福の爲は、庶民のために良い事を行うのが功徳となる。

現代語建久三年(1192)三月小二十日壬辰。山内(北鎌倉)で、百日間の蒸し風呂を行いました。行き来する旅人や農民達が入浴していくように、立て札を道端に立てられました。是もまた、後白河法皇の供養のためです。
筑後権守俊兼がこれを担当しました。今日の頼朝様提供の分です。平民部烝盛時と堀藤次親家がこれを担当し、百人目で供養を終えました。雑用の連中十人がこの中にいましたとさ。

建久三年(1192)三月小廿三日乙未。幕下御參岩殿觀音堂。三浦介。同左衛門尉以下候御供。大多和三郎献垸飯云々。

読下し              ばっか いわどのかんのんどう  ぎょさん   みうらのすけ  おな   さえもんのじょう いか おんともに そうら
建久三年(1192)三月小廿三日乙未。幕下岩殿觀音堂@へ御參す。三浦介。同じき左衛門尉以下御供に候う。

おおたわのさぶろう おうばん けん   うんぬん
大多和三郎A垸飯を献ずと云々。

参考@岩殿觀音堂は、神奈川県逗子市久木5丁目7の岩殿寺。
参考A大多和三郎は、大多和義久で鐙摺(三浦郡葉山町堀内葉山港は、旧名鐙摺港、船釣で有名)に屋敷を持っている。前に亀の前が逃げ込んだ。

現代語建久三年(1192)三月小二十三日乙未。頼朝様は逗子の岩殿観音(岩殿寺)へお参りに行きました。
三浦介義澄と同十郎左衛門尉義連がお供をしました。大多和三郎義久がご馳走を献上しましたとさ。

建久三年(1192)三月小廿六日戊戌。第二七日御佛事被修之。導師安樂房。彼崩御事。今日具披露于關東云々。遷化之刻。女房二位局落餝。戒師本成房也。若狹守範綱。主税頭光遠。御閉眼之後出家。御後事。民部卿〔經房〕右中弁棟範朝臣〔別當〕右少弁資實〔判官代〕奉行之。崩御當日巳刻御入棺。澄憲僧正。靜賢法印爲役人。中將基範〔成範卿男〕中將親能。少將教成〔二品局息〕少將忠行。右馬頭資時入道〔故資賢大納言子〕大膳大夫業忠。範綱入道〔若州〕能成入道〔周防守〕等。又從此役。同十五日。奉葬法住寺法華堂。難爲重日。依遺令也。凡如此諸事。御存日被定置云々。

読下し              だいふたなぬか おんぶつじこれ しゅうせら
建久三年(1192)三月小廿六日戊戌。第二七日の御佛事之を修被る。

どうし  あんらくぼう   か   ほうぎょ  こと  きょう つぶ    かんとうに ひろう    うんぬん
導師は安樂房。彼の崩御の事、今日具さに關東于披露すと云々。

せんげのとき  にょぼうにいのつぼね らくしょく   かいし  ほんじょうぼうなり  わかのかみのりつな かぞえのかみみつとう  ごへいがんののちしゅっけ
遷化之刻、女房二位局@落餝す。戒師は本成房也。若狹守範綱、主税頭光遠、 御閉眼之後出家す。

おんのち こと   みんぶのきょう〔つねふさ〕 うちゅうべんむねのりあそん〔べっとう〕  うしょうべんすけざね〔ほうがんだい〕 これ ぶぎょう
御後の事は、民部卿〔經房〕右中弁棟範朝臣〔別當〕右少弁資實〔判官代〕之を奉行す。

ほうぎょ とうじつみのこく ごにゅうかん ちょうけんそうじょう じょうけんほういんえき ひとた
崩御の當日巳刻、御入棺。澄憲僧正、靜賢法印A役の人爲り。

ちゅうじょうもおのり〔なりのりきょう おとこ〕 ちゅうじょうちかよし しょうしょうのりなり〔にほんのつぼね そく〕  しょうしょうただゆき うまのかみすけときにゅうどう 〔こすけかただいなごん こ〕
中將基範〔成範卿の男〕 中將親能、 少將教成〔二品局の息〕、 少將忠行、 右馬頭資時入道〔故資賢大納言の子〕

だいぜんだいぶなりただ のりつなにゅうどう〔じゃくしゅう〕  よしなりにゅうどう 〔すおうのかみ〕 ら  また こ  えき  したが
大膳大夫業忠、範綱入道〔若州〕、能成入道〔周防守〕等、又此の役に從う。

おな    じうごにち    ほうじゅじ ほけどう  ほうむ たてまつ
同じき十五日、法住寺法華堂に葬り奉る。

ちょうじつ た   いへど   いりょう  よつ  なり  およ  かく  ごと  しょじ   ごそんじつ  さだ  おかれ   うんぬん
重日B爲りと難も、遺令Cに依て也。凡そ此の如き諸事、御存日に定め置被ると云々。

参考@女房二位局は、高階栄子で彼女は木曾冠者義仲に後白河と共に鳥羽殿に幽閉されている時に後白河の子を作っている。
参考A靜賢法印は、平治の乱の原因を作った人で、左典厩義朝に梟首された信西の息子。
参考B重日は、陽と陽が重なる巳の日と陰と陰が重なる亥の日を指し、この日に行った事は、良いことも悪いことも二度起こるとされ、亥の日に忌の行事はやらないものであるが。
参考C遺令は、遺言で、天皇なら遺命と呼び、院は遺令と呼ぶ。よって「重日にもかかわらず遺言によって亥の日の十五日に」となる。

現代語建久三年(1192)三月小二十六日戊戌。ふたなのかの法事を行われました。指導僧は安楽房重慶です。
後白河法皇の崩御の様子が、今日詳しく関東へ知らされました。亡くなられた時に女官の二位局高階栄子も髪を落としました。手引きの僧は本成房
湛斅です。若狭守藤原範綱、主税頭光遠は、亡くなった後で出家しました。その後の処理については、民部卿吉田経房、右中弁平棟範〔検非違使長官〕、右少弁日野資実〔検非違使〕が担当します。お亡くなりの当日の午前十時頃に入棺で、澄憲僧正と静賢法印がお祈りをしました。中将藤原基範〔成範卿の男〕、中将藤原親能、少将教成〔二品局高階栄子の息〕、少将山科忠行、右馬頭源資時入道〔故資賢大納言の子〕、大膳大夫業忠、藤原範綱入道〔若州〕、藤原能成入道〔周防守〕等が、入棺の役を行いました。同じ十五日亥に、法住寺殿の法華堂に葬りました。陰と陰の重なる亥の日ですが、遺言によりました。だいだいこのような段取りは、存命中にお決めになっておられましたとさ。

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