吾妻鏡入門第十二巻   

建久三年(1192)壬子七月大

建久三年(1192)七月大三日癸酉。自今曉。御臺所聊御不例。諸人走參。若宮別當法眼被候護身云々。

読下し             こんぎょう よ   みだいどころ いささ ごふれい  しょにん はし まい
建久三年(1192)七月大三日癸酉。今曉自り。御臺所 聊か御不例@。諸人走り參る。

わかみたべっとうほうげん ごしん  そうら られ   うんぬん
若宮別當 法眼護身Aに候は被ると云々。

参考@不例は、普段の例にあらずで病気。病気とは病の気が取り付く。
参考A
護身は、護持僧として、護摩を焚いて病の気(け)から身を守る祈りをする。

現代語建久三年(1192)七月大三日癸酉。今朝の夜明けから、御台所政子様が、少し具合が悪いので、人々が駆けつけました。
鶴岡八幡宮長官の法眼園暁が祈祷をされているとのことです。

建久三年(1192)七月大四日甲戌。御産間御調度等。今日調進于御産所。三浦介。千葉介等。差義村。常秀令奉行之。亦被定鳴絃役人等。梶原源太左衛門尉景季奉行之云々。

読下し             おさん  かん   ごちょうどら    きょう  ごさんじょに ととの  しん
建久三年(1192)七月大四日甲戌。御産の間の御調度等、今日御産所于調へ進ず。

みうらのすけ ちばのすけら     よしむら  つねひで さ     これ ぶぎょうせし    また  めいげん えき  ひとら  さだ  られ
三浦介、千葉介等が、義村、常秀を差し、之を奉行令む。亦、鳴絃@の役の人等を定め被る。

かじわらげんたさえもんのじょうかげすえ これ ぶぎょう    うんぬん
梶原源太左衛門尉景季A之を奉行すと云々。

参考@鳴絃の役は、弓を鳴らして悪魔祓いをして、無事な出産を祈る。
参考A梶原源太左衛門尉景季は、梶原平三景時の長男なのだが、何ゆえ源太なのか分からない。梶原平三景時が平氏なので平太のはずだが疑問?

現代語建久三年(1192)七月大四日甲戌。お産のための用意の品を、今日出産場所へそろえて届けられました。
三浦介義澄・千葉介常胤が、自分らの身内の三浦平六義村、境平次常秀を指名してこれの担当をさせました。
又、弓を鳴らして無事な出産を祈る鳴弦の役の人などをお決めになられました。梶原源太左衛門尉景季がこの指示をしました。

建久三年(1192)七月大八日戊寅。御臺所御不例事。已令復本給。是只御懷孕故之由。醫師三條左近將監申之云々。

読下し             みだいどころ  ごふれい  こと  すで  ふくほんせし  たま
建久三年(1192)七月大八日戊寅。御臺所が御不例の事、已に復本令め給ふ。

これ  ただ  ごかいよう  ゆえのよし  くすし さんじょうさこんしょうげん これ もう     うんぬん
是、只の御懷孕の故之由、醫師@三條左近將監 之を申すと云々。

参考@醫師(くすし)は、朝廷の医師は十名で、その上に医師(くすし)がおり、典薬寮の助にあたるので、醫師は、官位と思われる。

現代語建久三年(1192)七月大八日戊寅。御台所政子様の具合が悪いのは既に治りました。
これは、単なる妊娠のせいだと、医者の三条左近將監が言いましたとさ。

建久三年(1192)七月大十八日戊子。天霽風靜。御臺所渡御于名越御舘〔号濱御所〕被點御産所也云々。

読下し              そらはれかぜしずか みだいどころ なごえ みたちに とぎょ    〔 はまのごしょ  ごう   〕
建久三年(1192)七月大十八日戊子。天霽 風靜。 御臺所 名越の御舘于渡御す〔濱御所と号す〕

ごさんじょ  てん  られ  なり  うんぬん
御産所に點ぜ被る@也と云々。

参考@點ぜ被るは、指定する。

現代語建久三年(1192)七月大十八日戊子。空は晴れて、風も静かで良いお日和です。
御台所政子様が、名越の屋敷に移られました〔浜の御所と申します〕。出産場所に指定されたからだそうです。

説明名越の御舘は、神奈川県鎌倉市大町六丁目9−16の北條四郎時政邸と云われていたが、近年発掘調査の結果、寺院らしい遺構しか出なかった。

建久三年(1192)七月大廿日庚寅。大理飛脚參着。去十二日。任征夷大將軍給。其除書。差 勅使欲被進之由。被申送云々。

読下し             だいり  ひきゃく さんちゃく   さんぬ じうににち  せいいたいしょうぐん  にん  たま
建久三年(1192)七月大廿日庚寅。大理@が飛脚參着す。去る十二日、征夷大將軍に任じ給ふ。

そ   じしょ   ちょくし  さ       しん  られ    ほつ   のよし  もう  おくられ    うんぬん
其の除書A、勅使を差しきめ進ぜ被んと欲す之由、申し送被ると云々。

参考@大理は、検非違使別当の唐名。ここでは一条能保。
参考A
除書は、任命書。

現代語建久三年(1192)七月大二十日庚寅。検非違使長官の一条能保から伝令が着きました。
征夷大将軍に任命されました。「その辞令は、朝廷からの使者を指定して持ってくるように希望する」と、言い送りましたとさ。

建久三年(1192)七月大廿三日癸巳。爲御臺所御願。鶴岡供僧廿五口。口別被施龍蹄一疋并桑絲一疋。越布一端。民部丞奉行之云々。

読下し              みだいどころ  ごがん  な    つるがおかぐそうにじうごく
建久三年(1192)七月大廿三日癸巳。御臺所の御願と爲し。鶴岡供僧廿五口。

くべつ  りゅうてい いっぴきなら  さんし いっぴき  えっぷ いったん  ほどこされ  みんぶのじょう これ  ぶぎょう    うんぬん
口別に龍蹄@一疋并びに桑絲A一疋、越布B一端を施被る。民部丞 之を奉行すと云々。

参考@龍蹄は、龍蹄は立派な馬の事で、背高が四尺以下を駒と云い、四尺以上を龍蹄といい、四尺を越えた分の寸を○騎と云う。
参考A
桑絲は、蚕糸で絹糸。
考B越布は、越後上布。

現代語建久三年(1192)七月大二十三日癸巳。御台所政子様の祈願のため、鶴岡八幡宮の僧二十五人で祈ったので、一人毎に立派な馬一頭と絹一匹(二反分)、越後上布一反を与えました。平民部烝盛時が担当しましたとさ。

説明越後上布の歴史は古く、今から1200年前の奈良時代に織られた麻布が奈良の正倉院に〔越布〕として保存されています。江戸時代の文人鈴木牧之の著書〔北越雪譜〕の中に書かれています。 越後上布には、苧麻と呼ばれる麻を苧引きにより精製された繊維を手の爪で細く裂いた糸を使用しています。撚り掛け、糸括り、糊付けなどによりできあがった糸を、さまざまな工程を経て機に掛け、織りあげていきます。機具はいざり織りによって、一反織りあげるのに2〜3カ月を要し、織りあげられた越後上布は、水洗いされ、雪の上に晒し、仕上げられ製品化されます。越後上布は、重要無形文化財技術指定を受け、現在、十日町や塩沢で織り続けられています。

建久三年(1192)七月大廿四日甲午。幕下渡御名越殿。三浦介令儲經營云々。

読下し              ばっか なごえどの  とぎょ    みうらのすけ けいえい もう  せし   うんぬん
建久三年(1192)七月大廿四日甲午。幕下名越殿@に渡御す。三浦介經營を儲けA令むと云々。

参考@名越殿は、不明。この書き方だと頼朝の名越亭があったみたいだ。
考A經營を儲けは、接待をする。

現代語建久三年(1192)七月大二十四日甲午。頼朝様が政子様の居る名越の屋敷を訪れました。三浦介義澄が接待をしましたとさ。

建久三年(1192)七月大廿六日丙申。勅使廳官肥後介中原景良。同康定等參着。所持參征夷大將軍除書也。兩人〔各着衣冠〕任例列立于鶴岳廟庭。以使者可進除書之由申之。被遣三浦義澄。々々相具比企右衛門尉能員。和田三郎宗實。并郎從十人〔各甲冑〕詣宮寺。請取彼状。景良等問名字之處。介除書未到之間。三浦次郎之由名謁畢。則歸參。幕下〔御束帶〕豫出御西廊。義澄捧持除書。膝行而進之。千万人中。義澄應此役。面目絶妙也。亡父義明献命於將軍訖。其勳功雖剪鬚。難酬于没後。仍被抽賞子葉云々。
除書云。
 右少史三善仲康         内舎人橘實俊
 中宮權少進平知家        宮内少丞藤原定頼
 大膳進源兼元          大和守大中臣宣長
 河内守小槻廣房〔辞左大史。任〕 尾張守藤原忠明〔元伯耆守〕
 遠江守藤原朝房〔元陸奥守〕   近江守平棟範
 陸奥守源師信          伯耆守藤原宗信〔元近江〕
 加賀守源雅家          若狹守藤原保家〔元安房〕
 石見守藤原經成         長門守藤原信定
 對馬守源高行          左近將監源俊實
 左衛門少志惟宗景弘       右馬允宮道式俊
   建久三年七月十二日
 征夷使
  大將軍源頼朝
 從五位下源信友
左衛門督〔通親〕參陣。參議兼忠卿書之。
將軍事。本自雖被懸御意。于今不令達之給。而 法皇崩御之後。朝政初度。殊有沙汰被任之間。故以及勅使云々。又爲知家沙汰。點武藏守亭。招 勅使。經營云々

読下し              ちょくし ちょうかん ひごのすけ なかはらのかげよし  おな    たすさだらさんちゃく
建久三年(1192)七月大廿六日丙申。勅使 廳官@肥後介 中原景良。 同じき康定等參着す。

せいいたいしょうぐん じしょ   じさん   ところなり
征夷大將軍の除書を持參する所也。

りょうにん 〔おのおの いかん   き   〕  れい  まか つるがおか びょうていになら た     ししゃ   もつ  じしょ   しん  べ   のよし  これ  もう
兩人〔 各 衣冠Aを着る〕例に任せ鶴岳の廟庭于列び立ち、使者を以て除書を進ず可し之由、之を申す。

みうらのよしずみ つか  さる
三浦義澄を遣は被る。

よしずみ  ひきのうえもんのじょうよしかず わだのさぶろうむねざねなら  ろうじゅうじゅうにん 〔おのおのかっちゅう〕   あいぐ   ぐうじ   もう    か   じょう  うけと
々々、比企右衛門尉能員、和田三郎宗實B并びに 郎從 十人〔 各 甲冑〕を相具し宮寺へ詣で、彼の状を請取る。

かげよしら みょうじ  と   のところ  すけ  じしょ いま  いた       のかん  みうらのじろうの よし  なの をはんぬ すなは きさん
景良等名字を問う之處。介の除書未だ到らざる之間、三浦次郎之由を名謁り畢C。則ち歸參す。

ばっか 〔おんそくたい〕 あらかじ せいろう しゅつご    よしずみ じしょ  ささ  も      しっこう  て これ  しん
幕下〔御束帶〕豫め西廊へ出御すD。義澄除書を捧げ持ち、膝行し而之を進ず。

せんまんにん なか  よしずみ  こ  やく  おう    めんもくぜつみょうなり  ぼうふよしあき  いのちをしょうぐん たてまつ をはんぬ
千万人の中に義澄、此の役に應じ、面目絶妙也。 亡父義明Eは命於將軍Fに献り 訖。

そ   くんこう  ひげ  き    いへど   ぼつごに むく  がた    よつ   しよう   ぬき    しょうさる   うんぬん
其の勳功は鬚を剪るGと雖も、没後于酬い難し。仍て子葉Hを抽んで賞被ると云々。

参考@廳官は、検非違使庁の官人。
参考A衣冠は、宮中勤務者が束帯は窮屈な爲、宿直用に下着類を省き、面倒な裾も止め袴をゆったりした指貫に変えた「宿直装束」。
参考B和田三郎宗實は、和田小太郎義盛の弟。
参考C
介の除書未だ到らざる之間、三浦次郎之由を名謁り畢は、頼朝に三浦介を許されているが、朝廷から正式に任命書を貰っていないので、あざなの次郎と名のった。
参考D
豫め西廊へ出御すは、頼朝が待ちきれない。
参考E亡父義明は、衣笠合戦で篭城して頼朝同盟軍の逃走時間を稼いだ。
参考F命於將軍には、この時点から將軍と書いている。
参考G
鬚を剪るは、中国の太宗が、髭を切って薬として与えた故事による。
参考H子葉は、子弟。

じしょ    い
除書に云はく。

  うしょうさかんみよしなかやす                    うちのとねりたちばなさねとし
 右少史三善仲康          内舎人橘實俊

  ちうぐうごんのしょうじょうたいらともいえ              くないしょうじょうふじわらさだより
 中宮權少進平知家         宮内少丞藤原定頼

  だいぜんのじょうみなもとかねもと                 やまとのかみおおなかとみのぶなが
 大膳進源兼元           大和守大中臣宣長

  かわちのかみおつきひろふさ〔さだいさかんをじしにんず〕      おわりのかみふじわらただあき〔もとはほうきのかみ〕
 河内守小槻廣房〔左大史辞。任〕   尾張守藤原忠明〔元伯耆守〕

  とおとうみんかみふじわらともふさ〔もとはむつのかみ〕        おうみのかみたいらむねのり
 遠江守藤原朝房〔元陸奥守〕     近江守平棟範

  むつのかみみなもともろのぶ                   ほうきのかみふじわらむねのぶ〔もとはおうみ〕
 陸奥守源師信           伯耆守藤原宗信〔元近江〕

  かがのかみみなもとまさいえ                    わかさのかみふじわらやすいえ〔もとはあわ〕
 加賀守源雅家           若狹守藤原保家I〔元安房〕

  いわみのかみふじわらつねなり                  ながとのかみふじわらのぶさだ
 石見守藤原經成          長門守藤原信定

  つしまのかみみなもとたかゆき                   さこんしょうげんみなもととしざね
 對馬守源高行           左近將監源俊實

  さえもんのしょうさかんこれとうかげひろ              うまのじょうみやじのりとし
 左衛門少志惟宗景弘        右馬允宮道式俊

      けんきゅうさんねんしちがつじうににち
   建久三年七月十二日

  せいいし
 征夷使

     たいしょうぐんみなもとよりとも
  大將軍源頼朝

  じゅごいげみなもとのぶとも
 從五位下源信友

参考I若狹守藤原保家は、持明院党藤原氏。一条能保の姉か妹の婿で親幕派。

さえもんのかみ 〔みちちか〕 さんじん   さんぎ かねただきょう これ か
左衛門督〔通親〕J參陣し、參議 兼忠卿 之を書く。

しょうぐん こと  もとよ    ぎょい  か   らる    いへど  いまに これ  たつ  せし  たま  ず
將軍の事、本自り御意に懸け被るKと雖も、今于之を達さ令め給は不。

しか    ほうおう ほうぎょののち  ちょうせい しょど    こと    さた あ   にん  らる  のかん ことさら もつ  ちょくし  およ   うんぬん
而るに法皇崩御之後、朝政の初度にL、殊に沙汰有り任ぜ被る之間、故に以て勅使に及ぶと云々。

また  ともいえ   さた   な    むさしのかみ てい  てん    ちょくし  まね    けいえい   うんぬん
又、知家の沙汰Mと爲し、武藏守が亭を點じ、勅使を招き、經營すと云々。

参考J左衛門督〔通親〕は、源通親で土御門通親。
参考K
御意に懸けるのは、頼朝が。
参考L
朝政の初度には、後鳥羽天皇の政の初めに特例として。
参考M
知家の沙汰は、八田知家が奉行をした。

現代語建久三年(1192)七月大二十六日丙申。京都朝廷の派遣員である検非違使庁の官人中原景良と同安定達が到着しました。
征夷大将軍の辞令を持って来たのです。二人とも〔それぞれ衣冠です〕朝廷の御所の例の様に鶴岡八幡宮に並んで立ち、「派遣員に辞令をお渡ししましょう。」と云いましたので、三浦介義澄を行かせました。
三浦介義澄は、比企右衛門尉能員、和田三郎宗実と家来十人〔それぞれ鎧を着ています〕を連れて鶴岡八幡宮へ出かけ、その辞令書を受け取りました。
中原景良達に名字を聞かれたので、まだ介の辞令を貰っていないので、三浦次郎とあざなを名乗り終えると、直ぐに御所へ戻りました。
頼朝様は〔衣冠束帯〕、待ちきれず前もって西の廊下に出ていました。三浦介義澄が辞令書を目の前に捧げ持って、膝で這い出てこれを渡しました。千人万人も居る武士の中で、この役を果たし面目がたちました。死んだ父の三浦介義明は命を将軍に捧げたからなのです。その手柄は(中国の太宗にあやかって)髭を切って薬に与えても、死んでしまった後ではお返しのしようも無い。そこで、子孫を選んで名誉を与えたわけなのでした。
辞令書に書いてあるのは、

 右少史三善仲康  内舎人橘実俊  中宮権少進平知家  宮内少丞藤原定頼 大膳進源兼元
 大和守大中臣宣長 河内守小槻広房〔左大史を辞職し、任じられる〕  尾張守藤原忠明〔元は伯耆守〕
 遠江守藤原朝房〔元は陸奥守〕   近江守平棟範    陸奥守源師信   伯耆守藤原宗信〔元は近江守〕
 加賀守源雅家   若狭守藤原保家〔元は安房守〕    石見守藤原経成  長門守藤原信定
 対馬守源高行   左近将監源俊実 左衛門少志惟宗景弘 右馬允宮道式俊
   建久三年七月十二日
 征夷使
  大将軍源頼朝
 従五位下源信友

左衛門督〔源通親〕が聞き役で、参議兼忠さんがこれを書きました。将軍職については、前々から気に掛けておられましたけど、未だになれずにおりました。しかし、後白河法皇がお亡くなりになって、最初の朝廷の会議で、特に取上げられて、任命することになりましたので、わざわざ朝廷からの派遣員を出すことにしたんだとさ。話し変るが、八田右衛門尉知家の担当として、武蔵守大内義信の屋敷を指定して、勅使をお呼びして接待をしたんだとさ。

建久三年(1192)七月大廿七日丁酉。將軍家令招請兩 勅使於幕府給。於寢殿南面御對面。有献盃。加賀守俊隆。大和守重弘。小山七郎朝光等從所役。前少將。參河守。相摸守。伊豆守等候其座。及退出期。各給鞍馬〔葦毛。鹿毛〕左衛門尉祐經。朝重等引之。兩客降庭上請取之。一拝之後退出云々。

読下し              しょうぐんけ りょうちょくしを ばくふ  しょうせいせし たま   しんでんなんめん をい  ごたいめん  けんぱい あ
建久三年(1192)七月大廿七日丁酉。將軍家兩勅使於幕府に招請令め給ふ。寢殿南面に於て御對面。献盃有り。

かがのかみとしたか  やまとのかみしげひろ  おやまのしちろうともみつらしょやく したが   さきのしょうしょう みかわのかみ さがみのかみ いずのかみら そ  ざ  そうら
加賀守俊隆、 大和守重弘、 小山七郎朝光等所役に從う。 前少將、 參河守、相摸守、伊豆守等其の座に候う。

たいしゅつ ご  およ  おのおの あんめ 〔 あしげ かげ 〕     たま   さえもんのじょうすけつね  ともしげら これ  ひ
退出の期に及び、各、鞍馬〔葦毛、鹿毛〕を給ふ。左衛門尉祐經、朝重等之を引く。

りょうきゃく ていじょう お これ  うえ  と   いっぱいののちたいしゅつ   うんぬん
兩客庭上に降り之を請け取る。一拝之後退出すと云々。

現代語建久三年(1192)七月大二十七日丁酉。将軍家頼朝様は、朝廷の派遣者を幕府にお呼びになり、寝殿の公的場所南面でお会いになされました。乾杯をしました。
加賀守源俊隆、大和守山田重弘、小山七郎朝光が配膳などの担当をしました。
前少将平時家、三河守源範頼、相模守大内惟義、伊豆守山名義範達がその場に同伴しました。
頼朝様がお下がりになった後で、それぞれに鞍を載せた馬〔葦毛と鹿毛〕が与えられました。工藤左衛門尉祐経と八田太郎知重がこれを引いて来ました。
客の勅使は二人とも庭に下りて、この手綱を受け取りました。一礼して引き下がりましたとさ。

建久三年(1192)七月大廿八日戊戌。爲北條殿御沙汰。令送垸飯於 勅使給。又小山左衛門尉。千葉介。畠山次郎以下調進彼贈物。爲善信俊兼等奉行召聚之。

読下し              ほうじょうどの   ごさた   な     おうばんを ちょくし  おく  せし  たま
建久三年(1192)七月大廿八日戊戌。北條殿の御沙汰と爲し、垸飯於勅使に送ら令め給ふ。

また  おやまのさえもんのじょう  ちばのすけ  はたけやまのじろう いげ  か  おくりもの  ととの しん   ぜんしん  としかねら ぶぎょう  な  これ  めしあつ
又、 小山左衛門尉、 千葉介、 畠山次郎 以下 彼の贈物を調へ進ず。善信、俊兼等奉行と爲し之を召聚む。

現代語建久三年(1192)七月大二十八日戊戌。北条時政殿の接待として、豪華な食事を勅使の二人に届けさせました。
又、小山左衛門尉朝政、千葉介常胤、畠山次郎重忠を始めとする人々が、勅使へ贈り物を準備して幕府へ届けました。
大夫属入道三善善信と筑後権守俊兼が担当して、これらを集めたのだそうです。

説明北條殿の御沙汰と爲し、垸飯於勅使には、無位無官の北條時政が勅使接待をやっているのは怪しい。

建久三年(1192)七月大廿九日己亥。景良。康定歸洛。先是從將軍家。馬十三疋。桑絲百十疋。越布千端。紺藍摺布百端。令餞送之給云々。朝光爲使節。

読下し              かげよし  やすさだ きらく
建久三年(1192)七月大廿九日己亥。景良、康定 歸洛す。

これ   まず しょうぐんけ よ   うまじうさんびき  さんしひゃくじっぴき  おっぷせんたん  こんあいしょうふ ひゃくたん これ せんべつせし たま   うんぬん
是より先將軍家從り、馬十三疋、桑絲百十疋、 越布千端、 紺藍摺布@百端、 之を餞送令め給ふと云々。

ともみつ しせつ  な
朝光使節と爲す。

考@摺布は、摺込染で布の上に型紙(木の葉)を置き、その上を染料をつけた刷毛で摺込んで模様を染め出すこと。

現代語建久三年(1192)七月大二十九日己亥。勅使の中原景良と中原康定が京都へ帰ります。
それより前に将軍家頼朝様から、馬十三頭、絹百十匹(二百二十反)、越後上布千反、紺色の藍で摺り染めた反物百反を餞別に送らせましたとさ。小山七郎朝光が使いです。

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