吾妻鏡入門第十二巻   

建久三年(1192)壬子六月大

建久三年(1192)六月大三日癸夘。有恩澤沙汰。或被加新恩。或被成改以前御下文。其中有文武抽賞。所謂前右京進仲業。勵右筆勤之處。未預賞之間。今日始拝領之。藤田小三郎能國。繼弓馬藝之故。以父勳功賞跡。永可傳來葉之由云々。

読下し             おんたく   さた あ     ある    しんおん くは  られ  ある    いぜん おんくだしぶみ な  あらた  らる
建久三年(1192)六月大三日癸夘。恩澤@の沙汰有り。或ひは新恩Aを加へ被、或ひは以前の御下文Bを成し改めC被る。

 そ  うち  ぶんぶ  ちうしょう あ
其の中、文武の抽賞D有り。

いはゆる さきのうきょうのしんなかなり ゆうひつ つとめ はげ  のところ  いま  しょう  あず      のかん  きょう はじ    これ  はいりょう
所謂、 前右京進仲業、 右筆の勤に勵む之處、未だ賞に預からず之間、今日始めて之を拝領すE

ふじたのこさぶろうよしくに  きゅうば  げい  つ   のゆえ  ちち  くんこう   しょう  あと  もつ    なが  らいよう  つた  べ   のよし  うんぬん
藤田小三郎能國、弓馬の藝を繼ぐ之故、父の勳功の賞の跡を以てF、永く來葉Gに傳う可き之由と云々。

参考@恩澤の単語は、この時点では未だ使われていない言葉。元寇の頃には恩沢奉行が出来ているので、書かれた時代(100年後)の言葉。
参考A新恩は、新恩給与と云って新しく貰った領地。対照的に先祖伝来の地の相続を認めるのが本領安堵。
参考B御下文は、本領安堵の安堵状。
参考C
成し改めは、書き直した。
参考D抽賞は、特別に考えた褒美。
参考E拝領すは、領地を貰ったので御家人身分に昇格した。それまでは朝夕恪勤(ちょうせきのかくごん)、領地のない人が大倉御所に住み着いて奉公し、一日玄米五合を支給される。
参考F跡を以ては、相続を認められて。
参考G
來葉は、来る枝葉で子孫達。

現代語建久三年(1192)六月大三日癸卯。頼朝様から御家人へのご恩の給付の恩沢がありました。
ある者には新しい領地を与え、ある者には以前に発給した領地を認める安堵状を頼朝様の花押のものから政所発行の下し文に改められました。
其の中で、文官、武官への表彰もありました。それは、中原右京進仲業は、側近の記録者として勤めてきましたけれど、未だに領地を与えられていませんでしたが、今日初めてこれを戴き御家人身分に並ぶことが出来ました。
藤田小三郎能国は、馬上弓の技術を引き継いでいるので、父行康の領地の継承を認められて、永く子孫達にも技術を引き継ぐようにとのことでしたとさ。

建久三年(1192)六月大十三日癸丑。幕下渡御新造御堂之地。畠山次郎。佐貫四郎大夫。城四郎。工藤小次郎。下河邊四郎等引梁棟。其力已如力士數十人可盡筋力事等。各一時成功。觀者驚目。幕下感給。凡云犯土。云營作。江間殿〔義時〕以下自手沙汰之。爰納土於夏毛行騰。有運之者。被尋其名之處。景時申云。囚人皆河權六太郎也云々。感其功。忽蒙厚免。是木曾典厩〔義仲〕專一者也。典厩被誅之後。爲囚人被召預梶原云々。

読下し               ばっか しんぞう  みどうのち   とぎょ
建久三年(1192)六月大十三日癸丑。幕下新造の御堂之地に渡御す。

はたけやまのじろう さぬきのしろうたいふ  じょうのしろう  くどうのこじろう  しもこうべのしろう ら りょうとう  ひ     そ  ちからすで  りきしすうじうにん  ごと
畠山次郎@、佐貫四郎大夫A、城四郎B、工藤小次郎、下河邊四郎等梁棟を引く。其の力已に力士數十人の如し。

きんりょく つく  べ   ことら おのおの いちじ  こう  な     みるもの め おどろ      ばっか かん たま
筋力を盡す可き事等、各、一時に功を成す。觀者目を驚かす。幕下感じ給ふ。

およ  ぼんど   い   えいさく  い     えまどの いか  て  よ   これ   さた
凡そ犯土Cと云ひ營作と云ひ、江間殿以下手ず自り之を沙汰す。

ここ  つちを なつげ むかばき  おさ      はこ  のもの あ    そ  な  たず  られ  のところ  かげとき もう   い
爰に土於夏毛の行騰Dに納めて、運ぶ之者有り。其の名を尋ね被る之處、景時申して云はく。

めしうど みながわのごんろくたろう なり うんぬん  そ  こう  かん   たちま  こうめん  こうむ
囚人 皆河權六太郎E也と云々。 其の功に感じ、忽ち厚免Fを蒙る。

これ  きそてんきゅう せんいつ ものなり  てんきゅうちゅうされ ののち  めしうど  な   かじわら  め  あず  られ    うんぬん
是、木曾典厩專一の者也。典厩 誅被る之後、囚人と爲し梶原に召し預けG被ると云々。

参考@畠山次郎重忠は、埼玉県熊谷市畠山(旧大里郡川本町畠山)出身。この時点では埼玉県比企郡嵐山町菅谷の菅谷館に居住。
参考A佐貫四郎大夫は、佐貫四郎廣綱で下野藤性足利氏。
参考B城四郎は、城四郎助茂で越後平氏。新潟県胎内市中条の鳥坂城。
参考C
犯土は、土を掘ることだが、土地の神様の許可が居る。
参考D行騰は、乗馬の際に袴の上などに穿く物でカウボーイのローハイドに似ている。これを前掛けのようにして運んだと思われる。
参考E皆河權六太郎は、下野皆川庄。栃木県栃木市皆川城内町。
参考F厚免は、特赦とか恩赦。
参考G召し預けは、預かり囚人(めしうど)。

現代語建久三年(1192)六月大十三日癸丑。頼朝様は、新築しているお堂へ様子を見に行かれました。
畠山次郎重忠、佐貫四郎大夫広綱、城四郎長茂、工藤小次郎行光、下河辺四郎政義達が、梁や棟木を引き上げています。その力はすごくて力士数十人分のようです。筋力を使って、皆一辺に上げてしまいました。見物していた人達は其の力にビックリしています。頼朝様も感心しました。
造成工事も地鎮祭も、建築工事も、江間殿(義時)が自らこれを指図しております。その働く人の中に、夏物の乗馬袴の行縢に土を入れて運んでいる者があります。その名前を聞くと、梶原景時が申すのには「囚人の皆川権六太郎です。」とのことです。その熱心さに感心されて、直ぐに囚人身分を許されました。この人は、木曽
左馬頭義仲の有能な部下の一人です。左馬頭義仲が殺された後、囚人として梶原景時に召し預けられていたんだそうな。

建久三年(1192)六月大十八日戊午。鶴岡別當法眼自京都被下着。直參幕下被謁申。 法皇崩御之後事粗語申。去四月二日。 主上還御本殿。〔三月十五日御倚慮。〕被行解陣開關事。廿日加茂祭。依諒闇停止之云々。

読下し              つるがおかべっとうほうげん きょうとよ   げちゃくさ     すぐ  ばっか  まい  えつ  もうされ
建久三年(1192)六月大十八日戊午。鶴岡 別當 法眼、京都自り下着被れ、直に幕下に參り謁し申被る。

ほうおうほうぎょ ののち こと  あらあ かた  もう
法皇崩御之後の事を@粗ら語り申す。

さんぬ しがつふつか  しゅじょう ほんでん かんご     〔さんがつじうごにち   ごきりょ  〕  げじん かいげん  こと  おこなは
去る四月二日、主上A本殿に還御Bし、〔三月十五日御倚慮B。〕解陣C開關Dの事を行被る。

はつか   かもさい     りょうあん  よつ  これ  ちょうじ    うんぬん
廿日の加茂祭は、諒闇Eに依て之を停止すと云々。

参考@後の事をは、後鳥羽天皇の話。
参考A
主上も後鳥羽天皇。
参考B
本殿に還御も御倚慮(喪の仮殿)も、両親のどちらかが死んだら喪に服し、穢れを避けるためによそへ行っていたので、宮城へ戻ってきた。
参考C解陣は、陣を解くで会議をする。逆は陣を結ぶで結陣(待機をする)。
参考D
開關は、関を開くで会議をする。
参考E諒闇は、忌中なので。

現代語建久三年(1192)六月大十八日戊午。鶴岡八幡宮長官の法眼園暁が京都から戻られ、直接頼朝様の所へ来てお会いになり申し上げました。
後白河法皇崩御後の後鳥羽天皇の様子をあらかた話しました。去る四月二日に、天皇は喪が明けて御所へお戻りになられ、〔三月十五日に喪明けです〕政治始めの儀式をしました。二十日の賀茂祭りは、忌中なので止めさせましたとさ。

説明陣を解いて関を開く、為政者が死ぬ次の天皇が解陣開關をする。
説明後鳥羽天皇は四月二日に戻り会議を始めたが、加茂祭は忌中なので止めさせた。

建久三年(1192)六月大廿日庚申。美濃國御家人等。可從守護相摸守惟義下知之由。被仰下云々。是爲被鎭洛中群盜等也。
 前右大將家政所下  美濃國家人等
  可早從相摸守惟義催促事
 右。當國内庄之地頭中。於存家人儀輩者。從惟義之催。可致勤節也。就中近日洛中強賊之犯有其聞。爲禁遏彼黨類。各企上洛。可勤仕大番役。而其中存不可爲家人之由者々。早可申子細。但於公領者不可加催。兼又重隆佐渡前司郎從等催召。可令勤其役。於隱居輩者。可注進交名之状。所仰如件。
   建久三年六月廿日                     案主藤井
  令民部少丞藤原                       知家事中原
  別當前因幡守中原〔廣元〕
   前下総守源朝臣
   散位中原朝臣

読下し             みののくに ごけにんら   しゅご さがみのかみこれよし  げち  したが  べ  のよし  おお  くだされ   うんぬん
建久三年(1192)六月大廿日庚申。美濃國御家人等、守護@相摸守惟義の下知に從う可し之由、仰せ下被ると云々。

これ  らくちゅう ぐんとうら   しず  られ  ためなり
是、洛中の群盜等を鎭め被る爲也。

参考@守護の権限は、大犯三か条と云い、一、大番催促。二、謀反人追補。三、殺害人追補。これが後に鎌倉末期には守護被官制に変わっていく。

  さきのうだいしょうけまんどころくだ     みののくにけにんら
 前右大將家政所下す  美濃國家人等へ

    はやばや さがみのかみこれよし さいそく したが べ こと
  早〃と相摸守惟義の催促に從う可き事

  みぎ    とうごくない  しょう のじとう   うち   けにん  ぎ  ぞん    やから をい  は  これよしのもよお   したが   きんせつ  いた  べ  なり
 右は、當國内の庄A之地頭の中、家人の儀を存ずる輩に於て者、惟義之催し@に從い、勤節を致す可き也。

  なかんづく  きんじつらくちゅう きょうぞくのはん そ き    あ     か  とうるい  きんあつ  ため おのおの じょうらく くはだ    おおばんやく  きんじすべ
 就中に、近日洛中に強賊之犯其の聞こへ有り。彼の黨類を禁遏の爲、 各、上洛を企て、大番役を勤仕可し。

  しか    そ   なか  けにんたるべからずのよし  ぞん    ものは  はやばや  しさい  もう  べ     ただ  こうりょう をい  は もよお   くは  べからず
 而して其の中に家人爲不可之由を存ずる者々、早〃と子細を申す可し。但し公領Bに於て者催しを加う不可。

  かね  またしげたか さどぜんじ  ろうじゅうら   め  もよお    そ  やく  つと  せし  べ   
 兼て又重隆佐渡前司も郎從等を召し催し、其の役を勤ま令むC可し。

  いんきょ やから をい  は  きょうみょうのじょう ちゅう しん べ
 隱居Dの輩に於て者、交名之状を注し進ず可し。

  おお   ところくだん ごと
 仰せる所件の如し。

      けんきゅうさんねんろくがつはつか                                          あんず ふじい
   建久三年六月廿日                     案主藤井E

    りょうみんぶのしょうじょうふじわら                                             ちけじ なかはら
  令民部少丞藤原                       知家事中原

    べっとうさきのいなばのかみなかはら
  別當前因幡守中原

      さきのしもうさのかみみなもとあそん
   前下総守源朝臣

      さんになかはらあそん
   散位中原朝臣

参考@催しは、催促。
参考A
は、私領。
参考B公領は、国衙領。
参考C
勤ま令むは、勤司する。
参考D隱居は、隠れ住んで居る。
参考E
案主藤井は、日付の下なので日下署判(にっかしょはん)と云い、この人が書いた。案主藤井は、鎌田正C(左典厩義朝の執事で一緒に暗殺された)の子で新藤次俊長。

現代語建久三年(1192)六月大二十日庚申。美濃国(岐阜県南部)の御家人達は、守護人の大内相模守惟義の指示に従いなさいと、命じられましたとさ。それは、大内相模守惟義が警固している京都市街の盗人の群を抑えるためです。

 前右大将家の政務事務所が命令します 美濃国の御家人達へ
 さっさと大内相模守惟義の軍勢動員の指示に従うこと
 右の命令は、当国内にある荘園の地頭のうち、鎌倉の御家人と承知している者は、大内相模守惟義の軍勢動員の指示に従って、きちんと勤務するように。特に、最近京都市街に強盗などの発生を聞いております。その連中を取り押さえるために、それぞれ京都へ上り、京都市街警備の大番役を勤めるように。しかし、その中に鎌倉の御家人ではないと思っている者は、その事情を述べなさい。但し、国衙領内の者は、動員してはなりません。又同様に佐渡前司山田次郎重隆も家来達を連れて、その役を務めるように。隠れ住んでいる連中については、名前を書き出して寄越しなさい。前右大将の命じられことはこのとおりです。
  建久三年六月二十日            案主藤井(新藤次俊長)
 令民部少丞藤原(二階堂行氏行政)       知家事中原(小中太光家)
 別当(長官)前因幡守中原(大江広元)
  前下総守源朝臣(邦業)
  散位中原朝臣(親能)

参考政所の順位は、一番に大江広元。二番が行政。三番に俊長。四番光家の順になり、邦業と親能は、副別当的存在。

建久三年(1192)六月大廿八日戊辰。由井七郎自京都參着。去十六日。若公渡御于弥勒寺法印隆曉仁和寺坊。一條殿〔能保卿〕被奉具之。於彼坊有御贈物。參河律師隆遍取之。

読下し              ゆいのしちろう きょうと よ  さんちゃく
建久三年(1192)六月大廿八日戊辰。由井七郎京都自り參着す。

さんぬ じうろくにち  わかぎみ みろくじほういんりゅうぎょう にんなじぼうに とぎょ
去る十六日、若公 弥勒寺法印隆曉の仁和寺坊于渡御す。

いちじょうどの〔よしやすきょう〕 これ ぐ  たてまつられ  か  ぼう   をい  おくりもの あ    みかわのりっしりゅうへん これ  と
一條殿〔能保卿〕之を具し奉被る。彼の坊に於て御贈物@有り。參河律師隆遍 之を取る。

参考@御贈物は、頼朝からの贈り物。

現代語建久三年(1192)六月大二十八日戊辰。油井七郎家常が京都から到着しました。
去る十六日に若君(後の貞暁)は弥勒寺法印隆暁の仁和寺の坊に行かれました。
一条能保がこれをお連れもうしました。その坊で贈り物をしました。三河律師隆遍が取次ぎました。

七月へ

吾妻鏡入門第十二巻   

inserted by FC2 system