吾妻鏡入門第十二巻   

建久三年(1192)壬子五月小

建久三年(1192)五月小一日壬申。鶴岡宮備供祭。巫女職掌等群參。而紀藤大夫俄以狂乱。吐詞云。見小壷楠前。〔在町末邊女云々〕日來通艶言之處。奉鑄神鏡。安家中。近日欲持參于鶴岡宮之由稱之。不許容之間。去廿九日夜。雖欲令燒彼家。依指合默止畢。去夜取松明。出行之時。思彼女宅之由。燒自宅云々。則義慶房。題學房加持之云々。

読下し             つるがおかぐう ぐさい  そな     みこ   しきしょうら ぐんさん
建久三年(1192)五月小一日壬申。鶴岡宮に供祭@を備う。巫女・職掌等群參す。

しか    きのとうだゆう  にはか もつ  きょうらん    ことば は     い
而るに紀藤大夫、俄に以て狂乱し、詞を吐きて云はく。

こつぼ   くすのまえ 〔 まちすえ  へん ざい おんな  うんぬん 〕    み     ひごろ つやごと  つう    のところ  しんきょう いたてまつ   いえ  なか  やす
小壷Aの楠前〔町末の邊に在す女と云々。〕を見て、日來艶言を通ずるB之處、神鏡を鑄奉りて、家の中に安んず。

きんじつ  つるがおかぐうに じさん     ほつ    のよし   これ  しょう    きょようせざるのかん  さんぬ にじうくにち  よ
近日、鶴岡宮于持參せんと欲する之由、之を稱して、許容不之間、去る廿九日の夜、

か   いえ  や   せし     ほつ   いへど   さしあひ  よつ  もくし をはんぬ
彼の家を燒か令めんと欲すと雖も、指合に依て默止しC畢。

さんぬ よ たいまつ  と     い   ゆ   のとき  か  おんな  たくのよし  おも    じたく  や    うんぬん
去る夜松明を取り、出で行く之時、彼の女の宅之由を思ひ、自宅を燒くと云々。

すなは ぎしょうぼう  だいがくぼう これ  かじ    うんぬん
則ち義慶房、題學房之を加持すと云々。

参考@供祭は、神仏へ供え物をしてまつること。
参考A
小壷は、逗子市小坪。
参考B
艶言を通ずるは、口説いていた。
参考C指合に依て默止しは、差し支えることがあって止めた。

現代語建久三年(1192)五月小一日壬申。鶴岡八幡宮に供え物をして祀る日なので、巫女さんや神主など奉納役の人たちが集まりました。
その中で紀藤大夫が突然狂いだしてわめきました。「小坪の楠前〔町外れに住んでいる女です〕を見て、普段、恋焦がれて口説こうとしていましたが、女は「神に捧げるための鏡を鋳て、家の中に安置していました。「近日中に八幡宮へ奉納しようと思っている。」と云って、穢れてはいけないので、受け入れてくれませんでした。先日の二十九日の晩に、彼女の家を焼いてしまおうとしましたが、女が家に居て出来ませんでした。仕方が無いので夕べ松明を持って出かけたのですが、何故かその女の家を燃やすつもりが、誤って自分の家に火をつけてしまいました」だとさ。
これは罰が当たったので、直ぐに義慶坊と題学坊がお払いの加持祈祷をしたんだとさ。

建久三年(1192)五月小八日己夘。法皇四十九日御佛事。於南御堂被修之。有百僧供。早旦各群集。布施。口別白布三段。袋米一也。主計允行政。前右京進仲業奉行之云々。
僧衆。
 鶴岡廿口    勝長壽院十三口 伊豆山十八口
 筥根山十八口  大山寺三口   觀音寺三口
 高麗寺三口   六所宮三口   岩殿寺二口
 大倉觀音堂一口 窟堂一口    慈光寺十口
 淺草寺三口   眞慈悲寺三口  弓削寺二口
 國分寺三口也  

読下し             ほうおう   しじうくにち   おんぶつじ  みなみみどう  をい  これ  しゅうせら
建久三年(1192)五月小八日己夘。法皇の四十九日の御佛事、南御堂に於て之を修被る。

ひゃくそうぐ あ   そうたん おのおの ぐんしゅう
百僧供有り。早旦、各、群集す。

 ふせ     くべつ  しらふさんたん ふくろまいいちなり かぞえのじょうゆきまさ さきのうきょうのしんなかなり これ ぶぎょう  うんぬん
布施は、口別に白布三段・袋米一也。 主計允行政、 前右京進仲業 之を奉行すと云々。

そうしゅう
僧衆。

  つるがおかにじっく          しょうちょうじゅいんじうさんく     いずさんじうはちく
 鶴岡廿口@     勝長壽院十三口A  伊豆山十八口B

  はこねさんじうはちく         だいせんじ さんく           かんのんじさんく
 筥根山十八口C   大山寺三口D    觀音寺三口E

  こまじ  さんく             ろくしょのみや ふたく         がんでんじ ふたく
 高麗寺三口F    六所宮二口G    岩殿寺二口H

  おおくらかんのんどう いっく     いわやどう いっく           じこうじ  じっく
 大倉觀音堂一口I  窟堂一口J     慈光寺十口K

  せんそうじ さんく           しんじひじ さんく           ゆげじ  じっく
 淺草寺三口L    眞慈悲寺三口M   弓削寺二口N

  こくぶんじ さんく なり
 國分寺三口也O

参考@鶴岡は、神奈川県鎌倉市雪ノ下二丁目一の鶴岡八幡宮。
参考A勝長壽院は、南御堂とも呼び、同鎌倉市雪ノ下四丁目六にあった廃寺。
参考B伊豆山は、静岡県熱海市伊豆山708−1走湯山神社。旧名は伊豆山權現。
参考C筥根山は、神奈川県足柄下郡箱根町元箱根80−1箱根神社。旧名は筥根權現。
参考D大山寺は、神奈川県伊勢原市大山の阿夫利神社、神仏分離後雨降山大山寺と分かれた。
参考E觀音寺は、神奈川県平塚市南金目896光明寺金目觀音。坂東三十三観音第七番札所。
参考F高麗寺は、神奈川県中郡大磯町高麗2丁目9高来神社の別当寺だったが廃寺。
参考G六所宮は、神奈川県中郡大磯町国府本郷の六所神社。
参考H岩殿寺は、神奈川県逗子市久木5丁目7に岩殿寺。
坂東三十三観音第二番札所。
参考I大倉觀音堂は、神奈川県鎌倉市二階堂903杉本寺、通称は杉本觀音。坂東三十三観音第一番札所。
参考J窟堂は、神奈川県鎌倉市雪ノ下二丁目2−1岩窟不動尊。
参考K
慈光寺は、埼玉県比企郡都幾川村西平386都幾山慈光寺。武蔵最古と謂われる。
坂東三十三観音第九番札所。
参考L淺草寺は、東京都台東区浅草2丁目3−1金龍山浅草寺。通称あさくさの観音様。坂東三十三観音第十三番札所。
参考M眞慈悲寺は、東京都日野市百草209の百草園(もぐさえん)にあったらしい。廃寺。
参考N弓削寺は、神奈川県小田原市飯泉1161の飯泉山勝福寺(飯泉観音)弓削道鏡が開山し、普陀落山弓削寺と称して、弓削氏の氏寺として栄えた。坂東三十三観音第五番札所。
参考O國分寺は、相模国なら神奈川県海老名市国分南1丁目19に国分寺跡あり。武蔵なら東京都国分寺市西元町1丁目13に国分寺跡あり。

現代語建久三年(1192)五月小八日己卯。後白河法皇の四十九日の法要を、南御堂勝長寿院で行いました。
百人の坊さんによる法要ですので、朝早くから集りました。お布施は、坊さん一人毎に、白布三反と米を一袋です。
主計允藤原行政と中原右京進仲業が担当しました。

 坊さんの数は、鶴岡八幡宮二十人、勝長寿院十三人、熱海の走湯権現(走湯神社)十八人、箱根権現神社十八人、大山寺(阿夫利神社)三人、金目觀音三人、高麗寺(高来神社)三人、六所神社二人、岩殿寺二人、杉本寺一人、岩窟不動一人、慈光寺十人、浅草寺三人、真慈悲寺(百草園)三人、勝福寺(飯泉観音)二人、国分寺三人です。(計105)

建久三年(1192)五月小十二日癸未。幕下令奉神馬二疋於鶴岡上下宮給。是紀藤大夫所爲聞食及間。神威巖重。今更依有御崇重。如此云々。

読下し               ばっか しんめ にひきを つるがおかじょうげぐう たてまつ せし たま
建久三年(1192)五月小十二日癸未。幕下神馬二疋於 鶴岡 上下宮に奉ら令め給ふ。

これ  きのとうだゆう   しわざ   き     め   およ    かん  しんい げんちょう  いまさら  ごすいちょう あ    よつ    かく  ごと    うんぬん
是、紀藤大夫が所爲を聞こし食し及ぶの間、神威の巖重、今更に御崇重有るに依て、此の如しと云々。

現代語建久三年(1192)五月小十二日癸未。頼朝様は、馬二頭を鶴岡八幡宮の上下宮に奉納されました。
これは、紀藤大夫の行動をお聞きになられ、神様の威力はたいした者だと、今更ながらに崇敬を増されたので、このようにしましたとさ。

建久三年(1192)五月小十九日庚寅。若公令上洛給。是爲仁和寺隆曉法眼弟子爲入室也。長門江太景國。并江内能範。土屋弥三郎。大野藤八。由井七郎等扈從。雜色國守。御厨舎人宗重等被差進之。自常陸平四郎由井宅進發給。去夜幕下潜渡御于其所。奉御劔給云々。

読下し               わかぎみ じょうらくせし たま    これ にんなじりゅうぎょうほうげん  でし   な  にゅうしつ   ためなり
建久三年(1192)五月小十九日庚寅。若公 上洛令め給ふ。是、仁和寺隆曉@法眼の弟子と爲し入室せん爲也。

ながとのえたかげくに なら   えないよしのり  つちやのいやさぶろう  おおののとうはち  ゆいのしちろうら こしょう
長門江太景國并びに江内能範、 土屋弥三郎、 大野藤八、由井七郎等扈從す。

ぞうしきくにもり みうまやのとねりむねしげら これ  さ   しん  らる    ひたちのへいしろう  ゆいたく よ   しんぱつ  たま
雜色國守、御厨舎人宗重等之を差し進ぜ被る。常陸平四郎の由井宅自り進發し給ふ。

さんぬ よ   ばっか ひそか そ ところにとぎょ      ぎょけん  たま たてまつ   うんぬん
去る夜、幕下潜に其の所于渡御し、御劔を給ひ奉ると云々。

参考@隆曉は、一条能保の養子。

現代語建久三年(1192)五月小十九日庚寅。若君(後の貞暁)を京都へ上らせました。これは、仁和寺の隆暁法眼の弟子として坊に入室させるためです。
長門江太景国と江内能範、土屋弥三郎宗光、大野藤八、油井七郎家常がお供をしました。雑用の国守と厩務員の宗重達を指定して添えてやりました。
常陸平四郎の由比の家から出発です。ゆうべ頼朝様はこっそりとそこへおいでになられ、守り刀をお与えになられたそうです。

建久三年(1192)五月小廿六日丁酉。多賀二郎重行被収公所領。是今日江間殿息童金剛殿歩行而令興遊給之處。重行乍令乘馬。打過其前訖。幕下被聞食之。礼者不可論老少。且又可依其仁事歟。就中如金剛者。不可准汝等傍輩事也。爭不憚後聞哉之由。直被仰含。重行乍怖畏。全不然。且可被尋下于若公与扈從人之由陳謝。仍被尋仰之。若公無如然事之旨申給。奈古谷橘次。又重行慥下馬之由所申之也。于時殊有御氣色。不恐後糺明。忽搆謀言。一旦欲贖科之條。云心中云所爲。太奇怪之趣。仰及數廻云々。次若公幼稚之意端挿仁惠。優美之由有御感。被献御劔於金剛公。是年來御所持物云々。彼御劔者。承久兵乱之時。宇治合戰帶之給云々。

読下し               たがのじろうしげゆき  しょりょう  しゅうこうされ
建久三年(1192)五月小廿六日丁酉。多賀二郎重行@は所領を収公被る。

これ  きょう  えまどの   そくどう  こんごうどの   かち  て きょうゆうせし  たま  のところ  しげゆき うま の   せし  なが    そ   まえ  う   す をはんぬ
是、今日江間殿Aが息童、金剛殿が歩行し而興遊令め給ふ之處、重行馬に乘ら令め乍ら、其の前を打ち過ぎ訖。

ばっか これ  き     めされ   れいは ろうしょう ろん  べからず  かつう また  そ   じん  よ   べ  ことか
幕下之を聞こし食被、礼者老少を論ず不可。且は又、其の仁に依る可き事歟。

なかんづく  こんごう  ごと  は  なんじらぼうはい なぞら べからずことなり いかで こうぶん はばか ずや の よし  じき  おお  ふく  らる
就中に、金剛の如き者、汝等傍輩に准う不可事也。爭か後聞を憚ら不哉之由、直に仰せ含め被る。

しげゆき ふい  なが   まった  しからず  かつう わかぎみと こしょうにんに たず  くださるべ  のよしちんしゃ    よっ  これ  たず  おお  らる
重行怖畏し乍ら、全く不然。且は若公与扈從人于尋ね下被可し之由陳謝す。仍て之を尋ね仰せ被る。

わかぎみしか ごと   こと な  のむねもう  たま    なごやのきちじ  またしげゆき  たしか  げばのよし これ  もう  ところなり
若公然る如きの事無し之旨申し給ふ。奈古谷橘次B、又重行は慥に下馬之由之を申す所也。

ときに こと  みけしき あ     のち  きゅうめい おそれず たちま ぼうげん かま    いったん  とが  あが       ほつ    のじょう
時于殊に御氣色有り。後の糺明を恐不。忽ち謀言を搆へ、一旦の科を贖はんと欲する之條、

しんちゅう い   しわざ  い    はなは きっかいのおもむき  おお すうかい  およ  うんぬん
心中と云ひ所爲と云ひ、太だ奇怪之 趣、 仰せ數廻に及ぶと云々。

つぎ  わかぎみ ようちのいたん  じんけい さしはさ   ゆうびのよしぎょかん あ    ぎょけんを こんごうぎみ  けん  らる
次に若公幼稚之意端に仁惠を挿み、優美之由御感有り。御劔於金剛公に献ぜ被る。

これ  ねんらい ごしょじ  もの  うんぬん  か  ぎょけんは  じょうきゅうへいらんのとき  うじがっせん  これ  お   たま    うんぬん
是、年來御所持の物と云々。彼の御劔者、承久兵乱之時、宇治合戰に之を帶び給ふと云々。

参考@多賀二郎重行は、近江国多賀神社の豪族。現在の滋賀県犬上郡多賀町多賀604、多賀大社。
参考A江間殿は、北條四郎義時でこの頃は伊豆の江間郷(北条の沼津側)を貰って独立しているらしい。
参考B奈古谷橘次は、伊豆の奈古谷郷で、静岡県伊豆の国市奈古谷。韮山山木の北。その北が函南町平井。西が長崎。北西が新田。

現代語建久三年(1192)五月小二十六日丁酉。多賀二郎重行は、領地を召し上げられました。
それは、今日江間(北条義時)の息子の金剛丸殿(後の泰時)が歩きて遊びに出かけられた所、重行が馬に乗ったまま、その前を通り過ぎたのです。
頼朝様は、この話を聞いて、「礼儀は長幼の順を論ずるべきではない。本来はその人がどんな身分の人によるべきである。中でもとりわけ、金剛ほどの者が、お前等なんぞに一緒にされてたまるか。なんで世間の評判を気にしなかったんだ。」と直接云って聞かせました。
重行は恐れながら「全く存ぜぬことで御座います。どうか、若君と従者の方にお確かめください。」と弁解をしました。それなので、この事を聞きただしました。若君は、「そのような事はありませんでした。」と申されました。那古谷橘次頼時も同様に「重行は馬を降りました。」と話しました。それを聞いて余計にお怒りになられました。「後で追求されることを恐れもせず、平気で嘘を言って、一時の罪を逃れようとする。その心根といい、行動といい、とんでもない奴だ。」と何度も仰せになられましたそうな。「そこへゆくと若君は幼心にも助けようと云う慈悲が有り、褒めるのに値する。」とお喜びになり、刀を金剛君にお与えになられました。これは以前から大事にしていた物だそうです。その刀は、後の承久の乱の宇治合戦に着けて行かれたそうです。

説明偉い人の前を馬に乗ったまま通り過ぎることは、乗り打ちと云って礼儀に反する。杉本観音は前の道を乗り打ちすると撥に当てて落馬させたと言い、蘭渓道隆が祈って目隠しをしたところ落馬しなくなったと言う伝説がある。なお、吾妻鏡編集者は、この金剛丸の子孫なので、敬語を使っている。

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