建久三年(1192)壬子四月大
建久三年(1192)四月大二日癸夘。申剋。御臺所御着帶。御加持安樂房阿闍梨。御驗者題學房也。武藏守義信妻持參御帶。幕下令奉結之給。今日以後。毎日可抽御産平安御祈祷之由。被仰鶴岡供僧云々。 |
読下し さるのこく みだいどころごちゃくたい おんかじ あんらくぼうあじゃり ごげんざ だいがくぼうなり
建久三年(1192)四月大二日癸夘。申剋、御臺所御着帶@。御加持は安樂房阿闍梨。御驗者は題學房也。
むさしのかみよしのぶ つま おんおび じさん ばっか
これ ゆ たてまつ せし たま
武藏守義信が妻、御帶を持參す。幕下之を結い奉ら令め給ふ。
きょう いご まいにちおさんへいあん ごきとう
ぬき べ のよし つるがおかぐそう おお
らる うんぬん
今日以後、毎日御産平安の御祈祷を抽んず可き之由、鶴岡供僧に仰せ被ると云々。
参考@御着帶は、岩田帯。
現代語建久三年(1192)四月大二日癸卯。午後四時頃に御台所政子様が、妊婦の腹帯を締める祝いの儀式をしました。諸仏の守を祈るのが安楽坊阿闍梨で、払えの祈りが題学坊です。
武蔵守大内義信の妻が、帯を持ってきました。頼朝様がお結びになられました。今日から以後、毎日安産のお祈りをするように、鶴岡八幡宮の坊さん達に命じられましたとさ。
建久三年(1192)四月大四日乙巳。三七日御佛事也。導師惠眼房阿闍梨。自今日。幕下可令讀誦毎日一巻法花經給云々。是日來御日所作外也云々。 |
読下し
みなぬか おんぶつじなり どうし けいがんぼうあじゃり
建久三年(1192)四月大四日乙巳。三七日の御佛事也。導師は惠眼房阿闍梨。
きょう
よ ばっか まいにちいっかん ほけきょう どくしょうせし
たま べ うんぬん これ ひごろ おんにちしょさ ほか なり うんぬん
今日自り、幕下毎日一巻の法花經を讀誦令め給ふ可しと云々。是、日來の御日所作の外@也と云々。
参考@御日所作の外は、日課としてあげているお経の他に。
今日から、頼朝様は毎日一巻の法華経を読誦する事にしました。これは、普段毎日唱えているお経のほかにだそうです。
建久三年(1192)四月大五日丙午。千手經三千巻。今月中可轉讀之由。被仰相摸國寺々云々。 |
読下し せんじゅきょうさんぜんかん こんげつちゅう てんどく すべ のよし さがみのくに てらてら
おお らる うんぬん
建久三年(1192)四月大五日丙午。千手經三千巻、
今月中 轉讀@可き之由、相摸國の寺々に仰せ被ると云々。
現代語建久三年(1192)四月大五日丙午。千手観音とその陀羅尼について説いたお経三千巻を、今月中は略読の轉讀をするように、相模国の各寺に命じられましたとさ。
建久三年(1192)四月大十一日壬子。若公〔七歳。御母常陸入道姉〕乳母事。今日。被仰野三刑部丞成綱。法橋昌寛。大和守重弘等。而面々固辞之間。被仰長門江太景國畢。仍來月潜奉相具。可上洛之由。被定云々。他人辞退者。御臺所御嫉妬甚之間。怖畏彼御氣色之故也云々。此景國者。鎮守府將軍利仁四世。修理少進景通〔伊豫守源頼義朝臣攻貞任等時。七騎武者随一也〕三代孫也。父景遠者。爲大學頭大江通國猶子。改藤氏於大江云々。 |
読下し わかぎみ 〔ななさい おんはは ひたちのにゅうどう あね 〕
めのと こと
建久三年(1192)四月大十一日壬子。若公〔七歳。御母は常陸入道@姉。〕が乳母の事。
きょう のさのぎょうぶのじょうなりつな ほっきょうしょうかん やまとのかみしげひろら おお られ
今日、野三刑部丞成綱、
法橋昌寛、 大和守重弘等に仰せ被る。
しか めんめん こじの かん ながとのえたかげくに おお られをはんぬ
而るに面々固辞之間、長門江太景國に仰せ被畢。
よつ らいげつひそか あいぐ たてまつ じょうらくすべ のよし さだ られ うんぬん
仍て來月潜に相具し奉り、上洛可き之由、定め被ると云々。
た ひと じたいは みだいどころ ごしっと はなは のかん
か みけしき ふいのゆえなり うんぬん
他の人の辞退者、御臺所の御嫉妬甚し之間、彼の御氣色を怖畏之故也と云々。
こ かげくには ちんじゅふしょうぐんとしひと よんせい しゅうりしょうしんかげみち
〔 いよのかみみなもとのよりよしあそん さだとおら せ とき しちきむしゃ ずいいつなり 〕
さんだいまごなり
此の景國者、鎮守府將軍利仁の四世、修理少進景通〔伊豫守源頼義朝臣貞任等を攻める時の七騎武者の随一也〕の三代孫也。
ちちかげとおは だいがくのかみおおえみちくに
ゆうし な とうし を おおえ あらた うんぬん
父景遠者、
大學頭大江通國の 猶子Aと爲し、藤氏於大江に改むと云々。
参考A猶子は、猶(なお)子の如しで相続権のない養子。親は親の分として面倒を見、子は子の分として親に義理を尽くす。
現代語建久三年(1192)四月大十一日壬子。若君(後の貞暁)〔七歳です。母は常陸入道伊佐為宗の姉です。〕の養育係について、今日、小野三刑部丞成綱、一品房法橋昌寛、大和守山田重弘達に云ってみました。
しかし、それぞれ皆遠慮しましたので、長門江太景國(大江太郎)に命じられました。そこで来月内緒で連れて京都へ上るようにとお決めになられましたとさ。
他の人が辞退したのは、御台所政子様の嫉妬が激しいので、政子様の機嫌を恐れてのことなんだそうだ。
この長門江太景國は、鎮守府将軍藤原利仁の四代目、修理少進景通〔伊予守源頼良が前九年の役で安陪貞任を攻めた時の義家の七人の豪傑の一番手です〕の三代目の孫です。父の景遠は、大学寮筆頭の大江通国の養子となって、藤原氏を大江氏に改姓したんだとさ。
建久三年(1192)四月大廿八日己巳。法皇三十五日御佛事也。惠眼房阿闍梨爲御導師。布施。綾被物二重。御馬一疋〔置鞍〕云々。亦來四十九日御佛事。可爲百僧供。仍鎌倉中并武藏相摸伊豆爲宗之寺社供僧等。可從其請之由。被下御書。行政。仲業等奉行之。又於京都可被修御追善之旨。兼日有御沙汰云々。 |
読下し ほうおう
さんじうごにち おんぶつじ なり けいがんぼうあじゃり ごどうし な
建久三年(1192)四月大廿八日己巳。法皇三十五日の御佛事@也。惠眼房阿闍梨御導師を爲す。
ふせ
あや かづけものふたえ おんうまいっぴき 〔くら お 〕 うんぬん また きた
しじうくにち おんぶつじ ひゃくぐそう な
べ
布施は、綾の被物A二重、御馬一疋〔鞍を置く〕と云々。亦、來る四十九日の御佛事は、百僧供Bと爲す可し。
よつ かまくらちうなら むさし さがみ いず もねとたるの じしゃ ぐそうら
そ しょう したが べ のよし おんしょ くだされ
仍て鎌倉中并びに武藏、相摸、伊豆の宗爲之寺社Cの供僧等、其の請に從う可し之由、御書を下被る。
ゆきまさ なかなりら
これ ぶぎょう また きょうと をい ごついぜん しゅうされ べ のむね けんじつ
おんさた あ うんぬん
行政、仲業等之を奉行す。又、京都に於て御追善を修被る可し之旨、兼日御沙汰有りと云々。
参考@三十五日の御佛事は、人は死ぬと七日ごとに裁判を受けるので、その際に極楽浄土へ導いてもらうため、その手助けに法要を営む。四十九日の法要、百か日、一周忌、三回忌で十王の裁判が終る。
初七日秦広王 二七日初江王 三七日宋帝王 四七日伍官王 五七日閻魔王 六七日変成王 七七日泰山王 百か日平等王 一周忌都市王 三回忌五道転輪王
参考A綾の被物は、綾織の生地をかぶり物。
参考B百僧供は、百人の坊さんで法要をする。
参考C宗爲之寺社は、面だった神社仏閣。鎌倉の中だけでは法王の法事をするような坊主は百人に達していない。大衆は賄いや武力なので僧扱いされない。
現代語建久三年(1192)四月大二十八日己巳。後白河法皇の三十五日の法事です。恵眼坊阿闍梨が、指導僧です。お布施は、綾織の被り物二枚と鞍乗せの馬一頭だそうです。次ぎの四十九日の法事には、百人の坊さんにしようと決めました。
それなので、鎌倉中だけでなく武蔵、相模、伊豆の主だった寺社の坊さん達に、この仰せに従うように手紙を出されました。主計允藤原行政と中原右京進仲業が担当です。又、京都でも法皇の追善供養の法事を行うように、前もってお決めになられましたとさ。
建久三年(1192)四月大廿九日庚午。大流星飛行云々。天文所示。吉凶難定者歟。 |
読下し
だいりゅうせい ひこう うんぬん てんもん しめ ところ きっきょうさだ がた ものか
建久三年(1192)四月大廿九日庚午。大流星飛行すと云々。天文@の示す所は、吉凶定め難き者歟。
参考@天文は、京都朝廷の陰陽寮の天文博士や天文生が暦をつかさどる。鎌倉にも専門家が居始めているのかもしれない。
現代語建久三年(1192)四月大二十九日庚午。とてつもなく大きな流れ星が飛んだそうだ。天文学の連中が言うのには、良い前兆なのか悪い前兆なのか判断出来ないそうな。
建久三年(1192)四月大卅日辛未。丑剋。若宮職掌紀藤大夫宅燒亡。不移他所。諸人走集之處。家主云。是非失火放火等之疑。偏存天火之由云々。 |
読下し うしのこく わかみや しきしょう
きのとうだゆう たくしょうぼう たしょ うつらず
建久三年(1192)四月大卅日辛未。丑剋。若宮の
職掌紀藤大夫が宅燒亡す。他所へ不移。
しょにん はし あつま のところ やぬし い これ しっか
ほうからの うたが あらず ひとへ てんびのよし
ぞん うんぬん
諸人走り集る之處、家主云はく、是、失火放火等之疑ひに非。偏に天火之由@を存ずと云々。
参考@天火之由は、天の神様がつけた火だ。実はこの話には五月一日に落ちがある。
現代語建久三年(1192)四月大三十日辛未。午前二時頃に鶴岡八幡宮の神楽を演ずる役の紀藤大夫の家が燃えてしまいました。類焼はしませんでした。
人々が走って集ると、家主が云うのには「これは失火でも放火の疑いもありません。絶対に天の神様がつけた火なのです。」との事だそうだ。